第23話:そこに立つ者
奔る閃光と閃光が激突し、弾けた。
半日前に水の闘士、カルマーラモンをも容易く退けたリヒト・シュベーアトは、メルキューレモンの両腕に備わったイロニーの盾により軽々と弾き返されていた。しかも、光刃を弾き返したにも関わらず奴の盾は何ら傷付かず、その眩いばかりの輝きを失うことは無い。流石に十闘士の中でも最大の防御力を誇ると言われるメルキューレモンだ。
だがスピードは緩慢だ。事実、奴はヴォルフモンのスピードに圧倒されている。
「……流石だな光の闘士。その閃光の如き速さは健在というわけだ!」
「黙れっ!」
奴の言葉を無視し、一撃を浴びせる。まるで自らの体を弾丸と化すような一撃だ。
光刃を連結させて振るわれたその一撃は絶大な衝撃を鋼の闘士に与え得る。盾で防ぎながらも、その攻撃は流石のメルキューレモンにも効いたのか、その衝撃を受け止めるように大きく後方に跳躍する。体自体にダメージは殆ど無いようだが、鋼の闘士とて光の闘士に対して手を抜ける相手ではない程度の認識は抱かざるを得まい。
だが、それはおかしいとも言えよう。そもそも、光の闘士の一撃はそれだけで大抵の相手を切断してあまりある。それを受けても大きく吹き飛ぶだけで済んでいる鋼の闘士の防御力の方が相手にとっては驚きと言えるのだから。
瞬時に光刃の連結を解除させ、双刃を閃かせて突撃。それを鋼の闘士は再び両腕の盾で受け止める。
「リヒト・ズィーガー!」
「ジェネラスミラー!」
全ての攻撃を弾き返す鋼の闘士の必殺技。
しかし光の闘士の全力を注がれたその攻撃は、今までよりも遥かに重かった。容易には弾き返せず、光刃と盾とが鍔迫り合う。単純な力は殆ど互角か、またはメルキューレモンの方が僅かに上ぐらいか。十闘士同士のぶつかり合い。それが空気を震撼させ、大地を揺るがす。
押し相撲だけで勝つことはできない。けれど、ヴォルフモンは強引に押し返そうとする。
「……必死だな、ヴォルフモン。何が貴様をそこまで突き動かす?」
「お前には関係の無いこと! 私はただ、守るべき者のために戦うだけだ!」
「なるほど。確かに貴様と炎の闘士は我らの中でも異端の者であったからな。……そういうこともあるだろう」
笑いながらヴォルフモンを突き飛ばすメルキューレモン。
そんな鋼の闘士を前にして、ヴォルフモンは唇を噛む。遠慮は無用だと奴は語った。実際、奴自身も手を抜いているつもりは無いのだろう。だが、それでも奴にはまだ先がある。知力と戦略に長けた闘士でありながら、奴の在り方はむしろ八雲や朱実に近い。
事実、メルキューレモンは盾以外の武器を持たない。即ち外見の印象に反するかもしれないが、奴が最も得手としているのは近距離で足を止めての殴り合いである。そんな奴が格闘戦を挑んでこずして、何が全力と言えるだろうか。
つまり、今の自分では奴には勝てない。ならば勝機は一つだけ。
「ビースト進化か? ……やめておけ。今の貴様にあの力を制御し得る心力は無いはずだ」
「くっ、相変わらずいけ好かない奴!」
読まれている。そして、確かに奴の言う通りなのだ。
あのカルマーラモン戦で実証されたように、今のジャンヌではビーストスピリット、ガルムモンの力を制御することはできない。あの時に暴走して八雲を傷付けそうになったことは、今も彼女の胸の中にしこりを残している。
「……くっ」
今のままでは勝てない。それは事実だが、だからといってビースト進化に頼ることもできないとは。
それを嫌というほど実感したからこそ、敢えて隙を晒す覚悟で進化を解いた。無論、ジャンヌとて負けを認めたつもりは無い。ただ、純粋に奴と言葉を交わす気になったというだけのことだ。故にその心の中の滾る戦意は決して失われないし、毅然とした瞳もヴォルフモンの時と全く同じだった。
そんな彼女を前にして、歌い上げるような口調で鋼の闘士は語る。
「守るべき者のための強さ……か。なるほどな」
「何よ、文句があるっていうの?」
「だが貴様の望みはやがて我らが守るべき、我らの世界を滅ぼすことになるやもしれぬ。……それでも、貴様に後悔は無いのか?」
「……無いわ。たとえ全世界を敵に回そうとも、私は絶対に八雲を守るんだから」
真っ直ぐなその視線。年相応の無垢さを内包したその表情。
それが何よりも鋼の闘士の胸を穿った。元より彼は真っ直ぐなもの、純粋なものに弱い。これは何故だろうか。幾度と無く思案してきたその疑問。だが未だに理解には及ばない。だから彼は自らが鋼の闘士であるから、謀略という醜き戦略しか立てられぬ者であるからこそ、真っ直ぐな者に憧れるのだと、そう考えることにしている。
「……良い目だ。貴様の心意気、確かに我が心に伝わった」
「アンタに認められた……ってこと?」
ジャンヌの問いに、鋼の闘士は首肯を以って答えた。
「ならば長内朱実と戦い、その上で私に示してみせろ。貴様の望む未来、貴様の進むべき道とやらを。……尤も、そのことが貴様自身に光明を齎すとは限らんがな」
「……わかってるわよ。この身は確かに光の闘士。けれど、私は自分自身が誰かにとっての光になれるだなんて自惚れたことは一度も無いんだから。光の闘士、ジャンヌは飽く迄も八雲を守るための存在。それ以外の何者でもないし、それ以上を望むつもりも無いわ」
ハッキリと答えながらも、最後に「アンタに示す気は無いけど」と不貞腐れたように付け加えることも忘れない。
その答えを前にして、鋼の闘士は貴様らしいと笑う。光の闘士と炎の闘士。十闘士の中でも彼らだけは異端の存在であり、同時に対極の存在でもあった。異常とも思えるほどに自分達の世界を守ろうとする炎の闘士と、十闘士でありながら世界の守護者としての使命が希薄な光の闘士。そんな対照的な二人が十闘士の中で最強と目されていることは、これもまた世の常というべきか。
