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第39話:せめて憎悪と共に
踏み込んだ瞬間、視界が闇に包まれた。
「闇のエリア……か」
直感的にそう感じる。だが恐怖は無い。今は何よりも、体が猛っている。
一寸先は闇という言葉がこれ以上に似合う場所は無いだろうと思えるこの空間。その中に一人の少年が立っている。それを見紛うはずも無い。彼は自分にとって親友だったはずの男だ。いや、少なくとも自分は今でも彼のことを親友だと思っている。
確かに今の彼は敵だ。だが自分にとっての彼は、救うべき親友でもある。
「靖史か。……やっぱりここにいたんだな」
「……そりゃ俺は闇の闘士だからな。それに見合う場所にいなきゃ駄目だろうがよ」
目が慣れてきたのか、先程まで殆ど見えなかった靖史の顔がハッキリと見える。その顔にはどこか自虐的な笑みがある。少なくとも渡会八雲の知る園田靖史なら決して見せない顔だったろう。八雲にとっての靖史とはいつも底抜けに明るくて、どこか自分を呆れさせるぐらいに吹っ飛んでいる奴でなければ嘘なのだ。
「靖史、何があった?」
「詮索はやめろ。……そういうお前の顔が、俺は一番嫌いだ」
その瞳に殺意が宿る。だが先日は自分の戦意を喪失させた親友の瞳さえ、今の八雲には何の影響も齎さない。一度でもいいから親友と本気で戦ってみろと、あの炎の闘士は言っていた。奴の真意はわからないが、確かにその言葉は正しい。今まで渡会八雲という人間は、朱実以外の友人と呼べる存在と喧嘩をしたことは一度として無かった。互いの意見が分かれるようなことがあれば、その時は八雲が相手に合わせるからだ。八雲にとって友人とは立てるべき存在であり、故にそのスタンスを崩そうと思ったことは無い。
だが今は違う。自分が本当に靖史と理解し合いたいと思うのであれば、彼の痛みを全て受け止めなければ嘘なのだろう。
「皆本に会ったか?」
「会った。それで偉そうに俺に説教しやがった。俺の力は間違ってるって、俺がお前に勝ったのは何かの間違いだってな」
「アイツ……そんなことを」
「なあ、結局あの子もお前が好きなんじゃねえの? 好きな男のためじゃなきゃ、本気で戦おうなんて思わないだろ、普通の女の子はさ」
あの皆本環菜を普通の女の子と定義するのには激しく抵抗があるが、どこかで共感できる自分が不思議だった。
だが靖史の言う通り、彼女が自分のことを好きだとしたら――。いや、そんなことは考えられない。環菜はきっと誰に対してもあんな感じなのだ。下手に彼女のことを考えると良からぬ方に思考を持っていかれそうなので、そう結論付けることにした。
しかし思わず八雲はそこで安心したのだ。靖史の言葉からして環菜の無事を確認できたことが八雲にしてみれば何よりも嬉しかった。どうやら本当に靖史に挑んだらしい彼女の行動に呆れながらも、それでも苦笑できたのは今も環菜が無事でいるという、その事実があればこそだろう。そう、認めたくないことではあるが、今の渡会八雲にとって皆本環菜もまた大切な存在であることは間違い無い。
そんな八雲を見て、靖史は笑った。まるで悪鬼の如き醜悪な笑顔で。
「幸せ者だよな、お前は。中身が暴力的でも外見的には結構綺麗な女が彼女にいる癖に、環菜ちゃんにも好かれるってわけだ。ああ、羨ましくて嫌になるぜ、畜生」
「……朱実のことか。でもアイツは別に彼女ってわけじゃ――」
「ああ、お前はそう思ってるかもな。けど周りは何て言うと思う? あんな馬鹿みたいな女、普通なら誰も近付きたがらねえだろうよ。お前も相当な物好きだよなぁ、あんな女と平気な顔して……いや、むしろ楽しそうに付き合えてんだからよ」
そいつは笑っていた。八雲が世界で最も尊敬し、最も愛し、最も大切に思う存在を嘲笑っていた。
「――――――!」
ソレガ、何ヨリモ、憎ラシイ。
殺シテモ、飽キ足ラヌホド、憎ラシイ――!!!
