7 エネアスの章
紅い月が、星々に縁取られ、空に浮かんでいた。
青白い月が紅に染まるのは、ウィッチェルニーにおける日常にして、異常事態。
真紅に染まりゆく月は、次元の境界が曖昧になっている証。
次元の裂け目が生まれ、デジタルワールドからの〝侵略者〟たちがやって来るのだ。
十日に一度、月は新月から半月を過ぎる際に少しずつ紅に染まり始め、満月に至ると、真紅に染まり切る。次元の境界のゆらぎに応じて、月の色が変わっているのだ。
あと少しで満月になろうという紅い月を見上げ、ぼくとミナ、そして各種族の族長たちはブロッケン山の頂上に集っていた。
山頂には廃墟と、英雄の石像。前回の紅い月と変わらぬ風景が広がっている。
「なんか、さみしい場所だね……」
初めてブロッケン山を訪うミナは、ぼくの服の袖を握りながら、不安そうな表情で辺りを見回していた。これから戦いが始まるのだ。無理もあるまい。
到着したばかりのぼくらの姿を認めてか、デビモンがこちらへと近づいて来る。
「エネアス、それにミナさん……よくおいでになりました」
「わざわざ挨拶とは、今日はいつも以上に馬鹿丁寧じゃないか、デビモン」
「当然です。族長以外の者がここに集うなど、果たしていつぶりのことか……」
長命のデビモンは、ぼくが生まれるより前から、紅い月のもと、侵略者たちと戦い続けている。そんな彼の言う通り、ぼくも族長以外をこの場所で見たことがない。血気盛んな成長期デジモンが紛れ込んだとて、里に追い返されるだけだ。
「期待していますよ、お二方。戦力が増えたことで、戦況がどう変わるか……」
「意外な言葉だな。いつもは、ぼくにもっと役立てと説教を垂れるのに」
「そんなあなたがついに取った弟子。いかな変化をもたらすか、気になるでしょう?」
デビモンが屈み込んで、ミナと視線を合わせようとする。
知識の館で出会ったときのように、竦みそうになったミナだったが、しかし、深呼吸のあとにまっすぐデビモンの瞳を見据え返していた。
彼女も、この旅の中で成長したのだ。ぼくの袖を握ったままなのは、いじらしいが。
「見てて、デビモンさん。わたしと師匠の力があれば、古代魔法だって使えるんだから」
「それはそれは。……では、私の力に、なってくださいますね?」
「…………うん」
「頼もしい答えだ。私は持ち場に戻るとしましょう」
デビモンの最後の問いかけへの答えには、数秒ほどの逡巡があった。やはりまだまっすぐ目を合わせて話すのは、恐ろしいのだろうか。
そのわりに、ぼくの袖を握る力は、少し緩まっているようだった。
デビモンが所定の位置、西側へと戻ってゆく。次元の裂け目は必ず山頂の中心あたりに出現するため、族長たちはそれぞれの集落がある四方に分かれて待機する決まりだ。
守りを分散させることで、侵入者を一体も通さない狙い。もっとも、いちど乱戦になれば位置取りを気にする暇もないため、形式的なものに近い。
ペイルドラモンの方をちらりと見ると、鷹揚に両腕を組んで首肯を返してきた。
『言葉は不要。貴様の力、示してみるがいい』
……などというセリフを心の中で言っているのだろうな、と思った。なんだかんだで、あいつとも付き合いが長い。先日の一戦もあり、想像がつくようになった。
ウィッチモンはといえば、箒にまたがり、上空であくびをしていた。気まぐれな彼女らしく、戦いの前もマイペースだが、時折ちらりとこちらを見ている。彼女なりに、ミナのことを気にかけてくれているのだろう。
そして、上空へ向けた視界の片隅で、紅い月がついに満ちゆくのが見えた。
……いよいよ、侵略者たちとの戦いが始まる。ミナを元の世界に帰すための、戦いが。
山頂へ来る前、念のために人間界への扉を開く呪文をミナに試させた。結果はやはり、効果なし。満月時、ブロッケン山の頂上でなければ、人間界への扉は開けないのだろう。
戦いの前に扉を開き、先にミナを帰してしまうことも考えた。だが人間界への扉を開くことで他の族長を混乱させては、その後の戦いに支障が生じかねない。何よりも、ミナがせめて最後に古代魔法をみんなに披露する、と言って聞かなかった。
だから、まずは侵略者たちを片づけ、それから彼女を元の世界へ帰す必要がある。
……ミナを守り抜いての戦い。ぼくはもはや、手段を選ぶつもりはなかった。そして、それはまた、彼女の気持ちを裏切らなければならないことを意味していた。
ごめんよ、ミナ。きみはぼくのことを、嫌いになるかもしれない。
だとしても、ぼくは決めたのだ。きみさえ無事でいてくれれば、それでいいと。
彼女がそれを望んでいなかったとしても……たった一人、ぼくの大切な弟子を、必ず、あるべき世界に送り届けるのだと。
英雄像付近の空間が歪み、捩れ始める。歪みはやがて一文字に引き結ばれ、瞬く間に、ひび割れのように広がる。
ガラス砕け散るような音と共に、空間が引き裂かれ、次元の裂け目が生じた。裂け目の向こう側に、かすかに、デジタルワールドの風景が見える。それから、ウィッチェルニーの魔力に引かれて集ってきた、デジモンたちの姿も。
「師匠……!」
ミナが真っ直ぐこちらを見て、ウィッチデバイスを手に握る。
ぼくは、彼女に微笑みを返し……一歩前へ出ると、ミナを手で制した。
「師匠?」
背後から、ミナの不思議そうな声が届く。
……今日、彼女が古代魔法を使うことは、ない。
ぼくは知っているからだ。かつてウィッチたちが、古代魔法でデジモンに立ち向かい、歯が立たなかったことを。
そう、ぼくは知っていた。知っていながら、ウィッチたちの古代魔法があれば、デジモンたちを倒すことなく元の世界に追い返せるなどと、嘯いていたのだ。思い返せば、その時点でぼくは、古代魔法の実現を信じられていなかったのだろう。ただ叶わない夢を……ウィッチたちの影を追い求めることで、自分の真実から目を逸らしていたのだ。
だから今日、ぼくは真実と向き合う。ミナを守るために、侵略者と戦う。
ウィッチではなく——デジモンとして。
まず、赤い昆虫のようなデジモンが、一番槍とばかりに裂け目から飛び出してきた。記憶が正しければ、クワガーモンというデジモンだったはずだ。
「ヒハァッ、ここがウィッチェルニーか! 暴れてやるぜ!」
……魔法の力を持つウィッチェルニーのデジモンを打ち倒せば、より強く進化できる。デジタルワールドのデジモンたちは、そう進じてこの世界へ侵攻してくる。
愚かと一蹴もできようが、実のところ、かれらの認識はあながち間違ってもいない。
ウィッチェルニーのデジモンは、強いのだ。魔力を宿して進化する影響なのだろうか。事実、族長たちは成熟期でありながら、これまで数多の侵略者たち……成熟期デジモンのみならず、時には完全体をすら撃退してきた。
そして……ぼくもまた、例外ではなかった。
一歩、二歩。ぼくは悠然と、前へ歩を進める。
「エネアス、何してんの!」
一人で前へ出るぼくの耳に、ウィッチモンの焦ったような声が届く。構うこともなく、ぼくはクワガーモンへと杖を突きつけた。
「なんだあ? ヒョロっちいの、てめえが相手か!」
ギチギチと大きな鋏型の顎を鳴らして、クワガーモンが威嚇してきた。その後ろからも、我先にと新たなデジモンたちが裂け目より這い出てくる。
「大地を焼く天の炎よ、来たれ——」
ぼくの詠唱と共に、手を伸ばせば届きそうな山頂の空に、雷雲が現れる。
そして。
「——サンダークラウド」
ぼくが必殺技の名前を口にした、その瞬間。
天より無数の稲妻が降り注ぎ、大地に降り立った侵略者たちを、刹那に焼き尽くした。
悲鳴ひとつすら上がらず、クワガーモンと、数体の侵略者が蒸発する。あとに立ち込める煙とデータの粒子だけが、そこにデジモンが存在していたことを証明している。
「……は?」
呆然と呟いたのは、侵略者か、族長たちか。
そう。これが、ぼくが戦いを避けてきた理由の一つ。
——ぼくは、強いのだ。並のデジモンなら、一方的に葬れるほどに。
これほどの戦闘能力、およそウィッチに必要なものではない。だから、ずっとこの強さを封じて、隠して、見ないふりをしてきた。
それはおそらく、本能的な忌避でもあった。おぞましい前世(・・)の記憶に、ぼくは蓋をしたかったのだ。戦場に身を置いたら、記憶が蘇ると、確信していた。
「あ、あの野郎、やべえぞ! ここは一旦……」
「サンダークラウド……!」
裂け目を通って踏み入ってきた次の侵略者が何かを口にするより前に、続け様の一撃を放つ。名前も知らない凶暴そうなデジモンが塵になる。
