はじめに
本作は2018年8月26日に開催されたDiGiコレ7で頒布された七大魔王小説アンソロジー「魔王狂典」に寄稿した作品です(主催様によりネット公開解禁済み)。マダラマゼラン一号が担当したのは嫉妬の魔王リヴァイアモン。作品のお題は「これで終わり」というセリフでした。そのあたりも踏まえて楽しんでくれると幸いです。
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こういう夜は夢を見るのだ。それも、いつもおんなじ夢だ。
眠る前に窓の近くに寄って外の様子を見るだけで、私にはそれが分かる。それがどんな夜だと聞かれたら、眠る前に窓の近くに寄って外の様子を見たくなるような夜だというのが一番冴えた回答だろう。それには天気はあまり関係ない、晴れていようが曇っていようが、或いはそこにあるのが腐った卵のような緑色の空だろうが、私にはその夜の訪れがちゃんと分かる。そして私はいつも眉をひそめてごちゃごちゃと散らかった寝室に戻り、ベッドスタンドに置かれたコーヒーのマグカップを取ると、そっとため息をついてこう呟くのだ。
嵐の季節が、またやってきた、と。
むかーし、むかしのおはなしです。深い深い海の底に、千年もの時を生きるという大きなくじらが住んでいました。
その大きさといったら、彼がわずかに寝息を立てるだけで(もっとも、彼が一度息を吸って吐くまでの間に大抵の生き物たちはその一生を終えてしまうのですが)普段は威張り散らしているほおじろ鮫も震え上がり、彼が気まぐれに大海原の上に浮かべた尾っぽの先で百人の旅人と千羽のかささぎが眠ることが出来るほどでした。
生き物たちはくじらのことを怖がりましたが、同時に彼のことを慕っていました。彼らはくじらに贈り物をしたいと思いました。人間たちがとびきりの輝く石を持ってきたのをきっかけとして、陸の生き物たちはありったけの果実を、海の生き物たちは飛び切りの魚を、そして哀れなあほうどりは自ら灰色の岸壁に頭を打ち付けてその身を差し出しました。
しかしそんな生き物たちの心づくしは、くじらにとっては頭の上のちっぽけな砂粒に過ぎませんでした。生き物たちはどうすればくじらに彼らのあたたかな気持ちを伝えられるか始めは一生懸命考えていましたが、やがてそれを忘れ他のやらなければいけないことを始めました。そして彼らの息子や娘たちはくじらへの恐れと愛を確かめ合うことを忘れ、その孫の代になると、自分たちの思いに応えないくじらの悪口を口にするようになりました。
そういった全てのことが、くじらがわずかなうたたねを楽しんでいる間に起ったのです。彼が目を覚ました時、生き物たちは一様に恐怖を浮かべて彼を見つめ、逃げまどいました。誰もくじらのことを知らなかったのです。くじらの身震いが引き起こす地震に人々は怯え、くじらが悲しんで流す涙が起こす波を恐れて石を投げつけました。
何よりもくじらを傷つけたのは、彼がひとりぼっちだったことです。彼を恐れる小さな生き物たちには、皆仲間がいました。彼らは寄り添いあって励ましあって、みんなでくじらに立ち向かいました。くじらはそれを、たったひとりで受け止めなければいけなかったのです
くじらは彼らの絆に嫉妬しました。けれど、自分も彼らのようになりたいとくじらが思うにはあまりにも乱暴に、あまりにも醜い心で、彼らはくじらを傷つけました。
だからくじらは、彼らにも一人になってもらうことにしたのです。
目を瞑り、その口を大きく開いて、そして勢いよく、がぶりと閉じたのです。
すべてが終わり、満足げにくじらは目を開きました。けれど、そこでひとりなのはやっぱりくじらだけでした。後はみんな、彼の見えない場所に消え去ってしまったのです。くじらは大きく口を動かした後の違和感を歯に感じながら、哀し気に目を閉じました。
そのおとぎ話の最後の最後、がぶり、というところでいつも私は目を覚ます。それはいつだって空が白みだしたばかりの、ベッドを這い出すには少し早い時間だ。
