
「おーい! 雅火いる?」
「……いや、いないですよ。この時間は」
金髪を揺らしながら元気よく入ってきた黒松に、尾池は一瞬体をびくりと震わせた後、そう返した。
「そっか、残念だケド……せっかくだし聞いてくれるヨネ?」
「えぇ……他に聞いてくれる人いないんですか?」
これから運動部が朝練する様な時刻に学校いる子、他に誰がいると思うと黒松に言われて、尾池は呻く他になかった。
「で、話なんだケド。雅火からは、怪談話とか噂とか事件になってなくとも教えてって言われてたのネ?」
「はぁ」
なるほどと尾池は頷いた。幽谷の考えが正しいならば、噂にはこれから実がついてくる可能性がある。調べるだけの理由はあるわけだ。
「今回持ってきたのは、二つの噂だヨ。一つは鵺」
「鵺?」
「元来は不吉な怪鳥とされていたケド、いつからか不吉な声で鳴くキメラ的な怪物になっていたのネ? 今噂が立っているのはそれヨ。出どころは近所の中学のオカ研、ちょっとした事故があったのでその不幸の前日に聞いたことない鳴き声が聞こえたと、ネ。まぁ中学生だからモラルがないのは仕方ない、カモ」
なるほど、と尾池は頷いた。
「もう一つは、どんなのなんです?」
「同じ中学で、こっくりさんとか、エンゼルさんが流行っているんだけど。本当に呼び出した子がいるらしいワヨ」
「こっくりさんとエンゼルさんってどんななんですか?」
名前は知っているが具体的な事を尾池は知らなかった。
「こっくりさんもエンゼルさんも基本は同じ、降霊術の類ヨ。ルーツは西洋のテーブルターニングってやつネ。紙の上にこっくりさんなら鳥居エンゼルさんなら屋で射抜かれたハートと、肯定否定を表す文言一つずつ、そして五十音の表。その上を参加者全員で指を乗せたコインが動いて霊からのメッセージを表すってワケ」
「霊との交信、みたいな感じですか?」
「そうそう、彼らは何でも知っていて教えてくれるワ。ちなみに、こっくりさんには狐狗狸さんという当て字もあって、これは通常のこっくりさんは狐の霊を降ろすと言われているからナノ。エンゼルさんも呼び出す時の呪文や対象の違いしかないワ」
狐なのか犬なのか狸なのか、こっくりさんてよくわからないなと思いながら尾池は頷いた。
「こっちは出どころ不明、流行させたのはオカ研だけどネ」
「オカ研、噂とか流行させたりとか好きですね」
「そうネ。怪しげなおまじないとか学校の七不思議とか色々広めてるんだとか、大抵は相手にされないらしいけれどネ」
それはそうでしょうと言おうとして、尾池はどうしてそうなんだろうと疑問に思った。ほとんどのそれは相手にされなかった。でも、相手にされるものがあったその理由は何なのか。
相手にされたそれには信じられる様な何かがあったのではないだろうか。例えば、本当に不気味な声を聞いたとか、こっくりさんだとかエンゼルさんのそれも、目撃者がいたのかもしれない。
「黒松さんって他にも部長にいろんな噂話したんですか?」
「話したヨ? でもネ、他のはあんまり食指動かなかったみたい。直接会って詳しい話を聞きたいって言われたのはとりあえずはその二つダケ」
「他にはどんなのが?」
「えとネ、大体はまぁつまらないやつだケド、個人的に雅火好きそうだと思ったのに当てが外れたのは……水子霊の噂話ネ」
「水子霊ってなんですか?」
「小さな子や胎児の霊の事。とある産婦人科の裏に川が流れてるのネ? そこに引き摺り込もうとする長くて白い手が見られるという噂だヨ。話はともかく目撃例がわらわらあったから、創作としてもなんかはあると思ったんだケド」
ほら、ここの産婦人科よと黒松はスマホで地図を開いてお店その場所を見せた。
ふと思いついて尾池は地図を縮小すると、その川に流れ込む川の一つがくねくねを調べに行った地域まで繋がっていることがわかった。
となれば尾池も幽谷が何故食い付かなかったのかわかった。おそらくは尾池が襲われたイカが水子霊と思われたものだったのだろうと予想したからだろう。
「黒松さん的にはこういうのってどうなんですか?」
