前回までのあらすじ
光の世界の図書館で、一行はこの世界の異様な一面を知る。図書館の司書をしているというシスタモン姉妹は、拓海たちにそれぞれ小さなヒントを残していった。
光の世界を後にした一行は、エリスモンとプロットモンの住んでいた村を訪れた。学校でそれぞれの時間を過ごす一行。拓海は八雲に悩みを打ち明け、仲間や友達という感覚について新しい見識を得た。エリスモンの友達でありたいと思っていた拓海は、学校の校庭でいじめっ子のデジモンと不意に戦闘することになる。怪我だらけになっても尚、『友達でいたいから』という拓海とエリスモンの気持ちが響き合ったその時、D-Venereから放たれる光に包まれエリスモンは進化を果たした。
【 第八話・一 】
もうずっと鳴らなければいいのにと思っていたけど、終業のチャイムは今日も鳴る。アスタモンからの急な呼び出しにはもう慣れたものだけれど、彼に会いたいと思って答えたことは一度もなかった。放課後の遊びに誘う友人に、少し迷ってバイトだと答え教室を後にする。足取りはどうにも重かった。
高校受験の時、この高校を選んだのは百合花の学力でも無理なく進学できて家にも近かったからだ。確かいくつかそれなりに結果を残しているクラブはあったはずだけれど、全く興味がなくて覚えていない。偏差値五十そこそこの学校で成績はほぼド真ん中、体育は得意でも苦手でもない。
流行りの丈に揃えたスカートが揺れる。ソックスも流行りの丈とカラーで、鞄には友達とお揃いで買ったマスコットが提げられていた。
週に何度か駅近のカフェでアルバイトをしているけれど、今日はカフェのバイトの日ではない。百合花の普段より随分のんびりとした足が向かったのは、学校最寄りの駅の裏から少し歩いた雑居ビルの上階、『オーソ探偵事務所』の表札のかかった一室だ。
「ああ、百合花。やっと来たね」
「もう帰っていい?」
「いいけど……きみの家に押しかけるよ。きみの交際相手を名乗って」
「やめてよぉ!」
「うん、いい反応だね。子供達から連絡が来てね。昨日は夜まで調査に精を出していてくれたみたいだよ。ご苦労さんだ」
男はそう言って笑う。ソファに腰掛け、長い脚を器用に組み直し、百合花に隣に座るよう促した。男……アスタモンは、現実世界では人間の姿をして過ごしている。長身に長い銀の髪、とてもこの世のものとは思えないほど整った面立ちをしてはいるが、人間の形には収まっているだろう。百合花はアスタモンが人間に擬態した姿を見るのが苦手だ。現実離れした美形を見ていると、自分の平凡な日常が非日常に侵食されていくような居心地の悪さを覚えるのだ。人間のガワだけでは活動できないので、当然偽名も名乗っている。『アラステア・モノフェス』なんていう如何にもな偽名だ。戸籍はどこからか買ったらしい。聞きたくもないのでそれ以上は百合花からは尋ねていないのに、アスタモンは勝手に『アラステア』の設定を語って聞かせた。確かイギリスかどこかの難関大学を卒業した秀才……みたいな設定だったはずだ。更に、エヴォリュシオンではアスタモンの姿をそのままアバターとして登録し活動している。あちらの世界ではもっと人間離れしたアバターの人もたくさんいるので特段目立つこともない。デジタルワールド、エヴォリュシオン、現実世界を股にかける探偵の正体がデジモンだなんて、恐ろしいほどの非日常だ。そんなのは遠く離れた世界の話であって欲しかったのに、それがなぜか百合花の身に降りかかってしまった。なんたることであろうか。
得体の知れない売れない探偵というだけならまだしも、あろうことかアスタモンは探偵として現実世界でも話題になり始めている。興味のある案件しか引き受けないが、引き受けた案件は必ず解決に導く敏腕探偵……だなんて探偵漫画ではないのだからご免被りたいのに、彼はその『敏腕探偵』の名を欲しいままにしている。ネットニュースの取材に答えたり助手として百合花を引っ張り出したり目立つ行動や百合花を巻き込むようなことは本当にやめて欲しいのに、彼は自分の目的と快楽のためなら百合花の気持ちなんか何も気にしたりはしなかった。なんで彼は百合花をパートナーにしたんだろう。前までは目をつけられて嵌められただけだと思っていたけれど、子供達を見ていると少しだけ、そんなことが気になった。
