暖かさの衰えた秋の空の下。
街の中を、ねずみ色のリュックサックを背負った一人の青年が歩いていた。
服装は上が白色で半袖のカッターシャツで、下が黒色の薄い記事のズボン――と、何処かの学校の制服かと思わしき衣類を見に纏っているようだが、その各部はまるで獣に引き裂かれたかのように不自然な破れ方をしていて、辛うじて靴だけが目立った損傷の無い形を維持しているようだった。
よく見ると、制服の白の所々には赤の色も存在している。
服装だけでも十分悪目立ちする有様だが、当人の面構えもまたそんな衣類の有様を現すが如く酷いものだった。
黒い髪の毛も所々が跳ね返る形で乱れており、耳の下から顎の付近までに生えている髭にしても、まるで何日も剃られず放置されていたとしか思えない長さで。
その瞳は、赤く染まっていた。
目の下には隈が出来ており、満足に眠る事が出来ていない状態を暗に示している。
総じて言って、一般的な認識における身嗜みどころか健康管理すらロクに行えてない事が見受けられる姿だった。
しかし、彼の姿を目にして驚く者はいない。
街の中――それも多くのビルが立ち並ぶ都会だというのにも関わらず、彼の周囲には人の姿も声も見受けられない。
それも当然の事だった。
そもそも、彼が現在歩いている街は最早街と呼べる状態では無いのだから。
建物の窓は度合いに差こそあれど少なからず割れていて、折れ倒れた電柱の傍には切れた電線が放置されていて、かつて誰かが運転していたと思わしき車も上から潰れていたり横転したりしていて、単なる粗大ゴミと化していた。
青年の視界に入る景色だけでもこの有様だった。
まるで、災害の後を想わせる光景。
「……チッ」
唐突に青年が舌打ちをする。
視線が前方右側の方向にある廃墟と化した建物の上方へと移る。
元は何らかの企業のものだったのであろうその屋上から、
――ヴゥルルルルル!!
本能剥き出しの唸るような声と共に『それ』は飛び降りてきた。
その姿を一言で説明するならば、真っ黒い体の恐竜という表現が正しいだろう。
巨大で屈強なその体躯は、異常に発達した両腕も合わさって既に現実離れしている。
尤も、恐竜という時点で既に現代の世界からはかけ離れた存在なのだが、その姿を赤い瞳で捉える青年は恐れも驚きもしなかった。
その表情に浮かぶのは、ただただ不快感。
アスファルトの大地に亀裂を生じさせつつも着地した黒い恐竜は、本能的に獲物として認識した青年の方へとその発達した右の腕を振り下ろそうとした。
青年は気だるそうに後方へと飛び退きそれを回避すると、直後に自ら恐竜の懐に向かって走り出す。
――その瞬間、駆け出すその脚を起点に彼の体は変わりだした。
色は青白く変色し、脚の形は獣のような逆関節のそれに変じ、足先から生える爪も明らかに伸びて毒々しい紫色へと変わる。
変化の過程で穿いていた靴は破ける事も無く何処かへと消失し、ズボンも制服のそれとは異なる材質の、髑髏の装飾品が取り付けられたベルトを締めた別物へと変化する。
そして、尾てい骨にあたる部分から、変化した脚と同じ色の尻尾が生え現れる。
――下半身の変化に続き、上半身もまた変わっていく。
白のカッターシャツが風に溶けるかのように消え去り、露出した肌はそこまでの変化で見せた色と遜色無いものになっていた。
両腕には装飾と言うよりは拘束具に近い鉄の輪がいくつも取り付けられ、指先の爪は足先のそれと同じく紫色に変色して鋭い形に伸び、両手の甲には小さな鉄板が体の一部のようにくっ付き。
胸元や両肩からは白い骨のようなものが皮膚の上から出現し、皮膚の色やベルトに付けられた髑髏の装飾品も相まって生物とは思えない異質な雰囲気を醸し出す。
黒い髪の毛が異常な速度で一斉に伸び出し、背中を覆うほどの規模でもって鬣たてがみの形を成す。
閉じた口元が前方へと突き出しマズルの形に変化し、耳の位置が猫のように即頭部へと移動して、最後に瞳に宿る赤く怪しげな光が輝きを増して。
恐竜の懐に潜り込んだ頃には、全ての変化が終了していた。
――変わった姿は、まるで獅子だった。
獅子の獣人――そうとも呼べる人外の姿へと変貌した青年は、躊躇いも無く恐竜の白い腹に手刀の形で右手の爪を突き立てる。
それだけで十分だった。
獅子の指先は爪の鋭さでもって恐竜の腹部を易々と破り、生じる激痛によって恐竜の口から絶叫が響く。
その声に人外の青年は不快そうに赤い目を細めつつも、突き立てた爪でそのまま引っ掻くような動作でもって腹を貫通した腕を引き抜くと、命の源たる鮮血が吹き出て来る。
それだけに留まらず、鮮度の落ちた肉が腐っていく光景を早送りにしたかのような調子で、黒い恐竜の体が貫かれた腹部を起点に腐臭を放ち始めた。
突き立てた獅子の爪には、その色が示すが如き猛毒が仕込まれていたのだ。
その猛威は肉を腐らせ、そして食らう。
――ヴルルオオ、オオォ……ッ!!
