プロローグ
豪炎が、アウルモンの翼を掠め焦がした。
白と茶羽が入り混じり、バイザーを装着したフクロウのごとき姿。今の直撃を受けたら、それもすぐさま鴉と見紛う黒焦げに染まっていたことだろう。
炎の軌跡を残してすれ違った二足の火龍は、上方でなおも煌々と猛り、夜闇を照らす。
「よく避けた、アウルモン! 直撃してたらやばかった……!」
アウルモンの隣、半透明のホログラムとして追従する少年の声が響く。答えるようにしてアウルモンがフルゥ、と不機嫌そうにひと鳴きする。
褒めている暇があるなら、次の指示をよこせ。そう言っているかのようだ。
「悪かったよ……そろそろ大技が来るはず。作戦通りいくよ!」
アウルモンが少年を一瞥し、肯定のひと鳴き。高度を上げ、唸る火龍と向かい合った。
火龍は猛々しい炎を思わせる色合いの鎧に身を包んでいた。白銀の兜にすっぽり覆われた頭部には、対照的に青く透き通る瞳が、爛々と闘志を湛えている。獲物を引き裂くための鋭い爪が両手両足から伸び、牙の間からはふしゅう、と獰猛な息が漏れる。
背には一対の翼が文字通り燃え盛っており、人と龍を掛け合わせたようなシルエットを、月の下にありありと照らし上げていた。
ヴリトラモン。さる神話における火龍の名を冠せし荒ぶる獣が、口を開き、叫ぶ。
「よくぞ避けましたわね! ですが、次で終わりですわッ!」
……情熱的な令嬢を思わせる、よく通る、澄んだ高い声。荒々しく神々しいヴリトラモンの姿からそれが発せられるのは、誰が耳にしても強烈なギャップを覚えるだろう。
「燃え尽きあそばせ……コロナブラスター!」
ヴリトラモンが、両腕に装着した菱形の超兵器を構える。大気を歪めるほどの高熱が先端へと充満し、たちまち熱線となって放たれる。
だが、狙いすました一条の赫光(かっこう)は、アウルモンを貫かなかった。
「突撃ですって……!?」
ヴリトラモンが狙いを外したのも、無理からぬ話だ。熱線はアウルモンの回避を予測した、偏差射撃によって発射された。
だが、アウルモンは猛然と前進、ヴリトラモンへ向けて突貫を行っていたのだ。
予想外の直線軌道に、ヴリトラモンの判断が一寸遅れ、隙が生じた。
風を切り、ヴリトラモンの背後を取ると同時に、転回。鉤爪による急襲……アウルモンの必殺技、《ミッドナイトスクラッチ》がヴリトラモンを襲う。
「ぐうッ!」
「今だ! 勇気のデジメンタル、装着(セット)!」
少年の声が響き、アウルモンの内側から真紅の輝きが発せられる。その輝きは一瞬のうちにアウルモンを包み込み……その姿を、全く別のものへと変化させた。
「ギシャアアァッ!」
紅蓮の甲殻に身を包み、狂暴な金切り声を上げるその姿の名は、シェイドラモン。優れた格闘能力と、凶悪な炎の力を持つ、昆虫人間とでも形容すべき異形。蝶を思わせる翅と筒状に変化した両腕は、すでに高熱を帯び、ヴリトラモンへの対抗心を燃え上がらせている。
「決めろ、シェイドラモン……フレアバスターだ!」
両腕を振りかざすと同時、シェイドラモンの腕から灼熱の火炎が放射される。
同じ炎の力を持つヴリトラモンとて、ただでは済まぬ火力。何より、アウルモンの鉤爪によって生じた傷口に炎を流し込むことで、いっそう威力を強める狙いがあった。
だが。
「そう来ると……思ってましたわ!」
シェイドラモンが放ったそれすら呑み込んで、ヴリトラモンが爆炎に包まれる。炎の翼が激しく羽ばたきを繰り返し、上昇気流を生み出し……やがてそれは、燃ゆる竜巻と化す。
「フレイムストームッ!」
「ギャシャッ……!」
炎の竜巻に取り込まれ、シェイドラモンが漆黒のシルエットと化す。
喰らい合う灼熱と灼熱。シェイドラモンのシルエットが、ゆっくりと縮んでゆく。
「ああっ……!」
悔しさを滲ませた少年の声が漏れ、炎が晴れる。
シェイドラモンの姿が、緑色をした芋虫のようなそれに変じる。シェイドラモンであった時よりふた回りも小さく、翼もないそれは、ただ落下するのみ。
直後、空中に球状のバリアフィールドが展開され、落下する芋虫の体を受け止めた。
やがて、数秒の静寂を切り裂き……どこからともなく、アナウンス音声が響き渡った。
『ワームモン、ノックアウト! 勝者、ヴリトラモン……爆熱院麗火(ばくねついんれいか)!』
「っしゃオラァ! 爆熱大勝利、もぎ取りましてよッ!」
ヴリトラモンが拳を高々と突き上げ、勝利を宣言する。
時を同じくして、夜空を形作っていた風景テクスチャが剥がれ落ちてゆく。試合が終了し、模擬戦闘フィールドがその役目を終えたのである。
ヴリトラモンと、抱えられた緑の芋虫の姿もかき消え、元いた場所へ戻りゆくのであった。
模擬戦闘プログラムの終了と共に、少年はシミュレーター室、転送装置上に戻される。
眼前のモニターには、ありありと現在の試合結果が映し出されていた。
『WIN ヴリトラモン:爆熱院麗火 LOSE ワームモン&リク』
ため息をつくより先に、少年の腕に嵌められたスマートウォッチ型デバイスが発光する。次の瞬間、傍らに、緑色の芋虫型生物……ワームモンが、くたびれた様子で出現した。
「大丈夫かい。ごめんよ、僕の作戦ミスだ」
小型犬ほどの大きさをしたワームモンを抱き抱え、少年が呟く。
少年は、その名をリクといった。短く切り揃えた黒髪と、まだあどけなさを残す顔立ちは、現実世界における当人に似せて作られたアバターである。自身の姿を好みにカスタムできるこの世界においては、逆に珍しい容姿だ。瞳の色のみ、カラコン気分で水色にしていた。
程なくして、すぐ隣の転送装置にも一人の女性の姿が編み上げられてゆく。
すらりと細長い手足が織り成す、170cm以上の背丈。輝く金髪を螺旋状に束ねて肩へ流し、赤を基調としたドレスを纏う姿は、いかにも〝お嬢様〟といった風情。
「ごめんあそばせ! 今回はわたくしが、いささか強火すぎましたわね!」
そんな古典的とすら言える容姿から、やはりコテコテな口調が飛び出す。
このステレオタイプお嬢様アバターの女性は、名を麗火という。今しがたまでワームモンと戦っていた張本人……即ち、ヴリトラモンだった者。リクにとって師匠のような存在だ。
「ありがとうございました、麗火さん。何戦も付き合ってもらっちゃって……」
「こちらこそ感謝申し上げますわ。お陰様で、今後の課題も多く見つかりました。やっぱりビーストスピリットで進化すると、力の加減が難しいですわね……」
「背後を巻き込めるフレイムストームで反撃に転じたのは流石でした。ハイブリッド体とちゃんと対戦するのは初めてでしたけど、やっぱりテイマーの指示がなくて独立独行な分、思考から行動までのタイムラグがないのは大きな強みだな……」
間髪入れず、まくし立てるようにリクが言葉を続ける。
「テイマーの指揮下で戦う通常のバトル以上の判断速度が求められるから、ワームモンと連携する上でも参考になりました、ああでもシェイドラモンの時が力任せすぎるからまだ技に改善の余地があるし夜戦フィールドでのアウルモンも…………」
「あなたデジモンの話になると本当に早口ですのね……」
次第に聞き取るのも困難な速度で呟き始めたリクに、麗火が肩をすくめた。
「す、すみません、つい……」
「それよりも今はワームモンの健闘を労ってあげなさいな。フレイムストームがあと1秒遅れていたら、勝敗は逆転していたかもしれませんわ」
「……はい。おかげでこいつも、もっと強くなれた気がします」
リクの腕の中に収まるワームモンは、どこか不満そうに顔をしかめていた。一対の大きな水色の瞳のおかげもあり、ワームモンの感情表現は非常に豊かである。
「さて……わたくし、そろそろログアウトしますわね」
「あ……もうこんな時間だ。じゃあ、僕もこのへんで」
「ええ、ごきげんよう。そうそう、リクさん。いい加減、今期のアリーナに登録なさいな」
「うっ……ワームモンを完璧に仕上げてやろうと思ってたら、なかなか」
「用意周到も、過ぎればただの臆病でしてよ。あなたの目標は何でしたっけ?」
「……ワームモンを、D-1(ディーワン)グランプリで優勝させることです」
それは「世界最強を目指す」と宣言するのに等しい、大言壮語だった。
だが、麗火は嘲笑わず、闘志に灯りをともした少年の決心に、不敵な笑みをこそ返す。
「よくぞ言い切りました。なら早速明日、アリーナへ登録に参りましょう」
「あ、明日ですか? 急ですね……」
「今シーズンはもう開幕しているんですのよ、遅いぐらいですわ! 明日ログインしたらまずわたくしにメッセージを入れること。先輩命令ですわよ、返事は〝はい〟一択!」
「は、はい!」
「よろしい、ではまた明日! 夜更かし厳禁でしてよ!」
高圧的な口調と裏腹に面倒見のいい言葉を残し、麗火がログアウトしてゆく。緑色に輝くエフェクトに包まれたかと思うと、後には誰の姿も残らない。待ち合わせ時間すら決めない慌ただしさが、実に彼女らしいと、リクが思わず笑みをこぼす。
「それじゃあ、ワームモン……また明日」
ワームモンと目を合わせると、キュウ、とひと鳴きが返る。微笑み返し、腕のデバイスを操作し、ログアウトの処理を行う。
ワームモンの姿が消え、デジファームへと転送される。戦いの疲労は転送先で癒される。
続いてリクも、視界が暗転し、デジタルワールドから、現実世界(リアルワールド)へと帰還する――。
1997年、人類はデジモンと出会った。
デジタルモンスター、通称デジモン。コンピュータ―ネットワーク上に突然変異的に発生したデジタル生命体であり、人工知能を持ったウィルスが進化したものと言われる。
種の特性として強い闘争心と戦闘能力を誇り、戦闘を重ねることで、まったく異なる姿へ〝進化〟する、既存の生物と全く異なる生態を持つ。知能は概して高く、その殆どが人語を解したため、人類がコミュニケーションを築くのは容易であった。
彼らの発見と共に、電脳世界「デジタルワールド」の実在が証明。
現実世界と酷似したそれは、ネットワークの進歩と共に進化・拡大。未知との遭遇は人類にパラダイムシフトをもたらし、ことVR技術は、人間がデジタルワールドに足を踏み入れる架け橋として、ゼロ年代時点で飛躍を遂げる。
歴史は読者諸氏の知るそれとは異なる進化の道を辿り、令和現在、人々は専用のHMD機器でデジタルワールドへの五感を伴うフルダイブすら可能となった。
デジモン同様データで構成されたアバターを用いれば、彼らと触れ合うこともできる。
人類は新たな友人を獲得し、デジタルワールドへのダイブは人々の日常に溶け込んだ。
そして、世間一般の人々がデジタルワールドにおいて最も強く関心を示したのは、デジモン同士の〝バトル〟である。
デジモンたちの本能に強く根付いた闘争本能を活かし、スポーツとして彼らを戦わせる。
