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第41話
The last element
~光の拳で~
気付いた時、うつ伏せに倒れていた朱実を見下ろすように鋼の闘士が立っていた。
どうやらあのビームの直撃を受けることは避けられたらしい。だが余波を避けることまでは叶わず、全身がチリチリと火傷でもしたかのように痛い。実際、上着のジーンズジャンパーも所々が黒く焦げているのがわかる。生きているだけでも儲け物という言葉があるが、今の自分の状態はまさにそれを実践する形だった。
「落胆したぞ、長内朱実。我が後継者として期待していたが、やはりお前も所詮は脆弱な人間の小娘にすぎなかったか」
圧倒的な実力差に驕るように、鋼の闘士は嘲笑う。
人間如きが伝説の十闘士に勝てるはずが無いということは、彼自身が最もよく知っていた。その考えから見れば、今まで木の闘士や土の闘士を破ってきた八雲や朱実の方が異常なのだ。だがその異端者もここで終わり。己の存在を見誤ったイレギュラーは、ここで消去される。十闘士の中でも最も知略に長けるだろう鋼の闘士、メルキューレモンの手によって。
故に朱実は既に追い詰められたネズミにすぎず。ただ、殺される時を待つだけの存在。
だが、それでも静かに立ち上がる彼女の瞳に宿る光は揺るがない。
「我が後継者……か。なるほどね、ようやく確信が持てたよ、アンタが誰なのか」
「ほう?」
「幽霊の正体見たり枯れ尾花。……よもやとは思っていたんだけど」
そこには窮鼠の雰囲気など微塵も無かった。
初めて会った時から漠然と感じていた。あの鋼の闘士の正体を。鋼でありながらも絶対的な温かさを纏う矛盾した存在。何故ジャンヌに襲われた自分を彼は助けたのか、また何故彼は自分にトドメを刺すことができなかったのか。そして、何故自分はこの闘士に対して既視感を覚えているのか。
考えてみれば、簡単な話だ。それは彼が朱実にとって、また朱実が彼にとって大切な存在であるからに他ならない。
「……道理で似てるわけだ。ますます負けられなくなったね、この戦い」
「お前、まさかまだ動け――」
「まだ動けたのかって? フッ、そのゴキブリのような生命力がお前の美点だと、小学生の女の子に真顔で語ってくれたのはアンタでしょ。アタシは誰も殺さない。アタシは誰にも殺されない。それを最も知っている男の癖に、今更何を言う……!」
瞬間、周囲の炎が爆ぜて消えた。それらを全て打ち払うほどのエネルギーが、朱実の体から発せられた故である。メルキューレモンですら、その圧倒的な波動を前にすれば腕で自身を庇いながら僅かに後退することしかできない。
長内朱実が放つエネルギー。それは圧倒的な蒼き光だった。
「で、デジソウル! 遂に覚醒したのか……!?」
それを知ればこそ、メルキューレモンは嬉しそうな表情を崩せない。
デジソウル。かつての英雄達が須らく備えていた、己が魂の表現方法。アナログな存在である人間がデジタルな世界で具現化する齟齬により生み出される救世の力。その神々しい輝きを前にして目を見開いていられる者など存在しない。鋼の闘士は全てを知っている。今まで数多の人間がこの世界を訪れ、そのデジソウルを以って起こした数々の奇跡を。
一人。――青き龍を友として創世期の世界に舞い降りた雷の少年は世界の法則に逆らい、時空を司る少女を具現化させた。
一人。――竜人と志を同じくした闇の少年は愛する者を守るため、後に最強の名と共に語られる聖騎士を生み出し、魔王を暗黒の世界に封印した。
一人。――黄金の巨鳥と駆け抜けた風の少年は否定され続けた者の心を救い、全ての者に新たな未来を示してみせた。
一人。――光竜と共に舞い降りた土の少女は数多の武器を創造し、長きに渡り続いた光と闇の戦争を終わらせた。
つまりデジソウルとは英雄の意志、英雄の力の具現。スピリットが世界を救う希望として残されたのと同じように、デジソウルもまた世界を救う英雄たり得る者にのみ発現する。それは即ち、逆算すればデジソウルの発現した者こそ救世主たる力の持ち主であるということを意味する。
鋼の闘士の喜びは、要するにそれに起因するのだ。
「ならば朱実、この私に見せてみるがいい……この崩壊した世界の中で救世主として覚醒したお前の力を!」
「……救世主?」
その青き光の中で、朱実は僅かに笑ったようだった。それも、どこか自嘲的な笑顔で。
それと同時に、ヒュッと空気を裂くような音が響く。メルキューレモンが気付いた時、その場所から朱実の姿は既に消えていた。
「なっ、どこだ!?」
「……ウスノロ」
その声は背後から。いつの間にか、朱実は鋼の闘士の背後で口笛を吹いている。
「なにっ……!」
「……行くよ」
朱実の体が沈む。それだけでメルキューレモンには彼女が突撃してくるのだとわかる。
だがそれだけだ。一瞬の後、彼女は5メートル以上あった距離を詰めて鋼の闘士に肉薄していた。間違い無くオリンピック記録を更新しそうな勢いの突撃は、鋼の闘士の目ですら追うことができない。青白い輝きは彼女の全身を覆い尽くし、今や長内朱実の長髪は風など吹いていないのにたおやかに靡いている。
こんな力は知らない。デジソウルがこんな単純な身体能力の増幅を齎すなど、有り得ることではない。
「おのれ!」
その迷いを振り切るように、メルキューレモンは朱実に向けて右の拳を叩き込む。
「甘い……メロンパンより甘い!」
その鋼の闘士の全力に、朱実もまた自らの全力を以って応じる。蒼き輝きを纏った長内朱実の右の拳が、メルキューレモンの右腕のイロニーの盾と激突する。
両者の拳の速度を鑑みれば、それだけで脆弱な人間の拳など骨が粉微塵に粉砕されてもおかしくはなかった。だが結果は逆だ。咄嗟に距離を取ろうとしたメルキューレモンの保持するイロニーの盾が大きく軋む。鋼の闘士には信じられない思いだ。如何にこちらの右ストレートの勢いが加算されたとはいえ、人間風情が十闘士最大級の防具を上回る一撃を放つなど――!