だが、世は常に無情で無常。こう在るべくして在るのだから、世界はこうして成っているのだろう。そのことに文句を言うつもりは、更々無い。
「……なら行ってもいいのかしら。早くしないと朱実を見失っちゃう」
「フッ、まあいいだろう。行くがいい。……貴様と長内朱実との戦い、私は影ながら傍観者として観戦させてもらうことにしよう」
そんな鋼の闘士に、ジャンヌは露骨に嫌そうな表情を浮かべた。とはいえ、その彼女の表情は今までのような敵意に満ちたものではなく、年相応の少女が腹立たしさに頬を膨らませているような、そんな自然な印象があった。
対するメルキューレモンもまた、微かに口の端を上げる。
「……アンタね、昔から思ってたけど、そういうのは趣味が悪いって言うのよ。でも……本当に構わないわけね? 私が朱実を殺しちゃっても」
「微塵も構わん。そこで死ぬようなら彼奴はそこまでの女だったと、それだけのことだ。……とはいえ、貴様が彼奴を討ち漏らすようなことがあれば、その時は私に譲ってもらうぞ。彼奴は元々私の獲物なのだからな」
鋼の闘士の言葉に「もちろん」と答え、少女は踵を返す。
そんな光の闘士の後ろ姿を、鋼の闘士は僅かながらも哀愁を感じさせる表情で見送る。人間で言えば外見年齢は10歳前後の彼女。そんな彼女が世界の秩序を揺るがす事象に立ち会っているのだから、やはり世の中とは御し難いものだ。元気良く歩き去っていく光の闘士、ジャンヌの後ろ姿のどこに、世界の守護者としての面影があるだろう。
寒い時代だな。まるで娘を心配するような父親のような気分で、鋼の闘士は思考する。
「だが長内朱実を失った時点で、恐らく渡会八雲も生きてはいられまいよ。その事実に貴様が気付けぬのは誠に遺憾だな。ジャンヌ……いや、舞矢(まいや)よ」
懇願にも似たその言葉が、ジャンヌに届くことは無かった。
話し込むというのは怖いもので、気付いたら朝になっていた。
八雲とウィザーモンは相変わらず渡会家に向かって歩いている。この際、成り行きとはいえこの環菜とか名乗る少女とブラックガルゴモンにも、一緒に来てもらっている。彼女達からは聞きたいことが山ほどあったし、何よりも彼女達を放っておいたら何をしでかすか知れたものではない。
正直な話、八雲としては心配なのである。いきなり自分に襲い掛かってきたような無茶さもあるが、結局のところ彼女は普通の女の子らしかったから。
「……なるほどね。つまり俺や朱実の同級生なんだな、お前って」
「一応そういうことになるわ。……尤も、私の方としてはお近付きになりたくない人種だったけどね、あなた達は」
なかなかの手厳しい意見だ。
とはいえ、彼女が本当に自分達の同級生であるなら、仙川八雲という昔の名前を知っていたことや、出会った当初に見せた自分に対する嫌悪感剥き出しの態度、それと朱実の名前に反応したことにも納得が行く。
この皆本環菜と名乗った少女は、先程の言葉通り八雲や朱実の小学校時代の同級生らしい。しかも朱実とは今でも同じ高校に通い、更には同じクラスだというから驚きだ。
尤も、今の彼女からは信じられないことではあるが、本人曰く小学校時代は何をしても目立たない平凡な女子生徒だったという。八雲や朱実と同じクラスになったことは一度か二度しかないというが、その噂は彼女にも響いてきたそうだ。そんな彼女は、ただ闇雲に力を振るう八雲や朱実のことが許せなかったのだという。
気持ちはわかる気もする。とはいえ、自分達は無益に他人を傷付けたことは一度も無いという自負もあるわけで。
「私の兄貴って、あなた達の所為で一ヶ月ぐらい引き篭もり気味になったのよね」
「ぐっ。そ、それは……」
嫌なことを思い出させてくれた。
四年生の頃、八雲と朱実が所属していたのは卓球クラブだったと記憶している。クラブとは基本的に四年生から六年生の生徒が所属するもので、何曜日かの六時間目に行われる。八雲と朱実は卓球クラブで随一の腕前の持ち主として名前を馳せていたのだが、同じクラブの六年生が同級生から執拗なイジメを受けていた。どこの学園ドラマだよと突っ込みたくなるばかりだったそのイジメは、見ていて不快になるほどの陰湿さだった。
当然、それを見て黙っていられる八雲と朱実ではなかった。給食後の昼休み、示し合わせたかのように廊下で顔を見合わせて決意を固め、六年生の教室に直行、そして凶行に及んだ。自分達よりも遥かに背の高い連中を相手にして、二人は全く退かなかった。反撃を避けるのではなく敢えて受け止め、その無防備な体に容赦無く一撃を浴びせた。静かだった教室は一瞬にして修羅場へと変貌した。
当然、次の日に保護者である義父が学校に呼び出され、二人自身と共に厳重注意を受けた。後になってから思えば、自分達の暴力沙汰が問題になったこと、また朱実はともかく八雲が人前で自発的に暴力を振るったのもあの時が最初で最後だった。
そして、あの時に壊滅させたイジメっ子集団の一人に、環菜の兄がいたというのだ。
そう、少しでも考えればわかっていたことだった。イジメを止めるために暴力を振るっているようでは連中と同じだということを。少なからず大人になった今では、そんな自分の行為が愚かだったことには口を挟む余地も無い。けれど、あの時の自分は純粋だった。許せない者には容赦無く断罪を下す、そんな少年だったはずだ。
そう考えると、朱実はあの頃から全く変わっていないのかもしれない。そんな彼女に対して僅かにも危なげを感じると同時に、逆に羨ましさを感じている自分がいることも、八雲はまた知っている。
「……それで俺を襲ってきたってわけか」
「ええ。闇雲に暴力を振るっていたあなたに、その思い上がりを叩き潰してあげようかなって思ったんだけどね。……まさか負けるとは思わなかった」