人間はデジモンたちの人知を超えた戦いに熱狂し、デジモンたちはライバルとの戦いを重ねることでより強く進化できる。相互に利益をもたらす文化である。
かくして、デジモンをより強く育て、戦わせる者たち……デジモンテイマーが誕生した。
研究の過程で、人間とデジモンの感情の繋がりがより強力な進化を生むことも発見され、多くのデジモンたちにとっても、テイマーの獲得は望むところとなった。
アバターの姿でダイブした人間がデジモンへ〝進化〟する手段も発見され、デジモンバトルはバーチャルスポーツとして一大興業にまで成長した。世界各地にプロチームが作られ、デジモンテイマーの養成施設も生まれ始めている。
趣味として嗜む者から、プロを目指すアマチュアたちまで。今日もデジタルワールドには多くのテイマーたちがログインし、パートナーデジモンと共に切磋琢磨に励むのである。
1
麗火との模擬戦翌日、昼下がり。
現実世界でゴーグル型HMDを装着し、ログイン処理を行うと、まず宇宙ステーションをモチーフとしたホームエリアに出る。白を基調とした無機質な広い空間で、片隅にはアバター確認用の大きな鏡が設置されている。
だが何より目を引くのは、ガラス張りになった側方の壁だろう。ガラスの向こうにはデジタルの宇宙と、「宇宙から見たデジタルワールド」を仮想した、地球儀ならぬデジタルワールド儀が浮かぶ。これから飛び込む世界を事前に俯瞰させることで、ログインの高揚感を否応なしに高める仕組みだ。
デジモンの姿はない。ログイン処理軽減のため、デジタルワールドから切り離されたサーバー内に作られており、デジモンたちも立ち入れないのだ。
ログインサーバー混雑時はしばらくこの部屋で待たされることもあるが、今日はその心配もないようだった。リクがまっすぐ最奥のポータルポッドへ向かい、端末を操作する。
デジタルワールドにおいては幾つかのログイン地点が設定できる。リクはデフォルトのログイン地点である、大噴水広場前を愛用していた。
『大噴水広場前へ移動しますか?』
と、空中にポップアップしたウィンドウに、「はい/いいえ」の選択肢。
デジタルワールド……より厳密に言うならば人間がデジタルワールドへのフルダイブに用いるアプリケーションには、テレビゲームによく似たユーザーインターフェースが使われている。
知的生命であるデジモンたちの世界に入るためのシステムを、ゲームのように彩るのは如何なものか……とする向きもあったが、わかりやすさが重視された結果である。
ウィンドウに表示された「はい」の選択肢をタッチすると、空間が揺らぎ、ポータルゲートが開く。向こう側に、大噴水広場の風景がぼやけて浮かび上がった。
一歩を踏み出し、ポータルを潜り抜けると、たちまち視界が眩しい光に包まれ、リクのアバターがデジタルワールドへと転送されてゆく――。
広場に設置されたログインカプセルを出た瞬間、喧騒が聴覚を刺激する。デジモンたちと、アバター……即ち人間たちが無数に行き交い、街並みを賑わせていた。
今日は休日とあって、はじまりの都の大噴水広場もひときわ賑やかだ。
「うわ、メタルグレイモン……!」
肉体をサイボーグ化した恐竜型デジモンの姿を目で追う。デジタルワールドデビューを果たしてまだ半年ばかりのリクにとって、いまだデジモンたちの存在は新鮮で刺激的だ。
「お腹減った、おニクちょうだいよー!」「今日のトレーニングメニューは?」「調子がいい、これなら何連勝でもできそうだ」「あっパタモン、飛んで逃げるなってば!」「ああっコラ、我慢しろ、トイレすぐそこだから!」「ニュース見たかよ、デジヴァイス新機種だって!」
喧騒に耳をすましたら、聞こえてくる無数の会話。どれが人でどれがデジモンの声やら。この混沌とした賑わいが、リクは好きだった。
人とデジモンをかき分け、ランドマークたる大噴水の縁に腰掛ける。
小型犬サイズの哺乳類型デジモンから、見上げるほどの恐竜型デジモンまで。多種多様な姿を誇るデジモンたちが、ランドマークの大噴水を中心に忙しなく行き交う。
〝はじまりの都〟……その名の通り、日本からデジタルワールドへダイブする人間が、最初に訪う都市だ。昔はデジモンの少ない寂れた町だったが、人間の流入によって一気に発展したのだという。
腕に装着したスマートウォッチ型デバイス……デジヴァイスを操作し、ウィンドウを浮かび上がらせる。軽く指先の動きを確かめてから、ウィンドウに触れてゆく。
テイマーが呼び出すまで、デジモンはデジファームに待機している。ログインしたあとは、パートナーを召喚するまでがテイマーのルーチンだ。
操作を終えると、傍らに0と1のエフェクトが渦巻き、ワームモンが現れた。
「キイイィィ!」
「今日は一段と気合入ってるね。お待たせ、ワームモン」
現れるや否や、威勢よく叫ぶワームモンに、リクの笑みがこぼれた。愛嬌ある外見だが、リクのワームモンは非常に荒々しく、好戦的な性格だ。デジモンとしてはプリミティブとも言えるそのありようが、リクには好ましい。
「さて、ワームモン。早速だけど、お小言だよ」
「キッ!?」
再び、リクが視線を腕のデジヴァイスへと移す。
デジヴァイスはフルダイブアプリ使用時、ユーザーインターフェース端末として自動でアバターの腕に装着される。一方、現実世界でも同様の形状をしたものが流通しており、HMDとも接続が可能だ。
これを常備することで、ログアウト中もパートナーデジモンの状態を確認できる。デジモン達の寝床となるデジファームへアクセスし、彼らの食事やトレーニングプランを自由に組めるのだ。おまけに装備者である人間のバイタルまで管理してくれる、優れものだ。
総じて、デジモンテイマーとしての活動は、所謂トレーナーのそれに近いのである。
そしてログイン前にリクが確認したワームモンのバイタル画面には、よろしくない情報が記載されていた。見せつけるように、リクがバイタルウィンドウを表示する。
ウィンドウには、ログアウト中のワームモンの活動履歴が数値化され、表示されている。トレーニング時間や食事の量、睡眠時間に至るまで全てチェックが可能だ。
「ワームモン……君、またあんまり寝ずにトレーニングしてただろ?」
「キィ」
「そっぽ向いたってダメだぞ。ちゃんと寝ないとパフォーマンスが落ちるんだから」
ワームモンの腹へ手を伸ばし、指先を動かして腹を撫でまわしてやると、ワームモンがキィキィ鳴きながらジタバタと暴れる。彼なりの抗議を受け取り、リクもすぐに手を止めた。
フルダイブアバターには衝突判定も存在しており、デジモンと触れ合うことが可能なのだ。
「嫌ならこれからは決まった時間に寝る。いいな?」
「キュイ……」
しぶしぶといった様子で、ワームモンが首肯らしき動作を見せた。言葉が通じなくとも、知能が高いおかげでコミュニケーションは十二分に可能だ。
「よしよし。わかった良い子には、トレーニング後のデジタケをプレゼントだ」
「キャアウ!」
デジヴァイス内部に保存されたアイテムのメニューを呼び出し、デジタケを選択する。たちまち、成人男性の握り拳大ほどもある巨大なキノコが実体化した。
いつ見ても大丈夫なのかと思うビジュアルだが、デジタルワールドにおいては一般的な食物。ワームモンの好物でもあり、トレーニング後はこれをやるのが約束だ。
ワームモンがデジタケに齧り付いている間に、メッセージアプリで麗火へ連絡。続いて、イラストアプリを呼び出し、仮想キャンバスを表示させた。
簡易なアプリではあるが、これを使えばデジタルワールドでも絵を描くことができる。
絵を描くのはリクの趣味だ。もっぱら漫画的なイラストレーションを好んでいただけに、デジモン達の奇想天外な外見は格好の題材。ログイン後は、決まって絵を描く時間を取る。麗火を待つ間、仮想ペンを手に、道ゆくデジモン達を速写してゆく。
毛むくじゃらのイエティみたいな外見のモジャモンが通り過ぎる。毛の質感が難しい。
巨大な頭のアタマデカチモンは、アンバランスな体格を描き取るのに常識が邪魔をする。
美しい狼型のガルルモンは、その優美なフォルムを崩さぬよう指先の動きを丁寧に……。
「――さん。リクさんったら!」
聞き慣れた声が耳元で響き、ようやくリクが我に返る。
顔を上げると、見間違えようもない真っ赤なドレスに身を包んだ、麗火が立っていた。
「あ、麗火さん! すみません、集中しちゃって……」
「ゴキゲン爆うるわしゅう! 爆熱院麗火、ただいま推参ですわ!」
口元に手を当てる高笑いポーズの後、麗火の背後で炎の噴き上がるエモートエフェクト。
爆熱院麗火。当然ながら本名ではなく、アバターネームにあたる。デジタルワールドでの、所謂ハンドルネームの類だ。長いので専らリクは麗火さんと呼んでいた。
「キャルルル!」
麗火の姿を認めるや、デジタケを食べ終えたワームモンが欣喜雀躍してみせる。
「あらあら、相変わらず情熱的なご挨拶ですこと」
麗火が右拳を突きつけると、ワームモンが短い足を突き出して応える。
喧嘩っ早いワームモンが心を開く数少ない相手とのやり取りに、リクも顔を綻ばせた。
「それ、道ゆくデジモンを描いてますの?」
「はい、クロッキーなので、ちょっと雑ですけど……」
「いえ、誇りなさいな。ひしめく中から、一体一体を瞬時に見極めているのでしょう?」
「あはは……それだけは得意ですから」
往来する群衆の中からデジモンの姿だけを切り取れるのには、相応の理由がある。
瞬間記憶能力。カメラで切り取ったかのように、眼前の情報を正確に記憶できる能力。
生まれ持ったリクの才覚であり、デジタルワールドにおいてもそれは発揮されていた。
「相当な練習を重ねないと短時間でそこまで描けないでしょう。素人目でもそのぐらいはわかります。自分の評価を不当に下げるものではなくってよ」
「……ありがとうございます」
諭すように、火の玉ストレートの褒め言葉。デジタルワールド内での連絡先を交換して、フレンドとなって一ヶ月程度だったが、麗火はとにかく他者への賞賛を躊躇しない。リクたちが彼女に懐き、模擬戦の相手を乞うようになったのも、この人格あってこそだった。
彼女と出会ったのは少し前、夏休みの間のこと。
テイマーたちの主戦場たるアリーナマッチにも参加せず、ひたすらトレーニングジムで特訓とシミュレーターでAI相手の模擬戦に励んでいたところに、声をかけてきてくれた。
最初は先輩としてバトルのアドバイスをするだけだったが、リクとワームモンの戦闘スタイルに興味を抱いてくれたらしく、そのうちに模擬戦を行う仲となった。
「10分も待たせていなかったと思いますが、ずいぶん描きましたのね」
「テイマーとしての特訓の一環でもあるんですよ」
「へえ?」