そう、イロニーの盾は先程ベレンヘーナすら容易く弾き返した。故に長内朱実の一撃には七大魔王の一角が持つ武器以上の威力が備わっているということになる。その全身を覆う青き光には、それだけの力があるというのか。長内朱実のデジソウルは、従来の英雄達が備えていた物とは全く違う性質を持つというのか。
「救世主なんかじゃないよ。……悪いけど、アタシは飽く迄も壊す者でしかないからね。それ以上を望んだことも、それ以下で満足したことも無いんよ」
「壊す者……だと?」
確かに彼女の言う通り。朱実の拳が纏った青白い光とは進化の輝きでも創造の炎でもなく、単なる破壊の権化。それは単純な意味での肉体活性に加え、デジタルな存在を破壊することに特化した、ただ何かを壊すためだけに存在する力。
故にそれがデジタルな物体である限り、長内朱実に打ち砕けぬ物質などこの世界には存在しない。
「如何にも。……アタシは人殺しの娘だよ。そして、それ以前に人殺しだからね。そんな女に、何かを救うことなんて、そんなことができるはずも無いっしょ?」
「そっ、それは違うぞ。お前の母が人を殺したのは飽く迄も正当防衛、罪なんて無い。だからお前も、それを背負う必要なんて全然無いんだ! ……あっ」
言ってすぐ、しまったと思った。無論、朱実は我が意を得たりといった表情で笑っている。
「……ほら、やっぱり親父殿じゃない?」
そう、鋼の闘士の正体は安藤浩志、仙川八雲と長内朱実の養父である。
それに気付いたのは、本当に今だった。だが思い返してみれば、鋼の闘士はガルムモンの前に危機に陥った自分とナイトモンを助けてくれたし、あの時のパンチにしたって本気なら自分の内臓を破裂させるぐらいの威力があるはずなのに、不思議と手加減されていた。それに、彼が時折見せる自分を試すような言動を鑑みれば、それは間違い無く一つの答えしか示さない。
朱実の笑いを前にして、鋼の闘士も笑う。それは彼が初めて見せる本当の笑顔。
「気付かれちゃったか。……随分と演技上手になったなぁ、朱実」
「そりゃ気付くわよ。その手の堅苦しい言葉遣いが昔から死ぬほど似合わないんよ、親父殿はね」
「そうかな? 他の闘士連中には、あれが僕の本当の人格だって思われてたみたいだけど」
「……はあ、本当に鈍感な奴らばっかりなんね、十闘士って」
五年越しに異世界で巡り合った父と娘は、互いに場違いな笑い声を上げる。
安藤浩志。朱実にとっては二番目の父であり、また今まで出会った人間の中でも最も尊敬する人物。両親を失って世の中に絶望していた自分を引き取り、あの仙川八雲と出会わせてくれた恩人。思えば、学校で八雲と馬鹿をやって、帰ってくれば彼に叱られて、そんな慌ただしい日々が、自分の人生の中では最も楽しかった頃だったのかもしれない。
彼が死んで以来、朱実は半ば自暴自棄になった。八雲が同時期にいなくなったことも大きかったのかもしれない。その数ヶ月後に孤児院は閉鎖され、彼女は自分の従姉妹にあたる女性に引き取られた。両親が残した朱実の口座預金が目的だったのかもしれないが、それでも彼女は良い人だった。以後、朱実は以前のような喧嘩を控えるようになった。鍛錬は続けていたけど、喧嘩を売られない限りは暴力を振るわなくなっていた。それは長内朱実としての存在の否定にも等しい日々だった。
いつの間にか、彼女は二宮市の中でも二番目の偏差値を誇る高校に進学していた。だから自分も、やがて平凡な大人になるのだろうと、信じて疑わなかった。
そんな日々が既に遠い世界の出来事に思えた。朱実にとって彼が尊敬できる義父であり、また超えるべき壁であることは否定できない。
「それじゃ……続けようか、親父殿」
「……だね。僕の仮面を引っ剥がすっていう朱実の宣言は、まだ果たされていないし」
「どうして死んだはずの親父殿がこの世界では生きてるのか……なんてことは聞かない。でも一つだけ聞きたいことがあるんよ」
「何かな?」
「……親父殿はこの世界でなら昔みたいに生きられるの?」
それは娘としての、父親に対する愛情を確認する言葉。
その姿を見るのは鋼の闘士――否、安藤浩志には辛いこと。十闘士として生を受けて以来、彼は八雲と朱実と再び巡り会うことだけを求め、十闘士などという偽りの英雄であり続けた。その中には当然のように苦難の道もあったけれど、いつか彼らと出会えるのならば、その苦行にも耐えられた。
そして今、自分は朱実と再会を果たした。だがルーチェモンの配下でいるあまり、飽く迄も敵としてのスタンスで彼女と関わることしかできなかった。そのツケが今、払われようとしている。
「無理……だろうね。僕の契約者、ドウモンは朱実達の契約者との戦いで倒された。尤も、十闘士である僕達ならそれだけで死ぬことは無いんだろうけど、僕はルーチェモンには疎まれ、あのジャンヌにも脅迫されてる状況でね。……少し強引だったんだけど朱実と八雲に会いたかったから、セフィロトモンなんて強引な手を使ったんだ。正直、契約者もいない今の状況でルーチェモンやジャンヌから逃げ切れる自信は無いんだよね……」
「そっか……でも八雲に会うぐらいなら構わないよ。それが父としての親父殿の義務っしょ?」
「そうしたいのは山々なんだけど……どうやら、それは無理みたいだ」
メルキューレモンが朱実の背後に視線を向ける。当然、朱実もそれに倣う形で振り返った。
すると、そこには一組の人間と契約者。いや、人間というのは適切ではない。その黄金の頭髪を持つ幼女は紛れも無く十闘士の中でも最強の位置を占める闘士であり、長内朱実と鋼の闘士たる安藤浩志にとっては天敵に値する存在なのだから。
エアロブイドラモンの翼に寄り添う形で、ジャンヌは朱実とメルキューレモンの姿を見つめていた。