ぞくりと、背筋を伝う感覚があった。
デジモンとしての本懐。力で敵を屠る、甘美な喜び。戦闘本能の昂り。
「き、聞いてねえぞ、こんなやべえのがいるなんて!」
「あれがウィッチェルニーのデジモンかよ……面白え!」
裂け目の向こうは大混乱となっているようだ。逃げ去るデジモンもいれば、ぼくの力を目にして、かえって興奮して乗り込んでくるデジモンもいる。
上等だ。一歩でもこちらへ踏み入ってきたなら、もう、〝侵略者〟だ。
「サンダークラウド!」
迸る雷撃が、次々と侵略者を貫いてゆく。
一歩、また一歩前へ、ぼくは歩み出る。全身が粟立つような感覚。飛び散るデータ粒子の一つ一つが、ぼくの意識を鮮烈なまでに覚醒させてゆく。
「名も知らぬ猛者よ……我はムシャモン! 尋常に手合わせ願う!」
侵入も絶えたかと思われたとき、裂け目から猛然と一体のデジモンが飛び出してくる。ムシャモンと名乗ったデジモンは、鎧兜に身を包み、刀を構えて突貫してくる。
速い。明らかに、他の侵略者とは練度が違う。
「切り捨て御免!」
すれ違い様、目にも留まらぬ斬撃がぼくに見舞われる。間一髪、ぼくはその斬撃を杖の切っ先で受け流し、そのまま目も向けずに後背へと杖を突き出す。
杖が、ムシャモンの鎧の隙間、その肉体を貫いた手応えを覚えた。
「サンダークラウドッ!」
ムシャモンめがけての、強烈な落雷。直撃、なれどムシャモンは消し炭にならない。
「見事、なり……」
それでも、もはや立っているだけの体力も残されていないらしい。杖を引き抜かれて、膝をつき、倒れ込む前に、ムシャモンがこちらへと目を向けてくる。
「……猛者よ。名を名乗られよ」
「ぼくは、エネ……」
一度名乗りかけてから、言葉を呑み込む。
違う。彼が求めているのは、デジモンとしての、ぼくの名であるはずだ。
「……ぼくは、ウィザーモンだ」
「見事なり、ウィザーモン。これほどの猛者に破れるなら、満足よ……」
「きみも……よく、戦った」
見下げ果てた侵略者にかける言葉など、以前のぼくは持ち合わせていなかった。
だがデジモンという種の誇りを知った今、ぼくはかれらを否定できない。ぼく自身も、その抗えぬ戦闘本能に浸ってしまったから……かれらが侵略してくることとて、デジモンとしては誤っていないのだと、理解できてしまう。
ムシャモンは最期にニヤリと笑って消え去り……彼のデータ粒子がデジタマの形を成してゆく。あのムシャモンは、デジタマを残すに値する強さの持ち主だったのだろう。
次元の裂け目の向こうから、デジモンの姿が消えた。侵略者たちもデジモン。その数は当然、無限ではない。ぼくは、今回の侵略者たちを、単身で全滅させたことになる。
裂け目が生じる時間はそう長くない。しばし待てば、閉じてゆくだろう。
安全は確保された。あとは、ミナを元の世界に帰すだけだ。杖を握り直し、振り返る。
「終わったよ、ミナ」
つとめて穏やかな微笑みを浮かべ、ぼくはミナのもとへと歩いてゆく。
彼女のすぐそばにまで、ぼくが近づき、手を伸ばした、そのとき……。
ミナが、一歩、後ずさった。
「あ……」
声にならぬ声が、ミナの口から発される。
風が吹き、帽子の鍔に隠れた彼女の表情が、見えた。
引きつり、大きく見開いた目。流れる冷や汗に、薄開きに震える唇。青ざめた顔。
ミナは、怯えていた。鬼神のごとき戦いぶりで敵を屠った……他ならぬ、このぼくに。
「……はは」
ぼくの口から、渇いた声が漏れる。
彼女の顔を見る前から、その表情は、想像できていたのだ。そして、いま目の前で彼女の怯えた表情を目にした瞬間、ぼくの脳裏に電撃のように次々と幾つもの光景が浮かぶ。
強烈なフラッシュバック。槍を手に持ち、敵を屠るぼくの視点。ウィッチたちと並び過ごしながらも、魔法を使えず、本能のまま弱肉強食に身をやつした愚者の記憶。
そして、紅い月にいつも見た、あの悪夢の、最後の光景。敵を屠り尽くし、颯爽と凱旋した英雄は……ウィッチたちの顔を見た瞬間、絶望して、膝をついた。
ウィッチたちは、怯えていたのだ。英雄の、あまりに強大な、その力に。
英雄は、守るべき大切なウィッチたちに怯えられたことで、絶望した。自分がこのウィッチェルニーにとって、畏怖の対象となる、異物だったのだと。
(ああ、そうか。やはり、そうだったんだ)
英雄へ感じた、あの強烈な嫌悪の正体を、いまなら理解できる。
デジモンが、殺戮ばかりの野蛮な生き物だったのではない。
ただ自分こそが、殺戮に酔いしれる、野蛮な存在だったのだ。
(ぼくが——)
わなわなと震えるぼくの手が、杖を取り落とす。
ゆっくりと振り返った先には……あの英雄の像がある。
ぼくがこの世で、もっとも嫌ってはばからない、最低最悪の存在(じぶん)の、像が。
(——ぼくが、〝英雄〟だったんだ)
失っていたすべての記憶が、ぼくの頭に蘇ってゆく。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ウィッチたちは、侵略者たるデジモンを撃退すべく、ウィッチェルニー中の魔力を結集して、自分たちだけの英雄を召喚した。
それは、デジモンと同じ力に、ウィッチと同じ心を持つ究極の存在。世界を守るために喚び出した英雄は、同時に、ウィッチたちの良き友となった。
ウィッチたちは、侵略者を殺すことは望んでいなかった。ただ英雄の力によって、ウィッチェルニーを守り、侵略者を追い返せば十分だった。
不幸なのは、英雄が、デジモンと同じ戦闘本能まで持ち合わせていたこと。
守るための戦いだったはずが、戦を重ねるうち、その本能が呼び覚まされた。
魔槍を構え、敵を貫く。砕く。払う。そのたび、歓喜に打ち震える。
最初にデジモンを屠ったのは、偶然だった。力加減を誤ったのだ。
しかし、一度敵を屠る甘美を知れば、もう、後戻りできなかった。魔槍より放つ必殺技〝ファイナル・クレスト〟を前に、散らぬ敵はいなかった。
荒ぶる戦いぶりがウィッチたちを怯えさせた事実が、さらに英雄(ぼく)の逃げ道を絶った。
絶望から目を逸らすべく、無我夢中で、また侵略者との戦いに身を投じてゆく。
……ウィッチは、誰かを直接傷つけたり、殺めたりはしない。
だが、ウィッチたちが喚び出した英雄が、多くのデジモンたちの命を奪ってしまった。
結果……ウィッチという存在の定義が、根幹から書き換えられた。
デジモンを倒す力を持つのは、デジモンだけ。ゆえに、「ウィッチとはデジモンである」と、この世界に定義されてしまったのだ。
そうして、ウィッチだったものたちは、デジモンへと姿を変えた。
守るべき存在を失った英雄(ぼく)は、更なる絶望と後悔に苛まれ、ついには己の存在を否定せずにはいられなくなった。
こんなものが、こんなやつが、存在していいはずがない。
英雄は……数多の敵を屠った魔槍を、自らの体に突き立て、その命を絶った。
……だが不幸なるかな、英雄(ぼく)は、これ以上ないほどの力を持ったデジモンだった。
力あるデジモンが死せば、デジタマが残る。そうして誕生したデジタマは、前世の記憶を引き継ぐ。あまりに強大な英雄の力は、デジタマに自身の記憶を、これ以上ないほどに明瞭に刻んでしまった。何もかもを覚えていた。記憶は、塗炭の苦しみだった。
だから英雄(ぼく)は、忘却に救いを求め、永きに渡って己が誕生を拒み続けた。数十年、数百年……ウィッチたちの時代が古代となるまで、英雄はデジタマのままで眠り続けた。
そうして記憶が擦り切れ、自分が何者なのかもわからなくなった頃。ただ自己への強烈な嫌悪と、失われたウィッチへの追懐だけを残す、惨めなデジモンが生まれた。
それが、このぼく——エネアスだった。
まったく、お笑い種だ。
結局、ぼくは今のウィッチェルニーが憎かったのではない。
世界を……愛する存在をことごとく歪めた自分こそが、憎くてしょうがなかったのだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
閉じていた目を、ゆっくりと開く。
静寂を取り戻した山頂で、ぼくは、たった一人の弟子と向き合っている。
ミナが呪文を唱えなければ、彼女が元の世界に帰ることはできない。ぼくはどれほど怯えられ、嫌われたとて、いまさら構わない。だがせめて、彼女を説得しなければ。
幸か不幸か、ぼくの戦いぶりにより、この世界の危険性は証明されただろう。ミナは道理のわかる子だ。きっと、わかってくれる。
そう身勝手なことを思ったところで、不意に、違和感を覚えた。
……あまりにも、静かすぎないか?
