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2-1 朽ちた情報統合樹

さて、「さあ、軟膏を塗りたまえ! ほら!」と言って服を脱ごうとするJを風呂場に押し込んで数刻が経った。「美少女の柔肌だぞ!? なぜだ!」と騒いでいた。頼むからシリアスを保ってくれ……まあ脱がせたいは脱がせたいが、いくら何でもこの状況は性欲より好奇心が勝ると言うものだ。あと猜疑心。
『デジタル・モンスター』の中から飛び出してきた、J本人とウェンディモン。加えて前者はロイヤルナイツの武装を軽々と取り出してのけた。
考え得る可能性は……正直思いつかない。ネタ晴らしを待つしかないのだろうか。それはそれで一読者として癪な感じがある。Jが戻ってくるまでに何か考えつかないだろうか。
頭の中であれこれ可能性を想定してはこねこねしていくが、今回のこれはちょっとハードルが高い。何せ、これまで遭遇してきた怪異とは格が違う。ちょっとした都市伝説が精一杯だったのに、ここにきて知人の創作物が現実になるだと? 確かに、都市伝説だって元はネットのいち書き込みや田舎町の言い伝えに過ぎず、そうした意味ではJの『デジタル・モンスター』が奴曰く"新進気鋭のフォークロア"化する可能性も低くはあるまい……。
「あがったよー。包帯ももらった」
と、そこまで考えてJの言葉に思考を遮られる。
流れる銀髪に水滴がまとわりつき、湯上がりのJは予想以上に美し――いやまて、それよりも。
「……その服はどっから出した?」
いいのだ。例えば俺にコスプレ趣味があったとして、いつの間にかJがその衣装を引っ張り出していたとしても。あるいは俺が未成年者略取誘拐犯で、なんかいい感じに女の子を隠したものの一着だけ服を隠し忘れていて、それをJが引っ張り出していたとしても……いや全然よくはないが。
だが、それはないだろう。そんなことが可能なら、どんな想像だって覆される。
「こんなもの、私にかかればちょちょいのちょいさ」
くるりとその場で一回転してみせるJ。再び黒衣に包まれた痩身をブラックインバネスで覆い、更に頭の上には黒いシルクハットが鎮座している。その後で俺の方へ向き直り、にやけ面を浮かべた。
「おやおや、それともツェーンはこっちの方がお好みだったかな」
もう一回転。すると先ほどウェンディモンのデストロイドボイスを受け、ボロボロに破れてしまった衣装に代わる。
さっきは血を流すJの姿に激昂していて全くそんな印象は抱かなかったが、改めてみると中々"良い"衣装にも見える。
「うーん、それはそれで目の保養になるな。服の下の包帯も実にいいぞ」
「!?!!!!?!???!」
顔を真っ赤にして元に戻してしまった。とてもとても残念だ。
しかしよく見れば、左腕の動きがよろしくない。イージスを使用して尚、衝撃を殺しきれず負傷したようだ。そう言えばこの腕にアームロックキメたな、と思いつつ、Jに接近して左腕を掴む。
「あ、あわわ、ちょっと待ちたまえ。まだこここ心の準備が」
「ちげーよ馬鹿、これは治んねえのか」
「あ、な、なんだそんなことか」
露骨に落胆されるとちょっと困る。
「ふっふっふ、しかし私の怪我を気にするとは、つまり私に気があると見て良いよね?」
「普段の調子に戻ったようで何より」
それよりも説明をしろ、説明を。
涅槃に至ったつもりの表情で無言を貫いてやると、観念したのか語り始めた。なんとなく扱い方がわかってきた気がする。
「傷についてなら、心配は無用だ。機能不全になることは絶対にない」
それを聞いて安心した。後遺症が残りでもしたら、最悪俺が一生Jの左腕になってやらないといけなくなるところだった。
「……つつつツェーン、今何かとても嬉しくも恐ろしい事を考えなかった?」
「……? いや、何も」
女が自分を守って負った傷なんて、一生かけたって返しきれない負債だろう。夫妻と言うのが言い方が悪いなら、恩と言ってもいい。
珍しくドン引きしたような目で俺を見つめるJが、出会って数日に過ぎないがとても新鮮だった。「君も大概度し難いな」なんて台詞は聞こえない。聞こえないぞ。
「で、絶対に治るって保証はどこから出てるんだ」
「その前に」
真剣な前置きの言葉。これから事件の真相が語られるのだ。摩訶不思議にして物理法則を超越したこの舞台の。
「君は私が出した装備について、どこまで把握しているね」
「順にイージス、グラム、アヴァロン、グレイソード、Vブレスレット、ガルルキャノンだ」
舐めるなよ。俺はお前の大ファンだ。
「そう、そしてそれらに共通するのは、デジタルワールドの最高セキュリティ――ロイヤルナイツの武装であるということ」
理解している。だが、つまりそれは――。
「なれば、その武装を自在に現出させられる私がなんなのか」
Jという人物は、デジタルワールド最強の守護騎士達を従える存在に類する。それは即ち――。
「――イグドラシル」
眼前の黒衣を見る目が変わる。
この人物が、イグドラシル。『デジタル・モンスター』の中で、デジタルワールドを統括するホストコンピュータ。
――本当に?
