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第5話:負ける気がしない
互いに息を切らすことも無く夜の街を駆けていく八雲と朱実。
既に駅前の灯りは酷く遠い。この時間帯では人気の殆ど無い住宅街だから、背後から殺気が迫ってくるのが面白いぐらいに読み取れる。自分達は幾度と無く抜け道を使って撒こうとしているはずなのだが、それでも人間を遥かに超える身体能力を持つ奴らとの差は一向に伸びない。あのまま不自由な場所でまともにやり合っていたら、確かにやられていたかもしれないと思う。
何かが始まろうとしている、そんな気がする。
二人が再会して以降、奇妙なことばかりだ。昨日のダスクモンと名乗る黒い騎士といい、つくづく厄介なことに首を突っ込んでしまったと思う八雲である。
「ん? 八雲、何で笑ってんの?」
隣を走る朱実の言葉に驚かされた。こんな奇妙な状況の真っ只中にいるというのに、無意識の内に自分は笑っていたらしい。
しかし考えるまでも無いことだろう。渡会八雲はこの状況を楽しんでいた。昨日あの巨大な鳥が変身した黒い騎士から逃げ延びたという妙な理由だけで、今日は更に奇怪な二体の化け物から言い掛かりを付けられて追われている。そんな珍妙極まりない状況だけれど、隣に彼女がいることが何よりも自分を楽しくさせてくれると思う。
言うまでも無いことだった。
長内朱実、彼女が隣にいる限り渡会八雲はどんな状況下でも楽しめてしまう気がする。
「さあな。……ちょっとペース上げるぞ、付いて来れるか?」
「ハッ! 誰に向かって言ってんのかねぇ、アンタは!」
ピッチを軽く上げても、朱実は苦も見せず追従してくる。女だてらに短距離走なら八雲以上の快足を誇った彼女だから、それぐらいは当然なのだろう。クラスメイトの三上亮には勝てないにしても、持久力にはそれなりに自信がある八雲だが、短距離で今の朱実に勝つ自信は、正直言って無かった。
そのまま大通りに出る。目的地はここから数百メートルといったところか。
「おっ、渡会じゃねえか!」
そんな時、唐突に声を掛けられ、八雲は思わず立ち止まってしまう。朱実もそれに合わせるようにして動きを止める。
「国見……!?」
「先生を付けろ、先生を」
「あ、ああ。国見……先生」
大通りの一角、ビルとビルの間に挟まれた場所に位置する小さな店から出てきたのは、八雲の担任である国見比呂だった。体育祭の翌日ということもあって今日は休みのはずだがスーツを着込んでいるということは、彼は学校へ行ってきたということなのだろうか。もしそうだとしたら、やはり教師という奴も楽ではないと思う。
それにしても、今国見が出てきた店は所謂その手のパソコンソフトを大量に扱っているような、そういう店だ。彼が小脇に抱えている大きなピンクの袋が妙に生々しい。思わず何本買ったのかと聞きたくなってしまう。
「……こんなところで何やってんだ?」
店の看板を見やりながら八雲が問う。そういえば、自分達の担任は生まれてこの方彼女がいないとかいう噂があったような気がする。
「俺のことは気にすんなって。……お前、今日は稲葉に誘われなかったのか?」
「……いや、断ったんだよ」
後ろの朱実の姿には気付いていないらしいが、それなら好都合だ。
「そっちこそどうしたんだよ。……アンタ、一緒に飲み会に行くんじゃなかったのか?」
「おうよ、確かにそのつもりだったさ。だから学校でちょいと雑務を終えたら店に向かうつもりだったんだがな──」
そう言ってニヤリと笑いつつ国見は続ける。