「あの時の幼女……!」
「ほら、感動の親子の再会シーンでも続けたら? 私だってね、そんなところを邪魔するほど野暮じゃないからさ」
その口調は外見とは異なり、飽く迄も挑発的。彼女の笑みには幼さなど微塵も無い。
「尤も、短気な私は五分しか待ってあげないけどね。五分経ったら二人とも殺してあげることになるわけだし、逃げるなり協力するなり相談でもすれば? でも……気付いてるわね、鋼の闘士。契約者もいない今の状況じゃ、どんなにその女と協力したところで私には勝てないってことぐらい」
「くっ……まずいね、この状況。確かに彼女の言う通り、このままじゃ二人とも共倒れだな。朱実、ここは僕に任せて逃げるんだ」
「やだ」
それは当然の答えだった。義父を置いて逃げるほど、朱実は生死を割り切れていない。死んだら終わり。それが人の世の常だろうが、それでも死した義父ともう一度巡り会えたのだ。ならば少しでも長く共に在りたいと思うのは、娘として当然の感情だろう。
無論、安藤浩志とて彼女がそう答えることは予測できていた。だが、それでも。
「いいのかい? 正直、僕は今まで朱実に父親らしいことは何もできなかった。だから最後ぐらい、朱実を助けようと思ったんだけど……」
「……命を懸けて何かを為すのは正しい。だけど、命を捨てて固執するのは間違いだって、教えてくれたのは親父殿っしょ? それにね、アタシはずっと親父殿を超えるべき目標にしてたんよ。でも親父殿が死んじゃって、二度と超えられなくなってさ。だけど今、その最後のチャンスが目の前にあるんよ。それをさ、無駄にできるわけがないっしょ」
「……朱実」
「それにね、親父殿。アタシはともかく、八雲はアンタを実の父以上の存在として感じてる。アイツにとって親父殿は人生の目標だからね。だから卑下する必要なんて無いんよ。……そういう、親父殿の余計なところまで八雲に遺伝したのは……うん、少し腹が立つけど」
朱実の答えに揺らぎは無かった。彼女は心底、安藤浩志との決着を望んでいる。
それを前にすれば、鋼の闘士に退くことは許されない。彼とてまた武人。長内朱実が本気で挑んでくるというのなら、どうして本気で相対しないことができようか。相手の本気には自分の本気で。それが安藤浩志の教えの中で、最も大事なことだった。
「……言ったね、そこの幼女。五分間手出しはしないって」
「ええ、言ったけど?」
「ならばその好意に甘えさせてもらうよ。……アタシはこの五分で鋼の闘士と決着を付ける。その後でなら何をしようが構わんが、その約定を違えた場合には……アタシは絶対にアンタを許さないから」
「……それほど落ちぶれちゃいないわ。いいわ、好きになさい」
心底呆れた様子で呟いたジャンヌは、エアロブイドラモンの背中でゴロンと横になる。
「馬鹿じゃない? ……そんな戦いに何の意味があるってのよ」
何気なく紡がれたそんな台詞が、きっと彼女の人間であった頃の思いなのだろう。
その時には既に朱実とメルキューレモンの決戦は始まっていた。デジソウルの力を覚醒させた朱実は既にメルキューレモンと互角以上に打ち合っている。その一撃は岩をも砕き、またメルキューレモンの防御をも物ともしない。爆発的な加速力と絶対的な攻撃力を得た今、長内朱実に打ち砕けぬ物などこの世界には存在しない。
そうして、勝負は呆気無く付いた。神速で突き出された朱実の右の拳がメルキューレモンのイロニーの盾を粉々に砕いたのだ。
「……見事だね、朱実。完全に僕の負けだよ」
「親父殿……本当に本気だった? 何かアタシには呆気無さすぎるように感じたんだけど……」
「それだけ朱実が強くなったってことさ。……おっと、お迎えかな?」
瞬間、メルキューレモンの足が静かに粒子化を始める。
「お、親父殿……!」
「……イロニーの盾を砕かれちゃったからね。契約者も失った今、もう僕に融合世界で存在できるだけの力は残ってないみたいだ」
「そ、そうだったんだ。そうとも知らずにアタシは……すまんね」
消えていく義父に向け、朱実は静かに頭を下げる。メルキューレモンの姿が掻き消え、その一瞬だけ姿を見せた安藤浩志は飽く迄も顔色を変えることもせず、笑いながら何で謝るのかなと不思議そうな表情を浮かべていた。その表情もまた、八雲や朱実が憧れた義父のものに他ならない。子供が理想とする大人の姿が、そこにはある。
ため息交じりに、義父の言葉は続く。
「別に気に病むことは無いよ。……僕は所詮、既に死した身だ。朱実は決して人を殺したわけじゃないんだからね」
「違うんだ。そういう問題じゃないんよ、親父殿」
そんな彼の言葉に被せるように語る朱実。
「アタシが鋼の闘士に勝てたのは、それが親父殿だったからだよ。……そうでなければ、アタシは絶対に負けていたと思う。相手が親父殿だったからこそ、アタシは本気で戦えた。故にアタシは親殺しの罪を未来永劫背負って生きていくつもりだよ。……既にその覚悟はできている」
「……相変わらず、変なところで真面目だね」
「何とでも言うがいい。だがアタシの決意は変わらんよ」
義父に対する思いは永遠に色褪せない。そのことだけは、朱実は断言できる。
「八雲と会えなかったのは残念だけど……ま、アイツのことは任せていいかな、朱実」
「……うん、任せて。アイツは死ぬまでアタシが面倒を見てやるよ」
その言葉に儚げに笑い、少年のような男性は静かに姿を消滅させていく。
体が崩れていく様はまるで砂上の城。この世界では何もかもが儚く自身の存在を散らせていく。それが朱実には何よりも悲しい。生命っていうものはもっと輝いて、もっと強くあるべきなのに。安藤浩志の体は結局、この世界ではデータの一つにすぎなかったのか。
義父の消滅を最後まで見届けた後、朱実は僅かに顔を顰めながら。