「当たらずも遠からず……無論、幾ばくかの脚色はあるが」
答えは他ならぬ当人から。
「我が小説『デジタル・モンスター』はね、ツェーン。私の自伝なんだ」
信じ難い。
●
ならば、あの冒険譚は真実だというのか。多くの者が熱狂するほどの描写は、まさしく自ら見てきたものだったからなのか。
「先ほど私は言っただろう。世界は表裏一体で、Realの裏側にDigitalがあると」
聞いた。そしてそれは、『デジタル・モンスター』内の設定で――。
「――設定じゃないんだ。だけど私たちは、いいやこの惑星は、その事実を忘れさせられている」
縋るような思考は、イグドラシルの類縁を名乗る女によって破壊された。
喉が渇く。目が霞む。呼吸が乱れる。脈拍は上がり続け心臓の音が五月蠅いほど高鳴っている。だがそれは期待でもなんでもない。俺たちが暮らしているこの常識が粉微塵に粉砕されることを、脳が、身体が、拒んでいる――。
「それは、一体――なんの、為に」
打ち砕かれた現実の残滓。元々薄氷に過ぎなかったそれを必死にかき集めながら、荒唐無稽な彼女の話をできる限り理解に落とし込めようと苦心する。
どうしてだ? どうして俺は、この話を聞いてこんなに動揺している?
Jの妄言でないことはさすがに分かっている。この状況で虚言を放つ人物ではないし、実際に俺はデジタル・モンスターを目の当たりにし、彼女と同じように武器を召還さえしてみせた。
しかしだからといって、これまでの常識が破壊されたからといって、こうまで精神が揺らぐのは、まっとうと言えるのだろうか――?
なにかが、おかしい。
有羽十三という人物を構成する歯車のどれかが、この短期間に致命的にズレてしまっている。
「少し、休もうか」
柔らかな女性の掌が、俺の頭に置かれた。
そのまま頭蓋を撫でるように、左右に数度。
茹だるような熱を放っていた俺の脳が、急速に冷えていく。
「ごめんよ、ツェーン。君がこうまで慄くとは」
気付けば視界はスキニーのスラックスと、それを覆うとんびの黒で埋められていた。
「いや……」
立ちの姿勢から情けなくも立ち上がり、続きを促した。
「ふふ。これは『デジタル・モンスター』のネタバレを含むよ。それでも君は続きを聞くのかい」
優しげな微笑みは、遠くを懐かしむような声色に埋もれ、とても儚く見えた。
「当たり前だ」
そして俺は、そんな彼女の笑顔を護りたいと感じていた。
「ならば答えよう。舞台は『魔王戦役』の後の話だ」
●
Jと言う名は主人公の――私の師の名で、右も左も分からないままデジタルワールドを彷徨い歩くこととなった私の唯一の指標となったのはツェーンならば旧知の事実だろうし最早言うまでもないだろう。彼のおかげで今の私があるし、第二章『Digi-Mentals』において退場させてしまったのは実際に彼が死んでしまったからでそれが偏に私の力不足で、そのため数日寝込む程に落ち込んだのもまた本当だ。その後私はJの名と服装を継ぎこうして今に至るまで活動とロールプレイを続けているが今でも自分が紛れもないJをやれているかは分からない。とは言え君に実際に会いに来るときにまでJのロールをするつもりはなく、Jのコスプレをした普通の女の子になるつもりで昔の自分という者をとてもとても久しぶりに出したのだけれどどうだったかな。私の好意は君に届いているのだろうか。いやさ届いていると信じたい。
とまあ話がずれてしまったが、結局のところ大切なのはその後だ。Jを名乗りデジタルワールドとリアルワールドを駆け回っていた私は苦難の果てに最終章『魔王戦役』に至る。世界を覆い尽くす暗雲とそれを生み出す七大罪の魔王たるデジタル・モンスター達。だがその当時の私はまだ知らなかったんだ。無邪気にも無垢にも見える行いでその魔王達を打倒し、この世界が無限に広がる平行世界の一つに過ぎないと悟るまでは。ああ、できることならばかつての自分を殴り飛ばしてやりたいさ。彼ら七大魔王はその強大すぎる力故に無数のデジタルワールドに均等に力を分かたれて存在していたのだから。それを知らず私はあの世界に存在する魔王達を殲滅してしまった。殲滅できてしまった。
そして大いなる理はそれを許さなかった。一つの世界から魔王を殲滅し、他の世界の魔王をより強大なものにしてしまった私。世界の均衡を乱した私に、大いなる理はとある罰を与えた。それが情報統合樹イグドラシルの端末としての永久残業だ。『魔王戦役』であの世界のイグドラシルは枯れてしまっていて、無論その手足として動くべき全十二体のロイヤルナイツも全滅してしまっているからね。随分と簡略化してしまったがこれが私の軌跡。そして私がナイツの武装を顕現させることができる絡繰りだ。枯れたとはいえ情報統合樹は情報統合樹。そのデータベースにアクセスすることはあの冒険を終えた"J"にとっては造作もないことだった。そしてアクセスができればデータを表裏一体のこのリアルワールドに持ってくることだって容易なのさ。
●
「以上。これが世界の真相だ」
熱の籠もった様子で一息に告げ終え、Jはゆっくりとソファにかけた。
正直な話、理解に悩むことはない。前提条件は履修済みだ。
だから一切は、俺がそれを受け入れられるのか否か。
答えは、あえて自らに問いかけるまでもなく。
「信じるよ」
静かに頷き、Jは小さな顎に手を当てて考え込みながら話し始めた。
「……私の仕事は、デバッグさ。隔たった二つの世界の境界を越えるデジタル・モンスターを殲滅すること。私が乱してしまった世界の均衡を、私が壊してしまったホストコンピュータの代わりに保たねばならない」
「そうか」
