第31話:見たくない顔
渡会八雲の調子がおかしいことには気付いていた。
その外見の無表情さ、また無感動さから誤解されることも多いのだが、皆本環菜という少女は他人の感情の機微に極めて敏感な面を持つ。この性格に比して友人が多いのはそれ故だ。実際、彼女は自分の本質を理解してくれる者を見極めるだけの目を持っており、そんな者でなければ決して近付くことはしないのだから。
その意味では仙川八雲や長内朱実を拒絶してきたことは彼女らしくないとも言えよう。環菜が彼らを拒絶したのは彼らの中身を垣間見たからではない。毎日のように問題事を起こす彼らのことが気に食わなかったから、ただそれだけなのだから。だから融合世界に取り残され、渡会の姓を名乗る仙川八雲と邂逅した際に環菜の胸に宿ったのは歓喜だった。ここでなら条件は同じ、この世界でなら彼の思い上がりを叩きのめせる。そう感じたが故の襲撃だったのだ。
だが結果として環菜は敗れ去り、かつて同じ小学校に通っていた頃と変わらない渡会八雲の本質を見せつけられた。長内朱実の方はどうだか知らないが、少なくとも渡会八雲という人間は何かと他人に対して遠慮する奴だったのだ。知っていたはずなのに蓋をして、自分の勝手なイメージを押し付けていた自分に気付かされた。
決して言葉にはしなかったが、その事実は環菜を深く反省させた。他人には自分の本質を見て欲しいと思いながらも、肝心の自分自身は彼の内面を見ていなかったのだ。そう、思い上がっていたのは自分だった。皆本環菜は他人の内面を読み取れるから、良い人としか付き合わない。そんな風に考えていた自分こそが最も自惚れていたのだ。
そのことをブラックガルゴモンに相談してみた。すると契約者は小さく笑って一言。
「自分が間違ってるってわかっただけで、環菜は偉いと思うよぉ?」
何の根拠も無い彼の言葉だったけれど、環菜には何よりも救いとなった。だから環菜は自分を変えてみようと決めたのだ。自分は他人の心に深く踏み込みながら、自分の心には踏み入らせなかった過去の自分を変えてみようと決めたのだ。
だから八雲の親友と名乗った園田靖史に対しても、できる限りオープンに接した。あの馴れ馴れしさにはどうも慣れ親しむことはできなさそうだが、普通の友人ぐらいにはなれるだろうとは思う。実際、単純に友人として付き合っていくのならどちらがいいかと聞かれれば、環菜は迷うこと無く園田靖史の方を選ぶ。渡会八雲という少年は自分には荷が重いと思う。彼はどうにも常人では釣り合い難い高みに立っているように感じるのだ。だから彼を受け入れてやれるのはもっと強い人――そう、長内朱実のような女でなければ駄目だと思ってしまう。
そこまで考えて、少し嫉妬した。なんだ、それじゃあ八雲と朱実は自分達でもそれがわかっていた上で、小学生の頃からずっと組んでたってことなのか。それって、何か少し悔しい。
「それ、もしかして恋って奴……じゃないよねぇ?」
「……違うわね。悪いけど、彼のこと考えても全然ドキドキしないもの」
「うはぁ、相変わらず毒舌だなぁ、環菜は」
能天気に笑うブラックガルゴモンに合わせて、環菜も少しだけ口の端を上げてやる。
きっと自分は彼と出会って以降、普段の自分を忘れていたのだと思う。決して口にするつもりはないが、その理由は恐らく恐怖からだ。殺し殺されるのが当たり前の世界、一瞬でも気を抜けば即座に命を落としてもおかしくない状況、それが皆本環菜を壊していた。むしろ敢えて壊させていたというべきか。心が壊れていれば何も感じることはない、恐怖も躊躇も何も感じなくて済むのだから。
だから半ば屈辱的な事実ではあるのだが、環菜は渡会八雲に感謝している。この世界に残されたのが自分だけではないのだと教えてもらった。他にも人間がいるのだという事実は、間違いなく皆本環菜を安心させてくれた。だからこそ、環菜は自宅に戻ることもなく彼と共にいる。不器用だとわかっているが、それが自分なりの感謝の気持ちだと思う。
「八雲、何か元気無いねぇ?」
「……園田君と何かあったのかしらね。彼、あの夜から帰ってきてないし」
ベランダの窓枠に腰掛けながら、環菜とブラックガルゴモンは顔を見合わせる。
居間の炬燵では八雲がしかめっ面で朝食と睨み合っている。園田靖史が姿を消してから既に一日半、八雲やミスティモンはそのことに関して、環菜達には黙して語らない。それは恐らく彼らなりの善意からの行動なのだろうが、それに何よりも腹が立つのだ。
何故そんなに他人を気遣うのか、何故そうまでして強く在れるのか。そんなこと、渡会八雲ではない皆本環菜には理解できない。理解できるはずが無い。
だから環菜の苛立ちの理由は一つだけ。自分が作った食事を残される、その事実。
「……残さないでよ、資源の無駄になるわ」
「いや、でも食欲が――」
怯えたように自分を見上げる八雲の姿が情けない。あの夜、冷徹な横顔で自分達を下してみせた渡会八雲の姿を、今の彼から垣間見ることはできなかった。彼の視線の定まらない瞳は環菜自身の向こう、その場にいない園田靖史を見据えているようだった。
わかっている。園田靖史が消えたことに彼が何らかの理由で関与しているということは。八雲自身は隠し通せていると思っているようだが、そんなはずは無い。彼やミスティモンの様子を見れば一目瞭然だった。そもそも、今でこそ厚着で隠しているが、あの夜に八雲が痣だらけで帰ってきたことを、環菜は知っていた。
それなのに、そんな覇気の失せた顔をしている癖に誤魔化そうとしている彼の姿に、環菜としてみれば無性に苛立つ。
「食欲が無いってね、昨日の晩から二食も抜けば異常よ。……さっさと食べて」
「………………」
その何かに怯えたような顔で自分を見上げてくる彼の姿は、情けないったらありゃしない。少なくとも、その表情は環菜が五年越しに再会した仙川八雲、つまり渡会八雲の姿ではない。環菜にとって渡会八雲とは、いつもムカつくぐらいに平静な表情を浮かべて、またムカつくぐらいに真っ直ぐな瞳を見せていなければ嘘なのだ。
だから自然、環菜は彼の胸倉を掴んでいた。……まるで不良みたいだと、我ながら思う。
「いい加減にしてよね。……ええ、私は悪いけどあなたと園田君の間に何があったのかは知らないし、別に知りたくも無いわ。でもね、そんな風に塞ぎ込んだ渡会君を嫌でも見せられてるこっちにしてみれば、胸糞悪い以外の何者でもないの」
「……わかってんだな」