「うーん……まぁまぁカナ。土着の信仰や何かが先にあって、それが受け入れられやすい様に姿を変えたとかならもっともっと面白かったんだけどネ。産婦人科できたのも最近みたいだし、あんまりヨ」
もう少し根が長いのが私の好みと黒松は笑った。
「例えばどんなのですか?」
「今回の、はともかく鵺なんてのは好きヨ。古事記や万葉集にも記載があってネ? その頃はあくまで鳥として書かれているノ。その頃はあくまで鳴き声が不吉なだけの鳥、鳴き声が聞こえたら祈祷したりはしたみたいだけどネ。その後の平家物語で風向きが変わる、源氏による鵺退治の話がされる様になる。平家物語は平清盛という死人を大体のものの元凶にして、負けた側の平氏残党を取り込みやすくするとともに源氏すごいと宣伝する意味があったという話もあるからネ。単なる鳥では訳者不足だったのか、鵺の声で鳴く化け物が出てくる」
「化け物」
尾池がそう繰り返すと、両手をぐわっと頭の上まで持っていって黒松は話を続けた。
「そうそう、猿に狸に虎に蛇、そしてその声は鳥と、私の予想では不吉な声の鵺に退治して流石となる様な実体を付けたかったんだと思うのよね。それで作り上げられたのがチグハグな生き物が組み合わせられた鵺。そして話しとしたら面白いのは変な鳥が鳴いてるので祈祷しましたったらそれじゃあ当然なくて、キメラの鵺が先に立って広まりいずれ鳥のイメージは失われていった……」
「普通に喋れたんですね」
「あ、他の子には内緒ヨ?シャミ研部長の立場と合わせてウケがいいからやってること」
尾池がそう言うと、手を下ろして少し頬を赤く染めながら黒松はそう返した。
「ウケって……」
「オカ研に近い部活にあからさまに怪しげな部長。キャラ作りなんてわかりやすいぐらいが丁度いいのヨネ。日常がちょっと楽しくなるデショ?」
金髪だから帰国子女かと思っていたと尾池が呟くと、ちょっと狙っていると言って黒松はまた笑った。
「そういえば、黒松さんって去年も科学部にちょこちょこ顔出してたんですか?」
「ん―? そんなでもないケド、鮟呈惠先生がいなくなってからは結構出入りしてるネ」
前の科学部の顧問らしい先生の名前を黒松先輩が言った時、尾池にはそれがうまく聞き取れなかった。
「その人、前の顧問の先生ですか?名前、なんていうんですか?」
「鮟呈惠 螟ゥ驍」先生だヨ」
何度聞いても尾池にはうまく言葉が聞き取れなかった。いや、本当は聞き取れているはずなのに脳がうまく理解できなかった様な違和感があった。
「……どんな字を書くのか教えてもらっていいですか?」
「いいヨ? でも下の名前の漢字は忘れたからカタカナでネ」
尾池が適当な紙を差し出すと、黒松はそれにさらさらと文字を書いていった。書かれた文字はどの文字も理解できるのに、まとめて読もうとすると理解できなくなった。
書いていてなんの違和感も覚えていないということは、黒松先輩が何かおかしなことをしているわけではなく、二見先生が探した時と同じ様に何かがあるのだと尾池は判断した。
「尾池ちゃんも前の顧問の先生に興味あるノ?」
「……他にも誰かに聞かれたんですか?」
「硯石くんに聞かれたヨ?」
硯石は何を思って聞いたのか、尾池の立場ではどうしたって絞りきれない。
「へー……そういえば、こっくりさんとかエンゼルさんが流行っているっていう中学の噂、よく集められましたね」
安直に聞きすぎたかもしれないと尾池は少しヒヤヒヤした。
去年の科学部に何があったかは今のところ何もわからない。何があったかもわからないから幽谷の関与があったのかも、硯石は何か知っている上で部活に入ったのかどうかもわからない。
調べていることを知られてはいけない相手が誰かも当然わからないのだからもっと慎重になるべきだと尾池は感じた。
「そうネ、まぁうちには妹いるのヨ。私がこうだからかダブルダッチ部で頑張ってるんだケド、人望あるのヨ。趣味が真逆だと逆に姉妹仲良好になるのネ」
それから少し姉妹の話をしていると、幽谷がやってきて、尾池を交えて幾らか詳しく二つの噂についての話を聞いた。
