多分わたしは特別だった。
そしてわたしは、特別なわたしが何より嫌いだったんだな。
先生に何度か止められても、外で過ごせる自由時間をあのライブハウスで過ごすと決めたのは、そこに特別がなかったから。外からも聞こえるほどにぼんぼんした低い音を奏でるあの建物の中身が、あんなに暗くてさわがしくて汗臭いことを知って、わたしはそれに夢中になってしまったんだな。それは、わたしの住んでいた庭にはない、見るに堪えないひどいものだったから。
ステージの上の人たちがへたくそな演奏をすればするほど、家の本棚で読んだことがあるような話をすればするほど、わたしはばかみたいに嬉しかった。わたしはそれがつまらないんだろうなと思いながら、それでも彼らの語ることを真剣に聞いて、何かを読み取ろうとして、それをへたくそに伝えた。そうすれば、わたしはその場所で、熱に浮かされたつまらない”ひとり”になれた。
そうだ、あの時のわたしは特別になんてなりたくなかった。あるときからわたしだけ授業の時間に出られなったことにも、みんなに”特別な授業”と偽りながら、こっそり外に出ていることにも、誰にも厳しくも優しい先生がわたしにだけ甘いことにも、うんざりだった。その”特別”は、わたしに何もくれなかったから。
たくさんの人に埋もれた時だけ、わたしは自分というひとりになることができた。そこでは「才原つばめ」である必要もなかった。だからわたしは、あの場所がすきだった。
なのに、それなのに。
あの日わたしは、いつもつまらなそうに階段に座っているあの男の子に、名前を呼んでほしいとおもっちゃったんだ。
どうして? そいつが特別だったから? と、今あの子に聞かれました。この子にだけはわたしが外に出ていることも、ハルキとのことも話しちゃってるな。
えっとね。ハルキは何も特別じゃないよ。
普通にかっこよくて、普通に優しくて、普通にわたしを愛してくれるだけ。

ちょっとー、そっちから聞いてきたんだから、そんなうんざりした顔しないでよ。
●
「そういえば、髪切ったんですか。姐さん」
「今日それを指摘してくれたのは、あなたが初めて。いい男ね、ブギーモン」
”塔京”の一角を、緑色のタクシーがゆっくりと走り抜けていく。フロントに取り付けられた電光表示は「貸切」から切り替わる様子がない。後部座席に乗った日浦風吹は、ちょうど同じ席で染野春樹がそうしていたように、窓に頭を預けた。
「本格的にタクシー運転手になったんでしょう。私なんか乗せてないで、もっと働かなくて良いわけ?」
「別になりたくてタクシーを始めたんじゃなりませんや。旦那がいなくなって、稼がなくちゃいけなくなっただけです。幸い、この車は元々タクシーでしたし、元に戻すだけならこんなに楽なことはねえ」
「景気は良いわけ?」
「まさか。前はみんなおれの車をタクシーだと思って止めようとしてきたのに、いざ商売を始めたら誰も拾いやしねえ」
ブギーモンはかぶりを振る。その仕草はいささか大げさで、風吹は思わず苦笑した。
「それでも、旦那がいたころよりは稼げてますよ。あの人、人使いは荒いくせに、カネ払いはよくなかったから」
風吹は今度は声を上げて笑った。ミラー越しにブギーモンはその顔を見た。後ろにのばしていた髪をざっくりと切り、流れるままに任せている。その表情をゆっくりと追いながら、彼はおずおずと尋ねた。
「髪を切ったのは、心機一転か何かですか。姐さん」
その言葉に風吹はさっと笑みを引っ込め、わざとらしく大げさに首を振った。
「まさか、よしてよ。私が染野君となにかあったと思ってる?」
「おれは何も言ってねえですよ」
「……それも、そうね」
風吹は眼鏡を外し、眉間を指で押さえると、座席に背中を預けた。