「……ふん、やっぱりお別れが言えなかったじゃないのさ」
そう呟く彼女の頬には、やはり涙は浮かばない。
だが今回は理不尽な別れではない。朱実自身が望み、また義父も同じように願っていた。自分は義父の願いを聞き届け、また幼い頃から超えるべき壁であり続けた男を倒すという目標も同時に達成した。故に悲しみなど覚えるはずも無い。むしろ、為すべきことを終えた心地良さだけが彼女の胸にはある。
だが唐突に響く少女の声は、朱実の意識を無情な現実に引き戻すには十分だった。
「あのね、八雲の面倒を見るなんて、そんなことがアンタにできるわけないでしょ?」
「……うっ。そういや、アンタがこの場にはいたんだっけ」
「それじゃ、そろそろ殺しても構わないわよね。……長内朱実」
背後を振り返る必要は無い。そこには、光の闘士とその契約者の姿があるだけだから――。
その瞬間、今まで戦いの場を覆っていた闇が霧散した。
「えっ……」
「セフィロトモンが消えたのか?」
八雲とダスクモン、両者の反応はそれぞれ。彼らは向かい合う形で中央公園に立っていた。
だが唯一同じなのは、両者に戦いをやめる意志が無いということだ。相手の二刀を一刀で凌いでいる八雲は流石に疲労の色が隠せない。だが止まれば一瞬でダスクモンに殺される。ならば動き続けるしか生き延びる道は無い。
だがその瞬間、ダスクモンの体がビクッと大きく痙攣した。当然、その動きも止まる。
「……へえ。ガルフモンの奴も死んだのか」
「ガルフモン?」
「メフィスモンっていただろ? 俺の契約者、その進化形」
つまり、今の痙攣はガルフモンが死んだことで契約が強制的に解除されたことで起きた反動ということか。尤も、既にデジタルな体を持つ十闘士には基本的に何の悪影響も無いことであるが。ただ、優秀な手駒を失ったことに対する落胆だけは、確かにダスクモンの中には存在している。
奴は他の誰よりも強かったのだ。八雲のウィザーモンよりも、環菜のブラックガルゴモンよりも。それなのに死んだ。
「アイツを倒すほどの奴だ。さぞ強いんだろうな? 手合わせしたくなるぜ」
「……お前、相棒が死んだっていうのに、悲しくないのか」
「そんなわけねえだろ。アイツと俺は単なる協力関係。アイツは俺の強さに、俺はアイツの存在自体に肖ってただけだ。尤も、十闘士の俺にはそんなことは必要無いって気付いたのはその後だったけどな。……それにしても八雲よぉ、今何つったよ。悲しくないのかだって? はっは、お前はミスティモンのことをそんな風に考えてたわけだ。笑っちまうぜ、だっはっは!」
狂ったように笑うダスクモンだが、何がおかしいのか八雲には理解できない。
自分とミスティモンは未だに三週間ほどの付き合いしかないが、その中でもそれなりに苦難を共にしてきたと思う。ならば、たとえ最初の出会いが偶然で契約を交わしたのが成り行きだとしても、互いの関係は相棒と呼べるだろう。
「ほら、大分息が上がってきてるぜ! 本気で来なけりゃ真っ二つだぞ!」
「くうっ……」
先程から奴は遊んでいる。ダスクモンは剣を振る速度、また実際の移動速度も渡会八雲とは段違い。だからこそ、奴は力を六割程度に抑えることで八雲と互角に渡り合っているように見せている。しかし八雲がダスクモンの六割の力を上回りそうになる一瞬だけ、奴は十割の力を引き出して圧倒する。一瞬でも勝機を見出したところを突き崩されるため、八雲が受ける絶望は計り知れない。
要するに、今の八雲はダスクモンに遊ばれているにすぎなかった。
「ザンバモンとかいう奴にも勝ったっていう腕もその程度かぁ!? それとも相当弱かったのかねぇ、そのザンバモンはよぉ!」
「くっ、お前――!」
その愚弄に激昂しようにも、今の八雲の能力ではダスクモンの足下にも及ばない。
いや、単純な剣の腕なら八雲とてダスクモンに匹敵するか、それ以上の技量を持っている。だが身体能力の歴然とした差は如何ともし難い。八雲の常識を上回る形でダスクモンは飛び、方向を変え、また奴の剣は人間なら不可能な軌跡を描く。それを半ば強引に防御しているのだから、その実力こそが最も賞賛されるべき事項である。
だが反撃などできるはずも無い。下手に反撃を試みたところで、ダスクモンは嘲笑うように龍斬丸の射程外に逃げていくだけなのだ。
「……八雲、お前は弱い。この俺よりも、環菜ちゃんよりも、誰よりも弱いんだ。それを思い知った上で死ねばいい!」
瞬間、後方に退いたはずのダスクモンにコンマ一秒で肉薄され、剣を一閃される。
「くっ――!?」
「遅ぇよ、遅すぎるぜ雑魚がぁ!」
ズバッという気色の悪い肉を断つような音。咄嗟に一歩だけ退いたつもりだったが、八雲は袈裟懸けに斬り飛ばされていた。その衝撃で体は無様に吹き飛ぶ。悲鳴や奇声を上げることも無い。その中でも龍斬丸を手放さなかったのは奇跡と言える。
まるで紙切れのように吹っ飛んでいる自分の体から、少量ながらも血が飛び散る様が他人事のようだ。
受身も取れず、容赦無くコンクリートに叩き付けられた。左の肩からばっさり斬られたが、傷口自体はそれほど深いわけではないらしく、少なくとも出血は致死量までは至っていないと見える。だが頭を打ったことで軽い脳震盪でも起こしたのか、意識が混濁している。
「あっはっはっはっは! 俺の勝ちだなぁ、八雲! これでやっと、紛い物の方の環菜ちゃんも気付くだろうさ。俺の方が強いってな、渡会八雲なんて奴はとんでもなく弱い雑魚だってことにさ!」
狂ったように笑うダスクモンの言葉が耳に痛い。確かにその通りかもしれない。戦うと決めたのに、絶対に救うと決めたのに、自分は靖史に対して何もできない。何もできず、ただ一方的に打ち負かされただけだ。情けないが涙は出ない。ああ、当然だ。渡会八雲という名の自分は、今まで自分の悲しみで泣いたことが無いのだから。