「描いたデジモンについては、いつも後で調べるようにしてるんです。毎日やってきたから、デジモンの知識もずいぶん身につきました。勉強し始めると楽しくって……」
「それであなた、早口デジモンオタクに進化しましたのね」
「す、すみません……」
「いいんですのよ、褒めていますから。さ、準備ができたら参りましょうか?」
エスコートするかのように差し伸べられた麗火の手を取り、リクが立ち上がる。
それに続くように、ワームモンもリクの肩へと飛び乗った。
「でも、どうしてわざわざ一緒に? アリーナの場所ぐらいなら、僕もわかりますよ」
「わたくしが連れて行かないと、あなたたち、一生トレーニングジムのシミュレーター室と野生デジモン相手に特訓してそうなんですもの」
「それは……あはは……」
否定できなかった。勝利のために慎重を期しすぎて特訓ばかりになっては本末転倒だ。
デジモンバトルアリーナ、通称アリーナは、テイマー同士がデジモンを戦わせ、競う場所。
以前、何度か参加し、ワームモンに無残な戦績を負わせたのはリクにとってのトラウマだ。
大噴水広場を、二人並び、一体を抱えて歩く。
デジタルワールドの風景はとにかく脈絡がない。近未来風の広場を一歩出たなら、なぜか突如として中華街のような門が現れ、門の先には和風やヨーロピアンな建築のほか、巨大な樹木をそのままくり抜いて家にしたようなファンシーな建物までもが立ち並ぶ。
「うわ、今の人マリンエンジェモン連れてましたよ!」
「ウソ、究極体? どこですの、どこですの!」
すれ違うデジモンの中に珍しいものがいれば、つい視線を奪われるもテイマーの性。
デジモンには、大きく分けて五つの進化段階が存在する。
幼年期、成長期、成熟期、完全体、究極体。
進化するごとにデジモンはその姿と強さを大きく変化させる。デジモンを的確に育成し、幾度もバトルに勝利させ、より高位へと進化させるのが、多くのテイマーにとっての目標だ。
最上位の究極体デジモンなどは、一握りしか至れぬプロフェッショナルの領域。究極体を従えるテイマーは、デジタルワールドにおける憧れの的である。
リクのパートナーであるワームモンは、下から二段階目の進化段階、成長期にあたる。
半年ほど前に出会ったときからこの姿であり、いまだ成熟期へ進化していない。
進化の速度には個体差があれども、ワームモンのそれは極めて遅い部類にあたる。恐らくワームモンは、通常の進化をすることができないのだ。とても珍しいケースだという。
「フキュウ……!」
己は進化が適わぬ身というのに、テイマーのリクが究極体デジモンに目を奪われるとは。
この浮気者、とでも抗議するかのような鳴き声であった。
「拗ねないでよ、ワームモン。僕らには、僕らの強さがあるだろ?」
リクが掌を上に向けると、卵のような形状をした真紅の物体が浮かび上がる。
麗火との戦いでも使用したアイテム……〝勇気のデジメンタル〟である。
デジメンタルはデジモンの進化を促進する特殊なアイテムであり、適合するデジモンに使用することで、一時的に〝アーマー体〟という特殊な形態への擬似進化を可能とする。
いくつもの属性が存在しており、デジメンタルごとに、全く異なる姿へ進化が能う。
通常の進化ができないワームモンにとって、唯一と言っていい進化の手段である。
「そういえばリクさん、アバターはカスタムしませんの? こう言っては何ですけれど……少々地味ではなくって? 先ほども、見つけるのが大変でしたわ」
藪から棒に、麗火が問いかけてきた。コーデとは即ち、アバターの外見のことだ。
デジタルワールドのアバターは高いカスタム性を誇るが、リクの外見は地味そのものだ。現実世界の自分に寄せて作ったというのに加え、ファッションもパーカーを軽く羽織った程度のもので、どうにも野暮ったさが抜けきらない。
現実世界と違った自分になれるデジタルワールドにおいては、アバターの外見にも拘るテイマーが多い。こと日本においては、男女問わず美少女の姿をしたアバターが大人気である。
フルダイブ黎明期には、アバターと現実世界の姿の隔たりによる自己同一性の乖離が議論の種となったが、現在ではアバターは人間の〝もう一つの姿〟として社会に浸透しつつある。その意味で、リクは珍しい存在だった。
「僕が派手に着飾るより、ワームモンを目立たせてやりたいですから。そういう麗火さんは、いつ見てもカッコいいコーデですよね」
「無論! わたくしはアバターに惚れ込んでデジタルワールドへ来ましたもの。ここでなら、人は理想の姿になれる。これぞ人間の進化! こだわらない手はないでしょう?」
「凄いですよね……脳波とかですっけ。現実とおんなじように体が動かせるんですから。僕、まだ時々びっくりします」
「フルダイブ技術の発展は凄まじいですわね。ほんの10年前までは……ンッンー!」
思わず昔の記憶を語りそうになったのか、麗火が咳払いで誤魔化す。アバターを用いれば、70歳だろうが10歳だろうが等しく好きな姿になれる。麗火がそうであるように、いわゆる〝世代バレ〟を厭う者も一定数いるのである。
「フルダイブって、今だと医療現場とかでも使われますもんね……」
「あら、詳しいんですのね?」
「ニュースとか追ってるので。指先まで自由自在だから、身体のリハビリに使われたりするんですよね……ね、ワームモン?」
「キュエエイ!」
またも腹を撫でる仕草を取るリクに、素早くワームモンが丸まった。
リクと麗火の間で笑いが漏れる。
「アバターが好きってことは、麗火さんはアバターにこだわる延長線でスピリット使いに?」
「ええ。熱く燃ゆる生き様の体現には、アバターコーデだけでは不十分でしょう? それに……」
「それに?」
「どうせなら、現実世界でやれないことをやりたいでしょう。火を噴いたり、炎をまとった拳でブン殴ったり……これぞデジタルワールドのポテンシャルですわッ!」
殆どのテイマーはデジモンを従えて戦わせるが、少数ながら例外がある。
麗火をはじめとするスピリット使いは、〝スピリット〟と呼ばれる、デジタルワールドの闘士の力が封じられたアイテムを使うことで、自らがデジモンの姿に進化するのだ。かつては伝説に近いアイテムだったが、現在は競技用に調整されたモデルが流通している。
なお、人間がデジモンに変身する場合も、呼称は「進化」が一般的である。デジモンという種に対する、人間からの畏敬の念を込めた呼称であり、慣わしだ。
スピリット進化による戦闘は、アバターとはいえ当人が直接戦う関係上、本人の反射神経や運動センスがダイレクトに使い勝手に影響し、上手く扱うのは極めて困難とされる。
それを使いこなしている麗火は、卓越した能力を持つテイマーと言えよう。
「アグニモン、それにヴリトラモン……何度戦っても凄いパワーでした。あれを見てると、僕もスピリット進化したくなってきちゃいます!」
「おほほ、見る目がありますわね! けど、また肩の上で餅が焼き上がりそうですわよ?」
「わあ、ごめんってば!」
じと、と嫉妬の視線を向けてくるワームモンの機嫌を取るべく、リクが平謝りを重ねた。
「ふふ。リクさんとワームモンは、本当に仲睦まじいんですのね」
「……はい。僕の人生、ワームモンが変えてくれましたから」
心からの言葉を口に、リクが照れくささをにじませながら頬を掻く。
デジモンたちは、人工知能による自立した思考を持つ生命体である。誕生のきっかけこそ人間による創造だが、彼らはデジタルワールドで自己進化を重ね、今や一個の知的生命体。パートナーデジモンとの関わり合いは、時として人の心を大きく変える。
「それこそ、妬けてきますわね。わたくしはほら、身一つでの戦いですから……」
「麗火さんはパートナーデジモン、探さないんですか?」
「いいえ、絶対に。育て始めたら妥協できませんもの。自己研鑽の時間がなくなりますわ」
「なんだか想像つきます……」
「ほら、アリーナが見えてきましたわよ、お二方!」
談笑のうちに、前方にドーム状の巨大な建造物が見えてくる。
あれが、はじまりの都が誇るバトルアリーナ。デジモンとテイマーの大舞台。
リクが強張りそうになると同時に、ワームモンがキチキチと口を鳴らす。戦いの前の威嚇。ワームモンが臨戦体勢に入っている合図だ。気合充分、といったところか。
「……あれだけの目に遭っても、君は少しも臆さないね」
自身のパートナーの頼もしさに感じ入ると、いつしかリクの緊張もほぐれていた。
麗火と並び、猛者ひしめくアリーナのドアポータルを潜ってゆく。
2
『決着ゥ! ドルルモンのドルルトルネードが、見事に勝負を決めたァ!』
アリーナロビー入り口に踏み入った瞬間、正面上方の巨大モニターから実況が響き渡る。注目の試合は、ロビーにて実況・解説付きで生配信される仕組みだ。ひしめくデジモンたちやテイマーから小さな歓声が漏れており、見応えのある試合展開だったことが窺える。
バトルアリーナ内は、ぐるりと円を描くような形で作られた一大施設。東西南北にロビーが設けられており、それぞれに異なる内装コンセプト。合間には数々のショップが立ち並ぶ。
デジモンバトルの舞台となる中央のドームは、専用に用意されたサーバーのチャンネル切り替えによって幾層にも分けられており、数百試合のデジモンバトルが同時に開催できる仕組みになっている。
リクたちが訪れたのは、南口ロビーにあたる。目抜き通りと接続されているのもあって、アリーナでも最も多くの人々で賑わう、白を基調とした近未来風内装のロビーだ。
東西南北のロビーには、それぞれ訪れるテイマーに一定の傾向があると言われる。
「北口ロビーはベテランテイマー向けという暗黙の了解がありますのよ。ルーキーはまず人口の多い南口から駆け上がってゆくのがよろしいかと」
「あっ、だから前に北口で登録したとき、じろじろ見られたんだ」
「あなたがた、本当に何も知らずにやってきたんですのね……?」
「面目ないです……」
「心配だから登録までわたくしが付き添いますわ。よろしくってよ!」
「疑問系じゃなくて決定事項なんですね……」
ずいずいと先導する麗火のあとに、リクと肩上のワームモンが続く。
闘いの気配を敏感に察知してか、ワームモンは肩上でそわついている様子だ。
周囲から、視線が集まるのを感じた。気のせいではない。そしてより正確には、これは麗火に集まっている視線だ。
リクが彼女と出会ったあとで知ったことだが、爆熱院麗火といえば、はじまりの都で知らぬ者はいない名うてのスピリット使いらしい。アリーナでも高い成績を記録しており、すでにプロチームからのオファーも来ている、ハイランクテイマーなのだという。
「プロリーグに入ると、また別の街のアリーナに移籍するんですっけ……?」