「旦那は時々、その席で独り言を言っていましたよ。自分では口には出していないと思ってたみたいですが」
「誰かが病院に連れて行くべきだったのよ」
「おれもそうしなかった。姐さんもそうしなかった。おれは姐さんを責めませんよ」
「私はあなたを責める気にならない。彼は掛け値なしにどこかおかしかったの。私たちが彼と出会う前からね」
「おれたちが、あの人をすきになる前からだ」
風吹は否定しなかった。浮かぶべきすべての言葉の代わりに、粘性を帯びた沈黙が社内を満たした。
「少し眠るわ。行き先は──」
「最初に言ってもらったので大丈夫ですよ。場所も頭に入ってる」
「優秀なのね」
「旦那が何度も行こうとしてたんでさ」
風吹は眉をあげ、なにか問おうとするが、それよりも先に、ブギーモンが言葉を継いだ。
「あの人は結局、一度もあそこに行かなかった」
●
僕が、才原かささぎがこの“庭”で目覚めて、もう2か月がたった。
僕はここに来た時、まるまる一か月意識を失っていたらしいから、もしも僕に元の記憶と名前があったとしたら、その持ち主はざっと3ヶ月間姿を消していることになる。
そのことで誰かが悲しむ人がいるのか、僕は考えて、きっといなかったんだろうと思った。そもそも悲しんでくれる人が周りにいる奴は、一か月寝込んで記憶も何もかも失うような馬鹿な真似はしないはずだ。
あひるもからすも、外の話はしなかった。彼女たちは仮に僕が完全に回復しても、この庭の外に出す気はないようだった。
「君たちは、外に出たいとか思わないわけ?」
僕がそう問うと、二人とも顔を見合わせて、おかしそうに笑った。
「そりゃあ、出たいですよ。25になるのが楽しみです」
「でも、別に急ごうとは思わないかな。待っていれば出られるのは分かっているし、お兄ちゃんが外のことは色々教えてくれるし」
「あひる、それ、本当は秘密ですからね」
「あ! そうだ。ごめんかささぎ、今のなしだから!」
つまるところ、彼等は”自分たちが25歳になるまで外に出てはいけない”と言う規則自体には少しの疑問も持っていないのだった。
この”庭”で、僕はなんの教えも押しつけられることはなかった。それでも、毎日の農作業とヨガ、そしてサイエンス・フィクションを読む事だけに没頭する2時間は、人間をこの庭でしか生きられなくするのには十分なのだろうと思った。
死んだという兄弟を悼む会が台無しになってからも、あひるの態度は変わることはなかった、いつも通り明るく、庭の子ども達の姉貴分として振る舞っているように思えた。
秋は忙しかった。外での作物の収穫にぼくは参加させてもらえなかったけれど、子どもたちが採ってきた果物を冬に向けて加工するのは僕の役目だった。
いちじくの皮をむき、きめの細かい砂糖と共に煮詰め、瓶を煮えたぎる湯で消毒して、そこに詰めていく。時々僕にはその砂糖が砂時計の中身みたいに思えた。どこかに滑り落ちていくはずの時間を取り出して、血の色のシロップとともに無菌の瓶に閉じ込める。すべての工程が終わるころには、そこには瓶一個分の沈黙が増えていた。
そんな日々を続けるうちに、気が付けば季節は冬になっていた。施設には雪が降り積もり、真っ白に染まった“庭”に向けて無邪気に駆けていく子どもたちを、僕は図書室からぼんやりと眺めていた。
「かささぎ、読書には飽きたの?」
背中に優しい声を掛けられ、僕は椅子ごと振り返る。そこにはあひるとからすが並んで立っていた。あひるのおかっぱ頭には相変わらず一部の隙もなく、からすの前髪を伸ばす試みは、昨晩またはかなく散ったようだった。
「みんなを見ていたんだ。よく寒くないなと思ってね」
「同感です。あんな風に雪の中を走り回る子たちの気が知れないな」
「からすだって昔は靴の中がびしょぬれになるまで遊んでたくせに」
「な、それを言うならあひるだって……!」
