1「虫壁さつきは選ばれし子どもだった」
砂漠の始まりがどんなものなのかを、さつきはいつでも考えていた。
さつきは高校2年生だった。自分以外の誰もが、砂漠の始まりがどんなものかを考えているのだと信じられるほどに子どもではない。けれど、砂漠の始まりについて考えることなんか忘れて、みんながしているように、部活動の帰りのポカリスエットのことや、音楽の時間だけ隣になる男の子が自分に向ける視線の意味ばかりを考えられるほどに大人でもなかった。
だって、気になるじゃない。周りの人が自分みたいに砂漠の始まりについて考えたりはしないのだと知る度に、彼女は脳みその真ん中の方で呟いた。砂漠の写真は地理の資料集を開けばいつだって見られるけど、その砂漠がどんな風に始まるのか、さつきは知らない。
歩いていたら少しずつ草木が減っていって、やがてはからからの砂地獄になるのかもしれない。あるいはもっと極端に、ここからが砂漠、とすっぱり分かれているのかもしれない。そこには2000年の時を生きる老人がいて、ここから先は希望を捨てなくちゃいけないよ、と言われるのかもしれない。
「分からないわ」
昔、さつきが今より大人ではなかったころ、うかつにも自らの疑問を口にした彼女に母親はそう言った。
「ストリートビューで見てみたら分かるんじゃない? それか、鳥取の砂丘でも見に行く? こんどの旅行、まだ行き先決まってないわよね」
そういうんじゃないし、行かないし。とさつきは答えた。株で儲けているという母親は羽振りが良く、毎年夏には義務のようにさつきを旅行に連れ出した。多忙で家にあまり居ない父親に義理を立てたわけではないけれど、そんな旅行で砂漠の始まりについて知ることができるとはとても思えなかった。
世界のうち、誰か一人は砂漠の始まりについて考えなくてはいけないのだと、さつきは信じていた。だってそうじゃないか、砂漠がどんな風に始まるのか分からないと、いつか自分の周りが砂漠になり始めたときに、誰も気付くことができない。誰かが気付いて、今のうちに水筒にありったけ水をためたり、有り金はたいてらくだを買ったりするように呼び掛けなくてはいけない。そして、周りに砂漠の始まりについて考えている人がいない以上、自分がその一人なのだと、彼女は信じていた。
別にそれは特別なコトじゃない。そんなことで自分を特別扱いして悦に入るほど、さつきは子どもではない。きっと周りの人だって、さつきが考えもつかない、けれど世界で誰か一人は考えなくてはいけないことについて考えているのだ。それは小さくなった消しゴムがいつのまにか消える理由かも知れないし、トーフとコーヤドーフの中間にあるものについてかもしれない。
さつきにとっては、それが砂漠の始まりだった。
砂漠の始まりについて考えるとき、さつきはどこまでも一人だった。
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砂漠の始まりについて何も知らない代わりに、砂漠そのものについては、さつきはちょっとしたエキスパートだった。
荒涼とした、何もない最果ての地。かすかな命の気配もない、すべてが終わって、何も始まらない場所。そんな場所を、彼女はよく知っていた。
「……今日もゼロかあ」
洗練されているとはとても言えない、野暮ったい画面を見ながら、さつきは息をついて、手元の白と黒の鍵盤を少し乱暴にたたいた。高校入試に合格した時に機嫌のいい母に付け込んで購入させたその小さなキーボードは、USB端子で父のおさがりの小さなノートパソコンに接続されていて、いくらド・ミ・ソをたたいても、とす、とす、というみじめな音がするだけだった。
「あ、ゼロっていうのは、視聴回数のことです。コメントなんて、私の曲にはそもそもついたためしがありましぇーん」
さつきは鳴らない鍵盤の代わりとばかりに、独り言を部屋の隅に向けて放り投げる。誰が反応することもなくて、それが別に悲しくもなかった。砂漠のトカゲと話そうとして返事がなかったって、悪いのはトカゲじゃなく話しかけたヤツに決まっているのだ。
どうして音楽を始めたのか、彼女自身にもはっきりとしたことは言えなかった。
もちろん、理由がないわけじゃない。家には父の集めたCDのコレクションがあったし、テレビは音楽系の有料チャンネルにも登録していて、17時のニュースの時間以外はヒット・チャートをひっきりなしに流していた。たまのドライブで車に乗れば、あれこれと音楽を聴きたい父と、ガンズ・アンド・ローゼズのベストアルバムさえ流しておけばそれで満足の母の間でいつも喧嘩が起こった。
楽器の手習いこそさせられたことはなかったけれど、音楽ソフトやギターを彼女が求めたときにも、両親はびっくりするほど何も言わずに援助してくれた。音楽はいつでも彼女のそばにあって、彼女自身も、そらんじられるメロディーの数ならクラスの誰にも負けない自信があった。
でも、よりによって、どうして”ここ”だったんだっけ。
横文字のコメントが流れる動画投稿サイト。彼女にとってその場所は、それ以上でもそれ以下でもなかった。小学校高学年の時に、早熟な女子がやたらめったらに話してくる下らない話の出どころというだけだ。
そこで作られる音楽の文化にも、大していい印象は抱いていなかった。時折目を見張るような楽曲がないではなかったけれど、大半はけばけばしいだけで、欠如した文脈を、意味のない難読漢字の多用や、青い髪の架空の少女が自殺する絵によって補っているような、子どもに向けたただのシャバい紋切り型の幻想だと彼女二は思えた。