「あら、気の早い話ですこと。それとも、わたくしへの応援かしら?」
「……両方ってことにしといてください」
「威勢よし、滾る力を感じますわね……おっほっほ!」
アリーナでのバトルで勝利を重ねると、テイマーランクと呼ばれる格付けが変化する。
ブロンズから始まり、シルバー、ゴールドまでは趣味の範疇とされる〝カジュアル帯〟。
さらに上のプラチナランク以上は〝ハイランクテイマー〟扱いとなり、注目の試合ではしばしばバトルの生配信も行われる。人気テイマーは、たいていがハイランク以上。プロチームへのスカウトも、ハイランク到達が最低条件であるとされている。
プロリーグからはチーム戦となり、個人戦のハイランク以下とは明確に別世界である。
現実世界において発展著しいeスポーツ採択ゲームに多く見られるランクマッチ制度も、元を辿ればデジモンバトルのシステムから影響を受けたというのが定説だ。
「ようこそ、デジモンバトルアリーナへ。新規のご登録ですか?」
1番受付へ行くと、白いシスター服に似た装いの女性がにこやかにリクたちを出迎えた。隣には、同じく黒いシスター服に身を包んだ人間……のような女性が佇んでいる。
そう、彼女らは人間ではない。彼女らもまたデジモン……シスタモンと呼ばれる種だ。
白い方がシスタモン・シエル、黒い方がシスタモン・ノワール。アリーナの名物受付嬢で、双子の姉妹デジモンだ。可憐な容姿から、密かにファンクラブも存在するらしい。
「えっと、前のシーズンには登録してたんですけど……」
アリーナでのランクマッチは、前期と後期のシーズンに分かれている。おおまかに半年ごとにシーズンが切り替わり、前シーズンの成績によって次のシーズン開始時のランクが変動するルールとなっている。リクたちは、最低ランクからのスタートとなる。
「後期シーズンの参加登録ですね。デジヴァイスをこちらにタッチしていただけますか?」
差し出されたタッチ式端末に、言われるままリクのデジヴァイスをかざす。ティロリロリ、と軽快な電子音が鳴り響き、「ACCEPT」の単語が端末に浮かび上がった。
続けて、デジヴァイスに「ブロンズランクが付与されました」との表示。
「……はい、これで登録完了です。リクさん、ワームモンさん、おかえりなさい」
「ひひっ、前期シーズンは散々だったみてーだな。今度は負けんじゃねーぞ!」
礼儀正しいシエルの肩にノワールが寄りかかり、気安い笑みを向けてきた。
相手がデジモンとあってか、威嚇しそうになるワームモンをリクが手で押さえつける。
「登録終わりましたよ、麗火さん」
「結構ですわ、でしたら早速ランクマッチの申請に……あら?」
電子音と共に、麗火の眼前に、リクからは閲覧できないプライベート設定のウィンドウが浮かび上がった。
主に現実世界での着信や、インターホンの類が鳴った時に浮かぶウィンドウである。
「ごめんあそばせ、じいやに呼ばれましたわ。試合はそれまで待ってくださいまし!」
「えっ、でも……」
「黙らっしゃい、推しのアリーナ初勝利を見逃してなるものですか!」
勢いで押し切ると、すぐ麗火の全身がモノクロに染まる。アバターがモノクロになるのは、〝一時離席〟の状態を示すサインだ。麗火は、離席を「じいやからの呼び出し」と表現する。現実世界とは別人になりきる、いわゆるロールプレイである。
「ギャムンヌ……」
さあすぐさま試合だ、と意気込んでいたワームモンが露骨に気落ちした鳴き声を漏らす。どうやらもうしばらく、疼くワームモンを抑える必要がありそうだ。
「……少しロビーを見て回ろうか、ワームモン? これから闘う相手もいるかもしれないよ」
「キュイェイイェイ!」
上体を反らし、これまた勢い任せの鳴き声だが、おそらくは同意しているのだろう。
モノクロ麗火を尻目に、少しだけロビーの探索を始めることにした。
やはりと言うべきか、改めて見回すと多士済済、強力そうなデジモンが集っている。
勝つために育てられたデジモンたちが多くなるがゆえに、辺りのデジモンはほとんどが成熟期。成長期のデジモンを育て始め、進化したらアリーナへ。テイマーの既定路線だ。
少数ながら成長期デジモンの姿が散見されるのは、成長期専門の部門が存在するためもあるのだろう。リクとワームモンは、身を以てよく知っていた。
「うわ、グレイモンにティラノモン! やっぱり人気デジモンは必ず見かけるなあ……!」
「フキュイ……」
「あっちにはエンジェモンだ! 成熟期でもトップクラスに強いんだって」
「キュヌヌ……」
「わあわあ、ゲイルモンだ! 最近発見されたばっかりの鳥竜型で……」
「キエエエェェイ!」
「ご、ごめんってば! 対戦相手になるかもしれないんだから、観察は大事だろ?」
他のデジモンにすぐ目を奪われるデジモンオタクのリクが、パートナーのワームモンはどうにも面白くないらしい。嫉妬の感情を露わに、体を大きくのけ反らせている。
などと抗議した先から。
「ラピッドモンだ!」
ロビー入口付近に憧れの完全体デジモンの姿を見つけ、リクが足早に駆け寄ってゆく。
ラピッドモン。緑色の機械鎧に身を包み、湾曲した独特のフォルムを誇るサイボーグ型の完全体デジモン。巨大な耳型のレーダーは、先端部が赤く染め上げられ、遠目にも印象的だ。
デジモンの勉強をする際、図鑑で目にして惚れ込んだデジモンの一体だった。
「うわあ、近くで見ると思ったより大きい……2mぐらい? カッコいいなあ……!」
「ヌッキュン……」
ワームモンはもはや諦めたように白けた目をしていた。オタクの暴走は止められない。
なんなら当のラピッドモンも、急に熱視線を注いでくるリクに困惑して後ずさっていた。
「……ふうん。アタシのラピッドモンにお熱なんて、見る目があるじゃない」
不意に、入口の方から少女の声がする。目をやると、得意満面の笑みで佇む、緑髪の少女型アバターの姿があった。
小柄に作ったリクのアバターより、さらなる小躯。顔立ちや大きなツインテールの髪型が、幼なげな印象を与える。加えて、頭部には緑と赤にペイントした兎耳パーツを装備し、アイドルのような衣装もラピッドモンに合わせたカラーリングだ。
「あ、すみません、勝手に……ラピッドモンのテイマーさんですか!」
「そうよ、見ての通りにね?」
パートナーデジモンとお揃いコーデのアバター。テイマー文化の一つである。少女はカラーリングと兎耳パーツによってそれを表現しているようだ。
ラピッドモンは厳密には兎でなく犬のサイボーグ型デジモンだが、シルエットを寄せるのを優先して兎耳をチョイスしたのだろう。
「遅かったですね、マミミ」
そう口を開いたのは、ラピッドモンであった。穏やかな青年の男性を思わせる声音だ。
「ごめーん、テイマーチームの勧誘がしつこくってさー!」
「俺としては、マミミがチームに入るのは賛成ですがね。貴女は少し協調性が……」
「あーもう、デジタルワールドでまでお上品を求められたくなーい!」
マミミと呼ばれた少女とラピッドモンの仲睦まじそうなやり取りに、リクが微笑む。
デジモンを完全体にまで育て上げるのは困難だ。強い信頼関係があるのだろう。
「……で、アンタ見かけない顔ね。ルーキー?」
「あ、はい。リクっていいます。今ちょうど登録を済ませたところで……」
「ふうん。肩のちっこいのがパートナー?」
「はい。ワームモンです。ほらワームモン、挨拶」
「キャウイ!」
リクに促され、ワームモンが元気よく前脚を掲げて挨拶してみせた。
一拍遅れて、マミミが噴き出す。
「ぷっ……なあに、そのコ。喋れないの?」
マミミの言葉に、リクの心がわずかにささくれ立つ。
気のせいなら良いが、マミミの語調にどこか冷ややかな感情を覚えたのだ。
外見はアバターであっても、基本、テイマーはアバター作成時に肉声データを登録して、現実世界のそれを再現したアバターボイスを用いることが多い。ボイチェン勢と呼ばれるボイスチェンジャー技術を活用する者も一定数いるが、デジヴァイスを用いて現実世界でデジモンとやり取りをすることもあるため、肉声の方が融通が効くのである。
そして発達したフェイシャルトラッキングや感情認識AI搭載により、アバターによる会話は肉声の会話とほぼ遜色ない。脳波発声を用いるため、現実世界での発声も不要だ。
当然ながら表情、仕草も意のままであり、言外の機微は現実と同様、他者に伝わる。
リクがマミミの語調から感情を読み取れたのは、そういうわけだ。
「喋れなくても、意思疎通はできますよ。例えばこっちの脚を挙げてるときは……」
「どうでもいいケド、ワームモンって成長期でしょ? 進化させないでいいの?」
「こいつ、普通の進化ができないみたいなんです。でも、しっかり鍛えてきましたから」
「え、マジ? 縛りプレイじゃん。じゃあ、成長期部門でも参加すんの?」
「いえ……D-1レギュレーションのランクマッチですよ」
やはり迷うことなく、リクは答えた。ワームモンも、どこか誇らしげに体を張る。
「D-1グランプリ、目指してますから」
D-1グランプリ。年に二度開催される、個人戦最強のデジモンとテイマーを決める祭典。
プロ・アマを問わず優秀な成績を記録したデジモンとテイマーのみが選抜され、覇を競う。デジモンバトルの頂点と言うべき大舞台であり、参加するだけでも非常な名誉となる。
ワームモンのためにも、夢は大きく掲げると決めた。だからリクも、自信満々に宣言する。
対するマミミはといえば、数秒ほど硬直し、目を瞬かせていた。
そして。
「ぷっ……ひゃひゃひゃっ! え、ウッソ、D-1? 成長期で? マジで言ってる!?」
高らかに、噴き出した。文字通りに腹を抱えて、マミミが愉快そうに笑い転げる。
先の嘲弄が気のせいでなかったことを確信し、リクが眉をひそめた。
「……マミミ」
「だってバカでしょ、こーんなザコい成長期で勝ち上がろうとか……!」
ラピッドモンがマミミを諌めようとするも、彼女は意に介さない。
マミミの肉声は、幼かった。ボイスチェンジャーを使っている様子もない。声だけで現実世界の人となりを判断するのは偏見であろうが、彼女の振る舞いと声から、大概の者は子供なのだと判断するだろう。
子供の言うことにいちいち腹を立てるなど、大人のすることではない。
だが、リクは心身揃って、名実ともに子供であった。
「何がそんなにおかしいんですか。テイマーなら、D-1を目指して当たり前でしょう」
「はあ? 馬鹿にしてんのはアンタの方でしょ。完全体どころか、成熟期でもないくせに。プラチナランカーの前で、アンタは戯言をほざいたのよ?」
プラチナランカー。つまり眼前のマミミは、カジュアルを脱し、ハイランクの域に達したテイマーだ。ラピッドモンを連れているだけのことはある。
