風吹の自動車はなめらかに塔京を走り抜ける。僕の体は足の先まできしんでしまっていて、わずかな揺れにも傷みでうめき声を上げる始末だったが、彼女の運転はその苦痛をぎりぎりまで軽減してくれていた。
「本当に病院まで行かなくて大丈夫?」
「行ってどうするんだ。”カンパニー”の監視網は病院だって逃がしちゃくれない。そのまま捕まるのが関の山だよ」
「裏社会の人間向けの病院につれていけるわ。身元不明のまま治療をしてもらえる」
「無駄だ。そういうところをこそ”カンパニー”は監視の的にしているはずだよ」
そう言ってから、僕は彼女の方を見た。その拍子に肩から激痛と共にぎりり、という音がした。
「ちょっと、あまり動かない方が良いんじゃない」
「そうだよ。でも意外だったんだ。君がまるで、僕に法を犯すよう勧めているみたいだったから」
「冗談言わないで」
風吹は心底あきれたようにため息をつきながら、注意深く車窓から見える景色を見渡した。
「別に、あなたに死んで欲しくないってだけよ」
「君を裏切った」
「うそをついてるのなんて、分かりきってたわ」
僕はそれには返答せずに、鞄から拳銃を取り出した。ジャケットの内ポケットに入れてあるつばめの羽を一枚装填する。光の粒子となって銃身に吸い込まれていくそれを、風吹はあっけにとられたように見ていた。
「よそ見するなよ」
「驚いた。普通の銃じゃ無いとは思ってたけれど、その羽何?」
「話すと長いんだ。それに、僕にも全部は分かっていないし」
「でも、話してくれて良いはず。私にだって」
そこまで言って風吹は口をつぐんだ。自分にも知る権利はある、と言いかけてためらったのだ。正しい判断だった。彼女にそんな権利はない。僕たちの誰にもその権利がないように。
「そういう奥ゆかしさは心配になるよ。風吹。警察でうまくやれているかい?」
「余計なお世話。誰よりうまくやってるわ。少なくとも人間の中ではね」
そうしてしたたかな笑みを浮かべる風吹の横で、僕は銃口を自分の腹にあてがい、引き金を引いた。驚いた彼女が小さく悲鳴を上げ、その拍子に車体が大きく揺れる。
「ちょっと、何してるの!」
「大丈夫だよ」
僕はそう言いながら、淡い桃色の光に包まれた自分の体を示してみせた。冬の朝に温めた牛乳を飲んだときのように、腹の底からぽかぽかとした感覚が湧きあがり、痛みが和らいでいく。
「”セイント・エア”だ。傷を治す効果がある。一時しのぎではあるけどね」
正確に言えば、回復できるのは”ランダマイザ”手術によってデータと置き換えられた部分だけだ。それ以外の、僕が生まれ持った肉は回復しないし、そんな中でごまかしごまかし体を動かしていては後でどんなひどいことになるか分かったものではない。けれど、そんなことまで風吹に話す必要はなかった。彼女の顔は既に真っ青だったし、僕も自分の中の肉がどうなろうと知ったことではなかった。
「・・・・・・私に隠し事をする気は無くなったってわけ」
「そうだ」
「でも、事情を話してくれる気は無いのね」
「大事な人が関わってるんだ。それだけだよ」
風吹は僕を見た。彼女の運転はほとんどゆらがなかったから、きっと周囲に意識を配るついでにちらりと流し見ただけだっただろう。けれど、僕にはずいぶん長い間その視線で射すくめられた様な感覚がした。
「その人は、生きてるの? 死んだの?」
──サイハラツバメの死についてなんて、何も知りたかないはずだ。あんたはまだサイハラツバメを殺せてない。あんたは、アタシたちが最初に観測した9年前から何も変わっていない。
ナノモンの言葉が脳内でこだまして、僕は目をつむった。彼女のあざけるような声の残響が完全にかき消えるまで待って、あんなの気にすることないんだと無理矢理思った。
「死んだよ」僕は答えた。
赤信号で車が止まって、風吹はたっぷり1分間、僕の横顔を見詰めてきた。僕は1分間、しらんふりをした。
「染野くん、あなた」
「やめてくれ、最近そればかり言われるんだ。僕が彼女の死を受け入れられてないって」
そう一息で言った僕の口調は、自分で意図していたよりも遙かに強いものだったらしい。彼女はものわかりの悪い子供にそうするように、大きく首を振った。
「そんなこと言わないわよ」
「でも、何か言おうとしているだろう」
「どうしてそう思うの」
「みんなそうだからさ」
「女の子なんだ」
「なに?」
「その人は女の子なんだって。私が思ったのはそれだけ」
僕は驚いて風吹の顔を見た。彼女は目を合わせてはくれなかった。
「どうやって、死んだの」
「話すと長い」
