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【Part 1/2】
*
少年――坂本翼(さかもとたすく)は夢を見ていた。
それは過去の記憶――翼がまだ5歳の頃、父親と2人でアウトドア用品店に行った時の光景。その日、父にせがんで登山用のゴーグルを買って貰ったのを翼はよく覚えている。
小児の顔にはやや大きめのそのゴーグルを着け、父の肩の上から見回した帰り道の街並みは、翼にはまるで知らない世界の景色に見えた。
幼い好奇心を高ぶらせる翼に、父は優しい声で語りかけた。その言葉は、5歳児にとっては難解なものだったが、どこか不思議な響きを伴って翼の耳にはっきりと残っている。
――厳しい世界を生き抜くために必要なものは、道具や知識だけじゃないんだ。同じ夢を見て、同じ苦境を共に乗り越える――
「起立!」
日直の号令で、翼の意識は現実へ引き戻された。
机に突っ伏していた上体を慌てて起こし、他の生徒達に少し遅れて立ち上がる。黒板の上の壁掛け時計は12時を指していた。そういえば、今日の授業は午前中で終わるんだった――と、翼が記憶を取り戻すのとほぼ同時に、教室天井のスピーカーが耳慣れたチャイム音を奏でた。
坂本翼、13歳。
中学生になって初めての、夏休みの始まりだった。

ep.01「少年は夢と共に」
*
【20XX.07.23 12:06(JST)】
昇降口を出ると、真昼の太陽が鬱陶しいまでの熱気と僅かな痛みを翼の肌にぶつける。雲一つ無い晴れ空の下、外へ出る者に平等に日光は降り注いでいるはずだが、翼同様学校を後にする生徒達は夏休みの始まりに浮かれてかそれを気にも留めないようだった。元気そうだな、と独りごち、翼は半袖ワイシャツの襟ボタンを外した。
「おい、翼!」
すぐ背後から翼を呼ぶ、これまた元気そうな声は、この学校では唯一翼の友人と呼べる少年の声だった。
振り向くと、眉間目掛けて手刀が振り下ろされた。翼はくいと体を捻り、紙一重でそれを躱す。
「……うん、さすがの動体視力。昨日のよりは避けにくいと思ったんだけど、翼にゃ簡単過ぎたか」
「サッカーボールのアレか。次やったら許さねえぞ、マジで怪我するかと思ったよ」
声と手刀の主――星上誠(ほしがみまこと)は、翼の同級生である。去る3月の中頃に隣の市から引っ越して来たという彼は、中学校に入って一月と経たない内にクラスのムードメーカーとなった、明るさと友好の化身のような人物だ。
「でもお前の目はホンモノだって! いつだかの体育でドッジボールやった時だって、誰も翼にボールを当てられなかったしな! 球技とか格闘技とか始めたら、エースだって狙えるぜ!」
「大袈裟だよ。そもそもオレ、スポーツ嫌いだし」
答えつつ翼が歩みを進めると、誠もその隣を歩く。帰宅部の翼と空手部の誠が帰路を共にすることは滅多に無いが、今日のように下校のタイミングが合うと、どちらから言い出すでもなく並んで歩くのが定番となっていた。
「ンだよ、もったいねーの……ところで翼、お前さっきのHRで寝てたろ。珍しいな、お前が居眠りなんて」
「先生の話が退屈だったから、つい。ってか、なんで知ってんだよ」
「いやー、偶然目に入っちゃったんだわ」
「3つ真後ろの席が偶然目に入るか……?」
誠の言う通り、翼が授業中に居眠りをすることは殆ど無い――否、恐らくこれが生まれて初めてであった。早寝早起きをモットーとする翼だが、昨晩は眠るに眠れない状況であったがために睡眠不足のまま登校するに至ったのだ。
「……何かあったか」
急に真顔になる誠。普段翼に素っ気なくあしらわれても笑顔を絶やさない彼がそんな顔をするぐらいなので、恐らく自分は余程暗い表情をしているのだろう、と翼は思った。
「……父さんのことでちょっと、ね」
