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第1話:渡会 八雲
蝉の声が響き渡る。
間も無く日が沈むという頃、厳しい残暑の中にあって涼やかな神社の境内で、その音色は異様なまでに騒がしさを演出する。
『八雲君、それに……朱実ちゃん』
声を掛けられて振り向いた俺達の視界には、どこか儚げに見える彼女の姿。隣に立つ俺の幼馴染とは正反対の育ちの良さを感じさせる仕草で、俺達が降り始めた階段の上から優しく微笑んでいる。
何故だろう、そこでふと俺は違和感を覚えた。
彼女は笑っている。そう、夕日を後ろから浴びて微笑む彼女は、まるで彼女自身の名前を表すかのように琥珀色に輝いているはずなのに、その彼女の姿が何故か俺にはどうしようもなく儚げで、どうしようもなく物悲しい存在に思えた。今にも壊れてしまいそうな、脆くて実体の無い曖昧な幻のようだった。
俺の隣に立つ女も同じ思いだったのか、不思議そうに首を傾げている。
『どうかした?』
『……ううん、気にしないで』
けれど彼女は首を振る。まるで俺達を拒むように。
『でもね』
彼女の目が俺を捉える。縋るような瞳だった。
『私も八雲君や朱実ちゃんに……けて欲しかったよ?』
『……えっ?』
『だから、さよなら、ね?』
それだけだった。彼女はその言葉だけを告げると、俺達にそれ以上の言葉を続けさせること無く、純白のワンピ─スの裾を摘んで恭しく頭を下げ、階段の向こう側に消えていく。俺達はそんな彼女の姿を呆然と見送ることしかできなかった。この時に彼女の後ろ姿に声を掛けることができていたのなら、もしかしたら運命が変わっていたのかもしれないのに。もしかしたら彼女を忘れることなどなかったかもしれないのに。
けれど、当時小学生でしかなかった俺達に、そんな運命などといった漠然とした概念がわかるわけも無く。
『帰ろっか、八雲』
『……ああ、そうだな……』
蝉の声が響き渡る。どこか空虚に、鳴り響く。
2003年9月某日。この日が、俺達が彼女の姿を見た最後の日だった──。

さて、空を見上げてみよう。
頭上には天まで届こうかとばかりに聳え立つ高層ビル、その窓ガラスに日光が反射して淡い美しさを漂わせている。そこまでは我々が知り得る世界と変わらない。僅かに異なるのは、そのビル街の間隙を縫って飛行していく車のようなヘリコプターのような奇妙な乗り物が見えることだけだ。
形状は近いけれど、車のようなタイヤは無い。空を飛んでいるというのに、ヘリコプターのようなプロペラも無い。排気ガスを出さず、殆ど騒音も無く、ただ静かにビル街を飛行していく幾つもの乗り物。それは明らかに過去の人間が夢見た乗り物に他ならない。どんな原理か、殆ど音も無く空を飛行できる、夢の車。
後ろを振り返ると、どこからともなく現れる大きな球体。当然、その中には幾らかの人間が乗っており、彼らは所謂〝時空旅行〟をして戻ってきたのだ。つまり、どう見ても大きなガチャポンカプセルにしか見えないそれは、その時代の人間から見ればタイムマシンと呼ばれる空想の産物が具現化した物体なのである。
だからきっと、そこは未来の世界。
その世界が西暦何年の世界なのか、はたまた本当に人間が夢見た世界なのか、そんなことはどうでもいいことだった。それ故に我々が気にすべきことは一つだけ。そこには我々と変わらない姿の霊長類の王が、相変わらず偉そうに生きている。結局、いつの時代も変わらないのは、その事実だけなのだ。
人間はいつだって尊大で、我が物顔で、全く変わらずに我が世の春を謳歌していた──。
そこでパタンと脳内の本を閉じる。
当然のことながら、そんなものは遠い未来の夢物語でしかない。空飛ぶ車とかタイムマシンとか、そんなものは今の時代には到底存在し得ない幻の道具にすぎず、いつまでも幻想を抱いているのも癪だ。とはいえ、子供心に時空を超えたり、生身では到達できぬ場所を制したりする乗り物が、想像上の中にでも存在するのだということには憧れたし、その憧れが今では完全に消え失せたというわけでもない。高度に知能を発達させたイルカが攻めてくるなんてことは、流石に無いと思うけれど。