感じ入りながらも、リクは怯まない。
「成長期のままじゃ勝てないことぐらいわかってます。僕らには……これがありますから」
リクが掌を上に向けてみせると、その上に勇気のデジメンタルが浮かび上がる。
ワームモンもそれに呼応するように、フンスと力強く息を吐いた。
「アーマー進化したワームモンなら……必ず勝ち上がれると、信じてます」
一拍。マミミがデジメンタルをまじまじと見つめる。
二拍。マミミがぱちくりと瞬きを繰り返す。
三拍。マミミが息を吸い込む。
「アーっwwwマーっwww進っwww化っwww」
いよいよもって、周囲の視線まで集めるほどの音声で、マミミが大笑した。
わざとらしく〝w(わらい)〟のエモートエフェクトまで散らし、もはや嘲笑の意思は明白だった。
「マミミ、いい加減に……」
「何よラピッドモン。だってこんなの、草生やさずにはいられないでしょ!」
「彼は礼儀正しい。いま、バッドマナーは貴女の方でしょう」
「だってギャグじゃない? アーマー体なんてカス形態で、D-1とかほざいてんのよ!?」
マミミの言葉は、必ずしも間違ってはいなかった。
成長期のデジモンにデジメンタルを使用することで進化できる、アーマー体。この形態は状況に応じて多種多様な姿に進化できる特徴を持ちながら、いくつか大きな欠点がある。
その一つが、アーマー体の強さ。大半のアーマー体は、成熟期ほどの強さしかないのだ。
D-1グランプリともなれば、参加デジモンの殆どは究極体クラスとなる。成熟期程度の強さでは門前払いと考えるのは、テイマーの常識としては間違っていない。
少なくとも個人戦のD-1において、アーマー体が好成績を残したことはない。
だからといって、このような愚弄と罵倒を受ける謂れも、リクにはなかった。
「はー、笑った笑った……アンタら、お笑いならいいセンいけるんじゃない? ザコ成長期だって、バトル以外なら頑張る機会はあるんだからさ」
「取り消してください」
リクの声が、毅然とマミミの嘲弄を貫いた。
「……は? アタシに言ってる?」
「僕を馬鹿にするのはいい。でも、ワームモンのことを馬鹿にするのは、絶対に許さない」
一歩も退かず、真っ直ぐにマミミを睨みつける。
ワームモンもまた、想いは同じだった。
自分を。そしてリクを小馬鹿にした彼女に対し、低く唸り、威嚇を始めている。
「……許さない、ねえ。イキるじゃない、ザコテイマー」
余裕の態度を崩さず、マミミがデジヴァイスにタッチし、インターフェースを呼び出す。
素早い操作で閲覧しているのは、どうやらリクのテイマープロフィールらしかった。
「ブロンズランク、登録したてホヤホヤ……ふうん、前期も参加してるんだ。で、戦績が…12戦、12敗?」
マミミの大笑は、今や静かな冷笑に変じていた。
12戦12敗。紛れもない事実であった。
トラウマになるほどの連敗を経験し、リクとワームモンはひたすら修行に明け暮れた。
以後ランクマッチにも参加することなく、進化できないワームモンのために手段を探し、アーマー進化という答えに辿り着き、その精度を研ぎ澄ましてきたのだ。
「この戦績で、よくそこまでイキれたもんね。白けちゃった。行くわよ、ラピッドモン」
踵を返し、マミミがラピッドモンの手を引いて立ち去らんとする。
「チャレンジャーマッチ」
その背に放たれたリクのたった一言で、マミミの足が止まり。
マミミを諌めるに留まっていたラピッドモンすら、ぴくりと耳型アンテナを動かした。
「あなたに挑んで、勝ったら……さっきの言葉、取り消してくれますか」
振り返るマミミの表情は、もはや笑ってすらいなかった。
侮蔑の意図を隠さぬ、冷徹な視線がリクへと向けられる。
「……ここまでおめでたいと、半周回って普通にムカついてくるわ」
マミミのみならず、リクの一言を聞き止めた周囲の人々にまでどよめきが走っている。
チャレンジャーマッチ。
通常、ランクマッチはロビーの端末で申請を行うことで、ランダムな相手と試合になる。システムが選定した対戦相手は、同ランク帯、近い実力の相手となるケースが大半だ。
そうして少しずつ勝利を重ねることで、ランクポイントを稼ぎ、同ランク内における番付を少しずつ上げてゆくこととなる。ひとくちにブロンズ、シルバー、ゴールドといっても、各ランク内にも細やかな番付があるのだ。
必然的に、一からランクを上げるには無数の試合を経る必要に駆られ、時間を多く要する。格上に勝利すれば多くのランクポイントを得られるが、ランク差のあるマッチングも稀なこと。結果、ランクを一気に上昇させるためのシステムがいくつか導入された。
その一つが、チャレンジャーマッチである。
低ランクのテイマーは、1シーズンに数度、上位ランカーに挑む権利を持つ。
ブロンズランクのテイマーでも、ゴールドやプラチナのテイマーに勝負を挑める。
勝利すれば、一気に大量のランクポイントを獲得し、大きくランクを上げられるのだ。
上位ランカー側は、敗北してもランクポイントの減少はなく、勝利したならば少量ながらランクポイントを獲得できる。挑戦者と防衛者の双方にメリットがある制度だ。
ルーキーとベテランの交友を促進し、互いに刺激を与え合うための仕組みでもあった。
「受けることに、デメリットはないはずです」
「勝てるとでも思ってんの?」
「ワームモンがいて、僕の集めたデジメンタルさえあれば」
「ワゴンセール常連のデジメンタルなんか、誰でも集められるわよ」
デジメンタルに対しても嘲りを向けるマミミだが、その言葉自体は正しい。
デジメンタルの入手経路は主にデジタルワールド各地での発掘か、店での購入である。
そしてデジメンタルは特殊な例外のほか、一部の成長期デジモンしか使用できない。そのため、パートナーの成長期時代にデジメンタルを使用していたテイマーであっても、パートナーが成熟期に進化した瞬間、無用の長物となってしまう。
結果、何種かのレアものを除いてすぐに手放され、市場で叩き売られるのである
デジタルワールドの主要通貨であるBitは電子マネーとしても世界的に流通しており、デジメンタルは子供の小遣いでも手が届く価格。
リクたちが様々なデジメンタルを入手するのも、容易であった。
「ま、この【リトルクイーン】マミミに喧嘩売った度胸だけは褒めてアゲル」
「【リトルクイーン】マミミ……」
「ええ、このアタシを知らないとは言わせないわよ?」
「……【リトルクイーン】マミミ……?」
「し、知らないならそれでいいから復唱しないで! 恥ずいから!」
ここまで素朴な無知を返されると思わなかったのか、マミミの前言撤回は素早かった。
「で……チャレンジャーマッチに、アタシをご指名ってワケ?」
「はい。ワームモンも……いいよね?」
「キキィッ!」
二つ返事に、ワームモンが意気軒昂と鳴き声を上げる。すでに臨戦態勢である。
「ふーん、へーえ……? アタシ、弱っちいやつを虐める趣味とか……あるんだケド?」
マミミが、ニタリと歯を見せて好戦的な笑みを浮かべた。
腕を斜めに構え、手首に巻かれたデジヴァイスをリクへと向けてみせる。
キラリと、デジヴァイスの画面が煌めいた。
「…………」
「…………」
数秒ほど、無言のまま時が流れた。
「……えっと。決めポーズですか?」
「ちげーわ! かざしなさいよ、デジヴァイスを!」
「えっ?」
「『えっ』じゃねーわ、デジヴァイスからアタシにチャレンジャーマッチの申請をすんの! なんでやり方のほうは知らないのよこの初心者(ヌーブ)、ちょっと貸しなさい!」
マミミがリクの腕を引っ掴んだかと思うと――腕を掴んだ瞬間、ワームモンがマミミを噛もうとして、リクがそれを止めた――、手早く操作を行ってゆく。
態度はともかく、根は真面目な子なのかもしれない。リクは密かに思った。
「はい、これでお互いのデジヴァイスをかざす!」
「ありがとうございます……こうですね!」
リクとマミミのデジヴァイスが交差し、電子音が鳴る。浮かんだ専用ウィンドウをマミミがタッチし、チャレンジャーマッチの正式な承諾が果たされた。
デジモンやデジモンバトルの勉強に夢中で、アリーナそのものの仕組みについて未だによく理解していなかったリクにとって、純粋にありがたい指南であった。
デジモンの育成がテイマーの責務。結果、なんだかんだ面倒見のいい者が多いのだ。
「かーんりょ。じゃ、あとは受付に開始時間を提出するだけね。30分後でおけ?」
「あ、はい。ずいぶん色々手続きが必要なんですね……」
「そりゃそうでしょ。チャレンジャーマッチはDTubeで生配信されるんだから」
「……な、生配信?」
DTubeといえば、世界中にその名を知らぬ者はいない、世界最大級のオンライン動画共有プラットフォームである。
アリーナでのデジモンバトルも、一部はかのサイトで生配信される。それ自体は、リクも知っていたのだが、自分たちのデビュー戦が配信されるなど、夢にも思っていなかった。
にわかに冷や汗が流れる感覚を覚え、アバターの表情にも露骨に焦りが表出する。
「観客(みんな)の目がないと、八百長するアホが出てきちゃうでしょ? アンタほんと何も知らずに挑んだのね……。ま、いいわ」
リクの無知さに、改めてコケにしてやろうという気持ちが湧き上がってきたのだろう。
すっかり余裕を取り戻したマミミが口端を吊り上げ、指でハートマークを作ってみせた。
「大勢のリスナーの前で、公開処刑してアゲル♡」
今度はマミミからの、悪意に満ちた宣戦布告が、堂々とリクへ放たれる。
「キシャアァ!」
にわかに緊張に襲われるリクをよそに、ワームモンは猛り、マミミに吼え返す。
その姿に、リクもおまじないのように両手の指先を絡め、深く息を吸う。
いまさら引き返せはしないし、そのつもりもない。
ワームモンのパートナーになったあの日から、後戻りはしないと決めたのだから。
追想1
碧海凛空(あおみりく)は、裕福な家庭に育った、控えめな少年だった。
積極性に欠け、自己主張を苦手とする彼は、自然、己の世界を内面的な表現に求めた。
両親ともに娯楽を好み、小説や漫画の蔵書が多い家庭であったから、凛空が架空の物語、ひいては漫画やイラストレーションに興味を引かれていったのも自然な流れである。
デジタルネイティブ世代の凛空にとって、タブレット端末やデジタルペンは当たり前に身近にあったものだったし、それを用いて積極的に絵を描くようになった。
瞬間記憶能力という才能のおかげもあり、絵の上達は早かった。我が子の才能に気づいた両親も、凛空を絵画教室に通わせ、凛空自身、その道を受け入れていた。
将来は漫画家やイラストレーターになりたいなんて、ぼんやりした願望を抱きもした。