「!」
瞬間、八雲は無意識の内に靖史の頬を本気で殴り飛ばしていた。
殆ど一息の呼吸で接近し、流れるような動作での右フック。八雲は今、生まれて初めて友人に暴力を振るったのだ。靖史は少なくとも数メートルは吹き飛んでいる。だが八雲の本気の拳を受けながらも、その顔から笑みは消えなかった。
それで気付く。彼は自分を挑発しただけだということに。
「いいパンチだな、八雲。だが俺には通じない。十闘士の一人、闇のダスクモンにはな」
「あっ……お、俺……」
崩れていく。親友の顔面を殴った。それだけで、先程の決意が嘘のように崩れていく。
殴られてもいないのに、殴られたような気分。自分が親友の顔を殴ったことが、八雲には何よりも痛かった。ようやく気付いた。中学入学以来、自分が喧嘩を封印してきたのは、何も朱実と別れたことが理由ではない。ただ、自分は親しき者を傷付けたくなかっただけだということに。
炎の闘士は甘い奴だと笑うだろう。だが八雲にはできない。たとえ闇の闘士だろうと、親友の靖史と本気で戦うことなんて、できるはずがない。
「……なんだよ、もう戦意喪失かよ? まあ、俺は容赦なんてしないけどな。お前を倒せばこの世界は救われるんだ。この世界に生きる連中が無意味に死ぬことも無くなる。お前と戦うことに、これ以上の理由は無いだろ?」
「世界を救うって、お前……何を言ってるんだ?」
「まっ、これも環菜ちゃんの受け売りなんだけどな。……お前のことを無駄に買ってる、あの紛い物の方の環菜ちゃんじゃねえぞ? 本物の、俺を誰よりも理解してくれてる環菜ちゃんのだからな」
飽く迄も笑う靖史は、自分の目が血走っていることに気付いているのだろうか?
そもそも、靖史の語る言葉の節々には、環菜に浴びせられた言葉の影響は何ら存在しない。この場に環菜がいたら、例の如く激昂していただろう。何が世界を救うというのか、何が世界に生きる連中が無意味に死ぬことも無くなるというのか。この世界に生きる彼らを無意味に死へと追い遣ってきたのは、誰よりも何よりも闇の闘士である園田靖史自身だというのに。
それに気付かない八雲もまた甘い。自分で親友と認めたというのに、今この場で靖史を断罪することも糾弾することもできないのだから。
「……本物ってどういうことだよ? 皆本に本物も偽者もあるわけないだろ……!」
「お前が知る必要はねえし、知る権利もねえよ。だけどな、これだけは教えてやる。本物の環菜ちゃんはお前やあの紛い物みたいに俺のことを否定しない。俺のことを馬鹿にしない。俺にとって最大の理解者さ。お前もな、偉そうに俺を否定したりしなけりゃ倒されずに済んだかもしれないのに」
「お前、本気でそう思ってるのか……?」
その縋るような八雲の問いにも首肯。
靖史の姿は八雲をひたすら絶望させる。必ず救ってみせると息巻いて訪れた場所だというのに、次第に自分の心が萎えていくのを八雲は感じている。お前には救えない、もうお前には取り返しの付かない場所まで自分は来てしまったのだと、目の前の親友の姿は言葉少なに語り掛けてくる。
「今度は本気で戦ってくれよな。……行くぜ」
周囲に絶望という名の闇が充満し、闇の闘士が姿を現した。
闇の中を駆け抜けると、そこには小さな湖が広がっていた。
青々と生い茂る森の中に広がる湖は、どこか風流な感じがあり、彼の故郷にも似た印象である。だがこの場所は間違い無く鋼の闘士が支配するエリアの一つである。それを考えればミスティモンとて気を緩めることはできない。
「水のエリア……ですか。八雲君と逸れてしまうのは想定外でしたが、さて……」
彼の聴覚は、既に遠くから響いてくる剣戟の音を捉えている。どうやら何者かが戦っているらしい。草の根を掻き分けるようにして先に進む。進んでみると、やはり鋼の闘士の内部という所為か、当然のようにこんな豊かな自然の場所でもモンスターが一体として存在しない。
既に荒廃した異世界ではこのような平和な光景が見られることは極めて稀だ。十闘士の内部でこんな光景を見るということ自体、皮肉といえば皮肉であった。
「我々の世界の終焉が近付いているということでしょうかね……?」
そんなことを思う。現在行われている【反転】とは、本来は人間界を乗っ取るために七大魔王の中の一体が考案した侵略方法だと聞く。その時点では確かな格式が存在しなかったため、人間界の生物をダークエリアに移送することは叶わず、結果的に魔王とその部下を人間界に移送するだけに留まった。それが既に何万年、何億年も前の話だ。
