第27話:背徳の山羊神
そうして、奴は八雲達の前に立ち塞がった。
「飛んで火に入る夏の……いや、秋の虫なんだなぁ。やれやれ……」
アルボルモン。腕や足を伸縮させ、変幻自在の技を繰り出してくる木の闘士。
あの夜に向き合った時には無かった威圧感が、奴からは放たれている。相変わらずの間抜けな姿だというのに、その威圧感だけは尋常ではない。八雲でさえ気を抜けば思わず後退りしてしまいそうなほどに圧倒的な迫力を、奴は醸し出していた。
その背後にはこれまた大木。ウィザーモンが小さくジュレイモンと呟いたので、その名前が知れた。
「ぐぁっはっはっは、どうしますアルボルモン様。この人間ども、残さず捕らえますかな?」
「気にすることは無いんだなぁ。真ん中の奴……そう、その男さえ殺さなければ、残りの二人は死のうが死ぬまいが俺は気にしないんだなぁ」
「……狙いは俺か、やっぱり」
まあ、それも当然のことだと言えた。以前、人間界とはいえ奴を一度地に這わせたのは渡会八雲だけなのだから、奴が八雲のことを特別扱いするのも無理は無いだろう。それにしても、またしても死ぬとか死なないとか。正直、嫌になってくる。
半ば自らを囮にする形で、八雲は前に出た。
「奴らの狙いは俺みたいだ。靖史、皆本。お前らは一旦下がって――」
「おっと、そうは問屋が下ろさねぇぞ。……さっきも言っただろ、俺はこの時のために騒ぎを起こしてたって」
「……だそうだけど、どうする? 渡会君」
環菜が呆れ顔で呟いている。
珍しく感情を露にした皆本環菜の表情は少々新鮮ではあったが、それよりも八雲には靖史の変わり様が信じられなかった。あの夜、殆ど何もできなかったはずの彼はアルボルモンに対して、何ら恐怖を感じていないというのか。デビドラモンという強力な契約者を得ただけでそこまで変わるものなのだろうか。それとも、何か他に要因があるのだろうか。
共に戦おうとする靖史の姿を頼もしいと思う反面、あの夜の光景が頭に浮かんで不安にもなるのは当然だ。
「飛んで火に入る夏の虫はこっちの台詞だ。……殺してやるぜ、アルボルモン」
「小生意気な人間がぁ……! 前と同じように大人しく隅っこで震えていればいいんだなぁ」
「ハッ、言ってくれるぜ! デビドラモン、行くぞ!」
「ひゃーっはっはっはっは! 了解だぜぇ!」
狂ったように笑うデビドラモンが、棒立ちのアルボルモンに突撃を仕掛ける。しかしアルボルモンは何らかの策があるのか、全く動こうとはしない。だが気の所為か、その時の奴の右腕にはD-CASに良く似た手甲が薄っすらと浮かんでいたような気がするのだが。
途端に発光を開始する木の闘士の体。それはアグニモンやグロットモンと同じ輝き。
「アルボルモン、スライド進化――ペタルドラモン!」
現れたのは大木の巨竜。体長が8メートル近くはあり、デビドラモンよりも遥かに大きい。頭部は花の中心に目と鼻と口があるようなイメージ。巨大な体は恐竜を思い出させるが、それは紛れも無く大木で構成されているのだろう。なればこその、木の闘士だ。
だがそれを前にして、靖史とデビドラモンは嘲笑うように呟く。
「……へえ、ペタルドラモンか。でもその程度じゃ俺らには勝てないぜ!」
「きゃははははっ! ズタズタに切り刻んでやるぜぇ!」
初めて見るモンスターを相手に、彼らは何ら臆することは無い。
それは直感だったのかもしれないが、何故か八雲にはその時の靖史の言葉からは、探していた仇敵を発見した喜びというよりは、むしろ古き戦友と巡り合えた懐かしさにも似た感情が滲み出ているような気がしてならなかった。そんなことは、そんなはずは無いというのに。
巨大な体を撓らせて襲い掛かってくるペタルドラモン。だが対するデビドラモンも全く怯むこと無く、果敢に突撃する。
「サウザンドスパイク!」
「クリムゾンネイル!」
繰り出された枝々と一閃される爪が激突し、激しい火花を散らす。
両者の力は全くの互角。だがその事実にペタルドラモンは少なからず驚愕を覚えたらしく、相変わらず間抜けなその表情を僅かに顰めて再度攻撃を仕掛ける。だが結果は同じ。むしろスピードがある分だけデビドラモンの方に分があるかもしれない。
