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第9話:出会う宿敵
とにかく、グラウモンは消えた。これで話は振り出しに戻ったことになる。
「何か無性に苛々させる奴だったな……」
あの手の奴はどうにも苦手だ。他人を明らかに見下したような瞳が、この上なく苛立たせてくれると思う。
奴に聞かされた内容を簡単に整理してみる。ここは人間界、それだけは間違い無いようだ。しかし今この場所には、人間は一人として存在しないという。奴が言うところの【反転】とやらの効力によって。
当然、全くわからない。第一、その効果が果たしてどんなものか、如何なる意図を伴って行われるというのか。それらが不明である現時点では、これ以上のことを推測するのは無駄だと思われる。だが奴は言った。この世界の全てが入れ替えられた以上は、世界の崩壊は免れるのだと。
ならば、崩壊の危機に見舞われているという奴らが住む異世界とは果たして何なのか、また新たな疑問が生まれる。
「……とりあえず確かめてみるか」
そう、まずは自分の目で確認すること。そうでなければ、何もかも信じられない。
迷うこと無く八雲は走り出す。自宅までは1キロも無い。走れば五分と掛からないだろう。だが駅前の商店街にも閑静な住宅街にも人っ子一人見当たらない。一軒家を見る限りでは殆どの家に明かりが灯っているというのに、道端に人間の姿は見えない。いや、そもそも午後九時を過ぎた頃から鳴き始める梟の声さえ響いてこない。路地裏に立つ木々が風に揺れる音だけが無機質な音を奏でていた。
程無くして自宅に到着する。彼の自宅は住宅街の端っこにある小さなマンション。他の家と同じように殆どの部屋に電気が点いているが、果たして――。
「義雄さん、浩子さん!」
三階に辿り着くが、鍵を開ける時間すらもどかしい。一気に駆け込み、開口一番そう叫ぶ。
だが如何に義父母の名前を叫ぼうとも返事が返ってくることは無かった。今日は野菜炒めだったのか、キッチンではフライパンの上に散乱した野菜が小気味良い音を立てている。妙に食欲が湧いてくる光景だが、今は呑気に飯を食っている場合ではないだろう。火を消し、ガスの元栓を締めておく。
居間のソファの上には広げられたままの朝刊が見える。それが何よりも今の状況を説明してくれた。
「マジかよ……!」
消えている。全てが全て、元のままで消えている。
殆どへたり込みたい気分で周囲を見回す。ベランダから覗くことができる隣の部屋にも、テレビが点いていながらも人間の姿がまるで無い。この様子では、他の部屋も同じだろう。人間が生活している住居をそのままに、グラウモンが言っていた【反転】は彼らの存在を消滅させてしまった。窓の外には相変わらず巨大な鳥が飛行しているし、また竜のような獣のような咆哮が夜空に響いている。外は文字通り異形の者達の縄張りだ。冷静に考えてみれば、昨日の夜にダスクモンが現れたのは、この兆候だったのではないだろうか。
何も考えられず、ただ夜風に当たりたくてマンションを後にして、近くの川縁へと出た。
見下ろす川は殆ど下水道だ。この近辺から出る汚水や下水の全てが流し込まれるこの川は、夜の闇の中でも蛍光色に輝いている。小学生の頃は朱実を含めた友人達と共に毎日のようにザリガニ釣りに来たものだが、現在の状況ではザリガニも入れ替えられてしまったのだろうなとぼんやりと思う。良く見れば川にも奇妙な魚の影が見える。
考えてみれば、人間が全て消えた町というのは、この上なく不気味で危険な場所だ。
八雲は自宅のガスの元栓を直しておいたが、もしグラウモンの言う通り人間界に残ったのが自分一人だとしたら、他の家は放置されているということだ。流石の彼とて、ガスの元栓を締めるためだけに他人の家に潜入する気は無い。しかし、問題はガスだけではない。水道を出しっ放しの家があれば洪水になることも有り得るし、ストーブやヒーターを点けっ放しというのもよろしくない。
こうして考えると、人間の世界とは危険なものだらけだ。少しの放置で大事故が起きる可能性だってあるのだから。
しかしグラウモンは言っていた。この【反転】は世界を正すために行われるのだと。そもそも、何故世界を正す必要があるのかは知らないが、奴が嘘を吐いていないということだけは感じ取れた。ならば従うしかないだろう。奴が何を考え、奴の言うクラウドという存在が何者なのか、そんなことは知らない。多少の危険を孕むだけで世界を正せるのならば、自分には何も言うべきことは無いはずだ。
だが八雲はどこか納得できなかった。自分に言うべきことは何も無いなんてこと、やはり嘘なのだ。
何がおかしいとか、何が違うとか、そんなことわからない。ただ、八雲は嫌だった。誰もいない世界、何も無い町、そしてそんな場所に一人だけ残された自分。辛いし悲しいし、何よりも寂しい。だから【反転】なんて止めたい。けれど、それで世界が正されるのならば自分の欲望など捨て去らねばなるまい。自分一人の欲求のために世界を危機に追い遣るなど、あってはならぬこと。ならば自分のことは捨てるべきかもしれない。だが、それでも――。