思いの丈をぶちまけるように言ってやると、彼は少しだけ口の端を上げて笑みを浮かべた。まるで「お前には敵わないな」とでも言いたげな、そんな顔。環菜も八雲も気付いていなかったが、それは八雲が朱実といる時に見せる苦笑。決して誰にでも見せる表情ではない。
だがその笑みはすぐに鳴りを潜め、また陰気な表情に戻る八雲。
「でも俺にはわかんないんだよ。どうすれば靖史を助けられるのか……いや、そもそも何でアイツがあんなことになったのかもわからない」
「……愚問ね。きっと園田君は『それすらわからない』あなたに対してムカついてるのよ」
そう言ってやるが、彼はキョトンとした表情を浮かべるだけ。
「俺はこれから……どうしたらいいんだろうな」
何と言うか、弱気な彼を見ているのが嫌だった。いつもなら誰の手も借りない癖に、あの長内朱実とさえ互角にやり合える癖に、こういう時の彼は恐ろしいぐらい弱気である。元来、渡会八雲の精神はガラスのように脆い面があることを環菜は知っている。家族を持たず、誰かに肯定されることが少なかった故の弊害であろう。故に一度でも否定されれば容易く崩れる。たった一度だろうと彼の本質に触れたという自惚れがある環菜だからこそ、彼の胸の内にも気付くことができた。
だから環菜は言わなくてもいいことを言うことにした。
「……渡会君は誰かに指針を示されなきゃ動けないわけ? そんな誰も持たないような夢を持ってるのに、そこに至る道を誰かに案内して欲しいなんて、そう思ってるわけ?」
「えっ……?」
「皆を泣かせたくない。皆を悲しませたくない。……それは確かに理想だけど、その方法を示せる人なんてこの世にはいないでしょうね。だって、それは原理的に不可能だもの。でもその夢をあなたは捨てられない。叶えたいと思ってるわけでしょ?」
その言葉とは裏腹に、別に環菜は彼の夢を嫌悪しているわけではない。むしろ逆かもしれない。ただ、偉そうに「世界から悲しみを消す」と言っている割には誰よりも悲しそうな顔をしている渡会八雲にムカついただけのことだ。
「み、皆本……何で、お前がそれを……?」
「……私の友達に稲葉瑞希って子がいるのよね」
その名前を出した瞬間、八雲の顔が少しだけ歪んだ。
生来からの委員長気質を持つ少女、稲葉瑞希。明るく世話好きな彼女は環菜の友人であると同時に、八雲にとってはクラスメイトでもあった。彼女を前にすると自然と相手も多弁になってしまうという、そんな不可思議な魅力というか能力を瑞希は持っていた。そして、普段は無口な八雲でさえも彼女には聞かれてもいないことを喋ってしまっていたのである。
それを環菜が聞いたのは体育祭の後で瑞希達のクラスの打ち上げに誘われた時、つまり八雲も同じように誘われた打ち上げの時だった。八雲という名前に聞き覚えのあった環菜は、瑞希達が話している話題に聞き耳を立てていた、ただそれだけのことだ。
「そっか。お前、アイツと友達だったのか。別に隠すほどのものでもないけど……やっぱり稲葉に喋ったのは失敗だったかな」
「……そうね。あの子、近年稀に見るお喋りで有名だから」
そう言うと、八雲は何か不思議そうな表情で自分を見つめてくる。何かおかしいところでもあったのだろうか?
「まあ、それはともかくとして……私は渡会君がどうしてそんな夢を持つに至ったのかは知らないわ。でも自分も騙せないような人に、世界を騙せるわけが無いでしょ?」
「世界を……騙す?」
何故そこで目を丸くする。こんなことにも気付いてないのか、この男は。
いや、恐らくそれは違うだろう。その表情から判断しても、きっと彼は気付いている。気付いているけど認めたくない。そんなところだ。この世界は非情で汚い。一人の少年が抱く青臭い理想論が通用するほど、世界は甘くない。それを渡会八雲は認めたくないのだ。
「ええ。……さっきも言ったけど、この世界から悲しみを消し去るなんて原理的に不可能よ。人間の感情は喜怒哀楽なんだから、その中から一つを無くそうだなんて考えること自体、道理から外れてるわけ。それを世界のことを騙すって言わないで何て言うの? ……でも理由は知らないけど、あなたは本気なんでしょ? だったら……あなたが本当にその夢を叶えたいんだったら、意地でも気丈に振る舞ってみせなさいよ」
それは物凄く単純な考え。朱実だったら一瞬で導き出していただろう。
要するに、環菜は確認させてやっただけなのだ。これは推測だが、渡会八雲は自分の夢が如何に無謀な夢であるかを理解している。それ故に現実と理想との乖離に苦しんでいる。だから環菜は気付かせてやった。千里の道も一歩から。まず自分の中からだけでも悲しみを消し去れないような人間に、どうして世界から悲しみを消すことができるのかと。
だが同時に環菜は心の中で自嘲した。自分は何を言っているのか。誰よりもネガティブな人間を自認している自分が、落ち込んだ八雲に「もっとポジティブになれ」と言っている。それが堪らなく滑稽で、環菜は心の中で笑うしかない。おかしくて仕方が無い。だが同時にこれ以上無いぐらいにムカつく。彼をこんな姿にさせた園田靖史のことが、環菜は許せそうに無い。
やがて八雲の胸から手を離すと、環菜は立ち上がる。
「……行くわ、ブラックガルゴモン」
「お、おい。どこ行く気だよ?」
「渡会君の顔が見えない場所。……というのは流石に冗談だけど、今みたいな顔が見たくないっていうのは本当よ」
そこまで言って、環菜は気付いた。
昔から皆本環菜は、間違い無く仙川八雲に憧れていたのだと。あの長内朱実とすら互角に渡り合い、男女の垣根を超えて対等の立場で笑い合えていた八雲の姿に、自分は確かな羨望を抱いていたことに、環菜はようやく気付けたのだ。だから彼や朱実を拒絶していたのも、本当はそれが理由。毎日の日々を常に光の下で明るく楽しく過ごしている彼らの姿が、環菜には何よりも羨ましかったのだ。
だから見たくない。そんな落ち込んだ顔なんて、自分は見たくない。
「元気を出せ、なんて私に言えた義理じゃない。……だからせめて、渡会君を落ち込ませている元凶を取り払ってあげるわ」
そう、言われるまでも無い。
まさか環菜は戦う気でいるというのか。あのダスクモンと。卓越した運動神経も無く、また契約者もメフィスモンに遥かに劣るブラックガルゴモンだというのに、彼女は何の迷いも無くその道を選んだ。それが信じられない。
そしてもう一つだけ聞きたいことがあった。
「取り払うって、お前まさか――」
「……安心して。あなたの心配してるようなことにはならないから。ただ、私は一つだけ証明してあげたいことがあるのよ」