「だから聞いてるの」
その言外の意味が、僕には痛いほどに分かった。僕と彼女に、もうこんな長い時間は巡ってこない。たとえ一生掛けても。それが分かっているから、つばめもうるさくわめき立てたりしないのだ。
「僕は彼女を救うつもりだった」だから僕は話し始めた。それが過去の告白のように聞こえないように祈った。
「僕も彼女も、世界が終わると思っていた」
「あのころは、みんなそうよ」
「君も?」
「私も」
「意外だな。リアリストのくせに」
「リアルに世界は終わりかけたのよ」
風吹はそれだけ言って、僕に話の続きを促した。彼女は僕やあの自殺志願者たちのように、世界の終わりを一夏の夢にできなかったのだ、と思った。ヒウラフブキのなかでは、世界の終わりはきっと続いているんだと分かった。
「僕と彼女は一緒に逃げ出した。走って、走って、だけど彼女は死んだ。天使の羽になった」
「羽に?」
僕が”天使殺し”にこだわる理由に思い当たったのだろう、彼女は軽くうなずいた。
「どの駅で降りたかも、どこに向かって走ったかも覚えていない。暗くて、雪まで降ってた。寂しくて静かな路地だったよ」
「それは」風吹は少しためらって、それでもその問いを投げた。
「世界の終わりよりも?」
「ああ」僕はうなずいた。「世界の終わりよりも」
彼女が自動車のブレーキを踏む。車体が緩やかに減速し、やがて完全に停止した。窓の外に目を向けると、近代的な建築の社屋が見えた。白い壁に這うようにして、よく手入れされた植物のツタが植えられている、きっと建築家の意向という名前の植物だ。ソフィスティケートされた花を咲かせ、センスのいい実を付け、種からは何も生えてはこない。
「ついたわよ。”ヴァリス製薬”。一応聞くけど、本気で行くの?」
「そうしないと。連中はうその真相で事件に幕を引く気だ」
「そんな使命感や正義感で行くんじゃないでしょう」
そのとおりだった。僕は扉を開け、体中が痛みに悲鳴を上げるのをなるべく顔に出さないようにしながら降りた。礼を言うために振り返ると、風吹はダッシュボードを開き、そこから袋に包まれたマスクを出して、僕に手渡した。
「そのままの顔で行ったらきっと受付で通報されて終わりよ。私が花粉症でよかったわね」
「たしかにね。ありがとう」
「ねえ」
不意に、風吹が思い切ったように尋ねた。
「その女の子とは、最後に何か話せたの? つまり、彼女が死んじゃう前に、ってことだけど」
「話したよ」
そうだ。「もう一度」とつばめに請われ、彼女を抱きしめながら、熱を持ったひどく不安定な温もりを感じながら、言ったのだ。
「どこまでも一緒に行こうって、僕は言った」
「それなら、全部そのせいね。きっと」
きっとそのせいだと、僕も思った。
「ねえ、染野君」彼女は肩をこわばらせながらハンドルを握って、車を発進させる代わりに僕に話し掛けた。
「なに」
「今こんなの言うのどうかしてると思われても仕方ないけれど。たぶん最後のチャンスだから言うけれど」
「回りくどいな。君らしくもない」
「どこまでも、一緒に行けるわ」
「風吹?」
「あなたと、そうすることができる。今ならね」
僕はわずかに眉を上げた。彼女は僕に目を合わせなかった。車の進行方向ばかりを見ながら、時折意味も無くバックミラーやガソリンの残量に目をやっていた。顔は真っ青なままで、唇は硬く引き結ばれていた。
「ごめん」
僕はそれだけ言って、車のドアをなるべく残酷に聞こえないように閉めた。ドアはおおきな、どん、という音を立てて閉まった。
自動車はなめらかに発車し、僕から遠ざかっていく。
風吹はきっと本気だったんだろう。一緒に逃避行、なんて物語を好むタイプじゃない。僕を助けて共に無実を証明しようとするか、そうでなくとも捕まった僕の側にいてくれる気だったんだろう。僕が共に死のうと言ったら、彼女は驚いて、焦りながら止めてくれるだろう。
「どんなに黙ってても変わらないよ」
僕は車が去った後の灰色の道路に向けて、少し大きな声で言った。
「君は死んでない。僕にはまだ君の声が聞こえる」
──あの子と一緒に行くべきだったよ。
つばめの声が聞こえた。それは僕の心に残された良識とかいうものの声なのかもしれなかった。つばめももしかしたら、そんなことを言うのかもしれないが、僕にはそれを想像することしかできなかった。
「かもね。でも、約束したから」
──死んだ人と一緒にいることなんてできないよ。ハルキが一緒にいるつもりになれるだけ。
「それでもだ」
僕は声を上げた。通行人が何人か僕のことを振り返って、それから見ないふりをした。