アスタモンは子供達から昨晩送られてきたというメッセージの内容を百合花に見せながら、状況を整理してくれた。彼らは彼らなりに色々頑張っているようだったけど、百合花からすればあんな怖いところでなんで頑張れるのだろうと感心こそすれ自分がしたいとは全く思えなかった。いつでもアスタモンに連れ回されるばかりだし、あそこにいるとなおのこと弱い存在にしかなれない。アスタモンなんていなくても生きていける場所にいたいのに、あの場所ではアスタモン無しではまともに歩くこともままならないのだから。
「……あんたはさあ、進化? とか、興味ないの?」
「ふふ、僕だって一生懸命進化してアスタモンになったんだよ? ……まあ、これ以上の進化っていうなら、そうだね。興味はないよ」
その表情は、氷のように冷たい。いつもへらへら笑って何を考えているのか分からない男なのに、この話題が彼にとって触れたくないものなのだというのが直感的に分かった。だというのに、彼は一瞬でその氷を解かして破顔した。からかわれたのだとすぐに分かった。
「……ぷ、ふふ、怖い? あはは、もう分かりやすいなあ。気になるんならなんでも答えてあげるけど?」
「ちょっとぉ! からかわないでよ! ……それにしても、あの子たちもよくやるよねぇ。私なら無理だよ」
「きみと違って目標や夢なんかがあるだろうからね。誰かに流されるままぼんやり生きてるきみとは、そもそも根本から違うのさ。まあ、だからこそ利用しやすくもあるんだけど。思った通り、色々情報も共有してくれたし。いい子たちなんだね」
「はいはい……」
百合花はごく普通という形容の似合う女子高生である。流行っているものをなんとなく身につけて、流行っている遊びでなんとなく遊ぶ。エヴォリュシオンに行くのだってその一環だ。欲しいかどうか本当はよく分からないのに彼氏欲しいとか言って笑ったり、なんとなくSNSを更新したり、そんなことばかりだ。進路のこともまだ何も考えていないし、自分が何をしたいのかも分からない。そういった日々に不満はないが、楽しいのかと聞かれるとよく分からなかった。アスタモンはそんな百合花を『名前の通りの綺麗に透き通った白い少女だ』とか言って笑っていた。
あの子たちは違う。百合花はまだ事情がよく分かっていないけれど、自分から危ないところへ飛び込んでまでしたいことがあるのだろう。百合花にはない信念も目標も、あの小さな体にたくさん抱いている。百合花は人と衝突しないようにゆらゆらと生きてきたけれど、あの子たちは衝突しても前へ進んでいけるように見えた。百合花がそんなまっすぐすぎる子供たちにできることは、精々悪い大人に利用されないようにと祈ることだけだ。
「ねえ、あんたさあ、あんまりあの子たちに酷いことしないでよ」
「ええ? 酷いことなんて何もしないよ。本当に秘宝が欲しいのなら最後には僕と戦えばいいのさ。まあ僕勝っちゃうけど。戦うの好きだし」
相変わらず、アスタモンの言うことはよく分からない。秘宝なんて手に入れて何を叶えるつもりなのかもよく知らなかった。というか、『なんでも願いを叶える秘宝』なんて胡散臭いものを探していること自体つい昨日知ったばかりだ。
「秘宝なんて手に入れて、どうするつもりなの」
「探偵業を今後どれだけ続けても、絶対に知れないことを知りたい。ただそれだけだよ。僕は敬虔な知の徒なんだ」
アスタモンはそう言って百合花に笑いかけた。やっぱり意味は分からないし、今後分かることもないだろう。アスタモンは自分の過去のことなんか何も話さない。発言の全てが本気のようでも冗談のようでもあって、本心なんて少しも見えてこない。掴みどころのない男だった。
「さあ、調査に行こうか。今日もデジモン絡みの事件だよ。張り切って行こう! 刑事さんをからかおう!」
「やめてってばぁ!!」
勢いよく事務所を後にするアスタモンを急いで追いかける。夏を迎えた日は長く、とろとろとどこまでも伸びていた。
【 第八話・二 】
アスタモンたちへの報告は済ませておいたと八雲からメッセージが届いたので、ありがとうとスタンプで答えた。あの日、八雲は帰りが遅くなってしまった皆を家まで送り届けてくれた。これくらいしかできないからと言って彼は謙遜していたけれど、決してそんなことはないと思う。少なくとも朝陽は、八雲のいいところも得意なこともたくさん知っているつもりだ。