だが今の【反転】には何の意味も無い。上記のことや先程のグロットモンの言葉を考慮すれば、今回の【反転】に間違い無く七大魔王の一角に数えられるルーチェモンが絡んでいることは間違いないだろう。だが彼もまた人間界の乗っ取りを画策しているのかは知らない。しかし既に現在のモンスター達は覇気に著しく欠けるのだ。それは種としての末期を迎えていると言ってもいい。如何なるカリスマを持つ者が彼らを鼓舞したとて、今の世界では誰も付いてこないだろう。
そう、既にあの世界は滅びに向かっている。かつて知性に溢れた者達の手で各地に作られた町々も、その殆どが荒廃してしまった。誰にもその理由はわからない。モンスター自身も、また彼らの技術も、何一つとして一向に進歩しなかったのである。
メガログラウモンはあの世界を弱肉強食と語った。だがミスティモンは違うと思う。既にあの世界には弱肉強食の法則など存在しない。あるのはただ、覇気に欠けるモンスター達が淡々と生き、育ち、その果てに死んでいく寂しい連鎖だけだ。誰もがその空虚さを感じ取っているのか、本来彼らが持ち得る闘争本能まで薄れているように感じる。
それを思えばウィザーモン、つまり現在のミスティモンのように、互いの命を食い合う行為に嫌悪感すら抱く者が現れるのも道理だろう。
何年前になるのか、何者かの襲撃を受けて始まりの町は滅ぼされた。その際、始まりの町の守護者を務めていた人間の女性は命を落としてしまった(風の噂では彼女こそ伝説の風の闘士だったとも聞く)。それ以来、世界に真の平和が保たれる道は永久に失われた。そう、平和に誕生する者がいなければ、どうして平和な生活を送れる者がいるのだろう。それを鑑みれば、どうして自らの手で種を滅亡に導くような行為を行えるだろうか。ミスティモンが戦いを嫌悪する理由は、要するにそこに収束する。
だが人間達との出会いは、彼の中で何かを変えつつあった。戦いの中でしか何かを為し得ない、また戦いでしか誰かを救えない渡会八雲や長内朱実の在り方は、彼が今まで忘れていた闘争本能を思い出させてくれるような気がするのだ。
「こんな時に何を考えてるんですかね、私は」
おかしな話だ。知識の探求者であり、それ以上を望まなかった自分が、人間に影響されている。今もまた人間のために動いている。それが不思議であり、同時に心地良くもある。
しばらく走ると、木々の開けた場所に出た。ちょうど、密林の中に大きな広場ができているようだった。
「……ナイトモン?」
広場の中心に立つのは、長内朱実の契約者。その姿を認めて駆け寄ろうとする――が。
「くっ、来るな!」
「えっ……?」
咄嗟に足を止めた瞬間、彼の背後から無数の物体が飛来する。ミスティモンがそれを何らかの札だと認識した時には、既にそれが一斉にナイトモンの鎧に張り付いていた。その札には呪いでも篭められているというのか、薄紙は妖しく発光している。
密林の木々の間から響く不気味な声。
「ほう、あのオロチモンすら退けましたか。……流石ですねぇ」
「だ、誰です!?」
「しかし雑魚に雑魚が加勢したところで同じこと。あなた達の相手は私一人で十分です。二人一緒に地獄に叩き込んで差し上げましょう。……発火!」
そんなおどけるような声が響いた瞬間、ナイトモンの鎧に貼り付けられた札が一瞬にして大爆発を起こす。
「ぐわぁぁぁぁ!?」
「起爆札……! タオモン……いや、ドウモンですか!?」
鎧の前面を損傷させながら倒れ伏すナイトモンを庇いつつ、ミスティモンは周囲を見渡す。見ればナイトモンは今までも散々あの攻撃を受け続けてきたのか、鎧の所々に亀裂が入っている状態。ミスティモンが訪れた際に立っていたこと自体が不思議なほどのダメージを負っているようだった。
だがナイトモンを死なせるわけにはいかない。彼が自分の良き友人だということもあるし、何よりも彼は長内朱実の契約者。彼が消滅した時点で朱実はこの世界で再び異物となり、生存が困難になる。
「知識の探求者の二つ名は伊達ではありませんねぇ。……それだけで気付きましたか」
「くっ、姿を見せろ!」