今日で三日間はお別れとなる学校の体育館で、少年はそんなことを考えていた。ダラダラと続く校長の訓話に対する、現実逃避の手段と呼んでも差し支えは無い。
西暦2008年10月23日。首都圏、埼玉県二宮市立相葉高校の体育館だ。
「これにて、平成20年度相葉高校体育祭、閉会式を終了致します。一同、礼!」
禿げ頭の教頭の声が耳に響き渡り、八雲は手を口元にやって欠伸を一つ。
自分の属する白組は、結果的に四位中三位だった。すぐ傍の女子達が「悔しいね」とか話し合っている様が視界の端に映り、少しだけ申し訳無い気持ちにならないこともない。尤も、クラスメイトの女子がどうあれそれは建前でしかなく、単に自分は負けず嫌いなだけだとも思う。特に互いに毛嫌いし合っている、隣のクラスの坂本悠馬(さかもと ゆうま)の属する赤組に負けたという事実は無性に悔しく、また腹立たしく感じられる。
やがて吹奏楽部の「威風堂々」が流れ出し、八雲達は立ち上がった。
「生徒は先生の指示に従って、教室に戻ってください」
意外にも盛り上がった体育祭も、ようやく終了だ。
先月の学園祭と並ぶ高校の二大イベントの一つ。ようやく肩の荷が下りたような気分になって、渡会八雲(わたらい やくも)は大きく背伸びをした。特に打ち込んでいるスポ─ツも無く、ただ流動的に高校生活を送っている平凡な高校生。漠然とした夢こそ持っているものの、まだ明確なプランがあるわけではなく、将来の進む道やなりたい職業が見えているわけでもない。そして悲しいことに一緒に過ごして楽しいと思える可愛い彼女がいるわけでもない。そもそも進学校に在籍しながら受験するのかどうかさえ決めていない、そんな至って普通の高校生であった。
それにしても、そんな自分も既に高校二年生。来年には受験生として忙しくなる以上、実質的にまともに参加できる最後の体育祭となるわけだ。そう考えると少しだけ寂しさを覚えないでもなかった。
「ねえ渡会君」
体育館を出た廊下で、隣の女子が「お疲れ様だね」と声を掛けてきた。
「これからクラスの皆で打ち上げに行くんだけど、渡会君は来る?」
「打ち上げ?」
「そうそう、お疲れ様会って奴だよ!」
ニカッと笑う彼女の顔が眩しくて目を逸らした。照れたわけではない、断じて。
「……いや、悪いけど俺は遠慮しとくよ」
「そっか、まあ仕方ないかな。渡会君にだって用事とかあるもんね」
一瞬だけ不満そうな色を見せるも、彼女はすぐに表情を笑顔に戻した。ノリの悪さには自信のある自分にもこの対応、前々から知っていたが稲葉っていい奴だ。
クラスの中でも一番──いや、むしろ学年でも一番だろうか──の美少女として名高い稲葉瑞希(いなば みずき)。そんな少女からのお誘いを、八雲はやんわりと断る。
そう、彼女は確かに可愛い。気立ても良いし正義感も強く、何事にも真っ直ぐで、何かと自分のように他者との交流が薄い男子の世話を焼いてくれることもある。薄茶色のショートカットは透き通るように綺麗だし、スタイルも良いと見える。八雲だって彼女のことは好ましい存在だと思っているけれど、だからこそ自分とは釣り合わない少女だと思う。いや、正確に表現するなら、この学校にいる女子は全員自分とは釣り合わないだろう。
ともすれば、少々尊大になってしまう自分の思考。そんな自分の汚さを振り払うように、八雲は話題を変えてみた。
「でもさ、稲葉。そんなに堂々と飲み会行くなんて言って、国見の先公に怒られないのか?」
「大丈夫だって。国見先生は『俺も連れてけ』だなんて嬉しそうに言ってたよ」
「……うわ。黙認どころか自分まで参加する気かよ」
何て教師だアイツ。高校生の飲酒を平気で容認しやがった。
正直、まだ八雲は酒を美味いと思ったことはない。それでも、一口飲んだだけで自分が大人になったような心持ちにはなれると思う。だから、本能的に酒が大人の飲み物だということは理解しているつもりだ。とはいえ、そんなことを言っている彼も何度か友人と飲みに行ったことはあるのだが。