「さて、そんな訳で今回は鵺、エンゼルさん、こっくりさんの噂についてな訳だが……」
昼休み、理科室で科学部のメンバーが集まると話し合いが始まった。
「とりあえず、もう少し詳しい目撃談を知りたいですね。誰かが本物のこっくりさんだかエンゼルさんを呼び出したとして、どこで聞いたのかがわからない。鵺の方もそうです」
「ふむ、まぁ普通に考えるならばこっくりさんとエンゼルさんのそれは学校だろう。これらは一人で行ってはいけないとされるのが一般的だからね。一度別れてまた集合してというのもなくはないが、その方が楽だもの」
硯石の疑問に幽谷はそう答えた。
「……じゃあ、とりあえず鵺は置いといて、先にこっくりさんの方をやるんですか?」
「そうだね、水場がないから私と副部長で行くのがいいかな」
その言葉に、尾池は思わず、えっと声を上げてしまった。
「……私は?」
「尾池くんは今日は待機。最近はこれまでと違ってlevel4の頻度も異常だしね、この前の様に複数同時にという事もあり得る」
尾池が抗議の呻き声をあげると、幽谷はそんな尾池に後ろから抱きついた。
「合宿の時、ほぼ一日の間にlevel4 level4 level5と三回襲われているんだからね尾池くん。聖剣も入れればさらにそこに……多分level5がもう一回加わる。尾池も歩けば奴等に当たるという具合のぶつかりっぷりだ。心配なんだよ、先輩としてはね」
「おっぱい揉みながらそんなこと言われても不信感しかないんですが」
神妙な顔とセリフに合わない部長の動きに尾池は抵抗するが、幽谷は笑いながらセクハラを続けた。
「まぁ、部長のセクハラはともかく、今までよりも危険なのは確かだ。どんな生き物かな目安も立たないしな」
暗に今回はいても役立たずだと伝えてくる硯石に、尾池は少しムッとした。
「……今回のそれは、多分こっくりさんかつエンゼルさんだと思うんです」
「それはなんで?」
幽谷に聞かれて、尾池はすぐに答えた。
「どちらの名前でも未だにされているということは、どちらも目撃されているということだと思うからです」
「確かに、それはあり得るな。でも別々にいる可能性もある。合宿のくねくねの例もある、エンゼルさんこっくりさん……もしかしたら鵺も、そこで縄張り争いをしているのかもしれない」
硯石がそう言うと、尾池はさらに続けて持論を展開した。
「じゃあ、まずは一体がこっくりさんとエンゼルさんを兼ねていた場合。アリクイみたいな長い爪があって胴体が細いんじゃないかと思います」
「ふむ、まぁおかしくはないと思うけど、それは何故?」
「エンゼルさん、つまり天使のイメージって人から翼が生えているイメージですし、学校内で人と見分けようと思ったら翼しかないと思うんです。でも、狐に翼はありません。ですから、一面から見ると狐の様な獣の特徴であるけれど別の一面、例えばシルエットで見たら翼の様に見える長い爪とかあると思うんです」
幽谷は尾池の発言を確かにと受け止めつつ、しかしと続けて話し始めた。
「尾池くん、それは他の可能性を限定できるほどの理屈じゃない。こっくりさんなんとか見に行けないかなという気持ちがダダ漏れだよ」
尾池がぐぅの音も出ずに俯くと、硯石が頭をポンポンと撫でた。
「今までよりも不確実な情報だし、探し始めて一日で見つかるとも限らない。今日の様子次第ではやっぱり探す人数増やしたいなとなってもおかしくはない」
確かにここで尾池がごねても何も変わらないだろう事は明白だった。
「じゃあ、仕方ないですね……」
尾池はその場ではひとまず受け入れることにした。
話もまとまったし放課後は楽しいデートと行こうかと部長が言うと、デートで行く様な場所でも内容でもないですけどねと硯石は軽く流した。
ふと、尾池は思い出してそういえばと切り出した。
「人斬りメリーさんはどうなったんですか?」
何気ない尾池の言葉に、空気が少し張り詰めた。
「重忠が妨害はできた。でも警察が邪魔で逃した。人間の方の行方もわからないからどうしようもない」