苦痛に満ちた、恐竜の鳴き声。
自身の肉体が腐っていく感覚というものには、どれほどの苦しみが伴うものなのだろうか。
その声は、何かを訴えているようにも聞こえた。
だが、腐食の毒に体を侵された時点で、仮に青年が心変わりしたとしても恐竜の末路は確定している。
もう、助からない。
故に、青年に出来る事も一つしか無かった。
跳躍し、自身の上方に見えていた恐竜の喉笛を右手の爪で貫つらぬき裂さく。
新たな鮮血が漏れ、耳障りに思えた鳴き声が途切れて。
抵抗する力をも失った恐竜の体は、次の瞬間に内側から破裂するように粉々の粒となって消え去った。
吹き出た鮮血以外に、その死を示す跡は残らない。
「……侘びはしないからな。先に仕掛けたのはそっちだ……」
体に降り掛かった鉄錆の臭いのする液体が、人間のそれから変化した獣の鼻を突く。
自分がが殺した存在の爪痕あかしが、強制的に記憶として脳髄に刻み込まれる。
獅子の顔に喜びは無く、その胸の内にはただただ虚無感だけが残された。
「……疲れた……」
うんざりしたようにため息を吐くと、吐息と共に力も抜けていくような感覚があった。
もうその姿でいる必要は無いと判断したのか、獅子の獣人と化していた青年の体は瞬く間に制服姿の人間の姿に戻るが、浴びていた鮮血が制服の白に赤を染み込ませてしまっていた。
その事実に、青年は二度目のため息を吐いてしまう。
(……ああくそ、こんな事に使いたくは無いんだけどな……)
それが何者のものであれ、血の臭いがこびり付いた状態というのはあまり好ましくない。
先ほどの恐竜のような存在を、無用に招きこんでしまう可能性もある。
青年は一度背負っていたリュックサックを下ろすと、野外である事にも構わず着ていた白いカッターシャツを脱ぎ、下ろしたリュックサックの中から2リットル程の水が入る大きさのペットボトルを取り出し、キャップを外して中に入っている飲み水を血液の付着した部分にかけ、濡らし始めた。
無駄に多く使ってしまわぬよう、慎重にペットボトルの傾きを調節する。
狙い目の部分を濡らした後、すぐさまカッターシャツの布地を折って擦る。
付着した量が量だったためか、薄い赤が痕として消せずに残ってしまってはいたのだが、それでも血液の臭いをある程度軽減させる事には成功したらしい。
ついでに、といった感覚で飲み水を少し口を含み、青年は喉を潤しておいた。
「……ふぅ……」
……このような事は、別にこれが初めてではなかった。
人外の生物に殺されそうになり、自らもまた怪物と化して返り討ちにしたことは。
だから、恐竜を殺した際に胸に生じた感覚や鉄錆の臭いにも、慣れていた。
どんな事情があったにせよ、人の足では逃げ切れない歩幅を有して襲い掛かってくる以上は、自らの身の安全を守るために殺す以外の手段は無かった――と、そう考えておけば多少なり気の滅入りを抑える事が出来た。
たとえ、自分が殺した相手が元は自分と同じ人間であったとしても、仕方のない事だったと。
納得出来ずとも、するしかなかった。
濡らしたカッターシャツを着た後、警戒するように周囲に視線を泳がせて安全を確認すると、下ろした荷を改めて背負い青年は歩みを再開する。
当然と言えば当然なのだが濡らしたシャツは冷く、少しだけ不快にはなった。
◆ ◆ ◆ ◆
ある日、世界は変わってしまった。
どうして変わってしまったのか、その原因は不明なままに。
まず最初に、空が裂けたらしい。
まるで画用紙を破いたかのような空の先に、迷彩色の景色が見えていたと。
その次に、世界中の人間の一部が人間ではなくなったらしい。
ある者は獣のように、ある者は竜のように、またある者は機械のように――数々の人間が人外としか呼べない存在へと変貌していった。
まるで風に乗った流行り病ウィルスのようなその災厄は、世界を瞬く間に染め上げた。
それが人知を超えた災厄だったのか、あるいは見知らぬ誰かによる人災だったのか――真相を知る者は、少なくとも常識と法に守られた表舞台にはいなかった。