「これは異なことを。私は影に潜み、影に生きる者。面と向かって戦っては、お二方の相手にすらならないでしょうよ。……如何に卑怯と罵られようと、これが私の戦い方なのです。誰にも文句を言われる筋合いはございませんねぇ」
「こ、この狐野郎……ハッ!?」
刹那、自分の口から漏れた醜い罵倒にミスティモンは驚く。これではまるで、自分の契約者のようではないか。
「狐野郎……今、狐野郎と言いましたねぇ!?」
その言葉にドウモンは憤慨したらしい。響く声には明らかに怒りが混じっている。
咄嗟に神経を研ぎ澄ませたミスティモンの耳には、ドウモンが木々の間を飛び回る僅かな音が届く。流石の奴とて罵倒を前にして精神が昂ぶっているのか、自慢の隠密行動に徹し切れていない。結果的に口を滑らせたことがミスティモンにとっては優位に働いた。
傷付いた体を庇いながらも立ち上がるナイトモンに一つだけ依頼する。
「今から私が炎を放ちます。その場所に剣を投げて頂けますか?」
「……何か思惑があるらしいな。いいだろう、君に賭けてみよう」
自分の魔力を周囲に張り巡らせる。それは言わば、魔力の網。その網を以ってドウモンの動きの感知を試みる。そうすれば、奴の動きが如何に神速だろうと関係無い。これは八雲にもできないこと。八雲とミスティモンが互いに互いの不足分を補う形で編み出した術である。
だからミスティモンは知っている。白兵戦は自分の領分ではないことを。
木々の間から時折放たれる暗器を剣で冷静に弾く。そもそも、暗器程度ではまともなダメージにもならないだろう。逆に自分の位置を知らせる結果になるだろうことを、奴は気付いていない。ドウモンが攻撃してくればしてくるほど、奴の動きが手に取るように見えてくる。
瞬間、奴の動きが僅かに止まる。手持ちの暗器が尽きたのか、その長い袖から巨大な筆のような物体を取り出した様子だ。
「……しぶといですねぇ。ですが、これで終わりです。鬼門遁甲!」
ドウモンは手馴れた仕草で空中に何らかの文字を記していく。奴の必殺技、鬼門遁甲。空中に描いた文字で結界を発生させ、その中に標的を封じ込める奥義。だが弱点がある。それは空中に文字を描く間は全くの無防備であるということ。
それを補うため、奴は奇襲に徹しているのだろう。だが既に位置を知られているとなれば、話は全く別物だ。
「そこです! ブラストファイア!」
「むっ……そこか!」
ミスティモンが炎を放った瞬間、それに合わせる形でナイトモンも自身の大剣を力の限り投擲する。それは寸分の狂いも無くドウモンの立つ場所に吸い込まれていき、やがて――。
「ぎっ、ぎええええええええーーーーっ!?」
この世のものとは思えない醜い悲鳴が響いた。
セフィロトモンの外。環菜とブラックラピッドモンは、相変わらず手持ち無沙汰の状態。
先程から定期的にブラックラピッドモンには周囲の偵察をしてもらっているが、大した収穫は無い。わかったことは土の闘士、ギガスモンがセフィロトモンの中から放り出され、無様に逃げ出していたということだけだ。
「……環菜、心配してる?」
「誰のことをよ」
「それを僕に聞くかねぇ……」
おどけた様子で言う契約者の姿が無性にムカつく。
だが実際、環菜は心配していた。それは誰か一人に対してではなく、八雲のことであり靖史のことであり悔しいながらも長内朱実のことでもあった。誰も死なず、誰も傷付かないまま事が終わればどんなに幸せか。けれど、聡明な彼女は決してそんな形で今回の出来事が終わることは無いだろうということを知っている。
そして、それを防げなかったのは自分。もっと強く靖史を止めておけば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。そんな風に思い、何度も後悔する。
「……ねえ、私にはもっとできることがあったんじゃない?」
「どうかなぁ。少なくとも僕には、ダスクモンを倒すことだけで十分だったと思うけどねぇ」
「確かにね。……でも彼を受け入れてあげることも、一つの答えだったのかもしれない」
そんな気がしてならなかった。いや、何よりも以前の自分だったら彼のことを問答無用に認めていたかもしれない。今の考えになったのは、要するに渡会八雲と再会したからだ。そう思うと、彼の存在は環菜の中で次第に大きくなっていることを認めざるを得まい。あの少年の堅いけど脆い、強いけど弱い瞳を見ていると、不思議と応援したくなってしまう。