「そうですか……もみあげグレープゼリーは?」
「あぁ、いなかったみたいだ。警察に見つかるとダメだから重忠からの伝聞だが」
「……サイトも削除されたみたいだよ」
硯石がそう言うと、少し眉をぴくりと動かした後幽谷も少し付け加えた。
「同じ手段だとまた俺達に捕捉されるから、当分は派手には動かないだろう。警察が動く様な殺人の類には手を出さないはずだ。ひとまずは」
続けて話した硯石のその言葉に、幽谷は疑問を投げかけた。
「それはどうだろう? 今回のそれは目立つ事件だった。人間には不可能であるという検証がなされてしまえば、自殺に近しい嘱託殺人であったとしても殺人者は存在し得ないのだから、不審死であるとしか言えない。被害者家族に数億円の保険金が入ってしまう。つまり後追いする人間が出てこないとも限らないからこそ特別に注目されたんだ」
硯石の言葉に幽谷は疑問を投げかける。二人の様子は少し互いに責めているようでもあった。
「……殺してもいい人間として自殺志願者を選んでいた場合、目立たない方法に変えるだけで殺人は続くかもしれないということさ」
仕方なかったのは理解しているけどねと口調だけ楽な調子で言いながら幽谷は続ける。
「うちの県は冬寒くなるからかホームレスみたいな人はほとんどいない、とはいえ、死にたいとネットで呟いている人間なんて山ほど居る。不審死や変死には目を光らせていく必要はあるね」
言葉だけは軽い調子で、しかしその表情には隠しきれないものが滲み出ていた。
尾池が七美の方をチラリと見ると、七美はぱしゃりと水面から跳ねてわざと音を立てた。
「わ、拭かなきゃー」
しかし幽谷も硯石もほとんど反応を示すことはなかった。
「……尾池君も、気をつけるんだよ。この部の活動が周りに知れることはリスクなんだ。前の科学部の二の舞になる」
このタイミングでなら聞くのも自然だろうかと尾池は一瞬思ったが、幽谷の目を見たらとてもそんな気にはなれなかった。
しばらく黙々と三人で食事をしていると、がらりと扉を開けて二見が顔を出し、尾池に手招きした。
内心助かったと思いながら尾池は廊下に出た。
「尾池ちゃん、この前言ってたこと覚えている?」
「……どれですか?」
「教室までは登校してない子の話。会って見ない?」
「いいですけれど……」
「それはよかった。じゃあ、明日のお昼は旧校舎でね!」
またねーと言いながら二見はあっという間に去っていき、尾池はまた重苦しい空気の理科室へと戻った。
放課後、尾池はポリバケツにいれた七美を連れて中学校の近くの自然公園のベンチにいた。
「待機とは言われたけど来るなとは言われていない。と、屁理屈を用意してきたけど、絶対怒られるもんね」
七美に尾池が話しかけると、七美は肯定する様に右向きに一回りした。
「バケツ持ち運ばなきゃだから連れていきたくないのもわからなくはないし……」
若干砂の積もった机の上に頬をつけると、少し不快だったが頭を上げる気にはなれなかった。
前の科学部に何があったのか。副部長は前の科学部とどういう関係なのか。今日のそれを見ると、部長と副部長の関係も本当に仲間と見ていいのかわからなくなってきた。
それら全部先送りにして、尾池はこっくりさんやエンゼルさん見たさにここに来た。でも見れる当てもない。
「……部長のことも副部長のこともなんも知らないなぁ……」
七美の方に目を向けても尾池にはその感情は読み取れない。
机に突っ伏して、そのまま伸びをして、指先をぶらぶらと数秒動かす。そして一息に尾池が体を起こすと、すぐそばに水色の髪の女性が立っていた。
「へれっ」
間抜けな音を漏らしながら尾池がその人の顔を伺うと、その女性は少しおろおろとした後、尾池の向いに座った。
「えと、なんか、思い詰めている様に、見え、たので……」