「それでも、僕は君をひとりぼっちにしない。あんな暗くて静かな場所で、君が一人で死んでるなんて、耐えられない」
そう言いながら、僕はゆっくりと歩き出す。もう、と誰かがため息をついた。
夕日に照らされた塔京の街、そこには無数のコンビニエンスストアが立ち並んでいて、どこにもほとんど同じ商品が並んでいる。”天使の日”以降、コンビニエンスストアはいっそう熱心にその触手を全国の隅々にまで伸ばしていた。
誰も口にしないだけで、人間はみんな、風情のある個人商店よりもコンビニの方がずっと安心するのかもしれない。画一的な商品を欲する人類が自分の他にも大勢いるという事実に、滅びに直面し続けている心が慰められるのかもしれない。棚に並ぶ商品の数々は、世界が終わっていなかったあの夏から続く、変わりの無い日常なのだ。
人で賑わう通り沿いにあるセブンイレブンでもそれは同じ。夕暮れ時と言うこともあり、定時で首尾良く仕事を終えた人間たちが大勢詰め掛けている。
と、その中から、ダークブルーのコートに身を包んだ男が、ビニール袋を片手に提げて出てきた。ありふれた光景にも見えるが、その男の背は、周囲の人間と比べても倍以上に高かった。
周囲からの奇異の視線をものともせず、男は車道のすれすれに立ち、目のすれすれまでを隠したニット帽の下で大あくびをした。
やがて、通りに一台の車が滑り込んでくる。長い車体に艶めいたぴかぴかの黒。リムジンというものが既に過去の遺物になったと信じて疑っていなかった市民たちは、皆一様に口をあんぐりと開けて、その車がコートの男の前で止まるのを見詰めていた。
男は運転手が出てきてドアを開けるのも待たずに、乱暴にドアを開き、頭をかがめて乗り込むと、股を大きく開いて座席にどっかと座り、奥の座席に腰掛けている人影に向けて口を開いた。
「ナノモンがソメノ・ハルキに接触したぜ」
男は人影を見詰める。同じ車内で、しかしその影の座る場所だけは深い闇に包まれているように、光というものがその影の側から逃げ出してしまったかのように暗かった。
「結論から入るな。親友。優雅じゃないし、その情報なら私は既に知っている。ワインはどうだね?」
愉快そうに語り掛けてくる人影に、コートの男は誰が聞いても機嫌が損ねたと分かるほどに声をゆがめた。
「第一に、ワインは飲まない。第二に、こいつは俺が足を使って集めた採れたての情報だ。クレームは受け付けない。第三に、俺とアンタは親友じゃないよ。ヴァンデモン」
そう言いながら、男はニット帽を外して横に放る。その男の顔には包帯がぐるぐるに巻き付けられていて、ぎらぎらとした緑色の目がのぞいている。
「つまらない男だな。マミーモン」
「あんたに面白いと思われる男は不幸だ。ソメノハルキはとびきりの不幸らしい」
そう言いながら、マミーモンと呼ばれたそのデジモンは、コンビニの袋から中華饅を取り出し、大きく口を開けてかぶりついた。高級な革の座席に散らばる食べかすを不快そうに眺め、ヴァンデモンは血のように赤いワインで満たされたグラスを揺らす。
「アンタほど変化を嫌う男がリムジンなんて。いつもの棺桶はどうした?」
「眠る暇のない案件なんだ。それに今日は、運転手の方から転がり込んできてくれたものでね」
「おたくら、ずいぶん悠長にしてますけどね」
と、ヴァンデモンの反対側、座席の向こうの運転席から、間延びした声がする。
「おれはこの胴長の不細工な車を運転すれば旦那を助けてもらえるって聞いてるんですよ。警察のネエちゃんだけじゃどうにも心許ないから、おっかねえ”コレクティブ”の幹部のとこに駆け込んだってのに。こんな窮屈な運転を押しつけられたんじゃやってらんねえや」
「おい、その声、聞いたことあるぞ」マミーモンが頭の後ろで手を組む。
「ソメノハルキの回りを死霊に探らせてたときに聞いた。奴に使われてるブギーモンだな。じゃあアンタの情報源もそれか」
マミーモンに水を向けられ、ヴァンデモンは軽くうなずく。
「ハルキ君から私のことを聞いていたらしい。彼が”カンパニー”に連れ去られる事態に、勇敢にも”闇貴族の館”の扉を叩いたというわけだ」
「おまえなあ。ウチは観光客が駆け込める大使館じゃねんだぞ。”コレクティブ”に尽くしているわけでもないおまえが駆け込んだって、助ける義理はねえよ」
「別に義理なんかアテにしてねえですけど」
ブギーモンはぶっきらぼうに続ける。
「おれはただ、いつ死んでもおかしくないような旦那を、誰かが助けてくれれば良いなって思ってるだけですよ。てめえの力でそれをしないのが甘っちょろいって言われたら、まあ、そうですけど」