そんな中で、八雲は先程ある男が言っていた言葉を思い出していた。
――風のように奔放、だが氷のように冷酷な雲であれ。
その言葉を呟いていた男の寂しげな笑みが脳裏に浮かぶ。
奴は言っていた。一度でもいいから本気で親友と戦ってみろと。実際、八雲はこの場所に来るまでは靖史と本気で戦うつもりだった。それは奴に言われたからではなく、それが親友を救うために渡会八雲が自分自身で選んだ唯一の答えだったから。
だが、それができなかった。
どうしても、自分には親友と本気で戦えなかった。あの日、ザンバモンに龍斬丸を託された時点で、渡会八雲はそういう覚悟をも問われる道を選んだはずなのに、親しい者に剣を振り下ろせるだけの心力が自分には無かったのだ。それが情けない。悔しくて堪らない。長きに渡ってザンバモンが守り続けた龍斬丸を託されたのは、こんなにも弱い男だったのだ。それを思えばこそ、彼の武人に申し訳無くなる。
風のように奔放。――それは朱実のような奴のことを言うのだろう。
そもそも、風のように奔放云々以前に、彼女は誰よりも強いのだ。朱実が今の自分の姿を見れば、一度決めたことを貫けない男の情けなさに憤慨することは間違い無いだろう。それを考えると、やはり自分は全然彼女には勝てないと思う。
氷のように冷酷。――それは環菜のような女のことを言うのだろう。
しかし彼女は冷酷なだけではなく、どこかに熱さも持っている。短い付き合いだが、それは直感で理解できる。自分を激励した時、また靖史と戦った時にも確かにその一端を垣間見せていたはずだ。彼女が今の自分を見たら、何と言うか予測もできない。
仰向けの状態で目を開けると、空を流れている雲が見えた。それが酷く遠くに見える。
「俺は……八雲にも……なれないのかな……」
頭上へ伸ばされた手が、何かを掴むことは無い。半端者という言葉が、何よりも今の自分には合っているのかもしれない。自分は破滅という名の平和を齎す救世主にも、また平和を騙って世界を破滅に導く破壊神にもなれない中途半端な存在だと思っていた。だが違った。自分はむしろ、救世主やら破壊神どころか、八雲自身にすらなれない存在だったのだ。
だから遠かった。大人になった今でも、空は驚くほど遠かった。
「ああ、そうか……」
英雄とか救世主とかいう問題ですらない。
それ以前に俺は、空に浮かぶ雲(わたらいやくも)にすらなれなかったんだ――。
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第42話
The last element
~炎の剣で~
額から血を流しながらも、その瞳は微塵も穢れていなかった。
『ありがと、生きててくれて。これで、私も――』
その声はあの自動車事故から自分を救い出してくれた少女の声。
彼女は自身の死を既に悟っていた。それでも、そんな風に綺麗に笑ってくれた。全身を炎に焼かれ、最早手足の感覚すら覚束無いだろう少女は、最後まで仙川八雲にとって家族で在り続けた。自分は両親よりも彼女のことが好きだった。彼女は優しかったし、何よりも笑った顔が綺麗だったのだ。彼女自身も仙川八雲が自分の笑顔を好いていることを知っていたからこそ、最後まで笑顔を崩さなかった。
救急車の中へと運ばれていく自分を名残惜しそうに見やり、少女の体は静かに崩れ落ちる。享年9歳か10歳。あまりに呆気無い人生だった。
けれど、彼女に助けられたからこそ、今の渡会八雲が在るのだ。
『……惜しいね。剣だけだったら八雲は世界一どころか宇宙一にだってなれるのにな』
かつて、そう言ってくれた男性がいた。それは自分にとって実の父以上の高みに立つ男性。
彼には他にも数人の義理の子供がいたけれど、何故か最初の養子である仙川八雲と最後の養子である長内朱実を特別可愛がってくれていた。八雲と朱実が学校でどんな馬鹿をやっても、それに一本筋が通っていれば怒鳴り散らすことも無かったし、授業参観にだって毎回のように来てくれた。
実際、彼の存在があったからこそ八雲の小学生時代は楽しかったとも言える。
そんな彼が初めて真剣な瞳で言った台詞が、これだった。朱実に敗北したことで打ちひしがれている八雲を励ますように、彼はそんな言葉を呟いた。この言葉を彼は本気で信じていた。仙川八雲なら本当に宇宙一の剣士になれると思っていた、また信じていたからこそ、彼はそんな言葉を残したのだ。
思えば、仙川八雲だった頃が自分は最も輝く世界の中で生きていたのかもしれない。
小学校で朱実と一緒に馬鹿をやってはその都度先公に怒られ、家に戻れば安藤浩志と一緒に軽く剣を合わせて汗を流し、夜は他の義兄弟達と一緒に大きな円卓を囲んで鍋料理を食べる。少なくとも、家族がいないことで辛いと思ったことは一度も無い。だって、自分にはそれ以上の存在がいる。朱実に義父さん、そして義兄弟の皆。彼らがいれば、仙川八雲が寂しさなど覚えるはずも無かった。
だがそんな生活もやがて壊れた。尤も、その前から決まっていたことだが、八雲は渡会家に引き取られることになり、朱実を含む義兄弟達とも別れることになる。義父の安藤浩志が不慮の事故で亡くなったのは、その矢先だった。
これからの生活が不安で八雲が相談していた時の出来事。ならば、八雲が罪悪感に苛まれても仕方の無いことだろう。
事実、自分が渡会家に引き取られるなんてことになったから、義父は死んだのだ。自分は仙川八雲でいなければならなかったのだ。渡会家などに行くべきではなかったのだ。そのはずなのに、今では渡会八雲なんて名前を名乗っている。
だが、だとすれば仙川八雲に戻るのか?