役立たずのぼくが、獅子奮迅の活躍を見せた。それなりに大ごとのはずだ。特に戦い好きのペイルドラモンなど、騒いでもおかしくない。
「——デスクロウ」
次の思考へと至るより前に、デビモンの黒い爪が、ぼくの腹を貫いていた。
認識と痛みが、一拍遅れてやってくる。
「なッ……!?」
爪が引き抜かれると同時に、痛みとダメージに耐え切れず、膝から崩れ落ちる。腹部から噴き出すデータの粒子が、受けた傷の甚大さを物語る。
「ミナ、逃げ……!」
顔を上げ、愕然とした。膝をついた姿勢からだと、帽子の下のミナの瞳がよく見える。彼女の青い瞳が、いつの間にか真っ赤に染まっていた。まるで、デビモンの瞳のように。
「やれやれ……あなたがここまで強かったとは。今日まで待って、正解でしたよ」
いつかのように、デビモンが後ろからぬるりと顔を出し、僕に笑いかけてくる。浮かぶ笑みは、邪悪極まりない。
「きさま、ミナに何をした! サンダー……」
「バルルーナゲイル」
ぼくが怒りに任せて必殺技を放つより先に、風の刃がぼくを切り刻み、吹き飛ばす。
「がッ……!」
ぼくの体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。
その技には、覚えがあった。忘れるはずもない。バルルーナ族の名を冠した必殺技を使うデジモンなど、ひとりしかいないのだ。
「ウィッチモン、きみまで……!」
身を起こして彼女の方を見るが、様子がおかしい。原因はすぐにわかった。ウィッチモンもまた、瞳がデビモンのように赤く染まり、虚ろに光を失っていた。
「やめておきなさい。私に害意を示せば、彼らが黙っていませんよ?」
ミナが、ウィッチモンが……そしてペイルドラモンまでもが、かしずくようにデビモンの隣へ移動し、並び立ってゆく。ちょうど、次元の裂け目と英雄像を背にする立ち位置。みな一様に、瞳が赤く、虚ろに染まっていた。
「何が、どうなっている……!」
「おや、以前申し上げたではありませんか。私は、精神支配の魔法が使えると」
デビモンが紳士的な所作で、恭しく礼をしてみせる。おぞましい所業に反して、態度も言動も、不気味なまでにいつものデビモンと地続きだった。
「みな、我が瞳に魅入られているのです。もっとも、魔法というのは冗談。ウィッチェルニーへ来る前より持ち合わせた、私のデジモンとしての力です」
デビモンがくつくつと喉を鳴らす。事態の理解に、時間がかかる。
「ミナだけじゃなく、族長たちまで洗脳したのか……!」
「できれば、あなたもそうしたかったのですが……この精神支配も万能ではありません。私より強い相手に通用しないという、欠点がありましてね」
デビモンは、精神支配された者たちを「瞳に魅入られている」と表現した。
思考が、回想が、電撃的に繋がってゆく。
やつは戦いの前、ミナと目を合わせたあのとき、ミナの精神を支配していたのだ。そしてぼくたちの到着前に、族長たちの精神も。おそらく時間差で発動できる術なのだろう。
さらに、知識の館での出来事だ。
やつは「ミナをどう育て上げたのか」とぼくに問うたとき、こちらの瞳を覗き込んできていた。やつの瞳に見つめられると、頭が霞むような感覚がしたのを覚えている。恐らくはあのときも、やつは術を発動していたのだ。ミナの正体に、探りを入れるために。
「隙を晒してくれて感謝します、エネアス。心を支配できぬなら、力で屈させればよい」
「何が狙いだ、デビモン……!」
「良い質問ですね。私が欲しいのは、デジモンを進化させる、人間の力ですよ」
「進化だって? ……いや、待て。ミナが人間だと、知っていたのか?」
ぼくの質問が愉快で仕方ないといった風に、デビモンが牙を見せて笑う。
「まずご覧いただいた方が、理解も早まるでしょう。さあ、ミナさん……これを」
デビモンが長い手を差し出し、ミナに長方形の物体を手渡す。ぼくはそれに見覚えがあった。知識の館の展示室で目にした、デジヴァイスとかいう機械だ。
ミナがそれを手にした瞬間、展示室で見たのとは比べ物にならない輝きが、デジヴァイスから放たれ始めた。眩さにも構わず、ミナが側面の突起部を自身の掌に押し当てる。
「DNA、インストール——超速進化(アクセルエボリューション)」
感情のこもらぬ声でミナが淡々と呟いた途端、すべての輝きがデビモンへと吸い寄せられ、その漆黒の体を覆い、やがて、どろりと赤黒い泥のような質感へと変じてゆく。全ての赤黒い泥が流れ落ちたとき、そこには全く異なる姿が立っていた。
血のように赤い骸骨の体。悪魔を思わせる黒い頭部と背の翼が、デビモンであった頃の形跡をそこに残している。携えるのは、爪のような先端部を持つ禍々しい巨大な杖。
「デビモン、進化——スカルサタモン」
進化したデビモン……否、スカルサタモンが、自らの名を高らかに宣言してみせた。
「これが、デジヴァイスの……そして人間の力です。ご理解いただけましたか?」
「……あの展示室で、ミナが人間と気づいたのか」
「100点満点です、エネアス」
展示室でミナがデジヴァイスに手を伸ばしたとき、光を放った理由がわかった。あれはやはり、ウィッチデバイスと似た性質を持つ道具だったのだ。ウィッチデバイスが人間とウィッチの心を繋げて、強力な変身をもたらすように……原理はわからないが、デジヴァイスもまた、人間を介してデジモンを急速に進化させる力を持つらしい。
そして、デジヴァイスがミナに反応したことで、デビモンは彼女の正体を察したのだ。
「ああ、体の底から力が湧き上がってくる。いつぶりでしょう、この感覚は!」
「きさま、まさか自分が進化するためだけに……!」
「進化し、強くなることはデジモンの本懐でしょう? このウィッチェルニーでは、それが失われつつあった……。それに、〝だけ〟ではありません」
スカルサタモンが威風堂々と大杖を掲げ、カタカタと頭部を鳴らして笑う。
「私はこの力でデジタルワールドへ舞い戻り、支配者の座を取り戻すのです!」
「そんなことのために、ミナを利用するつもりか!」
「そんなこと、とは心外ですね。力を追い求めてこそ、デジモンではありませんか」
皮肉げに目元を歪めて、スカルサタモンが大杖を揺らしてみせる。
「人間が恐ろしい存在でないことも、知っていたのか……!」
「ええ。デジヴァイスを持った人間が、デジモンに多大な力をもたらす……デジタルワールドでは有名な伝承です。人間を畏怖の対象とするウィッチェルニーの伝承は、私にとって実に好都合でした。他のデジモンを遠ざけ、私だけがその力を独占できる……!」
「ばかな。人間がウィッチェルニーに現れる保証が、どこにあった!」
「私はただ、信じていたのですよ、エネアス。伝承といい、次元が歪みやすい性質といい、ウィッチェルニーには、人間の世界と繋がっていた証が数多にあった。だから、ずうっと、信じて、待ち続けたのです。人間が現れ、私に力をもたらす日を……!」
狂っている。
やつは、不確実な可能性のためだけに、ウィッチェルニーに潜り込み、人間の到来を待ち続けていたのだ。
……だが、すぐに思い至った。やつは、ぼくと同じなのだ。
過去の栄光にすがり、真実かもわからぬ伝承に、記憶に、願いを託し続ける。その点において、スカルサタモンとぼくに、大きな差はない。ただ、狂い方が違っただけだ。
「……ふう、いけませんね。長く秘めてきた想い、つい口に出さずにはいられなかった」
夢を語り終えた純粋な子供のように、スカルサタモンがはにかんでみせた。いっそ純真なまでの表情が、この状況においては薄気味悪い。
「ミナを解放しろ! 彼女は、元の世界に帰らなければ……!」
「彼女がそれを望んだのですか? 彼女の口に、聞いてみましょうか?」
スカルサタモンが大きな手をミナの顎にかけ、彼女の顔をぼくへと向ける。
「……かえりたく、ない」
虚ろな目のまま、ミナの口が開く。
……精神支配によって、言わされているだけの言葉だ。そう思ってなお、ぼくは彼女が明確に口にした、あの日と同じ言葉に怯んでしまう。
「彼女が大切なのでしょう、エネアス? 共にいたいその気持ち、理解できますよ。我が軍門に下りなさい。さすれば、いつまでも彼女と一緒にいられますよ?」
「他者を洗脳しながら、理解だの軍門だのと……!」
「私は心からの言葉を引き出しただけですよ。ご一緒いただけないなら、仕方ない」
スカルサタモンがミナへと恭しく手を差し出すと、ミナが虚ろな目でその手を取る。
「我々はデジタルワールドへ旅立ちます。二度と会うこともないでしょう」
「だめだ、待て……!」
次元の裂け目が閉じる時間も近い。スカルサタモンたちを向こう側へ行かせたら、もう二度とミナを取り戻せなくなってしまう……!