ヴァンデモンは、その言葉にあきれたように苦笑した。
「安心しろ。小さな悪魔。おまえがこうして我々を運んでいる時点で、契約は履行されているとも。信頼のおける戦力をソメノ君の救助に向かわせている」
「へえ、そりゃあ、どうも」
必死で頼んだ割には、大して嬉しくもなさそうな礼を漏らすブギーモンを見て、ヴァンデモンはどこか満足そうに笑った。自分を恐れない相手との会話が心地良いのだとマミーモンは思う。最もブギーモンのそれは、どうにでもなれと腹をくくったところから出てくるから元気のようなものだろうけれど。
そうはいっても、今の会話はいささかフェアでない。マミーモンは顔をゆがめ、運転席に聞こえないよう声を潜めてヴァンデモンに話し掛けた。
「おい、戦力って”選ばれし子どもたちの会”か」
「ご明察。連中がソメノハルキに張り付いていることは知っていたからな。動きやすいように奴らの回りの”選友会”幹部の気を引いてやったんだ」
「アンタは”コレクティブ”の幹部だ。電話一本でも受ければ、教団のおえらがたはあらゆる予定をキャンセルしてアンタに従うだろうよ。いいや、電話もかけてないな?」
「ダイレクトメッセージというのは便利だ。文面はしもべたちに考えさせれば良いしな」
「じゃあ、アンタは何もしてない。ソメノハルキを助けられるかもしれない奴らが、動くかもしれない状況を作っただけだ」
「彼は助かるさ」
確信が籠もった口調で語るヴァンデモンに、マミーモンは身を乗り出した。
「なあ、そろそろ聞かせろ。ソメノハルキがなんだっていうんだ? どうして俺に奴を探らせたり、変な銃を作ってやったり、命を助けてやったりする?」
「何を今更。彼が関わった事件の重大さは知っているだろう」
「ああ。報告書を何度も読んださ。重要だったのはどう考えてもサイハラツバメだ。ソメノハルキはサイハラツバメと親密だったから、アンドロモンに利用された」
「あのレプリカントとは戦ったことがあるだろう。そこまで器用じゃない」
「そうだとしてもだ。ソメノハルキはたまたまそこにいただけ。それ以上でもそれ以下でもない」
たまたまそこにいただけ、その言葉が愉快で仕方ないとでも言うように、ヴァンデモンは唇を引きあげる。
「君の言うとおりだ。親友。彼はたまたまそこにいただけ。それだけで彼は、出会って半年そこそこの少女のために住んでいた場所も家族も全部放り投げた。そして今、彼はその少女のために、10年近い時間を棒に振ろうとしている」
「まるで不死者の道楽だ」
マミーモンは中華饅の包み紙を丁寧に広げて、それからまたくしゃくしゃに丸め、シートに放った。
「そうだ。彼は短い人間の生の、さらに短い少年期をそれに費やした」
「それが、アンタが奴を気に入った理由?」
木乃伊男はあきれたように首を振った。
「アンタ、デジモンを何体も不死にしてもできなかったことを、あのガキにやろうってのか」
「君は察しが良くて困る。長生きできないぞ」
「死なねえよ。アンタがそうしたんだ」
「そうだったな」
けらけらと笑うヴァンデモンをマミーモンが睨んだところで、リムジンがゆっくりと停止した。
「つきましたよ」
運転席からブギーモンが不機嫌そうに言う。外の風景に目を向け、マミーモンは露骨に顔をしかめた。
「おいおい、なんだってこんなところに来たんだよ」
「私は”コレクティブ”の幹部だよ。親友。所属組織の本部に顔を出しても不思議はないだろうが」
笑みを崩さないヴァンデモンに、マミーモンは大きくため息をつき、頭の後ろを乱暴に掻いた。
「ああそう、頭目に呼び出されたって訳かよ。不死者の王も、すっかり悪魔の軍団長の使い走りって訳だ」
「政治は私の得意じゃないんだ。何かのリーダーという立場もね」
「だとしてもだ。ノスフェラトゥ、あんたは一番古くから生きている不死者なんだぜ。それが今じゃ自分の工房に籠もって仕事もしない。いや、何もしてないだろ。アンタがその気になりゃ不死者たちの半分と引き替えにアイツの首を・・・・・・」
「滅多なことを言うな。マミーモン」
ヴァンデモンはひどく不愉快だとでも言いたげに唇をゆがめた。
「彼もまた、私の親友だぞ。最も古い親友だ」
「そうかよ。だったら仲良くハグでもしてくればいいさ」
「ついてこないのか」
「やだね。あんなのにすすんで会おうってやつはいない。だからアンタも呼び出されるまで来なかったんだろ?」
その問いに緩いほほえみだけを返し、ヴァンデモンは車のドアを閉めた。それを見送ったあと、マミーモンは運転席に向けて語り掛ける。