まあ、どれだけ悪口を言っても仕方ないんだけどさ。さつきはためいきをついた。
どうして”ここ”に来てしまったのか、本当のところはよく分かっている。彼女は思う。
高校一年生の春の入学オリエンテーションで、彼女も何かに突き動かされるように吹奏楽部や軽音楽部を見学した。でも吹奏楽部の体育会系な縦社会にはとても馴染めなかったし、軽音楽部を見学した同世代の女の子の中に、彼女と話があう人は誰もいなかった。先輩の男子生徒たちは、ニルヴァーナについてファンならだれでも知っていることを早口で話して、さつき以外の後輩女子から尊敬を集めようと必死だった。唯一話ができそうだったベーシストの先輩は、お話にならないくらいのヘタクソだった。
そんなわけで、さつきは今日も部屋で一人、いつまでたっても上達しないギターのコードをつま弾きながら、フリーのデジタル・オーディオ・ワークステーション・ソフトとにらめっこをしていた。そうして新しい曲ができるたび動画サイトにアップし、無駄だと分かっていながらも、15分おきに視聴回数が増えていないかちらちらと確認したりするのだ。
砂漠でぽつんとひとり残されたら、きっとこんな感じなのだとさつきは思う。
そんな生活を、もう1年と半年の間さつきは続けている。
そんなに続いているなら、あの春に自分を突き動かしたのは、やはり音楽への内からほとばしる情熱だったのだ。断じて高校デビューして部活動なんかに青春捧げちゃおっかな見たいな下心ではなく。断じて、そうではなく。彼女は日々、自分にそう言い聞かせいる。
そんなわけで、今日も砂漠には彼女一人だった。
厳密に言えば、まったく反応がないわけでもない。コメントがついたためしはないが、6回とか7回とか、それくらいの視聴回数はついている。でもそれはどの動画だって同じことだし、アップロードから30分足らずでつくこの数字の先に人の顔があるとはどうしても覚えなかった。さすがにまったくのゼロはかわいそうだと感じた動画サイトからのお歳暮かなにかに違いない。砂漠に例えるならば、サボテンみたいなものだ。
まあ、そのサボテンが7本か8本かで笑えるほど一喜一憂しているのもまた事実なんだけど。さつきは苦笑して、椅子の背に思い切り体重を預けた。感染症が流行した数年前にリモートワーク用に父が買い、流行の終焉と共に用済みになった高級オフィスチェアを、彼女が勝手にせしめたものだ。座り心地は文句なしに最高だったが、それで気分が晴れてくれるわけではなかった。
「どわー、そんなにだめかしら、わたくしの曲。けっこういい音してると思うんだけど」
使っているプラグイン(編曲に使える音源みたいなやつだ。ロックマンじゃない)はプロ仕様とはいかないまでも結構な高級品だ。安物を使っていることを言い訳にしている自分に気づいたさつきが、今年の正月、もうあと何回もらえるかわからないお年玉をほぼ全額はたいて購入したのだ。
「……やっぱり絵師さんに頼む? いやしかし」
──他人に描いてもらった絵で自分の曲の解釈を固定させるとか愚かすぎですわよ。
さつきの中にいる人一倍高潔なさつきがささやく。
──いやいや、でもこのままじゃ一向に再生数伸びないぜ? ラグジュアリーな一枚絵はあくまで評価の土俵に立つための道具なんだから、割り切って利用しちまえばいいじゃねえか。
さつきのなかにいる人一倍ガラの悪いさつきがささやき返す。
「うるさい、そういうこと考える時点で不純だから!」
さつきは小学一年生のころから現役の学習机に向かって叫んだ。彼女の肩にいる善いさつきと悪いさつきが同時に彼女を見て、口を開く。
──だったら、やめたら?
──そもそも、純とか不純とか言えるくらいの信念もねーだろ、おまえ。
「おっしゃる通りですが!」
ちっちゃな自らの幻影を振り払い、さつきは背後にあるベッドに思い切り飛び込む。しかし飛び込む際の目測を誤ったのか、頭の先がベッドスタンドにぶつかり、ごすんと音を立てた。
「いたぁーい……」
頭頂部から鈍い痛みがじわりと広がり、さつきはなおさら惨めな気持ちになった。さつきは昔から頭を打つのが怖かった。小学3年生のころに逆上がりを失敗して頭から落ちたとき、内出血をしてそのまま死んでしまうと吹き込んできた男子がいたのだ。
「なんでこんなこと続けてるんだろ……」
さつきはぽつりとつぶやく。それは先ほどまでの自嘲とは違う、偽らざる本心だった。
楽しいから? きっとそうだ。音楽を作るのは楽しい。
自分の作品が好きだから? きっとそれも嘘じゃない。自分が好きな物をごちゃ混ぜにして吐き出したそれに、ごちゃ混ぜにする前にはなかった「何か」があると信じてかわいがるのは、ちょっと倒錯しているけど嘘じゃあない。
誰かに認められたいから? ……どうなんだろう。
別に憧れた人が居るとか、スターになりたいとか、考えたことはない。でも、音楽というのは誰かに聞かれる物だ、さつきが知っている音楽は、すべてがそういう物だった。
さつきが考えて、さつきが作って、そしてさつき以外の誰にも聞かれることのない音の連なりがあったとして、それは音楽と呼べるのだろうか、彼女にはどうしても分からなかった。
どうしても奏でたい音があるから? そんなものが別にないのが問題なのだった。
自分が誰に言い訳をしているのか分からなくなって、さつきはため息をつくと、頭をぐしゃぐしゃとかきむしった。早速こぶになり始めた場所を触ってしまい。鋭い痛みが走った。埃っぽい風が髪の隙間に入り込んで、きしきしと音を立てた。
ん?