そう答えた女性は尾池と大して変わらない年頃に見えた上に、その服はお世辞にも綺麗とは言い難かった。水色の髪は元から癖っ毛なのだろうがボサボサであったし、着ている黒色のパーカーもぶかっとしているしあまり綺麗とは言えない。背中に持っているギターケースだけ真新しいのが余計に変だった。見えている目にはカラコンでも入っているのか十字のラインが入っていて、やぶれかぶれにギターを最近始めた人、みたいな雰囲気だった。
第三者にどちらが思い詰めていそうですかと聞いたら十中八九その女性が指さされるだろう格好だった。
「……えと、じゃあせっかくなので聞いてもらえますか?」
「あ、うん!」
人の悩みを聞こうとしている割には嬉しそうな顔をしているなこの人、と尾池は思ったが、とりあえず話してみることにした。
しかし、いざ話そうとすると何も知らない人に話すにはハードルが高い事に気づいた。
「……私、英語が壊滅的で、読みたい英語論文を読めないんですよね」
「それは、英和辞典使っても読めないの?」
「単語が読めても、それが何と繋がっているかとかがさっぱりで……あと、専門用語は辞書に載ってなかったりとかして」
「なるほど……文の構造とかがよくわかってない系、かな?」
尾池が首を傾げると、その人は今日って英語の授業あった? と聞いてきた。
あったと答えるとその人は、教科書出してと言ってきた。尾池が教科書を出すとそのままスムーズに英語の勉強へと移行していった。
最初の方は、何をしているんだろうと思いながら教えてもらっていた尾池だったが、少し読めるようになると楽しくなってきて、夕日が地平線を掠め、ライトなしではノートが読めなくなるまで勉強を続けた。
「……流石に、もう無理、かな」
「そうですね。えと……」
「あ、私のことはメリーって呼んでくれると嬉しいな」
「メリーさん、私は尾池礼奈って言います」
メリーさんと呼ぶとなんか外国の人みたいだなと尾池は思ったが、口には出さなかった。
名前を呼ばれてメリーがえへへと笑うと、尾池もなんで笑っているのかわからなかったが一緒に笑った。
「……ところでメリーさんは、なんでこんなところに? いくら公園とはいえ、住宅街のまん中ですしギターの練習とかしたら怒られそうですけど」
「あー……えと、将くん……知り合いの代わりに責任を取りに? みたいな……意味が分からないとは思うんだけど、なんかね」
わかったようなわからないような返答だったが、自分も他人に説明するには難しいものを抱えているので、尾池はそれ以上踏み込まないことにした。
「あ、そうだ。メリーさんの連絡先もらっていいですか?」
「いいよ、英語わからなかったらいつでも相談していいからね。日中も基本的にヒマだし」
この人普段何してるんだろうと思いはしたが、尾池の英語力は論文が読めないだけならともかく、成績にも悲しいまでに影響していて、ちょっと怪しかろうとわかりやすく教えてくれる人は重要だった。
じゃあこれでと、別れる様な雰囲気が二者の間に少し流れたが、どちらもその場から離れようとしなかった。
尾池が首を傾げると、メリーも首を傾げ、互いにまだ用事が終わっていないのだということを察した。
「……えと、私はちょっとこの辺りに現れるという動物の観察の為に残っているんですけれど」
にごしながら尾池がそう言うと、メリーは少し目を細めた後、七美の入ったバケツに視線をやり、そういうことかと呟いた。
尾池がまた首を傾げると、メリーはどう説明すればいいのか迷って、少し身をくねらせたり手で空に渦巻きを描いたりし始めた。
そんなよくわからない時間が数分経つと、急にメリーはギターケースを開くと、中からトランプのクラブの様な肢がついた太刀を取り出して右手に構えた。
「……ッ、メリーさん?」
「礼奈ちゃん。多分、これからとても怖い事になるから……バケツを持ってテーブルの下に隠れて、くれるかな」
尾池はなんでとは言わなかった。なんとなく予想がついてしまったのだ。メリーもまた自分と同じものに関わっている人間なのだと。
右手に太刀を構えたまま、メリーはギターケースの中に左手を差し入れると、テントを地面に固定する杭の様なものを数本取り出した。