「その過程で、私は小説『デジタル・モンスター』を執筆した。いくらイグドラシルの端末になったとは言え、私の身体は一つしかなく、派遣すべきナイツもいない。故に創作という形でデジタル・モンスターの存在をネットの大海に広め、数多の都市伝説の一つとして、この蛙噛市に顕現するよう誘導した」
「なるほど。つまり、先日チャットで持ちかけられた『新進気鋭のフォークロア』という話の時から、俺はお前の掌で踊らされていたって事か。今後も、デジタル・モンスターがこの街で暴れまわるってのか」
「それは違う!」
コーヒーテーブルに勢いよく手をつき、Jは身を乗り出して抗議した。
「蛙噛市を舞台にしたのは、確かに故あっての事だ。君を危険に晒してしまったのは、私の責任だ。だけど! 君を踊らせて愉しむつもりなんて微塵もなかった! そんな邪神みたいな心づもりは――!」
端正な顔が台無しだ。今度はJが、ひどく狼狽してしまっている。だから、この台詞を贈ろう。
「知ってる。知ってる。一切、ご承知ずくだ」
"J"のキメ台詞。
「え――?」
「一応、言ってみただけだ。デジタル・モンスターのデバッグ作業だって、付き合ってやるさ。
……で、まだ聞いてないことがあるんだけどな」
きょとんとするJの目の前で、テーブルの上に金色の剣を置いた。
「――この剣は。ズバモンはなんなんだ」
『デジタル・モンスター』の設定に則るなら、一口に言えば俺のパートナーデジモン。しかし、剣の振るい方以外は一切語らない。今も、無言の黄金が鎮座しているだけだ。俺が知っているのは、彼女が作中で語ったことだけだ。分からないならば、明かされていない要素があるならば、本人の口から聞く他にあるまい。
「それは……」
珍しく、翠の瞳が泳いでいる。数刻俺と視線を会わせぬように右往左往して、やがて意を決したのか、Jは語り出した。
「君の……パートナーデジモンだろう……」
ウェンディゴへのなりかけを冷徹に見捨てたのと同一人物なのだろうかと思う程おずおずと。
「成る程。じゃあ次の質問だ。さっきお前は『この惑星はデジタル・ワールドの存在を忘れさせられている』と言ったな」
Jの華奢な肩が、飛び上がりそうに震えた。
糾弾するつもりはないのだ。ないのだが……。
「それを為したのは、誰だ」
デジタル・モンスターがこの街に現れる。その理屈は良い。イグドラシルの統治の及ばぬ世界で、いくらでもセキュリティホールは見つけられるだろう。
けれど、『デジタル・モンスター』内での出来事が本当にあったのなら、俺たちはデジタルワールドの事も、デジタル・モンスターの存在も覚えていなければならない。あれ程の社会現象になって尚、忘れているなどあり得ない。
唯一それを為せそうな情報統合樹イグドラシルは、『魔王戦役』で既に枯れている。
「――大いなる理について、詳しいことは私にも分かっていない」
瞳を左右に揺らし、苦虫を噛み潰しながらとつとつと語られる。
「私がその存在に気付いたのは、朽ちたイグドラシルの根本で目を覚ました後だ。その時の私は最後の魔王・ルーチェモンを討伐し、どうなったのかすら理解できていなかった。そして……呆然と、する、私にっ、"アイツ"は、告げたんだ――」
頭を両腕で抱え、ガタガタと震え出すJ。その瞳は確と見開かれ、顔面から嫌と言うほど汗が噴き出している。その尋常でなさに、思わず生唾を飲み込んだ。
「怖かった……怖かったんだよ、ツェーン……! この私が、サタンモードの前に立ってさえ平然としていられたこの私が――"J"という外殻が! いとも容易く引き剥がされた……!」
「お、おい……」
崩れ落ちる様に椅子から降り、床を這って俺の足下に縋りついた。
「"それ"は語ったよ。私に架せられた義務を……。だが、だがそんなことよりも、奴は言った。二つの世界を隔てたと! その記憶を全ての人類、全てのデジタル・モンスターから抹消したと! その事実はイグドラシルのログにすら残っていない! 私と、それを知った君以外には、大いなる理しか知らないことだ!」
……正直に言って、衝撃だ。伝聞に過ぎず、きっとJの味わった恐怖の一割も享受できていなかろうが、少なくとも、全生命の記憶に干渉可能な存在がいるということになる。
それはホストコンピュータ・イグドラシルにも、俺たちリアルワールドにの住人にもしも実在したとして、その唯一神たるYHVHでもなければ不可能な御業だろう。
その遠大さ、想像もつかぬ途方の無さ。そしてその端末――あるいは触覚だろうか。そうしたものに直面したという彼女の恐怖は、成る程、推し量ることすらおこがましい。
「そうか」
だから、それだけしか言えなかった。足下の、危うさの塊から目を話すことはできなかったが、それでも一瞬だけ周囲をぐるりと見回し、かけるべき言葉を探した。
「なあ、お前のデジモンはどうしたんだ?」
せめても話題を変えようとして口にした言葉。だが、この言葉は刃だった。想像した効果を大幅に超越し、確かにJの混乱を収めたが――。
「……消えたよ」
――彼女の胸を刺し貫いていた。
「サタンモードを倒したとき以来、一度もその姿を見ていない」
●
あれ程不安定な様子を見せたJを一人にする訳にもいかず、その後は普段通りの他愛もない会話をしながら少々気まずい夜を過ごした。俺たちのメンタルはどちらもボロボロだったが、独りでないというだけで、どれ程救いになったことか。
まな板を包丁がリズミカルに叩く音に目を覚ませば、Jがキッチンに立っていた。 咎める気はなかった。
「やあツェーン、お目覚めかい」
その姿は二日前に目にしたそれと一切変わらなかった。エプロンの下のセーラー服から覗く喉元が目を惹いた。
「ああ。昨日は……」