「──今日は安売りだったからな、こっちを優先した」
背後の店先に立つ『本日は50%オフの大特価!』という幟を親指で示す国見。そこには教師の癖に堂々とエロゲームを買い漁ることに対して恥も外聞も微塵も無い。もしかして、ここはガツンと言ってやるべき状況だろうかと何気なく思った八雲である。
尤も、こんな微塵も威厳の無い教師だからこそ、自分を含めクラスの生徒から慕われているのだろうと思うのだが。
「あはは、面白いね八雲、アンタの先生!」
「ぬおっ!?」
八雲の背後から突如として響いた少女の声に大袈裟なまでに仰天する国見。言うまでも無いことだが、それは長内朱実から出た声である。
「わ、渡会! この子は!?」
「……あ~、コイツは俺の……」
「今カノの長内ですぅ♪」
「違う。……そのネタ何度使う気だ」
冷静にツッコミを入れておく。とりあえずだが、その可愛い子ぶった言葉遣いだけはやめてくれと言ってやりたい。似合っていない上に何よりも気持ち悪いから。元から見た目や性格の割に可愛い声を出す朱実だけに、その手の口調をさられると本当に反応に困るのだ。
ちなみに国見は予想通り、盛大な勘違いをしてくれているようで。
「今カノだと……! 渡会、テメエ女に興味の無さそうな面して、ちゃっかり彼女を……!」
「違うっての! 何を勘違いしてんだ、アンタ!」
「そうだよ、国見先生とやら。……男の嫉妬は見苦しいと思うな、アタシは」
火に油ならぬ、言い争いに朱実である。
「朱実お前もう黙れ。……じゃあな国見!」
それ以上の言葉を喋らせまいと、強引に朱実の手を引いて走り出す八雲。
自分達が今まで何故走っていたのかをすっかり忘れていた。これ以上話していても墓穴を掘り続けるだけだし、何よりも今はグロットモンやらアルボルモンやらから逃げている途中だったのだ。こんなところで油を売っている場合ではなかった。
「きゃあっ、八雲ったら大胆っ♪」
耳元で妙に甘い声が響いてくるが無視する。だから、そういう可愛い子ぶった口調はやめろというのだ。何故かムラムラしてくるから。
「あっ、渡会! まだ話は終わって──!」
「もう終わったっての、また来週な!」
「テメエ! 彼女の作り方教えろぉ~!」
後方から国見の情けなさすぎる叫びが聞こえてくるが、それに空いている方の手を挙げることで答えて八雲は朱実を引いてその場を走り去る。彼女の作り方なんて、むしろこっちが聞きたいぐらいだとは口が裂けても言えない。それなら前にクラスでも彼女がいるという噂があった三上亮辺りに聞いた方が遥かに効率的だと思う八雲であった。
目的地は園田靖史の自宅、そこまで一気に駆け抜ける。
その数分後の出来事である。園田靖史は目の前の状況に困惑していた。
「え~と……」
この状況は、どう判断したら良いのでしょう?
中学三年間における最高の親友が、今まで色恋沙汰とは無縁だと信じてきた人間が、女の子の見た目には結構うるさいと自負している自分でさえ思わず目を見張ってしまいそうな可愛い女の子と共に自分の家にやってくるとは。しかも、かなり長い距離を走ってきたのか、人並み外れた体力を持つ彼が僅かに息を乱している。
そう、これはまるで──。
「……八雲、お前駆け落ちでもしたのか?」
「駆け落ちか……なるほど、言い得て妙とはまさにこのこと。そう言われればそうなるのかもしれんね……」
「お前は黙ってろ」
「酷い」
そんな夫婦漫才を繰り広げる二人だからこそ、靖史の声もつい苛立ちを帯びる。
「イチャイチャすんな」
「うっ」
何故か思わず言葉に詰まる八雲。何かあったのだろうか?