「俺も驚いた。いきなり襲い掛かってくるんだからな」
素直に驚きの言葉を述べてやる。折角だから、頬を赤く染めるとかはにかむとか、そんな女の子らしい仕草を見てみたかったのだが、案の定皆本環菜は小さく「……そう?」と呟いただけだった。特に反応を示すこともなく、彼女の顔は相変わらずの無表情。感情の起伏が無さすぎてむしろ怖くなってくる。
なんとなく知人として、また友人として付き合っていくのは難しいタイプではないかと感じた。
しかし過去に自分や朱実と関わったことが殆ど無いということは、やはり彼女はあの香坂神社の一人娘ではないらしい。そもそも、あの神社の一人娘なら普通に考えれば苗字が香坂であるはずなのだ。だから当然といえば当然なのだが、少しだけ残念でもある。何はともあれ、あの女の子は何年も前に死んだのだ。自分にそう言い聞かせることで、渡会八雲はあの子の思い出を振り払おうとしているのかもしれなかった。
それに一つだけ、違和感がある。皆本環菜、彼女について八雲は何か忘れていることがあるような気がしていた。
「それで、やっぱりお前も何でこの世界に残されたのかは知らないんだな?」
「……そうね。あなたに会うまでは状況把握だけで精一杯だったし」
「あっはっは、そんなの考えるまでも無いさぁ。環菜は僕と出会うために残ったんだよぉ」
言うまでも無いとばかりに、彼女の契約者が陽気な声で笑う。
戦いが終わった途端、一番性格が変わったように見えたのが、このブラックガルゴモンだった。本来の彼は明るくノリ良く馴れ馴れしい性格らしく、あの戦いの時に見せた冷徹な狩猟者としてのイメージは粉微塵に砕け散ったと言える。ウィザーモンも困惑しているようだ。
尤も、その意味では環菜よりも付き合いやすいとも言えるのだが。
「それじゃ聞くがな、ブラックガルゴモン」
「な、なんだよぉ?」
「……お前はこの世界に関して何か知らないのか?」
まともな答えを期待していたわけではない。少なくとも、彼がウィザーモン以上にこの世界のことに精通しているということはないだろう。それは、彼の飄々とした顔立ちを見ただけでも理解できよう。だから、その質問も思い付きにすぎない。
それにブラックガルゴモンは思案するように俯き。
「確証は無いんだけど、多分この融合世界の基点になってるのはこの町だと思うなぁ」
「融合世界の……基点?」
「うん。あの山の上の神社は見たぁ? これは多分の話だけど、あそこが融合世界の中心点だろうねぇ。……あの神社はかなりの聖地らしいから、そのデータを十闘士の遺跡に入れ替えたんじゃないかなぁ」
山の上の神社。それは言うまでも無く、あの香坂神社のことだろう。
正直、驚いた。この何も考えていなさそうな奴が、何の感慨も無しに十闘士のこと、この世界のことを語ってみせたのだから。尤も、その神社に遺跡を入れ替えたという事象が意味するところを、一介の高校生にすぎない八雲は全く理解できないのだが。
だがウィザーモンには理解できたらしい。彼は明らかに動揺した目で呟いている。
「ば、馬鹿な……い、いや、それなら確かにあのザンバモンのことも頷けますが……」
「……ウィザーモン?」
「あっ、すみません。……少し取り乱しました」
だがザンバモンと聞けば、八雲とて黙ってはいられない。そう、自分が腰に差す龍斬丸は、そもそも奴から受け取ったものなのだ。奴の力を認め、奴から認められたからこそ得た、渡会八雲の渡会八雲としての証。それを託してくれた者を忘れろという方が無理な話であった。
そんな八雲に、ウィザーモンは僅かに顔を顰めながら。
「あのザンバモンと出会った首塚を思い出してください。あそこは、元より武将の首塚だったのでしょう?」
「ああ、確かそうだったと思う。……ってことは、まさか――」
「……ええ、こう考えると納得が行きませんか? つまり、今の世界は八雲君達の世界と我々の世界が細部まで混じり合っている状況だと推測できます。だとすれば、話は簡単になりますね。二つの世界の間で入れ替えられたのは我々のみならず、我々の世界のあらゆる事象だということですよ」
【反転】。それは紛れも無く、全てを入れ替える行為。
「ですから、なんとなく人間界がいつもと違うと感じていると言っていた八雲君は正しいのでしょう。当たり前でしょうね、今のこの世界は我々の世界の事象……例えるなら、あのザンバモンの首塚のようなものが、人間界での属性に近いものに憑依している状態なのですから」
「……そういうこと。だから私は、世界を元通りにする方法を探そうと思うの。だって気持ち悪いじゃない、今の世界って」
確かに気持ち悪いという環菜の意見には同感だ。
今の自分はウィザーモンに依存しなければ生きていけない脆弱な存在でしかない。他者に寄り掛かることは八雲の最も不得手とすることであるし、何よりも気に食わない。ウィザーモンに悪いと思うし、また生きている実感が湧かない。
できることなら、彼とは本当の意味での〝相棒〟として出会いたかったと、そう思う。
「そうだよぉ。だから、僕と環菜は色々と町を回ってみたんだよねぇ。それで気付いたんだけどさぁ、どうやら世界の基点って、この町の他にも………………誰だ、アイツ?」
「アイツ……?」
ブラックガルゴモンの言葉に、彼の視線の先に目を向ける。
そこは既に八雲が住んでいるマンションの前。お世辞にも新築とはいえない建物だが、汚いながらも部屋はそれなりに広いので、八雲は結構気に入っていた。その薄汚れた建物の前に、見覚えのある――というより、忘れたくても忘れられない男が腰掛けていたのである。
思わず身構える。それは己が本能から。
「……誰?」
「お前……何でここに」
「とっくに死んだかと思えば、女連れでご帰還とは……存外にやり手なのだな、渡会八雲」