「いいのさ。私も君も、お互いに弱いところを見せた。絆が深まったと思おうじゃないか」
「そうか、じゃ、お言葉に甘えて」
「うん、待っていたまえ……ところで、朝食はきちんと採る派だったかな? こうして勝手に調理場を借りてはいるが、私は朝ごはんを『一日の活力』とか『食べないと頭が働かない』とか言う言説には正直辟易するんだが」
「俺も普段はコーヒーか紅茶か翼を授かる奴だよ」
だが、まあ。自己の足元が揺らぐような夜を共に過ごした俺の感情としては。
「お前が作ってくれたのなら、毒でも飲み干してやるよ……そんな気分だ」
「!」
Jの顔がこちらを凝視する。
「ツェーン、つつつつまりそれは、これから毎朝味噌汁が私を作ってくれるという――」
「J、日替わりになるの?」
打たれ弱すぎだろ。というかよくそんな言い回し知ってんな。まあ日本語で創作してるぐらいなんだから当然と言えば当然だが。
「別にそこまでは言ってねえよ」
「なんだと」
「そういう日もある」
「いいかツェーン。今私は君の食事事情を掌握しているんだぞ、分かるか」
「いやされてねーしお前が作らなくたって困らねーけど」
「ぐぬぬぬぬぬ」
昨夜の出来事を忘れるかのように下らぬやりとりに興じていると、だ。調理器具とは異なる電子音が家の中に響いた。来客の知らせ。こんな時間に鳴る方が珍しい。
「有~羽ック~~ン、あっそび~~ましょ~~~~!」
訪問者は一切珍しくなかったが。
インターホンのカメラに映っていたのは、制服を着崩して赤いマフラーを纏った我が友人・宮里定光だった。朝っぱらからやってくることは、稀によくあることだった。
「私が出よう」
マジかよ。やめろよ。
Jは有無を言わせぬ神速の所業でリビングを出た。
「待て待て、落ち着け」
「私は落ち着いているとも」
「いいや、正気じゃないね」
「Amantes amentes――愛は正気にて為らずだよ」
無い胸張って恥ずかしいこと言ってんじゃねえぞ。
「お、空いてんじゃーん。不用心だ、な……?」
止めようもないJをどうにか押さえつけようと苦心していると、玄関の扉を勝手に開けて入ってきた。
俺の住処は、玄関から一直線の廊下を通じてリビングルームが広がっている。リビングとキッチンは併設だ。つまりどうなるか。定光が初めに見るのは、真っ先に部屋を飛び出した、エプロン姿のJとなる。
「なーる。邪魔するぜー」
すげえ。何も言わねえぞコイツ。
「邪魔するなら帰れ」
「宮里君ね。おはよう」
「おーおはよおはよ。聞いてるぜ、通い妻始めたって」
「家主は無視か」
「ほう、そんなことを」
「一言も言ってねえぞ。つーか、今日は一体どんな厄介ごとを持ってきたコラ」
「おーそうそう。お前が美少女連れ込んでるからビビって言い出し損ねたじゃねえか」
嘘こけ。全然驚いてなかったじゃねえか。
そう憤る俺の前で、いやんいやんと頬を両手で挟み身体をくねらせているJにも見えるように、宮里家の息子は鞄から一冊の本を取り出した。
●
宮里家は古くから続く名家で、この蛙噛市の開発にも随分と絡んでいたと聞く。その屋敷は広大で、何度か訪れたものの未だにその全容を覚えきれない……探検とかするような歳でなかったのもあるが。その財産もかなりのもので、末息子である定光でさえ正直働かずとも食っていける筈だ――それを、あの家の父親が許すかは別にして。まあ家族環境については説明の必要もないだろう。
さて、定光が厄介ごとを持ってくるのはいつものことだ。昨日のウェンディモンの一件とて、よくよく考えればコイツが日本で発生したウェンディゴ症候群の噂話を持ち掛けてきたのが発端だった。いるのだろう、そういう星の下に生まれた人間は。望むと望まざるに拘らず、行動が騒動に繋がっていく。
例えば昔、ポマードポマード言いながらげらげら笑いつつ口裂け女をボコったのもコイツが発端だったし、寺生まれのTさんに遭遇しその正体が結局のところ彼の戦うべき怪異と同じ穴の貉であると知ってしまったのもコイツが持ってきた謎の呪物[Fetish]が原因だった。
今にして思えば、それらもデジタルワールドの関与・影響があったのではないだろうか。現実に存在するはずがないオカルトの実在。俺はよくよく考えればそうしたものに幾度も遭遇しているし、それをチャットでJに面白おかしく話したりもしていた。そしてそれは、摩訶不思議且つ現実的[Real]でないという意味で、デジタルワールドの実在に結びついてもおかしくはない……ような気もする。
とまあ、何故こんなことをつらつらと回想しているのかというと、だ。
「Hmmm、これはまた珍しいものを入手したようだね」
「名高いJサンにそう言ってもらえるとは光栄ってもんだ」
「J? もしかして我々の関係をご存じ?」
「そりゃもう耳にタコが出来るほど! 『デジタル・モンスター』、こいつタブレットに入れて何度も読み返してるんだぜ」
「なるほど、それは気恥ずかしいね。ところでツェーン、どうも一人だけ置いてけぼりにされたような顔をせずこっちに来たまえ。これが何かわかるかい?」
コイツらが手にして盛り上がっている本。それが一冊の魔導書だったからだ。
2-2 九つのモノリス
「天使奥義書――ザ・グリモワール・オブ・アルマデル。市井にも流通してるし、俺も一回読んだことあるけど――」
アルマデル奥義書は、数多存在する天使悪魔のタリスマンを作成する方法の記載された書だ。安いとは言わないが、ネット通販で普通に手に入る。オカルトの造詣を深めるために、英和辞書片手に図書館で注文して読んだこともある。だが、Jに渡されたそれは俺の知っているそれと遥かに異なっていた。