それは園田靖史に抱く母性本能とは別種。渡会八雲に皆本環菜が抱くのは、紛れも無い好意なのだろう。
「それでも環菜は、アイツが好きじゃないっていうのかなぁ?」
「……しつこいわね、何度も言わせないで。……私は彼のことなんて……」
言葉を止める。ふと脳裏に懐かしい記憶が浮かんだ気がしたから。
きっと彼は覚えていない。環菜自身も今まで思い出すことは一度としてなかった。だからただそれだけ、それは夕焼けに包まれた街の中で一人の少年と一人の少女が邂逅した、ただそれだけの遠い記憶。
「……あら?」
むず痒い記憶に思いを馳せていたその時、環菜は何かに気付いた。
視線の先、上空に浮かぶセフィロトモンへと二つの影が向かっている。正直、コンタクトを入れた状態でも視力の高いとは言えない環菜には殆ど見えないが、どうやら二つの影が人型と竜型であることは認識できた。咄嗟に隣に立つブラックラピッドモンを見ると、彼もまた目を細めてその二つの影を見ている。
やがて彼らはアルダモンと同じように、強引にバリアを突き破ってセフィロトモンの内部に侵入していく。とはいえ、竜型の方にはバリアを破る力は無いらしく、人型が突き破ったバリアに飛び込む形であったが。
「エアロブイドラモン……それと光の闘士、ベオウルフモンかぁ」
光の闘士。何気なくブラックラピッドモンが呟いたその名前を聞いて、環菜は何故か嫌な予感がした。
木々の間から這い出してきたドウモンは、既に瀕死の状態だった。
全身に纏う白装束はミスティモンが放った炎で焼かれており、急所を僅かに外れる形でナイトモンの大剣が突き刺さっている。自身が先程取り出した巨大な筆状の武器を杖代わりにしながらも、その足取りはかなり覚束無い。実際、その傷を負わせたナイトモンとミスティモンにさえ、惨めとしか言い様が無い有様である。
「よくも、よくもこの私をここまで……! 許しません、許しませんよぉぉぉぉっ!」
「……その傷でどう戦うというのだ。もう決着は付いた。大人しく負けを認めることだ」
「黙りなさい! 私の辞書に敗北の二文字は無いのです!」
その傷を庇うこと無く、ドウモンは筆を振り上げて攻撃を再開しようとする――が。
次の瞬間、ドスッという鈍い音が周囲に響き渡る。ナイトモンも、またドウモンでさえも何が起きたのかわからず、一瞬だけ茫然自失となる。だがミスティモンだけは知っていた。これは以前起きた際と同じだから。自分達と認め合った老獪は、今と同じような状況で命を落としたのだから。
ミスティモンの視線の先、ドウモンの脇腹から、紫紺の血に塗れた異形の手が生えていた。
「な、何ですってぇ……?」
口の端から血を流し、ドウモンがその場に跪く。その体をゴミのように蹴り倒した異形は、その衝撃で傍に落ちたナイトモンの大剣を軽く拾い上げると、相変わらず呆然とするしかないナイトモンに軽く投げて寄越した。
野獣の口を不気味に歪め、その異形は笑う。そこでドウモンは初めてその存在を視認する。
「きっ、貴様……闇の、闇の契約……者」
「……そういうこった。さっさと失せやがれ、クズが」
「何故、私を――」
その問いに答える必要など無いとばかりに闇の契約者、メフィスモンは迷い無く彼の者の急所にその爪を振り下ろし、一撃でドウモンの体を四散させる。鋼の闘士の契約者、ドウモンは味方であるはずのメフィスモンの手に掛かり、呆気無く消滅した。
そう、死んだのだ。彼は間違いなくメフィスモンの手で殺されたのだ。
四散したデータの塵は、全てメフィスモンに吸収される。それは所謂ロードという、彼らならではの食事の形。かつて、彼らの世界がまだ活気に満ちていた頃には、誰もが戦闘とロードを繰り返して高みを目指していたと聞く。その意味では、このメフィスモンは古き良き時代のモンスターの在り方を最も体現している存在だと言えるのかもしれない。
「よぉ、久し振りだなミスティモン。それから、そっちの新顔は……ああ、ナイトモンかよ」
「相変わらず……くく、あなたは本当に相変わらずだ……」
何もおかしいことなど無いのに、つい笑ってしまった。それを背後に控えるナイトモンは怪訝そうな目で見遣ってくる。
自分らしくないとは思う。だがこの時、間違い無くミスティモンは本気で怒りを覚えていた。言うまでも無いことだが怒りの対象はメフィスモンしか有り得ない。ドウモンを殺されたからではない。殺して尚も笑っていられるその神経、またその在り方が信じられなかっただけのこと。