「冗談よ、駆け落ちなんてするわけないっしょ」
それに対して女の子の方は冷静である。彼女が顔を振る度に長いにも程があるポニーテールが軽やかに揺れる。
そこで靖史は改めて親友が連れ込んできた少女を見やる。上はトレーナーとジーンズジャンパー、下はジャンパーと同色のデニム。年頃の女の子のものにしては随分とラフな格好だ。彼女はその顔立ちこそ流麗そのものだが、胡坐を組みながら靖史が出してやった煎餅をバリバリと小気味良く齧っている様子は、むしろ少女特有の愛らしさを拒絶したようなワイルドさがある。なんとなく、あの佐々木綺音を更に暴力的にしたら彼女になるだろうと思えるような、そんな非凡な雰囲気を持つ女の子だ。
傍から見ると八雲とはお似合いに見えないこともないが、一概に美少女と形容するのは憚られるような少女が彼女だった。
「とりあえず初めまして……になるのかな? 姓は長内、名は朱実……まあ話すと長くなるから、一応八雲の友人ってことにしといて」
「あ、ああ。俺は園田靖史、よろしく……」
躊躇無く差し出された右手を、おずおずと握り返す。
どこか乱暴で投げ遣りな言葉遣いとは裏腹に、握った掌は細くて柔らかい、年頃の少女のものだった。だが不思議と恥ずかしさは覚えない。まだ出会って数分しか経っていないが、それでも靖史は既に彼女にはどこか男性めいたものがあると感じていた。そうでなければ、基本的に女の子が苦手な自分がここまで自然に対応できるはずも無い。それは要するに、目の前の少女を女扱いしていないということでもあったが。
他に話すことも無いため、やがて自然と沈黙が場を支配する。
「ほら八雲、事情を説明してやんなって」
「わかってるよ。……簡単に言えば……だ」
煎餅を齧りつつも朱実が少なくない真剣さを含んだ顔で促すので、思い切って八雲は事情を話すことにした。昔からの付き合いの朱実と遊んでいたこと、彼女と共に奇妙な生物と遭遇したこと、そして何よりも奴らから逃げるために靖史を頼らざるを得なくなったということ。それにしても、実際に経験した自分で話していても、あまりに突拍子が無さすぎて夢物語ではないかと思えてくる出来事だ。
尤も、八雲が事情を話している間、隣の朱実はいつの間にか呑気に口笛を吹きつつテレビゲームに興じていたのだが。
「……というわけだ」
話し終えた後、八雲は覗き込むように靖史と目線を合わせる。
中学生の頃に出会ってから、タイプこそ違いながらも靖史とは不思議と気が合った。親友と呼ぶのに一片の迷いもないし、朱実を除けば誰よりも信頼している。彼の剽軽なところをふざけた奴だと取る人間も多いが、それだけの人間ではないことも八雲は知っている。
現在は一人暮らしの彼だが、元々良家のお坊ちゃんだと聞くから、多分実家の躾が良かったのだろうと思う。尤も、実際には躾だけというではないだろうし、彼が単なるお人好しにすぎないだけなのだが、とにかく園田靖史にはそんな美点があるのだ。八雲が彼の家を選んだのは、そんな理由からだった。
だが今回ばかりは、如何に掻い摘んだ内容を話したところで靖史の顔は全く要領を得ないものだった。
「……つまりだ」
齧っていた煎餅を皿に戻し、靖史は八雲に向き直った。
「お前らは変な怪物に追われて、とりあえず逃げ込む場所が欲しかったと。そんでもって、親御さん達には迷惑を掛けたくないから、一人暮らしの俺の家に転がり込んできたって、そう言いたいわけだな?」
「ああ、そうだ。やっぱりお前ならわかってくれた──」
「……いや、悪いけど全っ然わかんねぇ……」
「は?」
返された言葉に目を見開く八雲を見て、靖史は「おいおい、マジかよ」と呆れ顔だ。
「女の子とデートしてる時点で羨ましすぎるんだよ、お前は!」
「……女の子?」
八雲と朱実は顔を見合わせた。どこに女の子がいるんだ?
