◇
朝ぼらけの空間に、バウトモンの嗚咽が静かに響く。
背中を撫でるフツコにしがみつき、涙も声も溢れて止まらなかった。
「フツコさん!」
続けて羽衣香が飛びついてきたものだから、フツコは困ったように眉を下げながらも片腕で受け止め、静かに頭を撫でる。
「羽衣香、ここまでよく来たな。君は本当に強くなった」
「フツコさん、ママを助けに行ってくれてありがとう、アステリアーモンを助けてくれて……」
「……羽衣香、すま……」
「謝らないで……」
肩口に顔を押し付ける羽衣香の声は涙で震えていたが、それ以上語らない言葉を察し、フツコは沈黙を持って答えた。
「いい加減泣き止め、お前は本当に私の分まで涙を持っていって」
「泣き止めないよ!フツコはあの時からずっとあれだけの事を1人で抱えて生きてきたんでしょ!俺が傷つくからって、俺の記憶メモリに制限かけてまで……!」
バウトモンの言葉に、フツコは目を見開く。
荒廃した街と、砂埃の煙たさに混ざる血の臭い。
データ崩壊するレオモン。
片腕を飛ばされた幼い少年。
……自身の一過的な激情で理性を失ったパートナーの姿。
ずっと封印していた、忌まわしい自身の過去の傷と罪を。
「私をロードした時にそのキーまで取り込んでしまったんだな」
「なんで言ってくれなかったの!なんで……俺パートナーじゃん……俺があんなことしたんじゃんか……フツコが背負わないで、俺が背負うやつじゃんか……」
「私はお前のパートナーだ。お前の罪は私が背負う。そういうものだ」
「だからあ!!!」
張り上げた声の勢いのまま、握り締めた拳を振り上げるが、震える拳はそのままフツコの胸に力なく着地する。
「おれ、知らない人やフツコを傷つけたのに……なんでフツコがそんなことしなきゃダメなんだよ……」
フツコを羽衣香ごと抱きしめ、再び大粒の涙をこぼしてバウトモンは涙混じりに言葉を零す。
「フツコ、俺の強さを信じてくれよ。
フツコのずるいところも弱いところも受け止められる、あの時は……でも、もうあんな事には絶対ならない、俺はフツコのパートナーだから」
見開いた眼前が歪む。
……情けない、と。静かに目を閉じ熱くなる目頭をバウトモンの肩口へと押し付けた。
バウトモンの暗黒進化……自分の弱さの具現化を畏れすぎていたのだ、自分は。
あんなにずっとそばに居たのに。
「ありがとう、バウトモン」
フツコの一言に、デジコアが強く脈打つ。
あの時、夢を語り合った時のような温かさが、バウトモンの中を満たしていく。
腕の中の羽衣香も、「よかったね」と小さく囁くものだから、バウトモンは力強く頷いた。
「もう心残りは無い。……ねえ」
フツコの言葉に、バウトモンは腕に込める力を強める。
分かっていた。だが、その意味に後悔は無い。
羽衣香をそっと腕から離して、フツコとバウトモン、ふたりは静かに向き合う。
憑き物が落ちたようなフツコの表情に、迷いは無い。
「お前に剣を授ける。全てを断ち切れ。
"マトリックス・エボリューション"」
『バウトモン、進化』
悔いのない安らかな笑顔をうかべ崩れ落ちるフツコ。
背中を優しく支えて、バウトモンはフツコの胸へと手を添え、0と1に還元されゆくフツコの胸の中へと深く腕を沈める。
激しいパルスに連動して爆ぜる激しい電撃は、バウトモンごとその身を包み込み、その姿を変容させていった。
きつく結ばれた注連縄。
輝く甲冑。
雷様の鍬形。
鮮やかに新緑を帯びて靡く、不定形の鬟と下ろし髪。
天へと掲げられた一振の雷光。
稲妻を纏う巨体の武者の姿。
『カヅチモン』
カヅチモンは握る一振の刀を見つめて、目を細める。
正しい自分の進化。本当はフツコが隣にいる、共に辿り着くはずだった姿だ。
身体を駆け巡る力と同時に、胸の中は静かに凪いでいる。フツコの魂がそこにいるような感覚に、右の拳を強く握った。