だが、攻撃を仕掛ければ、操られた族長たちに反撃される。何よりデビモンがスカルサタモンへ進化した今、まともに戦ったとしても勝ち目はないだろう。
スカルサタモンがミナの手を引く。と、カシャリと音を立てて、何かが地面に落ちた。
「おや……? 何ですか、これは?」
ミナのポケットから、ウィッチデバイスが転がり落ちたのだ。スカルサタモンがそれを拾い上げ、怪訝そうにミナへ問いかけた。
「……ウィッチデバイス。ウィッチたちが、人間とつながるための、道具」
「ほう、まるでデジヴァイスですね。どのような力が?」
「古代魔法が、使える。人間界への扉も、開ける」
質問に、ミナが淡々と答える。
スカルサタモンは数秒ほど思案すると……ウィッチデバイスを地面に放り捨て、自らの杖の末端でもって、突き砕いてみせた。ウィッチデバイスの破片が、無残に飛び散る。
「なッ……きさま、なんてことを!」
「彼女は私のパートナーとなるのです。元の世界へ帰る道具など、不要」
砕いたウィッチデバイスに一瞥もくれず、スカルサタモンがミナの手を引く。
彼女が引っ張られる、一秒より短い刹那。その横顔が、ぼくの目に焼きつく。
ミナの頬を、一筋の雫が伝っていた。
……理由は、わからない。
精神を支配された、苦しみによるものか。
母の形見でもあるミナの宝物、ウィッチデバイスが砕けたためか。
「——……たな」
ただ、一つ確かなことは。
「ぼくの愛弟子を、泣かせたな……!」
彼女の涙を目にした瞬間、内側から溢れる激情が、ぼくを奮い立たせたことだ。
スカルサタモンを睨みつけ、杖を握る。ぼく自身すら知らぬ猛りに気圧されてか、スカルサタモンがほんの一瞬、身を竦ませるのが見えた。
「無駄なことを……ウィッチモン、ペイルドラモン!」
支配者としての傲慢なのだろう。スカルサタモンが、支配した族長たちに指示を出す。
だが、害意に反応するはずのかれらは動かない。
当然だ。そのときぼくは、誰を傷つけようともしていなかったのだから。
……何かを考えて、その行動を選んだわけではなかった。
ぼくの思考は激情によって漂白されていた。
だから、それはただ、デジモンとしての戦闘本能が選び取った最適解だったのだろう。
真っ白な頭の中に、疑念が入り込む余地などありはしない。
言い換えれば、そのとき、ぼくは——
「エルク・イウソヌフ・アクエリー!」
——自分が魔法を使えると、心から、信じていたのだ。
ぼくが解呪魔法の呪文を唱えると、杖の切っ先から星屑のような光が軌跡を残して散らばってゆく。それらがやがてミナを、族長たちを包み込んだ。
いま、この瞬間……ぼくはデジモンであり、ウィッチだった。
「ククッ……この土壇場で、使えもしない古代魔法ですか、エネアス!」
スカルサタモンは、気づかない。やつは知らないのだ。古代魔法の、その真価を。
ぼくは、悪戯を成功させた成長期デジモンのように、口の端を吊り上げた。
「……『魔法の呪文に気をつけな』」
「はあ?」
「ウィッチの、基本だよ」
〝成功〟だ。
不思議と、見るまでもなく、その確信があった。
「族長どの」
覚えのある声がぼくの耳に届く。ペイルドラモンが、口を開いたのだ。
「——よくも、戦士の誇りを汚してくれたな」
ペイルドラモンがその場で跳躍し、スカルサタモンの横腹に鋭い蹴りを見舞った。直撃を受けたスカルサタモンが、地面を摩擦しながら後退し、土埃を舞い上げる。
「……!?」
何が起こったのかを理解できていないのか、スカルサタモンが絶句した。まるでつい先ほどまでのぼくと、立場が逆転したかのようだ。
「エネアス、ミナちゃんを!」
続けざまに、ウィッチモンの叫びがぼくの耳に届く。ぼく自身、その時になってようやく、目の前の状況を正しく理解した。
古代魔法が成功し……全員の精神支配が、解けている!
「こっちだ、ミナ!」
「——師匠!」
青い瞳でまっすぐこちらを見ながら、ミナが駆け寄ってくる。
その姿に安心した途端に、ダメージによる痛みと倦怠感がぶり返し、ぼくは再び膝から崩れ落ちて、倒れ込んでしまう。
体の真ん中に風穴が開いた状態で無理やり力を振り絞ったのだから、当然だろう。
「師匠、しっかりして!」
ミナが必死にぼくに呼びかけてくる。
時を同じくして、次元の裂け目が閉じてゆく。スカルサタモンがミナたちをデジタルワールドへ連れ去ることは、阻止できた。
「……やってくれましたね、エネアス。力による屈服をお望みのようだ!」
「させるものか! メテオヘイルッ!」
スカルサタモンがぼくへと杖を向けるが、すかさずそこへペイルドラモンが突っ込む。必殺技の直撃を、しかし、スカルサタモンが今度は真正面から片腕で受け止めた。
「完全体になった私を、甘く見ていただいては困る!」
「だったら追撃だよ! バルルーナゲイル!」
続けざま、ウィッチモンの放つ風の刃がスカルサタモンを襲う。
「貴様は下がっていろ、〝エネアス〟! その傷では無茶だ!」
ペイルドラモンがぼくの名を呼んだのは、信頼の証だろうか。
感じ入る暇もなく、ぼくは激痛に顔を歪めた。ミナがめいっぱいの力でぼくを大きな瓦礫の影にまで引きずっていった。
「師匠、師匠! ごめんなさい、わたしのせいで……!」
「なぜ、きみが謝るんだ……」
「師匠のこと、怖がっちゃったから! 帰りたくないって、思っちゃったから!」
「……謝るのは、ぼくの方だ。きみの未練を、正しく断ち切ってやれなかった」
「ちがう、ちがうの。わたし、操られてるときも、自分がわかってた。でも、帰りたくないって思ったら……どんどん、気持ちが言うこと聞かなくなって……」
ミナがまなじりに涙を浮かべ、ぼくに縋りつく。あの精神支配は、相手の心の弱みにつけ込むような術だったのだろう。
……参ったものだ。また、彼女に涙を流させてしまっている。
「ミナ……きみとの旅で、気づいたことが、あるんだ」
「師匠……?」
朦朧とする意識の中で、ぼくの脳裏にはミナとの旅路が次々に浮かんできていた。
だが、走馬灯などではない。ぼくは、これっぽっちも、死ぬつもりはない。
いま、師として、ミナに伝えなければならないことがあるのだ。
「ウィッチェルニーは——いまも、美しい」
彼女からすれば、当たり前のことかもしれない。でも、ぼくはミナとの旅を通してはじめて、それに気づくことができた。
ロウソク花やアスリンサボテンが、今もこの世界に形を残している。そして変わりゆく中で、新たにこの世界が得た美しさがある。
古代の面影は、見渡してみれば、そこかしこに転がっていた。なのに、ぼくは喪失の痛みに向き合うのを恐れ、目を塞ぎ、戻れぬ過去ばかりを追い求めていた。
「ミナ。失った大切なものたちの面影は……ぼくらが生きてきた世界にしか、ないんだ」
杖を支えとして、強引に体を立ち上がらせる。肉体の限界を、心が追い越していた。
「ダメだよ師匠、そのケガじゃ……!」
「馬鹿を言え、ミナ。師匠は、弟子に背中を見せてやるものだ……!」
膝をついてなど、いられない。倒れてなど、いられない。
ぼくは師匠として、ミナに道を示してやらねばならない。
彼女が自分の意思で、元の世界へ帰れるように。