「お前だけはそんな奴じゃないと思っていたぜ、八雲よぉ! それなのに裏切ったなぁ! こんな可愛い女の子とデートしやがって!」
一気に捲くし立てた。こういう物言いに八雲が弱いということを靖史は良く知っている。
「ええい! そもそも、無関係な俺が何でお前らの愛の逃避行に付き合わされなきゃならねえんだ!」
苛立ちの込められた言葉を聞き、ゲームに熱中していた朱実が「聞き捨てならんね」とばかりに振り返る。
「……八雲の言葉を僅かでも信じてくれるんなら、アンタはアタシ達に従って欲しいね。こちらが完全に巻き込んだ形になっちゃったことは遺憾なんだけど、本当に申し訳無く思ってる。だけど実際問題、今こうして巻き込んでしまった以上、アンタの安全の確保がアタシ達の責務でもあるからね。……それと、アタシが可愛いのは当然だから、今更取り立てて言う必要も無いっしょ」
「可愛い女の子? 見当たらないな」
「アンタは黙ってな」
「酷い」
さっきの仕返しをされた。
「……でっ、でも、さっきは──」
途端にしどろもどろになって八雲の方を見る靖史。
本人には決して言わないが、口調の微妙な古風さと性格の超銀河的な破綻さを除けば、確かに長内朱実という少女は八雲の人生の中でも五本指に入る美少女なのだ。それ故に、普段はおどけた印象の強い彼女に真剣な眼差しを投げ掛けられれば、誰でも今の靖史のようになるだろう。実際、子供の頃から散々慣れ親しんできた八雲さえ、昨日の戦闘の後に不意に向けられた彼女の笑顔には思わず目を見張ったほどなのだから。
そんな雰囲気を和ますため、朱実が真剣な一方で八雲は苦笑する。やはり朱実は、そして靖史も頼りになる奴だと思ったこともある。
「……悪いな。そういうわけだから、今回は付き合ってくれ、靖史」
「何か未だにピンと来ないけど、行けばいいんだろ、行けば……」
だから靖史は力無く首を落として、そう答えるしかなかった。
その一方、こちらは相変わらず駅前の飲み屋にて。
「へえ……前に噂になってた三上君の彼女って、環菜ちゃんだったの?」
話の内容が内容だけに妙に爛々と輝いている稲葉瑞希の瞳に対し、皆本環菜(みなもと かんな)は冷静そのものである。
「ええ、去年の六月……だったかしら? たまたま近所で道に迷ってる三上君のお母さんを助けたの、それが成り初め」
「はは、そういやそうだったなー!」
ちょうど向かいの席に座る三上亮は、豪快な笑い声と共にスクリュードライバーを口にしている。陸上部のエースでホープなのにそんなに沢山飲んでいていいのかと思う環菜であるが、わざわざ自分が口にするほどのことでもあるまい。しかし同時に半年ぐらい前の自分だったら恐らく諫めていたのだろうなと思いもするわけで。
自然消滅という言葉が一番合うのだろうか。それぐらい自然な形で、いつの間にか自分達は半年前から顔を合わせなくなった。それだけのことだ。
「環菜には何度か弁当も作ってもらったしな、あの時は学校に行くのが物凄く恥ずかしかったんだぜ!」
「てことは、三上君が妙に可愛い弁当箱を持ってきた時って、まさか!?」