この野獣のようなモンスターを許せない。たとえ彼の在り方がモンスターとして最も正しい在り方だとしても、笑いながら命を奪っていくような彼の存在を許すわけにはいかない。ジュレイモンが死んだ時は仲間ということで我慢した。園田靖史がダスクモンとしての姿を初めて現した時は契約者の手前、率先して戦うことはしなかった。そして迎えた三度目の邂逅。人間界には仏の顔も三度までという格言があると聞く。そう、今の自分の心持ちはまさにその言葉で表すに相応しい。
そんなミスティモンの様子を感じ取り、メフィスモンもまた笑う。
「へえ、テメエから仕掛けてくるってのかよ? ぎゃはははは、そいつは面白ぇ! ご大層な戦士様の実力がどれほどのもんか、俺が試してやろうじゃねぇの!? ぎゃはははは! ぎゃはははははははははははは!」
「……下衆が。我が怒り、その身を焦がしても収まらぬと知れ」
耐え切れない憎悪と憤怒からか、何か違う自分が表出しようとしている。それをミスティモンは自分の力で抑えることができないし、抑えようともしない。
瞬間、彼の脳裏にはあるモンスターの名前が浮かんだ。メギドラモン。四大竜の一角にも数えられる伝説級の竜であり、また最も邪悪な存在とも呼ばれるモンスター。彼の者は理性を失い、怒れる暴君としてかつての世界を席巻したと聞く。その怒りもまた、今の自分と同じような理由に端を発しているのではないかと思えたのだ。
それは存在の否定。戦いを嫌悪する自分自身を否定するメフィスモンの姿に、ミスティモンは心の底から憎悪と憤怒を抱いていた。
「言ってくれるじゃんか! そんな偉そうな口利いたんだ、精々俺を楽しませてくれよなぁ! 俺もテメエと同じだ、最初からテメエが気に食わなかったのさ! ご高説を並べるばかりで、テメエには何も実践が備わってねえんだよ! それなりの強さを持つ癖に、いざ戦いの時には腑抜けた表情しか見せやがらねえ! 気に食わねえ! ああ、気に食わねえ、てめえはよぉ!」
「……なるほど? 私は貴公の在り様を認められず、貴公もまた私を否定するということか。ならば都合が良い。我らの条件は同じ……ということだな?」
「ああ、そうだなぁ。……だがよ、一つだけ違うことがあるぜぇ……?」
「むっ……?」
周囲に渦巻く邪気に、ミスティモンは顔を顰める。
言い表し様の無い悪寒を感じ、また闇そのものとも思える邪気が目の前のメフィスモンを呑み込み、次第に肥大化させていく。周囲から溢れ出した闇が屈強な手足を形作り、巨大化して胴体と化すメフィスモン自身と融合することで、その存在は完成する。メフィスモンの異形さと邪悪さを色濃く残し、更なる闇の力を内包した形で。
その存在は30メートルを軽く超える威容。先程のオロチモンより二回りは確実に大きいはずだ。
「ば、馬鹿な。究極体……だと?」
「……そのようだ。だがナイトモン、貴公の手出しは無用だ。奴との決着は、私一人で付けるからな」
だがそれを前にしても、ミスティモンは揺るがない。吹っ切れたと言ってもいい。
戦闘種族としての存在の意義、存在の理由の全てを以って奴と対峙すると決めたのだ。ならば、相手が完全体だろうが究極体だろうがそんなことは一切関係無い。ただ、自分は全力で奴と戦い、完膚無きまでに叩き潰した上で、その存在を消し去るのみ。ならば、戦いを嫌悪するミスティモンはこの場所に必要無い。要るのはただ、戦闘種族としてのミスティモンのみ。
冷静に眼前の存在を観察する。メフィスモンとは打って変わり、その存在は四足歩行。紫紺の体毛に覆われた下半身の前部には巨大な口が開いており、それがブラックホールを形成している。また下半身の上にケンタウルスを思わせる形で存在する上半身はメフィスモンの面影を僅かに残しながらも、更なる異形。数十メートル上空にありながらも、奴を倒すとなればあの上半身を攻撃する以外には有り得ない。
「ひゃーっはっはっは! 俺は究極体に進化したんだ! どんなに粋がろうともな、テメエみてえな蛆虫はもう終わりだよ! ひゃっはっはっはっは!」
「私が蛆虫かどうか見せてやる。……行くぞ、ガルフモン」
全身に魔力を纏わせ、ミスティモンは巨大な闇に突撃する――!