「……どうすりゃいいんだか」
堂々巡りになる論理展開。この思考の果ては、今はまだ見えなかった。
空を見上げれば結構な数の星々が煌めいている。
とりあえず車道に沿って森を出た結果、意外と労せずして市街地へ辿り着くことができたことは僥倖であろう。木々に囲まれた空間というのはとにかく視界が悪いし、結局のところ都会っ子である自分にとっては少々落ち着かない場所でもある。確かクラスメイトに森林浴が趣味の女子がいた気がするが、そんな彼女に言わせれば空気がおいしいとか心が休まるとか、そんな言葉が返ってくるのだろう。
何はともあれ、今はどうでもいいことである。人っ子一人いない街中を歩いていくだけだ。
「……十闘士?」
そんな傍から見れば異様とも言えなくもない状況の中、皆本環菜は隣の獣人から発せられた言葉に目を丸くしていた。
「そうだよ、十闘士……あのベルグモンって奴は、その中の一体なんだ」
「それって……どんな奴らなの?」
聞き返しつつも周囲の警戒は怠らない。物音一つ聞き漏らすまいとして、東西南北陸海空三界四方に自意識を拡散させていくイメージ。
環菜は今、ブラックガルゴモンと共に夜の街を進んでいる。何やら【反転】とか呼ばれる事態の影響を受けて、現在この世界に人間はまず存在しないのだという。代わりに溢れ出したのが、この黒い獣人に代表される異形の生物達。正直に言えば、彼らのような生物が犇めき合っているという今の世界で生き残る自信は環菜には無かった。
だからこそ、このブラックガルゴモンが先程自分に力を貸すのだとと申し出てくれたことは意外だった。そもそも今の状況下において人間界に残されている人間は異物であり、存在すること自体が奇妙なのだと彼は語った。故に消去することが必然なのだとも語ってくれた。だがブラックガルゴモンを含め彼らにとって人間は同時に憧れの存在でもあるとのことだった。
「凄く昔に……僕達の世界を救ってくれたっていう連中さ、伝説のヒーローだよ」
「……そう。人間と同じくらい?」
そう、人間は幾度と無く彼らの世界を救ってくれたのだという。
長きに渡る彼らの世界の歴史の中で多くの魔王と呼ばれる悪しき存在が姿を現し、世界を闇で包み込まんとした際、その英雄となるべき人間は必ずどこからか降臨し、自らのパートナーと共に闇を打ち滅ぼして彼らに光を取り戻してくれた。どんな状況でも諦めず、折れること無く彼らでは誰も起こすことのできぬ奇跡を、人間は必ず起こしてみせたのだ。
だから人間という存在自体が彼らにとっては憧れだった。危機に際して現れ、ただ見返りも求めずに世界を救って去っていくだけの存在。
「そうだねぇ、僕としては今こうして環菜といるだけで嬉しいんだけど」
「……!」
思わず綻びそうになってしまった顔を引き締める。ゆっくりと深呼吸。
そう、ブラックガルゴモンはいい奴だ。まだ数時間の付き合いだがそれは確信を持って言える。自分のことを憧れていた人間という生物学上の分類では無く、ただ皆本環菜という個体として見てくれる。その事実は半年前まで三上亮と付き合っていた頃のことを思い出させて、環菜としても少なからず嬉しくなってくる。けれど、だからこそ彼の言葉に糠喜びしている場合ではない。
この世界では油断など許されない。そんなことをすれば、死ぬだけだ。
「……後ろ」
「了解!」
環菜にとってもブラックガルゴモンにとっても、それだけの指示で十分だった。漆黒の獣人は素早く反転すると、掲げた右腕の銃口から一条の火花を散らす。それだけで背後から迫ろうとしていた大きな芋虫のような生物は小さな悲鳴を上げるだけで無様に倒れ伏す。毒でも吐こうとしていたのか、僅かに悪臭が漂っている気がする。早く離れた方が得策だろうか。
この世界ではこれが全てだ。殺さなければ死ぬ、先に倒さなければ倒される。この数時間だけで自分はブラックガルゴモンと共に、こうして屍の山を積み上げてきたのだから。
「ふぅ……でも環菜は凄いねぇ、さっきから僕より先に敵に気付いてる」
「何故かしらね。良くわからないけど……わかるのよ」
自分でも妙な物言いだと思うが、実際その通りだった。
アニメや漫画のように敵の気配やら殺気やらを読むなんてことが、平凡な女子高生である自分にできるはずも無い。故に今の自分が感じているのは単純な違和感でしかないのだと思う。それにブラックガルゴモンはどうやら気付いていないようだから、これは人間ならではの能力ということになるのだろうか。
とはいえ、大したことではない。敵が近付いてくると、ただ先程も感じた胸が締め付けられるような不快感が沸き起こる。それだけのことだった。
「あはは、環菜と契約できて良かったよ、本当にね。……ほら、こんな状況になったじゃん? だから環菜と会うまでは心の休まる暇も無かったんだから」
「それは……お役に立てて光栄だわ」
できるだけ回りくどい言葉を選ぶ。いや、自分は元よりその手の言い回しを好む人間だっただろうか。