夢はいつも私の幼いころの記憶そのままだ。物語は私の祖母が枕元で私に語ったものと寸分違わず同じ内容で、それを語る声も祖母のものだった。当時の私はこの救いのない物語を語る祖母のことが大好きだった。
今思うと、私は死んだ祖母が私に対して抱いていたよりも幾分多く彼女に愛情を向けていたのだと思う。誰がそんな私を責められるだろう? 私は父と母を失って一人ぼっちの五歳の少女で、祖母が唯一の肉親だったのだ。そんなわけで、彼女は非常に手際よく、私の心のひだの最も小さな隙間にまで、この悪趣味なおとぎ話を沁み込ませてしまった。
その夢は私の心にそんな虚しい思いを残すだけでなく、もう一つだけ、もっとリアルな足跡を一つ残していく。それは大抵の場合地震の形をとる。小さいとは言えないが取り立てて騒ぎになることもない地震。時折小さな津波を伴って早朝のテレビを騒がせる地震。私がおとぎ話の夢を見た朝には、決まってそういうことが起こる。
くじらの身震いが引き起こす地震に人々は怯え、くじらが悲しんで流す涙が起こす波を恐れて、石を投げつけました。
私は自分の夢の成果を確認するために、少し伸びをして起き上がった。床に惨めに放り出された衣類の山の中からデニムの短パンとオーバーサイズの長袖のシャツをつまみ上げて身に着けると、あくびをしながらテレビをつけた。
そして、言葉を失った。
モニターにひっきりなしに流れる文字に、いつもより化粧っ気のないアナウンサーが慌てて飛ばす言葉。私はそれらの断片しか捉えることが出来なかった。「ユカタン半島」だの「津波」だの「首相官邸」だの、そのどれもが私には精彩を欠いた文字列にしか思えなかった。それでも、私の夢の結果がいつもの小さな地震ではないことだけは辛うじて理解できた。
くじらは、彼らにも一人になってもらうことにしたのです。
そのとき、玄関のチャイムが無遠慮に鳴らされた。私は呪いの言葉を再度呟いて玄関に向かう。こんな時間に私の家にやってくる奴は一人しかいない。
「何の用?」
ドアの外に立っていた白鳥正人(シラトリ・マサト)の顔を見もしないで私は言った。
「やあ、朝早くごめん、えっと…」
彼は端正な顔を歪め、気まずそうに私から目を逸らした。眉を顰めて自分の身体を見ると、丈の長いシャツで短いパンツが隠され、不健康な色の足だけが剥き出しになっている。
「どこ見てんの、ちゃんと履いてるわよ、マサ。それより用件は?」
ぶっきらぼうな私の指摘に、彼は恥ずかしそうにはにかんだ。彼とは同年齢の幼馴染で、十六歳の時までは確かに親友だったし、彼のほうでは今でもそのつもりでいるらしい。私は私で「マサ」という忌々しい愛称を未だに捨てきれていなかった。
「蜜花、テレビは見た?」マサが突然に切り出した。
私は黙って頷く。
「…夢は?」
また、黙って頷いた。
「やっぱりか」
「何がやっぱりなのよ」したり顔のマサに私は噛みついた。
「え、分かるだろ? 大災害が起こった。災害の原因は奴にあるとみた当局が、俺を蜜花の家によこした。果たして蜜花は例の夢を見ていた。君は、奴の活性化の前兆として特定の夢を見る。つまり…」
「もういいわ。それより私の質問に答えて。私は『何の用?』って聞いたの」
マサは少し黙って生唾を飲み込むと、意を決したように口を開いた。
「明朝四時、奴──デジタルモンスター・リヴァイアモンが本格的に活性状態に入った。詳しくは分かってないけれど、奴の〈ロストルム〉は一噛みでアメリカのユカタン半島を地図から消した。半島を丸ごとかみ砕いたんだ」
彼は目を瞑り、その口を大きく開いて、そして勢いよく、がぶりと閉じたのです。
「死者、行方不明者の数は数えきれない」マサが続けた。
「俺たち国立情報処理局も黙って見ちゃいられない。一日以内に各国の情報機関との共同作戦が発動される。計画の前段階として、リヴァイアモンの生体データを摂取してアイツと俺たちとの間を媒介する『選ばれし子ども』にも召集がかかっている」
私は肩をすくめた。『選ばれし子ども』、二十二歳になったって『子ども』。私を縛り付ける鎖の名前は変わることはない。
「つまり私はこれから哀れな『子ども』達と一緒に世界を救うのね。嬉しくてたまらないわ」