さつきは髪に絡みつく奇妙な感覚に顔をあげた。いやに乾いていた上唇をなめると、口の中にまでその不快感が入ってきて、奥歯と奥歯の間で、じゃり、と音を立てた。
「砂……?」
彼女がそうつぶやくと同時に、ひゅう、と音を立てて、部屋に熱い風が吹き込む。窓は閉めていたはずなのに、そもそもここはアパートの3階で、砂埃なんて入らないのに。色々な思考が彼女の右耳と左耳を行ったり来たりする。
窓に飛びついた彼女の目に、一面の砂漠が飛び込んだ。
砂漠とは気が付くと立っているものなのだと、その時彼女は初めて知った。
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砂漠の恐ろしさに名前を付けるとしたら、さつきにとってそれは、裸の音の恐ろしさだった。
砂漠には何もない。風はただ風の音として耳に吹き付け、足音はただ、55キロの肉の塊に上から押しつけられた砂と砂が摩擦を起こした音でしかなかった。そこに意味なんてものはなく、ただ現象があるのみだった。
ざ、ざ、と歩きながら、彼女は眼前に広がる砂漠を見渡す。砂漠の空は青だった。カーテンから飛び出して歩きだしてから3時間が経つが、雲の一つも見える様子はなく。太陽はずっと真上にあった。きっと景色すら、そこに或る音に付随することを許されていないのだと彼女は思った。
不思議と砂漠は熱くなかった。不思議と喉も乾かなかった。そこはただ不毛なだけだった。そこはただ寂しいだけだった。そこはただ無意味なだけだった。
さつきは投げやりな勢いで地面に膝をつき、そのままどさりと後ろに倒れこんだ。疲れた夢ですらないものがどさりと後ろに倒れこむ音がした。
耳が近くする世界は、決して静かではなかった。遠くで小さなさそりのような何かが歩き回る音がした。どこかで風に吹き飛ばされた砂が砂をの上をすべる音がした。意味が焼ける音がした。とにかく風が大きかった。
意味のある音を響かせられるのは、私の喉だけなのだ、とさつきは思った。
砂漠の始まりについて考えられるのが自分だけであるように。この世界で、意味のある音を響かせられるのは、私だけだ。そんな万能感と恐怖心がないまぜになった感情が、背中からしみてくるのが感じられた。
「自分で歌うのは好きじゃないのに……」
さつきは震える唇の間から舌を出した。乾いて砂が引っ付いた唇に舌が引っ付く。はがしたら唇ごと持っていかれるのではと思うほどだったが、恐怖を振り払い、口を開く。
きっと私は、ずっとこうだったんだなあ。さつきは思う。ここが砂漠でないときだって、私は、私しか歌う人がいないから歌っていたのだ。
声を出してみる。普段は電子音声を使っているが、ギターを抱えて口ずさむところから曲を作っていることもあり、歌うのには苦労しなかった。彼女は自分の声はあまり好きではなかったし、音階を正確になぞる技術にも乏しかったが、今はそれもあまり気にならなかった。だってこれは、自分の使命なのだから。さつきは思った。
喉から声を絞り出す。言葉がつかえてぎこちない調子になってしまったが、それでも歌った。
空は相変わらず青かった。青い顔をしてさつきを見ていた。彼女にはそれが無性に心地よかった。
彼女は歌を紡いだままに立ち上がり、歩き出した。どこかにオアシスがあるかもしれないと、今は自然にそう思えた。砂漠にはもう音楽が響いていた。もうすべてに意味があった。雨を待つ価値も、オアシスを探す理由も、そこにはあった。
砂漠の真ん中で、さつきははた、と立ち止まった。歌を口ずさんだまま、彼女は屈んで、そこにころりと現れた異物を拾い上げる。
緑色の大きな木の実に見えたそれには、目と口と足があって、彼女と目が合うと、ぴい、とないた。
それに少し目を見開いたが、彼女はうろたえることなくにこりと笑う。
「……気に入ってくれた?」
その言葉に、木の実はまた小さくぴいとないた。
「そっか。ありがとう」
そう言ってから、ありきたりな返事しか返せないことが嫌になって。さつきはあー、とか、ええと、とか言った。
「この曲ね、今初めて歌ったんだ。初公開。タイトルはね──」
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その生き物と出会ってから、そこは少しずつ砂漠ではなくなっていった。
さつきが新しい歌を歌うと、その木の実のデジモンがいの一番に、ぴいぴいと反応を返してよこす。それから少しすると、雨が降るのだ。ざあざあ降りのこともあれば、小雨のこともあった。
そして、それを受けた大地からは、少しずつ草木が生え始め、だんだんと生き物の姿も見え始めた。彼らのほとんどはさつきの歌に肯定的だった。ときどき、とげとげしい鳴き声をあげる者もいたりはしたが、彼女はほとんど気にしなかった。意味を失ったあの砂漠よりは、ずっといいと思った。
やがてその場所は一つのオアシスになり、小さな林になった。それは彼女が新しい歌をうたうたびに大きくなっていき、小さな森といえるほどになった。
そのころには、さつきも、どんな音の連なりを森の仲間たちが好むかだんだんと理解していた。いつも通り曲を作ったあと、少しの工夫をするだけでぐっと森をおおきくすることができたから、彼女もそれをすることをためらわなかった。
彼女が最初に見つけた、木の実の生き物はいつの間にか姿を変えていた。花弁で顔を包んだ小人や、枯れ木のような姿、巨大な樹木。だんだんと大きくなっていきながら、生き物は森が広がっていくのを喜んでいるようだった。
気が付けば、森には多くの生き物があふれていた。それは命を持った花の人形だったり、巨大な話す鳥だったりしたが、さつきはそれらのことが好きだった。
彼女が歌うと、生き物も草木も耳を傾けた。あるものはそれに視覚的なイメージを与え、あるものはその音や言葉の連なりに込められた意味を輪になって推測しあった。新しい歌を歌うとなると、それはちょっとした事件で、みんなが彼女の周りに集まった。
気が付けば、小さな木の実の姿だったそれは、優美で巨大な牡鹿の姿になっていた。その角にはいくつもの楽器がついていた。
彼女が新しい曲を作ると、牡鹿はその楽器で、森全体に号令をかけるのだ。彼女の歌う音の連なりを、より大きな音で響かせることだってできた。
牡鹿を中心に多くの命が、さつきの歌を愛していた。中には彼女に憎々しげな視線を送る牙を持った獣もいたが、牡鹿を恐れてか、襲い掛かってくるようなことはなかった。