「そうね、私のお弁当箱よ。半分は愛情……もう半分は嫌がらせ?」
「はっ、相変わらずズケズケ言いやがる! それでこそだぜ!」
酒が入っているから当然なのかもしれないが、瑞希にしろ亮にしろテンションが高すぎるのではないだろうか。素面の自分には少々付いていけない空気を感じる。ただ、こうした状況でもないと元カレと顔を合わせるのは気まずい部分が無いことも無いので、これはこれで良かったのかもしれない。
それにしても、自分がいつの間にか違う学校のクラス会に連れ込まれていることの意味がわからない。これは要するにトイレで偶然顔を合わせた稲葉瑞希に引っ張ってこられたからなのだが、他の連中も他校の女子が混じっていることを全く気にしないのはどうなのだと思う環菜である。尤も、そのおかげで居心地が悪くは無かった。
「あの……そもそも何で私、こっちに連れ込まれてるの?」
「はっはっは、小さいこと気にすんなっての、環菜。久々に会ったんだ、今日は友達として飲もうじゃねえか」
そうして亮はグラスを置きつつ、こちらの全身を舐めるように見渡して。
「最近は一段と可愛くなりやがったな……フッ、流石は俺の──」
「それやめて。……そもそもそこに繋がりが全く見えないんだけど」
「その可愛さ、万死に値する! ふはははは!」
「ああ、盛大に酔ってるのね、三上君……」
帰宅してから掃除やら洗濯やらが待っているので、環菜は酒には全く手を出していない。未成年だからどうだと良い子ぶるわけでもないが、そのことを考えて目の前のハイテンションな男を見ると少し気分が滅入ってくる。
けれど、同時に陸上部としての前向きで逞しく、誰よりも熱い心を持つ三上亮の姿を知るだけに、そんなベロンベロンの彼を前にして、思わず微笑んでしまった。そういう関係だったこともあり、両親を除けば彼の様々な顔を最も知っている人間は世界で自分なのだという事実には少なからず優越感を覚えないでもなかった。
「……昔の話、にしていいのかしら」
そう思う。申し訳ないが、もう彼のことは他人事でしかない。
それだけのことだった。一年前には確かに彼に対して存在した恋愛感情が今では全く感じられない。酔っ払っているとはいえ、友人として飲もうと前置きしてくれた彼には感謝だ。少なくない罪悪感があったはずだが、その言葉で自分としても良くも悪くも踏ん切りが付いたのだと思う。
「環菜ちゃん、いい顔してるね」
「……そう?」
覗き込む瑞希の言葉にも自覚はなかった。スッキリしたというのは事実だが。
「やっぱり高校生にもなると、皆彼氏とか彼女とか作るもんなのね。……でもまさか渡会君まで作るなんて流石の私にも予想外だったわよ」
「だから! 渡会のはきっと誰かの見間違いだって!」
「……ふふ、信じたくないのは私もわかるけどね、綺音ちゃん。これは真実なのよ……?」
「べ、別に私には関係無いって言ったでしょうが」
奥に座る背の高そうな女の子が瑞希の言葉を受けて妙に赤くなっている。その隣に座る小柄な女の子は酒の席だというのに妙に落ち込んでいる様子だった。
ただ、その会話の中で環菜には気になる名前が一つだけ出てきた。……渡会君?