昨晩翼が眠れなかった理由――そして恐らくは、翼が幼き日の思い出を夢に見た理由――、それは翼がこの世で最も尊敬する人物、翼の父親にまつわることだった。
翼の父、坂本龍三(-りゅうぞう)は「冒険家」である。
1、2ヶ月程の期間で海外諸国を飛び回り、その記録の数々でもって金を稼ぐ。それが龍三の稼業である、と幼い翼に語ったのは龍三自身だった。エッセイを数冊と、世界各地の絶景を収めた写真集を1冊出しており、それらは全部翼の自室の本棚にしまってある。
翼は、父の社会的地位や世間体等に興味は無かった。沢山の土産物と土産話を持ち帰り、翼に世界の広さを教えてくれる父を、翼はただ尊敬していた。東亜に流れる大河の景観、西洋の荒野で出会った人々、南国の島で採れた珍しい木の実、北極で白熊と格闘した経験……等々、日本で普通に生活している限り決して出会うことのない事物の話を、父は楽しそうに語ってくれた。また、それを聞くことで翼も楽しくなった。
父との思い出はそれだけではない。龍三はたまに家に帰って来ると、翼をちょっとした「冒険」に連れ出してくれた。龍三の土産話同様その中身は日によって様々で、近所の散歩から本格的なキャンプまで、2人はシチュエーション毎に目標を設定して屋外を歩き回った。龍三は翼を「冒険」に連れ出す度、地理や天文、サバイバル等の知識を実用的な技能と併せて翼に教えた。それは幼い翼にとって一番の娯楽であり、純粋な知的好奇心を満たし得る教養でもあった。
そんな父に憧れて、翼は「冒険家」を志していた。
しかし、ある時から龍三は殆ど家に帰らなくなった。半年程家を空けることも珍しくなくなり、久し振りに帰って来たかと思えば荷物を整理してさっさと出掛けてしまう……そんな生活が続き、龍三が家族と触れ合う時間はめっきり減ってしまった。それでも龍三は、毎月22日には国際電話で翼と母に連絡を――時差を考慮して、翼が家にいる夕方から夜にかけて――とってくれたが、今月はまだそれが無い。龍三はきっと電話をかけてくれる、そう信じて翼は昨晩、電話機の前で夜が更けるまで待ち続けていたのであった。
「そっか、それで寝不足……ていうか、翼の親父さんってそんなすげー仕事してたのか」
「うん、父さんはすごい人だよ。近所の人達はあんまりいい顔しないけど……」
「なんでだろーな、すげーカッコいいのに」
普段は独りで下る坂道を、今日の翼は誠と並んで歩いている。
普通の人々――例えば翼らの前後を談笑しながら歩く生徒達――であればその辛気臭さに鼻をつまむような翼の身の上話を、誠は嫌な顔一つせず聴いていた。それが翼にとってはいささか不思議に感じられた。
「そんで、親父さんのその……冒険家? の仕事が忙しくなった理由とか、聞いてねーの?」
「訊く度にはぐらかされてたんだよな……だから、あんまり問い詰めない方がいいのかな、って」
「えぇ~? そういうのって一度ガツンと質問した方がいいって! ただ言いたくないだけか、本当に言い辛いことなのかも、今のままじゃ分かんねーだろ?」
それはそうだけど、と、翼が言葉を濁していると、2人は交差点に辿り着いた。向かって左側の歩行者用信号が青に変わったばかりの様子である。
「とにかくさ、大事なことは言葉にして相手に伝えなきゃどーにもなんないぜ! 翼と親父さんは仲良しみたいだから、話せば分かると思う! ……じゃ、オレこっちだから。またな!」
そうまくし立てると、誠は全速力で横断歩道を駆け抜けて行った。落ち着きの無い奴、と思いながら、翼は誠と反対の方向に歩みを進めた。
*
【20XX.07.23 12:40(JST)】
父との思い出を辿って行く中で、翼の脳裏にある記憶が蘇っていた。それは微睡の中に見た幼き日の光景――龍三が翼に語った言葉だった。