「ドキモンちゃん」
「ありがとう羽衣香、フツコも悔いは無い。……ようやく、俺も戦えるんだ」
刀を握りしめ、そう囁いたカヅチモンへ、羽衣香は力強く頷いた。
「仲直りしたか」
背後から突然かけられた声に、カヅチモンは羽衣香を庇うようにしながら咄嗟に腰を落として臨戦態勢に入る。
朝ぼらけの空にまだ残る星の下に、大柄な体躯の男がひとり。
☆を逆さにした大きな笠を被り、おろした長い髪がさらさらと朝日に輝く。生糸のような透き通る白銀だ。
体格はバウトモンくらい。どっしりとしている。多分、デジモンだ。
「……ミカモン……?」
小さく呟かれた名前。
羽衣香はデジモンの前まで駆け寄っていく。
目の前でゆっくり立ち止まって顔を見上げる。デジモンは固くしていた表情を和らげて羽衣香と目を合わせた。
「雷神まで連れてきてくれたのか」
「ミカモン」
「……羽衣香、ありがとう。ここまで来てくれて。俺はミカモンであって、ミカモンではない。あの事故の時、俺自身が吹き飛ばしたデータの残滓だ」
「貴方がパパを守ってくれたのね」
「……」
ミカモンに雰囲気がよく似たデジモンは黙って首を振る。
眉根を厳しく寄せたまま、ゆっくりとその場に片膝をついて、羽衣香に向けて静かに頭を垂れた。
「……申し訳ない。
俺は、お前の父親を守れなかった。
あの時、俺はハヅチを襲ってきたデジモンに重傷を負わされ、
そして……カカセモンが俺を逃がしてくれた。俺が、羽衣香を守れと。
だが、俺を守ってくれたカカセモンは敵の手に落ちて正気を失い、今や誰にも止められない。
……情けない話だ。
守らなければならないお前の傍から離れてしまって。
……ハヅチの願いも、カカセモンの思いも、羽衣香の願いも叶えられない。俺は、星として失格だ」
星の笠のせいで、俯いた表情は見えない。
ただ、地面に着いた拳が小刻みに震える様子だけが、デジモンの中で沸きあがってくる不甲斐なさへの怒りを伝えていた。
……自分の父親に見出された星のデータ達は、自分と同じだ。
父と母を愛する"子ども"。
願いを背負い成長して行く中、大切な人を守れず、喪って。
兄弟と敵対する形になって。
どれほどの悲しみを味わったのだろうか。
どれほど無念だったのだろうか。
どれほど後悔したのだろうか。
どれほど……。
そんな中、ミカモンやアステリアーモン達は逃げずに戦ってきたのだ、と。
父と母の願いを背負い、会ったこともなかった自分ひとりのためだけに。
羽衣香は小さな手を握りしめる。
掌の中、ちぎれたミサンガのビーズが柔らかな肉に食い込む。
「ミカモン、」
羽衣香の言葉に、デジモンはゆっくりと顔を上げる。
「……私ね、もう逃げたくないの。
パパとママはお星様になったんだ、って。辛くなかったんだ、って。ずっとずっと自分に言い聞かせていたの。
でも、やっぱり辛かったよ。
この辛さを抱えてずっと生きていたくない、逃げたい……。逃げちゃった……。
でも、ずっとこのままじゃパパとママの為に戦ってきたミカモン達からも目を背けちゃう」
静かに語る羽衣香の言葉に、デジモンはぐ、と唇を噛み締める。
「……あなたはちゃんとパパを守れたよ。だってここに、私がいるでしょ?パパの願いを叶えてくれたんだよ」
「羽衣香……」
「それに、ちゃんとミカモンは羽衣香のそばにいてくれたよ。離れていても、ミカモンは羽衣香の中でずっと羽衣香を励ましてくれたもの」
あの時は、やっぱり心が折れて逃げ出してしまったけど。
それでも、ミカモンの言葉で一歩を踏み出せたのだ。
「私はね、パパとママ、カカセモン、フツコさん、ヤスナさん、クナド先生、ウィザーモンくんに、バアルモン。アステリアーモン、ヘカテモン……そして、ミカモン。みんなで紡いで結んでくれた運命を、無駄にしない。
この運命を、誰かの好きになんか絶対にさせないために、戦う!