獣をひとにらみで追い払った後、牡鹿は愛しげにさつきにその身を摺り寄せた。獣の憎しみは強い関心の裏返しでしかないのだ、だから大丈夫だと伝えるようだった。
そんな時、ありがとう、とつぶやいて、さつきは艶めいた牡鹿の毛皮を撫でる。いつの間にか牡鹿の背中が、彼女の定位置になっていた。
時々、さつきは森に耳を澄ませた。そこには意味があった。すべての命が意味を求めていた。
見かねたさつきが、そんなことは必要ない、すべてにはもともと意味があるのだから、と曲を作れば、彼らは感動して涙を流した。
さつきは幸せだった。文句のつけようがないくらいに満たされていた。
ただ、あなたの歌に救われた、と言われるたびに、少しずるをしたような気分になった。もうすでに意味がある、尊いものを、別の何かで塗りつぶしてしまったような、そんな気分だった。
でも、お互い様だし。そんな気持ちになるたび、彼女はいつも胸の内で呟いた。彼らも彼女の歌に集まって、彼女が考えてもいない意味を代わりに塗りたくるのが好きだった。多くの曲に、彼女が意図もしていない死のイメージが塗られていたし、そのうちのいくつかは、彼女が実際に体験したことを歌っているのだと思われていた。
だから、お互い様。さつきはそう自分に言い聞かせていた。彼らは確かに救われているのだし、音を奏でるというのは、少なからず何かを演じることでもある。
そう理由をつけて、さつきは、実際よりも少し不幸な女の子を演じるようになった。ふしぎなことに、音楽を聴いただけで、誰もが彼女のことを不幸な17歳の少女だと信じていた。
「なんか、昔とは変わっちゃったな」
そういいながら、彼女は牡鹿の毛皮に身を寄せる。牡鹿は彼女を許すように、首を寄せ、穏やかに目をつむる。
彼女は安心して、同じように目をつむる。
「大丈夫。私は歌う意味を知ってるから」
そして、砂漠の始まりについて考える。
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2年ほどが経ったあるとき、小さな丸っこい鳥がさつきのもとにやってきた。キーウイを思わせるその飛べない鳥は、森の皆に、彼女の歌を深く知ってもらう手伝いがしたいのだといった。
彼女は少しうろたえて、それから牡鹿の方を見た。牡鹿は森がより大きくなることを素直に喜んでいて、彼女も承諾した。
キーウイは、歌のことではなく、さつき自身のことをよく聞いてきた。彼女は自分がどう思われているか考えながら、ぽつぽつと答えていく。
「両親は不仲なんだ。母さんは株で儲けてるからって、忙しい倒産をおいて旅行に行くの。私もつれていかれて、いつも息苦しかった」
結構楽しかった旅行のことや、家族3人でドライブをして、流す音楽で笑いながらもめたことは話さなかった。
「ネットの音楽シーンにも疎くて、活動のことは馬鹿にされた」
2人が機材を買ってくれたことは省いて話した。自分が動画サイトのコミュニティに抱いていた偏見を、家族に言われて傷ついたこととして話した。
「学校にも友達はいなかった。軽音部は一日でやめたし」
単に興味が持てなくて一日で去った高校の軽音楽部の部員を、流行ばかり追って自分を理解してくれなかったように話した。
「苦しいですよ。でも、私にはこれしかないから」
“それでも”と上を見る自分を演じるために。音楽を作ることは、苦しい、と語った。
「宝物は、最初にもらったコメントです。今でも励みになってます」
ちょっといい気になって、牡鹿のことを引き合いに出したりした。
キーウイは、満足したように、遠くのほうに歩いて行く。
さつきは不安になって、隣の牡鹿に目をやった。彼のことを話題に上げてしまったことに、後ろめたい気持ちになったのだ。
けれど、牡鹿は幸せそうに彼女のことを見返すだけだった。
当たり前だった。ただ、最初からいたというだけで、牡鹿も他の森の命と同じようにしか、彼女のことを知らないのだ。彼女は他の命たちと同じように、牡鹿にも嘘をついてきたのだから。
あの砂漠は、もう果てまで森になってしまっただろうか。不意にさつきは考えた。きっと、まだどこかに始まりがあるんじゃないか、と思った。
彼女は身を起こし、牡鹿の背から飛び降りる。牡鹿は首を持ち上げて、怪訝そうに彼女を見た。
「大丈夫、なんでもない。少し砂漠の始まりを見に行くの。気にならない? 砂漠がどうやって始まるのか」
牡鹿は首を振る。
「大丈夫。ちょっと確認するだけ、すぐ戻るから」
さつきの背後で、牡鹿が鳴き声を上げ、背後で美しい音が響く。それでも、彼女は振り返らなかった、ふっと、すべてに興味がなくなったような、そんな目をしていた。
「急いで、急いで洗わなくちゃ」
誰に言うでもなく、そうつぶやいて、彼女は歩き出す。
悲痛な音を響かせる牡鹿を置いて、さつきは森の中に消えた。消えた人が戻ってこられないほどに、彼女の作った森は深かった。
2「風間トウジは選ばれし子どもだった」
目を覚ました時は13時だった。トウジはうめき声をあげながら起き上がる。出勤まであと2時間。道中で払い忘れた2か月前の光熱費を振り込まなくてはいけないことを思えば、ぎりぎりの時間だった。
クローゼットに手を突っ込み、乱雑に積まれた衣類の中から、くしゃくしゃになったジーンズを足に突っ込んで、それからすぐに放り出した。
また太ったな。ジーンズも履けなくなった。彼は口の中で呟く。でも、知った顔には誰にも会わないから大丈夫だ、と思い直した。ただ惨めなだけだ。
布団でしばらくSNSに目を通して、ひとしきり気がめいったところで起き上がり、洗面台で髪を洗う。
2日前にも使ったタオルで髪をふきながら部屋に戻る。部屋の隅に立てかけられたエレキギターに目がいった。弦は錆びて、ピックアップの上には埃がたまっている。
何とかましな服に身を包み、明日には洗濯しないとな、と昨日と同じことを考えて、外に出る。コートのポケットに入れっぱなしだったワイヤレス・イヤホンをケースから取り出し、耳に突っ込んだ。
昔は馬鹿にしていた流行りのバンドの楽曲が、最近はやけにしみて、思わず泣けたりする。音楽にささげた青春は終わって、耳にイヤホンを突っ込んでいいないと怖くて街も歩けない、こだわりもプライドもない27歳がそこにいた。
スマートフォンにポップアップする通知。LINEを送ってきた相手の名前は、学生時代組んでいたバンドのベーシストだった。
『今地元帰って来てるんだけど、明後日の夜集まらない?』