「そこが国見先生のいいところじゃない?」
「……いや、そこは問題点って言った方が正しいような……」
半ば呆れたように呟く八雲。あの担任教師は高校生より人生を楽しんでいる節すらある。
それでも、瑞希は「気にしない気にしない」と笑って、大して問題に捉えていない様子である。そういう顔を見ていると、流石にクラスNo.1の美少女の二つ名は伊達ではないなと思う。彼女の笑顔は不思議と見ている者を元気にさせるエネルギ─に満ち溢れているように感じる。こんな彼女が、実は合気道の有段者だというのだから、人間というのは外見では計れぬものだ。
「でも渡会君が来ないんなら面白くないかなぁ」
「……そ、そうなのか?」
いきなり気落ちした様子を見せる瑞希に、八雲は少しだけ怯んだ。素でドキッとしてしまったと言い換えてもいい。断じて照れたわけではない。
まさか学年でも屈指の人気を誇る彼女が、自分に気があるというわけではあるまい。
「だってね、楓ちゃんとか佐々木さんも呼んでるのよ?」
「なに……?」
瑞希が出した二人の同級生の名に、八雲は思わず周囲を振り仰いだ。
瀬戸口楓(せとぐち かえで)と佐々木綺音(ささき あやね)、二人とも隣のクラスの女子だ。ゾロゾロと異様な人口密度で教室へ向けて歩く生徒達の中、ちょこちょこと自分の後ろを歩いている小柄な女の子の姿を八雲は認めて声を掛けた。
「お疲れ」
「わ、渡会さん?」
多分、自分から声を掛けられる女子は彼女だけだと思う。当の彼女はビックリした様子で少しだけ声が裏返っていた。
「稲葉から聞いたんだけど、瀬戸口もウチのクラスの打ち上げ来るんだってな」
「えっ? わ、私ですか?」
150センチあるかないかの小柄な彼女は、八雲の中学時代からの同級生である。基本的に女子と自分から関わることのしない八雲にとっては、数少ない気兼ね無く話せる女子生徒と言える。気が弱く大人しいため、中学時代に酷いイジメに遭っていたのだが、それを助けたのが八雲だった。
楓は少しだけ頬を染めて首肯してみせた。頭に付けたカチュ─シャが彼女には良く似合っていると八雲は思う。
「わ、渡会さんは来られないんですか?」
「……あ~、悪い。今日はちょい両親と食事に行く約束があってな……」
「そう……ですか」
「ごめんな。また一緒にラ─メンでも食いに行こうぜ、靖史と一緒に」
「は、はい。是非お願いします」
明らかに彼女の顔が輝くのがわかった。そういう表情は、八雲には少し眩しい。瑞希のことは置いておくにしても、自分は女の子が苦手なのだろうなと思うのは、大抵こんな時だ。小学生の頃からだが、どうにも女の子と話す時は赤面するのを抑えることに必死になってしまい、普段の調子が出にくいと思う。
そんな八雲と楓の会話を聞いて瑞希は何を思ったのか、妙な口調で呟いている。
「あ~、見てられない……甘酸っぱくて見てられないってばよぉ!」
「……稲葉、お前は今何か物凄い勘違いをしてるからな……って、痛っ!?」
その言葉の途中で、八雲はいきなり後頭部を小突かれて前のめりに倒れそうになる。
「この馬鹿渡会! 楓に色目使ってんじゃないわよ!?」
「……いきなり痛いだろうが」
後ろに立っていたのは八雲より長身の女子生徒、先程名前も出てきた佐々木綺音である。乱雑に縛り上げた長い髪を揺らして八雲を睨んでいる彼女は、入学して以来妙に八雲を毛嫌いしている節があった。尤も、八雲としても彼女は自分が苦手としている男子生徒と仲が良いこともあって、少々近付きたくない存在であることは同様なのだが。
腰に手を添えて仁王立ちする綺音は、長身なこともあって、結構な迫力があると思う。というか、自分より身長が高い彼女は実際に迫力がある。その上、体操着の所為で肩やら胸やら腰やらのメリハリが目立つので、八雲は思わず彼女から目を逸らしたくなる。
「まあまあ渡会君、綺音ちゃんの暴力は愛情の裏返しだってば」
「んなっ! な、何を勝手なこと言っちゃってくれてるのかな、瑞希は!」