それを確信し、靖史は叫ぶ。
「八雲、ここは俺と環菜ちゃんだけで十分だ!」
「……何で私?」
少しだけ驚いた環菜の表情はまたも新鮮だったが、見惚れている場合ではない。
ブラックガルゴモンもウィザーモンも既に臨戦態勢。戦いは好まないと言っていたウィザーモンでも流石に目の前の戦闘を見れば血が滾るのが、それともそうでもしなければ押し付けられるプレッシャーに耐え切れないのか。何はともあれ、敵は一体ではないのだ。
「お前はその独活の大木を倒せ! この木偶の坊は俺達で倒す!」
「……わかったよ」
「こっちは俺達に任せろ!」
俺達という表現を誇張して、靖史は環菜の手を引っ張っていく。無論、ブラックガルゴモンもそれに続いた。
環菜も気安く触らないでと言いながらも、八雲の時とは違って露骨に嫌そうな表情は見せていない。それが少しだけ気に食わなかったが、今の靖史は別人だ。普段の彼なら、女子に対してあんなに積極的な態度は見せないはず。違和感は相変わらず拭えない。まるで全くの別人が園田靖史の皮を被っているような、そんな感じがするのだ。
ウィザーモンが背後に付く。無論、それは敵に備えるため。
「八雲君、とりあえず今は」
「……ああ。ジュレイモン……だっけ」
目の前に立つ大木を見上げる。確かに体は大きいが、動きは鈍い。どんな攻撃を仕掛けてくるのかは不明だが、負けるつもりも無かった。
自分を静かに見下ろしてくる大木を前にして、龍斬丸を引き抜く。無論、相手を殺すつもりは無い。しかし既に体の一部となり始めているこの剣を抜くことこそが、渡会八雲にとっての宣戦布告。決して躊躇わない、決して容赦はしないという意思表示。奴が攻撃を仕掛けてきた瞬間、こちらも動く。
だがそれを、ジュレイモン自身の言葉が遮った。
「……お主、その剣をどこで手に入れた」
「は?」
「その剣をどこで手に入れたと聞いておる。……申してみよ」
「どこでって……なぁ?」
ウィザーモンと顔を見合わせ、なんとなく気まずげに乾いた声で笑い合う。
奴の目は真摯だった。とても油断させるための策には見えなかった。大木の老獪は値踏みするような瞳で八雲とウィザーモンのことを見下ろしている。少なくとも、騙し討ちする気は無いようだ。だが木の闘士の契約者であるはずの彼が、何故自分達などに興味を示すのか。
「よもや、盗んだのではあるまいな?」
「……失礼ですね。八雲君は正々堂々と一対一でザンバモンと渡り合い、彼の者に勝利したからこそ、この剣を得たのです。盗人などと言われる筋合いはありません」
その強い言動に、八雲は少しだけ気圧された。
ウィザーモンがこんなにハッキリと物言いをするのは初めてかもしれない。だが八雲はまだ気付いていなかったが、ウィザーモンはザンバモンと正面から渡り合った八雲の姿に対して、一種の憧れのような感情を抱いていたのだ。彼のようになりたいと、彼のようで在りたいと、それは戦いを好まないはずのウィザーモンが初めて抱いた感情だった。
そんなウィザーモンの目もまた真摯。それを見たジュレイモンはただ一言。
「……面白い。なればそのザンバモン殿をも退けたという力、わしに見せてみよ」
静かに紡がれるその言葉が、開戦の火蓋を切って落とした。
違和感があった。それが皆本環菜の正直な思いである。
この園田靖史という少年には決まった形が無い。そう感じる。ある時は環菜自身の母性本能をそそるような子供っぽい顔付きでありながら、またある時には情け容赦無くモンスターを惨殺する悪鬼の如き横顔をも垣間見せる。要するに、それは二面性があるか無いかの問題ではないのだ。本来の彼は前者で後者の彼は何かが罷り間違って存在している、ただそれだけの少年なのだ。
だがそれを口にする気は、環菜には無い。元々自分はそんな人間ではないのだ。それ故に、ただ自分の手を強く握って。
「よっしゃ、今だ! 殺せ、デビドラモン!」
飽く迄も契約者の方を向いて、ただ彼に殺せと命じ続ける少年の横顔を見つめるだけだ。
戦闘は十中八九、デビドラモンが優勢で進んでいると言っても間違いは無いだろう。ペタルドラモンは蝿のように飛び回るデビドラモンの姿を殆ど捉えることができず、その攻撃は虚しく宙を掴むのみ。そんなもの、黒竜にとっては脅威にすらならない。