――厳しい世界を生き抜くために必要なものは、道具や知識だけじゃないんだ。同じ夢を見て、同じ苦境を共に乗り越える相棒がいるといい。翼、冒険に挑む誰かの力になってやれ。
これはきっと「友達を作れ」という意味だろう。初め、翼はそう解釈した。だから小学校に入ってからは、積極的に周囲の人間と関わるつもりだった。面白いものに溢れたこの世界、きっとそこに暮らす人々も興味深い何かを持っているに違いない――そんな期待を抱きながら。
ところが、翼を待っていたのは、「あまり面白くない」現実だった。
学校で出会った子供達に、夢や理想といったものは無かった。探究心と呼べるものもやはり無い。日々の会話のネタといえば、流行りのテレビ番組や芸能人のこと等。その面倒を見る教師ですら、さほどためになる講釈をしてはくれない。――端的に言えば、龍三の言う「冒険に挑む」人間など、一人として見つからなかったのである。
それが理解できたのは小学3年生の頃で、翼は友達作りをすっかり諦めてしまった。単にクラスメイトと仲良くなるだけなら、流行りものの知識を集めるだけでそれなりに上手く行ったのかも知れないが、生憎翼の知識欲はそういったものに対して全く作用しなかった。翼の周囲の子供達も、翼を好奇の目でこそ見れ積極的に関心を示すことは無かったため、互いに興味が無いのなら無理に接触を図らなくてもよいと翼は思っていた。翼には、冒険への憧れと、父親の存在さえあればそれでよかったのだ。
何の因果か、龍三が家を空けがちになり始めたのは、翼が周囲の人間に対する興味を完全に失った頃だった。心の拠り所、とまではいかないものの、翼の人生にとって極めて重要な存在であった龍三が、手の届かない場所へ行ってしまう――そんな不安と喪失感によって、自分の生活から徐々に彩りが失われて行くのを翼は感じていた。
坂本翼が「孤独」という概念を身を以て理解したのは、こういった体験によってであった。
学童達の多くが通学に用いるバス通りを避け、翼は人通りの少ない遠回りな道を通学路にしている。広葉樹の並木で日差しを遮られているその道は、翼のお気に入りの場所だった。街の喧騒から遠ざかり、時折通り過ぎる車の音、辺りにほんのり漂う雑木の香り、頭上に切り取られる空の模様等に感覚を集中させている間のみ、自分が自分でいられる気がするからだ。
しかし、今日ばかりは訳が違った。誠に己の身の上を語るに当たり、己の過去と現在、そして己の在り方を見つめ直すことになり、翼は少なからず動揺していたのである。自分が今日まで目を逸らし続けて来た独りぼっちの坂本翼と向き合う試みは、苦しみとも悲しみともとれない暗い感情を翼の胸にわだかまらせた。
自宅に着くと、家の前には明らかに身内のものでない軽自動車が停められていた。来客だろうか、と思いつつ表口のドアノブを引くとドアはすんなり開き、玄関にはこれまた身内のものでない男物の革靴が一足行儀よく並んでいた。
靴を脱ぎ、リビングの戸を開けると、翼の疑問はすぐに晴れた。
「やあ翼、お邪魔してるよ」
30分前にも教室で顔を合わせたばかりの若い男性――クラス担任の中村(なかむら)が、客間で茶を飲んでいた。テーブルの向かい側には、翼の母である和恵(かずえ)も座っている。
そういえば、今日は家庭訪問があるんだった……と、翼は数日前の記憶を回顧する。中学校の前期終業から数日間、翼ら第1学年のクラス担任達が各生徒の家を訪れ、保護者との面談を行うのである。中村の受け持つ1年C組、その最初の割り当てが翼の家であることは、中村が保護者向けに配ったプリントに確かに書いてあった。
「お帰り、翼。丁度あなたの成績について話してたんだけど、現代文のテスト50点だったらしいじゃない」