「……愛情は感じないけどな、少なくとも俺の方は」
「渡会っ! アンタも本気にするんじゃねえわよっ!」
「佐々木さん、渡会さんのこと好きだったんですか? 私はてっきり坂本さ──」
「だぁぁぁぁ! 楓ぇ、余計なことは喋るんじゃねえわよっ!?」
ギャーギャーと騒がしい綺音。確かに苦手だということは苦手だけれど、彼女は性格的にも自分にとって話しやすい人間ではあった。それは恐らく彼女が自分の幼馴染に似ているからだろう。少々乱暴で何事にも乱雑ではあるけれど、明朗快活で裏表の無かった彼女と、佐々木綺音は確かに似ていると思えた。
無論、だからといって好意を抱くかと言われれば、それはまた別問題なのだが。
「あれま? 八雲、そんなところで何やって──」
「決まっているじゃないか、園田。渡会は女性陣と友好を深めていたのさ」
そんなことを話していると、後方から八雲の友人にしてクラスメイトである園田靖史(そのだ やすし)が同じく友人の藤平陽平(ふじひら ようへい)が並んで追い付いてきた。なお、平凡な生徒である靖史はともかくとして、陽平は剣道の関東大会で上位に食い込むほどの実力の持ち主で、クラス内ではミスター武蔵というニックネ─ムで呼ばれている。最近始まったばかりのアニメに似たような名前の仮面の男がいたが、それは偶然だろう。
そんな靖史の姿を見た途端、綺音の目の色が明らかに変わった。そして靖史もまた、綺音の姿を確認して硬直する。
「……あら園田、偶然ね。少し運命感じちゃうわ、私」
「あっ、綺音……ちゃん? な、何でこんなところに……」
「綺音ちゃん言うな」
僅かに数歩だけ後退する靖史。けれど、逃がさないとばかりに綺音が同じく一歩踏み込む。
今から一年半前の入学式の日、靖史は「今日から生まれ変わるため」という理解し難い理由から初対面の綺音に告白した。彼女もそういったことに免疫が無かったのか、綺音の方も顔を真っ赤にしたことから上手く行くと思われたが、靖史がうっかり誰でも良かったという旨をバラしてしまったために全てが無に帰した。
それ以来である。綺音は靖史に対しては八雲に対する以上の嫌悪感を見せる。出会い頭に膝蹴りを叩き込むことなど日常茶飯事である。
「ひ、ひいっ! 八雲に藤原、助け……!」
「くたばれ園田ぁぁぁぁーーーーっ!」
惚れ惚れするような動きであった。しなやかな体躯を翻して、綺音の飛び廻し蹴りが靖史の顔面に叩き込まれる。
「げふっ、理不尽っ!」
吹き飛んだ靖史は後頭部からリノリウムの床に叩き付けられ、やがて昏倒して動かなくなった。
「お~い、靖史~、大丈夫か~?」
「園田なら大丈夫だろう、渡会。彼は殺しても死なない人間だからね」
「あのな藤原、お前今何気に酷いこと言ってるからな。それに佐々木、少しはお前も手加減しろよな……」
「ふんっ!」
不機嫌そうに顔を逸らす綺音は、女の子の純情を弄んだ靖史が悪いとでも言いたげな態度。すぐ隣で瑞希や楓が苦笑している。
だから思わず、靖史には悪いと思いながらも八雲もまた破顔してしまっていた。隣の陽平も同じ様子である。高校生活には色々と問題もあるわけだけれど、こうして誰かと笑い合えるということが何よりも楽しいと思えることは事実なのである。こういう時、自分達は各々の悩みや不満も忘れて同じ感情を共有することができる。これが学校という空間の持つ美点なのだろうと思う。
だからこんな毎日がずっと続けばいいと、八雲は思っていた。
時刻は午後4時。ここは少し離れた私鉄の駅のホーム。
朝の通勤ラッシュほどではないが、会社帰りのサラリ─マン達で俄かに混み始めるこの場所で、柱に凭れ掛かる一人の少女の姿がある。相葉高校から二駅離れた場所にある名門校、二宮女子高校の制服を着たその少女は、音楽でも聴いているのか、右肩に引っ掛けた学生鞄から白いコードを伸ばし、それが彼女の耳のイヤホンへと繋がっている。
とはいえ、少女は決して音楽に没頭している様子ではなかった。