そいつは、さも当然のようにマンションの前の段差に腰掛けていた。相変わらず大柄な斬馬刀を手元に保持しつつも、すぐ後ろに環菜を伴って自宅まで戻った八雲のことを不敵な笑みで眺めている。相変わらずの嘲笑うような視線は、やはり好きになれない。
その男の名はクラウド。忘れるはずもない。
渡会八雲が長内朱実以来の敗北を喫した、伝説の力を纏う炎の闘士。
「あの戦い以来になるかな? ……生きていることは想定の範囲内だったが……」
大きく嘆息し、クラウドは立ち上がる。
その仕草は腹立たしいほどにわざとらしい動作であった。八雲にとって唯一無二の強敵。この世界に残されて間も無い渡会八雲の前に現れ、その圧倒的な力を以って彼を窮地に陥らせた炎の闘士。そんな曖昧なイメージのまま、奴はそこにいる。
何故か驚かない、というより驚けない。奴が平然と自分の家の前にいることに対しても。
相変わらず、炎の闘士の顔には冷徹な笑みがある。かつて戦った相手に対する感慨など、奴は微塵も感じてはいまい。そう、奴にとって渡会八雲は獲物にすぎない。故に奴が感じているのは、逃した獲物が再び自分の前に現れた歓喜のみ。
そんな炎の闘士だが、彼は八雲の隣に立つ魔術師の姿を見て、目を細めたように見えた。だが同時に首を傾げたようにも思えたのは決して八雲の見間違いではないだろう。奴はウィザーモンの存在に対して少なからず違和感を覚えている、そんな気がした。それが如何なる意味なのかはわからなかった。少なくともそれが後々の自分にとって大きな意味を持つようになることなど知る由も無い。
「なるほど、ウィザーモンか。……それがお前の契約者というわけだな、八雲」
「……まあな。お前もさっさとグラウモンを呼び出せばいい」
奴の契約者はグラウモン。それは最初からわかっていたことだ。
「八雲君。……話の内容からして、彼が例の炎の闘士ということですか?」
「……ああ。油断するなよ、アイツはとんでもなく強い」
その言葉には若干の不安と緊張が混じっていた。
そう、実際八雲は緊張していたのだ。確かに自分は龍斬丸という分不相応な武器を得た。徒手空拳で戦った前回に比べれば、まだマシな戦いになる可能性はある。だが勝てるという自信は無い。その理由として挙げられるのは、奴が腰に差している長剣。
ようやく納得した。あのザンバモンとの戦いの前、首塚に供えられていた大太刀にどこかで見覚えがあったと思っていたが、それは見間違えるはずもなく。
「やっぱりお前だったんだな。龍斬丸を持っていたのは」
「……そういうお前も所持しているようだがな? ということは、つまりお前もザンバモンと戦ったというわけだ。……これには流石の俺でも驚かされるな、お前程度の男があのザンバモンを下してみせるとは」
「勝ったわけじゃない。……ザンバモンはただ、俺のことを認めてくれただけだ」
その事実だけは絶対に譲れない。あの武人に認められたことが今の渡会八雲の唯一の支えだから。
「なるほど、確かにあの武人にはそういったセンチメンタリズムな面があったからな」
「お前、やっぱりザンバモンのことを……」
「知っているさ。……何せ俺の龍斬丸とて元は奴の所有物だからな」
向き合い、対峙する二人が帯刀するのは細部まで同じ長剣。
この世に一振りしか無いとザンバモン自身が語った名剣。だというのに、その言葉と矛盾する形で、龍斬丸は今この場に二振り存在する。それも、渡会八雲と炎の闘士という、どちらも劣らぬ武人の腰に差された状態で。
やがて、空気が形を成したかのように、クラウドの背後に真紅の魔竜が姿を現す。
「グラウモンか」
「……ああ、本当に久し振りだな、野蛮人。まだ死んでなかったとは驚きだよ」
相変わらず癪に障る物言いをする奴だ。
だがグラウモンが奴の傍にいることで、状況はますます不利になったと言えるだろう。
十闘士とその契約者。その二体を自分一人で相手取るのが無理だということは、あのラーナモンとの戦いで痛いほど思い知らされた。だとすれば、グラウモンをウィザーモンに任せて八雲はクラウドとの戦いに優先すべきなのかもしれない。だが、それはできない。相対する敵の片方、つまりグラウモンの力は未知数。奴の力の程が知れない以上、ウィザーモンを危険に晒すことはできない。
だが微かな違和感が頭を擡げる。そういえば、何か大切なことを忘れているような気がするが。
「それで、誰なのだ? お前がご同伴で家まで連れてくる女とは」
「それは――」
飽く迄も挑発的なクラウドの声に八雲が背後を気にした、その時。
「あのね渡会君、少しは説明しなさいよ。……これじゃ私達、除け者じゃない」
「そうだよぉ。僕達を除け者にするなんて失礼しちゃうなぁ」
「……いや、でも少し説明するのは難しいっていうか」
背後から顔を出した環菜に、八雲は苦笑混じりに言葉を返す。
そう、忘れていたのは、皆本環菜とブラックガルゴモンの存在だ。昨夜、自分達を相手に互角以上に戦ってみせた二人の存在を、八雲はすっかり失念していた。彼女達の協力があれば、この状況も決して悲観することは無いのかもしれない。
それでも、環菜は紛れも無く女の子だ。それも、あの朱実とは違う。そんな彼女を戦わせても良いものなのか。
「な……に……!?」
そんな時だった。環菜の顔を見た瞬間、炎の闘士の顔が凍り付く。
「え……?」
初めて見る、驚愕に満ちた炎の闘士の表情。
その様子から考えて、先程まで奴は環菜のことに気付いていなかったのだと思われる。だが奴は確かに言ったのだ。女連れでご帰還とは大層な身分だと。ということは、奴は女の子がいるということには気付いていた。つまり、クラウドを驚愕させたのは、そこに環菜がいるという事実そのものだということか――?