あれからまた一週間ほど経ち、現実世界は梅雨真っ只中である。拓海は肩の怪我で鞄を背負えないので、朝は母に付き添われて登校してくる。スクールバスが時間通りに着けば、校門の方まで拓海を迎えに行ってそのまま鞄を預かり一緒に教室へ向かうようにしていた。拓海の母は拓海に似たさらさらの茶色の髪を綺麗に伸ばして静かに笑う、拓海によく似た人だった。帰りは拓海を家まで送ってから、クラブ活動をしている人が多く乗る遅い時間のバスで帰宅している。そうすると今度はヴォーボモンと過ごせる時間が減ってしまうので、朝陽は早起きをして、毎日彼と少しでも顔を合わせられるようにした。その時間で彼に食べ物を渡したり、飛ぶ練習に付き合ったりしている。ヴォーボモンは数秒程度なら飛ぶことはできるけれど、まだまだ彼の目標とする飛び方には程遠い。滑空は慣れた様子だが、どうしたらヴォーボモンの夢を叶えてあげられるだろう。
拓海は、スナリザモンの攻撃を受けた怪我がまだ完治しておらず、治るまでデジタルワールドでの活動はお預けということになった。趣味のスケートボードも治るまでは禁止されていると語っていて、朝陽はそれがなんだかとても悲しく思えた。教室へ向かう短い時間で少しだけ拓海と話す。教室での拓海はまだ緊張していて、デジモンたちと一緒にいる時みたいにはまだ話してくれない。無理に引っ張っていくことはしたくないけど、友達とも拓海とも本当はもっとおしゃべりしたい。どうしたらいいのだろう。
「滑れないの、拓海は嫌じゃない?」
「あ、うん……でも、その分違うことして過ごすよ。それで……あの、治ったら、今度は朝陽も、よければ一緒に、」
「いいの!? うん、滑りたい!」
「朝陽がそう言ってくれて、嬉しい。朝陽のこと……友達だって思っていいのも、嬉しい」
拓海は少し口下手だけど、短くともその気持ちは朝陽の胸にちゃんと届いている。きっと夢も八雲も同じように思っているだろう。自分も誰かにとってそんな人になれたらいい、と朝陽はいつでも拓海のことを尊敬していた。拓海みたいになれたら、彼みたいに自由になれたら……そう想像することもある。想像すればするほど今の自分が自由でないような気がしてどうにも窮屈な気持ちになるけれど、もうしないではいられない。自分の置かれた環境の息苦しさを、朝陽はもう知ってしまった。でもそうでないみたいな顔をして、ここでは笑う。拓海の悲しい顔なんて見たくないから、朝陽は笑った。
教室へ入ると、拓海は自分の席へまっすぐに向かった。朝陽は鞄を置くと友人の輪にそっと混じって、皆の話を聞いて笑った。朝陽もエヴォリュシオンに来たらいいのに、と誘われるけれど、夜葉のことが頭をよぎるとうんとは言えなかった。話題はあっという間に移り変わり、昼休みは何をして遊ぶかという話になる。ちょっとだけバスケがしたかったけど、せっかくの梅雨の晴れ間なのでグラウンドでサッカーをすることになった。どちらでも構わなかったのでもちろんと答えたところで予鈴が鳴る。拓海はイヤホンをして、ずっとスマホを見ていた。別々の世界にいるみたいだった。
どうか晴れていますようにと願った次の日、カーテンの隙間からは一足早い陽光が鮮烈に差し込んだ。目が覚めた瞬間、考えたくもない思考に飲み込まれて回る。もし夜葉がいなかったら。朝陽のものだったおもちゃもゲームもまだ朝陽のもので、何かを取られることを気にして我慢する必要なんてなかったのではないか。そんな酷い想像をして、自分のことが心の底から嫌になる。夜葉がいないということは、家の中をぱっと明るくするあの笑顔も可愛らしい声もこの場所にはないということだ。そんな日々に耐えられるだろうか。自分では両親のことを心の底から明るくはしてやれない。きっと愛してくれていると分かっているけれど、同時に、夜葉以上にはなれないということも、朝陽はよく分かっていた。
今更自分が全部返してなんて言ったら夜葉はどんな顔をするだろう。きっととても悲しい気持ちにさせてしまうし、両親にはもう譲ったものでしょうとか、もう終わった話でしょうなんて言われるに違いない。実際そうなので、自分は何も言い返せなくなるだろう。
こういうことを考えていると、頭の中がぐちゃぐちゃになって暴れ出したくなる。どうして自分は夢のように揺らがない人でいられないのだろう。八雲のように優しい人でいられないのだろう。拓海のように眩しく自由でいられないのだろう。尊敬する三人のようになれれば、少しはこんな風にめちゃくちゃにならないで済むのだろうか。仲間との会話は、絡まって散らかってばかりの朝陽の心をそっと癒してくれた。それはこの居場所は誰にも取られないと思っているからだろうか。