「いや、その…」
「何よ!」私の皮肉に妙に歯切れの悪い様子で返すマサに声を荒げる。
「実はさ、作戦が立案されてから二十年間で、リヴァイアモンの生体データに適合する人間は一人しか見つからなかったんだ。それが柏木蜜花(カシワギ・ミツカ)、君だよ」
マサは心底、心底申し訳なさそうに、それを告げた。
「蜜花、君にはたった一人で、世界を救ってもらわなくちゃいけない」
*****
十六歳の春、暖かな日差しが差し込む病室のベッドの上で、死の間際の祖母は私にもう年にそぐわないような子供向けのおもちゃをいくつか与え、それからいろいろなことを語った。爽やかな春風が紺色のカーテンを揺らしていたのを覚えている。
彼女は国の情報機関の研究員であること。
彼女のおとぎ話に出てくる「千年くじら」は実在すること。
くじら──リヴァイアモンによる災害を止めるための計画を彼女が主導していたこと。
計画のために「くじら」のデータを摂取した者は、私の両親含め皆死んだこと。
その中で、なぜか私だけが生き残ったこと。
必然的に、私が命を懸けて世界を救う使命を背負ったこと。
マサは祖母の部下の息子で、私の負担を軽減する「仕事」のために、私のそばにいたこと。
祖母は頭のいい女性だったが、死の床にあっては自分の聞かせていたおとぎ話が私に「くじら」の存在と恐ろしさを刷り込むための体のいい創作に過ぎなかったという告白が、一人残された孫娘をどう傷つけるかということまで想像できなかったのだろう。
いや、そもそも彼女は、私の気持ちのことなど一度も考えなかったのかもしれない。
*****
早朝の薄明りに満たされた街、寝ぼけ眼で自堕落な点滅を繰り返す信号機の下を、私とマサを乗せた黒い車が有無を言わさぬ猛スピードで走り抜けた。私はかつて座ったどれよりも柔らかいシートに身を預け、表情のない黒服の運転手が渡してくれたエスプレッソ・コーヒーを啜った。至れり尽くせりだが、髪を整えてまともな服に着替える時間は貰えなかった。
「お腹空いたんだけど、コーヒーだけ?」私は空腹を抱えて言った。。
「サンドウィッチがある」
「最高、どこの三ツ星レストランのかしらね」
「駅前のコンビニだよ」
「さすが、分かってる」
「親友だからな」そう言うマサに私は笑った。それはどうかしら。
私のそんな思いなどつゆ知らず、マサは気をよくした様子で語りだした。
「作戦の前に、基本的な事項を確認しておこうか」
「この期に及んでいつもの講義? 私、そういうのが嫌で大学行かなかったんだけど」
「俺が何度説明しても、デジタルモンスターについて君が半分も理解しないからだろ」
まるで高校の教師のような言い方をする彼に、私は渋面を向けた
「しょうがないでしょ。ネット空間に巣くう怪物の身体組織なんて知らないわよ。大事なのは歴史じゃない? 政府や国連が稀に現実にやってきて暴れる怪物を持て余してること。怪物の存在やその被害を、自分たちの無能っぷりと一緒に三十年近く隠してること」
「蜜花!」マサが鋭い言葉で私を刺した。
「なあに、職場と親に忠義立て? ねえマサ、私は何であなたがあの人たちをそんなに尊敬できるのか本当に分からないわ。私なんか高一の春以来おばあちゃんのことを…」
「柏木博士は立派な研究者だった」
「立派ですって!」私はそう吐き捨てると身を起こし、勢いよく左の袖を捲った。青白い腕に沿って、深く細い溝がはっきりと刻まれている。
「聞いてマサ、研究者でも何でも、立派って言われるような人はね、絶対に自分の孫娘を怪物を操るための道具になんてしないし、『カードリーダー』なんてふざけたことを言って、その子の腕にスーパーのレジスターにあるみたいな溝を彫ったりしないわ。絶対にね」
「…悪かったよ」
「言い返さないの? 喧嘩したっていいのよ。それともやっぱり護衛対象と喧嘩するのはまずいのかしら。そうだよね、仕事中だもんね。喧嘩したら減給とかあるの?」
「やめてくれ、ミツカ」マサは苦しそうな顔を私に向けた。
今度は私が謝る番だった。それは分かっていたが、私はむっつりと唇を尖らせてシートにもたれただけだった。沈黙の中で、車の静かなエンジン音だけが唸りをあげていた。