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第40話:絶対者~Dynast~
ミスティモンが如何に勇猛果敢に突撃しようとも、それは蟻が恐竜に挑むようなもの。
「へっ、雑魚が!」
ガルフモンが両腕を一振りすると、上空に無数の弾丸が出現する。それらは全てが闇のエネルギーの圧縮弾。ガルフモン自身が操る邪悪な力の具現であるその弾丸は、一つ一つが必殺の威力。それが矢のように放たれ、ミスティモンを襲う。
だが怯まない。両手で保持した剣に炎を纏わせて弾丸を弾き返す。また滞空させた水晶玉から魔力を放つことで微弱ながらも防御壁を形成する。
「この程度の攻撃、物の数ではない……!」
「……面白ぇ! 飽く迄も肉弾戦で勝負ってことだな!」
その笑いは戦闘狂であるガルフモンならではの響き。
それを前にしてミスティモンの心は苛立っている。苛立ちが限度を超えて、逆に穏やかな心持ちになっているような状態だ。彼は間違い無くガルフモンのことを許せないと思っていたけれど、同時に彼の存在など微塵も気に留めていなかった。
その二つの感情は矛盾。それがミスティモンの心を何よりも落ち着かせた。
「貴公は罪も無き者達の命を数多く奪った。……彼らに謂れ無き殺戮を受ける理由など無かったというのに……!」
「へへっ、俺達と同じ世界に生きてるとは思えねえ発言だな、ミスティモンよぉ。俺達は戦闘種族だ、殺して殺して殺し合うことに意味を見出す者だろうがよ! そんなこと考えてる時点で、テメエは既に負け犬に成り下がってやがるんだぜ!」
山のような体でミスティモンを踏み潰しに掛かるガルフモン。
だがミスティモンはマントを翻して攻撃を回避する。そのままガルフモンの腹の下に潜り込み、手にした炎の剣を一閃させる。だが全く効かない。自身の最大の魔力を篭めた一撃だというのに、奴の下腹に傷を付けることすら叶わない。素早く離脱しようとした瞬間、ガルフモンの後ろ足の一撃を受けて跳ね飛ばされる。
それが完全体と究極体の差である。如何に猛ろうとも埋められぬ、絶対的な差がそこには存在する。
「……そんな攻撃、痒いぐらいだぜ。これでわかったろ? 完全体如きで俺に勝てるわけがねえんだよ!」
「くっ……! そんなことはない! 我が契約者、渡会八雲は人間の身でありながらも十闘士に果敢に挑み、親友を救わんと戦っている。彼なら必ずやダスクモンを打ち倒し、園田靖史を救ってみせると、私は信じている! だから私とて、負けるわけにはいかない!」
「信じるのは勝手だが……あの渡会八雲が今まで生き残れたのは偶然さ。相手が弱かったってこともあるだろうがな。だが闇の闘士だけは違うぜ。きっと今頃、あの不甲斐無い野郎は靖史に負けて死んでやがるんじゃねえの?」
その声にあったのは予想でも希望でもなく、ただミスティモンに対する挑発と愚弄のみ。
「貴様――!」
それにミスティモンは我を忘れた。マントを翻し、何も考えずに無謀に突撃する。無論、それがガルフモンの狙いだったということにも気付かずに。
「……だからテメエは甘ちゃんなのさ、ミスティモンよぉ!」
次の瞬間、小さなビルほどの大きさに集束された巨大な球体、ガルフモンが作り出した闇のエネルギーの気弾がミスティモンの体を大地ごと押し潰していた。
抉れていく。全身が闇のエネルギーを前にして、抉れるように消えていく。
「くっ……こ、ここまでなのか……私には……!」
既にガルフモンに対する怒りも憎しみも無い。今のミスティモンにあるのは、ただ無力な自分に対する苛立ちだけだ。
かつてナイトモンに語った言葉を思い出す。自分はこの世界で誰より渡会八雲のことを買っていたはずだ。彼なら歴史に名を残した英雄のように、この世界に何かを為してくれるに違いないと、信じて疑わなかったのだ。けれど、自分は違う。自分は一介のモンスターでしかなく、彼と共に在り、共に戦い続けるパートナーではない。渡会八雲に見合うパートナーがいるとすれば、それは自分などより遥かに優れたモンスターでなければならないのだから。