盆の時期だった。大学卒業後にはみなバラバラに就職したから、年に数度の集まれる機会だ。バンドのグループも残っている。きっと他のメンバーとはすでに示し合わせていて、最後に3年連続で誘いを断っている自分に声をかけてくれたのだろうと思った。
スマホのカレンダーを開く。そんな必要は本当はなかった。予定なんてあるはずもなかった。
『ごめん、仕事ある』
トウジはそう送ってから、すこし逡巡して。
『また誘って』
と書き添えた。
相手は少しの嫌味もなく残念がってくれた。その後に飛んでくる、近況を知りたがる質問には虚実を織り交ぜながら答える。嘘でいなして、誤魔化して、それでなんだか”生活”というものをした気になって、トウジは少しだけ満足すると、家の外に出た。
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空は青かった。きっと自分が17だったら、この青さのためだけに死ねるのだろうと思う程に青かった。
トウジは27歳だった。不健康な細身のロックンローラーに、死ぬな、生きろと説教をされて泣ける歳じゃない。不健康な細身のロックンローラーにもなれず、ただ、誰に言われるまでもなく、ただ生きていた。
バス停までの道を汗をかきかき足早に歩く。前からは19か20のめかしこんだ女が歩いてくる。きっと見苦しいだろうと思ったが、そんなものにびくびくして格好つけるような歳はもうとっくに過ぎていた。
3年前の自分なら、だらしない腹を放り出して見知らぬ女性の前で醜態をさらすくらいなら死んでいただろうと彼は思った。死ななくとも、すくなくとも、月12万程度のコールセンターの派遣仕事に間に合おうという考えは捨てて、遅刻してへらへら謝っていたはずだ。
怖いと思うものの総量は変わっていなかった。ただ、自分の考える美しい生き方の代わりに、職場の50そこらの上司からの嫌味や、彼の遅刻癖を事務的に注意する派遣会社の担当社員のLINEが怖くなっただけだった。
バスに乗り込み、一番後ろの座席の端にどさりと腰を下ろし、何をするでもなくXを開く。なまじバンドやロックレーベルのアカウントをフォローしているからだろうか、タイムラインには誰かをバカにすることにまだ飽きていない音楽好きのつぶやきが無数に流れてきた。ため息をつき、一つ一つ読んで、気をめいらせる。中には彼がかつて在籍していた大学の音楽サークルのものもあって、そんな資格もないのに勝手にむず痒い気持ちになったりした。
今度はあるバンド名が流れてきて、彼は顔をしかめる。高校時代同じライブハウスで演奏していた同期が組んだバンドだ。当時から演奏がうまくて、トウジと同じような音楽を好きだと言っていた。彼のバンドは誰よりも人気があって、トウジの学校の、1個後輩の女の子と交際していた。
高校卒業後、彼は東京の音楽大学に行って、わけのわからない名前のバンドを組み、そこで出会った2個上の女子大生と浮気をした。そんなすべてを笑っているうちに、愚にもつかないラブソングでメジャーデビューしてしまった。
彼の作る18、19のガキのための”ハイセンス”なラブソングは、トウジには少しもいいとは思えなかったし、そんなもので彼が評価されてもなんとも思わなかった。それでも見ると惨めな気持ちになるから、バンドのアカウントも何もかもブロックしていたのだが、それもすりぬけてその呟きは目に入ってきてしまっていた。
それによれば、彼が結婚したらしい、相手は高校のころから付き合ってきた女性で、その頭の足りなそうなファンのアカウントは「浮気するような男ばっかりじゃないんだ、素敵な人もいる、いいなあ」と言っていた。
トウジは笑おうとした。なるべく乾いた声で、皮肉気に、でもどんな声も出せなかった。笑えないくらいに、トウジは彼のことが羨ましかった。結婚のことや人気のことではない。誰かが自分を相手にそんな風に夢を見てくれるなんて、どんなにいいだろうと思った。
吐き気が胃からせり上がってくる。必死に抑えたがかなわず、トウジはおえっと音をたててえずいた。何が出てくるわけではなかったが、バスにいる誰もが白い目を向けた。
口に手を当てて誤魔化しながら、もう片手でイヤホンの音量を上げる。Youtubeのショート動画で流れてくる見たこともない人気アニメのオープニング曲だ。そんなに大きい音で知らない話をされても困るはずなのに、なんとなく聞き心地がよくて、退屈しない程度に展開をして、何か意味がありそうだから、ここのギターが地味にいいよね、侮れない、とかなんとか言い訳をしながら聞いていた。
吐き気の第二波がきて、彼は口を押さえて背中を丸めた。ほほを涙がつたった。バスのきつすぎる冷房が腕に吹き付けた。
イヤホンも画面も、意味をまき散らしていた。誰もが、何も考えずに意味を乗りこなすことができているように見えた。自分にとっての意味が、誰かにとっても意味であることを疑っていないようだった。
怖かった、嫌だった。意味に疲れた、なんてことでさえ、きっと誰かが、トウジが放つよりもずっとずっと遠くに届く言葉で発信しているはずだった。
結局、意味を捨てることすらできない自分が、トウジは嫌だったのだ。
トウジにも夢を持った時期はあった。ローンで買ったフェンダー・ストラトキャスターを使って、自分の意味でオーディエンスを塗りつぶそうと思っていた時期があった。
小難しいことを言うバンドマンは嫌いだった。誰かを救おうなんてん大層なことを言っているやつも嫌いだった。彼はバンドマンらしいバンドマンは嫌いだった。バンドなのは子どものヒーローごっこと変わらない。自分たちはヒーローごっこがやめられない男の子でしかないと信じていた。
彼が好きな音楽はインターネットの掲示板の中にあった。オタク文化と結び付けられて、ダサいサブカルチャーに拠っていると笑われることもあったけれど。そこにある、どこかの誰かが発信する音楽が、彼は好きだった。
7年前、大学2年生の時、そこである無名の作曲者の音楽にコメントを付けたことがあった。運命的な出会いではない。大学の講義の合間に、だらだらとスマートフォンでサイトを巡回していたときに、再生回数3回のその動画を見つけたのだ。
衝撃を受けた、なんて言葉はトウジは嫌いだったけれど、まさにそれだった。そこにあった音の重ね方やメロディーは、彼が目指すものとは違いながらも、玄人はだしで、少なくとも再生回数一桁に甘んじているような作品には思えなかった。変に絵や何かを添えずに、明らかにパワーポイントか何かで作った歌詞カードを添えているだけなのもかえって好感触だった。