「弱ぇ弱ぇ弱ぇ弱ぇ弱ぇ! 十闘士って言ってもこの程度かよ! ひゃははははっ、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇ!」
「ぐっ……ぐぐぐ……リーフサイクロン!」
「効かねぇよ! 肉塊になりやがれぇ、デモニックゲイル!」
翼を大きく振り上げて巻き起こされた旋風が、ペタルドラモンの放った葉の嵐を容易く吹き飛ばし、その体さえも切り刻む。ここに来て、デビドラモンはパワーの面でも完全にペタルドラモンを凌駕していると言えた。かつて炎の闘士との戦いの際に現れた時から思っていたが、彼はあまりにも強すぎるのだ。
自分とブラックガルゴモンが手出しする隙など、殆ど無いではないか。だから環菜は、ただ一言だけ。
「……何をそんなに焦ってるの?」
そう聞いた。異形同士がぶつかり合う中で唯一、平然と笑っていられる少年に向けて。
「俺が焦ってる?」
「そう。……私は元のあなたを知らないし、だからどう変わったのかもわからない。けれど、何か無理をしてるような気がするから」
その言葉に少年は一瞬だけ目を丸くして。
「あっはっはっはっはっは! 面白いよ、面白いね環菜ちゃん!」
「……笑うところ?」
「ああ、悪いね。君があんまりにも見当違いのことを言うもんだからさ」
狂ったように笑い出す。その目が血走っていることに、彼自身は気付いているのだろうか。
「……いや、俺は焦ってなんかいないさ。それに普段と何ら変わってもいない。もしそう見えるのなら、それは多分八雲の奴の方がおかしいのさ。環菜ちゃんもアイツと一緒にいたんならわかるだろ? ……アイツのどこがおかしいのか、あいつのどこに腹が立つのか」
「……私にはわからないわ。まだ会ってから三日ぐらいだし」
嘘だった。きっと皆本環菜は渡会八雲のことを昔から知っている。決して誰にも、渡会八雲本人にさえ明かすつもりはないが、自分は彼の愚かさと不器用さ、そして優しさの全てに触れた覚えがある。
そうかいと答える靖史の横顔が、少しだけ寂しそうに見えたのは環菜の気の所為か。
だが既に彼は環菜から視線を外し、ただデビドラモンとペタルドラモンの戦いを見つめているのみ。それでも自分の手を握り続けているその力が、環菜にはまるで何かに対する執着のように見えて仕方が無かった。その何かとは、言うまでも無く渡会八雲であろう。最も近い場所にいながら、最も遠い場所を目指す親友。
「……痛い」
握られた掌が痛い。思わず呟いた環菜の声も、恐らく彼には届かない。
親友が凄い奴だと知っていた。知っていたはずなのに、改めて思い知らされた時、それは耐え難い屈辱に近い感情を園田靖史に与えた。それを認めたいのも靖史であるし、認めたくないのもまた靖史であった。その矛盾、その混同こそ彼が園田靖史である証。抑え切れない思いは半ば執着となって、ただ歪んだ形でこの世界に顕在する。
靖史はただ一言、環菜でさえもハッとしてしまうほどの無表情で。
「……もう容赦は要らねえ。ソイツの心臓を突き破ってやれ」
次第に変容していく契約者に向けて、そう呟いていた。
一方、こちらはそんな靖史達とは100メートルほど離れた場所。
龍斬丸を眉間に突き付けられたジュレイモンは、しばし暗黙の表情を見せた。眼前の長剣を真っ直ぐ見つめ返す彼の瞳の妖しい輝きは、彼の考えを全くと言っていいほどに読ませない。そして沈黙の時間が続いた後、ジュレイモンは火を切ったように笑い出した。
「いや~、見事見事! 完敗だわぃ。その力、確かに感服に値するものだ」
「……やっぱり信じてなかったんだな、アンタ」
「そのようですね。……流石はご老獪といったところでしょうか」
八雲の後ろで小さく呟くのはウィザーモンではなく、眩い剣と鎧を装備した魔法戦士。
その姿を振り返って全くだと呟く八雲。それは紛れも無く彼のウィザーモンに対する態度。つまり、その魔法戦士はウィザーモンであってウィザーモンではない存在。その名を完全体ミスティモン、ウィザーモンが進化した姿である。