そもそも契約とやらに関しても、ブラックガルゴモンが詳しくなかったこともあってか、環菜もまだ良く知らないでいる。とにかく彼が自分に協力を申し出てくれた途端、環菜の左腕にブラウスの上から強固なガントレットが装着され、その後は何故か先程よりも体の調子が楽になったような気もするが、それ以上のことは何もわからない。
「うん、頼むよぉ? 君がいると僕は安心できるから」
「……!」
その無垢な瞳を見ていられず、咄嗟に目を逸らす。結局のところ、ブラックガルゴモンとて自分とは相容れない生物でしかないのだ。知らず知らずの内に彼に心を許してしまいそうになる自分の心に、必死にそう言い聞かせながら。
自分達は協力者、また彼の言葉を借りるとしたなら契約者。それ以上の関係には決してなり得ないのだから。
「……それより、十闘士って奴に関して詳しく聞かせて?」
「ああ、そうだったね」
「十闘士ってことは十人いるのよね? ……どれもあの、ベルグモンみたいな奴らなの?」
咄嗟に話題を変えようとしてしまう自分が情けない、彼と真っ直ぐ向き合おうとしない自分のことが情けない。そんな風に考えてしまう自分の心に蓋をする。そう、皆本環菜はロボットになると決めた。下手な感情を抱けば死ぬ、余分な感傷はいざという時の妨げになる。感情を封じれば怖くない、感傷が無ければ恐怖も狼狽も覚えない。そして何よりも、今更カマトトぶって怖がったり慌てたりできるはずもない。
だって、そうだろう? 既に自分はブラックガルゴモンと共に数多のモンスターを倒してきている。そうして何体もの敵を退けられたことに一度でも達成感にも似た喜びを感じてしまった以上、もう今更元に戻ることなどできない。
自分の前に立ち塞がる敵はブラックガルゴモンと共に、一切の躊躇などせずに払い除ける。今の自分にできるのはそれだけだ。
「そうだね、人と獣の二つの姿を持つって聞くよ。あのベルグモンは獣型ってことになるね」
「人型(ヒューマン)と獣型(ビースト)……」
「うん。どいつも結構な強さを持ってるらしいね、中でも炎と光の闘士は――」
ブラックガルゴモンの言葉に相槌こそ打っているが、実際のところ彼の話す内容は殆ど耳に入ってこない。
環菜はただ全身に意識を集中させて周囲から敵が迫ってきていないか、何か敵の隠れるような場所は付近に存在しないか、そのことだけを考えている。言うなれば常に臨戦態勢、いつ敵が襲い掛かってきても対処できるように呼吸も乱さないように心掛け、更には背後にも対処すべく歩を進めながらも踵に力を込めておく。
「だから遭遇したら速攻で逃げた方が頭いいかもね。普通にやり合って勝てる相手じゃないだろうねぇ」
「……そう」
「でも……それも難しいかもしれない。人間相手でも容赦しないって聞くしね、あいつは」
「あいつ……?」
「そう。十闘士の中でも一番強いって言われてる奴……炎の闘士、アグニモンは」
それが本人でも気付いていない、皆本環菜の孕む矛盾。
この世界に対する漠然とした死の恐怖。それを意識しないように努めれば努めるほど、その恐怖は己を蝕んでいくということに、環菜はまだ気付いていない。彼女自身はもしかしたら自分は恐れてはいない、恐れてはいけないと思っているのかもしれないが、今の彼女の異様なまでの周囲への警戒こそが、今の状況に恐怖していることの証左に他ならない。
ブラックガルゴモンにしても同様だ。この獣人に心を許してはならない、頼ってはいけないと思っているにも関わらず、実際は彼の力が無ければ環菜は数刻とて生きてはいられまい。
それらの矛盾に環菜は気付かない。今はまだ、気付いていない。
どれくらいそうしていただろう。不意に冷たい声が響いた。
「……意外だな。まだ人間が残っているとは」
「誰だ!?」
妙に耳に引っ掛かる冷たい男性の声。思わず八雲が振り返った先には、視界の端に気配も無く立つ青年の姿がある。
身に纏うのは珍妙なローブ。まるでマントのように夜風に翻る様が印象的だ。頭髪は流麗でありながら不愉快にも感じられる白銀。その腰に差している巨大な杖状の物体は、ひょっとしたら大太刀と呼ばれるものだろうか。しかし外見の雰囲気からして、そいつを侍とは思えない。そもそも、21世紀のこのご時世に侍がいてたまるかというのだ。
それに、その青年の声には聞き覚えがあった。あれは確か、ギガスモンにアグニモンとか呼ばれていた――?
「お前、人間じゃ……ないな」
「……ほう? それがわかるということは――」
そこで言葉を切ると、静かに口の端を上げる謎の男。
「――お前がグラウモンと会ったという小僧か。……なるほど、それなら確かに頷けないことも無いというものだな?」
「グラウモン? てことは、お前はクラウドとかいう……?」
八雲の疑問に男は癪に障る微笑で返した。無論、それは肯定の意に他ならない。
皮肉そうな笑みを浮かべた男は、音も無く歩み寄ってくる。奴の両腕に、極めて奇妙な形を持つガントレットが装着されているのが見えた。鈍く輝くその手甲は、恐らく強固な金属で形成されているのだろうと容易に予測できる。側面に刻まれた〝火〟の文字が妙に気になるが、それには果たして如何なる意味があるのだろうか?