先程までは接客用の笑顔だった和恵の顔が、急に不機嫌な色に変わった。うるさいな、と翼は口の中で毒づく。地理のテストは95点だったのだからいいじゃないか、と。
「まあまあ……先程申し上げた通り、他の教科、特に地歴なんかでは好成績を修めてますし、まだ伸びしろはありますよ……それより翼、こっちで一緒にお話ししよう。将来の進路のこととか、色々聞きたいな」
中村は笑顔で語りかけて来るが、翼には母や教師と膝を交えて話すことなどそう多くはない。
「……オレ、将来は冒険家になります。父さんみたいな立派な人になって、世界中を旅するんです」
そう言って翼は、リビングの戸を閉め、2階の自室に引っ込んだ。
自室で制服から私服に着替えた翼は、すぐに玄関へ向かった。といっても、行きたい場所がある訳ではない。気の向くまま外を散歩し、気が向いたら家に帰る。そんな、目的地の無い「小冒険」が、近頃の翼の暇潰しになっていた。
シューズの靴紐を結び、玄関のドアを押し開けた時、翼の耳に、和恵と中村の会話が断片的に聞こえて来た。
「翼君、学校ではあまり人と話さないから分かりませんでしたけど、将来の夢というか、意志がはっきりしていていいですね」
「いえいえ、夢だなんて言えるほど大層なものでは……あの子、うちの旦那の仕事に憧れてるみたいなんですけど、旦那は本当は――」
バタン。
話し声が扉に遮られると同時に、セミ達の鳴き声が翼を包んだ。
知らぬ間に止めていた息を細く吐き、翼は歩き始めた。例によって行く先は決めない。翼はただ、どこか遠くへ行きたいと思った。
*
【20XX.07.23 13:35(JST)】
「相棒」、とは何だろう。
隣の区まで徒歩でやって来た翼は、広い公園の隅のベンチに腰掛けて考え込んでいた。
父の言葉に則って考えると、同じ夢、同じ苦境を共有する存在をそう呼ぶらしい。となると、世間一般に「友達」と呼ばれる関係がこれに当てはまらないことは翼にも想像がつく。
友達をまともに作れていない――誠とは友達と呼べる程濃い付き合いをしていない――自分に、相棒と呼べる存在と出会うことができるのか。或いは、自分が誰かにとっての相棒になれるのか。
俯いて思索に耽っていると、うっすらと耳鳴りが聞こえ始めた。自分は疲れているのだろうか、と思い、翼は帰路につくべくベンチを立った。
――タスケテ――
耳鳴りに混じって、誰かの消え入りそうな声が聞こえた。一体誰が、と翼は辺りを見回すが、平日の昼下がりということもあってか周りには誰もいない。
――ボクヲ、タスケテ――
また、同じ声。不思議とその声色は印象に残らず、言葉が聞こえた、という感覚だけが記憶に残る。
どうやら翼は、何者かに呼ばれているらしい。しかし声の主の姿は見えない。どうしたものだろう、と首を傾げていると、公園の外に並ぶ街灯が1つ、昼間の往来に光を灯すのが見えた。
――ハヤク、コッチニ――
3度目の呼びかけと同時に、点灯した街灯の隣で1本、そのまた隣で1本と、伝播するように街灯が次々に光り始めた。光が伝わって行くその方向を見ると、翼は僅かに耳鳴りが大きくなるのを感じた。
翼は、街灯の光が示す方向へ駆け出した。
翼が街へ飛び出すと、街灯や看板の電灯が道を示すように光った。その方向へ進むにつれ、翼の耳鳴りはますます強くなる。
しばらく走っていると、翼はどこかの住宅街の外れ、雑木林と舗装路を色褪せた緑の金網1枚で隔てた通りに来ていた。街灯の「道案内」はそこで止まってしまったが、金網の向こうに広がる林、その奥に何者かがいることを、翼は尚も強まる耳鳴りで感じていた。
有刺鉄線の途切れた部分から、翼はフェンスを乗り越えて薄暗い林へ入って行く。湿った落ち葉を踏む音も、虫や鳥の鳴き声も、耳鳴りに掻き消されて遠く聞こえた。
さらに奥へ進むと、翼の聴覚を遮っていた煩わしい耳鳴りは不意にぴたりと止んだ。