「ねえ稲葉さん、渡会君って……?」
「ん? ああ、環菜ちゃんは知らないんだったよね、さっき話題に出てた男の子のこと」
振り返った瑞希の頬もそれなりに赤く染まってきている。女の子が相手だが、息がかなり酒臭くなっているということは言ってあげた方がいいのだろうか。
「ああ、女の子とデートしてたっていう……?」
「うん、渡会八雲君。……あ、ここには来てないんだけどね」
「渡会……八雲」
半ば噛み締めるようにして、環菜はもう一度だけその名前を反芻する。
「八雲……」
知っている名前だ。そして同時に、思い浮かべると不愉快になる名前だ。
やっと理解に及んだ。自分達のクラス会であの問題児、長内朱実が駅前で男と並んで歩いていたという目撃情報を聞いてから、環菜にはその相手の男に心当たりがあるような気がしていたのだ。心当たりがあるというよりも、あの長内朱実が一緒に歩くような男は一人しかいないという確信があった。女子高の上に誰よりも没交流な長内朱実が出会う可能性のある男といえば、それはきっとアイツしかいないのだから。
「そうそう。ちょっと変わった男の子でね、誰の泣く顔も見たくないとか大真面目に語っちゃうような──」
瑞希の言葉もどこか遠い。環菜が思い出すのは五年前、小学生の頃の記憶。
脳裏を過ぎる思い出。それは断じて自分にとって良いものではなく、むしろ不愉快になるような記憶ばかりだったけれど、それでもどこまでも楽しそうに生きる男の子と女の子の姿は、悔しいが自然と眩しく思えてならなかった。
「そっか。あの子、アイツと……」
環菜の中で全てが繋がったような気がした。
同時刻、荒れ果てた小さな広場にて。
そこが果たしてどこに存在するのかはわからない。そう、そこは決して人間界には存在し得ないだろう異質な空気を漂わせていた。
闇が這い出したように薄暗いその広場の中心に、一体の異形が座り込んでいる。体は青空を思わせる蒼と白に彩られ、頭部には立派な角が二本見えている竜だ。何故かような外見を持つ者が俗に犬と勘違いされ得るのか、その逞しい外見からは理解しかねる。それほどまでに蒼き竜は清爽な雰囲気を漂わせていた。
竜の名はブイドラモン。名前の通り、腹部には大きなVの一文字が刻まれている。
「………………」
吹き荒れる風を受けても、ブイドラモンは黙したまま動かない。
彼の視線の先にあるのは、一体の巨大な石像。日輪の輝きを身に纏い、烈火の龍と閃光の獣を各々の腕に宿したその存在は、かつて彼らの世界を守った救世主と呼ばれる存在であった。既にその存在はある種の講談と化しているが、それでも下々の者達にまで深く浸透した戦いの記録は、俗に『十闘士伝説』として延々と語り継がれてきた。伝説というだけあり、十闘士とはこの世界に生きる者達にとってはヒーローの代名詞でもあった。
また、周囲には石像を取り囲むように十本の円柱が立っている。長らく風雨に晒された影響からか劣化が激しく、まさに遺跡の如き様相を呈していた。
その円柱には各々に世界を司る十種類の属性が刻まれている。だが十本の内で炎、土、水、闇、木、鋼の六本は眩いばかりの輝きを見せているものの、風と雷、そして氷の三本は薙ぎ倒されたかのように、根元から無残にも圧し折られている。
また、残る最後の一本、光の属性を宿す円柱は──。
「……アイツらが動き出したみたいだ。でもジャンヌ、悔しいけど僕は君がいないと何もできない……!」
そのブイドラモンの呟きには、懇願にも似た色があった。
場所は戻って、再び八雲達。
相変わらず項垂れている靖史を引っ張って八雲と朱実が訪れたのは、近所にある空き地だった。恐らく80メートル四方はあろうこの場所なら、如何なる化け物染みた生物が相手でも周囲に被害が及ぶことはあるまい。周囲は好景気時代の影響か、買い手の付かない空き家が多く、騒音の被害を気にせねばならないようなマンションやアパートも無い。それでこそ、八雲も朱実も思う存分力を奮うことができるというものだ。
今まで強引に引っ張ってきた靖史の体を、そこでようやく解放してやる。
「あのな、お前らどういうつもりだ!? 何で追われてるってのにこんな目立つ場所に来てんだよ!」