全体的に気だるそうなのだ。スラッとした肢体と長いポニーテール、その端麗と呼んでも差し支えない容姿にも関わらず、鋭い視線を油断無く周囲に向けているその少女は、年相応の瑞々しさや柔らかさといった女子高生特有の雰囲気を一切拒絶しているような、そんな刺々しい雰囲気があった。
時折その色素の薄い瞳に宿す冷たい輝きは、むしろ見る者を射抜くような鋭さに満ちている。気だるそうな雰囲気と鋭利な視線という矛盾した概念を同時に孕む少女の姿は、少なからず可憐な女子高生といった様相ではなかった。
「そこの柱は汚いですよ?」
「……ありがとうございまぁす」
見兼ねた駅員が注意を促してきたので、少女は小さく頭を下げる。
だが彼女の表情は全く変わらない。明らかに感謝している人間の顔ではなかった。駅員の方もこれ以上言っても無駄だと判断したのか、大きくため息を吐いて立ち去っていく。そんな駅員の後ろ姿を見送る少女の瞳には、自然と憎しみのような色が宿っていた。
事態が起きたのは、そんな時だ。
「んっ……?」
突如として、駅の上空を巨大な飛行物体が通過したのである。
壁に貼られた広告が舞い、頭上の電光掲示板がガタガタと揺れる。まるで身を切るような突風がその空間を襲った。
「うっ! な、何が起きたんよ……?」
舞い上がるスカ─トを押さえることもなく、少女はその飛行物体を見上げた。
だが一瞬遅く、既に目標の物体は空の果てへと消えていくところだった。それ故に飛行物体の姿がハッキリと見えたわけではない。ただ、何か大きな鳥のような雰囲気を持つ物体だということだけは認識できた。それも、普通の鳥ではない。体長は10メートルを優に超え、自然界には存在しないほどに禍々しい雰囲気を持っていたように思える。一瞬の光景を即座に記憶できる少女の動体視力は、それだけでも凄まじいものだと言えよう。
周囲の人々がざわつき始めるのと同様に、少女もまた僅かだけ脅えたような表情を見せる。だが彼女が周囲の人々と決定的に異なったのは、即座に行動を開始したことであろう。その腰まで伸びた恐ろしく長い髪を風に揺らし、少女は僅かに顔を上げる。
「ふふ、何か……面白そうじゃん?」
その顔に浮かぶのは、初めて浮かべたこの年代の少女相応の純粋すぎる笑み。
そう、彼女は今あの飛行物体に対して明確な興味を覚えていた。そのことに大層な理由など要らない。少女はただ、あの存在を面白いと思った、それだけのこと。そして、彼女の考える面白さとは、奴が自身の〝力〟を奮い得る相手であるか否かということにすぎない。それ故に叩き潰す。そうでなければ飽き足らぬ。戦うことこそ、彼女の存在意義なのだから。
徐にイヤホンを耳から外すと、彼女は改札口に向けて走り出した。
数時間後、学校を後にした八雲は、靖史と共に家路に着いていた。
靖史は中学の入学以来、三年間連続で同じクラスになったこともあり、八雲とは大の親友と言える関係である。根本的に八雲とは正反対の性格の持ち主である彼だが、不思議と馬がらは汚いと思います合うらしく、特に喧嘩することも無く付き合ってきた。ただし、成績は八雲より数段低く、クラス内でも三馬鹿の一人として認識されている。
とはいえ、成績のことを然程気にしない八雲は、彼とは普通に付き合えていたのだが。
八雲や靖史が現在通っている高校は、彼らの最寄り駅から私鉄に乗って鈍行で何個目かの駅にある。所要時間、約二十分。十分に近いと言える距離である。そんなわけで最寄りの駅へと戻ってきた二人だったが、夕暮れの駅前は異様に混雑しており、殆ど押し蔵饅頭だった。
自分達と同じ制服がちらほら見えるのは、流石に体育祭の帰りだからといったところだろうか。相葉高校といえば県内有数の進学校でもあるので、近隣住民からはそれなりに一目置かれている節もある。尤も、実際に在籍している生徒にはそんな実感など無いだろうが。
大勢の人々に揉まれる中で、靖史が腫れた頬を摩りつつ呟く。
「……ったく、綺音ちゃんの暴力には困ったよ」
「それには同感だな、俺も」
普段から一緒にいる相手が不良だからだろうか、綺音は妙に暴力的なところがある。それも学年の女子の中ではトップの体格を誇る彼女なだけに、その威力も半端でないから困るのだ。