そんなことができるはずが無い。思い出せ、渡会八雲で無ければ手に入れられなかった数多の優しさがあるのではなかったか。
『凄いじゃない、八雲君。この調子で頑張ってね』
『……怪我には気を付けるんだぞ』
渡会の両親、渡会義雄さんと渡会浩子さん。
あの体育祭の日、別に来なくてもいいと言ったのに八雲の様子を見に来た義理の両親達は、100メートル走で一位になった八雲にそんな賞賛の言葉をくれた。その後も八雲が出場する種目を確認しては一喜一憂を繰り返していた。そんな子供のような両親の姿を、八雲は少しだけ微笑ましく思ったものだ。
長らく子供を望んで叶わなかった彼らは、八雲のことを実の子供以上に可愛がってくれた。だからこそ早く彼らに恩返しをするために何事にも真面目に取り組まねばならなかった。
故に言ってみれば、八雲の優秀さは天賦の才よりも、そんな意識の持ち様に起因するところが大きい。
『渡会君の顔が見えない場所。……ていうのは流石に冗談だけど、今みたいな顔が見たくないっていうのは本当』
そして、皆本環菜。出会った時には問答無用で襲い掛かってきた少女は、今の八雲の中で急激にその存在を大きくしつつある。彼女と自分との間には、何か思い出さなければならない記憶がある、そんな確信も存在する。
確かに精神的には理解し難い面もあるかもしれない。だが彼女は決して嫌な奴ではないし、また変な奴でもない。環菜はただ、感情の表現方法が上手くないだけだ。
毅然とした強さやハッキリした物言いは朱実に、また彼女の不器用な優しさや感情を上手く表せない稚拙さは八雲自身に似ている気がした。環菜は確かに誰に対しても手厳しいが、同時に誰に対しても優しい面を見せることがあるのだろう。少なくとも、八雲はそう感じている。だから煮え切らない八雲に対して苛立ちを露にした。だから暴走する靖史に対して敢然と戦いを挑んだ。
朱実とは全く正反対の意味で、彼女との関係は酷く歪ながらも好ましいものに思えた。環菜が八雲に対して見せた激情は明らかに彼女なりの激励だと今では理解している。朱実のように背中を叩くことはしないけれど、環菜は環菜なりに八雲を元気付けようとしていたのだ。
今なら確信を持って言える。渡会八雲に見せた皆本環菜の優しさは間違い無く本物だったのだと。
そう、だから渡会八雲になった自分もまた、仙川八雲と同じくらいの優しさを貰っている。そんな自分が渡会八雲を否定することは、その優しさを否定することだ。義理の両親や皆本環菜の思いを無駄にすることだ。そんなことができるわけが無い。こんな自分にも、優しさを与えてくれる者は少なからず存在するのだから。
そんな時、思い出した。先程、自分が世界で最も大切な少女が今にも泣きそうな顔で呟いた言葉を。
『でもね八雲、これだけは言える。……アンタは渡会八雲だよ? どんなことがあったって、どんなことをしたって、アンタは渡会八雲でいていいの。あの優しい義父さんと義母さんの息子であることを誇りに思いな。以前のアンタ、仙川八雲に戻る必要なんて無い。……それだけは忘れないで。アタシの家族はアンタ、アタシが好きなのは間違いなくアンタなんだから』
何故だろう。その言葉を思い出しただけで、気分が怖いぐらいに楽になった。
だからそれは、凄く簡単なこと。仙川の名を捨てることは、仙川八雲だった頃に受けた優しさを捨てることではない。自分はその全ての優しさを受け継ぎ、渡会八雲となった。だから渡会八雲を否定する必要なんて無い。無理に仙川八雲に戻る必要なんて無い。
だって、今の自分は渡会八雲以外の何者でもないのだから――。
そうして最後に響く言葉。
『八雲君は強いね……』
どこか心の奥底に、泣きそうな顔で呟く少女の顔が浮かんだ気がした。
瞬間、弾かれるように立ち上がった。場所は二宮市の中央公園。
だが既にその場所は狂乱の園と化していた。ダスクモンの姿は最早そこには無い。だが八雲の周囲には見たことの無いモンスターが何体も倒れている。その体には須らく剣で付けられたと思われる傷跡が残されており、何者の手による犯行かは歴然だった。
「靖史、アイツ……!」
走り出すと肩が少しだけ痛んだが、そんなことで立ち止まっている暇は無い。
しばらく走り、ちょうど幼児用のアスレチックが多数置かれている場所に辿り着いた時、八雲は再びダスクモンの姿を視認する。奴は児童遊園の中心で凶行に及んでいた。逃げ惑うモンスターの群れの中心に踊り込むと、その真紅の剣で徹底的に切り裂いていく。
そう、殺しているのだ。ダスクモンは間違い無く、そのモンスターの群れを皆殺しにする気で双剣を振るっている。事実、奴の腕が上下する度にそのトリケラトプスに似たモンスターは一体、また一体と確実に数を減らしていく。
自分が振った剣が次々と罪も無き者達の命を奪っているのだ。そのことをダスクモンは、園田靖史は自覚しているのだろうか。
胸が痛い。笑いながら数多のモンスターを切り倒していくダスクモンの姿ではなく、奴の快楽のために切り刻まれていくトリケラモンの存在が八雲の心を切り苛む。本当なら八雲自身が受けるべき剣で、彼らはダスクモンにとっては八つ当たりとか憂さ晴らしにも等しき行為で命を奪われていく。