それを八雲が聞こうとするより前に、環菜はブラックガルゴモンと共に踵を返し、渡会家を後にしていた。
無論、八雲はその姿を見送ることしかできなかったわけだが。
マンションの下、顕然と歩いていく少女と契約者の姿を、八雲は見下ろしていた。
「……正直、驚いた」
「私もですよ。まさか彼女があれほどの感情を表に出すとは思いませんでした」
ミスティモンとしても、皆本環菜という少女は良く言えば掴み所の無い、悪く言えば人間の心というものを感じられない少女として認識していた。故に彼女は常に無表情で無感情。そんな人間だと割り切って応対してきた。今はその認識が全て裏切られた状況だ。驚くのも無理はあるまい。
ああ見えて、根は結構熱い奴なのかもしれない。そう考えると、環菜と共に過ごしたここ何日かの日々が少しだけ愛おしく思える気がした。彼女は決して無感情なのではなく、自身の思いを限界まで抑圧しているだけなのだろう。その節々に見られる優しさとか気遣いは、間違い無く他人を思い遣ればこそのものなのだから。
そして、稲葉瑞希のことを口にした時に彼女が見せた微かな苦笑の色。それが何よりも綺麗だった。初めて見た彼女の笑顔は、きっと今後環菜と付き合っていく中でも決して色褪せることは無いだろう。冷静に考えれば、靖史がいなくなってからは契約者を除けば、そんな彼女と二人暮らしだったわけで、それを改めて認識したわけである。……少しだけ頬が紅潮した。
「……それで、どうします? 彼女のこと、放っておくわけにはいかないでしょう?」
「そうだな……」
そう、確かに彼女を放っておくことはできない。皆本環菜という少女には、何か言い表せない危うさを感じるのだ。確かに彼女は腹立つとかムカつくとか、そんな自身のナチュラルな感情に従って行動を起こしているのだろう。だが彼女の勘定には自分自身が無い。靖史と戦う旨を暗に示していたが、彼女の頭に自分のことは存在しないのか。そう、そもそも皆本環菜がそんなことをする必要は最初から無いのだ。靖史との決着は間違い無く渡会八雲が付けるべきものなのだから。
けれど、今の自分では環菜を追ったところで何か彼女にしてやれるとは思えない。実際、皆本環菜という少女には最初から手助けを必要としているところなど無い。彼女は真の意味で強く生きていくことのできる人間なのだと思う。その意味では、彼女は自分よりもずっと強い。何事にも迷わないし、また躊躇わない。
それで気付けた。初めて会った時、何か既視感があった。それは彼女と小学校が同じだったとかそういうことではなくて、要するに彼女の在り様は朱実と似ていたのだ。その潔さにも似た意志の強さは、確かに長内朱実と同質のものだ。幼い頃から八雲が求め続けて止まないそれを、彼女は最初から持っていたのだから。
それを思えばこそ、八雲は立ち上がる。
「ミスティモン」
「環菜さんのことを追うのですね?」
「いや……」
環菜を放っておくことは心苦しい。だが手助けはしない。それが八雲の決めた答えだった。
そもそも、今の自分では環菜と共にいたところで足手纏いになることはあっても、決して彼女にとってプラスにはならないだろうと思う。ならば、自分は今の自分に可能なことを精一杯やっていく他ないだろう。たとえ今でこそ靖史の心が闇の中に囚われているのだとしても、いつか必ずそれから解き放たれる時が来る。いつ来るかはわからないその時のために、自分はできることをするしかないのだ。
だから答えは一つ。単純だが、それ故に遠かったその答え。
「……もっと強くならなきゃ。俺も、お前もな」
小さく呟き、渡会八雲は住み慣れた我が家を後にする。今回の出立は、夜に戻ってくるという保証が無い。もしかしたら今日の昼には帰ってくるかもしれないし、逆に何日も戻らない可能性だってある。不確かなことを無理に予定付ける必要など無いのだ。
そう、自分は弱い。靖史と向き合うだけの心の強さも、またダスクモンを破るほどの剣の強さも持ち合わせていなかった。ようやく気付けた事実は、自分もまだまだ未熟ということだ。こんなことでは、朱実に追い着くことなど永久にできないだろう。
不意に脳裏に浮かんだのは、その破天荒な幼馴染の笑顔だった。
「……なあ朱実。今の俺をお前が見たら、笑うのか? それとも……怒るのか?」
そのことだけを聞きたかった。渡会八雲は間違い無く長内朱実に会いたかったのだ。
・
・
第32話:君に会いたかった
初めて会った時、あの少年の顔に虫唾が走るほど嫌悪感を抱いたのを覚えている。
『初めまして、僕は安藤浩志。長内朱実ちゃん……だよね?』
あれは既に十年以上前のことになるのか。
父親と母親を立て続けに失って、身寄りも無い上に世間から白い目で見られていた自分は、いきなり現れた変な男に連れられ、郊外の古びた建物を訪れることになった。震度3の地震でも軽く倒壊しそうなその建物を、男は誇らしげに示して『今日からはここが君の家だよ』と言って笑ったのだ。それに思わず噴き出してしまった。本気でこんなボロ屋に住むのかと、自分はこんなに不幸でいいのかと、そんな風に思ったのだ。
けれど、違った。数時間後、面白半分に戦わされた少年の顔から自分は目が離せなかった。
『………………』
一目見た時から何か違うとは感じていた。その少年は安藤浩志と名乗る男の言葉を信じるなら、自分とは同い年であるはずだった。だが彼は明らかに今まで自分が打ち倒してきた男達とは違った。身に纏う雰囲気からして全く違う。例えるならば、それはゴリラとチンパンジー。要するに、似て非なるものだったのだ。
剣を得意とするその少年は、6歳にしては随分と大人びた雰囲気を持っていた。
別に泣いているわけでもないのに、彼の顔はどうしようもなく悲壮感に満ちているように見えた。そんな感情を当時5歳の自分は否定する。目の前の少年の目が気に入らない。まるで自分が世界で一番不幸とでも言いたげな、そんな感情に満ちた目が。そう、世界で一番不幸なのは自分だ。冤罪から両親を失って挙句の果てにこんな場所に連れてこられた自分こそが、世界で一番不幸な存在なのだ。
だから自分の持つ全力で叩き潰した。その目でアタシを見るなと。その目を持つべきはアタシなのだと。
『……アンタ、男の癖に弱いね!』
蔑むように言ってやる。どうだ、アタシの勝ちだ。二度とあの目でアタシを見るな。