その男はにこやかな――八雲には胡散臭いものにしか見えない――笑みを形作り、こちらへ歩み寄ってくる。
「いや、こいつは失礼をした。名前を聞かせてもらえるか?」
「……わ、渡会八雲……」
「八雲……ああ、渡会八雲か。……ふふ、どうやら本当に俺の望みは叶ったらしい――」
渡会八雲。噛み締めるようにその名を反芻する男の姿は、まるで八雲という名前に何らかの聞き覚えがあるかのような雰囲気がある。そうして静かに顔を上げた瞬間、男は楽しそうに、本当に楽しそうに唇を歪めた。
何故か八雲には、奴の目に揺るぎ無い殺気が灯ったように見えた。
「――――――!?」
ゾクッと来た。直感に任せて咄嗟に飛び退く。
刹那、一瞬前まで八雲が立っていた場所を剣風が薙いだ。所謂居合い斬りという奴だろうか。半端ながらも心得のある八雲だからこそわかるのだが、今奴が振るった剣のスピードは最早達人の域だと直感できる。まさに音速のスピードで迫った鉄の刃は、確実にこちらの首を飛ばすべくして一閃されたのだから。
そもそも、奴の腰に差された太刀は通常の日本刀より遥かに大きく、そして重さも半端でないと判断できる。騎兵を馬ごと叩き斬ることを目的とするような、つまり斬馬刀という奴だ。そんなものを軽々と振るえる奴の筋力もまた、並大抵のものではない。少なくとも、今の八雲には同様にあれを扱える自信はない。
そして何よりも鼻先を掠めた剣筋に八雲は驚愕する。だが同時に「やっぱりな」と冷めたように納得している自分もいる。こんな状況に追い込まれることは当然だと理解している自分もいる。
そう、最初からわかっていたのだ。目の前の男はこちらを殺しに来ているのだと。
「いきなりかよ……!」
「……なかなかの読みだ。尤も、そうでなければ面白くないが」
静かに紡がれる男の声には一切の迷いが無い。さも避けることが当然と言った表情。
そう、男は自分を殺すことに対して何の感情も抱いていない。悲しみも怒りも楽しみも、少なくとも八雲が知り得る限りの感情表現では、今の男の心情を表すことなどできまい。だが奴が身に纏っている空気は暗殺者そのものだ。僅かでも隙を晒せば、油断無く躊躇い無く八雲の首を落としに来るだろう。外見は確かに人間だというのに、今の奴から向けられる殺気は、明らかにアルボルモンやグロットモンの比ではない。
戦わなければ死ぬ、奴を倒さなければ死ぬ。奴との戦いに勝利しなければ、渡会八雲にこの先は無い。そのことを直感で理解する。ギガスモンと相対した時などとは比べ物にならない、本物の死の予感に心が打ち震える。
だから思わず舌打ちしていた。つくづく今日は災難な日であるとばかりに。
「やっぱり敵かよ……くそ」
「渡会八雲。お前は先程、俺が人間ではないのかと聞いたな? ……結論から言えば、それは間違いだ。俺は飽く迄も人間で在り続けるし、元より奴らの仲間入りをすることなど考えたことすら無い。尤も、正確に言うなれば、俺はかつて人間だった者にすぎんのだが……そんなことは死に行くお前には関係の無いことだ」
奴の言葉など殆ど耳に入らない。聞く価値もない。
眼前に斬馬刀を構えた殺し屋がいる。それだけで十分だ。その事実を受け入れられずとも、胸にしこりが溜まり、理由のわからない衝動が八雲の体を切り苛む。奴と対峙した瞬間から、自分の体がどこかおかしくなっている。自分の心の中に棲む、鳥のような獣のような生き物が叫んでいる。奴を殺せと、殺される前に殺さねば後悔するのはお前なのだと告げている。
それなのに、体の芯が痺れていて思考が上手く纏まらない。余計なことは考えるな、目の前の敵にだけ集中しろ。でなければ死ぬ、でなければ壊される。
「だが奴と契約した以上、その務めは全うせねばなるまい。……悪く思うなよ、渡会八雲」
静かに斬馬刀が振り上げられる。それは確かな、死の宣告。
「ふざけんなっ!」
「むっ!?」
それを前にして、精神と肉体が同時にスパークした。振り下ろされる大剣を軽々と回避し、男の脇腹に一撃を見舞う。
その動きだけで理解する。奴は確かに腕が立つようだが、それは飽く迄も剣道の、つまるところ竹刀の領域の上だ。如何に実戦で鍛え上げられていようとも、その流麗な剣舞は明らかに汚れを知らぬ。血に濡れたことの無い、誰かの命を奪ったことの無い者の振るう児戯にも等しい剣技だ。ならば条件は同じ。攻撃を避けることに関してだけは、八雲は誰より上を行く自信がある。故に剣の一閃など容易に回避して反撃をお見舞いするだけだ。幼い頃から長内朱実という名の死地を散々潜り抜けてきた自分が、その程度の剣に膝を屈するはずが無い――!