その疑問に答えるように、炎の闘士は呻くような声を出す。
「皆本……だと?」
「な、なに?」
「お前……まさか環菜、皆本環菜なのか……!?」
奴の顔に浮かぶのは揺らぐことの無い苦渋の念か。
八雲の知るどの顔とも、その時の奴の顔は違って見えた。炎の闘士が見せるのは、飽く迄も苦渋の色でしかなく、八雲に向けてくるような憎悪は微塵も垣間見せない。奴もまた、こんな表情をするのだということを、八雲は初めて知った。
その表情は恐ろしく、また不気味であった。
「有り得ない……! お前が……お前がこの世界にいることなど、あるはずがない……!」
「く、クラウド?」
驚愕の顔で恐ろしいぐらいに震え出す炎の闘士。
奴の契約者であるはずのグラウモンでさえ、この状況には戸惑っている。つまり、この事態は連中にとっても想定外ということか。クラウドの全身から灼熱の炎が吹き上がり、そのデータが全て奴の体を全く別の存在へと転化させていく。だが現れる存在はアグニモンとは違う。うろ覚えだった記憶が、次第に形を成していく。
そうして現れたのは、かつて渡会八雲を敗北に追い込んだ火山竜――!
◇
・
・
第24話:死闘ヴリトラモン
あの日、奴に敗れた時の記憶が蘇る。
アグニモンにも太刀打ちできなかった自分が、あれだけの化け物に対抗できるわけも無かった。それに何よりもグロットハンマーを扱った直後で全身が張り裂けるような痛みに襲われていたということもある。故に渡会八雲は為す術も無く奴の放った灼熱の火炎に弾き飛ばされる形ですぐ傍の下水道に叩き落とされたのだった。自分が長内朱実以外の人間に初めて敗れた屈辱の記憶だった。
それは苦い記憶だ。思い出したくも無い苦い記憶だった。
「くっ……」
それぐらい目の前に現れたのは八雲にとって敗北の具現であった。
彩られた真紅の鎧は、アグニモンのような清爽な真紅ではなく、毒々しいほどの赤銅。所々に亀裂を走らせたその鎧の節々から、爆熱の炎が噴き出している。それはまるで火山の噴火を思わせる。大地を踏み締める足、背後の建物に叩き付けられる尾、仮面のような頭部から覗く凶悪な牙。そして瞳もまた揺るぎの無いほどの真紅。炎の如き意志と充血により、まるで太陽のように真っ赤な瞳が覗いている。
故に出現したのは、炎それ自体が形を成したような巨大な竜。
それが炎の闘士のビースト形態、名をヴリトラモン。無限の力を宿す溶岩を己が鎧と為したような強固な皮膚はあらゆる攻撃を弾き返し、恐らくマントルの中での活動すら可能とするだろう。それは人間など及びも付かぬ大自然の持つ絶対的な力。その意味で奴が有する炎とは人間が用いる道具的な意味での炎ではなく、むしろ人間では決して太刀打ちできぬ神々しいまでの炎である。それを前にすれば人間など呑み込まれて当然の存在、それぐらいの格差が人間と炎の闘士との間には存在する。
けれど今回は退く気など無い。右腕の龍斬丸の感触が恐怖など?き消してくれる。
「……現れやがった」
「これが十闘士、炎の闘士のビースト形態……ですか」
先程まで確かにあった躊躇いは、いつの間にか消滅していた。
そんな余分なことをしていては冗談抜きで殺される。カルマーラモンなど足元にも及ばぬ、それほどの威圧感と殺気。その場に轟き渡る咆哮も、決して威嚇ではない。奴はただ、自分自身を鼓舞しているだけだ。さあ狩りを始めるのだと、脆弱なる者どもを滅ぼし尽くすのだと。
静かに環菜を見据えるヴリトラモンの瞳が、そう告げていた。
既にヴリトラモンの視界の中に八雲は存在しなかった。暴走した炎の闘士が狙いを定めたのはただ一人、奴と何らかの繋がりがあるらしい、この漆黒の少女だけだ。流石の環菜もこの魔竜に殺気を向けられたことは効いたのか、僅かに顔を顰めて二、三歩後ずさりする。
だが逃がさない。魔竜にしてみれば、環菜の体など体当たりの一撃で破砕し得る。
「貴様が……貴様が今ここにいるはずがない……! いるはずが無いんだ、環菜……!」
「……何なのよ、一体」
吼える。獣の本能のみを轟かせる唸り声。とんでもない化け物だと再認識する。
奴は紛れも無く、先日八雲を敗北へと導いた炎の闘士の獣型形態。奴が放った火炎を受け、八雲は河に叩き落された。スピードはどうだか知らないが、パワーは間違い無くアグニモン以上だろう。丸太よりも逞しい四肢による打撃は、ウィザーモンやブラックガルゴモンで受け切れる一撃ではない。
咆哮を止めたヴリトラモンが不意に態勢を低くする。突撃するつもりか。
「落ち着けって、クラウド! お前は渡会八雲以外、決して人間を傷付けることはしないって言ってただろ!」
「邪魔を……するなぁ!」
背後から羽交い絞めにするグラウモンすら何の足止めにもならない。
奴は既に契約者の姿をも見失っているのか、その血走った双眸をギラリと輝かせながら、全身を反転させてグラウモンの体を軽々と振り払う。5メートル前後はあるだろう真紅の魔竜の体が、それだけで大きく吹き飛んだ。
軽々と吹っ飛ばされたグラウモンが、八雲達の目の前に叩き付けられる。コンクリートが弾け飛び、激しい砂煙が周囲を覆う。
「仲間割れかよ……?」
「ああ。でも引っ込んでろよ、野蛮人! 死にたくなかったらな!」
立ち上がったグラウモンは、八雲達を守ろうとしているのか。
そして、対するヴリトラモンは己が契約者であるはずのグラウモンですら、環菜を狙う自分にとって障害だと判断したのか。奴は躊躇うこと無く両の腕部に装備された武器を跳ね上げ、その砲塔を八雲達へと向ける。そこで自分の契約者が犠牲になろうが構わないとばかりに。それだけで八雲には奴が暴走しているのだろうとわかった。恐らくジャンヌと同じように、ビーストスピリットの持つ野生の本能に人間としての理性が振り回されている状態なのだろう。