高校一年の春に祖母の告白を聞いて自暴自棄になり、祖母の貯金を生活の当てにして大学にもいかず就職もしなかった私に対して、マサは名門大学に進学し、私の祖母や彼の親がいた情報機関・国立情報処理局に入った。コネと実力でどんな部署でも選び放題だった彼が選んだのは、子どもの頃と同じ私の護衛とサポートだった。泣かせる話だ。映画にしたらきっと売れるだろう。私もポップコーンくらいなら買ってやってもいい。
分かっている。彼も私と同じ、親に、国に、デジタル・モンスターに人生を捻じ曲げられた被害者だと。そんな境遇の中でも私の傍にいてくれる無二の友人だと。そう頭で分かっていても、彼の前に開けた洋々たる未来を、ずるい、と思ってしまう。
嫉妬が、私から親友を奪ってしまった。
*****
「遅いぞ白鳥、二分三十四秒の遅刻だ」
連れてこられたのは空港だった。朝の五時にもなっていないというのに、辺りには未曽有の大災害にたたき起こされた情報処理局職員たちの声が響いている。どの職員も、まだ眠たいような目の潤みと寝癖で乱れた髪を携えていたが、目の前でマサに声をかけた銀縁眼鏡の男だけは完璧に身だしなみを整えていた。
「秒刻みで遅刻ですって。マサの職場、こんなこと本当に言う人いるんだ」
「おい、蜜花」私の言葉に、マサが不安げに顔をしかめる。どうやら直属の上司らしい。男は私に体を向け、ぶっきらぼうな調子で言った。
「いつもは数分の遅刻くらいでとやかく言わないが今は別だ。一秒遅れるごとに百人が死ぬと考えたほうがいい。」
「私たちが遅刻した時間で何人死んだか計算して、たっぷりと懺悔したほうがいい?」
男は私をじろりと睨んだ。
「挨拶がまだだったな。局長の小林だ。そのような不謹慎なジョークを言う人が『選ばれし子ども』であることを残念に思うよ、柏木蜜花さん。我々は本当に残念に思っているんだ」
「局長」マサが小林と私の間に立った。
「いいのよ、マサ。時間の無駄でしょ」
私を庇おうとするマサを遮って放った言葉に、小林は苦々しげに顔を歪めた。
「確かに、時間の無駄だった。謝罪しよう」
「謝罪ついでに、寝起きの女の子を拉致してどこにいく気か教えてくれないかしら?」
小林はマサのほうを見た。それを合図にマサが話し始める。立派な子分といったところだ。
「俺たちはアメリカに飛ぶんだ。奴を真っ向から叩く。そしてみんなで帰るんだ」
私は小林を盗み見た。目には彼なりの真摯な光が浮かんでいる。「みんなで帰る」は嘘ではないということか。或いは私は初めから「みんな」に含まれていないのかもしれない。
*****
飛行機には私とマサと小林しか乗っていなかった。滑走路で見たときには少人数で乗るには大きいように見えたが、中は案外窮屈だ。
「燃料を多めに積んでるんだ。どこの空港なら安全に着陸できるかもわからないからな」
パソコンの画面を見たままそう言うと、小林は鞄から十数枚のカードを取り出した。表面には意味の良くわからない記号と文字、裏面には緑の模様が印刷されている。
「これ、何?」
「カードだ」代わりに説明をするよう小林から顎で促され、マサが口を開いた。
「見ればわかるわよ。何のカードかって聞いてんの。着陸までゲームでもするわけ?」
「落ち着けよ。もちろんただのカードじゃない。デジタルモンスターに対抗するためのアイテムデータを組み込んだマイクロチップ付きの『デジタル・カード』だよ」
「柏木博士──君のおばあ様の発明品の中でも最も偉大なものだ。柏木博士は、幼い君がそれを使うことを想定していたから、ゲームに使うようなカードの形を選んだんだ」
「私が?」自分で飛ばした疑問符の答えを、私はすぐに自分の腕に見つけた。袖を捲り先ほどマサにも見せた溝、『カードリーダー』をむき出しにする。
「これ?」私の問いに小林が頷く。
「そういうことだ。リヴァイアモンの生体データを摂取している君は奴の変化を敏感に感じ取ると同時に、奴に向けて働きかけるためのデヴァイスにもなることができる」