……私のもうひとつの願い、聞いてくれる?ミカモン。
……あなたの願いも聞かせて」
ちぎれたミサンガを握りしめた拳を、目の前に突き出す。
目を丸くして羽衣香を見つめていたデジモンだったが、その言葉に思わず目が潤んだのか、眉根を寄せて今にも泣きそうな顔を俯かせて隠した。
「星に願い事聞くなんて。
羽衣香ァ、本当にお前は優しい女の子だなァ」
小さな拳を大きな手で包み込む。
震える手に光が宿り、バイタルブレスにも淡く光を纏わせた。
「……俺ァ、羽衣香とずっとずっと一緒にいてェよ。何があったって離れたくない、羽衣香の隣で輝く星でありてェ。
だから俺は羽衣香の為に、宇宙を駆けるよだかになったって構わねえ」
男の手が薄れていく。
キラキラと輝く光がこぼれ落ち、代わりに見慣れた小さな手が羽衣香の手の甲に柔らかく触れていた。
姿を取り戻した小さな星の子。
羽衣香のそばに輝く一番星だ。
「ミカモン、会いたかった!」
「羽衣香、会いたかった!」
お互いの言葉を合図に、首に結んだミサンガが弾けた。
星のように輝くビーズは地に落ちることなくキラキラと輝き、羽衣香の手からすり抜けたミサンガの紐がまるで羽衣のように周りを漂う。
願いを叶えた2人を後押しするように。
「ミカモン、忘れ物届けに来たよ」
「ありがとう、羽衣香。バッチリ受け取るぜ」
バイタルブレスに進化の光が宿る。
目と目を合わせ、呼吸を整え。
笑顔で向き合う。
「貴方の名前は"天津甕星"」
宵と明けの空に輝く明星の名を冠し、最後の信仰を護るために戦った猛き星神の名。
それが、この星の子に組み込まれた最後のプログラムの鍵。
一等星の如き光がバイタルブレスから溢れ出し、ふたりを包み込んだ。
「パパとママが最期に遺した"イワクス"と!私のミサンガが貴方への羽衣!貴方を宙高く舞い上がらせる!
ミカモン!」
『進ッッ、化ァァァァァ──────────────────────────────────────────ッ!!!!!!』
◇
「ぐぅうッ!」
「うううっ」
ずり、と少しずつ土を削りながら後退していく踵。
満身創痍の体で、アステリアーモンとヘカテモンは必死でデュークモンの両隣から彼を支えていた。
激しいカカセモンの攻撃に、ルーチェモンを庇ったベルゼブモンが瀕死状態。
ルーチェモンも羽を激しく損傷して力も発揮できない。
羽衣香を守ってくれた恩人のふたりを見捨てる訳には行かず、デュークモンを説得して一時休戦し、今に至る。
いくら強固な盾、「イージス」とはいえ限界はある。
盾を支えるデュークモンも、ベルゼブモンやルーチェモンを守りながら受け止めるのが精一杯で反撃にも出られずにいた。
なんとか放たれる禍々しい流星を、アステリアーモンとヘカテモンが撃ち落としてもキリがなかった。
「デュークモン殿、」
「く、ぅ……まずいな、腕が、……盾ももうもたない……!」
「ちょっと、さすがにヤバい……ベルゼブモン起きなよ!ああもう!もう!」
絶体絶命。この盾が破壊された瞬間、自分達のみならず、魔王2体分とロイヤルナイツ1体分に空席ができてしまう。
「ルーチェ、羽衣香……っ」
アステリアーモンが弱々しく言葉を零した。
その瞬間だった。
空に一閃の光が瞬いた。
「ゔォラ"ァァアアアアアア─────────────────────ッ!!!!!!!!!!!
"明星迅脚"!!!!!!!!!」
眩い閃光と凄まじい咆哮と同時に、カカセモンの姿が消えた。
……いや、正しくは地面に叩きつけられた。
叩きつけられた勢いで巻き起こった砂嵐を纏う突風にマントを翳すデュークモンの陰へ、ふたりは避難する。
「……なんだ、また妙なのが来たな」
風がおさまった頃。デュークモンの言葉に、アステリアーモンとヘカテモンは顔を合わせる。
感じる、激しく輝く星の息吹だ。
デュークモンの影から飛び出し、砂煙が落ち着いたその先を見やる。
地面に叩きつけられたカカセモンが睨みつけるその先に、それはいた。
「おいゴラ、随分派手にやってくれたなポーラ」
☆を逆さにした巨大な金の頭飾り。
色とりどりのリボンを編み込み、高く一つにまとめた白銀のロングヘア。
しなやかな体。腕に纏うオーロラの羽衣。
夜空を織った袴。
特徴的な両目下の黒子。
「俺はミカボシモン。強きに抗い、天に刃向かう明けの明星だァ」
鋭い牙を剥き出しにし、ミカボシモンは不敵に笑った。