だが奴は僅かなりとも怯む様子すら見せず、平然とした表情を浮かべている。
「……流石と言うべきか。その技の切れ、躊躇い無く剣の間合いに踏み込んでくる蛮勇……平時であれば、全てが賞賛に値するだろうな」
「き、効いて……ない?」
「驚くのも無理はあるまい。だが断言してやろう。……今のお前では、単なる人間以上にはなり得ない今のお前では、残念だが俺に勝つことなど夢のまた夢だ」
笑う。勝利を確信した目、先程のグラウモンと同じ目で奴は笑う。
「……気付いていないだろうがな、所詮この世界においてお前は異物にすぎん。筋力も視力も聴力も、全て今のお前は本来の力の半分も出すことはできまい。それが分不相応に世界と関わった愚か者の……そう、それがお前の限界だ」
そう言い捨て、奴は納めた斬馬刀を鞘ごと放り投げる。
小次郎敗れたり。思わずそう叫びたくなるところだが、状況はむしろ逆だった。奴の両腕の手甲が静かに赤い輝きを放ち始めていたのだ。それは文字通り、烈火と呼ぶに相応しい閃光。そう、奴の手甲に刻まれた〝炎〟の刻印は、奴が司る属性を示していたのだと、今更ながらに八雲は理解する。
「あの世で後悔するがいい。不用意に世界の理に首を突っ込んでしまった己が愚かさを」
「なっ、何を――?」
「……スピリットエボリューション」
輝きが増し、奴の体そのものを飲み込んでいく。
溢れ出した烈火の輝きの中で混濁する0と1の配列。急速に書き換えられていくそれらは、まるでプログラムのようにも見えた。故に奴が身に纏うのは烈火のデータ。異世界に存在する全ての炎の事象を司り、己が身に転移する。それこそが奴の両腕に装着されたクロンデジゾイド製の手甲、D-CASが持つ力だった。
つまり奴の属性は炎。全てを焼き、新しきものを生み出す創造の力。
「炎の闘士、アグニモン!」
瞬間、八雲の眼前に現れたのは業火の化身。
その頭部に見えるのは、肩まで流れるように伸ばされた黄金の頭髪と揺るぎ無い意志の灯る双眸。全身を覆う鉄壁の鎧は所々に真紅と黄金のラインを走らせ、ある種の神々しさすらも漂わせている。だが奴の全身から放たれるオーラに圧倒されながらも、八雲の目に余分な感情が宿ることは無い。その顔付きは嵐の前の静けさを漂わせている。憎しみは全く覚えない。
八雲はただ、奴を倒すべき敵として認識しただけだ。
「悔いろ。俺とて鬼ではないからな、それぐらいの時間はやろう」
「……悪いが、後悔する気なんてないけどな」
人間と十闘士。本来なら戦闘にすらならぬ組み合わせ。
それこそが最初の戦い。この世界の最期の煌めきを彩る、最初の戦いだ。
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第12話;知識の魔導士
夢を見ていた。
そこは老朽化した建物。正直に言えば、孤児院と呼ぶのも憚られるぐらいに小汚い建物だったと思う。
尤も、閉鎖された児童館の跡地を貰い受けたものらしいのだから、そう言っては贅沢か。だが部屋の柱はその殆どが白蟻に食い潰されており、縁側の床板は大人が思い切り踏み締めたなら即座に大穴が開いてしまうほどに脆い。そんな場所で十数人の子供達を養っていた彼は凄いと思うし、また養われていた自分達も凄いと思う。
自分が赤ん坊の頃に両親は自動車事故で死んだ。それ以来、自分は孤児院暮らしだった。
孤児院の院長は、自分には特に優しかったように思う。それは恐らく付き合いが一番長かったからだろうか。誰よりも強くなりたいという自分の突拍子の無い願いを迷い無く聞き入れ、翌日から早速武術の心得を伝授してくれた。そう、彼が自分に教えてくれたものは型やら形式やらに則った武道ではなく、実戦の使用にも耐え得る武術だった。最も効果的に相手の意識を刈り取る方法、また相手を〝殺す〟ためではなく〝断つ〟ための剣の振り方など、今考えれば何を教えてるんだアンタと突っ込みたくなるような代物ばかりだったが。
そんな鍛錬の甲斐もあり、自分は小学校に上がる頃には既に誰にも負けないほどの強さを得ていた。
院長には安藤浩志という名前がありながらも、自分達には自らを安さんと呼ばせた。恐らく義父さんとか呼ばれるのが恥ずかしかったのだろう。だから、彼のことを義父さんと呼んでいたのは自分だけだったはずだ。
義父は豪放かつ豪胆な性格の持ち主ながら、誰もが羨むような強さと優しさを兼ね備えた人間だったから、そんな人が義父であることに異は無かった。自分達は全員が全員、いつか義父のように困っている人を助けられるような、そんな人間になろうと夢見たものだ。
そんなある日、当時6歳だった自分は義父に呼び出され、二階の和室へと向かっていた。
聞くところによれば、今日から自分と同い年の女の子が来るという。しかも武術の心得があるそうだから、相手をしてやって欲しいとのことだ。当然、何を馬鹿なと笑ってやった。同い年の子供に、それも女の子を相手にしたところで勝負になるはずがないと、そう高を括っていた。そんなわけで、普段から稽古場として使われている十畳の和室に向かったわけだが――。
言うまでも無いことだが、結果だけを見れば惨敗だったわけだ。
形式は三本勝負だった。一戦目は剣術、二戦目は柔術、そして三戦目はルール無用の単純な力比べ。一戦目は辛くも勝利を収めたものの、二戦目は開始数秒で気付いたら畳に叩き付けられていた。信じられない思いのまま三戦目に望んだが、容赦無く襲い掛かってきた拳の前に堪らず吹っ飛んだ。正直、ショックが大きかった。それなのに、相手の少女は息を乱した様子も無く、ただ落胆の目で言う。
『……弱いね、アンタ』
その瞳が物凄く冷たかったことを記憶している。無論、その少女とは長内朱実である。後に一緒に暮らすことになるその女は、義父のことを親父殿という堅苦しいのかふざけているのか理解しかねる呼び名で呼んでいたが、義父は別にそれを別の呼び名に変えさせようとはしなかった。
何はともあれ、その言葉で地味に落ち込んだ自分を、朱実が立ち去った後で義父は慰めてくれたらしい。今となっては殆ど思い出すこともできないが、あの人が自分のことを心配してくれたあの真摯さは、紛れも無く本物だった。だから誰よりも渡会八雲は義父のことが好きだった。この人が今から五年後に命を落とすなんて、誰が予想できただろう――?