「この溝にカードを通すわけ? ぞっとしないわね」
幼いころ、祖母に連れられて行った病院で腕に溝を彫りこまれた時の痛みが蘇ってきた。
「今のところリヴァイアモンに直接干渉できる手段はそれだけだ。何とか耐えてほしい」
「殊勝なお願いね。でも、このカードを使ってどうやってあの化け物を倒すのよ? 半島を一つぱっくりやれるくらい大きいのに」
「それは…」
小林は再びマサに目を向けた。余程言いにくい話なのか、今度は彼も顔を歪めている。
「最終的な手段としては、核を想定している。米軍の持ってる中でも飛び切りのやつだ」
私も思わず生唾を飲んだ。ごくり、という音が自分の予想よりも大きく耳に響く。
「そんなことしたら、世界は化け物なんかに頼らなくてもあっという間に滅びそうね」
「ああ、そこで君の力が必要なんだ」
マサは床に広げられたカードの中から一枚を選び取り、私に手渡した。
「…『白い羽』?」
一対の純白の羽の絵と共にカードに記された文字を私は読み上げる。
「そうだ」マサが頷く。
「柏木博士はリヴァイアモンに干渉するためのカードとデヴァイスを作り出した。しかし、それを使ってどのように奴を止めるかは、何一つ言い残さないまま死んでしまったんだ。彼女の死後、研究者達の議論の末、最も見込みがある鍵として選んだのがその『白い羽』だ」
「ええと、このカードはあの化け物に羽をはやすことができるってこと? そんなことして大丈夫なわけ?」私の問いにマサが頷いた。
「心配いらないよ。奴に翼を与えるのは単に標的を地上から引き離すためだ。地上の安全が十分確保される高度に奴が達し次第、核ミサイルが奴を塵一つ残さないまでに粉砕する」
「ずいぶん幼稚な作戦だと思うだろうな?」小林が不意に口を挟んだ。
「まあ、頭がいい人たちが一生懸命考えたにしてはね。羽をはやすことが出来るんだったらもっと色々できてもよさそうなものだけど。体内から爆発させる、とか」
「カードの効果で? いい考えかもしれないな。そうしたら君の体内にある奴の生体データもドカンだ。そんな顔をするな。君のおばあ様はそういうカードは作っていない」
黙りこくった私に小林が無機質な調子で言葉をかけた。
「君の役目はシンプルだ。最初に、『白い羽』を使ってリヴァイアモンに翼を与えること。一枚じゃ奴は持ち上がらないだろうから、数千枚の複製カードを用意している」
「さっきの爆弾の理屈で行くと、私にも羽が生えるの?」
「かもな、でも怖がらなくていい。そしてもう一つ。君には翼を得たアイツの移動を制御してほしい。地面に再着陸したり、陸地のほうに向かったりするのを止めてほしいんだ」
私は絶句した。
「ちょっと、無茶言わないでよ」
「そんなに無茶な話でもない」小林が言った。
「君の体の中にはリヴァイアモンのデータが流れている。それは君の身体だけではなく、心にも影響を与えているはずだ。君は奴の活動に伴って夢を見るんだろう? あれは奴の精神が君の心に干渉しているんだ。それが出来るなら逆だってできないわけはない。仮に奴の精神を操れなくても、作戦の遂行には君の力が不可欠だ。奴の感情を一番理解しているのは君だよ。夢を思い出してみろ。そこにはどんな感情が表れていた?」
「感情? くじらの? そんなのわかるわけ…」
そこまで言って私は口をつぐんだ。わかるわけがないと言ったとしたら。それはきっと嘘になる。子どもの頃から何度も同じ物語を聞かされて私にとっては「くじら」は他人でも、素性の知れない化け物でもなくなっていた。
「…羨ましい」
「え?」私がぽつりと口にした言葉に、マサが面食らったような顔を向ける。
「羨ましいどうして私だけが不幸なのか分からない。どうして皆は誰かと笑いあえるのかわからない。殺してしまいたいほどに妬ましい」
「…蜜花?」
「それが、今の奴の感情の全てよ。ほかには何もない」
「嫉妬の化け物、というわけか」意外にも小林は私の言葉に深くうなずいた。
「…柏木博士の作り話に引き摺られただけじゃないかな。あんな化け物が嫉妬だなんて」
マサが妙に怯えた調子で言った。どうして私のことをそんな目で見るのよ?