なんだか、その曲は地獄から声をあげているように思えた。
それを保存して終わりでもよかったけれど、トウジはその動画にコメントを残すことにした。コメントなんてこれまでつけたことなんてなかった。別に慈悲のつもりじゃない、ただ、この作者に、もっと曲を作ってほしいと思ったのだ。
スマホのメモ帳に、だらだらと長文をかいて、こんなコメントは引かれるだけだと思って消した。
曲の中に感じられるいろんな音楽からの影響について話したくて仕方なかったけれど、「〇〇みたいでいいね」といった感想は一度書いてからすべて消した。
好きだという一言だけでいいのかわからなくて、SNSで色んな人の意見を探って、結局答えが分からなかった。
他の曲を聴いたうえで考えたくて、当時上がっていた7、8曲すべてを繰り返し聞いて、すっかり口ずさめるようになった。
そんなことをしても、何を言えばいいのか全く分からなくて、最後には下書きも何もせずに、コメント欄に
「俺は好きだな、これ」
と書いてから、「は」という余計な意味を含みすぎる助詞を焼き捨てて。代わりにどうしてもなかったことにできなかった思いを書き付けた。
「俺、これ好き。地獄から声上げてるみたいで」
と打ち込んで送信した。動画の画面を右から左に流れていく自分のコメントが、妙に恥ずかしくて見れなくて、しばらく自分ではコメントを非表示にした。
その後は、その作者の作る曲にはすべて高評価とコメントをつけて回るようになった。彼女(やがて作者が女性だということが明らかになったのだ)が人気になっていっても、それは変わらなかった。自分が最初に見つけた、というひいき目も多分にあったが、それ以上に彼女の曲が好きだったのだ。
彼女の動画投稿は通知されるように設定し、時たま自身のライブのせいでコメントを打ち遅れたり、「いちこめ」とかいう愚にもつかないコメントを付けられると地団太を踏んで悔しがった。
彼女はほとんど表に顔を出さなかった。時たま動画に一言自らコメントを打ちこむだけで(そこで性別が分かったのだ。女子学生だと分かった瞬間に持ち上げる声をトウジは馬鹿にしていた)、それ以上はSNSのアカウントも持っていないかった。
カルト的に人気を博した彼女の音楽は、常に意味とともにあった。多くのティーンエイジャーが彼女の歌う歌詞の意味を死や不幸に結び付けて考察した。彼女が90年代のロックの名盤をオマージュして曲の最後に逆再生を仕込むと、それがまた考察の対象になった。
トウジが気に入らなかったのは、彼女がそんなムーブメントに乗っかるように意味深な歌詞の曲を増やしていったことだった、それでも曲自体は素晴らしいままだった。彼は自分の負の感情などおくびにも出さずコメントをしたし、掲示板で彼女を痛い子供向けの曲のように語られると食って掛かって不毛な言い争いを繰り広げたりした。
でも結局、彼女はさる音楽ネットメディアによる初のWEBインタビューを受けたのを最後に、それ以上曲を発表することはなかった。視聴者は注目に耐えられず自殺した説やインタビューがきっかけで両親(インタビューによれば、ネグレクト気味に育てられたらしい)に見つかったとする説を唱えて盛り上がった。そして互いを「考察厨」や「厄介ファン」と呼び合って、もう好きな音楽を、好きな意味をもらえない責任を擦り付け合った。
彼女はいまでも、ネットの一部で伝説のように語られている。
──宝物は、最初にもらったコメントです。今でも励みになってます。
彼女がWEBインタビューにした答えを、トウジはスクリーンショットに収めて、今も持ち歩いている。これをみだりに見せびらかさないのが、たった一つの彼のプライドになっている。なっていた、のに。
彼女の曲を、トウジはもう聞いていなかった。単純に、彼が日々利用しているサブスクリプション・サービスに彼女の曲がないからというだけの理由だった。
うずくまった彼のほほから、涙が流れ落ちる。もう、ずっと聞いていたあの曲の歌詞の続きも思い出せなくなった。ヒーローごっこが好きな子供のまま、変われていない。変わっていないはずなのに。ただただ、日々は惨めに、つまらなくなっていく。それが悲しかった。
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不意にバスが止まって、うずくまっていた彼は、頭をもろに前の座席にぶつけた。
驚いて顔をあげると、バスには誰もいなかった、運転手の後頭部さえ、そこには見えなかった。
いつの間にか終点にでもついていたかと慌てて外に目を向ける。
そこには見渡す限りのグリーンが広がっていた。
バスの窓にはツタがまとわりついていて、並び立つ木々道らしい道も見えない。そこは、深い森の真ん中のようだった。
トウジはあわてて座席を立ち、外に飛び出す。出入り口のドアは空いていたが、ふりかえってみれば、そこにあるのはあちこちがさびや色あせで変色して、スクラップにもなれない廃バスだった。
「なんだよ、これ……」
そうつぶやいた彼の思考を、どこからか聞こえるサルの甲高い鳴き声が遮った。
思わず身をかがめ、あたりに耳を澄ませたのが失敗だった。無数の足音や気配が、彼の脳に飛び込んでくる。それらはすべて、余分なくらいに意味を持っていて、それでもなお、何かの意味を求めてさまよっているように思えた。
あの時のバスと同じだ。彼は思わずしゃがみ込んで耳をふさぐ。四つ足の何かが彼に近寄って、とびかかろうと身をかがめるのが分かった。
「あ、だめだよ!」
と、その瞬間、穏やかな声がして、四つ足の気配は去っていった。
「はいはい、もう大丈夫だよ。起きて」
そんな言葉と共に背中をたたかれて、彼は恐る恐る顔をあげる。
そこには背の高い女性が立っていた。いかにも冒険家、といった活動的な服に身を包み、眼鏡をかけている。お世辞にも美しいというわけではなかったが、それでも、すれ違うと振り返りたくなるような雰囲気があった。
彼女はトウジに手を伸ばし、そしてにこりと笑った。
「大丈夫かな、ピノキオ君?」
3「まだ、選ばれる前の──」
私はトウジと名乗った長鼻の木偶人形(本人曰く肥満体系の27歳男性らしい。自分で言わんでいいこと言うあたり、性格は面倒くさそうだ)に、これまでのあらましを伝えた。
この森はもとは砂漠だったこと。
砂漠を森に変えたのは、私と一頭の牡鹿だったこと。
私は7年前に、この森を去ったこと。
「去ったんだ」