その時の義父との会話の中で、唯一覚えている部分がある。
『八雲もそろそろ、進む道を考えた方がいいのかもしれないね。剣か柔か、それとも喧嘩か』
『……嫌だ、俺は世界一強くなるんだから』
返す言葉に迷いは無かった。
そう。どれかに道を決めてしまったら、その時点で世界一への道は絶たれてしまう。それが堪らなく嫌だった。同じ強くなるのなら、どんな得物を手にしても負けない強さを得たかったのだ。世界一の剣道家が相手なら剣で、世界一の柔道家が相手なら柔で制する。身の程知らずだった当時の渡会八雲は、自分の剣術や柔術が本気で世界に通用し得るものだと信じて疑わなかったのだ。
今になって思えば、何てガキ染みた願いだったろう。
『……惜しいね。剣だけだったら八雲は世界一どころか宇宙一にだってなれるのにな』
そう言って笑う義父の横顔は、何故だか少し寂しそうに見えた。
その日以来、渡会八雲は剣の鍛錬に最も時間を割くようになった。だが別に義父の言葉を気にしていたわけではない。自分を負かしたあの女を、長内朱実を倒すには剣しかないと、そう思っただけのことだ。
「はっ……」
「……気が付かれましたか?」
響いてきたのはソプラノを思わせる甲高い男性の声。
ハッと身を起こすと、そこは朝焼けに包まれる林の中だった。目の前では焚き火がパチパチと軽やかな音と共に燃え盛っており、薄暗い周囲の空間を明々と照らし出している。そして、今の八雲にとっては最も重要な、先程の声の主は漆黒の闇に包まれる木陰の中に佇んでいた。
紫紺のローブを纏った、魔術師のような風貌の小柄な男だ。
「持ち直して良かった。川を流れていた時には、もう駄目かと――」
「……お前が助けてくれたのか」
聞くまでも無いことだったが、敢えて聞き返していた。
すると、その男性はシルクハットの下に覗く大きな瞳を僅かに細め、小さく笑った。その姿は明らかに人間ではないものだけれども、敵意は感じさせない。あのゴブリンや木偶の坊、そして気に食わない男とは違う存在なのだと感じることができた。
油断無く周囲を見回し、そこに見えたものに絶句する。
「うおっ、あれってまさか」
「……あの塔が何か?」
「いや、東京タワーが見えるってことは……ここ、芝公園か」
京葉地帯の沿岸部、俗に言う0m地帯に立つ電波塔を見やり、八雲は呟く。
飽く迄も予想にすぎないが、恐らく自分はクラウドと名乗る不可解な男の攻撃で吹っ飛ばされて川に落ち、そのまま合流して隅田川の下流まで流されてきたということだろう。ここから墨田川なら然程離れた場所というわけでもない。――そもそも、奴は明らかに自分を殺す気だったのだから、そうでもなければ自分が生きていることなど有り得ない。微妙に寒いのはその所為か。
尤も、そのまま隅田川を流れ続けたら同じように土左衛門だったろうから、助けてくれたことには感謝すべきだ。
「悪いな、助かったよ。俺は渡会八雲。お前は?」
「……私はウィザーモンと申します」
「ウィザーモンか。人間じゃ……ないよな」
黒衣の魔術師は小さく頷く。それでも両手を焚き火に翳して暖を取っている様は、どうしようもなく人間味に溢れて見えた。女子高生型デストロイヤーの異名を持っていそうな幼馴染よりも、目の前にいる魔術師の方が余程人間っぽく見えてしまうのだから世も末だ。いや、そもそも長内朱実に人間味を感じたことなど、殆ど無いような気がするのだが――。
そこで自分の左腕の違和感に気付いた。何気なく見やると、そこには鈍く輝くガントレットが装着されている。
「あれ、これは……?」
「……D-CAS、世界の理を司ると言われる聖なる手甲ですね。風の噂には聞いていましたが、まさか実在しようとは」
「世界の理を司る……?」
そういえば、確かアグニモンも「世界の理に首を突っ込んだことを後悔しろ」とか言っていたような気がするのだが――。
そんなことを考えていたら思い出した。進化する前のアグニモン、つまりクラウドという男もまた、今の八雲と同じような手甲を装着していたことに。だが奴の手甲は両腕に装着されていたし、八雲の物は奴とは違って側面に〝火〟という文字が刻まれていたりもしない。
よく見ると、D-CASにはゲーム○ーイのような液晶画面がある。
「なあウィザーモン。この画面、何かお前が表示されてるんだが……」
「むっ、それは――」
何気なく聞いてみると、ウィザーモンは露骨に嫌そうな顔をする。……禁句だったのか?