「大した度胸だ。不死者の王に自分でドアを開け閉めさせたのはおまえが初めてだろうよ」
「おれは運転手として雇われたんです。ドアマンはどこかよそを探して下さいよ。それより、もういっていいですかね」
「なんだ。ずいぶん急かすな。”コレクティブ”の本部だぞ。お前なんか普段は近づけないだろう。目に付いた悪魔にでも取り入れば、出世だってできる」
からかうような口調のマミーモンに、ブギーモンは肩をすくめる。
「おれはいいですよ。そういうの。それに、気味が悪いんです。だって”コレクティブ”のリーダーは、身体の半分が──」
「おい」
と、不意にマミーモンがぞっとするほど低い声で、その言葉を遮った。
「やめとけ。ここの長は地獄耳で有名だからよ」
「・・・・・・はいはい」
ブギーモンも少し目を見開き、背中に一筋の汗を流しながら。再びハンドルで手を掛けた。
「それじゃあ、出しますよ。どこで降ろしましょう」
「どこでもいい。ここから一番近くのコンビニで止めてくれ」
「さっきも行ってたでしょう」
「好きなんだよ、コンビニが」
そうつぶやきながら、マミーモンは窓の外に広がる灰色の景色を眺めた。
「好きなんだ。俺らじゃああいうものを思いつけない」
”ヴァリス製薬”の受付に立つ女性は、僕の顔を見ても何も言わなかった。まだ指名手配のニュースは届いていないのか、あるいは、風吹のくれたマスクに想像以上の効果があったのかもしれない。所々に汚れやほつれの目立つ服にはどうしても視線を向けられてしまったけれど。
「どなたに御用ですか」
「タチバナ・コウ」
それが、キタミアカネが写真と共にホームレスに言い残した名前だった。僕はタチバナの肩書きも立場も知らなかったけれど、女性は戸惑ったような表情を見れば、彼が多くの人と話をする人間で、しょっちゅう会社に客を招いているというわけではないことは分かった。
「ええと、タチバナ先生ですね。事前になにか、面会の予約などは」
「特に取っていません」
「なるほど」
女性は少し顔を青くして、そこにマニュアルがあるとでもいうように自分の手元に何度も目を落とした。
「ただいま、確認して参りますね」
彼女はこういう会社で受付をやるには愛想が良すぎるのだ、突然現れた無礼な来訪者にサービスをしてしまっている。1度確認してきたところで、タチバナは多忙だろう。僕をなんとかして追い返さないと行けなくなり、一層顔を青くして帰ってくるに違いない。
──無理もないよ。予定も無しにぼろぼろで受付に来るのなんて、ハルキが初めてだろうし。
つばめが言った。そう言われればたしかに、当然僕がズレているのだ。
「申し訳ありませんが、重要な話なんです。キタミ・アカネに関する話だと伝えて下さい。写真を持ってきたと」
僕がなるべく丁寧にそう言えば、彼女はいくらか体面を取り戻したようだった。内線電話をかけに行った彼女を、
僕は口の中で時間を数えつつ待った。1分が過ぎたところで辺りを見回し、手近なところに監視カメラを見つけると、マスクを外してそのレンズに顔を向けてやった。
そんな風に過ごして3分と39秒が経ったころ、女性は小さなメモを片手に戻ってきて、いささか困惑した様子で言った。
「お会いになるそうです。非常階段の鍵を開けておくので、4階まで歩いて上ってきてほしいと」
「わかった」
「あの」
「何も聞かない方が良い」僕は冗談めかして言った。「知られてしまったら、君を殺さないといけない」
そのわざとらしさにかえって安心したのか、女性は僕に非常階段への道を示した。
「お時間取らせてすみません。こんなこと、初めてだったので」
「そうだろうね」
もしかしたら、彼女にとってこういう経験は一生に1度のことかもしれない。あるいはこれを機に、些細だがドラマチックな出来事に次々巻き込まれてしまうかもしれない。それは僕にはどうしようもないことだった。エンドロールの後のことまで、ドラマは面倒を見てくれない。ドラマは終わって、ドラマチックな出演者だけがそこに残るのだ。
タチバナコウも、ドラマの空気に取り残された人間のようだった。白衣の下によれよれのボタンダウンがそれを証明していた。ほほはこけて、眼鏡をかけた悪鬼とでも呼ぶべき風貌だった。こうならざるをえなかった、というよりは、人生のある時点でひどい嵐に巻き込まれてしまったような痩せ方だった。
「ようこそ」
彼はまだ30半ばに見えたが、その声はひどく疲れ、しゃがれていた。面と向かっていなければ、きっと老人の声だと思ってしまったに違いない。