少年が自分の腕に自信を持っていたことは、その戦い方からも予想できた。実際、自分が今まで喧嘩してきた中でトップクラスの実力だと言えよう。まだまだ強くなる余地はあるだろうけれど、それでも自分には及ばない。ならばその自信を完膚なきまでに叩き潰されれば、この蔑みの言葉一つでこの気に食わない男の顔は涙で歪むはず――。
だが予想に反して、彼は泣くことも悲しむこともしなかった。少年はただ、毅然とした瞳で自分を愚弄した少女の顔を見上げていた。
『あれ? ボロ負けしたっていうのに泣かないの?』
情けないことに、咄嗟に返した言葉は震えていた。だが無理も無いだろう。これは完全に予想外だった。自分が彼を全力で叩き潰した理由は、要するに無様に泣き喚く彼の姿が見たかったからなのだ。自分を世界で一番不幸だと思っている愚か者に上には上がいることを教えてやろうと思ったと、ただそれだけ。
だからこそ、彼が泣かなかったことは長内朱実を何よりも打ちのめした。そう、その時点で既に自分は彼に負けていたのかもしれない。
『……次は俺が勝つからな。だから泣く必要も理由も無い』
『へえ、面白いこと言うのね。……アンタ、名前は?』
咄嗟に名前を聞いたのは、単なる強がり。その時、もう長内朱実の心は崩れていた。
リベンジを誓う少年の眼光は、猛禽類のように鋭い。それを前にして、情けなくたじろぐ。相手の名前を聞く行為など、その精神的な動揺を押し隠す見せ掛けに過ぎなかった。少しでも優位に立ちたくて、少しでも余裕を見せたくて、そんな行為に走っただけだ。
しかし同時に奇妙な心地良さを感じていることも否定できなかった。両親を失った数日前から自分、つまり長内朱実を縛り付けていた強迫観念のような感情が、今は無い。張り詰めていた糸が切れたというか、久方ぶりに気楽になれたような気がする。
自分にはもう、人殺しになるしか道は無いと思って生きてきた。それは恐らく人殺しの娘である以前の問題だったろう。実際、母親が止めなければ当時5歳の長内朱実は間違い無くあの女を殺していたのだから、それも強ち間違いではなかった。だから孤児院などに引き取られようともそれは変わらないと、そう信じて疑わなかった。
けれど、この状況はどうだろう。そんな思いを抱いて来たというのに、同年代の一人の少年の目に自分は揺るがされている。自分の思いがどれだけ馬鹿げたものだったのか、どれだけ独り善がりだったのかをこの少年の瞳は痛いほど教えてくるのだ。
人殺しになんかなる必要は無い。自分はただ、彼と共に在ればいい。そう感じられた。
『八雲。……仙川八雲』
だから救われた。長内朱実は間違い無く、その少年に救われたのだ。
奴に殴られた脇腹は未だに痛む。肋骨が折れていると言われても納得の痛さである。
既に故郷の二宮市は間も無くだというのに、朱実の表情は晴れない。それも当然だろうか。彼女の肩には鋼の闘士との戦い、そして敗北が重く圧し掛かっている。誰にも負けないと誓った自分が負けたのだ。しかも、その相手はまるで自分の実力を試すかのような物言いをして。実に気に食わない、ああ気に食わない、気に食わない。
あの日、誓った。自分は如何なる時でも彼にとっての超えるべき壁で在り続けようと。ここで言う彼とは言うまでも無く渡会八雲のことなのだが、そのためにも朱実は己に敗北を許さなかった。あの日に見た彼の瞳を汚さぬためにも、自分は強く在り続けなければならなかったのだ。それもまた、かつて抱いていたのと似た脅迫の観念なのだが、それに残念ながら朱実は気付いていない。
負けたことが何よりも悔しい。それに情けない。
「……朱実殿」
「なに?」
「気にする必要はありません。次に対峙する際には私も助力しますから」
隣を歩くナイトモンの言葉に、少しだけ驚いた。
その驚きはナイトモンの言葉に対してではなく、彼の存在を歯牙にも掛けなかった自分に対してだ。何故かはわからないが、今まで奴とは一対一で決着を付けることしか考えていなかった。契約者のナイトモンに援護を頼むことすら頭に無かったのだから、我ながら驚きである。そうだ、確かに一対一では及ばずともナイトモンの協力があれば奴を倒すことも可能かもしれない。事実、あの魔王ベルゼブモンとの戦いの時もそうだったし、元々協力するべくして自分とナイトモンは契約を交わしたのではなかったか。
だが――。
「……ううん、いいよ。また奴と戦うようなことがあれば、アンタはドウモンの相手をきっちりお願い」
「は? で、ですが……」
「だから今度は頼むよ? ……これでも頼りにしてんだから、アンタのことは」
軽く笑い声を上げながらナイトモンの肩を小突いてやる。
それは自分自身の甘さとの別離。その理由はわからないが、如何なる理由があろうともメルキューレモンだけは長内朱実が自らの手で打ち倒さねばならない相手だと、そう感じたのだ。直感と言ってもいい。奴と初めて対峙したあの瞬間から、朱実の心には確かにそんな思いが宿っている。自分が長内朱実である限り、奴はこの手で倒さねばならないと、そう告げている。ナイトモンが自分のことを本気で信頼して、また心配してくれているのはわかる。だからこそ悪いとも思うのだが、それは半ば朱実の意地である。
そう、これは奴と自分との意地の張り合いだ。
「心配要らないよ。……アタシは二度も負けたりしないから」
その言葉を前にすれば、ナイトモンには何も言うことは無い。
そもそも、彼は長内朱実に尽くすと誓った上で、彼女と共に行動している。二週間ほど前のあの日、屈託の無い表情でカプリモンに笑い掛けている彼女を見た時から、そう決めたのだ。なれば忠義の士として在ることが自分の役目だろう。これ以上彼女に言うことは無い。主の決定に従うことこそが、騎士の役目なのだから。
そんなこんなで歩くこと二時間、ようやく朱実の目に見慣れた景色が飛び込んできた。
「はぁ……懐かしき我が故郷、やっと着いた……」
「……その前に客人のようですが」
「うん、わかってる。数は……四、五かな?」
ナイトモンの言葉に狼狽することも無い。朱実は慎重に周囲を見回して気配を窺う。
今の自分達がいるのは閑静な住宅街。一軒家が無数に立ち並ぶその一帯からは、自分達に対しての殺気がビンビンと響いてくる。朱実はナイトモンを促し、その殺気の目を掻い潜るように小走りで住宅街を静かに走り抜ける。当然、殺気の持ち主がその程度で逃してくれるはずも無い。連中もまた、同程度のスピードで追従してくるのが感知できる。だが言うまでも無く、朱実は逃げるために走っているわけではない。彼女は要するに、対峙するに適した場所に向かっているのだ。