よくわからない。けれど、黒装束の魔術師は不機嫌そうに俯いてブツブツと何事かを呟いている。その様は高校でクラスの委員長を務めている陰湿な男子生徒の顔を思い出させるので、不思議と八雲も苛立ってくる。文句があるなら面と向かって言えというのだ。
そんなことを考えていると、いきなりウィザーモンは居直って言う。
「八雲君……でしたか。君は今、この世界がどんな状況だかおわかりですか?」
「元は人間界だけど、異世界との間で中身の【反転】が行われた中途半端な融合世界……って聞いたが」
「ほう、それはご存知でしたか。ではあなたが今置かれた状況を説明して頂けますか?」
その少なからず尊大な物言いに少し腹が立つが、仮にも命の恩人だ。
仕方ないので、できるだけ要点だけを掻い摘んで話した。ダスクモンと名乗る戦士と出会ったこと。グロットモンやアルボルモンとの戦い。突如として変異した人間界。グラウモンとの邂逅。そしてアグニモンと呼ばれる存在へと進化した謎の青年、クラウドとの戦い。どの出来事も印象が強すぎて、記憶が曖昧な箇所など全く無かった。
思い出すと不思議と腹が立ってくる。自分は奴に間違い無く負けたのだと、ハッキリ自覚したのだから。
「……なるほど。ダスクモンやグロットモン、アルボルモン。更にはアグニモン……ですか。飽く迄も予想の域を出ませんが、恐らく彼らは十闘士と呼ばれる者ではないでしょうか?」
「十闘士?」
そういえば、連中は自らのことを「~の闘士」と名乗っていた気がするが。
十闘士。伝説に語り継がれるその戦士達のことは、ウィザーモンとて全てを知っているわけではない。彼の師であるワイズモンが話してくれた範囲のことでしか、彼は知らないのだ。十闘士という存在は、それぐらい伝説と化していたわけだし、そんな眉唾な話ばかりが残る存在のことを調べようとも思わなかった。
だが少なくとも、自分達のような従来のデジモンとは一線を画す存在であることだけは容易に理解できた。風の噂で人間が「スピリット」と呼ばれる未知の〝器〟を身に纏うことで誕生すると聞いてはいたが、渡会八雲が話してくれたアグニモンに進化した男のことを鑑みれば、それも決して的外れな意見ではあるまい。……まあ、そのクラウドとか名乗る青年が本当に人間か否かは、この際無視することにしよう。
黒衣の魔術師は、どこか呆れた風に呟いた。
「しかし、誰とも契約を交わさぬ身で十闘士に挑むなど、無謀にも程があります……」
「……契約って何のことだ?」
「ああ、言い忘れていました。……今の私と君のような関係のことですよ」
「なっ?」
その言葉を受け、ウィザーモンの顔を思わず見やる。
彼の世界においても、契約というシステムを知る者は少ない。ある意味では重要だが、また他の意味では重要でないそのシステムは知性に優れた一部の種族しか知らない事柄だからだ。実際、ウィザーモンとて師匠であるワイズモンに聞かされていなければ、そのことなど知り得なかっただろう。それ故に、冷静に考えるならば八雲がウィザーモン、朱実がケンタルモンといった知性の高い種族と真っ先に出会えたことは僥倖と言えた。
契約。それは来るべき混乱の極みに対して、世界の管理者が構築した救済システムの名称である。
人間界に異世界の住人が溢れ出た今の状況において、世界の【反転】が行われた瞬間から渡会八雲や長内朱実は本来〝異物〟として処理されるべき存在に成り下がった。世界は彼らをあってはならぬものとして消去しようとする。故に朱実が感じたように、世界との軋轢から身体全ての力が大きく低下した。彼女は平然としていたが、実際に数日間放っておかれれば、ゆっくりと衰弱死するところだったのだ。
生物が常に大気中から酸素を取り込んで生命活動を維持しているように、世界もまたその中で生きる生物から俗に言うところの生命力を受け取ることで秩序を維持し、逆に生物はその秩序と平和を享受することで自らの生命を維持する。だが【反転】が行われた後の世界は異世界の住人からの生命力の供給によって成り立っている状態である。それ故に通常とは世界のシステム自体が異なり、本来その世界に在るべき生物が生命活動を維持できなくなってしまう。故に放っておけば待っているのは衰弱死だ。
そんな世界との軋轢から人間を守るのが、異なる世界の住人達の間で交わされる〝契約〟なのだ。
人間が異世界の生物と取り交わす契約。それは入れ替えられた人間界で存在するための、言わば絶対条件である。言ってみれば、これは自身の存在を世界に認証してもらうための行為とも言える。
つまるところ、現在の人間界を覆う空気はウィザーモン達が暮らす世界のそれであり、八雲達人間とは本質的に相容れぬ世界。故に満足に生きるすることすらできない。世界から切り離された存在は、生命を数日とて維持することはできまい。だからこそ今の世界で何の問題も無く存在し続けられる者、つまり異世界の住人との間に明確な繋がりを作る必要がある。
それが契約だ。世界と繋がっている生物とのラインを築くことで、自らの存在を世界に認証させるためのシステム。
このシステムの特殊な点は二つ。まず一つ目は、本来なら契約してもらう立場の人間の方が主として扱われること。それは契約の後にD-CASのような物的な証拠が現れるのが人間側のみということに起因している。そして二つ目は、契約主と契約者の間にはそのライン以外には一切他の関係が生まれないこと。その二つだ。
契約者。その存在は、数百年前に幾度と無く彼らの世界を救ってきたとされる人間(テイマー)とタッグを組んだ相棒(パートナー)とは全く趣を異にするもの。
このパートナーと呼ばれる存在が仲間や友達、相棒というような言葉で代弁できたのに対して契約者は飽く迄も契約を交わした者でしかない。極端な話、仕事上の協力者とか利害が偶然一致した面識の無い人とか、そんな認識だ。故に契約を結んだからといって共に行動する必要も無いし、命を賭して守る義理も無い。
ただ、少なくとも人間は彼らの体を触媒にすることによって異世界で己の存在を維持することができるのだ。