デジタルワールドから帰ってきてからは、皆で集まって話すことも多くなった。デジモンたちの笑顔を見ると、どんなに辛くて苦しくても、皆の笑顔のために頑張らないとという気持ちが一層強くなる。そのために朝陽の心も、ヴォーボモンも、もっと強くならないといけない。分かっているけど、中々上手くいかなかった。現実世界への影響も心配だ。世界の境界が揺らいで、デジモンが現実世界に入ってきたら、デジモンが好き勝手暴れてしまったり、人間に捕まったデジモンが戦いのための道具にされたりするかもしれない。そんなのは嫌だ。朝陽は家族にも仲間にも笑顔でいて欲しいだけなのに、それが叶わないのが一番嫌だ。そのためなら自分はどんなに不自由で苦しくてもいい。……そう、思っているはずなのに、こと夜葉のことが脳裏をよぎると、そうは思えないような気がして、一層苦しく思えた。そっとベッドから起き上がる。今日はせっかくのお休みで、スケボーの許可が出た拓海と遊べる日なのだから、こんな悲しくなるだけの考え事をしている場合ではないのだ。
ヴォーボモンを連れて例の公園で合流をする。エリスモンも拓海の鞄の中からこちらを見ていて、小さく挨拶すると彼は笑った。他の二組も誘ったが予定が合わなくて今日は会えない。拓海は随分な大荷物で朝陽の目の前に現れた。聞くと、二人分のボードとプロテクター、それからエリスモンやヴォーボモンに乗ってもらうための、拓海がスケボーを始めた頃に使っていたボードを持ってきてくれたのだという。半分持つよ、と言うと、彼はすぐ朝陽に荷物を預けてくれた。ちょっと単純かもしれないけれど、こういう些細な出来事で拓海との距離が近づいているように思えた。
「楽しみすぎて、どうやって教えようか動画見ながら考えてたら、寝てた」
「っはは、俺もすごい楽しみにしてた! ヴォーボモンも、楽しみ?」
エリスモンと同じように大きな鞄に収まったヴォーボモンが小さな声で「おう!」と返事をする。ヴォーボモンの体は石でできているので少し重たいし、鞄越しでも熱が伝わるほど暖かい。今日の気候には少々しんどいはずだけれど、朝陽はちっともつらくなかった。
軽い足取りの拓海に導かれるまま入ったのは、以前彼が滑っていたコースとは違う、一目で初心者用と分かる小さなところだった。平らに舗装された部分がほとんどで、ほんの少しだけ小さな傾斜や障害物が整備されている。ここなら人気もないし、デジモンたちとも滑れるかもしれない。言われるがままプロテクターを付けると、ついに練習が始まった。
乗る、進む、止める、降りるという基礎の基礎から始まったけれど、これが中々難しい。拓海は朝陽がひとつできるたびに、短く褒めてくれた。練習を始めて二時間経つ頃には、前を見ながらボードを滑らせることができるようになった。デジモンたちは誰か来たらすぐ隠れるようにとだけ言って、しばらく好きにさせることにした。
「難しいけど、楽しいな。あー、早く拓海みたいに飛んだりしたいなー!」
「飛ぶのは、今日は無理かもしれないけど……でも、朝陽ならきっとすぐだ」
軽く休憩をしながら空を見上げる。遠く抜けていくような青空が眩しい。デジタルワールドの不自然なほど青い空とは大違いだ。
「拓海拓海、俺たちの滑りも見てくれよー!」
「きゃふー!」
「うん、ふたりともうまいね。でもちゃんと止まれるようにしないと、」
「……うおおああ!!」
「……エリスモン、止まれるようにしないと危ないよ。怪我はしてない?」
「だいじょーぶ……ヴォーボモンはへーき?」
「へへっ! ちょっとくらい痛いのなんてどーってことないぜー! な、拓海! もっと難しいの、教えてくれよ!」
「基礎がしっかりできたらね」
朝陽が引っ込めた一言を簡単に言えるヴォーボモンの明るくて天真爛漫なところを朝陽は常々いいな、と思っている。悲しいことやつらいことを零せば朝陽よりも憤って、嬉しいことや楽しいことを話せば朝陽よりも喜んでくれる。素直な感情表現に朝陽はいつも安心感を覚えていた。