「その可能性もあるが、検証する時間はない。我々は柏木さんの考えに基づいて行動する」
小林がそう言い切った瞬間、機体が大きく揺れた。沢山のカードと共に反対の壁に転がり落ちた私をマサが受け止める。
「なんだ?」壁に背中をしたたかに打ち付けた小林は呻きながらも素早く無線機に手を伸ばした。そこから漏れ出る英語の声に耳を傾け、彼は深く重いため息をついた。
「二回目の〈ロストルム〉だ。米軍様が奴を不用意に刺激したらしい」
そしてパイロットにも聞こえるように、声を張り上げた。
「この状況ではどの空港も無理だ。コースを変更する。空から直接奴の近くにいくぞ!」
マサがぐっと唇を引き締め、私の手を握った。
*****
最初は島だと思った。土気色に濁った海の中に浮かぶ、やけに大きく、赤茶けた島。周囲を飛び交う戦闘機が、なぜ島に向けて爆弾を落としているのかわからなかった。と、島が大きく動いた。高い波の紋が浮かび、車や建物だったものの群れを押し流していく。その時飛行機が急激に高度を上げたので、私にもその「島」の全体像が見えた。
「くじらというより鰐ね。おばあちゃんの嘘つき」
私の声は震えていた。私の手を握ったままの隣のマサの顔も、心なしか青ざめている。
「仕方がないさ。博士だってアイツを見たことはなかったんだ。蜜花に投与する生体データを採取した時も、非活性状態のアイツの背中に小さな傷をつけただけだ」
「ずるいわね。なにも見ないで好き勝手なことをして、何も見ないで死んだんだもの」
「…そうだな、ずるいな」マサはそう言って、静かに頷いた。
私たち二人の後ろで通信をしていた小林がこちらに声をかけた。
「今の活動は二回目の〈ロストルム〉から三時間ぶりの活性化だそうだ。理由は不明だ」
「私たちが来たからでしょ」
「我々が?」あっさりとした私の言葉に、小林が驚いて目を向ける。
「というより、私とマサが」
「また、嫉妬か?」マサが少し怯えたように言った。「無理があるよ」
「そう? 自分は一人ぼっちで沢山の人間たちに虐められているのに、その真上で血を分けた同法である私が、男の子と手をつないでるんだもの。あの子の嫉妬は最高潮ね」
ごくりと唾を飲み込むとマサが私の手を離した。
「それなら」苦々しげに小林が言った。「次の〈ロストルム〉は近いかもな」
「それはないわ。次があるとしても、相当先よ」
「どうしてそう言える?」
「あの子、噛み合わせを気にしてるもの」
小林は呆れた様子だった。「冗談を言っている場合じゃないぞ」
「あら、本気よ。あんな大きな口を開いて勢いよく閉じるんだもの。口の中に違和感が残るに決まってるわ。それにあの子の時間の感じ方は人間とは随分…」
「もう沢山だ」不意にマサが言った。
「君に奴の気持ちが分かるのも、その力がどうしても必要なのもわかったよ。でも頼むからあの化け物のことを自分のことみたいに話したり「あの子」なんて呼ぶのはやめてくれ。君が化け物のほうに近づいてるみたいで、たまらない気持ちになるんだ」
こちらを真っ直ぐに見つめて、マサはそう言った。私も彼の目を見て、口を開く。
「やだ」
「え?」
「マサ、私のことバカにしてるわけ? 私がこんな目に遭いたかったとでも思ってるの?」
「そんな、まさか」
「そうよ。私だって、こんな風になりたくなかった! 『選ばれし子ども』の役目だけじゃないわ。こんな可愛げのない女にもなりたくなかったし、嫉妬のせいでマサのことを嫌いにもなりたくなかった! 大切な、たった一人の友達だったのに!」
溢れる感情を言葉にするうち、ずっと隠していた気持ちもマサに言ってしまった。目をあげて、彼の顔を見ることもできない。