けんかを始める姉弟に僕は微笑む。その視線に気づいたのか、2人はわざとらしく咳払いをして話を中断した。
「僕もそろそろ外に出てみたいな」
「ダメよ、かささぎはまだ病人なんだから」
「3ヶ月も前の話だよ」
「自覚がなくても、まだかささぎの体は回復中なんです。外に出られるような状態じゃない」
あひるとからすにくぎを刺され、僕は唇を尖らせた。ここに来てから身についた子どもっぽい仕草だ。昔の自分はこんなことをしなかったような気がするし、そうでなくてもこんな仕草をしていい歳ではないと思う。でもここにはそれをとがめる人はいなかったし、長い間末っ子扱いを受ける中で、僕の感覚はすっかり麻痺し始めていた。
「それより、少ししたらみんな遊び疲れてここに戻ってくる。その時はみんなを着替えさせて、服を乾かすのを手伝って。ホールの暖房はつけておいたから」
「地獄みたいな仕事ですよ。それはあひるとかささぎに任せて、ぼくは全員分のココアを作っておきます」
からすが笑う。けれど彼もあひるも、今日は表情にどこか硬いところがあって、何より、用件を伝えたにもかかわらず一向にこの場を動こうとしなかった。
「ほかに、何かあった?」
ぼくの問いに、2人は気まずそうに視線を絡ませる。てっきりからすからもらった合い鍵を使った僕の探索が露見したのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
それはありがたかった。この3ヶ月で、僕は慎重なペースで皆の部屋を調べた。持ち主のいる部屋はほとんど忍び込んだが、気になるものは何も見つけられなかった。せいぜい、子どもたちがこっそりため込んでいる格好いい木の枝の束があったくらいのものだ。
でもそうなると、2人がここまでぎこちない態度をとる理由は他に思いつけなかった。
「あのね」
意を決したようにあひるが口を開く。
「明日、“先生”がここに帰ってくるの」
●
静寂に包まれた霊園に冬の風が吹いて、風吹のブルーのコートを揺らした。
“選友会”の死者が眠る霊園には誰もいなかった。彼女が以前近くを見たときには教団員の見張りがいて、部外者の立ち入りを厳しく制限していたはずだが、今日はあっさりと入ることができた。方針が変わったのかもしれないし、誰も死者に興味がなくなったのかも知れない。
待ち合わせの相手を探して霊園を見渡し、風吹は息をのむ。
それは異様な光景だった。並ぶ墓石はすべてが装飾のない、つるりとした球体だった。そんな球がいくつも並んでいる。個人とのつながりを感じさせるものは球が置かれた台座におざなりに取り付けられた小さなプレートだけで、そこにも帰依した信者に与えられる鳥の名前しか刻まれてはいなかった。
風吹には、そこがまるで宇宙空間のように思えた。ここには上も下もない。並ぶ球体の一つ一つが、すでに終わった者たちでできた惑星なのだ。
「本来の教えから言えば、墓なんて作らないんですよ」
不意に後ろから声がして、風吹は勢いよく振り返った。コートのポケットの中で、小型の警棒を握り締める。声をかけた男はそれに動じずに、紫の煙をくゆらせた。
「教団では、死はただの死です。悪しき預言者ヴォネガットが言ったように、ただ“そういうもの”だ。なのに墓を作る。その方が信者とその家族から金をとれるからです」
男──才原夜鷹はそう言って、サングラスの下、針のように細い目で風吹を射抜いた。風吹は周囲に注意を払いながら、話を続ける。
「才原つばめに家族はいない。彼女は教団で育った子だったはず。なのに──」
「どうして墓を作ったのか? 俺も分かりません。染野春樹を誘い出すための罠かもしれないし、単に教祖か幹部の誰かが耄碌したのかもしれない」
「あるいは」
風吹は相手を睨みつける。