そうして一日かけてスケートボードを滑り倒して、朝陽は簡単に滑れるようになるわけではないと言うことを実感した。空は遠い。それでも、何度よろけても、拓海と一緒だととても楽しい。彼が大好きなものの魅力を知れることも、この気持ちを分かち合えることも楽しかった。
「ね、拓海」
「ん、分からないこと、あった?」
「ううん。後で、拓海が思い切り滑って飛んでるとこが見たいなーって。だって今日一日俺にかかりきりで、全然気持ちよく滑ってないじゃん?」
「友達と一緒に滑れるだけで、楽しいけど……うん。最後に一回だけ、ね」
初めて見た時からずっと拓海の滑りが頭の中に強烈に残っている。どこまでも自由で、高い壁も乗り越えて、飛んでいく。そんな風になりたい。朝陽の足は少しずつしがらみを振り払って飛んでいきたいと訴え始めていた。後もう少しだけ、ともう一度ボードに足をかける。そんな朝陽を、拓海とデジモンたちは優しく見守ってくれていた。
日が沈む前に荷物をまとめ、あの日拓海が滑っていたコースへと向かう。自分と静かに向き合っている拓海は凛として見えた。デジモンたちと小声で、かっこいいねと言葉を交わし、淡い色に染まる空をバックに滑り出す拓海をただ見つめた。ボードは勢いよく滑り出し、拓海はうまくその勢いと方向を制御しながら進んでいく。上り坂に差し掛かっても衰えない勢いのまままずは一度高く飛び、それから華麗に方向を変えて着地する。ヴォーボモンの瞳はカバンの中からでも分かるほど輝いていた。それからも拓海は少しのブレもなく正確に技を決め、ボードを回転させたり飛びながら後ろ向きになったりして、ボードとひとつになっているみたいに見えた。
「な、な、朝陽ッ! カッコいいな〜! 空飛んでるみたいだー!」
「俺も、そう思う……!」
拓海はやがてゆっくりと勢いを殺してからボードを降り朝陽たちの方へ歩いてきた。思ったままの気持ちを伝えると、拓海は照れたように笑った。
「張り切りすぎた、練習してた技も、勢いでやっちゃった。初めてできた」
「すっごい決まってた、本当に凄いよ! やっぱ、いっぱい練習した?」
「あ、うん。どんなにしたくたって突然大技ができるようにはならないから、一個ずつ。基礎も時々見直さないとだし、今日は朝陽と滑れてよかった」
荷物をまとめ帰路につきながら、朝陽は拓海の姿を思いつくままに褒めた。本当にかっこよくて、眩しくて、憧れる。その場で口に出さないと気持ちを抱えきれなくて爆発してしまいそうだから朝陽はそうしたし、拓海も短く返事をしながらずっと聞いていてくれた。
拓海だってすぐに自由に飛べるようになったわけじゃない。何度も転んで、怖い思いもして、今みたいに飛べるようになったに違いない。それなら朝陽だってきっとそうだ。自由でないと気付いたのなら、自由になりたい気持ちに気付いてしまったなら、何度転んで怖い思いをしたって、それで怪我したって頑張るしかない。朝陽の呼吸が今不自由なのは、決して夜葉のせいではない。彼女はただ純粋で無垢な顔をして、そこにいるだけだ。そんな彼女を傷つけてしまうかもしれないけれど、朝陽は進まねばならなかった。家族の幸せも、仲間の笑顔も、自分の自由も諦めない。それが朝陽が選びたい道だ。
「ヴォーボモン、あのさ! もっともーっと! 飛ぶ練習、頑張ろうな!」
「お? おう!!」
相棒のからりとした返事が朝陽を暖かく包む。ぐちゃぐちゃに絡まる気持ちも、どうしたらいいか分からなくて爆発しそうになることもある。皆が思っているほど朝陽は明るい人ではないけれど、それでも、皆に嘘もつきたくないし心配もかけたくない。どちらも叶えるために、朝陽は笑うのだった。
【 第八話・三 】
朝陽とヴォーボモンは互いに目指す飛翔のために日々練習に明け暮れた。早朝の練習はもちろん、夜葉が帰ってくるはずの時間になっても朝陽はヴォーボモンの隣にいた。そうしてヴォーボモンと過ごしたり、皆に練習の成果を報告したりしていると、デジモンやデジタルワールドが自分にとって翼そのものになっていることに段々気がついた。