「ミナ……きみのママが生きた証だって、きみの世界にしかない。きみが元の世界に帰らなければ……きみのママが残した面影たちを、見つけてやれない……!」
「どうして、そんなこと……」
「だって、ぼくという実例がいる。きみに出会えた。過去の傷が、ぼくをきみへと導いてくれた。滅びた世界のその先にしか、ぼくたちの出会いはなかった。……ミナ。明日を生きる者だけが、滅びたものへ、意味を与えることができるんだ……!」
「……師匠」
かすむ視界の向こうで、スカルサタモンと族長たちが激しい戦いを繰り広げている。
「遊びは終わりです……ネイルボーン!」
スカルサタモンが杖をかざすと、放たれた光の波動がペイルドラモンとウィッチモンをまとめて吹き飛ばす。健闘むなしく、二人の族長が地面に転がされた。
行かねばならない。ぼくだって、エネルージュ族の、族長なのだ。
「……ダメだよ、師匠!」
ミナがぼくのもとに駆け寄り、腕の下へと潜り込んだ。ぶかっこうに肩を貸す格好。
「魔法は……わたしたちの魔法は、ふたりじゃなきゃ、ダメ!」
まだ涙の残る瞳をぼくに向けて、ミナが強がって笑ってみせる。
「ああ……そうだな。やつに見せてやろうじゃないか。ぼくらの、魔法を……!」
……ぼくには、誰にも告げたことのない願いがあった。
ぼくはずっと、消えたかったのだ。
ただ最後のウィッチとして消え、歴史にウィッチの名を刻みたかった。
自ら命を絶ちし英雄であった頃から、連続した願い。
ウィッチたちの世界を終わらせてしまった己に、消えて欲しくてしょうがなかった。
その記憶が、ぼくに消滅願望をもたらしていた。
だが、今はもう、違う。
生きたい。この世界の美しさを、もっと知りたい。皆をもっと、懐かしみたい。
いつかまた、きみと歩みたい。
だから、ぼくはこの傷と痛みを背負って、前へ進んでゆく。
それが、ぼくの進歩。
それが、ぼくの変化。
それが、ぼくの進化。
——転瞬。
スカルサタモンの足元、砕けたウィッチデバイスが、激しい輝きを放ち始めた。
「何ですか、この光は……!」
その眩さにスカルサタモンが怯んだかと思うと、ウィッチデバイスが浮き上がり、瞬時にミナの手元へと飛来していった。
「……なに、これ。声が聞こえる……」
ミナの呟き。心が一つになる感覚。これから起きることを、ぼくはすべて理解できた。
ウィッチデバイスは、人間と絆を結んだウィッチを、より強く変身させる。
そして、古代魔法を自力で成功させた今のぼくは、ウィッチでもあると定義できる。
「アクエリーコネクト——魔法進化(マジカルエボリューション)!」
ミナが唱えた瞬間、ウィッチデバイスが、光り輝く巨大な本となる。
呼応するように、ぼくの体がミナから離れ、宙へと浮き上がる。
光り輝く本が大きく開いたかと思うと、ばたりと閉じて、ぼくの体を挟み込んだ。
苦痛はない。ウィッチデバイスはいま、ぼくと一つになっているのだ。
やがて本は光を失うと、地面に落下し、天を仰ぐように開かれた。
本の中から飛び出すかのように、ぼくの新たな姿が現れる。
「進化、したのか……!」
膝をつくペイルドラモンが、驚嘆の声を上げるのが聞こえた。
姿が変わった瞬間、新たな姿の情報は、すべてぼくの頭に流れ込んだ。第三者の目で見ているかのように、己の姿が手に取るようにわかる。
赤銅色のローブと淡黄色のフードに身を包み、その顔は影に包まれた漆黒。金色の双眸が、暗闇を照らし上げるようにフードの奥で煌めく。
「ウィザーモン、進化——ワイズモン」
ミナがぽかんと口を開いて、ぼくの姿を見上げているのが目に映った。
「師匠……だよね?」
「ああ。きみの師匠は、このぼく、エネアスだけだ」
進化し、種の名前が変わったとて、ぼくはぼく、エネアスだ。芯はぶれない。
呆気に取られていたスカルサタモンが、ギリリと歯を食いしばる。
「あり得ない……支配者は、この私だ! さらに上をゆく進化など!」
デビモンであった頃から、彼は強かった。ゆえに、否応なしに理解できるのだ。ぼくの進化したワイズモンとしての姿が、彼に対抗し得る能力を秘めていることを。
ぼくの両手に、神秘の球体〝時空石〟が出現する。この球体が、ワイズモンへと進化したぼくの特異性を決定づける道具だ。
「開け——パンドーラ・ダイアログ」
時空石は、多様な時間と空間の情報を保存する力を持つ。すなわち——
「メテオヘイル!」
——記録された必殺技を、自由に使用することができるのだ。
時空石が時空を歪ませ、ペイルドラモンの姿をした幻影が無数に出現。一斉にメテオヘイルによる突撃をスカルサタモンへと見舞う!
「ぎあぁッ! これは、ペイルドラモンの……!?」
「おお……俺の必殺技か! こうして見ると、なかなかカッコいいではないか!」
スカルサタモンが苦悶の声を上げ、もはや立つ気力もないだろうに、ペイルドラモンがその光景に目を輝かせる。
「なるほど、他者の必殺技を再生する能力ですか……ですが、成熟期の必殺技など、いまの私には通用しない!」
さりとて、流石の完全体。この程度では大きなダメージにならないらしい。スカルサタモンが杖をこちらへ突きつける。
「消え去りなさい……ネイルボーン!」
回避の必要はなかった。ぼくは、信じていたからだ。
ぼくの弟子が……この世界で一番の魔法使いが、〝それ〟を唱えてくれると。
「トケトルプ・エマク・アースリン!」
ぼくの隣へ進み出たミナが唱えたのは、防御魔法の呪文。亀甲模様のバリアが、ぼくとミナのみならず、ペイルドラモンやウィッチモンまでをも覆い、スカルサタモンの放った波動をことごとく遮断した。古代のウィッチをも上回る、尋常ならざる出力だ。
心が一つになった今、ミナには理解できているのだろう。ぼくは、ウィッチデバイスと一体になった。ゆえに、ここにいるぼく自身が、古代魔法の触媒たり得るのだと。
ぼくとミナ、師弟がともに並ぶことが、真に古代魔法の条件として成立していた。
「何ですか……一体何なのですか、それは!」
「魔法だよ、スカルサタモン。人とウィッチとデジモンの絆が織りなす、奇跡の業(わざ)さ!」
スカルサタモンはぼくのパンドーラ・ダイアログを「他者の必殺技を再生する能力」と解釈したが、正確ではない。これは、ぼくが経験した敵の攻撃の記録を自由に引き出し、再生することができる能力だ。ぼくの……エネアスの戦闘経験は少ない。必然、アクセスできる記録も、限られている。
だが、いまのぼくには、英雄としての記憶が蘇っている。その全ての記憶に、いまは、自在にアクセスすることができるのだ。
——そう。いつだって、〝きみ〟がぼくの、最大の敵だっただろう?
命を奪うために振るうようになった力を、今度こそ、大切な者を守るために。
見据えた向こう、英雄像の表情が、どこか和らいだような気がした。
「四紋よ、耀(かがや)け——ファイナル・クレスト!」
時空の狭間が開かれ、英雄の幻影が眼前に現れる。
スカルサタモンへ突きつけられた魔槍の切っ先に、四つの紋章が円を描くように集う。
エネルージュ、アースリン、アクエリー、バルルーナ。
四紋が高速で回転を開始し、その中央に四色の光を束ねあげてゆく!