「――それは見たことないな。明らかにやべーもんだ」
なんと形容したものか。一目見ただけでめまいを覚える。湧き上がってくる漠然とした不安感と高揚感が、如何にもそれが当然であるかのような佇まいで胸の裡に確として存在してしまう。素養のない――超常現象に触れたことのない者でさえ、このおどろおどろしさには一抹の不快感を覚えることだろう。あたかも怪異と初遭遇の際の俺と定光のように。
「ご名答だね。どうやらこの中では……」
ところがJはチャットで聞いていたようにオカルト事象に遭遇しているどころか、デジタルワールドを直に旅した張本人だ。一切の頓着なく繊細な手つきでページを捲っていく。黒装束に身を纏っていなくても、制服と魔導書のミスマッチさはそれはそれで絵になるものだった。……いや、美形は何をしてても絵になるか。
「有意に意味を持っているのはこのページか」
破魔矢を思わせるその指が示したのは、ルシファーとベルゼビュート、そしてアスタロトの印章[Sigil]の載ったページ。思わず『デジタル・モンスター』の中で、これらの魔的存在を模したモンスターがいたことを思い出す。そこに意味はあるのだろうかと疑ってしまうが、きっとある。宮里定光がこのタイミングでこの書物を持ってきたこと、きっと想像もつかぬ運命的な意味がある。あるいは、それもJの計画の内なのかもしれないが。
「見たまえ、ASTAROT――アスタロトのシジルだけが、黒々と輝いている」
二つの円形を鍵状の直線がつなぎ、蛇のように湾曲した模様が絡みついている。
この模様が何を指し示すかまでは、印章学など齧ってすらいないためさっぱりわからない。だが明らかに、シジルが活性化していることだけは分かる。
「近く、この印章が使われたのだろうね……どこでこれを?」
「さる筋からとしか言えんね。これでも信用ある方なんだよ。あと結構な金もかかってる」
「あぁ、そ。で、そんならお前はわざわざこれを見せに来て、どうしたいわけよ」
ひょっとすれば、デバッグ作業に関与する可能性もある。どうにかして情報は得ておきたいところだが――と考えたところで、ニヒルに口元を歪めたロン毛の茶髪の箴言は、思いもよらぬ方向へ転がった。
「興味あんだろ?」
「「ある」」
実にありがたい話だ。
もっとも、デジタル・モンスターに拘わる事象がなくても、そもそも俺たちはそういう人種だった。というか、少なくともそうでなければ、一度超常現象と遭遇させられた時点でこの男との交友を絶っている。
ましてや今回はJが舞台に上がっている。幾ら定光がそういう事象に慣れていても、デジタル・モンスターは、物理的にこれまでの怪異とは格が違うだろう……放置は得策でない。例え、ウェンディモンの発生が民話に準じたもので、更に人間を乗っ取って発生するというオカルト染みたものであったとしても。
「俺は今夜、もう一回そこへ行く用事があるんだよ。それにフレンズが勝手に着いてきたとしても、何らおかしくはねぇわな」
――Jサンだって、こういう話にゃ一家言あんだろ? 聞いてるぜ。と宣うその口は、悪魔的な誘惑と言って遜色なかった。
●
その日の放課後、俺たちは宮里家から最も近い喫茶店で時間を潰していた。出立の時刻になれば、携帯に通知が来る手筈になっている。
「さて、今の内に状況の整理と行こうか」
「それはいいけど奇異の眼で見られてるの理解してる?」
テーブルに乗せられ、半分ほどが平らげられたぷりん・ア・ラ・モードを前にシルクハットを目深に被り直し、Jは言った。相も変わらず目立つ格好だが、今日は俺に至ってもそうだった。Jの用立てた――胸に手を置かれただけで服装が変わったのだが――深いネイビーの二重回しとんび。成程季節は冬であることもあり、日も既に落ちている。闇に溶け込むのには最適な服装かもしれないが、店内では衆目を集めることは否めない。
「しているとも。前にも言ったが、蒙昧共の視線など気に留めるな。それに、話題の内容もあれば自然と興味を失っていくさ。アスタロトのシジルが活性化しているということは、アルマデル奥義書の所有者がそれを使用したということだ。ならば、召喚されたのか介入したのかはわからないが、どこかに魔人型完全体の痕跡があるはずだ」
確かに『デジタル・モンスター』のことを知らずとも、"アスタロト"だの"奥義書"だの言っていれば、そういう趣味の二人組が議論に興じているだけだと思われるだろう。
「なるほどね。逆に普段の服装でこういう話をするよりもいいかもな。考えられて――ほんとに考えてる?」
「本音を言うと、君に私と似合いの服装でいて欲しかった」
ずるい。
「そういうことなら慣れてやるよ、まだ気が重いけどな、この服装。で、その痕跡を探るのが今回の目的という認識でOK?」
「可能ならばアスタモンの送還までしたいがね」
同感だ。悪辣な"ダークエリアの貴公子"など、放っておきたくはないし、探っていることを悟られたくすらない。リアルワールドに出てきて間もないのか、それとも既にこちらで暗躍を始めているのか。それすら分からない以上、悪い方向で考えておくべきだろうか。
「実際、どうにかできる算段はあるのか」
「アスタモンだけならば、如何様にでも。というかご存知の通り、以前倒した種族だ。君もいるなら絶対に負けない」
「随分な自信で。まあ俺も不思議とそんな気がするんだが、今回は味方も随分と少な――時間か」
間の抜けた電子音。定光からの『行ってきwまwwwwすwwwwwwwウェイウェイwwwwww』という文面が何とも腹立たしい。
「今から5分後、この店の前を彼が通ることになっている。出ようか」
支払いを済ませ、のほほんと歩いてきた定光を待ち伏せた。