「マサには本当に感謝してるの。こんな私の傍にずっといてくれたんだもの。私あなたに沢山酷いこと言って、謝りもしなかったのに!」
だから、だからさ。
「お願い。もう私のことを何一つ否定しないで。私がなりたくなかった私の傍にいてちょうだい。こんな無理なお願い、マサ以外の誰にしろっていうのよ!」
いつの間にか、とめどなく涙が流れていた。その涙を、マサのごつごつとした手が拭う。
「ごめん、蜜花。そして大丈夫だ。何を言われたって、俺はずっと、君のことが好きだよ」
「…ありがとう」
マサが私の手を握る。横でそれを眺めていた小林が静かに言った。
「準備はできたみたいだな。リヴァイアモンがまた活性化した。君たちの繋がりが強くなるのを見て嫉妬で相当ご立腹らしいな。個人的には、ざまあみろと言ってやりたいね」
そして彼は、私に深々と頭を下げた。
「もう一度言おう。柏木蜜花さん。君に頼るしか手がないことを残念に思う。すまない。我々はそれ以外に、道を見つけられなかった」
私はマサの手を握ったまま、もう片方の手を小林に差し出した。
「カードをちょうだい。時間の無駄は嫌いでしょう?」
少々面食らった、しかし明るい顔の小林によって、『白い羽』が私の手に載せられる。
「飛行機のドアを開けて」
頷くと、彼はドアを開いた。冷たい風が、嵐の季節に吹く風が私の頬を打つ。
「はじめるわ」
私はマサの手をそっと外し、腕の溝に沿ってカードを走らせた。
途端に鋭い痛みが体全体に走り、私は声にならない叫びをあげてうずくまる。背中のじくじくとした気持ちの悪い感触に、息を吸うこともままならない。と、私の手を温かい何かが包み込んだ。それが何かは考えるまでもない。その温もりは決して痛みを和らげてはくれなかった。でも、思い切り叫んでいい、泣いてもいいんだと思えた。
気が付くと、痛みは嘘のようにひいていた。私の背中に生えた純白の羽を撫で、マサが耳元でささやきかける。
「とってもキレイだよ、蜜花。本物の天使みたいだ」
私は思わず、くすりと笑った。天使だなんて、私には名乗る資格もないのに。
「二枚目、いけるか?」気遣わしげに尋ねる小林に、私は首を振る。
「いいえ、一枚で十分よ。世界を救うにはね」
私はそう言うと、おもむろに首を曲げ、マサにキスをした。
「マサ、ありがとうね。そして、さよなら」
彼が驚きに目を見開いている隙にその手をそっと振りほどき、床を蹴ると、開いた飛行機のドアから身を投げる。体を上に向けるとマサと小林の叫び声が聞こえた。私の顔が幸福で輝いていたことは、二人にちゃんと見えていただろうか。
『デジタル・カード』の効果は相当なものだ。得たばかりの翼の使い方も、自然に頭に流れ込んでくる。「くじら」の前に舞い降りるのも容易かった。
私に気づいたのだろう。リヴァイアモンはゆっくり口を開け、怒りの声をあげた。
「私のことが憎い?」私はリヴァイアモンに語り掛ける。
「そうだよね。私はあなたが欲しいものを全部持ってるもの。かわいそうなくじらさん」
リヴァイアモンは口を閉じ、鼻を鳴らして見せた。
「でもさ、やっぱり無理だよ。私たちにとっては、あなたは化け物でしかないんだもの」
彼の目に再び怒りの火が灯る。私は大きく息を吸い込んだ。正直、世界を救うことは忘れていた。この子を救えるのは私だけなのだ。私を救えたのがマサだけだったように。だから、言葉を止めてはいけない。
「ねえ、くじらさん。怒らないで。あなたががぶりと私を食べちゃう前に、わたしが一つ、おとぎ話を聞かせてあげるわ」
むかーし、むかし、というわけでもない、最近の話です。みんなに憎まれ、嫉妬に狂った巨大なくじらと、そのくじらの血を飲んだそれはそれはかわいい女の子がいました。