どちらにせよ、世界に起きた変化について確かな事はいくつかあった。
変化によって現れた人外の存在たちは、全て現実のものである事。
変化の有無に関わらず、世界の大半の人間は一方的に巻き込まれた側である事。
そうして変化した結果得た力を、好んで利用する者がいるという事。
獅子の獣人に変身する青年も、そうした変化の病に蝕まれた一人だった。
様々な人間がどの文献にも記載されていない人外の存在へと変身したように、彼という存在もまたその日に変えられたのだ。
尤も、青年自身は自らが『変わった』その瞬間を憶えてはいないだろう。
どのようにして変えられたのか、その過程も事情も理解はしていない。
だから当然、自分が人間ではないナニカに変わってしまうようになった事を知った時――混乱したし動揺もした。
だが、何よりも彼の心を揺さぶったのは。
変化の瞬間以外にも、憶えていない事が。
思い出せなくなった事があった事だった。
大切な誰かの顔を思い出そうとして、失敗した。
肉親に与えられた自分の名前を思い出そうとして、失敗した。
確かに暖かく在ったはずの家族との営みの場を思い出そうとして、失敗した。
記憶喪失、という事実を彼は記憶の中の知識から認識した。
必死になって記憶を辿ろうとしても、浮かぶ景色には必ず穴があって。
憶えている事よりも、憶えていない事の方が大切なものであったような気がして。
許せない、と思った。
思い出したい、と願った。
その瞬間から、それが彼の歩む目的となった。
行き先の解らない歩みは、いっそ旅か冒険と言っても過言では無かった。
往く途中、腹が空く度に頼りにしたのは、大抵廃棄されて冷房の機能さえ停止した主のいない売店の売り物だった。
金銭を払って手に入れているわけではなく、無許可である時点で盗賊としか言えない行いである事は知覚していたが、そうでもしなければ飢え死にしてしまう事が明白だった以上、他に術は無かった。
日が経って消費期限を切らしていた惣菜も構わず食べたし、そういった整った料理が無かった時には腐っていた肉を売り物としてあった着火機などを使い炙って食べた。
あるいは、獅子の獣人の姿に変身していれば生肉であろうと生野菜であろうと問題無く食べられたかもしれないが、彼には何故かその案を選び取る事が出来なかった。
どうしても、出来なかった。
◆ ◆ ◆ ◆
世界が変わり、空が裂けるような事があっても、昼夜の概念に変わりは無い。
歩き続けている内に日の明るさは消え、暗さや冷たさと共に夜が訪れた。
近場に見つけた芝生の広がる公園に立ち寄り、青年はベンチの上に腰掛ける。
「……はぁ」
徒歩で歩き続ける程度では、大した距離を進む事は出来なかった。
置き去りにされた自転車でも使う事が出来れば話は変わったかもしれないのだが、鍵が掛かったままで使えない状態であったり、何らかの理由で壊れたものであったり、発見出来たものは大抵使おうと思って使える状態では無かった。
最初は青年自身、自分の住んでいた家の場所と形を思い出す事が出来ていれば、そこにあるかもしれない自分の自転車を使う事も視野に入れていたのだが、考えてみれば崩れた建物の瓦礫や硝子の破片などが散乱している道が珍しくない街の中で、所詮は本能丸出しの怪物と遭遇した拍子に壊されてしまう可能性が高いものを頼りにし続けられるかどうかは怪しく思えた。
(……ポケットの中に自転車の鍵が入っていた時点で、俺が自転車を持っていたって事は確実なんだがな……)
どうせ使いようが無いのなら、持ち主であると思わしき自分の名前でも書いてあれば良かったのに――と、内心でどうしようも無いことを毒づく青年。
そんな都合の良いものが用意されているほど甘い話になるなど、歩き始めた最初から思っていなかった。
そもそも、彼には目的地と言える場所も無いのだ。