「こ、こんな力……許しませんよ! ネイルボーンッ!」
スカルサタモンがまたも、杖より波動を放つ。それを打ち払うように、四紋の中央から、束ねられた光芒が空(くう)を貫いて放たれる。光芒はネイルボーンの波動を切り裂き、スカルサタモンを呑み込んでいった。
「支配者たる私が……こんなところでええぇッ!」
絶叫がこだまする中、やがて光芒は収束し——戦場に、静寂が訪れた。
スカルサタモンが煙を上げながら、重々しい音を立てて倒れ込む。事切れてはいない。命までは奪わぬよう、必殺技の出力を調整したからだ。
「……情けを、かけた、つもりですか……!」
「殺し殺されに、もう、疲れただけさ」
ついさっきデジモンたちの命を奪っていた者が何を、と謗られても仕方はあるまい。
それでも、ぼくはもう、ウィッチとして生きようとした自分を、棄てたくなかった。
「私が回復した後、あなたがたを襲わない保証はありませんよ……!」
「そうすればいい。完敗を認めず、醜く足掻くのが、きみの言う支配者の在り方なら」
「ぐぬッ……」
支配者の座にこだわって行動に出たからこそ、この一言は効いたらしい。
「それに……長老としてずっとウィッチェルニーを守ってくれたのも、事実だ。きみがウィッチェルニーを愛していなかったとも、思えない」
アスリンサボテンの結晶花をともに眺めたときの、デビモンの表情を覚えている。心から結晶花を愛でていた彼の感情は、嘘ではなかったはずだ。
「……とはいえ、仕置きは必要だな。ミナ、必要な呪文は、わかるね?」
「もっちろん!」
ぼくらは顔を合わせて、にやりと笑う。とびきりのイタズラを、見せてやろう。
「エスルク・イニブアク・エネルージュ!」
ミナが唱えたのは、空きビンの呪いの呪文。たちまち、スカルサタモンが、彼にジャストフィットするサイズの空きビンに閉じ込められた。
「なっ……何ですか、このビンは!」
「しばらく、そこで反省していたまえ。ウィッチ流の、おしおきだ」
「おしおきだっ!」
ぼくのセリフを復唱して、ミナが胸を張ってみせる。鼻高々のその態度に、もう、涙の跡はない。ぼくは心から安堵した。
「おい、エネアス」
ペイルドラモンがよろよろと立ち上がり、ぼくへと握り拳を向けてきた。
「やったな。それでこそ、俺の認めたライバルだ」
「……いつライバルになったんだよ」
苦笑をこぼすが、こいつに認められるのも、悪い気はしなかった。
「やっぱり、アタシの言った通りヨ。アナタ、人間と友達になれたのだワ」
それから不意に聞こえた、覚えのあるイントネーションに、目を見開く。間違えようもない。かつて交友を深めた、バルルーナ族のウィッチのものだ。
声に振り返った先には、へばって地面に座ったままのウィッチモンの姿があった。
「え、あれ。アタシ、いま、何か言った?」
当人はといえば、きょとんとした表情だ。自覚がないらしい。
……ああ、まったく。ぼくは一体、どこまで間抜けなのだろう。
ウィッチたちは、かつて、デジモンへと姿を変えた。ならばぼくと同じように、あの時代の記憶を受け継ぐデジモンがいたとて、おかしくない。
ウィッチたちは、最初からずっと、ぼくの傍にいたのだ。
ぼくの頑なな心が、今もそこにいるかれらを、見つけられなかっただけなのだ。
「……私を倒し、その少女を送還して、どうなさると?」
ビンに詰められたスカルサタモンが、不貞腐れたようにこぼす。
「魔力の枯渇により、この世界のデジモンたちは進化もできず、衰滅する定め。この世界と心中するおつもりですか?」
「ああ。その問題なら、解決の目処は立っているよ」
「なんですって?」
ワイズモンの姿となった時、ぼくの中に、過去から現在に至るまで、ウィッチェルニーのあらゆる情報が流れ込んできた。失われた歴史や、忘れられた呪文さえも。
そのときに、わかったのだ。ウィッチェルニーは、英雄の召喚に世界中の魔力を使ったことで、魔力の枯渇に至った。ならば、その逆をすればいいのだと。
英雄像の前まで近寄り、その姿を見上げる。
英雄の力は、あまりに強大すぎた。自らの命を絶ってなお、その肉体までは滅ぼすことができないほどに。力の一部と魂だけが切り離され、デジタマとなったのが、ぼくだ。
……そう。この台座すらない奇妙な像は、英雄の石像などではない。
いまだ滅ぶことなくここに残り続け、色褪せた……かつての英雄(ぼく)の、肉体なのだ。
「……ずいぶん長いこと、待たせてしまったな」
かつての自分に、ぼくは語りかける。
空っぽで、そこにもう魂はないけれど。それがぼく自身であればこそ、きっと同じ願いを抱いているであろうと、確信できる。
いつの間にか、ミナがぼくの隣に立っていた。
「これが、昔の師匠なの?」
「わかるのか?」
「うん。師匠が進化したとき、いろんなこと、わーって頭に流れ込んだの。嬉しいのも、悲しいのも、たくさん、たくさん……」
「……そうか。きみは、かつての英雄を、覚えていてくれるんだな」
ならばきっと、あの日の絶望にも、意味があった。
罪禍も後悔も、消えることはない。だが、ぼくはもう、ミナと出会った新たな生を愛さずにはいられない。だからぼくは、全ての過去を背負って生きてゆく。
昨日に別れを告げ、今日を滅ぼさなければ、ぼくらは明日へ進めない。
「待って、師匠」
ミナが、ぼくの袖を掴んで引き留めた。にこりと笑顔を浮かべたあと、息を吸い込む。
「エスルク・ウソノムク・バルルーナ!」
ミナが幻覚魔法の呪文を唱えると、周囲に風が織りなす無数の虚像が出現する。
ぼくはその全てのシルエットに、見覚えがあった。
赤い服の、やんちゃなエネルージュ族のウィッチ。頭巾をかぶった、シャイなアースリン族のウィッチ。青い服を着た、心優しいアクエリー族のウィッチ。緑衣を纏う、元気なバルルーナ族のウィッチ。かつて英雄と心を通わせたウィッチたちの似姿が、幻影となって現れていた。
「幻でも……みんなに、見送ってもらおう?」
心が一つになったとき、ミナに流れ込んだ情報には、かれらの姿もあったのだろう。
瞳の奥に熱いものがこみ上げてくる。嗚咽が漏れそうになるのを堪える。
ウィッチたちに囲まれる、英雄。かつての英雄が焦がれてやまず、そして二度とあり得なかったはずの光景が、そこにあった。
「ありがとう、ミナ。ありがとう……」
顔を上げ、ぼくは英雄の肉体と向き合い、手をかざす。
ミナも、何も言わず、寄り添うように共に手をかざした。
きっと、彼女もまた、同じ呪文が頭に浮かんでいるのだろう。
……それは、ウィッチたちが最後まで、決して使わなかった魔法。自分たちと絆を結んだ朋友を元の魔力に還(かえ)すなど、かれらには、できなかった。
かつて打てなかったピリオドを、今、ここに。
「「——ノムス・アラノヤス・メディーバル」」
それは英雄の時代に、古代ウィッチェルニーに、別れを告げる呪文。
ふたりで呪文を唱えた途端、色褪せた英雄の肉体に、亀裂が走ってゆく。
英雄の肉体に秘められた、すべての魔力が解き放たれようとしているのだ。多くのデジモンと戦い、そのデータを取り込んだ魔力は、召喚時とは大きく変質している。
解き放たれた魔力は、ウィッチェルニーに大きな変化をもたらすだろう。だがその変質ゆえに、決して、ウィッチェルニーをかつての姿に戻すことはない。
「……さよなら。ぼくの愛した、ウィッチェルニー」
目を細め、密やかに別れを告げる。
広がった亀裂から、溢れんばかりの閃光が迸り、ぼくらの視界を覆い尽くす——。
8 さよならの章
スカルサタモンとの戦いの後、すでに紅い月は欠けており、人間界への扉を開くことはできなかった。ミナは次の紅い月までもう少しだけウィッチェルニーに残り、ぼくらと共に過ごすことになった。
そして、英雄の魔力を解き放ったことによる変化は、すぐに表れ始めた。
最初の変化は、デジモンたちの進化だ。十分な力をつけた成長期デジモンたちが、次々に成熟期へ進化していった。
次に、ウィッチェルニーの地形に変化が生じた。例えばエネルージュ荒野では、古代にはなかった色のロウソク花が芽吹き始め、アースリン砂漠には、これも古代に存在しなかったシナモンパウダーの砂地が生まれて……といった具合だ。
ぼくとミナはもう一度旅に出て、各地の変化を観察し、ともに目を輝かせた。
けれど、別れの時は、存外すぐに訪れてしまった。
十日に一度の紅い月が、ものの数日で、再び空に現れたのだ。
ぼくとミナ、ペイルドラモン、ウィッチモン。それにスカルサタモンが、ブロッケン山の山頂に集っていた。新たに進化したデジモンたちもついて来ようとしたが、まだその力に慣れていないからと、里で待機してもらうことになった。
ミナが、ぼくの袖をきつく握っている。別れを惜しむ気持ちが、強く伝わってきた。
「少し下がっているんだ、ミナ。きっとまた、戦いになる」
「その必要はありませんよ」
かつて英雄像のあった場所に次元の裂け目が現れ始めたとき、一歩前に出る影がある。アースリン族の元族長、スカルサタモンだ。進化した自分の弟子に早々に族長の座を明け渡した彼は、新たな族長に待機を命じ、自分だけが山頂へやって来た。
「……どういう意味だ?」
「私が、裂け目の向こう側へ行きます」
「なんだって?」
「別れを言う時間ぐらいは、稼げるでしょう」
背を向けたままスカルサタモンが言い放つと、ぼくらは一様に言葉を失った。
「……支配者となる者は、貸しを作ったままでは置かない。それだけです」
「あのっ、デビモ……じゃなかった、スカルサタモンさん!」
そのまま裂け目の向こうへ消えようとするスカルサタモンを、ミナが呼び止めた。
ぴしっと背筋を伸ばし、それから、やけに畏まった姿勢で彼に一礼をしてみせる。
「……さよなら! コレクションとか見せてくれて、ありがとうございました!」
律儀なまでの別れの挨拶に、スカルサタモンがほんの少しだけ、足を止める。
「……ふん」
後ろ姿なれど、彼の表情が弛んだように見えたのは、思いなしではないだろう。
大杖で一度だけ空を薙ぎ払ったあと、スカルサタモンが裂け目の向こうへ消えてゆく。
裂け目から、デジモンたちが現れる気配はない。
……いよいよもって、別れの時間だ。
「おい、ミナ」
口火を切ったのは、意外にも、ペイルドラモンだった。こわばったような表情でミナに向き合い、それから、ずい、と自分の大きな手を差し出した。
「握手をしろ。俺はもう、人間など、怖くないぞ!」
スカルサタモンとの戦いを経て、彼も人間にまつわる真実を知った。それでも、長年植え付けられた恐怖は、易々と消えるものではあるまい。勇気を振り絞り、それを自ら乗り越えようとしているのだ。
満面の笑みを浮かべて、ミナが両手でペイルドラモンの手を握り込む。
「わっ……ちべたい!」
「むっ……ぬうッ……!」
握手だというのに、必死に顔をしかめるペイルドラモンの姿が滑稽で、思わず笑いがこぼれそうになる。だが、今ばかりは、彼を笑ってはなるまい。
「は……ははッ! 見ろ、エネアス! 俺はついに、人間への恐怖を克服したぞ!」
「ペイルドラモンさん。オーロラ、とっても綺麗だった。見せてくれて、ありがとう」
「礼を言うのは俺の方だ。貴様のおかげで、俺はまた一つ、強くなれた」
やがてミナが手を放したとき、ペイルドラモンの表情にもはや緊張はなかった。ただ、少女を送り出さんとする、誇り高き戦士の顔が、そこにあった。
次に前へ歩み出たのは、ウィッチモンだ。ミナのそばで屈み込んだかと思うと、ウィッチモンは、ミナの額にキスをしてみせた。
「魔法のおまじないだよ、ミナちゃん。きっと向こうでも、元気にやってね」
「……へへ。ありがとう、ウィッチモンさん。箒に乗ったの、一生忘れない!」
ウィッチとしての記憶を残すウィッチモンもまた、ミナには特別な想いを抱いていたことだろう。少し前のぼくなら、二人のやりとりに嫉妬していたが、今は温かに見守れる。
……うそだ。強がった。ぼくの知らないところで絆を結んでいたのが、少々妬ける。
立ち上がったウィッチモンが一歩退くと、ミナの体をぼくの方へと向かせた。
……別れに際して、いったい、何を言えばいいのだろう。
ワイズモンに進化して遥かに上昇した思考能力でも、結論が出ない。コンマ一秒の間に無限の思考を重ねた後で、はたと、ぼくは大事なことを思い出した。
「……そうだ!」
「どうしたの、師匠?」
「ミナ。きみの名前を、聞いていなかった」
「え?」
「名前だよ。〝見習いウィザーモンのミナ〟ではない、きみの本当の名前」
「……あっ!」
すっかり忘れていたといったように、ミナが口元に手を当てて声をあげた。それから、口元を隠したままで、目を細めてみせた。
「知りたいの? わたしの名前」
「ああ、知りたいさ」
「当ててみてよ」
「に、人間の名前なんてわからないぞ! 人間が嫌いと言ったことは、謝るから……」
「……ミナだよ」
「は?」
「わたしの名前は、初津(ういづ)ミナ」
手をどけたミナの口元は、イタズラに成功したウィッチの如く、にんまり笑っていた。
「わたし、もともとミナって名前なんだよ」
風の音がはっきり聞こえるほどの無言と、無音の数拍。
「ぷっ……くくっ……あっははははは!」
ぼくは呵々と笑った。なんたる運命のイタズラだろうか!