●
爽やかに揺れるロン毛を追いかけること一時間弱。俺たちは街はずれの打ち捨てられたコンサートホールに着いていた。そう言えばここは数年前に、とある演劇で多くの観客が失神・昏倒する事件が多発して以降、不吉な噂が立ち上り始め、自然と閉鎖に至ったのだと覚えている。彼らの内ほとんどは、精神疾患を発症するか、あるいは植物状態に、最悪は自死に至ったという。
その演劇の名前が何だったか、あるいは失神した観客には共通する特徴があった筈だがどんなものだったか思い出せず難渋していると、素早く小声でJが話しかけてきた。
「ツェーン、ここに来たことは?」
「ある」
「最後に来たのは?」
「一年前」
Jにも話したが、ちょうど寺生まれのTさんと邂逅した場所だ。
「あのモノリスに見覚えは」
指さす方向に目を凝らすと、夜闇に紛れて幾本もの巨大且つ扁平な漆黒の巨石が立ち並んでいることに気が付いた。よく見れば、後方――俺たちが歩いてきた方にも何本か存在している。
モノリスは左右対称に、そしてコンサートホールに向かうにつれてその間隔は狭くなっている。
「ない」
「本数は八か。ツェーン……」
辺りを見回し、その本数を確かめた。そして口元を軽く歪め、冷や汗を流しながら。
「心した方がいいかもしれない。急ごう」
まるで無理に笑っているかのような様相で、Jは歩みを再開した。
●
定光がコンサートホールの入り口に辿り着き、そこから出てきた人物(そもそも、この廃墟から人間が出てくること自体が驚くべき事態だが)と会話を始めたのを確認し、俺たちは細心の注意を払ってホールの裏口へと回った。
道中、Jがモノリスを間近で見てみようというためそちらへ寄り道したが、正しく信じ難い情景が広がっていた。
光源がほとんどないのに、モノリスから八方向に影が伸びている。引き込まれそうな闇色なのに、光沢を放っている。かと思えば黒曜石でできているわけでもなく、オニキスやオブシディアン、スピネルといった鉱石類でも、蛇紋岩や玄武岩などの岩石でもなさそうだ。そもそもこのモノリス、一切の混じりけのない巨岩を、一切の凹凸なく切り出している。触れてみた冷たく無機質な感触はイメージ通りだが、これほど完全な黒色の物体など、あるとしたら人工物でしかありえない。いやそもそも、人類の技術でこれは創り出せるものなのだろうか。およそこの世のものとは思えない巨岩。それはつまり、人外の――デジタル・モンスターの関与を示唆するものではないのだろうか。
「知りたいことは分かった。ずっと見ていていいものじゃない。行こう」
モノリスに手を触れたまま思考の渦に飲まれていた俺を、隣で顎に手を当ててモノリスを眺めていたJが引きずり出す。腕を引かれたままJの導きに従って、コンサートホールへと裏口から侵入した。
「なあ、あれは――なんだ」
「アレに正確な名称はない。便宜上モノリスと呼称したが、それは我々が知る概念としての名前でしかなく、構成素材もこの世界のものじゃない」
裏口の扉を引くと、目の前には階段があり、すぐ左手に鋼鉄の扉があった。扉には黄色いスプレーか何かで、どこかで見覚えのあるマークが描かれていた。
「少し待って」
インバネスの内側から銀細工の施された黒色の小箱を取り出す。中から取り出される数々のピッキングツール。
Jが鮮やかな手並みで鍵開けに挑戦しているさ中、俺はこの黄色い模様をどこで見たのか考えていた。脳の片隅にひっかかったような既視感だ。既視感がある。
「お待たせ。開いたよ」
「これなら家の鍵ぐらい一発だな」
「お褒めに預かり光栄至極さ」
思考を中断し、扉を開く。こちらも引き戸だ。
扉の奥で、再び階段が俺たちを出迎えた。
「何かと問われれば、呼び水――というのが正しい」
「呼び水?」
暗闇の中、階段をゆっくりと降りながら囁く。
「この先にいるのは、きっとアスタモンだけじゃない。その眷属――デビドラモン辺りもいる筈だ」
何故そんなことが分かるのか。そもそも何故淀みなく地下への階段を見つけ、降りていけるのか。少しもわからなかった。昨日聞いた以上にも、Jには秘した情報があるのだと確信した――その、時だった。
まるで聞き耳を立てているかのようなタイミングで、深淵の奥の奥の方から、無数の羽ばたき音とギィギィという鳴き声が轟いた。
「アスタモンはまだわからないが、少なくとも眷属の方は、最早我々の知るデビドラモンではないだろう」
蝙蝠を連想させるその不快感に満ちた音の振動にも、Jは少し顔を顰めたぐらいで歩みを止めない。
やがて階段は終わり、そこには今時キャンドルライトではない本物の蝋燭の灯りで照らされた地下空間が広がっていた。明らかに人為的な手が加えられているのは、壁に挿入された燭台の存在からも明らかだ。
「思い出した……」
「どうしたね、ツェーン」
その燭台の全てに着けられている装飾。縞瑪瑙に象眼の金細工の留め金。一つの円を三本の曲線が取り巻いている黄色い印。さながらクエスチョンマークが三つ並んでいると言ってもいい。
俺はそれに見覚えがあった。以前の観劇を経て、凄惨な末路を辿ったという観客たち。彼らが一様に手にしていたものは、このオニキスのブローチではなかったか。
「この劇場、数年前にとある演劇をきっかけに閉鎖されたんだ。その時、意識を失った観客が多発して――目を覚ましたその観客たちは、皆そのブローチを持っていた」
「黄の印を……か。それが数年前ともなれば、この場での儀式は、かなり以前から計画されていたことになるね」
確かに、一年で八本のモノリスを建立するなど、正気の沙汰ではない。だから綿密な計画があっただろうことには同意するが、儀式。儀式だと……?