受け入れたくない、だが受け入れねばならない。自分は守らなければならないのに、自分が助けなければならないのに、自分には誰も救えず、誰も守れない。その矛盾した現実を前にして、感覚が麻痺して心が浸食されていく。この融合世界に来て以来、自分はあまりにも死に触れすぎた。この世界で命を落とせば、その体はデータの塵と化して霧散する。つまり、遺体すら残らないのだ。残す者にも残される者にも何かを残すことの無いそれは、文字通り完全なる消滅。
再び義父の死の場面を回想する。あの時、自分は遺体に縋って泣く義兄弟達の姿を見て、初めて涙を流したのだ。初めて悲しく思えたのだ。つまり、遺体を残さないこの世界では、渡会八雲は悲しむことすらできないということではないか。
「や、やめろ……!」
それなのに、ダスクモンの剣が一閃される度に聞こえてくるのは悲鳴。目を逸らしてはいけない光景なのに、目を開けていられない。その悲鳴も、やがて止んだ。
恐る恐る目を開けると、そこに広がるのは骸の山。絶命に至らない者もいるようだが、多くの者達が数秒ごとに粒子と化して消滅していく。普段なら子供の笑い声が響くその場所は、一瞬にして恐竜達の墓地と化した。そして、その殺戮を行ったのは自分の親友であるはずの闇の闘士なのだ。
半端に死に切れない者達が必死に助けを求める声が響く。本物の恐竜なら人語を解さない故に、ただ黙って死に行くのみ。だがトリケラモンは人語を理解し、また人語を使用する。そのため、剣で切り裂かれた彼らが味わっている苦しみが、直に八雲の耳には響いてくる。
助けてと響く声。仲間を失った悲しみの下に紡がれる弱々しき声。それらの声が、かつて義父の亡骸を取り囲んで涙する義兄弟達の声と重なっていく。
「へっ、死に損ないが。……さっさとくたばりな」
既に虫の息のトリケラモンに近付き、ダスクモンは剣を振り上げる。
「――――――!」
瞬間、プツンという音を立て、意識が断裂した。
傷など無いのに、再び胸に痺れるような痛みが走り、思わず失神しそうになる。だが八雲の瞳は揺るがない。そんなものは我慢できる。だが目の前で起こされた惨劇、また無意味な殺戮を認可することだけは、たとえ我が身が朽ち果てようとも見過ごせるはずも無い――!
故に彼の心で怒りと憎しみが影を成す。八雲は龍斬丸に手を掛けることすらしない。ただ、怒りに身を任せてダスクモンに対して体当たりを仕掛ける。
「やめろ……やめろ、靖史ーーーーっ!」
「八雲か? へえ、まだ生きてやがったのかよ!」
そこでダスクモンは初めて八雲の姿に気付いた。僅かに顔を楽しげな色に染め、後方に飛んで八雲の体当たりを回避する。当然、飛び退く前に自分の剣を軽く投擲してトリケラモンにトドメを刺すことは忘れなかった。ダスクモンの剣を脇腹に突き刺されたトリケラモンは、小さくごふっと吐血してやがて動かなくなった。
後方に着地したダスクモンと八雲の距離は約10メートル。如何に八雲が身構えようと、ダスクモンには一瞬で肉薄される距離。
「……何しに来た?」
「お前こそ何をしてるんだ、靖史」
疑問を疑問で返す。それは渡会八雲が最も嫌うものであるはず。
その軽蔑と敵意に満ちた八雲の瞳こそが、ダスクモンには憎い。自らを低く置きながらも、彼が時折見せるその瞳は、下にいる者にとって何よりの蔑みとなる。超然と目の前の事象だけを見つめる、聖者のような瞳。それこそが、親友のものだと理解しながらも彼が憎んだ、渡会八雲の悪しき部分に他ならない。
「アッ……ガッ……」
「……眠れよ。少しでも安らかにな」
腹に剣を刺され、息絶えたトリケラモンの傍に跪くと、八雲はその頬を軽く撫でた。自分に触れられたことが如何ほどの救いになったのかはわからない。だがトリケラモンは少なからず穏やかな様子で目を閉じ、やがて静かに消滅していく。やはり死体は残らない。だから遺体に縋って泣く者も、立ち尽くして唇を噛み締める者も存在しない。
それを確認して、八雲は再び立ち上がる。そうした瞬間、既にその瞳から先程の躊躇や迷いは消え失せていた。
「……お前、俺や皆本と会う前や別れた後もずっと同じようなことをしてたのか」
「答える義務はねえな。俺より弱いお前に何を言われようが、俺は動じねえ。……せっかく顔見知りってことで手加減してトドメを刺さないでやったのによ、運良く拾った命を捨てに来るなんて……かはは、余程俺に負けたことが悔しかったんだな、お前は」
奴が一言喋る度に渡会八雲の中の殺意は強くなる。それは八雲が予てより永久的に封じてきたはずの悪しき感情。
「……ああ、そうか。お前は知り合いの俺にはトドメを刺さなかった。けど……自分と何の関係も無いこいつらには、平気でトドメを刺せるのか」
刹那、風も吹いていないのに八雲の髪が僅かに揺れた。
「な、なんだ……?」
ゆっくりと、だが確実に渡会八雲の周囲の温度が上昇していく。それは熱の気配ではなく炎の気配。八雲の全身を覆うのは、微量ながらも確かに存在している真紅の粒子。当人達には知る由も無かったが、それはつい先刻に長内朱実がメルキューレモンを破った際に発動させた魂の力と同種。