初めてヴォーボモンとふたりきりでデジタルワールドへ行った日、どうして夜葉に嘘をついてまでゲートを開いたのだろう。あの世界へ自分が向かう理由はなんなのだろう。……ずっと、ヴォーボモンの夢を叶えるためだと思っていた。でもそれは違うと今は分かる。朝陽は、朝陽だけの自由を見つけるためにデジタルワールドへ向かっているのだ。あの世界では、朝陽は朝陽という個人なのだと皆が境界線を引いていてくれる。朝陽の気持ちやしたいことを聞いてくれる。朝陽のことを「お兄ちゃんだから」なんて誰も言わないし、「子供だから」なんてことも言われない。そうした全てが朝陽にとってはしがらみで、家族も学校の友人もいないデジタルワールドは、朝陽にとってはなんのしがらみもない自由の象徴そのものなのだ。皆それぞれに目標があるから、関係を円滑にするために自ら道化になったり我慢する必要もない。向きたい方を向いて、困ったら助け合える信じる仲間と一緒にいられる。現実世界での不自由さは消えないけれど、自由でいられる時間があることが、ただ、嬉しかった。
「朝陽ー! もう一回行くぞー!!」
「オーケー!!」
ヴォーボモンには手本になる親鳥はいない。だから自分でコツを掴むしかない。故郷で彼は、ほとんどの時間息を潜めて暮らしていたらしい。仲間が消える瞬間も、守ってくれた大人の最期の背中も見て育った彼の心の痛みは朝陽では想像してもしきれない。狭間の世界の中でも闇の世界に程近い、岩やマグマの満ちる荒廃した小さな村は平和とは程遠い治安の中にあったのだ。それでも彼は、自由に大空を飛びたいという夢のために今必死に努力をしている。だから朝陽も、そんな敬愛する相棒に倣って頑張りたい。朝陽が、朝陽でいられる時間を少しでも増やすために。
何度も羽ばたいては落ちる音がする。高いところから落ちたら痛いから朝陽ならもっと高度を下げてしまいそうだけれど、ヴォーボモンは落ちる予感を感じても尚空を目指し続けた。その瞳は、夏の暮れ方の焼けた色を見つめている。
「もし、空が飛べたらさあ……自由になれる気がするんだよなあ、なんとなくだけど。弱いだけのおれじゃ、なくなる気がする」
「俺も、そう思うよ。ヴォーボモン、頑張ろうな」
「あったりまえだぜ!」
「……あのさ、ヴォーボモン。今日は、一緒に帰ろうよ」
「え、いいのか!?」
「うん。だってヴォーボモンと一緒にいられないの、嫌だ」
朝陽とヴォーボモンは共に自由を夢見ている。そのことに気がついて以来、デジタルワールドのことをもっと自分のこととして考えられるようになった。友のためではなく、自分のために。この気持ちが今朝陽の中で少しずつ育っている。このまま友のため、と思い続けていたら、またどこかで息苦しくなって思考が絡まってしまっていただろう。拗れた思考の果てに仲間を傷つけていたかもしれない。だから今、気づけてよかった。練習は失敗だらけだけれど、少しずつでも前に進みたかった。
「いつもみたいに窓のとこで待ってて。部屋戻ったら開けるから」
「おう! へへ、楽しみだなー! 皆一緒に寝てるって聞いてたから、ちょっぴり羨ましいと思ってたんだよー!」
屈託のない笑顔が夕陽を映して鈍く光る。朝陽にとって仲間の存在は、夕日を飲み込む遠い夜空の星のようだった。
家に戻ると夜葉が遅いと言いながら朝陽に抱きついた。頭を撫でると、彼女は目を細めて笑う。夜葉と過ごせることも、彼女に兄として必要とされることも嬉しい。それでも今は少しずつ、朝陽も夜葉から離れなければならない。
部屋の窓を開けヴォーボモンを中に入れる。朝陽の部屋は物が少なくて、彼が楽しめる玩具も無い。寂しい部屋だと改めて思う。夕飯が終わったらまた戻ってくると告げると、彼は今日の練習でくたびれたはずの羽をぱたぱたとしながら小さく朝陽に答えた。
夕飯を終えた直後、夜葉がぐいと朝陽の腕を引いた。一緒に遊びたい、と言う彼女の顔には不満が滲んでいる。最近構ってやれていないので当然だ。それでも朝陽は部屋に戻らなければならない。夜葉に説明をして部屋に戻るのが、朝陽が自由を手にするための練習だ。深呼吸をしてから夜葉と視線の高さを合わせる。昔に比べれば随分背も伸びたけれど、夜葉はまだまだ小さい朝陽の妹だ。だから尚更話しづらいけれど、今は踏ん張りどきだ。
「夜葉、俺はお部屋で友達と勉強通話するから、夜葉はお父さんとお母さんと宿題しような」
「やだっ、お兄ちゃんと一緒がいいの」
「……じゃあ、えっと……」
「今がいいの!」
「今は無理だって言ってるだろっ! お願いだから聞いて!」
「今ぁ!!」
「ダメだってば!! 夜葉とは遊べないのッ!!」