そうした際の十闘士は通常の状態を遥かに凌駕する戦闘力を誇る。暴走すれば人間が持ち得る痛覚や咄嗟の躊躇、また狼狽などといった様々な戦闘に不要な要素が消滅するからだと予測できる。即ち暴走状態の十闘士は更に戦闘力を高めているということになる。十闘士を生み出した者、また彼らを統率する者はそれすらも見越して彼らにビーストスピリットを持たせたのだろうか。
そんな考えが浮かぶが、今は目の前のヴリトラモンを止めることが先決だろう。
「グラウモン……邪魔をするなと言っている……!」
掲げられる両腕のルードリー・タルパナが唸りを上げるもグラウモンは動じない。対峙する魔竜の口内には灼熱の火炎が渦巻く。
「コロナブラスター!」
「エキゾーストフレイム!」
撃ち付けられる弾丸と収束した奔流。二つの火炎が激突する。
一瞬にして大爆発。だが爆煙が晴れる前に、二体の魔竜は互いの体を弾丸として激突する。未だ人間としての力しか持たない八雲達にはどうすることもできない、圧倒的な巨大スペクタクル。まるで怪獣映画を見ているかのようだった。奴らが激突しただけで激しくコンクリートが踏み抜かれ、奴らの足元には陥没した大地が見える。
「くっ……!」
だが二体の激突で当たり負けしたのはグラウモンの方だった。大きく振るわれて叩き付けられた拳を腹にまともに喰らい、奴は大きく後退する。
「グラウモン!?」
「……チッ。やっぱりとんでもないパワーだな、ヴリトラモンは」
腹部を貫く痛みに顔を顰めながらも、それに決して怯むことは無い。恐らくはそれがこの魔竜の強さなのだろう。精神的にはまだまだ未熟で戦い方も粗削りだが如何に対峙する敵が自分より強かろうとも勇猛果敢に挑んでいくその心意気こそがグラウモンを強くする。
再び打ち掛かってくるヴリトラモンの拳を前に、右腕のブレードを展開させて叩き付ける。
「プラズマブレイド!」
「ぬっ……!?」
それは初めて会った時に鎧竜型のモンスターの角を叩き切った技か。
「おい、お前らいつまでここにいるんだよ? さっさと逃げろって言ったんだけど?」
「……なら一つだけ聞く。アイツの暴走は、お前にも想定外なのか?」
当たり前だとでも言いたげに、グラウモンは大きく頭を縦に振る。
炎の闘士と契約者。連中の目的は滅び行く世界の守護、それだけだ。故に突然現れた小娘に気を取られるなど、あってはならぬこと。自分達が愛すべき世界のため、その世界を危機に陥れる元凶を葬り去ることが、彼らにとって唯一無二の目的なのだから。
「だったら放っちゃおけないな。……俺達も手伝わせてもらうからな、グラウモン」
「なっ……お前、本気か?」
「アイツが尻尾で叩き潰してくれたの、一応俺の家だからな」
後ろで環菜とブラックガルゴモンが目を点にしており、ウィザーモンなどに至っては大きくため息を吐いている有様である。確かに呆れるしかないだろう。絶対的な死の気配と共に襲い来る魔竜。そんな奴と何故戦う気になったのかと聞かれて、八雲が躊躇わずに出した答えは、事もあろうに「家がピンチだから」という理由でしかないのだから。
無論、そんなものは口実だ。八雲が戦う理由など、言うまでも無く一つしかない。
「ちょっと渡会君、あなた本気……って、きゃっ!?」
「周りを見てから物を言えよぉ!」
突っ込んできたヴリトラモンから、ブラックガルゴモンが環菜を庇って身を逸らす。距離を取ると、そのまま両腕のガトリングアームを撃ち付けるが、放たれた銃弾は全て奴の堅牢な鎧に阻まれ、全くと言っていいほどにダメージを与えられない。更に奴の瞳に宿る感情は狂気。あの状態では、生半可なダメージでは怯ませることもできないだろう。
奴の属性は炎。だからこそ、あのグラウモンの火炎でも殆ど手傷を負わせられなかった。
「……とりあえず皆本を守らなきゃならないからな。ウィザーモン」
「承知です。僅かですが、ようやく君の思考回路を理解できるようになりましたよ」
要するに君は、戦いは好きですが殺し合いは嫌いなのですよね。静かにそう語る。
こうも容易く己が心の内を看破されたことに、八雲は悔しげに舌を鳴らした。契約者の言う通りだ。渡会八雲という人間は確かに戦いを好む嫌いがある。だが彼が好むのは飽く迄も武道家と呼ばれる者の精神に則った戦いであり、命を奪い奪われる戦闘ではない。そもそも、八雲は命の奪い合いという行為自体が大嫌いなのだ。
だから鎧竜を躊躇い無く殺したグラウモンも、シードラモンを一瞬で消し去ったガルムモンでさえも、八雲には許せない存在だった。命の灯火が消えることの痛みや悲しみを知る彼だからこそ、それは許容し難きことだった。
それを見てウィザーモンは飽く迄も不敵に笑うのみ。
「これでも付き合い慣れてきましたので。……素直ではありませんね。素直に手助けをしてやると言えないのですか、君は」
「……お見通しかよ。そうさ、確かにその通りだ」
再び舌打ちしながら、八雲はウィザーモンと共に環菜を守るように前に出る。
自分と並んで立つ二人の姿にグラウモンは目を丸くし、そして今の自分が標的としている少女を庇うべく立ち塞がる彼らの姿にヴリトラモンは苛立ちを増幅させる。如何にウィザーモンの電撃を受けようが自分の鎧には傷一つ付かないし、グラウモンの炎も殆ど効果を生まない。つまり連中が自分を倒せるはずが無いのだ。それなのに愚かにも立ち塞がるのは、分不相応な長剣を握り締めた少年だ。炎の闘士自身が良く知るはずの少女を庇うように立つ彼の姿がどこかの誰かと似ているようで、ヴリトラモンは余計に腹が立った。
そう、その時に炎の闘士が思い描いた誰かとは、果たして誰だったのか――?