そう考えれば、アグニモンに進化したという人間がデジモンを従えていたらしきことにも説明が付く。つまり、そのグラウモンが人間界において異物であるのと同様、そのクラウドと名乗る人間も異世界では異物にすぎない。だが彼は自分の身へと降り掛かる世界との摩擦を、グラウモンと契約することで補完しているのだ。そのグラウモンを拠り所とすることで、今までは異世界で、【反転】の後は人間界で何のリスクも無く存在している。そのことを鑑みれば、人間の姿を持つ十闘士には須らく契約者がいるということだが――。
そんな説明を、ウィザーモンから簡単に受けた。
「はぁ……なるほど。つまり、俺が今の人間界で生き続けるためにはお前らと契約する必要があると」
「ほう、案外と物分かりがいいのですね」
ムカッ。そんな擬態音が自分の頭から聞こえた気がする。
理由はわからないが、このウィザーモンといいグラウモンといい、異世界の生物とやらには気に食わない連中が多い気がする。連中の故郷は元来、自分とは相容れない世界なのかもしれない。まあ、恐竜が普通に人語を解したり人間が突然変身したりする世界なんて、こっちから願い下げだが。
「それでお前は不本意にも俺と契約してしまったってわけなのか。……意外と見た目より抜けてるんだな、お前」
「……怒りますよ?」
「悪い、気にすんなよ。……でも契約したからって、一緒に行動しなきゃならない謂れは無いんだろ? だったら別にお前の方にリスクは何も無いっぽいんだが」
「あのですね、私は君を生かしている状態なのですよ? ならば、そんな相手を放っておけるはずがないでしょう」
「いや、別に俺は構わないぞ。一人でもやっていける」
そう返してもウィザーモンは不貞腐れたような表情を崩さない。
ひょっとして、付いて来たいということだろうか。どうやら、こいつは尊大な割にはお人好しだが、その上に素直でないという無用な属性まで所持しているらしい。八雲にとって最も苦手なタイプだ。まるで下手に扱うと粉々になってしまうガラス細工のような奴だ。この手の輩との接し方は、未だにわからない。
「……ふん、私と契約したおかげで命を永らえられたというのに、何の恩も感じていないようですね、君は」
「わかったよ、それなら一緒に行こうぜ。……確認しとくが、一応俺がお前の契約主ってことでいいんだな?」
「その前に一つ。あなたは曲がりなりにも人間界に残された。ならば、この場所で何をする気ですか?」
それは真摯な問いだった。
本来ウィザーモンは真面目な性格なのだと、そんな当たり前のことを感じ取れた。先程の微妙な尊大さも間違い無くウィザーモンのものだが、このお人好しな性分もまたウィザーモンのものなのだ。前者は腹が立つものでしかないが、後者を鑑みると意外にも愛嬌のある性格だと呼べるのではないだろうか。そう考えると、初っ端で彼と出会えたことは良かったのかもしれない。
だから八雲も、馬鹿な答えだと理解しながらも真面目な顔で答えを返す。
「……大層な目的なんて無いさ。とりあえず、アグニモンって野郎をぶっ飛ばすこと……って答えじゃ駄目か?」
「アグニモンを倒す……正気ですか?」
答えがわかっていながら聞くウィザーモンもまた、生粋の馬鹿なのかもしれない。
八雲が静かに「ああ」と頷く様を前に、ウィザーモンは表情こそ冷めたものを崩さずにいるが、内心は全くの正反対。そんな突拍子も無いことを考える八雲と付き合う以上は、どうやら退屈はしなさそうだと思って安心する。不本意にも契約してしまって、その上つまらなく何の取り得も持たない人間が契約主だったらどうしようかと、割と本気で悩んでいたのだ。
けれど、目の前の少年は面白そうな人間だ。不思議と興味が湧いた。
「質問を変えましょう。何故アグニモンを倒す必要があるのです? 十闘士は世界を救済するために存在する者です。彼らと戦い、万が一にも勝利を収めたところで何も得るものは無いはずですが」
「……単に借りを返したいだけさ。子供の頃からだが、俺は負けっ放しっていうのは性に合わないからな。ああ、別にお前が嫌だって言うんなら、無理して一緒に来なくていいんだぞ? 俺に俺の目的があるのと同じで、お前にもお前の目的があるんだろうからさ」
「ええ。確かに私にも目的がある。ですが――」
そこでウィザーモンは再びため息を吐く。
「――君の語る目的も一興。……いいでしょう、君を我が契約の主と認め、行動を共にすることを誓います」
「お前、案外あっさりとプライド売るのな」
先程の尊大さはどこに行ったのか、その変わり身の早さに思わず突っ込んでしまう。
「フッ、誇りを売ってなどいませんよ。私はただ、君といると面白そうな気がしただけです」
それはウィザーモンの本心。
世界の理を知り尽くそうとしている彼にとって、十闘士の一人と因縁を持っている少年と出会えた事実は、何よりも勝る幸運だったと言えよう。まあ、自分が彼の契約者になってしまったことだけは不本意だったが、それはそれ。今の状況では受け入れるしかあるまい。それに少しだけ、ほんの少しだけだが、渡会八雲という少年に危うさを感じている自分がいることにも気付いた。
我ながら相変わらずのお節介焼きだが、何故か彼には自分のようなストッパーが必要だと感じたのだ。
「……それでは八雲君、最後に一つだけ聞いてもいいですか?」
「いいけど」
「私の目的……というより夢は、世界の理を知ること。では君には夢がありますか?」
ウィザーモンにとって、それは再び真摯な問いだった。
流石の八雲もその空気を感じ取ったのか、思案するように僅かに顔を俯かせる。けれど、渡会八雲にとって彼の質問は迷うほどのものでもない。ならば何故そんな風に俯いたのか。その理由は簡単なことだ。まさかこんな状況で自分の夢を語ることになるとは思ってもいなかったからだ。
やがて八雲は顔を小さく上げ、しっかりと言葉を紡ぐ。
「……確かにあるな。世界中の皆を悲しませないようにすること、そんな世界になればいいなって……俺はそう思ってる」
微塵の臆面も見せず、渡会八雲は答えを返した。
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