彼はガラス張りの応接室を通り過ぎ、少し歩いた場所にある部屋に僕を案内した。彼のオフィスなのだろうか、モニターが並ぶ先進的な研究室に、サンプル・ケースに詰められた大量の植物が目立つ。紋切り型のSF映画のような後継だったが、電子的な薬品開発の現場というのはこうなるのだと言われれば納得せざるを得なかった。
勧められるがままに研究室奥のソファに腰掛けると、彼も向かい側に座り、背もたれに体重を預けて、まるで水中から引き揚げられた直後かのように深呼吸をした。実際彼にとって、立って歩いている時間は、水中を泳いでいるのと同じなのかもしれない。
「突然お邪魔して申し訳ありません。僕は──」
「ソメノ・ハルキさん」
「僕の名前を?」
「ええ、ちょうど今ね」
そう言って彼は背後のテレビ画面を指指す。公共放送の画面に、僕の顔と『緊急速報』の文字が交互に躍っていた。カンパニーの仕事は早い。
「慌てないで下さい。別にあなたを警察に突き出したりしない。さっきの監視映像は消しましたし、非常階段はもとより監視が手薄だ」
「受付の子に見られている」
「あの子はニュースなんて見ませんよ」
「それでも、カンパニーはすぐに僕の行き先を割り出す」
「なら、急いでアカネのことを話しましょう」
彼の態度は明確だった。キタミアカネは彼にとってそれほどの人間で、僕が彼女の話をしないのであれば、これ以上匿う意味も無い、ということだ。
「キタミさんはあなたに何か言づてを?」
「何かあれば俺を頼る、と昔言っていました。そして彼女は死んだ」
「あなたは彼女の元同僚?」
「親友でした」
彼がなんの迷いも無く言うので、僕は眉を上げた。
「それは、職場が離れた後も?」
「もちろん。定期的に連絡はしていましたが、お互い忙しいですしね。”カンパニー”の研究所で機密を扱っていると、私信も検閲の対象になるとかで、ゆっくりと話をすることは減っていました」
「それでも、親友だった?」
「俺を試しているんですか? アカネが俺を指名したんでしょう?」
僕はそれには返事をせずに、懐から彼女がホームレスに預けていた封筒を取り出し、手渡した。タチバナは表情を変えずにそれを受け取り、中の写真を引き出し、一枚ずつ見ていく。
「アカネがあなたを雇った?」
視線を写真に落としたまま、彼は僕に問いかける。
「雇おうとした。一度事務所に来たがその場では用件を話さずに、僕と会う約束を取り付けた、そして二度目の会合の前に死にました」
「『オレンジの種五つ』みたいな話だ」
「どうでしょう。少なくとも僕は、ホームズのように犯人への怒りに燃えてはいない」
「ただ働きで、警察に追われながら手がかりを追っているのに?」
「そういう人間だというだけです」
僕の言葉に彼は曖昧に笑い、やがて一枚の写真を僕に突き返した。見てみれば、何かの数字が書き連ねられた資料の写真だ。
「アカネが伝えたかったのは、おそらくこれです」
「説明を?」
「簡単なものにはなりますが」
彼は立ち上がり、デスクに向かうと、モニターの一つを僕に指し示した。それに接続したPCに目を向けると、そこからさらに何本かの太いケーブルが、植物の並ぶテーブルの方に置かれた大きなガラス管に伸びていた。
「先ほどの写真に載っているのは、何かの成分表に見えました。正確には、構成データの一覧ですが」
「今の世界じゃ、その二つに大きな違いはない」
僕の言葉に、タチバナは大きく頷いた。
「そうです。だからヴァリスみたいな商売が成り立つ。電子的なアプローチで肉体に直接的な変化を及ぼすことができる、ということです」
「あなたとキタミさんの専門もそれ?」
「ええ。彼女があの施設にいたなら、”塔”のデータ組成を調べていたはずだ」
「”塔”の根本を削って調べてるって言うのか」
「”カンパニー”ならそれくらいするでしょう」
ナノモンの顔を思い浮かべて、僕は彼の言うとおりだと思った。
「それで、これの意味するところは?」
「研究者として興味深いところはいくつもありますが、今はこれです。機密資料なんですが、あなたをここに招いてる時点で何をしても同じだ」
彼がキーボードを叩き、あるデータを表示する。それもまた何かの組成のようで、数字の並びは写真の中の資料とほぼ同じようだった。
「うちでは警察からデータ組成の鑑定も頼まれています、これも現場に残された資料です」
その先を促すように見詰めれば、彼は頷いて結論を口にした。
「”天使殺し”ですよ。人が失踪した現場で見つかった天使の羽と、”塔”の組成は、ほぼ一致します」