そして辿り着いたのは駅前の大型交差点。普段なら無数の往来人でごった返しているX字型に横断歩道が走ったその交差点は、当然ながら今は無人。だがそれ故に好都合である。
「ここなら何も気にせず戦える。……アタシ達には打って付けの場所っしょ? ナイトモン」
「……なるほど。確かにこの場所ならば周囲を破壊する憂いも無い」
この見通しの良い場所に姿を隠しながら近付くことなど無理な話。当然、接近してくる殺気の持ち主とてそれには逆らえず、ようやく姿を見せた。交差点の中心に立つ朱実とナイトモンに四方から迫るモンスターは見たことの無い種族だった。両肩から鋭いスパイクを生やし、その手には骨にも見える太い棍棒。古代の伝承に残る鬼人を模したような外見を持つ怪物だ。
それが五体。ナイトモンの姿を認めて微かに狼狽しているようだから、決してレベルの高いモンスターではないかもしれないが、それでも五体が朱実達の周囲を取り囲んだ。
「ナイトモン。……この連中、何て言うモンスター?」
契約者と共に背中を庇い合う態勢を取りつつ、朱実は訊ねる。実を言えば、彼女の左腕に装着されているD-CASにはそうしたモンスターのデータを表示する機能も付属しているが、朱実は面倒なのでそれに頼ることをしなかった。それぐらいなら、契約者に聞いた方が余程マシだろう。
D-CASに備わったデータの解析機能は、かつてその携帯端末がデジヴァイスと呼ばれていた頃の名残なのだが、当然そんなことを朱実は知る由も無い。つまり、D-CASとはデジヴァイスの進化形。異世界に住む大半のモンスターが成長の過程で進化するのと同じようにデジヴァイスもまた進化した、それだけのことである。
「……恐らくはオーガモン。気を付けて下さい、連中は我らの世界でも悪名高いチンピラにも等しき者です。正直、何をするかわかりかねますので」
チンピラ。その言葉が聞こえたのか、オーガモンの内の一体が少しだけ眉を吊り上げた。そのオーガモンは今にも飛び掛かってくるような態勢を取ったが、リーダー格らしき個体の制止を受けて悔しそうな表情で引き下がった。そのリーダー格と思しきオーガモンだけは、威厳も風格も他の個体とは違って見える。何と言うか、ちゃんとしているのだ。
それで朱実は理解する。要するに、連中は不良グループと同じなのだ。統率力と戦闘力に長けたリーダーを有し、そのリーダーがチンピラにも等しき連中を指揮している。だとすれば、この中でも奴だけは決して侮れまい。
「……そんで、アタシ達に何か用?」
相手を牽制しながら、飽く迄も不敵に問い掛けてやる。何ら狼狽せずに声を上げた朱実にオーガモン達は少なからず動揺したらしいが、ただ中央に立つ一体――恐らくリーダー格のオーガモン――だけはむしろ満足そうな表情を浮かべていた。
「ほう。俺らにそんな言葉を返すたぁ……そこいらのモンスターよりはよっぽど肝っ玉が据わってるようじゃねえか、女」
「アンタらに褒められても、全っ然嬉しくないね。だから、用は何かって聞いてんの」
「……色々と言いたいことはあるが、まあ今はいいさ。要するに、俺らの用事は一つだけだ。女、テメエ可愛いゴブリモン達を散々甚振ってくれたそうじゃねえか?」
「ゴブリモン? 何それ?」
はて。全く思い出せない。何を以って甚振ったと表するのかもわからないし、そもそも種族名で言われたところで、データを専らナイトモンの知識に頼っている朱実には何もわからないことである。正直に言えば、種族名を知っているモンスターなど、今のところはベルゼブモンやドウモンぐらいしかいない。
無論、そこには挑発するつもりなど無かった。だが連中にとっては違ったようで。
「て、テメエ……自分がボコった相手のことぐらい覚えてやがれっ!」
「……ボコった? アタシが?」
正直、心当たりがありすぎて困る。今まで何体のモンスターを殴り倒してきたのかもわからないのに。
だがリーダー格のオーガモンが取り乱したのを見て、朱実は少しだけ拍子抜けした。既に奴はわなわなと全身を震わせている。こちらとしては特に意図したわけではないのだが、自分の言葉で連中は完全に冷静さを失ったようだ。面白いぐらいに甘すぎる。戦いでは先に冷静さを失った方が負けだというのに。
そんなことを考えていると、不意に思い出した。ゴブリモンとはもしかしてケンタルモンと出会う前、新幹線の線路を歩いて東京に向かっていた頃の自分が散々殴り倒してきたゴブリンどものことではなかったのか。
「……ああ、あの雑魚ゴブリンどものこと? 弱すぎて欠伸が出たわ」
それは嘲りではなく、本当に欠伸が出たからこそ言える言葉である。
そもそも、長内朱実という少女の辞書には手加減とか遠慮とか、そんな弱者に敬意を払う行為は存在していない。だからこそ朱実は自分と互角に戦える者にそれ相応の尊敬の念を抱く反面、弱い者に対しては徹底的に見下してやる。
その意味では、あのゴブリモン達は見下されるのも致し方無い存在だったと言えるだろう。自信満々に自分達から襲い掛かってきた癖に、女の子一人に掠り傷の一つさえ負わせることもできずにグロッキーだ。情けないったらありゃしない。
「連中は俺達の舎弟だ。その舎弟を散々甚振られたとあっちゃあ、俺達だって黙ってるわけにはいかねぇよなぁ?」
顎を突き出しながら歯をガチガチと鳴らすオーガモン。
その様はナイトモンが言った通り、どこにでもいるチンピラにしか見えない。どうやら連中はメンチでも切っているつもりらしいが、朱実にとって何の脅しにもならない。腑抜けが何人集まったところで烏合の衆に変わりは無いのだ。それでも、挑んでくるのなら叩き潰さずにはいられないのが長内朱実という人間なのだが。
「……なるほどね。自分達の弟分がやられたのに腹を立てて、わざわざ静岡やら名古屋やらからアタシを追ってきたと。……へえ、見た目と違って案外思い遣りが深いじゃないの。あんた達の美しい兄弟愛には涙が出るわ、うう……」
わざとらしく上着の袖で目尻を拭う。無論、涙なんて出ちゃいない。
「テメエっ!」
業を煮やしたのか、一体のオーガモンが殴り掛かってくる。
自分でも驚くぐらい、そのパンチが遅く見える。目を閉じていても避けられる。難なく回避し、距離を取りながらも連中を挑発するようにニコッと笑い掛けてやる。多分、人間相手なら一人か二人ぐらいは容易く堕とせるぐらいに可愛い笑顔だと、自分でも思う。
それにしても、連中のパンチは遅い。モンスターって言っても、この程度?