「うん。色々間違ったな、って思ったし、砂漠の始まりが気になったから」
「砂漠の始まり」
「まあこっちの話」
微妙な空気にしてごめん、と私は手を合わせた。
「あ、私はさつき。虫壁さつきっていうよ。きみは、ピノキオ君? 語呂的にピノッキ君がいいかな」
「トウジだ。いつの間にかここにいたんだけど」
「ふーん。そんなことってあるのかな」
「知らないよ。さつきさんはどうやってきたの?」
「いや、なんというか、昔行き来してた時みたいにやったら、できた。もうできないかなと思ってたけどね」
童心ってやつが残ってたのかな、意外意外、といいながら私は大きく伸びをする。実際、もうこの場所に来られるなんて私は思っていなかった。もう私に、その資格があるなんて思っていなかった。
「で? さつきさんは、何しに来たの?」
ピノキオ君、私は少しだけ表情を曇らせる。
「謝りに来たの、あの子に」
「さっきの牡鹿?」
彼女はこくりと頷いた。
「私はあの子に嘘をついて、そしてほったらかしにしてしまった。あの子のおかげで、私は人間になれたようなものだったのに。ただ、ふらっといなくなってしまった」
「その、砂漠の始まり?」
私は頷いた。あの時は疲れていて、「疲れた」と一言いうのさえ嫌だっただけだ。
あのあとは、音楽とつかず離れずくらいの立ち位置で、なんとなく幸せに生きてきた。普通に進学して、普通に就職して、生きてこられてしまった。
自分のあの数年間の活動が妙に神格化されているのは知っていたけど、結局それは本人不在のマジックだ。だから手を付けないほうがいいと思っていたし、その資格すらないと思っていた。
「でも、最近ふと、自分の動画のコメント欄を見たらね。ちょっと変だったから」
「変? 嫌なこと書かれてたとか、荒れてたとかじゃなくて?」
「うん。なんとなく、変だと思ったの。荒れてたは近いけど、普通じゃないというか」
「……」
「うーん、言葉にするのは難しいんだけど」
それは、私があの懐かしいコメント欄を見たときに感じた確かな感覚だ。あの頃と同じように、意味を求める命たちも、巡礼か何かの感覚でコメントを残しているものもいた。でも、その時の様子は少し以上だったのだ。
「なんていえばいいのかな。意味が氾濫してたの。分かる?」
こんな言い方、伝わるわけがないと思う。でもピノッキ君は少し考えこむように俯いて、それから顔をあげた。
「すごいわかる」
「え、意外。結構繊細?」
「意外でもなんでもなく繊細だよ」
私の隣で、ピノッキ君は不満げに鼻を鳴らした。
人の手の加わっていない密林で、それでも私には森の中央への道が分かった。
やがて、うっそうとした木々のアーチを抜けて。そして──。
「あなたは──」
そこにいたのは、あの日の雄大で美しい牡鹿ではなかった。
緑と紫の毒々しい蔦を伸ばす三つ首の竜。いや、それは神話で語られたヒュドラだろうか。
でも、それは紛れもなく、彼だった。私と共に生きていた。彼だった。
かつて砂漠を美しい森に変えていたあの歌声は、悍ましい咆哮に変わり、美しい森にゆっくりと毒を染み込ませている。
ただその毒は劇薬だった。毒を受けて、草花も虫たちも、みな一様に、鮮烈に生きていた。生きるということに意味があるという幻想、普通ではない生き方がどこかにあるという夢を、彼は草花たちに流し込んでいた。
「……私の代わりをしようとしてるんだ」
「え?」
ピノッキ君がこちらを向く。彼にも私の言っていることの意味は分かったようだった。
「意味を毒みたいに、毒を意味みたいに垂れ流して。それは、この場所のためなんだね。私が帰る場所を守るため? それとも。ここがあなたにとって居心地がいいから?」
私は茂みから抜けて、彼の前に躍り出た。三つ首の竜がこちらを向く。その目は私を私と認識しないようだった。そうだ。私はあの頃のわたしじゃない。
「ねえ、こんなのやめて! わたし、あなたに嘘ついてたの!」
それでも止めるしかない。止め方は、私にはこれしかわからない。
「私不幸なんかじゃない! 親はなんだかんだ仲いいし、制作機材だってなにからなにまで買ってくれてた! 嘘ついたんだよ。怖かったの!」
彼が首をもたげ、私に向けて毒の霧を吹き付ける。それを何とかよけて、なおのこと叫ぶ。
「私怖かった! ”幸せでいることが”こわかったの!」
私が私の曲を作る始まりだった場所を、あの砂漠を、あの地獄を失うのが怖かった。後悔を乗り越えて愛を歌えなくなるのが怖かった。孤独を失って情を歌えなくなるのが怖かった。歌を好きになって、歌えなくなるのが怖かった。
だから、愛を歌うために後悔を作り上げた。情を歌うために孤独を装った。歌い続けるために、歌が嫌いなふりをした。
そんなすべての不安を、朝日とともに洗い流して、次の日に迎えるような大人になるのが怖かった。
「だから、ごめん。全部嘘だった。だから、こんなことやめて」
私はそう叫んで、彼と向かい合った。こちらをにらむヒュドラの目に力が入り、口に毒霧が集まる。それがこちらに向いて、そして──。
「ふっ……ふざけるな!」
私の横から飛び出したピノッキ君が、その手のハンマーを、ヒュドラにたたきつけた。その怒りの声は、私に向けられていた。
「嘘なもんか! それが、あなたの一瞬でも信じた砂漠なら、嘘なもんか!」
私に怒りをぶつけながら、ピノッキ君はハンマーを手にヒュドラに立ち向かっていく。
「ちょ、ピノッキ君……?」
「こいつのことは、俺はよーく知ってる。そんな気がする」
私には理解のできない表情で、ピノッキ君はハンマーを振りかざす。
「こいつはあなたの嘘なんか、きっと知ってるよ。それでも好きなんだ。あなたの曲が、言葉が、音が」
ハンマーを打ち付けるたびに、清廉な音が森に響き、よどんだ空気を打ち払っていく。
「あなたの歌が好きで、だからこいつは怖くなったんだ。忘れていくことが。あんたと同じだ」
「それは」
「怖かったんじゃないの? 忘れていくことが。変わっていくことが」
ピノッキ君の言う通りなのかもしれなかった。昔の自分を捨てて、私は変わっていくことを受けいれた気がしていた。でもきっと、それは逃げただけだった。
「忘れることはこわいよ。でもきっと、それも生きるってことなんだ。10代の俺たちが送っていたのと同じ、生活ってやつなんだ」
だとしたら、私が、あの時、確かにともに生きていた彼に、彼らに言うべきことは──。
息を吸う。毒を含んだ空気に思い切りせき込む。近くまで伸びてくる触手をピノッキ君が防ぐ。