即ちデジソウル。朱実とは違い、その色は燃え上がるような真紅だったけれど、それは明らかに渡会八雲の魂の具現だった。
「あの赤い光……な、なんだってんだ……?」
「……ああ、確かにお前は強い。下手したらこの世界に生きる誰よりも強いのかもしれない。けどな、俺はそんな強さを絶対に認めない。俺は何かを否定することで……いや、誰かの命を奪うことでしか証明できない強さなんて、絶対に認めない」
無造作に両腕を広げる八雲。その瞬間、全身に纏う真紅の粒子が彼の両の拳に集束する。
「強さは誇るものでも示すものでもなく、ただそこに在るものだって、死ぬ瞬間まで俺にとって剣の師だった人がそう教えてくれた。……俺は確かに臆病だったかもしれないけど、その言葉だけは今まで一度として忘れたことは無い。だから今のお前がしたことだけは、絶対に許しちゃいけないんだ……!」
集束する粒子が次第に二本の剣の形を為す。龍斬丸より遥かに細身のその剣は。
「ヴォルフモン……! それはヴォルフモンの剣か……!?」
瞬間、渡会八雲の両手には光り輝く双剣が存在していた。それは八雲自身のデジソウルが具現化した一つの答え。
八雲自身、今の自分が起こした奇跡を完全に理解しているわけではない。だが漠然と理解したことだけは真実だ。これがかつて世界を救済した創造の力。渡会八雲の真の思いを受け、彼の体から溢れ出したデジソウルは光の闘士の双剣として世界に具現化した。そう、だから世界に絶望する必要など無い。自分が心から望みさえすれば、いつだって世界は自分に微笑んでくれるのだから。
だが双剣の存在はどこか覚束無い。これは恐らく、渡会八雲の属性が光でないことの証明。それでも構わない。確かに自分の属性ではない不安定な代物だが、この双剣はあの時のグロットハンマーよりも遥かに歴然とした存在感を誇示している。
「……行くぞ、靖史」
真の覚醒を見た創造の力を以って、渡会八雲はダスクモンとの決戦に挑む――!
跪いて肩で息をする朱実に歩み寄るジャンヌの顔は明るい。
メルキューレモンが死んだことでセフィロトモンは消滅した。その所為か、彼らはいつの間にか中央公園から少し離れた大通りに場所を移していた。だが朱実がたった一人でジャンヌやエアロブイドラモンと相対しているという状況は変わらない。
「本当に馬鹿ね、アンタって。……素直に逃げとけば死なずに済んだかもしれないのに」
ジャンヌは跪く朱実の前に立ち、どこまでも彼女を挑発する。
尤も、その挑発は最早朱実に抵抗する力が無いことをわかっているからこその挑発。実際、ジャンヌは彼女のことを愚弄していた。本来なら自分が倒すべきだったあのメルキューレモンを、同じく倒すべき相手である長内朱実は自らの手で打ち倒したのだ。そんな矛盾した行為を仁義とか武人とか、他人にとっては意味不明な言葉で正当化している。
事実、ジャンヌも理解できない。だがそれが八雲だったら理解できるかもしれないと考えると正直、ムカついた。
「尤も、馬鹿なのは鋼の闘士の方も同じかもね。義理とはいえ、自分の娘に父殺しの罪を負わせるんだもん。……やっぱり武人とか名乗る者って、そんな頭の固い奴ばっかりなのかしら」
そんなジャンヌの安藤浩志に対する嘲りは。
「……痴れ者だね。それはアンタにとっての大切な者だって同じだってのに」
同じく、朱実のジャンヌ自身に対する嘲りで打ち消された。
瞬間、今まで挑発的ながらも明るかったジャンヌの顔が、一瞬にして激情に染まっていく。天真爛漫そうな幼女の面影は、既に今の彼女の表情からは感じられない。憎悪、憤怒、嫉妬。そんな感情だけが今の彼女を支配している。それは世界の光を司る存在としては、明らかに間違った表情でもあった。
「八雲のこと……? 八雲があの安藤浩志と同じだって言いたいのよね、アンタは……!?」
「……言うまでも無いことっしょ。八雲はアタシよりも親父殿に似てるんだから」
「アンタの、アンタの所為でしょうが! アンタみたいな女がいたから、八雲はあんな風になっちゃうのよ! アンタがいなければ、アンタさえいなければ八雲があんな醜い姿になる必要は無かったのよ! そう、アンタなんて死ねばいい! 消えちゃえばいいの!」
自分より大柄な女の胸倉を掴んで絶叫する幼女の姿は、朱実には単なる狂気の象徴。何の恐怖も覚えない。
「……アンタは、八雲が嫌いなの?」
「好きだからこそ辛いのよ! ……もういい。アンタの顔なんて見たくない。エアロブイドラモン、さっさと殺しなさい!」
ジャンヌの叫びを受け、背後にいた蒼竜がおずおずと前に出る。
その顔には心底申し訳が無さそうな表情が浮かんでいる。要するに、それがこのエアロブイドラモンとかいうモンスターのお人好し加減を表しているのかもしれない。だが殺されようとしている朱実には何の関係も無いことである。
そうだとしても、長内朱実は最後まで敵である存在を睨み付けることはやめなかった。
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