そして、それは空から現れると、驚く程静かに着地した。
それは、天使の様な翼と、両手両足に肉食の獣の様な鋭い爪を持った白を基調とした頭から尻尾まで六七メートル程ありそうな生き物で、身体に比して大きすぎる手足とその全身に拘束具の様に巻き付けられた金属板が印象的だった。
その白い獣が重そうな腕と爪を民家の二階か三階ぐらいの高さまで振り上げながら威嚇の鳴き声を上げると、尾池はこれが鵺の噂の正体だと直感した。
野犬もほとんどいないとされる今、近くに山もない住宅地でする明らかに犬猫ではない獣の声。それと共に伝え聞いた不吉な鳴き声をあげるという鵺の情報が結びついたのだろう。
白い獣はメリーの方にまっすぐ体を向けていたし、メリーももう尾池に視線を向ける事はしなかった。
尾池と七美は自由に動けたが、果たして自由に動いていいのかわからなかった。
白い獣が鵺だと直感した様に、目の前のメリーと太刀という鋭利な刃物の情報は人斬りメリーさんと尾池の中で結びついたのだ。
「あの、メリーさん。メリーさんは、人斬りメリーさんですか?」
「……うん、そうだよ」
尾池が尋ねると、メリーは白い獣から目を離さないままそう答えた。
「じゃあ、もう一つ聞いていいですか」
メリーは一つ頷いた。
「メリーさんは、人を斬り殺すの好きなんですか?」
尾池がそう聞くと、メリーは一瞬固まった。
質問に関して、尾池は実のところ大したことは考えていなかった。加勢した時に後ろから斬られたら嫌だなというぐらい。
「そんな、ことは、ないよ」
しかしそうは伝わらず、声を震わせながらメリーはそう返した。
動揺は構えにも影響して、構えた刀の刃先が下がり視線も揺らいだ。
白い獣はそれを見逃さなかった。太い脚で地面を蹴り、爪で肉を引き裂こうと腕を振り下ろした。
それに対してメリーは刀を振り上げながら前に出た。
振り下ろされる途中の白い獣の手のひらから前腕まで、メリーの力に加えて白い獣自身の力が降りかかり、金属の拘束具さえ容易く引き裂きながら切り裂いた。
獣が痛みに身を捩らせると、メリーはそのまま白い獣の股下を抜けて白い獣の背中に杭を一本突き立てると、その杭を足場に背中を駆け上がり顔の真ん中、交差してつけられた拘束具の真ん中へとまた別の杭を突き刺した。
「あ、あの、礼奈ちゃん。その……」
すとんと白い獣の頭から飛び降りると、メリーは尾池の目の前でしゃがみこんだ。
言いたいことはあるがどう言えばいいのかわからない。そもそも行っていいのだろうかという葛藤に囚われて、メリーは白い獣をもう殺したものと思い込んでしまった。
その時、尾池が見ていたのはメリー越しの白い獣だった。
尾池は目が離せなかったのだ。初めて蝶の羽化を見た時の様な生き物の身体の劇的な変化に対しての感動が尾池の視線を捉えて離さなかった。
まず、斬られていた腕の拘束具が外れて落ちた。白くトカゲか獣の様だった腕は、上半分は黒色のなめした皮の様になり、下半分は骨の様に硬く変化した。そして、色や質の変化が終わると先端からべりべりと、二の腕にまだ残っていた拘束具も弾け飛ばしながら剥がれて二本の腕になった。
次いで変化が現れたのは顔、顎を半ばから閉じていた拘束具を引きちぎりながら口が開いて、最初とは比べようがない体を芯から震わせるような雄叫びが成された。
その時点でやっとメリーは背後の変化に気付いた。
白かった頭はみきみきと音を立てながらカブトムシのそれのように変形して固まり、鋭い牙を剥き出しにしていた。
頭が終わると、残りはほとんど差がなく変貌を始めた。首元は赤い立髪がはえ、異様に細かった胴はオレンジ色の逞しいものとなり、それに不釣り合いな白い獣の脚は厚い毛皮で覆われた。
左腕も一本から二本に分かれ、上は黒く皮か何かに覆われたようだったが、下は赤く昆虫のソレのような節があった。細く長かった尻尾も上面を固まった鱗か甲殻のようなもので覆われた灰色で太いものに差し変わる。
白い翼だけはそのままあったが、それに加えて背中から夕焼け色の、蝙蝠か翼竜のような皮膜を持った翼が現れた。