「でも元はといえば、お前が軽々しく告白なんかするから悪いんだけどな」
「うっ……そ、それは確かに悪かったさ……綺音ちゃん以外にしときゃ良かったんだけどよ」
「それを人は反省していないって言うと思うんだが……ん?」
ふと何かに気付き、八雲は目を留めた。
ホ─ムの人混みの向こうを一人の少女が駆け抜けていく様が見える。腰までありそうなポニーテールを微風に靡かせたその少女は八雲や靖史とは違うものの、制服を着ていることから恐らく中学生か高校生だろう。顔はハッキリと見えなかったので正確なところはわからないが、身長は先程の綺音と比べれば大分小さく、恐らく160センチ前後に見えた。
「アイツ……!?」
だが、そんなことは関係無かった。彼女の姿を見た瞬間、八雲は全身に電撃が走ったような気がしたのだから。
「……悪い靖史、ちょっと俺行くわ」
「え?」
「ちょっ……すみません! 通してください!」
「おっ、おい! 八雲、いきなりどうしたんだよ?」
突然大声で叫び、人混みを掻き分けて走り始めた自分の様子に靖史が後ろから疑問の声を投げ掛けてくるが、八雲はそれ以上の言葉を返さない。既に彼の頭には先程の女の子の姿しか見えていなかった。革靴が軋むのにも構わず、夕暮れの雑踏の中を八雲は駆け抜けていく。とはいえ、下校・退勤時間に当たることもあり、なかなか前に進むことができない。
しかし八雲は「すいません!」を何度も繰り返しながら、必死に少女の後ろ姿を追う。見る人が見れば、恐らく今の八雲は表現するのが憚られるほどに必死な形相をしていたのかもしれない。あの少女が自分にとって何であるのか、そんなことは考えもしなかった。
楽しそうな横顔、風に揺れるポニーテール。彼女の全てが八雲を突き動かしていた。
だが駅の外まで走ったところで、八雲は少女の姿を見失ってしまう。そこでようやく、彼は自分が異様な行動をしていたことに気付く。駅で見かけた少女を目の色変えて追いかけるなど、そんなことは愚の骨頂だ。そもそも、当の彼女を捕まえて自分は何をしようとしていたのだろうか。
……初めて? 心に浮かんだ単語に八雲は疑問符を浮かべる。
たった今、自分を突き動かした衝動の正体は八雲自身にさえわからない。ただ、彼女を追わなければならないような気がしたとしか言い様が無い。それは半ば本能的な、また内在的なものであったからだ。言い換えれば、それは脅迫の観念と言ってもいい。
「何やってんだ、俺……?」
駅前の雑踏の中で、八雲は呻くように呟くだけだった。
とはいえ、その感情こそが始まりだ。
この時から平凡な生活が終わる。そのことをまだ、八雲は知らない。
同じ頃、都心部の大スクリーンでは緊急のニュースが報じられていた。
『ただ今入りましたニュースです。17時30分現在、首都圏上空に巨大な飛行物体が出現したとの報が入りました。この飛行物体は全長数10メートル以上の鳥だという情報も入っており、ただ今政府が詳細を調査中です。繰り返します、17時30分現在──』
変化はゆっくりと、だが確実に起き始めていた。
◇
一週間ぶりの投稿となります、夏P(ナッピー)です。
冷静に書きながら考えてみたところ、なんとデジモンのモンの字が一度も出てこないという恐るべき始まりとなっていました。次回からは出てくるかと思いますので何卒宜しくお願い致します。
あと10年前のものを改訂しつつ、けれど過去の自分を尊重する意味でもネタやふざけている部分は踏襲して変えずにいるのですが、お〇スタ始まるよって何だよ。
Twitterの方で予告とかキャラ紹介とかを挙げていければとも思いますので今後ともお願いします。
>快晴さん
感想を頂きまして誠にありがとうございます。そしてめっちゃ鋭い。
スサノオモンとルーチェモンに関しては大好きな主役VSラスボスなので、割と作者の好みが入ってカッコ良く書こうという気概があります。メギドラモンの名前を出したことも含め、基本的に本作はテイマーズとフロンティアのオマージュ多めで行く予定ですのでまたよろしくです。