けれど外の世界を知り、他の少年少女と出会い、少年は表現世界の過酷さを思い知った。どれほど練習したつもりでも、上には上がいる。力量においても、練習量においても。
瞬間記憶能力という才に気を良くし、同年代でも相当に上手い方なのだと自負していた。絵の道こそが自分のアイデンティティと思っていた少年にとって、自身を代替し得るほど上回っている他者の存在は、内面世界の破壊に等しかった。
舞台を変えようとSNSアカウントを作ってイラストを投稿しても、見向きもされない。どころか、SNSには、自分より遥かに上手い同年代がごまんと存在する。
嫉妬、羨望、劣等。アイデンティティは、やがてコンプレックスに反転した。
最初は承認を求めていたわけではないのに、いつしか自我の在処を他人に求め出した。
そして鬱屈が煮凝りはじめた14歳の折、自動車との接触事故に遭った。
命に別状はなかったが、利き腕に骨折を負い、入院。手指に後遺症を残した。
痺れと痛みで、指がうまく曲がらない。
これではもうまともに絵が描けないかもしれない。夢も、叶わないかもしれない。
リクは、心から安堵した。
諦める理由ができた。もう立ち向かわなくていい。劣等感に苛まれなくていい。
指が動かないのだから、描けなくたって、描かなくたって、しょうがない。
学業成績は優等生だったし、通っているのは中高一貫の公立。今ではオンラインの授業も充実しているから、受験や進級に焦る必要はない。
肉体の痛みは心の痛みよりよほど耐え易く、入院生活は悠々自適としたものだった。
そして、治療が続いていた折のこと。医師から、リハビリの提案をされた。
凛空の入院していた病院は、デジタルワールド医療を取り入れた先進的な施設であった。人間同様の動きが可能なアバターを活用し、手指を動かす感覚を忘れないようにするのだ。
気乗りはしなかったが、デジタルワールド自体には以前から興味があった。
リハビリに抵抗し続けることで、これ以上両親を悲しませたくもなかったので、提案を承諾。
病院側でアカウントを用意してもらうことも可能だったらしいが、せっかくならば……と、リク自身でアカウントを作成した。
ただしアバターに関しては、リハビリプログラムの規定に則る必要があった。曰く、身体感覚の連続性を保つため、体格などを現実世界から乖離させることはできないのだという。容姿ぐらいなら変えても構わなかったらしいが、なりたい自分の姿も思い浮かばず、リクのアバターは現実世界の彼によく似た姿となった。
アバターネームはリク。本名をカタカナ表記しただけの、これもまたシンプルなもの。
リハビリはデジタルワールド内、はじまりの都に建立された病院施設で開始された。
デジモンたちが務める病院の風景は実に新鮮で、入院以来はじめてリクの心が躍った。
同病院では、アバターでリハビリを行うためのパートナーとして、セラピーデジモンたちの仲介も行っているのだという。
デジモンは概して闘争を好む生物だが、中には進化ができないものや、戦いが苦手というデジモンたちも存在する。そんなデジモンたちの活躍の場のひとつとして用意されたのが、人間の心に寄り添い、触れ合いによって心を癒す、セラピーデジモンという役割だ。
現実世界にもセラピードッグだの、セラピーキャットだのがいるが、最大の違いはやはりデジモンは人語を解するという点になる。
セラピーデジモンの説明にあたり、〝ご両親の希望〟という言葉が、ちらりと聞こえた。おおかた、根暗で友達のいなかったリクを心配し、両親が余計な気を回したのだろう。
リハビリの相棒とするデジモンは、自分で選ぶことができた。
プレイルームのガラス越しにはじめて彼らの姿を見た時の事を、リクはよく覚えていた。
可愛らしい子犬型のプロットモンや、モフモフの体毛のアンゴラモン。当然というべきか、誰も優しそうで、穏やかなデジモンたちが揃っていた。
けれど、そのプレイルームの片隅に、一体だけ、毛色の違うデジモンがいた。
巨大な緑の芋虫。虫が苦手な人間が見れば卒倒しそうなビジュアルは、セラピー役としていかにも不適切に思えた。大きな瞳は愛嬌があるが、表情はどこか不機嫌そうだ。
担当者に聞けば、そのデジモンは何年経っても進化ができず、戦いにも向いていないので、この場所を紹介されてセラピーデジモンとして派遣されたのだという。
おまけとばかりに、なんとそのデジモンは、人語を喋れないときた。セラピーデジモンの最大のアイデンティティさえ、あの芋虫は持ち合わせていないのだ。
リクがそのデジモンをパートナーとして選んだのは、捻くれた気持ちによるものだった。
リハビリ自体乗り気ではなかったし、人間相手でも何を喋ったらいいかわからないのに、デジモン相手にコミュニケーションできる自信がない。
何より、そのデジモンは、自分と同じように、淀んだ目をしているように見えた。
患者の意思を尊重する方針なのか、リクの選択に担当者が口出しすることはなかった。
やがて連れてこられたそのデジモンと面会した時のことは、一生忘れないだろう。
患者相手に威嚇をはじめるセラピーデジモンに担当者は慌て、リクは大いに笑った。
いっそそのままアバターの指に噛みついて、そっちも動けなくしてくれたらいい。
リクの歪んだ心境などきっと知る由もなく、緑の芋虫はシャアシャア唸り続けていた。
それが、ワームモンとの出会いだった。
3
デジモンバトルアリーナ・南口ロビーは慌ただしい空気に包まれていた。
注目のテイマー、マミミにチャレンジャーマッチを挑むルーキーが現れたためだ。
チャレンジャーマッチは、挑戦者側の低リスクに反し、権利を行使する者が少ない。
当然ながら、競技において、敗北とはあまり気持ちの良いものではない。ゲームのCPU相手なら無謀な挑戦もできようが、負ける確率の方が高い格上にわざわざ挑み、嫌な気持ちに好き好んでなりたがるテイマーはそうそういないのだ。
ましてや、デジモンという相棒に不必要に敗北を経験させたくないとなれば、尚更だ。
おまけに「デジモンは勝率が高ければ高いほど強く進化しやすい」という説も存在する。敗北を重ねては、パートナーデジモンが強く進化するチャンスを、逃しかねない。これらの要因が重なり合い、チャレンジャーマッチは貴重なプログラムと化したのである。
そんなわけで、今やアリーナ内のあちこちのモニターにチャレンジャーマッチの告知が映し出されている。
マミミとラピッドモン、そしてリクとワームモン。テイマーとデジモンのプロフィールがそれぞれ並んで表示されている。リクたちの戦績を思えば、これもある種の公開処刑か。
そして、一躍時の人と化したリクたちの現在の様子はといえば……。
「なにゆえ、数分目を離しただけでこんなことになってますの……?」
「面目次第もございません……」
ロビーの片隅で、離席から戻ってきた麗火に正座をさせられていた。
俯くリクと対照的に、ワームモンだけは前脚シャドーボクシングを行い、自信満々である。
「推しのデビュー戦を見逃したくないとは言いましたけど、ここまでエンターテイナーになれと申し上げた覚えはなくってよ……?」
「軽率だったとは、思いますけど……あの言動は、どうしても許せなくって」
反省こそすれ、マミミの暴言を受け入れたわけではない。
俯いたままで、リクが拳を握る。アバターの拳とて、力を込めれば、感情もこもる。
「……はあ、過ぎたことをとやかく言っても致し方ありませんわね。第一、そんな煽られ方をされた日には、わたくしだってブチ切れてますもの」
ゆっくりとかぶりを振ると、麗火が屈み込み、リクたちと目を合わせた。
「喧嘩の売買は要反省ですが……わたくしは、これが勝てない戦いと思ってはおりません。あなたがたとて、同じですよね?」
「はい。ワームモンと僕の、新しいデビュー戦……勝利以外で飾るつもりはないです」
「よく言いました。わたくしを相手取ったんですもの、腑抜けた顔でもしていたら横っ面にバーニングサラマンダー、おブチかますところでしたわ」
麗火が掌に拳を打ち付け、火の粉のエフェクトが舞い散る。若干怖く、リクが怯む。
なお《バーニングサラマンダー》とは麗火の進化先の一つ、アグニモンの必殺技である。
「ところで……マミミさんって、有名なテイマーなんですか?」
「ええ、前期シーズンにデビューしたばかり、純粋なテイマー歴で言えばあなたがたとほぼ同期ではないかしら。デビューから僅か数ヶ月で、パートナーを完全体に育て上げてますの。あまり好きな言葉ではありませんが、俗には、天才テイマーと呼ばれていますわ」
「天才テイマー、ですか……」
「暴言吐き(トキシック)で有名ですから、ファンもアンチも多いですわね。良くも悪くも注目のテイマー。きっと生放送のリスナーは多くなりますわよ」
「そ、そんなに……。そういえば、【リトルクイーン】って名乗ってましたけど?」
「彼女の尊大な態度と、それに見合う実力から皆が呼び始めた二つ名…と聞いていますわ。実力のあるテイマーに二つ名がつくのは珍しくありませんわよ」
「じゃあ麗火さんにもあるんですか?」
「【ファイヤーお嬢様】ですわ」
「ファイヤーお嬢様……」
なんともコメントしがたいセンスだが、麗火本人は鼻高々である。
「試合開始まであと25分……時間もないですわね。わたくしはいったん失礼しますわ」
「え、また離席ですか?」
「いいえ? ただ、お陰様で少し、用事ができてしまいましたの。ご武運を!」
真意を問うより先に、麗火は颯爽とドレスを翻し、その場を去っていってしまった。
正座のまま、リクと肩上のワームモンが二人で取り残される。
「……とりあえず、対策を練らないとね」
「キキィ!」
「マミミさんたちの試合、動画とかないかな……」
デジヴァイスから開けるインターフェースにはブラウジングアプリも搭載されており、デジタルワールド内から動画サイトへのアクセスもできる。
デジモンバトルの動画はDTubeにも数多く上がっており、マミミとラピッドモンの試合は検索すればすぐにヒットした。流石のハイランクテイマーである。
ブラウザウィンドウを手早く操作し、動画を開く。
『マミミ&ラピッドモンといえば、この反撃を許さない速攻の試合展開ですね』
『ラピッドモンは完全体でもトップクラスのスピードだ。速すぎてついていくのが難しいと言われてるぐらいなんだぜ』
『デジモンの速度にテイマーホロが振り回されると、状況把握も困難ですもんね』
『その通りだぜ。バトル酔いせず的確な指示を出せてる時点で、マミミは一流と言えるぜ』
ゆるくデフォルメされた頭だけのシスタモンたちを、合成音声で喋らせる類の解説動画。でかでかと赤文字がおどるサムネイルの数々から、動画の一つを開いてみたはいいが。
(ダメだ、中身があるようで殆どない……!)