この姿へと進化したことに関しては、ミスティモン自身が最も驚いていた。知識を探求する自分は、いつの日か自分の師と同じ姿になるのだろうと信じて疑わなかったのだ。ローブで全身を覆い、その中から不敵に輝く瞳を覗かせる賢人、あらゆる知識を知り尽くした魔人、ワイズモンに。
だが八雲の強さに魅せられた自分には、この姿の方が合っている気もする。
「いやいや、全く信じなかったわけではないぞ。……しかし些か迫力不足だったのでな。腕試しをしてもらっただけのことよ」
「……そりゃ少なくとも俺は強面じゃないけど」
「だが、件のザンバモン殿を破り得るだけの気迫は十分に感じ取れた。気に病むことは無い。お主は彼の者が認めた立派な武人だ。確かにその龍斬丸を受け継ぐだけの気概はある」
そう言われると、少し照れくさい。消滅する直前、最後にザンバモンが見せてくれた不器用な笑みが八雲の脳裏には甦る。あの笑顔を見ることができたというだけで、八雲にとってあの戦いは幸福だったと言えるだろう。
ジュレイモンは続けて語る。
「しかし、お主のような者が十闘士の魂を継ぐ者だとはな……」
「……あのな。ザンバモンの奴も言ってたが、俺は十闘士なんかじゃないぞ?」
「ええ。この無愛想で不器用な子が伝説の存在などと、有り得ません」
そう容赦無く言ってくれるな、ミスティモンよ。
しかし、それを言うのなら、あの無愛想で無口かつ唐突に剣を振り翳して襲い掛かってくる血の気の多い奴や、明るく元気だけども突然初対面の男に抱き付いてくるような明るい幼女が十闘士だということは、果たしてどういうことなのか。
「……いや、そういうことではないのだ」
「なら、どういうことなんだ?」
すぐ聞き返すと、ジュレイモンは物分かりの悪い奴だと、これまたどこかの赤髪の闘士が連れている真紅の魔竜と同じような仕草で大きくため息を吐いている。何故かはわからないが、この世界に来て以来、様々な者に同じような仕草でため息を吐かれている気がする。
まるで父親のように真摯な目でジュレイモンは言う。
「今から私が話すことはお主の運命をも左右することになるのかもしれん。……しかし、それを話せばお主が我が主、アルボルモン様と対峙する必要も無くなる。聞いてくれるか?」
それは重要なことだろう。ならば聞くしかあるまい。八雲は小さく頷く。
「うむ。ならば驚かんで聞いて欲しい。お主は十闘士の……ぐあっ!?」
「なっ、ジュレイモン!?」
思わず口から出たのは悲鳴。それぐらい驚いた。
「……な……に?」
耳に届いたのは掘削用のドリルで木の幹を穿ったような、そんな音。
それでジュレイモンは命を落とした。きっと彼自身にも自分の身に何が起きたのか、それを理解することはできなかったろう。それを実際に目にした八雲とミスティモンにさえも、目の前で起きた光景は信じられないものだったのだから。
棒立ちのまま硬直するジュレイモン。その大きく開かれた眉間から、紫紺に塗れた異形の手が生えていた。
「がはっ……!」
大木の老獪が地響きを立てて倒れ伏す。それで終わりだ。既に彼の者を救う手立ては無く、また先程の話の続きを聞くことさえも叶わない。その命は絶たれ、後に続くものは何も無い。それが完全なる死。その存在がこの世から消えるという事象。
茫然自失。それがその時の八雲を最も体現している言葉だった。ジュレイモン、数秒前まで敵であるはずの自分達と話し合い、高らかに笑い合い、そして互いの力量を認め合ったはずの存在。この世界でブイドラモンに続いて出会った“いい奴”と呼ぶべき存在。それがこうも容易く命を失った。その事実が信じられず、八雲は何も反応することができない。
だがミスティモンは違う。倒れ伏したジュレイモンの背後から現れた異形に、殆ど怒りにも似た声で抗議の言葉を投げ掛けていた。
「何のつもりです……!」
「敵だからぶっ殺してやっただけだろ? 一応俺達はお仲間ってことになってんだからよぉ。あっさり騙し討ちにでもされて死んだら寝覚めが悪いしな。見てみろよ、コイツのご主人様もあの様だ」
その異形が顎で杓った先にいたのは、仰向けに倒れ伏しているペタルドラモンの巨体。