しまった、と思った時には既に遅く、夜葉の瞳は瞬く間に潤んでいく。まだ二年生の妹に強く言ってしまったことを、朝陽はただただ後悔した。両親も味方はしてくれないだろう。そう思うと胸の奥がしんと冷えて、苦しかった。やってきた母の顔がまともに見れなくて、母が何か言う前にその場を後にした。夜葉には何も言えなかった。謝るべきだと分かっているのに、それがどうしてもできなかった。
「朝陽? どーした?」
「なんでもない! さてと、まずは宿題済ませないとなー!」
そう言いながら笑顔を浮かべて学校用タブレットを取り出す。ヴォーボモンは最初こそ少し心配そうな表情を浮かべていたけれど、すぐにいつもの明るい顔に戻って、それからはずっと、朝陽と一緒に過ごしていた。
眠る時間になって、夜葉はドア越しに小さくおやすみの挨拶だけしにやってきた。随分落ち込ませてしまっているようだ。朝陽もまだ優しく答えることができなくて、ぶっきらぼうなおやすみを返すので精一杯だった。ヴォーボモンが寝るためのクッションを枕元に置いて、朝陽もベッドへと潜り込む。悪夢を見そうなほどのドロドロとした後悔と、ヴォーボモンと過ごせる喜びとが、朝陽の胸の中で奇妙に同居していた。こんな時、朝陽は話さないではいられない。言葉にしないと感情が渦を巻いて、変な形になってしまいそうだ。
「あのさー、ヴォーボモン。俺、夜葉と話すのちょっと失敗して泣かせちゃった」
「そうなのか、それはちょっと落ち込んじゃうな。どんな話してたんだ?」
「俺、友達といたいから、夜葉とは遊べないよって。でも夜葉は今がいいって言うから……ダメだって、大きい声出しちゃって、それで」
「朝陽は、夜葉と一緒にいたくない?」
「そうじゃないんだ、夜葉とも遊びたい……でもそれは今日じゃない。今日はヴォーボモンの番。それを説明したかったんだけど、うまくできなくて」
「互いにヒートアップしちゃったんだなー、でもさ、大きな声出したのは確かにダメかもしれないけど、朝陽は自分の気持ち、伝えたんだろ?」
「うん……。でも、謝れなかった。謝らなくちゃいけなかったのに」
ヴォーボモンの問いかけが優しく朝陽の思考を整えていく。失敗してしまったことを話すのが怖くて母からは逃げたけれど、ヴォーボモンの前では不思議と、失敗した自分を受け止められた。
「朝陽さー、あの場で謝ってたとしたら、何を謝ってたと思う? 大きな声、出したこと?」
「……それも、あるけど……」
あの場で、謝っていたら。以前までなら間違いなくそうしていただろうからすぐ分かる。だからおのずと、どうしてあの場で謝れなかったのか、その理由も導き出せた。
「夜葉のお願い、叶えてあげてなくて、ごめんね、って。そしたらその後、夜葉のお願い叶えてあげたと思う。でもそれって今までと何にも変わらないよな。俺、変わりたいって思ってるから、だから、できなかったんだ。ごめんねは……言わないとだめだけど、でも俺が今こうしたいって気持ちを伝えることは、大事なことだった。ちょっとやり方間違えちゃったかもしれないけど……。夜葉のことも、ヴォーボモンのことも、俺のことも、大事にしたいんだけど、それってすごい難しいな。俺も、頑張らなくちゃな」
「落ち込んだら、その気持ちを表現するのも大事だろー!? 何も言われなかったらさあ、相棒として悲しいぜ」
「うん、ごめんな。明日、夜葉には謝らないと。大きな声出して、ごめんねって。俺の気持ちも、ちゃんと説明しておかなくちゃ」
失敗は前進の証なのかもしれない。何もできないで変わらないままでいるくらいなら、何でもやって変わっていけばいい。ちょっぴり失敗したからって、朝陽は絶対諦めたくない。皆の笑顔や幸せを守りながら、自分もちゃんと自由になる。自分の足で進みたい道を歩んでいく。今日ヴォーボモンと初めて過ごせたこの夜は、朝陽にとって間違いなく一歩前進できた夜だった。
次の日の朝、ふたりは早くに家を出た。ヴォーボモンの朝練のためだ。帰ったら、ちゃんと夜葉に謝ろうと思う。このごめんねが失敗しても、届くまで何度でもやればいい。ヴォーボモンの姿を見ていると、一度や二度でクヨクヨしていられないなと思える。小さな勇気を何個でも、彼は朝陽に与えてくれた。朝陽も彼の勇気になりたい。だから毎日、彼の数秒の羽ばたきを目に焼き付けていた。