「J、何を知っている。何故迷いなくここに来れた」
「少しばかり、理の埒外の知識に明るくなってしまっただけさ――と言っても納得はしないか。ひとつ言えるとすれば、あれだけの扁平で薄く長大な物質を固定するには、地下にまで食い込ませる必要があると思っただけだよ」
飄々とした調子。イグドラシルの触覚ともなれば、確かに閲覧できる知識は膨大に過ぎるだろうが。
「種明かしは後だ。Legend-Armsを構えたまえ」
訝し気にJを見ていたが故、前方への注意が疎かになっていた。
弾丸の速度で飛んできた一体の怪物。黒光りする、爬虫類の如き皮膚。残像の様に赤い四つ目が尾を引いて、深紅の爪がこちらを引き裂かんと迫っていた。
「舐めるなよ」
ほとんど反射的にズバモンを構え、その勢いのまま振り抜いた。両断されたデビドラモンは勢い余って床を数メートル滑り、そこで消滅するかと思ったが……。
「コイツらは生命力がずば抜けて高い。真空でも生きていけるぐらいだ。殺すなら徹底的に――だ」
正中で両断され、確実にデジコアを破壊された筈なのに、デビドラモンは無様な姿ながら未だにもがいていた。その姿に、思わず頭を潰されてもまだ翅や肢を動かす昆虫を連想するのも無理はあるまい。
「体感だが、おおよそ四肢と頭を落とせば死ぬよ」
JがVブレスレットより現出させたアルフォースセイバーで、蠢くデビドラモンを細切れにした。デビドラモンの残骸は風に吹かれるかのように粒子となって消滅する。
「勘付かれたということはないだろうが、無闇に立ち止まるのは賢明じゃないだろうね」
同感だ。
武器を収め、足早に進むJについて奥へ進んでいった。
●
方角的には、コンサートホールの裏口から少し進んだところだろうか。外で左右対称に立ち並ぶモノリスの間隔、それがゼロになる交点がここだ。
細心の注意を払い、デビドラモンとの遭遇も避け、足音一つ立てていない。衣擦れの音とデビドラモンの鳴き声だけが、静寂の中に存在していた。
目の前には両開き扉がある。扉にはここまで何度も目にした紋様ではなく、アスタロトの印章が刻まれていた。
Jがシルクハットを片手に持ち、扉に耳を当てている。指さして俺にもそうするよう告げたため、俺も同様にその金属に近づいた。
扉が厚く、聞こえてくる文言は断片的だ。しかしこれだけ厚い遮蔽物を隔てて聞こえてくる時点で、相応に大音量だと理解できる。少しの間聞いていると、その意味までは分からないまでも、言葉に籠められた感情ぐらいは認識できる。
『い……あ……はす……ぶる……ぶるぐ……あい……はすた……』
これは……祝詞か? 礼賛と歓喜と悲願と誓願が混じり合ってうねりを作っている。そう感じた――その時だ。
「扉の向こうにいる者、息を殺しても意味はない。俺は全て把握している」
扉越しに声が聞こえた。驚いた、驚いたが、相手は常識の埒外の存在だ。透視能力や、近辺の生命を把握する能力があっても無理はない。
Jと顔を見合わせて、いつでも武器を手に取れる状態にしておく。すると扉が向こう側から開かれた。
驚くほどスムーズに開いた扉の向こうには、広大な空間が広がっていた。そしてデビドラモンが数体上空――地下空間だから、中空とでも言うべきか――を旋回していた。地には黄色の儀式的なローブに身を包み、モノリス(恐ろしいことに、俺たちが地下に潜ってからの短時間で設置されたようだ)を円形にとり囲んだ人間が十数名。彼らは先ほどの祝詞のような文言を、俺たちに構うことなく唱え続けている。その祈祷文を延々と聞いていると、まるで平衡感覚を狂わされたかのような気分になる。
「聞くなツェーン。意識的にシャットアウトしろ」
隣から聞こえる蜘蛛の糸じみたローレライの声。カンダタになった俺にはそれが無性に頼もしい。
「……フン、そちらの女は事情をよく知っているらしい」
円陣を背にして俺たちに話しかけているのは、アスタモンだった。ワインレッドのシャツに、ストライプのスラックス。しかしそのマフラーは燃えるような赤ではなく黄。揺らめくコートから覗くジャケットには、ラペルピンの代わりに、今日幾度となく目にしたブローチが着けられていた。
「俺も甚だ遺憾ではあるがね。最早この身では抗えん……かわいい部下共もあの有様だ」
苦々し気に歪められた口元は、熊の被り物の下で随分と消沈して見えた。
「故にお前たちに希おう――儀式の完遂よりも前に、この俺を止めて見せろと!」
ダークエリアの貴公子は、本来有するだろうカリスマからは想像もつかぬほど憔悴した様子で勝負を挑んできた。
●
忌々しい祝詞をバックミュージックにして、アスタモンは躍る。追尾機能付きの魔弾はJが防いでくれるが、短刀一本で俺と鍔迫り合えるとは想像以上だ。
「手加減はできん――『マーヴェリック』!」
アスタモンの右脚に膨れ上がる暗黒の気。剣と短刀の接触を断ち間一髪で回避するものの、デビドラモンの鋭い牙が視界に迫った。しかし、涎を撒き散らすギザギザとした刃は俺を害することすら許されず蒸発した。
「聖弩ムスペルヘイム……? 女、貴様は一体……?」
背後のJが放った破魔矢。灼熱世界の名を与えられたその弩が、デビドラモンを貫いていた。
「露払いは私がする。辺りを気にせず戦え、ツェーン!」
「了解だ」
再びズバモンを構える。対するアスタモンは俄かに警戒を強めたようで、短刀とマシンガンを構え直し距離を測っている。