記憶を取り戻す事を目的とする以上、最も優先するべき事柄は家族との再会となるのだが、家族を含めて今いる街に住んでいた人達が何処へ向かったのか――という問いに対する答えを出せない現状、どの方角に歩みを進めていけば良いのか、青年自身見当も付かない。
最悪、青年が進んでいる方角と住人達の行き先が真逆の方向であるという可能性すらあるのだ。
道標が無い以上、全てが運任せだった。
家族と会える可能性も、再会に繋がる情報を得られる可能性も、明日もまた生き延びられるかどうかの可能性も。
(……最悪過ぎるな。今更思い返すまでもない事実だが)
怪物の蔓延る街の中では、夜中もまた安全ではない。
むしろ、夜中にこそ動きを活発化させる怪物だって存在するのだ。
灯の壊れた街中はとても暗く、とても物を見れる状態ではなくなっている。
そのような暗闇の下であっても他者の姿を一方的に認識出来る怪物の存在を、この時間帯からは警戒しなければならない。
懐中電灯も無い以上、人間の姿のままではこの夜を無事に過ごし続ける事は難しい。
青年は腰掛けていたベンチから立ち上がり、一度深呼吸をして、心を落ち着かせるよう意識を働かせる。
視界に両方の手のひらを入れ、自身のもう一つの姿である獅子の獣人の形をイメージする。
口の中には鋭い牙を、爪には毒を宿す紫の色を、足には地を駆ける獣の力を。
一つ一つ、変わった後の姿と感覚を思い出すように、自身の身体として現実に定着させる。
人間の身体が人外たる獅子の獣人に変わる『変身』の過程はとてもゆっくりで、全ての変化が終わった時には、黒い恐竜と遭遇した時と比べ何十倍もの時間が経過していた。
(……やっぱり時間が掛かってるな……戦いになる時と比べて……)
青年だった獅子の獣人が赤い瞳を細める。
意識して変わろうとしても、変化の速度に違いが生じている事はこれまでの経験で理解していた。
怪物と遭遇するなどの危機的状況であれば、そこまで強く意識したつもりが無くとも半ば自動的に変わってくれるのだが、一方でそれ以外の危機感の薄い状況では余程強く意識しなければ身体が変わってくれる事は無かった。
これでも能力に目覚めて以来、素早く『変身』出来るようになった方である。
その事実を、自分がこの変身能力を制御出来るようになってきたとプラスに考えるべきか、あるいは怪物化の病が知らず知らず進行していっているのだとマイナスに受け止めるべきなのか。
どちらかと言えばプラスに考えたい所だった。
マイナスに考えた所で、この能力が生き抜く上で必要なものとなっている事実は覆しようがなかったから。
(……さて、と……)
獅子の獣人の膂力であれば、街の中を人間の時以上に素早く移動する事が出来る。
だが、先に述べた通り、夜中は夜中で日の光が有った時とは異なる危険が潜んでおり、迂闊に動こうとすればするほど襲撃される可能性は増す。
よって彼は、この公園で一睡を決め込む事にした。
視界を泳がせ、公園の中に造られたツリーハウスのような木造のアスレチックを発見すると、静かにその中へと入っていく。
外部からの視界を遮れる位置に寄り、背負っていた荷を下ろし、仰向けに倒れ込んで眠ろうとしてみる。
当然ながら身を包むものは無く、木の床は寝床としては硬く。
身体を薄く覆う獣毛によって寒さについてはある程度防げるのだが、それとは別問題で眠りから覚めた時には節々を痛めそうな心地の悪さがあった。
(……ここで寝とかないと、後が辛くなる……)
瞼を閉じ、意識を放棄しようと試みる。
疲れは明確にあるはずなのに、思いの他眠気は薄かった。
眠ろうと思えば思うほど、むしろ意識が覚めてしまう。
獣の聴覚が吹く夜風の音も聴き取ってしまい、尚の事眠りにくい。
……本末転倒と言えなくも無いのだが、周りの音を鋭敏に感じ取れなければ、寝首を掻く不意討ちに対応出来ない可能性もあるため、彼はこうして獅子の獣人の姿のまま寝ざるも得ないのだ。
「……ああくそ」
眠ろうと試みて、三十分。