それは遠い記憶。既に失われたはずの遥かなる記憶。
『ああ、俺が世界を壊す……!』
そう誓った一人の愚かな男がいた。遠い遠い昔のことだ。
彼はただ自らの抱く独善的な正義に従って如何なる強者をも退けた後、その目的を完遂してみせた。かつて一人の武人から与えられた呪われし大剣を更に昇華させた剣、己が握りし魂の神剣を以って世界の元凶を断ち切った。そうすることが皆の幸福に繋がると信じて、そうすることが自らをも救えるのだと信じて。
けれど失ったのだ。彼はその過程で自らの大切な者を全て失ったのだ。
『……ああ、俺は全てを失った……!』
こんな自分に付き従ってくれた飛竜も、自分と共に笑い合えた無二の親友も、長らく自分のライバルであり最愛の人であった少女も、そして誰よりも守りたいと願い続けた少女も、彼は全てを失ったのだ。そのことに後悔が無いと言えば当然嘘になるのだろう。それらは彼が誰よりも守るべき者達、彼が何よりも救うべき者達だったのだから。
だから彼は知っていた。自らの誓いは所詮、自分から全てを奪った世界に対する八つ当たりなのだと。
『お前は……?』
そうして全てを失ったその瞬間、運命に導かれるようにして彼は彼女と出会ったのだった。その怜悧な表情と無機質にも程がある双眸で全てを見透かしたような女性、今まで彼の出会ってきた如何なる女性とも異なる雰囲気を孕む女性と。だからこそ、彼が彼女を守りたいと、彼女を守らなければならないと思うのもまた必然だったのだろう。
だが彼は気付かなかった。彼女は外見の美しさや怜悧さの反面、その心には何も持たなかったのだ。美しさだけではなく、醜さも何も無かった。彼女は常に無表情、全てを見通すように妖しく輝く彼女の双眸は、その反面何も見ていない。故に彼女は何も感じず、何も思わない。何も戸惑わず、何も躊躇わなかった。体を求められれば迷うこと無く売ってみせたし、何か得るものがあるのなら、心を売ることだって構わなかった。
要するに、心が死んでいたのだ。その理由は知らない。彼女はただ、そう在るべくして在ったのだ。
程なくして二人は恋人になった。最強の剣士たる彼と深窓の美女たる彼女。そんな組み合わせはこの上なく絵になっただろう。そして確かに彼もまた彼女のことを全ての脅威から守ったし、彼女も同様に彼に対して深い感謝の念を抱いていた。
だが二人の間に、真実の愛情は無かった。
彼女は命を救われたから、助けられたからこそ、その恩義として彼を愛しただけ。そして、彼もまた幼き頃に家族を失ったという彼女を思い遣ったが故に彼女を愛そうとしただけ。それは紛れも無く歪んだ愛の形。だが不幸にも、彼らはそれが歪んでいるということに気付かなかった。
何故なら彼らは知らなかったのだ。本当の愛という概念が如何なるものなのかを。
だから一緒に暮らし、それが深い関係になった後でも、二人の関係は助けた者と助けられた者の関係以上には至らなかった。それでも彼は彼女を愛し続けたし、彼女もまた自分の彼に対する思いが愛情と信じて疑うことはしなかった。
だが時の流れはやがて大いなる軋轢を生む。そうして、自分達の関係の歪さに気付いたのは女性の方が先だった。そして最期の時、ある出来事から傷付いた姿で帰還した彼に、既に彼の妻となった女性との間で、悲劇は起きた。
そうして全てが終わった。そんな青年と女性の記録は、この世のどこにも残されていない。
記憶の残照が僅かな隙になったのか。それとも、彼はあの皆本環菜という少女に見惚れていたのか。
「ダムダムアッパー!」
「はっ……!」
次の瞬間、視界に飛び込んできたのは黒き獣の銃口。
それを咄嗟に右腕の武器で受ける。炎の闘士にしてみれば、その攻撃など軽すぎる。何らダメージを受け得ないし、衝撃で態勢を崩すことすら有り得ない。しかし思い出した記憶の中にいた女性と、たった今自分に攻撃を仕掛けてきたモンスターの主の姿が重なる。それは間違い無く彼女であるが、同時に明らかに彼女とは異なる存在だったのだ。
皆本環菜は無表情。何の感情も見せず、ただ淡々とヴリトラモンの姿を見つめているだけ。
「………………」
それが皆本環菜という女だ。目の前の彼女には恐怖も喜びも無く、ただ淡々と事態を見守るのみ。
そんな彼女を庇うようにして龍斬丸を引き抜いて彼女の前に立つのが渡会八雲だ。恐らく彼は環菜のことを何も知らない、何も理解していないだろうに、渡会八雲は何ら迷いや躊躇いを抱くこと無く皆本環菜の守護者としてそこに在る。それはあまりにも純粋にして、同時に歪んだ意志だろう。そんな彼の思いは決して報われないことを、炎の闘士は知っているのだ。彼女の本当の心を、彼女の本当の笑顔を見ること無く渡会八雲が終わるだろうことは、十中八九確定された未来のはずだった。
しかし今ここに来て誤差が生じてきている。その一つは皆本環菜の存在であり、もう一つはブラックガルゴモンを援護する形で魔法を使いこなす黒衣の魔術師。
「サンダークラウド!」
「ぐっ……!?」
そう、ウィザーモンの存在もまた炎の闘士には不可解なのだ。しかし同時に納得できる部分もある。
「くっ、まさか微塵も効果が無いとは……」
「しかしこれは……俺の存在の所為か……?」
「クリスタルクラウド!」
奴が放つ電撃も氷撃もヴリトラモンには微塵も効かない。並大抵の攻撃ではこの炎鎧を敗れまい。