この短時間の間に、役立つ情報を紹介している動画を見つけるのは困難そうだった。
探せば良質なものもあるのだろうが、大半は広告収入目的に動画の時間を長くしており、有益なことを喋っているパートを抽出するだけで労苦を要する。
とはいえ、速攻スタイルというのは、数少ないながら貴重な手がかりである。
それに、閲覧できた二人のバトル動画そのものは、やはり圧巻であった。
ホーミングミサイルを連続発射する《ラピッドファイア》で敵の動きを制限し、そこからカメラを置き去りにする速度で急接近。一撃必殺の光線《ゴールデントライアングル》で、一気にトドメを刺すのが彼女たちの王道にあたる戦闘スタイルらしかった。
「これは、わかってても回避が難しそうだな……」
ラピッドモンは地上戦のみならず、飛行も可能なデジモンだ。地上戦、空中戦、どちらに持ち込んだとしても向こうの土俵。縦横無尽に飛び回られたら、まず追いつけない。
「まずは友情のデジメンタルで受けるか? いや、でもマップによっては……」
「キキィ……」
考え込むリクの表情に不安を見出したか、ワームモンが顔を覗き込んでくる。
言葉を交わせないがゆえに、作戦はもっぱらリクの担当となる。試合前に力を発揮できず、ワームモンとしても、もどかしさがあるのだろう。
「……大丈夫だよ。君の力、全部活かし切るから」
ワームモンの頭にそっと手を置き、リクが柔らかな表情を浮かべる。
そして、ワームモンの反対側の肩から覗き込んでくる顔が、もう一つ。
「おー、流行ってんなー、あたしらの生首」
黒い服を身に纏った、受付のシスタモン……シスタモン・ノワールであった。
うっかりブラウザをパブリックモードで起動したため、彼女からも見えているらしい。
「う、受付さん!? どうしたんですか、こんなところで!」
「いや、さっきから呼び出ししてんのに、全然返事しねーから、凸(とつ)りに来たのよ」
「え、呼び出しですか? 試合まではまだ少し……」
「マミミのラピッドモンが、お前と話したいんだと」
ノワールが親指で指し示した先に視線をやると、受付のそばにラピッドモンがいた。こちらと目が合うと、小さく頭を下げてくる。やはり礼儀正しい。
対するワームモンは、やはり視線が交わった瞬間に「キシャア」などと鳴いていたが。
「すみません、考え込んでたせいで……! ありがとうございます!」
「気張れよ、チャレンジャー。お前らみたいに大胆なやつ、あたしは結構好きだぜ?」
「あっ……りがとうございます!」
立ち上がった途端に、人好きのする笑顔でノワールがリクの背中を押す。デジモンなので相応に力が強く、思わず少しふらついてしまった。
だが、応援してくれる誰かがいるというだけで、心が奮い立つ。
ひらひらとノワールに手を振り、リクたちがラピッドモンのもとへ向かってゆく。
「テイマーリク……まずは、マミミの非礼を心よりお詫びします」
ラピッドモンの前に立った瞬間、ラピッドモンが深々と頭を下げてきた。
無作法を絵に描いたようなマミミと正反対に、つくづく行儀の良いデジモンである。
「あなたが謝ることじゃないです……でも、そのために呼び出しを?」
「いえ……本題は、また別に」
頭を上げたラピッドモンが、リクへと視線を下げる。
2mほどもある体格に武装をしていながら、頭部ヘルメットに小動物のような顔立ちが覗いているのもあって、不思議と威圧感がない。
「端的に申し上げます。このチャレンジャーマッチ、中止するつもりはありませんか」
「中止、って……できるんですか、そんなこと?」
「試合開始10分前までなら、可能です。主に突発的なトラブルのための制度ですが」
時刻を確認すると、試合開始まではあと18分ほどが残されていた。
「……理由を聞いてもいいですか?」
「双方に、益がないからです」
きっぱりと、ラピッドモンが言い切る。
「どういうことですか?」
「テイマーリク、あなたは良いテイマーだ。そのワームモンの懐きようを見れば、わかる。だからこそ、デジモンバトルを嫌いになって欲しくない」
「…………」
「それに……この試合に勝てば、マミミはますます増長するでしょう。あの子は口が悪い。ただでさえ敵(アンチ)が多いのに、舌禍で招いた戦いで勝ってしまったら……」
「………………」
「謝罪が必要なら、あの子を引っ張ってきてでも、必ず謝らせます。だから……」
丁寧な口調で、真摯に頭を下げてきている。責めるような調子もない。
ラピッドモンはきっと、純粋に気遣ってくれているのだろう。
だが……その慇懃さは、かえって無礼でもあった。
気遣いとは裏腹に、そこには強者としての絶対的な傲慢が宿っている。
「僕らが負ける前提で、話をするんですね」
強い意志を込め、リクがラピッドモンの目を見据える。
ワームモンも同様だった。肩の上で、力強く腕を組む……ような仕草をしようとしている。脚が短すぎて、まったく交差できていない。
「……お言葉ですが、そこは俺もマミミと同意見です。アーマー体で勝ち上がるのは難しい」
「そうでしょうね。簡単な道だとは、思ってません」
「D-1を本気で目指すならば、もっと強く進化した方がいい。手酷い敗北は、デジモンの自尊心を傷つけてしまいます」
「……たぶん、本気で心配してくれてるんですよね。ありがとうございます」
俯き、リクが静かにかぶりを振る。と、ワームモンもそれに合わせて体を横に振る。
一心同体。リクの今の想いは、ただ一つだ。
ワームモンを馬鹿にされたことが許せない。ワームモンの強さを、見せてやりたい。
そして、ワームモンもまた、同じ想いを抱いていると確信していた。
ならば、ここで頷く道理など、一つとしてありはしない。
「でも、退けません。僕らにもプライドがある。さっきの言葉は、勝って取り消させます」
互いに本気であればこそ、その言葉はラピッドモンにも届く。
ラピッドモンが目を閉じ、少しだけ逡巡する様子を見せた後。
「……わかりました」
開かれた瞳には、彼の誠実さのみならず、獣の獰猛さが宿っていた。
「なら、俺も手は抜きません。マミミのパートナーとして、全力で貴方たちを捻り潰します」
ラピッドモンの頸部プロテクターが閉じ、その顔立ちから愛嬌が消え失せる。
いま眼前に立っているのは、闘争を求めて生きる生物、デジモンの、完全体。
打って変わって、ピリピリと肌が震えるほどの威圧感がリクを襲う。
「当然です。お互い、負けるつもりの勝負なんか、ないでしょう」
「そうですね。……君は本当に、いいテイマーだ。だからこそ、惜しく思います」
変わらず丁寧な態度だが、めらめらと燃える闘志が語調に見え隠れする。
こちらが格上だ。確信しているからこその気遣いであり、余裕なのだろう。
緊迫する空気に、ワームモンさえ唸ることなく沈黙し……。
「ハァイ、ザコテイマー♡ まだ逃げてなかったなんて、偉いじゃない。よちよちする?」
間に走る緊張を引き裂き、マミミが満面の笑みでラピッドモンの後ろから顔を出した。
上機嫌きわまりない表情で頭部の兎耳を揺らし、リクたちを煽る気満々である。
ラピッドモンが、リクが、ワームモンが、マミミを見やり。それから互いに目を合わす。
数秒の間に、彼らは生暖かい気持ちを共有した。
「……失敬、テイマーリク。この子、生配信前でハイになっているみたいで」
「いえ、そんな……」
「保護者面やめなさいよラピッドモン!」
きいきいとマミミが抗議の声をあげた。
リクも腹が立たないわけではなかったが、ワームモンでなく自分に向けられる悪口なら、さして心も痛まない。
「ったく、どこ行ってるかと思ったら、なーにザコテイマーと話してたのよ?」
「対戦相手に敬意を払うのは、戦士として当然の義務です」
「あーやだやだ、堅苦しいの。……さて、ザコテイマー?」
「リクです」
あくまで棘に満ちた言葉を向けようとするマミミに、リクは毅然と応じた。
先の空気が結果としてほぐれたおかげか、ワームモンもいつもの威嚇を再開している。
「どーお? 試合前の空気、重たすぎてチビってないでしょうね?」
「そうですね。さすがにドキドキしてきました」
「生放送の待機画面、もう5000人視聴中ですって。アタシのおかげで大人気ねえ?」
「……めちゃくちゃドキドキしてきました」
「素直すぎて調子狂うわねアンタ……」
咳払いひとつで仕切り直し、マミミが自身の髪を払い、ニヤリと口を吊り上げた。
「でも、アタシをナメたことは許してあげない。ザコテイマーのアンタも、そのダメモンも、まとめて秒殺してアゲル」
ワームモンに向けられた悪罵に、リクが眉を顰めた。
その表情を認めてようやく満足したのか、マミミが背を向けて歩き出す。
「……待ってください、マミミさん!」
「なあにぃ? やっぱり逃げたくなったぁ?」
リクが表情を引き締める。これだけは、彼女に言っておかねばならない。
息を吸い込み――まっすぐ、マミミに向けて口を開いた。
「ダメモンってデジモンは実在するし結構強いから、悪口には向かないですよ」
「ダルいマジレスやめなさいよ!」
追想2
端的に言って、ワームモンは大問題児であった。
ワームモンをパートナーとするリハビリは、1日目から大波乱。
なにせ、中庭での軽い運動の途中に、突如ワームモンが単身、病院を脱走したのである。
もっとも、ワームモンの這う速度では逃げ切れず、すぐに捕獲・連れ戻されたが。
翌日も、リハビリのためのキャッチボール最中、ボールに直撃して吹っ飛んだふりをしてワームモンが中庭の塀を飛び越えた。アバターの投げたボールで吹っ飛ぶ演技も、そもそもワームモン相手にキャッチボールも無理があると、リクは苦笑いした。アバターを用いたリハビリプログラムも、まだ発展途上らしい。
3日目にして、セラピーデジモンでありながら執拗に脱走を試みるワームモンのことが、リク自身も改めて気になってきた。あの様子だと、行き先があるのかもしれない、と。
そして、誘いかけてみたのだ。どこかへ行きたいなら、一緒にここから出ないかと。
ワームモンは驚いたような表情をしていたが、望むところとあらば、決定は早かった。
数日ほど、ふたりでおとなしくリハビリプログラムに従い、デジタルワールド内での外出許可をもぎ取った。
デジタルワールド内ならば怪我を悪化させる恐れもないため、セラピーデジモンと共に外出許可を得るのは難しくないらしい。
病院施設から出るや、ウニウニと急ぎながらも遅いスピードで地面を這うワームモンの後を追ってゆくと、辿り着いたのは、デジモンバトルアリーナだった。
想像だにしていなかった行き先に、目を丸くしたのを、リクはよく覚えている。
セラピーデジモンは、好戦的とは正反対にいるデジモンのはず。なのにこのワームモンはデジモンバトルで覇を競う、アリーナを訪れているなど。
先導するワームモンについてゆくと、やがてアリーナ北口の受付前に辿り着いた。
周囲からの視線にそわつくが、ワームモンは気にする素振りもなくリクを見ていた。
意図がわからずに首を傾げていると、痺れを切らしたかのようにリクの肩に飛び乗った。そのまま腕のあたりまで這い、手首に巻かれたデジヴァイスを指し示してみせる。
病院患者であってもアバターにはデジヴァイスが装着されており、セラピーデジモンは、患者との間で、暫定的なパートナー契約を行うことになる。双方合意があれば、退院の後も正式にパートナー関係を継続することができる仕組みだ。
――これを使って、自分と一緒にアリーナに参加しろって言ってるのか?