公園の端に生えた木から木へ、懸命に翼を動かし彼は飛ぶ。若く柔らかい芝生に何度も墜落して、そのたびに彼は前を見た。その目には、確かな光が宿って見える。ヴォーボモンは器用に木に登り、また枝の上から隣の木を見据えた。飛べない自分に向き合うことはきっと苦しいことだろう。飛べない自分を受け止めることも、守られてばかりでしかいられないことも、とても辛いことだっただろう。今の朝陽には、彼のその気持ちがよく分かる。飛びたいと思う気持ちも分かる。彼が大空を飛べるように手伝いたいという他者を軸に置いた考えは、いつの間にか、自分も一緒に空を飛びたいという自分を軸に置いたものに変わっていた。それが朝陽の願いの形として正しいと分からせてくれたのは、仲間のありのままの姿と、誰より自分のために頑張っているヴォーボモンの姿そのものだった。
ヴォーボモンが羽を広げる。飛び立つ姿勢を取った一瞬、彼の目はちらりと朝陽を見た。打たれたように朝陽は言葉を紡ぐ。それは願いでも祈りでもあり、また、誓いでもあった。
「絶対、絶対ッ、ぜーったい!! ヴォーボモンは飛べるよ! 俺も、一緒に飛びたい、飛ぶから!!」
「朝陽も、絶対飛べるぜ!! だって飛びたいならさぁ、飛べるまで何度だって羽ばたいたらいいんだから!」
自分が強く羽ばたいて、どこまでも飛んでいきたいという願い。大事な相棒に、大空を高く飛んで欲しいという祈り。形こそ違うけれど、ふたりが求めるものの本質は同じだ。大事な人との健やかな日々を守るために、自由になりたい。ヴォーボモンが翼を広げ、足元をしっかりと蹴り飛び立つ。その瞬間、朝陽のスマホがポケットを飛び出して光を放った。あの時と、全く同じだ。すぐさまスマホを手に取り、画面に触れる。溢れた光がヴォーボモンを包んだ瞬間、夢が叶うのだと直感的に思った。
「うおあああ!!?!」
はず、だったけど。ヴォーボモンは地竜のような姿になり、地面に垂直落下した。図鑑によると、名前はラヴォーボモンというデジモンらしい。翼こそあるものの飛ぶ機能があるようにはとても見えず、溶岩でできたような体は常に熱を帯びて、とても重たそうだった。
「おれ、進化したのか!? うおおおー!! やったーッ!!」
「い、いいのか!? 飛べるのか!?」
「へへっ、いつか飛べればいいんだから、いいんだよ! 飛べるまで何度だっておれはやるッ、だから今は、進化できただけでいいんだ。朝陽と気持ちが重なって、心がぽかぽかンなって、本当嬉しかったからさ!」
パートナーの言葉にはいつも嘘がなくて、気持ちをまっすぐに表現してくれるから安心できる。気持ちが落ち着いてくると、相棒が進化したことへの喜びが、じわじわと胸の内から込み上げてきた。
ヴォーボモンも朝陽もちょっぴりの失敗を繰り返しながら、目指す空へ向けて着実に進み始めている。今、夢は叶わなかったけれど、叶うまでまた何度でも羽ばたけばいい。見守ってくれる仲間がいるのだから、恐れることはない。朝陽は自由になりたい。大事なものは全部守りたい。相棒が教えてくれた気持ちを大事に抱きながら、朝陽は朝の優しい太陽の中で笑っていた。
続
弟や妹を邪険にするというデジモン的壮絶なフラグを建ててしまいましたが果たして。夏P(ナッピー)です。
アスタモンと百合花サンのコンビ、八雲クンもそうでしたが本作は年齢が上である登場人物の方がどこか浮ついて不安定な立場にあるような雰囲気がありますね。小学生の彼らがまっすぐでどこか眩しく見えるのとは対照的。アスタモンのどこか気取った喋り方は好みながら、いやコイツ絶対敵だろと警戒してしまう程度には雰囲気が怪しい。いたいけな(?)女子高生を軽く脅迫しながら振り回すとはなかなかに食えぬ奴、人を喰ったような喋り方しているというのに。
完全体まで進化したけど、それ以上の進化は特に望まないという言葉は本心なのか否か。
メインの登場人物は先に挙げた通り、それぞれがそれぞれを色んな角度や形から立派だとか凄いとか違った良さがあることを既に認識しているのが印象的。年長者から見る小学生の彼らは、つまるところ真っ直ぐさと眩しさなのか。中学生以上だと素直に言えなさそうな、パートナーに対してハッキリと「今日は一緒にいたい」と言えることの何と眩しいことか。
自主練に近い特訓で進化というのもまた乙なもの。ヴォーボモンとデジタルワールドが自分にとって翼なのだという朝陽クンの詩的な表現もまた素敵ですが、冒頭に挙げた通り凄まじく危険なフラグが建っている気がしますね!
それでは今回はこの辺りで感想とさせて頂きます。