女の子は小さい頃、くじらをやっつける戦士になるために無理やり血を飲まされました。女の子はその使命の為に沢山辛い思いをし、くじらと同じように嫉妬に心をのまれ、やがてずっと好きだった男の子すら憎むようになってしまいました。
でも男の子は、決して女の子から離れようとしませんでした。どんなに酷いことを言われても。それは世を拗ねた女の子にとって、うざったく、でも不思議と心地よいものでした。そして、女の子が今までで一番悩んで一番苦しんだ時も、男の子はそこにいました。
女の子はもう嫉妬に狂ってはいません、世界を憎んではいません。くじらの、自分からすべてを奪った嫉妬そのもののようなくじらでさえ、彼女は救うつもりでいるのです。
かつてくじらは、独りぼっちの自分を嫌い、周りのみんなも同じ独りぼっちにしようとしました。彼の並外れた巨体では、他に手はなかったのでしょう。でも女の子は違います。
女の子は、くじらと一緒にいることを選んだのです。彼を孤独から救うために。
私はポケットから、一枚のカードを取り出した。死の床のおばあちゃんが私にくれた「年にそぐわないような子供向けのおもちゃ」。今は、それが何かわかる。
「あのクソババア、全部作ってたのね。せめてもの形見だと思って持ち歩いてた自分がバカみたいじゃないの」
リヴァイアモンの咆哮に、私はまた前を向く。
「おばあちゃん、あなたに押し付けられた役目、ちゃんと果たすわ。嵐の季節は終わって、もう二度と来ることはない。これで終わりにしよう? 私は許してあげるから」
私はそのカード──爆弾の絵のついた『デジタル・カード』を前に掲げると、静かに、静かに腕に走らせた。体の奥から湧き上がる熱が私を貫くと同時に、くじらが、千年いきる巨大なくじらが、ここではないどこかへと消え去るのが見えた。
〈おしまい〉
腕が抉れて痛むような錯覚を抱いた夏P(ナッピー)です。
くじらと言うので「ホエーモン? いやキングホエーモンか? または大蛇丸か?」と思い浮かべましたが速攻でリヴァイアモンと明かされた。そこで気付いた、七大魔王本への寄稿だったことを。当時は感想お送りしてなかったかな……というわけで改めての感想です。
開幕、いきなりユカタン半島あぼんしましたがレッツ災害だ! サクサクと世界観や状況が明かされていきますが、こうしたデジタルモンスター対策の組織や機構がしっかり出来上がっている世界、好みです。ちゃんと選ばれし子供の存在も認知されているッッ!
昔のおとぎ話は本当にあった出来事なんだろうなと思いました(というか願ったに近い)が、お婆ちゃんはリヴァイアモン自体を知らないまま鬼籍に入られたっぽいのでそういうわけでもないのかしら。ちゃんと「くじらじゃなくて鰐じゃねーか!」とツッコんでくれる蜜花サンはデキる女。マサ君はてっきり過去に何らかの形で蜜花サンを利用したことがあるのかと思いましたが最後までいい奴でした。男女間でもキチンと友情は成立するんだぜとニヤニヤしていたら不意打ちのキスでダメだった。テメーら表に出ろッ!
最後に惚気つつリヴァイアモンと共に在ることを選んだ蜜花サン。白い羽の時点で大分痛かったですが、最後に💣カードスラッシュするところで最早腕の肘から小指にかけてズキズキと痛んで仕方ない。
おとぎ話に始まり、自らの行為をおとぎ話で〆る、絶望的な状況ながらもどこか温かみのあるお話しでした。あと小林さんはあんな感じでしたが実はいい人だ絶対。
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。