「私、恨まないよ。だから恨まないで」
せき込まないようにそう言って、もう一度大きく息を吸った。
「あなたに会えて、私、やっと人間になれたの」
だから。
「笑って生きて、大好きなみんな」
ピノッキ君が、ハンマーを振り上げ、渾身の一撃を叩き込んだ。
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いつまでも、笑って暮らして。
そんな声が、どこからか聞こえて、俺は目を覚ました。
そこはさっきまでの森の真ん中だった。でも、空気はずっと澄んでいる。意味は確かにそこにあって、でも決して過剰ではなかった。俺のそばにはさつきさんが立っていて──その前には美しい牡鹿が一頭、たたずんでいた。
「ただいま」
さつきさんがそう言って手を伸ばせば、牡鹿は目を閉じて、その手に鼻先をすり寄せた。思わず見とれてしまうくらいに、それは美しい景色だった。
「私、やっと分かったよ。ここだ。いつだって、私の立っているところが、砂漠の入り口なんだね。生きるっているのは、いつも、砂漠の入り口から一歩踏み出すことなんだ」
彼女はびっくりするほどに美しい言葉を使う。そのへんはきっと、俺が出会ったあの頃から変わっていないんだろう。
俺が呻きながら起き上がろうとすると、それに気づいたのか、さつきさんは慌ててこちらに駆け寄ってきた。
「あ、ピノッキ君!」
「トウジです」
「そんな顔してたんだね」
「ええ、まあ、はい」
俺とさつきさんと、そして俺のコメントから生まれたらしい美しい牡鹿は、思わず顔を見合わせた。
「あー、えっと、帰り道は」
「あ、送ってくよ」
「さつきさん、いいんですか。ゆっくりしてかなくて?」
「うん……もう大丈夫」
「そっすか」
彼女は牡鹿を撫でる。短いけど確か罠別れ。そこに言葉はいらないのだ。俺もそこに、あのコメントをした日に立ち止まっていれば、少しは彼女のことが分かっただろうか。でも、そんなことはあり得なかったのだと思う。
「ところでさ、流れでいろいろ言っちゃったけど、私の活動名って」
「いや、聞いたこともないです」
「あ、ほんと? なんかめちゃめちゃ熱量入れて語ってくれてなかった?」
「し、知らないです。俺、硬派な元バンドマンなので」
「お、音楽やってたんだ」
「忘れてください……ちなみに、活動再開とかは」
「あるかも、ないかも」
「そっすか」
気の抜けるような会話をしながら、俺とさつきさんは密林を歩いていく。
やがて電波がつながるようになって、ポケットのスマートフォンが揺れた。バンドのリズム隊二人が、しつこく誘いをかけてきたのだった。夜の飲み会が無理なら、昼にスタジオで練習するのはどうか、とのことだ。
「大丈夫?」
「ええ」
おう、いいね。と一言返し、俺はスマートフォンを閉じた。
そうするころにはもう廃バスの場所まで来ていた。俺の隣で、さつきさんはくるりと森の奥を振り返る。
「わすれたって、別にいいよ」
俺がその言葉を継ぐ。
「それくらいじゃ、消えたりしない」
どこからか、牡鹿の奏でる旋律が響く。
俺になる前の俺にしか奏でられなかったその音を胸に、俺たちは今日も、あの日の続きに立つ。
今日も、砂漠の入り口に立つ。
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変化要素:登場人物の音楽への向き合い方、かつての自分への向き合い方の変化がテーマになっています。
呼んでいただきありがとうございます。
「過疎ったコメントに感想生やしまくるケルヌモン」をテーマになんか書こうとしたら、なんかそれどころじゃない感じになりました。
もっと時間があれば、さつきとケルヌモンのエピソードを軸にケルヌモンと多くの音楽ファン/作曲家の交流を描く群像劇にしたかったんですが、なかなか難しかったです。
あ、あとトウジ君パートは3割くらい実話です。この作品もほんとはもっとサスペンス風味にしたかったんですが、メジャーデビューラブソング野郎の結婚とそのファンのつぶやきを見て、「俺はもっときれいな嘘がつけるし!!!」という謎の張り合いをしました。僕も今年は、しつこく誘ってくるバンドメンバーにYesを返せたらいいなと思います。
まあいろいろありますが、この作品で伝えたかったのは、この掲示板で僕の作品に感想をくれたすべての人へのアイラヴユーです。忘れたって別にいいよ。愛してるから。
最後に。この作品は時速36kmの「死ななきゃ日々は続く」に多分に影響を受けて書きました。良ければ読んでね。
あれ? 時速36kmじゃなかったか……10km上がったのか。夏P(ナッピー)です。
大晦日に書き始めてその日の内に投稿された勇姿、お見事でした。
トウジ君に話が移ってからあまりに真に迫った心を抉る描写の数々に戦慄しましたが、実際に3割実話ということでいや3割ってことはそんな実話じゃないなと思いつつそれでもバスで嘔吐しかけるところがキツい。世間や周囲とのズレってのは如何ともし難いものですが、自分が何もしていない、できていない間に世間様はしっかり物事を進めているんだという実感が何よりキツいのはわかる。そして自分がコケにしていたものが評価、称賛されていることが何よりの苛立ちになるのも実に理解できる。待てよこれ何か別の作品の感想でも書いたな?
音楽を司る究極ということでケルヌモン。たった一つの、されど悩み迷って考え抜いた果てに送ったコメントから生まれた森そのもの(?)という解釈でいいのでしょうか。インターネットならではの出自や育ちを誇大に盛っていくことでの変化も描かれているのが印象的。なんでピノッキモンでそして忘れ去られたはずの“彼”がヒュドラモンなんだと思いましたが、ペンデュラムVer.4でヒュドラモン+ピノッキモン→ケルヌモンだから、ピノッキモンが抜けたケルヌモンはヒュドラモンとして残ったということか。そりゃコイツのことはよーく知っているとなりますわな、己の内から漏れ出たものなのだから。
ラストシーン、置いてきた過去との繋がりは苦しく辛くさせる時もあるけれど、一方でトウジ君のここまでの人生は決して空虚なものではなかったのだと感じさせて好きです。持つべきものはやはり友。
基本的にデジモンがデジモンである明言はされませんでしたが、さつきさんが一度だけ“木の実のデジモン”と称しているのは、副題を見るに過去にどこかでデジモンと関わっていたということ……?
それではこの辺りで感想とさせて頂きます。