「貴様もだ小僧、俺と結び合えるなど、お前本当に人間か?」
「そうは言うが、お前、負けたがってたんじゃないのかよ」
「無論、それはその通りだが――」
くいと顎で指し示せば、無数のデビドラモンがJに殺到する。だがそちらを心配する間もなく、目の前の魔人は左手のオーロサルモンに火を噴かせた。
「――不可解には違いあるまいよ。これで『ヘルファイア』は防げまい」
「おいおい、随分クレバーな戦術だな」
Jの援護がない。となれば悪竜の対処に手間取っているとみていいだろう。猟銃の如きこのマシンガンは文字通り地獄の果てまで相手を追尾する。回避は不能で、防ぐしかないが俺もJも肉体は人間だ。ナイツの聖盾か魔楯なくして、これを凌ぐ術はない。ないが、恐れも絶望も、微塵も存在していない。
「だが、お前はまだ俺を舐めている」
「なんだと……?」
掌の中の金色が一際輝く。進化――というわけだ。強者と斬り結ぶこと、それこそが己の経験値であると言わんばかりに、ズバモンは魂を震わせながら成熟期へと進化した。
デジタルワールドの実在を受け入れた俺には、その名前も伝わってくる――ズバイガーモン。相も変わらず一言も話さず、モンスターの姿を取ることもないが、剣の造形は変化している。ファルシオンの如き湾曲した片刃。されど相変わらず刀身も柄も黄金だ。
そして、新たに獲得した特性は――。
「大した火力じゃないな。これならマーヴェリックの方が余程恐ろしい」
――絶対に折れない。
後退しながら金色の剣で弾丸を斬り飛ばし、斬り飛ばし斬り飛ばし斬り飛ばし斬り飛ばし斬り飛ばし斬り飛ばし斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り斬り散らし、銃弾に触れる部位が剣の先端から刃の根元にまで至った。落としきれない残りを、剣腹で全て受け止めた。
余りにも人間離れした動きだが、それができる。Legend-Armsとは、意志持つ武装とはこれ程のものなのかと正直戦慄する。
「ほう……」
アスタモンの声が少し上擦った。
「いいぞ……俺も滾ってきた。不謹慎だが、ここまでの相手は久しぶりだ……末期の戦を、もっと楽しませてくれ!」
「ハッ、随分マシな表情になったじゃねえか。良いぜ相手になってやる」
今も変わらず唱えられている呪いの祝詞は最早耳に入らない。マシンガンを放り捨て、短刀一本を胸の前に構える目の前のアスタモンから注意を離せない。弧を描く様に距離を取り合いながら、一歩でも動けば剣戟が始まると互いに了解している。奴はリーチの面で、俺は時間制限の面で互いに不利がある。加えてアスタモンの勝利条件は、奴の言葉から察するに敗北だ。結果的に、時間稼ぎということは有り得ない。
機会を。そう機会を待っている。懐に入る機会と、懐に入れずに斬り殺す機会を。
「ツェーン、無事か!」
デビドラモンを始末し終えたであろうJが叫んだ。それを合図に、アスタモンは跳んだ。
愚直な突進ならば、光の速度であろうと対応してみせた。ズバイガーモンは、この剣はそんなもの幾度となく斬っている。
だがこの魔人は、空間を縦横無尽に跳び回る。背中に広げた羽根がむしろ重しでさえあると言わんばかりに、自ら跳弾となって所在を悟らせない。そしてその速度は、余りにも迅すぎた。
「来たか――!」
首筋に迫る殺気。余りの高揚に隠し切れなかったのだろうそれを察知し、間一髪受け止めた刃が視界の隅で煌めいている。そう言えば、このナイフに銘はあったのだろうか、今度Jに聞いてみよう。そう思いながら、辛うじて受け止めた切っ先に力を籠める。
「な、にィ……!」
『なんでも斬』て『絶対に折』れない剣だ。短刀一つ断ち切れないでなんとする。
「まだだ!」
「な――て、め……!」
オーロサルモンを手放し、自由になった左手が俺の首を締め上げた。黄金の剣はアスタモンの短刀を半ばまで斬り進めたところで留まった。
「ツェーン! 今助ける……!」
俺の剣がアスタモンを切り裂くのが早いか、アスタモンが俺を絞め殺すのが早いか。あるいはこちらへ駆けてくるJが、服の下から伸びた帯刃でアスタモンを切り刻むのが先か。
時が止まったかの様な世界で、しかしその時はやってきた。
『――ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ!』
呪文が完成する。
「ガ――しま、った……! 熱中、し過ぎたか……」
アスタモンの腕が緩む。拘束を抜け出してその姿を認識した瞬間、見るも恐ろしいその無念の表情が目に焼き付いた。
アスタモンの姿が変貌する。熊の被り物は蒼白にして無表情な仮面へと。ワインレッドのシャツも、アッシュのコートすらも目に痛いほどの黄色へと。およそ全身に纏う全てが、黄色の襤褸になっていた。
時々この存在に荘厳な翼があるかのようにも見え、またある時は後光に覆われているかのようにも見える。
Jが息を呑む。
「キング・イン・イェロゥ……!」
背後で扉が閉まる音が聞こえた。
扉に描かれていたアスタロトのシジルが黄色に輝きながらひとりでに動き、三つ並んだクエスチョンマークを形作った。
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