既に息は無く、ただ粒子化の時を待つのみ。その腹には奴の手によって大穴が開いていた。容赦無い一撃だった。逆に言えば苦しませずに殺すという奴なりの慈悲も含んでいたのだが、そんな偽善が既に死した者に通用するはずも無い。
塵芥となって消えていく木の闘士の体を見据えながら、その異形は猛り狂う。
「へっ、俺から言わせりゃテメエらの方が信じられないがな。こんな元々敵だった雑魚と仲良くお喋りなんかしてるんじゃねぇよな、この馬鹿どもが。……ひゃははははっ、ひゃーはっはっはっは!」
嘲笑うように吐き捨て、靖史の方へと歩み去っていくモンスターの視線が、一瞬だけミスティモンとぶつかり合う。そんな奴の姿は読んで字の如くの悪魔のような異形。生贄の山羊をも思わせる頭部と不気味な双翼に加え、人型であるにも関わらず下半身は紛れも無く獣のそれ。デビドラモンよりも僅かに小型化しているようだが、その身から放たれる邪悪なる波動は明らかに奴以上だ。
ペタルドラモンとジュレイモンを何の容赦も無く葬り去ったその異形の名は。
「アイツは……!」
メフィスモン。
・
・
◇
第28話:『闇』の正体
次の日、八雲は終始無言だった。
環菜が作ってくれた料理も全く手を付けなかった。その時だけ、僅かに膨れっ面になるというレアな環菜の表情を見ることができたのだが、八雲には殆ど興味の無いことだった。今では何も喉を通りそうにないし、そんな状態で環菜の手料理を頂くこと自体、何か失礼な気がしたのだ。
無論、それこそが八雲の悪しき部分であることを、彼自身はまだ気付いていなかった。
「……八雲君、少しは何か食べなくては」
「いや、いい。何よりも今はアイツと……靖史とは顔を合わせたくないしな」
ミスティモンの言葉にも小さく首を振る。ちなみに、彼は大きさ的に部屋に入れないため、ベランダに留まる羽目になっており、八雲も今は彼の隣に腰掛けている。
何気なく家の中を見やると、相変わらず炬燵でお茶を啜っている環菜と、そんな彼女にモーションを掛けようとしている靖史の姿が見えた。ブラックガルゴモンが部屋の隅に追い遣られているのも、この二日間で全く変化が無い。なお、メフィスモンはこの場にはいない。どうやら、靖史は彼を放し飼いのような状態にしているらしい。
問題は奴のことだ。無論、それはメフィスモンのことであり、また奴が他の場所で殺しを働いているかと思うと、気が滅入る。しかしそれを否定できるだけの意志も、更には止められるだけの力も、今の渡会八雲には無いのだ。事実、恐らく自分達だけでは倒せなかっただろうペタルドラモンを、靖史達は容易く倒してみせたのだから。
だから気分を切り替えるために、昼寝でもすることにする。しかし枕の上に頭を乗せると、どうしても眉間を貫かれて消滅するジュレイモンの姿が脳裏を過ぎってしまう。彼はあの一撃で死んだ。そして、それを行ったのは紛れも無く自分の親友なのだ。
そう、あの瞬間に靖史は間違い無く一つの命を奪い去った。しかも、彼はその前にもデビドラモンと共に十闘士を誘き寄せるという名目のためだけに、何体ものモンスターの命を奪っていたという。その行為だけは絶対に許せないと思う。だがそれでも彼は自分の親友だ。朱実と別れて以来、初めて本気で語り合うことができた、渡会八雲にとって大切な親友なのだ。
だから彼を糾弾すべきか、正当化すべきか。それが何よりも八雲を悩ませていた。
血を吐く思いで河を見つけた。
彼女自身は全く知らないことだが、この河は数日前に炎の闘士の前に敗れ去った彼女の幼馴染が落下して流された河である。つまり、この河の上流が二宮市。
「やった、これで後はこの河を上っていけば二宮市に着くはずだね!」
「……長い道程でしたね」
ナイトモンの苦笑に全くだと答えるのは朱実。自分が方向音痴の所為で、散々路頭に迷ってしまった。一日歩き通して殆ど進まなかった日すらあった気がする。もしも無事に元の生活に戻れたなら、多少なりとも地図の使い方をマスターしなければと思う。
何はともあれ、ようやく東京を出ることができた。所要時間、約五日。