寝心地の悪さも相まって苛立ちは募り、それが尚の事彼の睡魔を遠ざけていた。
無意味だと理解していても、苦言が漏れる。
疲れを癒すために眠ろうとしているのに、眠るために疲れているような気さえしてくる。
それでも眠ろうとする。
眠らなければならない、と頭の中で反芻しながら。
そうして、時間だけが過ぎて。
ようやく意識が閉じてきて、寝息を立てようとした時だった。
ドゴァ……ッッッ!! と。
その耳に、風の音とは異なる凄まじく大きな音が入り込んで来た。
「…………」
一瞬で意識が覚めてしまった。
仰向けに寝転がっていた状態からすぐさま起き上がり、彼は状況を把握しようとアスレチックを構築する木の横壁の上にある隙間から街の景色を覗き見た。
夜中の景色には月の光しか灯りとなるものが無く、今いる位置からでは目を凝らしてみても異変の全容は解らないが、それでも獣の聴覚はある音を聴き取っていた。
彼が推測するにそれは、
(……爆発音。怪物同士が縄張り争いでもしているのか……?)
いくら街の中には怪物が蔓延っているとはいえ、何の理由も無く起きる類の音とは思えない。
怪訝な眼差しで街の方を睨んでいると、再び大きな音が耳の奥を突く。
音源は、かつては多くの人間が住んでいたのであろう九階建てのマンション――その向こう側。
何か怪物絡みの何かが起きている――と確信を得るには十分過ぎる情報だった。
選択肢は三つ。
危険の度合いを確認するために異変の起きている場所へと向かうか、見て見ぬフリをして音源とは真逆の方へ向かって走り去るか、あるいはこの場所に潜伏したまま嵐が去るのを待つか。
少しだけ考えて、彼は選択する。
(……様子を見に向かった方が良さそうだな)
間違い無く、多少の危険は付き纏うだろうが。
何となく、それに見合うだけの発見があるような気がした。
故に、彼は下ろした荷をそのままに、木造のアスレチックの中から出て、向かう。
獅子の膂力を発揮し、人間のそれを凌駕する速度でもってアスファルトの大地を駆け抜ける。
そうして異変の渦中近付くにつれて、獣の嗅覚が新たな情報を獲得していく。
(……煙の臭い。何かが焼けている臭い。そして……この臭いは)
臭いは、どんどん強くなる。
音は一定の間を経て、断続的に響いた。
嫌な予感はしたが、引き返そうとは思わなかった。
(……怪物の臭いだ)
彼は改めて確信を得るように、感じ取った臭いに答えを付けて。
直後、答え合わせが為される。
街灯とは異なる灯りでもって、暗闇の黒がある程度拭われた景色によって。
暗闇に穴を開けるように眼前に広がっていたものは、臭いから推測していた通り――炎。
燃え上がった炎の周囲に、砕け散った駐車場の地面が瓦礫となって散乱しているのが見える。
炎や月明かり越しに見える景色には、それと同じ原因によるものであるのだろう――何者かによる破壊の痕跡が点々と存在していた。
そして、それ等から少し離れた位置に、明確に人間とは異なる輪郭シルエットの巨駆が立っているのが視える。
偶然にも背後から見たその外観は、これまで見た事のある怪物とも異なる異形だった。
形だけで言えば、それは頭から一本の角を生やした竜のような姿。
だがその体表に肉は無く、剥き出しとなった骨自体が身体を成している有様だった。
青年の脳に、知識として記憶されていた恐竜の化石という単語が過ぎる。
視界に入った怪物の姿は最早、骨の竜――あるいは竜の屍と呼ぶ他に無いもので。
その脊椎にあたる部位には、何処か生々しい造形の――生き物のそれのような眼が付いた謎の物体が今まさに肉付けられていた。
それがただ蠢くだけの肉の塊なのか、あるいは点々と存在する破壊痕を作りだした原因なのか、判断する間も無く。
骨の竜の頭部が動き、その瞳にあたる部分に生じていた緑色の光が、ふと獅子の獣人を捉えた。
思っていた以上に近付き過ぎたためか、気付かれてしまったらしい。
骨の竜の口が、開く。
――ギィュルルルォォォオオ!!