「罪滅ぼしのつもりかもしれない。教団が彼女を殺したことへのね。あなたは誰?」
「さっきあなたは、才原つばめに家族はいない、と言った」
彼女の問いには答えず、男──才原夜鷹はサングラスを外して、はにかんだ。
「それは間違いです。少なくとも、俺がいます」
「……才原夜鷹、つばめの義兄で、教団内反抗勢力“選ばれし子どもたちの会”のリーダー」
「おや、それをどこで聞きましたか」
彼はにこりと笑う。
「春樹さんからではないはずだ。あの人が警察のあなたをそこまで信用していたとは思えない。となると、アンドロモンから聞いたのか」
「私の素性も調査済みってわけ」
「ええ、もちろん。日浦風吹さん、先ほどからあたりをうかがっていますね。待ち合わせ相手は来ませんよ。あのレプリカントが時間通りに来ないということは、つまり来られないということだ」
彼女は目を見開く。
「アンドロモンに何かしたの」
「まさか、俺たちにあのレプリカントとやりあう力はない。ただの偶然ですよ。ただ、この寒空の下で、あなたを一人で待たせるのも忍びない」
霊園の入り口で、自動車が止まる音がした。ブギーモンには一度帰ってもらっている。十中八九、夜鷹の手配した迎えだろう。
「俺とお茶でもいかがですか? 面白いものをお見せできますよ」
そう言って笑う男を睨んだまま、風吹はゆっくりと頷いた。
●
“塔京”のビルの屋上、2つの影が冬の空に舞う。何かが風を切る音、金属がぶつかり合う音、に続いて、それらは地面に降り立った。
「ッ、最悪……」
少女──才原雛乃は顔をしかめて、スカートについた砂埃を乱暴に払うと、目の前に立つ影に叫ぶ。
「ちょっと! 制服汚れちゃったじゃない」
「ン、悪い。あとで弁償しよう」
目の前に立つレプリカント──アンドロモンの言葉には皮肉の色はない。どうやら本当に弁償するつもりでいるらしいと分かり、雛乃の喉から乾いた笑いが漏れる。
「私には君が制服を着たティーン・エイジャーに見える」
「そんな相手に本気で切りかかったわけ?」
「まさか、穏便にことを運びたかったが、君が切りかかってきたんだ」
雛乃は舌打ちをした。それを気にせずアンドロモンはつづける。
「ン、私の剣には確かに硬質化した皮膚の手ごたえがあった。“マントラチャント”、君は確かにアンティラモンなのだな」
事実を反芻するようなレプリカントの言葉に、雛乃はうんざりして首を振る。
「それが分かったならどいてくれる? 私、天使を殺すので忙しいの。長年待ってきた機会なんだけど」
「そうはいかない。君には聞かなければいけないことがいくつもある」
「あんたに用なんかない」
彼女は言い放つ。
「誰もあんたに用なんかない。昔からずっと、そうだったはずだ」
「ン、そうだな。おせっかい焼きだと、よく言われたものだ」
懐かしむようなその声色が、雛乃の神経を逆なでした。
「じゃあ今のこれは何? あんたには、おせっかいを焼く相手ももういないじゃん」
「ン、それは違うな、きみ。今私がここに立っているのは、ただのエゴだよ」
「アンドロイドのくせに?」
「アンドロイドがこういうことをするのは、昔から三文小説の鉄板だろう。ともかく、君には話を聞く必要がある。君には悪いが──」
雛乃が再びとびかかる態勢を取れば、アンドロモンも呼応するように手から伸びる剣を構えた。
「──友達が、命を懸けて見つけた、手がかりなのでね」
がきり、金属音が響いた。
デジモン創作サロンで「white rabbit no.9」を呼んでくれた皆さま、長い間ありがとうございました。 今後は有志による後継サイトであるスクルドターミナルで連載を続けます。
これからも、染野春樹たちの物語をよろしくお願いします。 2025年3月31日 マダラマゼラン1号