東京に入る時にはベルゼブモンと戦い、また街中を彷徨っている最中にも様々なモンスターと戦闘を繰り広げる羽目になった。その中でも最も苦戦したのが、あのジャンヌという黄金の幼女だろう。彼女が果たして本当に人間なのか、また何を目的として自分を殺しに来たのか。現時点では、それすら判然としていない。だがこの三日間、襲ってくる気配が全く無いことから、もしかしたら諦めたのかもしれないとも思える。無論、油断は禁物だろうが。
そして、朱実には懸念事項がもう一つある。それは。
「……ナイトモン、背後の警戒は常に怠らないでよ?」
「了解しました」
「いつ仕掛けてくるのか、正直そこまではわからない。すまないけど、その時はまたアンタの力も頼りにさせてもらうから」
その問いにナイトモンは微笑みと共に首肯。彼女の頼りにしてもらえること自体、この騎士にとって最大の名誉。なれば、朱実にこのようなことを言われて嬉しくないはずも無かった。元来、長内朱実という少女は何事も一人で解決してしまいがちな性分を持つが故に。
だから背後には気を配り続ける。せめてもの気遣いである。
あの時、ジャンヌを退けた時から感じられた気配は微弱。だが少なからず自分達にとって好意を抱く存在ではないことは容易に感じ取れる。つまり、必ずや仕掛けてくるであろうことが推測できた。故に残る問題はその相手の強さだけだ。
尤も、その相手が如何なる者であろうと、長内朱実が負けるはずは無いと、ナイトモンはそう思っていたわけだが。
その確信が崩される時が近いことを、彼はまだ知らなかった。
その夜、散歩がてら八雲がミスティモンと共に公園に入ると、そこに人影が見えた。
「……靖史」
「よう、散歩か?」
小さく首肯。だが会いたくない相手と会ってしまったことで、無愛想な面は隠せない。
それに靖史は露骨に寂しそうな顔をする。こういうところは八雲が良く知る園田靖史のままだ。だというのに、彼の隣に立つ異形の存在を鑑みただけで、その雰囲気が全く異質なものに感じられてしまうのだから驚きだ。
当のメフィスモンは八雲とミスティモンを見やり、小さく舌打ちした。
「……お前こそ何してんだ」
「お前を待ってた」
思わず目を点にした。靖史は今、何と言ったのか。
眠気で頭脳がやられているのかもしれない。軽く頭を叩き、背後のミスティモンを見やる。仮面に隠された顔の下で、奴は困ったような顔で苦笑しているらしい。君の頭は平常ですよとでも言いたげな仕草だ。つまり、それは。
「何のためにだよ?」
「お前と本気で戦いたいと思ってたんだ。つまり決闘だな、もちろん契約者も一緒に」
決闘。あ~、あの古代ローマのコロッセオで行われるあれか。……って、待て。
「……本気なのか?」
「俺は冗談の方が多いタイプだけどな、今回ばかりは本気だ」
聞くまでも無い。目を見ればわかる。靖史は本気だ。
だが受ける気は更々無い。こんな場所で彼と戦ったところで何になるというのだ。彼を折檻する決心も未だに付いていないし、何よりもルール無用で契約者も一緒にという形では洒落にならない。靖史は舐めているのかもしれないが、ミスティモンの力とて並大抵のものではないのだ。それは共にジュレイモンと戦った八雲が一番知っている。
だから、最初から答えは決まっている。
「断る。……くだらないこと言うなら俺は帰るぞ」
「……何でだ?」
「戦う理由が無いからな。悪いけど、俺はお前とは戦いたくなんてないし、戦って得るものも何も無いんだ。……だから、戦わない」
それは挑まれた勝負からは退かないという八雲の信念に反する答えだ。
けれど、その答えは決して揺るがない。この後、彼が何と言おうとも、渡会八雲は園田靖史と戦うことに意味など見出せない。故に戦わない。それは今の八雲が今の靖史に与えられる、唯一無二の答えだ。それでわかってもらえないのなら、最早自分が靖史に言える台詞は無いのだから。
だが靖史はそんな八雲の思いにも気付かなかったようで。
「逃げんのかよ?」
「……そう思いたきゃ、そう思えばいい」
挑発になど乗らない。そもそも、親友と戦う気など微塵も無い。
靖史が今までしたことを許さないと言い切ること自体は簡単だ。だがそうしたところでジュレイモンは生き返らないし、彼が言おうとした言葉を聞けるわけでもない。それに何よりも八雲自身が最も良く知っているのだ。死者は生き返らず、二度と戻れないということを。