「理由は後で教える。だから悪いんだが、今はとりあえずその土管の後ろにでも隠れていてくれ。……朱実、来た!」
「……心得てるよ」
言われるまでも無い。そう言いたげな横顔を見せる朱実は、既に臨戦態勢に入っている。
二人が感じ取ったのは、住宅街の屋根を飛び回って接近してくる者達の放つ殺気。如何なる理由があろうとも自分達の命を奪わんとする恐ろしいほどの意志を、そこからは感じ取ることができる。だが当然のことながら、八雲も朱実も何もわからぬままに黙って殺されるつもりは無い。そもそも、どれだけ強い殺気を放ったところで、あの程度の連中に負けるつもりさえ、今の二人には無かった。
やがて目の前に降り立ったのは先程と同じ二体。ブリキ人形のような木偶の坊と、でかっ鼻のゴブリンの二体だ。
「……やっぱり来たか」
「そう来なくちゃね」
朱実が口の端を僅かに上げて、本当に楽しそうに笑う。
どう見ても人間には見えないし、また遊園地の着ぐるみのようにも見えない。だからこそ、背後に積み重ねられた土管の影に隠れている靖史が「な、何だよアイツら!?」と疑問の声を上げるのも無理は無いと思えた。しかし、今の状況では敢えて説明する必要性は感じられないし、説明している暇も無い。巻き込んでしまったことは確かに悪いと思うが、とりあえず従ってもらうしか無かったのだ。
ハンマーを背中に担ぎながら、でかっ鼻の方が意気込んで叫ぶ。
「手間を掛けさせやがって! 今度は逃がさねえぞ、クソガキども!」
「逃げるが勝ちと言う。でもお前達は負けだなぁ」
「逃げたつもりは無いよ。……アタシに背中を見せさせたことは賞賛に値する。故にアタシ達のホームに誘い込んでやっただけのこと」
そう、朱実の言う通り、ここは八雲と朱実にとってホームグラウンドなのだ。
小学五年生になる頃から急激に身長が伸びた二人は、時折中学生や高校生にすら絡まれるようになった。仮にも女である朱実は率先して暴力を振るわれるようなことは無いのだが、彼女の性格が性格だ。相手を挑発した挙句、最終的に喧嘩になってしまうのが常だった。そして、どちらかといえば彼女を諌める立場にいた八雲でさえ、結果的に乱闘に参加してしまうのであった。尤も、朱実は八雲が参戦してくることを理解した上で、喧嘩を吹っ掛けている嫌いもあったわけだが。
そして、この空き地で戦えば二人に敵はいなかった。それは、相手が如何なる化け物であろうと例外ではない。
「……八雲、覚悟は決めたね?」
「この状況じゃ決めるしかないだろ。……右側のでかっ鼻は朱実、お前に任せた。左側の木偶の坊は俺がやるから」
そう返しながら、八雲は両手に手袋を嵌める。
長らく愛用していた手袋だったが、中学入学からの四年間を通して一度として嵌めたことは無かった。朱実の方がどうだったかは知らないが、八雲が単独で喧嘩を吹っ掛けられることは無かったのだ。それが朱実と再会した途端、二夜連続でこれだ。
誰の所為だと自問したところで、さも当然のように自分の隣を見る。
「やっぱりお前は、俺にとっての疫病神だな」
「褒め言葉……かな?」
「そうなるのな。……不思議と悪い気分じゃないし」
彼女と話していると心地良い。こうであることが極めて自然だと理解できる。
冷静に考えれば人間が生涯に関わるであろう不思議体験の大半をこの二日間だけで経験してしまっている気もするが、そこに朱実がいたからこそ自分は全く取り乱すこともしないでいられたのだろうと八雲は思う。
彼女といる限り、渡会八雲は如何なる状況下でも決して負けないし逃げないし崩れないと確信できる。
「もうどうにでもしてくれ……」
そんな二人の後ろで、靖史は息も絶え絶えに、そう呟くしかなかった。
◇
コロナで大変な中、いかがおすごしでしょうか。夏P(ナッピー)です。
少し遅れてしまいましたがようやく5話と6話を投稿させて頂きました。基本的に当時のせりふ回しは変えないようにしていますが、今回に関しては冒頭の先生の台詞周りをちょいちょいイジってしまいました。読み返した時に恥ずかし過ぎて戦慄したのでしゃーない、許せサスケェ……。
相変わらずまだ登場デジモンが三体という恐るべきスローペースですが、またよろしくお願い致します。