だから強くなりたかった。けれど、渡会八雲のように誰も傷付けずに戦いたかった。
「だが……所詮は、夢物語。叶うことなど……永遠に……」
不意に本音が口から漏れた。その瞬間、ミスティモンは理解する。
なるほど、道理で自分は渡会八雲に見合わないわけだ。ナイトモンには散々語っておきながら、結局のところ自分は彼の夢に共感などしていなかった。ただ、そんな突拍子も無い夢を抱く少年のことが面白そうだったから行動を共にしていただけ。そんなことなら、パートナーになどなれなかったのは当然のことだろう。誰よりも彼を信じなければならない自分が、彼の夢を誰よりも嘲笑っていたのだから。
それなら、何故その夢を自分は嘲笑っていたのか。
その答えなら簡単だ。ミスティモンは弱い。弱いからこそ、誰かを救うことができない。誰かを救うことができないからこそ、渡会八雲の夢を信じられない。彼の夢を信じられないからこそ、それを夢物語として嘲笑う。深く考えるまでも無い、何て単純な連鎖。
「ならば……私のすべきことは……ただ一つ!」
その連鎖を考えれば、今の自分が望むことを理解するなど簡単なことだった。
自分ハ――彼ノ夢ヲ信ジラレルダケノ力ガ――誰カヲ救エルダケノ力ガ――誰ヨリモ強イ力ガ――欲シイ――!
闇の気弾は大地を抉り、その下敷きとなったミスティモンを押し潰しただろう。
「み、ミスティモン!?」
その光景は巻き添えを避けるべく、戦場から距離を取っていたナイトモンにも見えた。
その瞬間、彼の心に宿る感情は後悔だった。自分がドウモンを相手にした際に不覚にも手傷を負ったからこそ、ミスティモンに単独で戦うことを強いてしまった。そして今、渡会八雲の契約者である彼はガルフモンの前に敗れて――。
だが次の瞬間だった。ミスティモンを押し潰すように停止していた巨大な気弾が掻き消えたのだ。
「あん……?」
「全てのエネルギーが……吸収された……?」
「吸収だと!? おっ、俺の技をか!?」
そう、それは消滅ではなく吸収だ。弾かれたわけでも、掻き消されたわけでもない。ミスティモンを押し潰さんとして大地を抉る闇の気弾は、その場に現れた存在の手に全て吸収されたのだ。それを理解できればこそ、ガルフモンとナイトモンには驚愕することしかできない。ガルフモンの放った気弾とは純粋な闇のエネルギー。脆弱な存在なら、触れただけでも消滅してしまうだろう暗黒の念。
それを吸収した。つい数秒前までミスティモンであったはずの者が。
「……貴公の闇の念、存分に楽しませてもらった。その力、確かに驚嘆に値するな」
「なっ、なにぃ!?」
「だが残念ながら、その程度の闇では私は倒せん。……私を闇で融かしたければ、この三倍は必要だろうな?」
その存在は冷淡な口調でそんな言葉を告げ、ガルフモンの前に滞空している。
見れば、その存在の両腕は周囲に闇を纏っている。それは紛れも無く、ガルフモンが放った闇の気弾の成れの果て。彼が拳を握った瞬間、その闇は敢え無く霧散する。ガルフモン自身、絶大な自信を抱いて放った自らの闇の力を、その存在は容易く拳を握る行為のみで完全に無効化したのだ。
その衝撃を前に、思わず顔を上げたガルフモンの視界に映ったのは、彼の者が纏う白亜の竜鎧、また力強い四肢。あのミスティモンのような清爽な外観は既に無く、マントもまた失われている。故にその者には高貴さも美しさも無く、ただ勇猛さしか存在せぬ。それがその者の絶対的なアイデンティティ。力こそが正義と信じる聖騎士が、相容れぬ者との決戦を前にして降臨する。
「さて……前座はこれにて終わりだ。我が力、とくと見よガルフモン……!」
瞬間、その騎士の両肩から広がるのは飛竜を思わせる巨大な双翼。
それ故に、彼は騎士でありながらも竜だった。
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