ほんの思いつきで、人間の名前をろくに知りもせず名付けた、ミナという呼び名が……まさか、彼女の本当の名前だったなんて!
「ああ、まったく——驚いた!」
魔法を自在に扱い、師匠であるこのぼくを、ここまで驚かせた。
ミナはもはや、どこに出しても恥ずかしくない、立派な魔法使い(ウィッチ)だった。
「一人前になったな、ミナ」
「へへ。それでも、わたしの師匠は、師匠だけだよ」
両手を後ろに組み、はにかんだような笑みを浮かべたあと、ミナが俯く。
……いつまでも話している時間はない。彼女も、わかっているのだろう。
「行かなきゃ、だよね」
「ああ」
「また、会えるよね」
「会えるとも。きみが、ウィッチェルニーを忘れない限り」
根拠もない保証を、ぼくは迷いなく口にする。人間の持つ信じる力は、ミナを通して、ぼくの中にも息づいているようだった。
「ミナ。師匠として、きみに最後の教えを授けよう」
「それって、なあに?」
「滅びた世界は、決して消えない、ということだ」
「……どういうこと?」
ぼくは屈んで、ミナの目をまっすぐ見据える。
「世界はずっと、変わり続ける。変わるというのは、別のものになるということだ。それまであったものが、滅びてしまうということだ」
「師匠が、別の姿になっちゃったみたいに?」
「ああ。ぼくはもう、あの姿には戻れない。だが、ぼくはいまも、エネアスだろう?」
「うん。声も、心も、ぜえんぶ、わたしの大好きな師匠のまんま!」
「そうだとも。だから、ミナ。覚えていてほしいことがある」
目を閉じて、ぼくはミナとの旅を、そしてぼくのこれまでの生を思い返す。
滅びたと思われたウィッチェルニーは、ずっと、ぼくのそばにあった。それを教えてくれたのがミナであるように、ぼくもまた、彼女に師として教えを返さねばならない。
「きみはいつか、二度と戻れない失われた世界や、そこにいた人を懐かしんで、むなしい気持ちになってしまうかもしれない」
人間たちが大人になってウィッチェルニーを忘れてしまったように、きっとこれから、ミナの中で、たくさんの世界が滅びてゆくのだろう。
それはたとえば、愛する物語に心から憧れを抱ける世界。
それはたとえば、サンタクロースがほんとうにいる世界。
そしていつかは、魔法を信じ抜くことが能う世界も。
けれど、ぼくは言う。
「そんなときは、思い出してほしい。きみがいる世界は、それでも、滅びた世界から続いている場所なんだ。きみのいる世界に、いつでも、きみの懐かしむ世界のかけらがある。きみがそこにいる限り、いつだって、信じる心を取り戻すことができる」
両手を伸ばして、ぼくはミナを自分の胸に抱き寄せた。ためらうこともせずに、ミナがぼくの背に小さな両腕を回し返してくる。
「いつだって……いま、きみの生きる世界が、いちばん美しいんだ」
胸の中で、ミナが頷くのが感じられた。
「……師匠。わたし、『さよならはありがとう』の意味、わかったよ」
「聞かせてくれ」
「さよならは、出会えたことへの、ありがとうなんだね。だから悲しいだけじゃないの」
力を込めた小さい腕の体温と、ぼくの胸に染み込む雫が、炎のように熱かった。
……ウィッチェルニーと人間界は、時間の流れが違う。変化を遂げつつあるウィッチェルニーが、再び同じように人間界と繋がる確証も、ない。
ミナは利口な子だ。小狡くもぼくが口に出さないその可能性を、理解しているだろう。
この腕を解きたくないと、思ってしまう。
「ごめんよ。ぼくは嫌味ばかりで、良い師匠ではなかったね」
「そんなことないよ。師匠の教えてくれたこと、ぜんぶ、ずっと忘れない」
「本当は、出会ったあの日からずっと、きみが大好きだったよ」
「知ってる。毛布を直してくれる手、いつも優しかったもん」
名残を惜しむように力を込めようとするぼくの腕から、ミナがすり抜けていった。
ぶかぶかのとんがり帽子とマントが、風に揺れている。
「この帽子とマント、借りていっていい?」
「ああ。きみに、預けておこう」
「じゃあ、師匠にはこれ、貸すね」
ミナがおさげ髪を結っていたリボンを解き、ぼくの手首に結んでみせた。
ぼくの格好にはおよそ不釣り合いな可愛らしいリボンが、ひらひら揺れる。
「師匠……呪文、いっしょに唱えてくれる?」
「……もちろんだとも」
いまの彼女なら、一人で呪文を唱えることもできるだろう。
けど、気持ちはぼくも同じだった。
ミナの隣に並び立ち、ふたりで一緒に、手をかざす。
「「エカリフ・オウ・アリボツ・ウィッチェルニー!」」
ともに呪文を唱えると、ぼくらの眼前に、光り輝く扉が出現した。
あの扉の先に、ミナの帰るべき世界が、人間界があるのだろう。
最後に一度だけぼくの袖を握ると、それを放して、ミナが扉の前に躍り出た。それからくるりと半回転して、ぼくらに向き直る。
「さよなら、師匠! さよなら、みんな!」
大きく手を振りながら、ミナはその表情に、めいっぱいの笑顔を咲かせていた。
「さよなら、ウィッチェルニー!」
最後に三度、靴のかかとを鳴らして、ミナは扉の向こうに飛び込んでいった。
ばたん、と閉じる音の響いたあと、光の扉は跡形もなく姿を消していた。
……雨が降り始める。
ぼくの足元に、いくつも雫の跡が生まれてゆく。
「アンタ、意外と泣き虫だねえ」
ウィッチモンがぼくの肩を叩き、ペイルドラモンは何も言わずに両腕を組んでいる。
まったく、ふたりとも、知ったふうな顔をしてくれる。
「……馬鹿を言え。ぼくはアクエリーの力で進化した。これは、水の魔法だ」
魔法の雨は、いつまで経っても止むことなく、ぼくの足元を濡らし続けていた。
それからの章 ——エピローグ
『ミナへ。
手紙を書き出すとき、いつもどこから書き始めたものか悩んでしまう。
そう、ぼくはワイズモンに進化して、人間の文字を読み書きできるようになったんだ。
いや、そんなことはどうでもいいな。
ウィッチェルニーは、あれから大きく変わった。
まず、面積そのものが大きく広がった。英雄の魔力と、そこに取り込まれたデータが、ウィッチェルニーという世界そのものを拡大したんだ。
エネルージュ荒野に咲き乱れる色とりどりのロウソク花の向こうに、今は火山もそびえている。アースリン砂漠には蜜の川が流れ、アクエリーの一帯には、今や海がある。バルルーナ森林の付近には、心地よい風の吹く緑の丘が生まれた。
各地にはたくさんのデジタマが生まれ始めた。閑散としていた世界は、もはや見る影もなく、あちこちで多くのデジモンたちが過ごしている。
そうそう、ぼくらは研究の末、次元の裂け目をコントロールすることに成功したんだ。今では、デジモンたちは、自由にウィッチェルニーとデジタルワールドを行き来できる。 争いを好まないデジモンや、魔法による研鑽を積みたいデジモンなど、望む者をぼくらはウィッチェルニーへスカウトする。逆にデジタルワールドへ修行に出たいデジモンがいれば、ぼくらは喜んで見送る。その誇りに、差異はない。
それから……そう、ぼくらは、ブロッケン山の頂上に、魔法学校を再建したんだ!