タチバナの言葉をうまく飲み込むことはできなかった。けれど身体の方が先に動いて、服の内ポケットに止めたつばめの羽を引き抜く。
「これを」僕は言った。「これを調べてくれ」
彼は驚いたようにこちらを見たが、ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、黙って羽を受け取り、PCに接続されたガラス管の中に入れた。
「待って下さいね・・・・・・。ああ、早かったな。さっきの羽と同じ組成ですよ。”天使殺し”の現場からくすねたんですか?」
視界がぐらぐらと揺れていた。訳が分からなかった。つばめの羽があの、世界に終わりをもたらした塔と同じ。それが意味することはまるで分からなかったが、それでも、その事実に思いを巡らせるとなぜだか吐き気がした。
「ソメノさん? 大丈夫ですか?」
「他に、他に、何か」
「ええ。気になるところとしては、この二つは”ほぼ”同じであって、完全に一致はしないところです。どうも天使の羽の方には、人為的な・・・・・・」
がちゃり。タチバナの言葉を遮るように扉が開く音がした。
振り返れば、「彼」が頭を低くしてドアをくぐっている。そうだ。彼は背が高すぎるから、小さな扉はそうしないとくぐることができなくて、だからあの日の新幹線でも、僕とつばめは彼から逃げ出すことができたのだ。
「先生」がそこに立っていた。シュワルツェネッガーがマグリットの絵画に出演したら、きっとこんな感じだと、僕は思った。
──立って、ハルキ!
頭の裏側で鳴り響いたつばめの声に、僕はとっさに立ち上がった。「先生」は大牛のような俊敏さで、こちらに向かってくる。
──違うよ。視線をよく見て。狙ってるのは・・・・・・。
僕はタチバナの方へ向かう「先生」の前に躍り出る。彼は意外そうに僕の顔を見て、それからその顔を怒りに醜く歪めた。当然だ。彼からすれば、僕のせいでつばめは無駄に死んだのだ。
──でもそれがラッキー。先生のパンチはきっと一度食らえば死んじゃうけど、怒ってる今なら。
大ぶりな「先生」のこぶしをかわし、僕は彼の懐に飛び込む。
──そして、あんどろさんと何万回も練習した柔道のあれ!
彼に組み付いて、足を取ろうとするが、巨大な身体はそのバランスを微塵も失ってはいなかった。
──あ、やば。
つばめがそう言うと同時に、先生の巨大な両手が僕の首をつかむ。それだけで、空気の通り道がぎゅうっとつぶれるのが分かった。逃れようとするが、僕の足はむなしく中を掻く。体ごと持ち上げられたのだと気付くと同時に、急速に意識が遠のいていく。
──しっかりして、ハルキ! しっかり!
そう叫ぶつばめの声も、段々遠くなっていく。
──ハ×キ! し××り! ××キ!
全てが間違いだったのだ、ぼやけていく風景の中でそんなことを考える。
9年前にこうして死ぬはずだった男が、ただ無駄に生きて、そのつけを払うだけじゃないか。
とにかく、こうすれば、もう、つばめをひとりぼっちにはしなくてすむ。そう考えて、僕は──。
──ばか!
間違ったのは向こうだ、と気付いた。瞬間、思考が巡り出す。もしかしたらナマの脳細胞はとっくに死滅しているのかもしれない。けれどそれなら、頭の中に埋め込んだ電子の回路を全力で回すだけだ。
足をどれだけ振り回しても、胴体を蹴り飛ばしても「先生」の身体はびくともしない。でも、手は自由だ。
左手を懐に突っ込み、乱暴につばめの羽をつかみ引き抜く。何枚もの天使の羽が、僕と彼の間に舞う。
「先生」はそれに目に見えて動揺したようだったが、直ぐに憎しみのしわを一段と深くして、首を絞める手に力を込める。
彼はこの羽がつばめだったと知っているということだ。それはなぜか。僕はそれを知らなければいけない。
右手が拳銃をつかむ。舞い散る羽が次々と光の束になって装填されていく。銃を持つ自分の手も見えないが、それでも引き金を引いた。
胴に一発、手応えがある。
胴に一発。「先生」の身体が大きく揺れる。
胸に一発。まだこいつは僕のことを話さない。
胸に一発。手が緩んだ。無我夢中で銃を持つ手を上に向ける。
頭に一発。
頭に一発。
頭に一発。
頭に一発。
頭に一発。
頭に一発。
あのとき、つばめが言って欲しかった言葉は、「どこまでも一緒に行こう」なんかじゃなかったのかもな、と、思った。
「・・・・・・さん、染野さん!」
タチバナの声に僕は意識を取り戻した。どれだけの時間が経ったのか分からないが、気がつけば僕は銃を握ったまま床にへたり込んでいた。