「……蝿どころかカブトムシが止まるわ。それじゃ、アタシの幼馴染の方が幾分かマシだね」
「ぐぐ……! もう遠慮は要らねぇ! 野郎ども、やっちまえ!」
「おっ、どうやら話がわかる奴もいるみたいじゃん? ……そういうのが一番好きだし、一番わかりやすいんよね」
朱実とナイトモンを取り囲むのは五体のオーガモン。
全身からスパイクを生やした連中には、自分の攻撃は通用しまい。だが朱実は躊躇うこと無く、その身を奴らの前に投げ出す。それで連中は愚かにも狼狽した。無力で脆弱な人間が何の策も無く突撃してきたことに奴らは驚いたのだろう。
それが甘い――否、甘すぎる!
「痴れ物め……その隙が命取りなんよっ!」
腰のガンベルトからベレンヘーナを引き抜くと、前方に立つ二体に突撃する。その二体はいきなり拳銃を手にした朱実に少なからず動揺し、更にその銃口が自分達の眉間に向けられていることに気付いた。それは奴らにとっても確実に恐怖の対象となったのか、本能的に両手で顔面を庇う。――それが致命的な隙になるとも知らずに。
無論、朱実が何の迷いも無く突っ込めるのはナイトモンの存在があればこそであり、こうした何気ない面でもナイトモンは長内朱実という少女が自分に抱く信頼を感じられて心地良くもある。
「……ナイトモン、後ろ任せたっ!」
「了解です!」
指示を受けてからのナイトモンの行動は素早かった。そもそも、相手は如何に多数とはいえ成熟期。この完全体どころか、ケンタルモンの時でも十分に互角に戦い得る相手である。
その鈍重な鎧に似合わぬ突風のようなスピードで残る三体のオーガモンに接近すると、背中の大剣を鋭く一閃する。白銀が煌めいた瞬間、二体のオーガモンが呻き声を上げて倒れ伏す。だが残る一体、リーダー格の個体だけは剣の軌跡を読んでいたのか、咄嗟に後方に下がることで太刀筋を避けることで事無きを得た。流石はリーダーというところか。
「……なかなかやる」
避けられるとは思いもしなかった故に、ナイトモンは思わず賞賛の言葉を述べていた。
一方、朱実の方の決着は既に付いていた。彼女が手にした二丁のベレンヘーナは二体のオーガモンの顎を下から押し上げる形で突き付けられており、朱実が引き金を引いた瞬間に銃弾は顎から頭頂部へ突き抜け、オーガモンの顔は豆腐のように粉微塵になる。故に動けない。下手に動けば殺すと、この少女は本気で告げているのだから。
銃口を突き付けられた瞬間に咄嗟に棍棒を振ろうとしたオーガモンに、朱実は告げる。
「……別に反撃してもいいけどさ、アンタの棍棒がアタシの脇腹を薙ぎ払うよりも、アタシの銃がアンタらの顎を粉々にする方が速いと思うよ?」
それは天使のような穏やかさと悪魔のような冷酷さを兼ね備えた笑顔だった。彼らは理解する。この女は自分達とは存在の概念からして全く異なるのだと。如何なる敵を前にしても笑いながら命を奪えるような、そんな存在なのだと。
無論、それは誤解である。朱実の冷酷さは飽く迄も演技でしかなく、明確な殺意など存在しないのだから。
そもそも、あの少年に出会った時から決めたのだ。自分は誰も殺さずに生きると、ただ強さを以って世界に己が存在を示し続けようと。故に如何なる困難が目の前に存在しようとも、長内朱実は誰の命を奪うことも許されない。
「阿修羅神拳!」
「むっ!?」
突如として響いた怒声と轟音。それを受け、ナイトモンが大きく後退する。
その先に立つのは、怒り・悲しみ・祝福という三面を持つ魔人型のモンスター。逞しい腕は二対存在しているようであり、それを見ればこそ奴の異形さが感じ取れる。なるほど、確かに人間などでは到底立ち向かえぬ怪物だ。ナイトモンを弾き飛ばしたことから見て、その能力も彼と互角以上と見て間違いあるまい。
見れば、二体のオーガモンは既に地に伏している。要するに、奴はリーダー格の進化形か。
「隙だらけだぜぇ!」
「くっ……しまった!?」
目を逸らした瞬間、銃を突き付けていたオーガモン達に突き飛ばされ、朱実も距離を取られてしまう。
これで状況は一気に不利となる。朱実の背中を守るナイトモンの前には、リーダー格のオーガモンが進化したアシュラモン。また朱実の前には未だ無傷の二体のオーガモン。あのアシュラモンの戦闘力がナイトモンと互角以上なら、正直言って勝ち目は薄い。
「これで終わりだな……死ねぇぇぇぇーーーーっ!」
棍棒を振り上げて迫るオーガモンと、その拳に炎を纏わせて突っ込んでくるアシュラモン。まさに前門の虎、後門の狼といった状況。この挟み撃ちといった状況では、如何に飛行能力を持つとはいえ鳥型よりも遥かに愚鈍なナイトモンでは逃げることも敵わないだろう。
まさに絶体絶命。――だが朱実の顔に絶望は無く、むしろ晴れやかな笑みだけがある。
「……風が変わった。来たね、ようやく」
「あ、朱実殿!?」
「ナイトモン、雑兵に構うな! 狙うは敵将のみ!」
即座に回れ右をしてアシュラモンと相対する朱実の反応速度は、ナイトモンをして追えないほどのスピードであった。また彼女の意図も全く読めない。これではオーガモン達に無防備な背中を晒すことになってしまうのではないか。また彼女はアシュラモンに対抗できる気でいるというのか。
背中を見せられたオーガモンは、当然のように憤慨する。
「舐めやがって……覇王拳!」
「遅い!」
必殺技を放とうとオーガモンが右の拳を突き出した瞬間、その腕が先端から消滅した。
一瞬、オーガモン本人にも何が起きたのかは理解できなかったに違いない。しかし自分の腕がボトリと気色悪い音と共に地に落ちたのを見て、彼は初めて自身に起きた事態の異常さに気付いたらしい。それでも、彼が悲鳴を上げるよりも、現れた影がそのオーガモンに強烈なアッパーカットを喰らわせる方が遥かに速かった。
その影が描く軌跡は、ナイトモンと同じく白銀の輝きを宿す鋭い刃の煌めき。ようやく停止した影は、正体不明の魔法戦士の姿をしていた。
「……やりすぎだ、ミスティモン」
「す、すみません! 目測を誤ってしまい――」