言葉で語るのでは駄目なのだ。それでは靖史は永遠に気付かない。誰かを傷付ける悲しみ、誰かを失う痛みというものを。だから今の八雲に言えるのは、ただそれだけの言葉のみ。
そんな八雲の態度を、靖史は果たしてどう思ったのか。
「そっか。……俺と戦っても結果は見えてるって、そう言いたいわけだな、お前は」
「そうは言ってないだろ」
「お前が何と言おうとさ、俺にはそう聞こえるんだよ」
その言葉に含まれていたのは寂寥感なのか。
瞬間、俯いた八雲の耳に響いたのは空気を切り裂くような鋭い音。それが、自分の顔面に迫る靖史の拳だと気付いた瞬間、八雲の体は神経が反応するよりも早く動いていた。驚く暇さえ存在しない、まさにコンマ数秒の世界。それを避けた八雲も、また放ってきた靖史も尋常ではなかった。
「なっ――?」
「……へえ、まさか俺の拳が見えるとはな。人間界でのことだとはいえ、流石に生身でアルボルモンを退けただけのことはあるな、八雲」
「靖史、お前!?」
その酷薄な笑みを前にして、八雲は咄嗟に飛び退いた。
だが大きく飛び退き、八雲が着地する前に瞬時に接近してきた靖史が、強烈なミドルキックを連続して放ってくる。その速度は靖史とは思えないほどに速い。襲い来る連撃を上手く受け流しながら距離を取りつつも、八雲は己が心に思考を埋没させる。八雲の知る限りでは、靖史はこの上ないほどの運動音痴だったはずだ。こんな蹴りを連続で出せるほどの力は無い。
つまり、コイツは自分のよく知る園田靖史ではない――?
明らかに今の靖史の動きは自分と互角か、それ以上だ。受け流すことしかできず、だからと言って彼が相手では反撃することもできまい。誰かに操られている可能性だってあるし、何よりも自分は靖史を傷付けたくないのだから。
だから心は必死だ。靖史を止めなければ、自分は彼を傷付けることになってしまう。
咄嗟に身構えたミスティモンは、その背後に幽鬼の如く立つメフィスモンにより牽制され、その動きを封じられている。つまり、最初から彼らはそのつもりだったというのだろうか。今までのことは問答無用で戦いに持ち込むための布石にすぎなかったというのか。
「何でだよ、何で――!」
「へっ、相変わらずおめでたい奴だな、八雲! 人を疑うってことを知らない、そんなだから俺みたいな雑魚にも付け込まれるんだぜ!」
「くっ……誰かに操られてんのか! だったら戻れよ、元のお前に!」
瞬間、その言葉に何か思うところがあったのか、靖史は暴風のような動きを停止させた。
そこで八雲は一息吐く。靖史の方も肩で息をしていることから、奴の体力もかなり消耗しているのだろう。靖史は戦意こそ高いものの、先程の動きを続けられるほどのスタミナは無い。ならば、一度動きを止めた時こそが戦いの終了を告げる時だ。
故に八雲はホッとした声を出す。
「靖史、やっと落ち着い――」
「なあ八雲。なら逆に聞くけどさ、元の俺ってどんな奴なんだ?」
「えっ……」
不意に紡がれた声。その声は凍り付くような冷たさを纏っている。
「……妙な怪物を前にして空き地の隅っこで震えることしかできない情けない奴か? 休日に女の子をナンパして全敗した格好悪い男か? 学校行事で目立とうとしても必ず失敗する無様な野郎か? ……それとも、お前を引っ張ってるつもりになって、実は引っ張られてる馬鹿な道化なのかよ?」
「な、なんだって……?」
「そうだ八雲。お前は誰より強く、優しく、そして人望もある。それなのに、そんなお前はその事実を認めようとしない。俺や他の連中がお前をどれだけ羨ましく思ったのか、お前は知らないだろ? ……当たり前だよな、お前は自分のことを、どこまでも大した奴じゃないって思ってんだから」
正直、寒気が背筋を走った。無表情で紡がれる園田靖史の声には、最早憎悪しか含まれていなかったのだ。
そんな馬鹿なことがあるはずが無いと思った。自分は靖史のように裕福で人当たりがいいわけでも、また稲葉瑞希のように明るく世話焼きでもない。むしろ貧乏で極めて無愛想な人間なのだ。その自分が誰かに羨ましがられることなど、有り得ないと思って生きてきた。