実はぼくが、この学校の校長を務めさせてもらっている。古代魔法を学びたいデジモンも現れ始めて、かれらのために、古代ウィッチェルニーの魔法書や、ウィッチたちの歴史にまつわる本を書いている。ワイズモンとなったぼくの記憶には、古代のすべての記録が詰まっているからね。
ウィッチたちの使っていた古代魔法は、今では単に「魔法」と。そしてデジモンたちが戦いに使うような代物は、「魔術」と呼び分けられるようになった。
増えたデジモンを統治するために、評議会という面倒なものも生まれてしまったが……恥ずかしながら、ぼくは「三賢者」なんて大層な称号で、そこを束ねている。族長の座は後任のデジモンに譲ったんだ。
三賢者の他ふたりは、なんとあのペイルドラモンとウィッチモンだ。今では進化して、その姿も名前も大きく変わっている。会ったらきっと、驚くだろう。
スカルサタモンはあれから一度だけ戻ってくると、デジヴァイスをぼくらに託して、再びデジタルワールドへ去った。族長の座を任された彼の弟子は、涙ながらに別れを惜しんでいた。あれで結構、いい師匠だったらしい。もしかしたら、いつかは案外、良き統治者になれるのかもしれない。
ああそうだ、それから…………』
……ぐしゃりと、書きかけの手紙を丸めて、床に放り捨てた。
「ええい、ダメだ……まるでまとまりがない!」
何百回とミナへの手紙を書こうとしたが、そのたびに言いたいことがまとまらず、手紙を床に散らばるゴミの山に変えてきた。
魔法学校の校長室で、ぼくは広々とした作業机に突っ伏す。手首のリボンが揺れる。
手紙の結びだけは、「きみにまた会いたい」であると、決まっているのだが。伝えたいことばかりが年々増えていくので、ボリュームコントロールが効かないのだ。
「エネアス校長、入るよ……うわあ! なんで昨日の今日でこんな散らかり方!」
ドアをノックして入ってきたのは、ぼくの補佐を務めるソーサリモンだ。その外見は、簡潔に言えばウィザーモンであった頃のぼくのホワイト・ヴァージョン。彼は、果樹園の管理をしていた、あのゴースモンが進化した姿だった。
「……何の用だい、ソーサリモン」
「お客さんが来てるんだけど、いま用事が『掃除しろ』に変わりそうになってる」
「世には適材適所がある。掃除は、きみの仕事だ」
「はあ……まあ、いいや。お客さん、屋上で待ってるってさ」
「屋上だって? なんでまた、そんな場所に……」
立ち上がり、服の埃を払って、ぼくは手近な本の中に消えてゆく。ワイズモンとしての能力だ。ぼくはあらゆる本の中を自在に通り抜け、移動することができる。校長室から屋上近くの部屋まで、ショートカットしようというわけだ。
……ああそうだ、この能力だって、ミナへの手紙に書きたいじゃないか!
客人とやらの顔を一目見たら、さっさと手紙を書きに戻ろう。
本から本へ通り抜け、足早に移動し、長い廊下を潜り抜け、屋上への扉に手をかける。
美しい満月と星々の輝きが、ぼくの目に映る。
いつかミナに語ったように、星の一つ一つが別次元の世界が放つ煌めきだ。ならばあの向こうのどこかに、今でもウィッチたちが愉快に暮らしている世界も、あるに違いない。
そう、この発見だってミナに伝えなくては。次に書く言葉は、そうだな……——
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
こうして、ウィッチたちの生きたウィッチェルニーは、すっかり滅び去りました。
今ではデジモンたちがウィッチェルニーに暮らし、魔法を学び、生きています。
けれど、もう、おわかりですよね。
かつてのウィッチェルニーは、ただ滅んだだけで、決して、消えてはいないのです。
ウィッチたちだって、いまそこにいあるあなたが、かれらを忘れない限り……かれらをまた思い出してあげる限り、いつかまたどこかに、現れてくれるかもしれません。
魔法を信じる心は、いつだって、取り戻すことができます。
だからこの物語は、ハッピーエンドで終わるのです。
……え?
エネアスとミナは、再び会うことが、できたのかって?
それはあなた、わかりきった質問です。
だって、ご存知でしょう?
「——……やあ、お客人。その帽子とマント、ずいぶん、似合うようになったね」
さよならは、永遠の別れを意味する言葉ではないのです。

(おしまい)
ノベコンお疲れさまでした!
感想を配信で喋らせていただきましたので、リンクを下に貼っておきます!
https://youtube.com/live/07wVSPzblj0
(4:55~感想になります)
【あとがき】
デジモンノベルコンペティションなのにマジカルウィッチーズの小説を送ったアホがいるらしい。
取り扱っているテーマ的にも、二次創作じゃないと許されないであろう、非常にお行儀の悪い作品です。
でも、ノベコンという切欠がないと最後まで書けなかった作品にも違いありません。
長編に近いボリュームがある作品にピリオドを打てたのも、これが初めてです。
その意味でも、書けてよかったなあ、と思います。
内容は未熟極まりなく、審査対象としても、いろんな意味で論外だったでしょうが。
投稿にあたって内容の調整や挿絵の追加を行なっており、ノベコン投稿時とは作品の形態が変わっているので、【おつコン】タグはつけておりません。
勝手ながら、この場を借りて私事を少し。
私ジャガモニウス三世は、かつてオリジナルデジモンストーリー掲示板NEXTにて、別名義でデジモンの二次創作を行なっておりました。
一年にも満たない活動期間でしたが、どうやら当時の作品をいまだに覚えていてくださる方もいるようで、感無量です。
しかし、当時色々あってメンタルをやられて以降、ほぼ全く創作活動ができない状態になっておりました。
どうにか立ち直るのに10年ほどの歳月を要した上、精神的な問題により、趣味だった読書も覚束なくなり、心は消沈するばかり。
気持ちを僅かなりとも前へ進ませてくれたのは、幼い子供でもすらすら読めるような、児童向けの作品群でした。
御伽話のような優しいお話を書いてみたいな……と思うようになったのは、それらの影響です。
(優しいお話と言うわりには、ところどころ殺伐としていますが……)
そんなわけで、本作は「誰でも楽しめる御伽話」を目指して書かれました。
当然、賞としては箸にも棒にもかかりませんでしたが、久々に創作に向き合わせてくれた本作のことを、私はわりと愛しております。
ここまで読んでくれたあなたも本作を好きになってくれたなら、これ以上の幸せはございません。
かつて、マジカルウィッチーズというゲームがありました。
あのウィッチェルニーのことを覚えている人は、数少ないことでしょう。
忘れられゆく世界のことを、僅かなりともあなたの心に残せたことを願います。
【たぶんここで書かなきゃ伝わらない小ネタ解説】
・マジクシルはマジカルウィッチーズ本体における「通信ボタン」にあたります
・別に本来は宝石型とかではないので、このあたりは物語にする上でのアレンジです
・マジカルウィッチーズでは10分ごとに月が満ち欠けするので、本作中での時間描写もそれに由来します
・作中に登場した古代魔法は全てマジカルウィッチーズに元ネタとなる魔法(呪文)があります
・エネアスがワイズモンへと進化したのは、前編おまけコーナーにあるように、火/土属性の「ハーフマスター」が追加で水属性を獲得すると、「ワイズマン」へと変身することに由来します
・デビモンがスカルサタモンに進化したのも、火/風属性の「デーモン」が土属性を追加で習得すると「サタン」という形態に変身することに由来します
・旧プロットではデビモンが土のウィッチデバイスで進化していたので、その名残です
・ミナの本名を踏まえると、バルルーナの章冒頭で緑衣のウィッチが語った「友達」というのは……?
・最後にふたりが再会できた理由は、前編、エネルージュの章でそれとなく触れられております
【余談】
なんか一箇所だけ挿絵があるのは、他の箇所も描こうとしたものの画力が足りなかったせいです。
何もかも半端でごめんなさい。
本作は、主にメディーバルデュークモンの図鑑説明から着想したお話です。
そしてメディーバルデュークモンの必殺技が具体的に何すんのか図鑑に一切書かれてなくて、描写に悩みました。
魔槍から何を放つんだよ。
ビームか?
ビームでいいか。
ビームということになりました。