その意味で渡会八雲の契約者は全体的に力不足だと言える。炎の闘士の予見が正しければ彼の契約者は紺碧の竜人であって然るべきなのだ。だが確かに今目の前に立つ渡会八雲の契約者はウィザーモン、それが皆本環菜の存在と同様に炎の闘士にとっては確かな世界の齟齬となっている。あの竜人なら自分に有効な打撃も与えられただろうに、この魔術師では自分に有効打を与えることすら覚束無い。その可能性を絶つようグラウモンに命じたのは紛れもなく自分自身であるにも関わらず、炎の闘士はそんなことを考える。
そう、自分を破るには飽く迄も近接戦闘でなければならないのだ。強いて言うのなら剣、それも相当に強力な武器が必要となる。
「チッ、これならどうだぁ! ガトリングアーム!」
「無駄だというのが――」
撃ち掛けられる銃弾など何の意味も成さない。ただ、癪に障るだけだ。
けれど、陽気な笑いと共に弾丸を撃ち込んでくるブラックガルゴモンの姿は、何故かヴリトラモンにかつて共に戦った氷の闘士の姿を思い出させた。雷の闘士や風の闘士と共に肩を並べて戦った、十闘士の一人。奴が消え去ってからどれくらいの時間が経ったのか、そんなことを炎の闘士は思い返すことはしない。する必要も無いし、する義理も無いのだ。
何故なら、今では彼が誰だったのかすら、わからないのだから。
「――わからないのかっ!」
その思いを振り払うように、炎の弾丸を撃ち込む。弾けた炎がブラックガルゴモンに加え、そんな彼のすぐ傍にいたウィザーモンやグラウモンすら吹き飛ばす。戦力差は圧倒的だ。あの三体では自分を退けることなどできはしない。本人達は認めないだろうが、それだけの格差が一般のモンスターと十闘士との間には存在するのだ。
故に残りは突進するのみ。それで皆本環菜も渡会八雲も倒し得る。
「へっ、させるかよぉ!」
だが思わぬ存在の突然の乱入に、ヴリトラモンは最後まで気付かなかった。
「ひゃははははっ! 見つけた、見つけたぜぇ!」
突如として周囲を黒い影が覆う。そして。
「だ、誰だ!?」
「真打ちの参上だ! 俺だよ、俺ぇ!」
真紅の瞳を光らせ、漆黒の魔竜が降臨する。
正確にはヴリトラモンの方が上かもしれないが、それでも奴のスピードは圧倒的であった。更に人間である八雲や環菜はおろか、グラウモンやブラックガルゴモンをも超え得るパワーも持つ。そんな圧倒的なスピードとパワーを兼ね備えた存在が、瞬きをする僅かな時間にヴリトラモンに肉薄していた。
瞬時に奴の両爪が鈍く輝く。
「クリムゾンネイル!」
「ぐうっ!?」
叩き付けられる赤き閃光。
今まで如何なる攻撃を受けても揺るがなかったヴリトラモンの体が、その一撃だけで大きく崩れる。つまり単純な破壊力の観点において、現れた存在の一撃はウィザーモンやブラックガルゴモンの攻撃力を遥かに上回るということか。
ヴリトラモンとウィザーモン達の間に降り立った存在が、その漆黒の翼を広げた。
真紅の瞳を爛々と輝かせたそのモンスターは、俗に複眼の悪魔とも呼ばれて恐れられている邪竜型のモンスターであった。あの世界の闇を司るダークエリアから誕生した魔獣で暗黒の化身ともされる凶悪な存在。その通り名にもある真紅の複眼で睨まれた相手は身動きがとれなくなり、その鋭い爪で全身を切り刻まれてしまうと言われている。一説には世界各地にこのモンスターを象った邪神像が点在しているという話もある。
それが目の前に降り立ったモンスター、デビドラモンだった。
「あっはっは! 俺を忘れてもらっちゃあ困るぜぇ!」
「「なっ!?」」
同時に背後を振り返る八雲と環菜。
そこには偉そうに腕を組んで立ち尽くす一人の少年の姿がある。クラスメイト達にはどこか猿っぽいと言われるのも納得の、軽薄そうな顔立ちを持つ少年は、八雲の姿を認めてニカッと笑った。その心底嬉しそうな表情に、八雲も自然と笑顔になる。
故に彼の名前を静かに呼ぶ。
「……お前も来たか、靖史」
「おう。久し振りだな、八雲!」
少年の名は園田靖史。数日前に掻き消えたはずの、渡会八雲の親友だった。
【解説】
・園田 靖史(そのだ やすし)
性別:男
誕生日:1991年5月22日(2008年10月末時点で17歳)
血液型:O型
家族:東京に両親あり(※作中は埼玉)
身長/体重:172cm/69kg
3サイズ:-/-/-
経歴:東京の小中学校⇒相葉高校
八雲の親友。ギャルゲで言うところの親友キャラ。
運命の10月24日、グロットモン&アルボルモンに襲われた八雲と朱実に頼られたことから十闘士との戦いに巻き込まれる。長らく行方不明となっており、もうこの【反転】世界には残っていないと思われたが、八雲や環菜がヴリトラモンと戦闘を繰り広げている最中に突如、契約者のデビドラモンと共に参戦する。それに際して八雲と再会、その際に皆本環菜に一目惚れするが──?
・デビドラモン(成熟期/Vi種)
園田靖史の契約者。グラウモン・ウィザーモン・ブラックガルゴモンでも止められないヴリトラモンを、単騎かつ成熟期の身で圧倒する驚異的な戦闘力を誇る。
口が悪い。
【あとがき】
実は四半世紀前、Ver.5.0を育てた頃からずっと二番目に好きな成熟期であるデビドラモン(一番はモノクロモン)、テイマーズのグラウモン初登場回の相手に抜擢されたのに狂喜乱舞したのも既に20年以上前という。本作では贔屓のあまり、この時点では最強デジモンであるヴリトラモンを圧倒する超絶的な強さを持って参戦致します。
親友キャラにヤバそうなデジモンを与えるのは我が性癖かもしれない……。
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