およそリハビリ中の患者がやるようなことではない、が。
デジモンバトルというものを、リクも一度体験してみたいと思ってしまった。
一抹の罪悪感を覚えながらも、登録を行う。早速ランクマッチに参加しようとしたのだが、受付の親切なデジモンに勧められ、成長期専門のジュニアレギュレーションへの参加を申請した。
闘争心むき出しのワームモンと共に、期待を胸に膨らませて、初のバトルに挑んだ。
結論から言えば、完膚なきまでに惨敗であった。
ワームモンの鈍い動きと、粘系で相手の動きを縛るだけの必殺技《ネバネバネット》に、針のような硬質の糸を吐き出すも狙いがおぼつかない《シルクスレッド》。命中率は脅威の0パーセントを記録し、対戦相手は無傷。パーフェクト負けである。
さらには、ホログラムとなってデジモンの動きに追従する初めての体験で大いに酔った。俗に言うバトル酔いである。
試合中、テイマーアバターは不可触のホログラム〝テイマーホロ〟となり、パートナーデジモンに自動で追従することとなる。パートナーの周辺1m程度までは移動も可能で、顔を動かせば視線も動く。これによって戦況を観察するわけだが、慣れないうちはとにかく酔う。ただでさえHMDを装着してのフルダイブ体験は多少の酔いを伴うとされるが、その更なる乗算である。
デジモンはパートナーたる人間を近くに感じると、より力を発揮するという。その論と、フルダイブによる効率的な情報補完の成立によって、テイマーホロが誕生したのだ。
さて、散々な目に遭ったというのに、ワームモンはしつこく次の挑戦を促す。
が、リハビリプログラムの規定ログアウト時間が近づき、その日はアリーナから退散。
もう訪れることもないだろうと、たかを括った。が……。
翌日も、ワームモンはリクをアリーナへ連れてゆこうと促し続けた。
あまりワームモンをごねさせては、病院施設の担当に不審に思われかねず、しぶしぶ承諾。
その日もまたアリーナを訪れ、今度は3戦ほど挑戦した。結果は3敗で、惨敗。
リクは心底ワームモンに同情した。
きっとこのワームモンは、闘争心が強い。バトルへの勝利に飢えて仕方がないのだろう。バトルが好きで仕方ないのだろう。一緒にいるうちに、それが理解できた。
執拗にアリーナへ連れてゆこうとするのもそうだが、澱んだ瞳が、バトルの時だけ途端に輝き出すのだ。そして負けるたび、本気で悔しそうにのたうち回る。
これほどバトル好きなのに進化もできず、強くもなれず、挙句にはセラピーデジモン扱い。
セラピーデジモン自体は尊い役割だろうが、望まぬ役割を押し付けられるのは苦痛だ。
ましてや、それがデジモンバトルと対極に位置するものともなれば。
だというのに、ワームモンは、徹底的に弱かった。
何度も対戦する中で、リクと同程度に初心者丸出し、ろくに指示も出せていないテイマーとマッチングした。だが、対等な条件であっても、ワームモンは惜敗にすら届かない。
可哀想に。これだけコテンパンに叩きのめされては、さぞショックに違いない。
どれだけ憧れたとて、大海の広さを知ったとき、その茫洋たるに、人は足が竦む。
同じように知性を持つ生き物なら、きっとデジモンとて同じことだ。
その日もまた、嫌がるワームモンを引きずり、病院施設にまで戻った。
ログアウト後、ふと気が向いて、デジモンバトルについて調べてみた。テイマーとしての基礎。バトルでの立ち回り。デジモンとのコミュニケーション。
どうせ明日も連れてゆかれるのだし、現代の基礎知識の一つ、覚えて損もなかろう、と。
明くる日も、案の定ワームモンはリクをアリーナへ連れてゆこうとする。
ワームモンの速度に合わせると時間がかかりすぎるので、ワームモンを肩に乗せてみた。好戦的な性格ゆえに嫌がられると思ったが、存外素直に受け入れてくれた。アバターでも、肩にずっしりとした生命の重みはしっかり感じられる。
その日は、これまでと少しだけ違った。
バトルにおけるテイマーの最大の役割は、「思考・補完・決断」と資料で読んだ。
思考。デジモンが最大限戦いに集中できるよう、臨機応変に作戦を組み立てる。
補完。ホログラムとしてデジモンに付き従い、デジモンの死角を補い、戦況を把握する。
決断。目まぐるしく変化する戦況において、デジモンの取るべき選択肢を絞り、指示する。
自分なりに実践してみると、意外にもワームモンは素直に指示に従ってくれた。信頼してくれているのか、或いは勝つためなら何でも利用するつもりなのか。
どうあれ、結果はまた3戦3敗。だが、この日は何度か、必殺技が命中したのである。
……悔しい、と思ってしまった。
一夜漬けの努力ですら、敗北の悔しさを噛み締めてしまう。ならば、生まれてきてから、今までずっと闘争心を燃やしてなお負け続けているワームモンの屈辱は、いかほどか。
――もう、いいじゃないか。これ以上やったら、きっと心が折れてしまう。
だが、やはり、ワームモンはアリーナへ行こうとするのをやめなかった。
何度負けても、ズタボロにされても、立ち上がるのを、立ち向かうのをやめなかった。
対戦相手に馬鹿にされるのだって、一度や二度ではなかった。
――君はもう、十分頑張ったじゃないか。どうして、まだ闘おうとするんだ。
なぜ諦めないのだろう。進化できない上に、戦いにすら向いていないのに。
――そんな有様なんだ、バトルをやめたって、誰も責めはしないだろう。
いつしか、試合の最中、リクは手に汗握る思いで、必死にワームモンに指示を出していた。
このちっぽけで健気なデジモンを、なぜか放っておけなくなった。
何度叩きのめされても、妥協などせず、決して諦めない姿に、勇気を与えられた。
敗北は重なり、とある日。12戦、12敗目。
だが、その日のバトルは、これまでとは違った。
粘りに粘った。何度倒れてもワームモンは起き上がり、リクも作戦を練り続けた。ありとあらゆる策を試し、技を凝らし……それでも、届かなかった。
客観的に見れば、ただの泥試合だ。だが、その日舐めた泥は、涙を流すほど熱かった。
その日の帰り。ワームモンが、アリーナロビーで、あるモニターをじっと見ていた。
流れていたのは、昨年のD-1グランプリの決勝戦映像。究極体同士の熾烈なるバトル。雷が轟き、氷嵐が吹き荒ぶ。凛々しく強く進化したデジモン同士が、ぶつかり合う。
ワームモンの瞳が、その時だけは、子供のように純粋な憧憬で煌めいていた。
その輝きを、リクは知っている。美しいイラスト、漫画のカッコいい絵を眺め返しては、いつかああなりたいと願った、純真無垢な夢。
どれほど過酷な現実を突きつけられても、ワームモンは、それを諦めていないのだ。
掌を見つめ、強く握りしめた。
――ああ、くそ。
――こいつ、カッコいいなあ。
わかっていた。自分のやっていたことは、逃避でしかないのだと。さんざん味わってきた他者への劣等感は、苦しみは、本気で絵を描くことが好きだったからこそ抱いたのだと。
なまじ夢を抱いたから痛かった。なまじ憧れてしまったから辛かった。
頑張っても報われないのが、怖くて怖くて、仕方なかった。
けれど、夢だったことも、憧れたことも、本当だったのだ。
気づいてしまったら、もう、歩き出さずにはいられない。
――言い訳ばかり考えるのは、もう、やめだ。
痛みを乗り越えなければ、世界は変えられない。
いつしかリクは、ワームモンに己を重ね合わせていた。
――前に進み続ける君の背中を追えば……僕も、夢から目を逸らさないでいられる。
けれど、気持ちだけでは、デジモンバトルの勝利には届かない。
ゆえに、リクはワームモンの手を取ることに決めた。
容易い道ではないと、理解していた。
――でも、常道(テンプレ)なんて知ったことか。
僕は、こいつと強くなると決めたんだ。
もう二度と、負けたくない。君を勝たせたい。君と勝ちたい。
君に、報われてほしい。
それが、リクのもう一つの夢となった。
退院してから、リクは正式にワームモンとパートナー契約を結んだ。
リハビリにも本気で打ち込み、もう一度ペンを手に取った。
さらに、両親に頼み込み、当面のお小遣いとお年玉を前借りして、デジタルワールドへのフルダイブ用HMDとデジヴァイスを購入。リハビリを兼ねられるのと、すっかり旧式になったスマホの買い替えを諦めたのが決め手であった。
デジモンとデジモンバトルについての猛勉強を始め、知識を貪った。学業との両立は大変だったが、ワームモンを勝たせるためなら、苦にならない。それは自分のためでもある。
デジタルワールドにおいても、ワームモンと徹底的にトレーニングを重ねた。
暇さえあればデジモン用トレーニングジムで共に打ち込み、トレーニングプランを練り、ログアウト中もデジヴァイスからワームモンを監督する。
アリーナへは、一切行かなくなった。これはリクのわがままによるところが大きい。
自分が憧れたワームモンを、もう二度と、馬鹿にされたくなかったのだ。
だから、次にアリーナへ行く時は、勝つ時だけだと決意した。
勝つために、今は修行に徹するのだと、ワームモンを説得し、受け入れさせた。
デジモンについて学ぶうち、やがて、デジメンタルとアーマー進化の存在を知った。
テイマーたちの間でアーマー体の評価が芳しくないのも知っていたが、進化のできないワームモンには、これしかないと確信に至った。
デジメンタルを入手し、初めて進化に成功したときは、抱き合って喜んだ。
そしてアーマー体で訓練を重ねるうち……ワームモンの、とある才覚にも気づいた。
この牙なら、アリーナランカーにも届き得るかもしれない。
デジタケが好き。腹を撫でられるのが嫌い。リクが絵を描くを見るのは嫌いじゃない。プライドが高い。喋れないけど表情豊か。共に過ごすうち、ワームモンのことを多く知り、絆を育んだ。
さらなる修行の日々。トレーニングジムの模擬戦シミュレーターで幾度も検証を重ねた。
努力の日々のうち、麗火とも出会った。初対面から、あの個性的な挨拶だった。
何ヶ月もトレーニングし続けながら、未だ進化できていないデジモンとそのテイマーに興味を引かれたのだという。
実力溢れるテイマーとの実戦形式の訓練は、二人をさらなる高みに押し上げてくれた。
――君は世界一カッコいいデジモンなんだと、みんなに見せつけてやりたい。
出会いから約半年。凛空の、リクの想いは、ずっと変わることなく、貫かれている。
(後編へ続く)