それに、義父が死んだ瞬間から、自分はいつでも他人に一歩譲って生きようと決めたのだ。自分が自身を前面に押し出すことで誰かが傷付くというのならば、渡会八雲は裏方に徹することで誰かを助けていこうと、そう決めた。それは心身共に成長しすぎた八雲が己の力を上手く封じ込める、一種の処世術だったのかもしれない。
故に八雲はひたすら自分を卑下してきた。実際、渡会八雲という人間は誰かを傷付けることが怖い。誰かに涙を与えることが酷く怖い。だからクラスでも目立たない生徒を演じ続けた。友人が好意を抱く女子から遊びに誘われることがあっても、その友人のことを鑑みて丁重に断った。何事にも遠慮と気配りを忘れない様は、他の人間には少しばかり神経質に見えたかもしれないが、八雲自身がその在り方を後悔したことは、今まで一度も無い。
けれど、そんな自分の在り方に靖史は憎悪を抱く。その理由がわからない。
「靖史、お前……」
「……だから消えろよ、お前はここで」
幽鬼のように笑い、靖史は己が上着の右腕の袖を軽く捲った。
そこで八雲は彼のD-CASをまともに目の当たりにすることになる。恐らく材質は同じだろうが、闇の中で照り映えるその様は、今の彼の心を表すかのような禍々しさに満ちている。だが色以外で唯一八雲や朱実が持つものとの相違点があるとすれば、靖史D-CASは炎の闘士や光の闘士のものと同じく、彼の両腕に装着されているということだろう。
そして、その側面に描かれているのは、紛れも無い〝闇〟の一文字。
「靖史、お前まさか……!」
「……スピリットエボリューション」
放たれる闘気はアグニモンやヴォルフモンと同等か、それ以上。
彼の両腕から染み出したのは、まるで負の念の集合体。それだけで、バケツで黒いペンキをぶちまけたかのように、周囲が漆黒に覆われた。放たれる暗黒の波動が全身に纏わり付き、文字通り火傷でもしているかのような激しい痛みが八雲の全身に齎される。まるで炎の中に放り込まれたようだ。
だが目を逸らすことはしない。奴が靖史であるのなら、渡会八雲は誰よりも奴と向き合わねばならないのだから。
「闇の闘士、ダスクモン!」
そうして現れたのは闇の闘士。八雲が朱実と初めて共に相対した魔人だった――。
【解説】
・ミスティモン
八雲の契約者であるウィザーモンが進化した姿。
元々ウィザーモンはワイズモンなるデジモンに師事しており、本人もワイズモンに進化することを信じて疑わなかったが、八雲との出会いや気質に影響され武人に近付き始めた証左としてこの姿へ進化を果たした。
必殺技や得意技がどういう技なのかよくわからない不遇のデジモン。あとなんでウィルス種なんだろうコイツ。
・メフィスモン
靖史の契約者であるデビドラモンが進化した姿。デビドラモンの時点で作中最強のデジモンであったが、完全体への進化を果たしたことでペタルドラモンすらあっさりと殺害する強さを発揮することになる。ミスティモンの宿敵にして絶対に相容れない天敵。
作者の大好きな完全体の一体。デビドラモンからの進化ルートはBo-42tやデジモンカードαをルーツとしている。
【後書き】
作者がサボりまくっていたので二年近く空いてしまいましたが、第一話より登場していた闇の闘士がようやく再登場。作者は十闘士の中ではダントツでダスクモン(ベルグモン)が好きであります故、ここは貯めて貯めてようやっとの登場となります。
元々ダスクモン、ヴォルフモンよりアグニモンと対になるようなデザインだと思うんですが、アニメだと輝二と輝一の関係にシフトしてしまい、拓也がダスクモンに再戦を挑む展開は無かったのが残念だったので、本作ではそれも意識して徹底的に『炎』と『闇』は対立する属性、相容れない存在として描写しています。レーベモン(カイザーレオモン)になればヴォルフモンと対の存在にシフトできる気がしますが果たして。
それでは、第一部もおおよそ佳境に入って参りましたが、次回もお付き合い頂ければ幸いです。
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