顔を上げれば、目の前に倒れた大男がいる。その上半身に思い切って目を向けたが、そこには血の一滴も滴っていなかった。彼の身体は出来の悪いキュビズム絵画のようにぐちゃぐちゃになり、ところどころに電気的なノイズが走っている。
「”ランダマイザ”です」背後でタチバナが震える声で言った。
「は?」
「身体の大半を電子化した人間は、ひどい外傷を受けるとこうなります」
「『先生』が・・・・・・」
僕は荒く息をしたまま、彼の方を向いた。
「彼は死んだ?」
「信じられないですが、生きてます。さすがに外部からの治療が必要ですが。逆に言えば、専門の治療さえ受ければ、元通りになる」
──うわあ。
僕の反応も大体つばめと一緒だった。”ホーリー・アロー”を何発も頭に打ち込んで生きられていては何を信じれば良いのか分からない。先ほどの光景を見ていたタチバナも同意見らしく、恐ろしさより興味が勝るといった様子で「先生」の身体を遠巻きに眺めている。
「タチバナさん。行きましょう」
僕は銃の調子を確かめ、もう一度肺を新鮮な空気で満たしてから、立ち上がった。
「え?」
「この男はあなたを狙っていた。僕に巻き込まれたのか何か知らないが、あなたの命も危ない」
「・・・・・・だから、あなたと一緒に逃げろと?」
僕は黙って頷いた。彼はしばらく自分の研究室と倒れた「先生」を見比べていたが、やがて、大きく息をつく。
「・・・・・・分かりました。他に選択肢もなさそうだし、何よりあなたはアカネの恩人ですしね」
「恩人?」
僕は驚いて首を振った。
「むしろその逆だ。僕がもう少し義理堅かったら、彼女は生きていたかもしれない」
「ええ。でも、あなたのおかげで、彼女の死はまるっきりの無駄にはならなかった」
僕は不意に思いついて、彼の顔を見た。
「キタミさんに、恋をしていた?」
「ええ」タチバナは頷く。
「ずっと昔から」
──なに、そのやり取り。
つばめには返事をしないで、僕はタチバナを促し、部屋を出て行く。頭の奥がじんじんと熱を持っていた。
僕は、僕に残された時間のことを考えて、つばめに、こら、と怒られた。
待っていたぞぉスケープゴート(2)……(2)!? 次回は(3)なのか!? 夏P(ナッピー)です。
風吹サンが意外と乙女だったというか、ハルキから「リアリストなくせに」と言われてましたが根はロマンチストなのか。まあ理屈込みで考えて発言した部分も大きそうな気はしますが、それはそれで乙なもの。むしろここの場合、素直にあの日のことを他人に話せるハルキの方が意外だったか。でも話さなかったらヴァリス製薬まで連れて行かれず、文字通りお持ち帰りされてBAD ENDだったんだろうな……。ちなみに「どこまでも一緒に行こう」を他人に話してしまった時点で、最後に絶対「僕とつばめ、交際を始めて3650日目の夜のことだ──」みたいな壊れた一文が挟まると警戒していたのは内緒。
余裕があったらヴァンデモン様タクシーもといリムジンの中で棺桶用意して寝てるんかなと思うと草。半身メカって何だ……? ブギーモン氏は単なる運ちゃんだと思っていたのに、気付けばガンガン知り得ちゃならない情報を知り過ぎて口封じされそうなポジションになっている。最早クウガみたく、いつ何時タクシーの座席の後ろからドスッと刺されてシュワシュワ溶かされるかわからない。マミーモンが出張ってくるとすげえマダラさん作品っぽさが増す。コンビニ云々とか言い出すと余計にそれっぽい。
よく考えたら今回ハルキ側にデジモン出てこなくて、デジモンの出番↑だけだったんですねと思う間もなく、突然『先生』乱入。これタイラントか追跡者だ、スタアアアアアズ……!つばめの台詞がどんどんハルキの思考とリンクしていく感があって危うさが増しておりますが、ホーリーアロー十発食らって「まだ生きてます」とは戦慄にして驚愕、あの1クール暴れ回ったヴァンデモン様とて一発で「や、やめろぉ……はぐ!」と散ったんだぞ!! 早く溶鉱炉に落としてリミッターが外れたスーパー『先生』にしなきゃ。
羽の成分が明かされた時点で、タチバナさん絶対最後まで言い切れずに頭握り潰されて死ぬ奴だと思いましたが死ななくて一安心。いやむしろ「タチバナさん死んだ! いや羽の正体何なんだよ! 最後まで言ってから死んでよ!」と言う用意ができていたのに死ななかった。何故だ!!
受付嬢ちゃんは外伝か幕間があったら、なんか人知れず巻き込まれて奮闘する主人公になる奴だ。
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。