顎の筋肉など微塵も残っていないはずにも関わらず、その怪物は感高い奇声を上げていた。
これまで見て来た多くの怪物と同じく、人並みの知性や理性は感じられない。
しかし一方で、その強さの格がこれまで遭遇した怪物達とは違う――と、青年は思った。
直後、骨の竜は青年に向かって振り返り、殺意しか感じられない速度でもって爪を振るった。
咄嗟に後ろに跳び、避けていなければ怪我では済まなかったかもしれない。
剥き出しの骨がどれほどの硬度を誇っているかなど、青年の知識では想像も及ばないが、そう思えるほどの危機感を抱いたのは事実。
肉を持たない骨の身体に、猛毒の爪が通用するとも思えない。
(……最悪だ。いつもながら最悪すぎる……)
ここは全力で逃げるべきだ――と、青年が素直に思案しようとした、
その時だった。
「余所見してんじゃ――」
突然に、誰かの声が聞こえた。
声は上方――骨の竜の頭上から聞こえた。
そして、
「――ねぇ!!」
ゴッッッ……!! と。
骨を強く打つ、鈍い音が夜中に響く。
青年はその赤い瞳で、声と音の主の姿を仰ぎ見た。
その姿を、見た事は無いはずだった。
にも関わらず、何処か見覚えがあるような気がした。
(……こいつは……)
殆ど人の形をした身体を染める主な色は、緑だった。
その頭から長く伸びた髪の色は、薄く青み掛かった白だった。
口元から曲がった牙がはみ出ているのが見え、両耳は長く尖っている。
両肩や即頭部からは、人外の証とも呼べる鉄の色の角らしき突起が生えていて、その外観は青年の脳裏に『鬼』という単語を呼び起こさせる。
その人外は、骨の竜の頭蓋に拳を振り下ろしていた。
音は響いたが、骨の竜に痛みを感じているような素振りは無い。
骨の竜が首を上に動かし、頭に乗った鬼人を振り落とそうとするが、その前に鬼人は獅子の獣人から見て左側の位置に自ら飛び降りた。
「頭を殴ったってのにマジで何ともねぇのか。頑丈なヤツだ」
鬼人は踵を返し、その視線を骨の竜へと向け直し呟いている。
攻撃が通用していない事実を認識していながら、まだ戦おうとしているようにも見える。
そんな姿を見て、思わず青年は困惑交じりの声色でこう言った。
「逃げないのか? 下手をすると死ぬぞ!!」
「あん? ってか誰だお前。話は出来るようだが……っと!!」
言葉を交える暇も無く、骨の竜が追撃を仕掛けに三本指の右手を振り下ろして来た。
幸いにも骨の竜の一撃を鬼人は避ける事が出来たようだが、その事実に安堵する間も無く続けて青年に向けて今度は左腕が振るわれる。
初撃で攻撃の速度を理解していたつもりだったが、それでも回避は間一髪の事となっていた。
動作と共に、言葉が紡がれる。
「お前と同じく人間『だった』同類!! 名前は忘れたから答えられない!!」
「ああそうかい!! 悪いがヤツは俺の獲物だから余計な事はすんなよ!!」
「馬鹿か!? 拳一つでどうにかなる相手でもないだろう!!」
「どうにかするんだよ!! 出来なきゃ死ぬだけだ!! ビビってんならさっさと逃げろ!!」
どうにも撤退の二文字は思考に無いらしい。
青年からすると、鬼人のことを見捨ててしまっても特に損する事柄は無い。
助けなければならない理由も特に無く、助力する事自体を鬼人自身から拒まれている。
だが不思議な事に、それでも放ってはおけないと思った。
だから、
「こっちとしても死なれると困る。勝手に助力させてもらうぞ!!」
「はぁ!? お前馬鹿、俺一人で十分だってー!!」
いちいち鬼人の訴えは聞かなかった。
獅子の獣人は意を決し、骨の竜へと立ち向かう。
◆ ◆ ◆ ◆