「話は後だ。さっさと片付けるぞ!」
静寂の街に響き渡るその力強い声は頭上から。
残されたオーガモンが上空を見上げた瞬間、彼の視界には巨大な斬馬刀を振り上げて舞い降りてくる、一人の少年の姿が飛び込んできた。避けることも防ぐこともできない。咄嗟に顔面を庇うべく振り上げた棍棒は、単に少年が力任せに叩き付けた龍斬丸を前にして一撃の下に粉砕された。その光景を目の当たりにしたナイトモンをして驚愕させる、強力無比な一撃だ。
巨大な龍斬丸を軽々と担ぎ上げるのは、オーガモンよりも遥かに小柄な少年だった。無論、渡会八雲である。
その着衣は泥やら煤やら埃やらで汚れている。小汚いと言ってもいい。皆本環菜が去ったのと時を同じくして、彼もまた家を出た。向かう場所など無く、ただ自分と契約者に修行を課すためだけに。その甲斐もあってか、以前はその重さから縦に振り抜くことが困難だった龍斬丸を、今では縦横自在に振るうことを可能としていた。
朱実はその姿を見ること無く、背中越しに幼馴染へ労いの言葉を掛ける。
「……結構いい面構えになったじゃん、八雲」
「そう言うお前は随分と苦戦してるみたいだな、朱実」
軽口を叩き合う二人は、既に小学生の頃の関係と変わらない。故に互いの顔に浮かぶのは不敵な笑みだけ。真剣な表情を浮かべる必要すら無いのだ。そもそも、自分達が二人揃った状況で、笑えないわけが無いのだから。互いの表情など、顔を見ずとも声を聞けば即座に知れる。
一体はミスティモンに腕を斬られた挙句、アッパーを喰らって気絶。もう一体は棍棒ごと眉間に鞘に収まった状態の龍斬丸の一撃を受けて悶絶。故に二体のオーガモンは戦闘不能。ならば、残るはアシュラモンのみ。奴はナイトモンよりも、またミスティモンより遥かに大きい。全高5メートルはあろう奴はまさに巨人。
静かに振り返り、八雲は朱実と並ぶ形でその阿修羅と対峙する。
「それで、どうする朱実。……流石に女の子にコイツの相手は厳しいか?」
「……アンタがアタシを女扱いするなんてね、悪いけど六千五百万光年早いんよ。まあ、大人しく見てなって。ナイトモン、行くよ」
「まあ、光年は時間じゃなく距離なんだが……わかった。見せてもらうからな、朱実」
だけど、お前がピンチになったら速攻で助太刀するからな。当然のことながら、それは言う必要の無い言葉だ。
龍斬丸を下ろすと、八雲はミスティモンと共に戦況を見守ることにする。朱実の隣にいる騎士のようなモンスターは恐らく彼女の契約者だろうが、少しだけミスティモンと意匠が似ている気もする。確証があるわけではないが、もしかしたら近い系統のモンスターなのだろうか。
それをミスティモンが説明してくれた。
「……ナイトモン。忠義の士として知られる騎士型のモンスターですね。同じ騎士とすれば、確かに私と系統的に近いというのは一理あるかもしれません。尤も、私は正確には魔法戦士と呼ばれるべき種族なのですが」
「そっか。それで相手は阿修羅だな。……顔が三つある」
「ええ、アシュラモンです。悪を許さず正義を愛する魔人型。……とはいえ、進化前の影響からか些か性根が悪に染まっているようですが……」
そんな中でも、八雲は朱実の腰に見えるガンベルトに目を奪われていた。
あの大型の拳銃――いや、銃口が二つあることから見て、ショットガンだろうか。修練の中で出会ったリボルモンとかいうモンスターも拳銃は持っていたが、朱実のあれは何か違う。明らかに何かを殺すための武器だ。それを言ったら自分の龍斬丸だって同じわけだが、あの銃には龍斬丸と同等かそれ以上の力が秘められているのを感じる。何者かは知らないが、とんでもない玩具を朱実に与えてくれたもんだと思う。
朱実とナイトモンが態勢を低くする。誘っているのだと、八雲には理解できる。
「俺の舎弟達を全て……許さねえ、許せねえ……!」
「……御託はいいからさ、さっさと掛かってきなよ?」
アシュラモンはそれを受けて、その顔を怒りの顔へと変える。そんな明らかな挑発に乗る辺り、八雲には愚かにしか見えない。
地響きと共にアシュラモンが突進する。朱実とナイトモンまでの距離は約10メートル。奴の力なら一秒足らずで到達する。そうして必殺の阿修羅神拳を繰り出せば奴の勝ちだ。故に雌雄を決する時間はこの一秒以内。何か行動を起こさねば、朱実とナイトモンは負ける。
だが次の瞬間、八雲は朱実の何気ない挙動に目を奪われていた。
「フッ!」
朱実はただ、大きく息を吐いただけ。時間にしてコンマ一秒。
その僅かな間にタン、タン、タタンと小気味良い銃声が響き、アシュラモンの態勢が崩れる。あまりの早業を前に、アシュラモンは足元が崩れたということにすら気付かない。また、それが決定的な隙になるということにさえも――。
騎士の巨体が踏み込む。その巨体はアシュラモンに遥かに劣るけれども、決して躊躇わず。
「ナイトモン、今だっ!」
「ベルセルクソード!」
一閃された大剣が、アシュラモンの胸元を鋭く薙ぐ。
朱実の意志を受けたナイトモンに、相手を殺さんとする思いは無い。故に如何に鮮血を撒き散らしたとしても、アシュラモンが死ぬことは無い。これもまた、極限の戦いで急所を外す度胸のあるナイトモンだからこその優れた技量の表れと言える。
だが特筆すべきは朱実の並外れた早撃ちだ。
八雲には全く見えなかった。ため息を吐くような僅かな時間の間に、朱実はガンベルトから銃を引き抜き、アシュラモンの足元に狙いを定め、ミリ単位の正確さで四連射した。その銃弾は正確に大地を穿ち、アシュラモンの態勢を崩してみせた。更にはアシュラモンの巨体による大地への負荷と、崩れやすい場所を即座に選定する観察眼もそこには含まれている。
八雲は知らないことだが、これが朱実の出した答え。今まで彼女は銃は人殺しの道具だという考えに固執しすぎていた。だがメルキューレモンは頭を使えと言っていた。ならばこれが朱実なりの頭の使い方だ。弾丸を標的には当てず、戦いのアシストとして用いる。そうして、決着は飽く迄も素手で付ける。