「……完全体、将くんに連絡しなきゃ」
そう呟くメリーの傍で、机の下から這い出ながら尾池は噂との関連がわかって少し笑った。同時に手にも顔にもじっとりと冷や汗をかいて呼吸も激しくなっていたが、それ以上に喜んでいた。
「このキメラが鵺だったんだ……鵺の噂にこのキメラが呼び寄せられて、何かしらの理由でさっきの姿に。それを部分的に目撃した人達がこっくりさんやエンゼルさんの本物を呼んだという噂の元だったんだ」
メリーが困惑する横でキメラに向けて前のめりになりながら尾池はぶつぶつと呟いていた。
「あ、でもこっくりさんには狐狗狸の当て字があるから、それもキメラの呼び水になった可能性がある? それとも、当てはまる別の噂が流れたことで何か別の影響が……? 継ぎ目のところとか観察したいな……」
キメラが身体を慣らすかのように首を鳴らしていると、ふとその頭が宙に浮いた水の球に包まれた。
それを見て尾池がスッと冷静になると共に、メリーの視線が尾池からその背後、公園内に作られた小さな池へと移動した。その池は昨日今日雨が降った訳でもないのにあと少しで溢れそうな程に水が満ちていた。
「……いつから見てたの?」
メリーがそう聞くと、池の水が立ち上がってやがて水虎将軍の姿をとった。
「私にはそれを探させておきながら、自分はお友達を作って楽しく勉強していた辺りからでしょうか。結果的には集まっていた事で匂いで釣り出せた様ですがね」
「え、あ、それは……ごめんなさい……」
「構いませんよ。結果的には労せず楽しみながら目的を果たしたのです。最良の結果、とは言えませんがなかなかの結果です」
尾池も振り返って水虎将軍を見るが、一度殺されかけていることもあり、流石に恐怖の色が表情に濃く現れた。
水虎将軍はその尾池の顔を見て、キメラが水球に爪を突き立てて取ろうともがいている姿をチラリと見た後、もしかしてと話し出した。
「私ではない私に襲われたことでも?」
水虎将軍がそう言うと、尾池よりもメリーの方がびくっと大きく反応し、尾池から水虎将軍を隠す様な位置へと移動した。
「……そうです」
「なるほど……ふむ、それは申し訳ありませんでした。この私は姫の友人に危害を加えるつもりは全くありませんので、安心して……とはいかないでしょうが、この場は危険ですから一度私についてきて下さい」
「将くん、でもアレ……」
「姫には申し訳ありませんが、私の最優先は王なのです。近くに薔薇騎士の手のものらしい者達がいます故、避難が先です」
水虎将軍がそう言うと、尾池もメリーも七美の入ったバケツまでもが球状の水の膜に包まれた。
「一度、下水道を通ります。水の膜がありますので、我々の匂いを追尾するのはほぼ不可能。服の汚れや下水の匂いもご安心下さい」
尾池は自分の顔に取り付いて離れなかった水の球を思い出して身震いしたが、成す術もないので大人しく従う事にした。
水虎将軍はキメラの方など見ずに、マンホールを開け、その中にまずは七美の入ったバケツを、次にメリー最後に尾池と水の膜を入れていった。
その姿を見て、キメラは水虎将軍へと爪を振り下ろすも一瞬形を乱すだけ。
「無駄なことだ、息が上がるだけ、実に無様だ」
最後にそう言うと、水虎将軍はマンホールの中へと滑り込み中から蓋を閉めた。
感想ありがとうございます。
結局のところ学内とか検索して出ない類の情報を知るには人脈なのだという事を教えてくれる黒松先輩です。妹が絡んでくるかはどうでしょうね……今のところ未定です。
部長は結構怖いです。火夜が他に比べて弱いし周りはどんどん強くなるしで若干追い詰められているのかもしれません。副部長も隠し事していますし、尾池君の安住の地はどこに、という感じですね。
スプラッシュモンはメリーが人の話に口をはさむの苦手なこともあってセットにするとよくしゃべります。真の主役かはわかりませんが、まともに登場人物化するスプラッシュモンがもう数体出てくる可能性は大いにあります。
次回も、どうぞお楽しみください。