考えてみれば、それは何て単純な方法。そもそも、長内朱実はガンマンではない。だとすれば、それは当然の考えではなかったか。
「あれが八雲君の幼馴染ですか。……凄まじいですね」
「お前もそう思うか。……やっぱりまだ勝てないよな、アイツには」
どこか観念したように呟く八雲であった。
その感情が何であるか、園田靖史には理解できなかった。
最初はただ、一切の反撃をしてこなかった渡会八雲のことが憎かった。自分は本気で戦いに望んだというのに、そんな自分の決死の覚悟すら嘲笑うように奴はひたすらにサンドバックで在り続けた。本気で戦ってみたかったのに、奴は飽く迄も園田靖史を馬鹿にした態度しか取らなかった。
だから次に会う時には完膚なきまでに叩きのめした上で、その息の根を止める。そう決意して止まなかった。
「くそっ……!」
そんな苛立ちに任せて路地裏のゴミ箱を蹴り飛ばす。残飯を撒き散らしながら転がるゴミ箱が腹立たしい。
だが冷静になって考えてみれば違ったのだ。自分の心は間違いなく高揚していた。そう、園田靖史は遂に渡会八雲を地に伏せさせることができたのだ。それを鑑みればこそ、今の彼の気分は歓喜であり、負の感情など如何にしてあろうか。
「……はは、そうだったな。俺は勝ったんだ、アイツに……八雲に勝ったんだ」
乾いた声が漏れる。それは自分の声とは思えないほど低かった。この場に鏡があれば、彼は狂気に満ちた自分の顔に気付くことができたかもしれない。だが靖史が見つめるのは何ら存在しない虚空のみ。故に彼は未来永劫気付かない。己が身を満たす狂気にも、また自身の思考の破綻にも。
笑えないのに笑えてしまう。嬉しくないのに喜んでしまう。それが今の彼の破綻。
何気なく周囲を見ると、成長期の小さなモンスター達が群れを成して歩いていく姿が目に入る。正直、腹が立った。人間の世界で我が物顔に生を謳歌する彼らのことが。自身を棚に上げて彼は怒る。憤る。
「ああ、うざってぇなあ……スピリットエボリューション!」
ダスクモンに進化すると、即座に両腕の剣を一閃。
それだけで、忌々しい雑魚モンスターどもは一瞬にして塵芥と化して消え失せる。それに彼は何の感慨も覚えない。そもそも、今の彼にとって全てのモンスターは自分達の世界を奪おうとする侵略者。そんな連中を生かしておく義理など無いし、むしろ園田靖史という人格は紛れも無く奴らの撲滅を願っている。
メフィスモン。そう、この契約者だけは自分の生存のために必要だから生かしておいてやっている。自分が生かされているにも関わらず、闇の闘士であるダスクモンは契約者に対してもそんな感情しか抱けない。
苛立つ度にダスクモンに進化して、周りのモンスターを殺して回る。そうしていれば、直に他の闘士とも巡り合えるだろう。そんな考えで園田靖史は二宮市を回っている。無論、彼の行く先々に生きる者は残らない。渡会八雲の修行相手となった数多のモンスターも、既に闇の闘士が振るう剣の錆となって消えていた。
だが今日も十闘士には出会えなかった。故に彼はモンスター達の屍の山の前で吼える。
「ああ、何で誰も来ねえ……? 俺を恐れてるってのか? 元々は誰よりも弱かったこの俺をよ! それって、凄く愉快じゃねえ? あっははははははははは! そうだよなあ、ダスクモンだもんなあ、今の俺は……最強だよ! あっはははははははは!」
「……何言ってんだか」
夜の闇に涼やかに響いたその声に、靖史は初めて我に返った。
静かに消滅していく屍の山の向こう、フードでその顔を覆いつつ一人の少女が立っている。傍らには以前のような狩猟者を思わせる獣人ではなく、闇夜に照り映える黒真珠の如き装甲に身を包んだ漆黒のサイボーグ。彼らは身構えることも無く、ただ立っていた。それはまさに、棒立ちと呼ぶべきものだろう。
その少女、皆本環菜は園田靖史の姿を認めると、フードを取り払い僅かに口の端を上げた。その身に纏うのは漆黒のローブと長めのスカート。八雲の家で着ていたのとは違う、正真正銘の彼女の服装に、靖史は目を奪われる。それがあまりにも綺麗だった。吹き抜ける夜風を受けて、彼女のローブは舞うように揺れている。
「随分と機嫌が良いみたいじゃない……園田君?」
だがやはり、彼女は飽く迄も皆本環菜以外の何者でも有り得ない。
その作り物のように取り繕った表情は、能面のそれを思わせる。何よりも異質な点として、彼女の目は相変わらず冷たい瞳を宿したままなのだ。ならば、如何に口の端が上がっていようとそれは笑顔ではない。笑顔であるはずが無い。
だが皆本環菜は紛れも無く笑っていた。彼女にできる精一杯の笑顔で。
「か、環菜ちゃん、何で……?」
「その『何で』が何を意味するのか、じっくりと聞きたいものね……」
何気ない彼女の言葉に含まれた言い知れぬ圧力を前にして、思わず靖史は後退りしていた。
彼女は自分と戦いに来たというのか。いや、それは違う。自分がダスクモンに進化することを彼女は知らないはず。だから、そんなことは有り得ない。だが、だとすれば如何なる理由で彼女が自分の下に現れるのか。当然、園田靖史に皆本環菜の心を読み取れるだけの力があるはずもない。
そうして、環菜は契約者と共に靖史と5メートルほどの距離を取って、僅かに瞑目した。
「何で、何で環菜ちゃんが……?」
やっと会えた。静かに閉じた目の下で、彼女がそう呟いた気がした。
【後書き】
大人になっても正義感や理想論は捨てず、どこまでも青臭く生きていきたいと思っていましたが、幼き頃の文章を読むのは流石に切腹ものの苦しさがあります。元々、本作の主人公である渡会八雲はそういったこっぱずかしくなるような絵空事を平然と吐くような人間として描いておりますが、ちょっと時間を置いて(※ちょっと=10年ぐらい)から客観的に見てみると背中をゾクゾク走るものがあります。
そうした意味では、自分の黒歴史ノートを公開しているのに等しいのかもしれませんが、それはそれで楽しい。
残り10話で一段落致します。そこまでお付き合い頂けると幸いです。
←第29話・第30話 目次 第33話・第34話→