そして、翼は「それ」を見付けた。
「それ」は、例えるならば東洋の伝説に登場する《竜》――の、幼体。先が二股に分かれた2本の角、1対のヒレ状の部位を持ち、全身に緑色の鱗を纏った、翼の両腕で抱えられそうな大きさのタツノオトシゴ風の生物が、全身に傷を負い、仰向けになって腐葉土の上に横たわっていた。
何だ、コイツ。翼の困惑は、自然と声になって口からこぼれていた。
真っ先に思い浮かんだのは、UMA――所謂未確認生物、実在するか否かも定かでないクリーチャー。それと遭遇してしまったのでは、と思ったのである。龍三も、かつてヒマラヤの奥地で「雪男」を目撃したと語っており、翼は今でもそれを信じている。そんな都市伝説めいた存在に、家の近くで遭遇するというのはいささか妙な話かも知れないが、これ以外に目の前の生物を適切に名状できる語を翼は知らない。
地面に力無く肢体を投げ出す「それ」に、翼は恐る恐る近寄った。肺呼吸でもしているのか、蛇腹状の腹部が律動的に上下している。しかしその動きは小刻みで浅く、息も絶え絶え、という表現が相応しい有様であった。普通の動物であれば、このまま放っておけば死んでしまうだろう。
助けなくては。翼の手は、何の躊躇いも無しに目の間の「それ」を抱え上げていた。このまま「それ」に死なれてしまっては気分が悪いから、という理由もあるが、何より翼は「助けて」という声に導かれてここまで来たのだから。
翼は「それ」を両腕にしっかりと抱いたまま、来た道を駆け足で引き返して行った。
*
【20XX.07.23 14:00(JST)】
何故、自分だけが「それ」の存在に気が付いたのか。何故「それ」は大怪我を負っていたのか。そもそも、人語によって自分を呼び寄せたのは本当に「それ」なのか――。
普通ならすぐに思い至って然るべきいくつもの疑問が翼の心中に生じたのは、翼が例の生物を抱えて自宅の前に辿り着いてからであった。ぜえぜえと息を弾ませながら辺りの様子を伺うと、既に中村の車は姿を消し、昼の住宅街にはセミの声が響くばかりである。
緑色の小さな竜を両腕に抱えたまま、翼は右手指で玄関のドアノブをそっと引いてみた。無用心にも鍵はかかっていない。翼はそのまま右爪先でドアを開けて玄関に上がり込み、なるべく音を立てないように2階の自室に入った。そしてベッドの上に折り畳まれたタオルケットにそっと竜を横たえる。
そうしてまた忍び足で下階へ降りると、翼はTシャツの裾で顔の汗を拭い、何事も無かったかのようにリビングのドアを開けた。冷房の効いた部屋の中、和恵は一人で茶を飲みながら、テレビのニュース番組を観ている。
「……ただいま」
「あら、お帰り。随分早かったわね」
和恵の反応は尤もであった。通常翼の「小冒険」は2時間程続くが、今日はそれを1時間程度で切り上げて帰宅したのだ。
「ちょっと、お腹空いちゃったから」
「そっか、今日は給食無かったんだもんね。レトルトカレーでも食べる?」
「うん。ありがと」
ごく自然な会話をしている間、翼は2階に匿った竜をどうするかということについて思考を巡らせていた。まずは傷口の消毒、次いで応急処置。食欲があれば何か食べさせ、後は静かな場所で休ませておく――素人考えで思い付くのはこの程度である。第一、人間や動物を対象とした治療法がUMAに通用する確証も無いため、ここから先は賭けに等しい一発勝負だ。
和恵が台所で食器の用意をしている間、翼はリビング隅の戸棚から木製の救急箱を取り出し、食卓の下に置いた。それからしばらくして、和恵がカレーライスの入った皿とスプーンを運んで来たので、
「オレ、2階で食べるね」
一言断り、カレー皿と、先程用意した救急箱をさりげなく手に取り、いそいそと2階へ向かった。
自室に戻ると、小さな竜は変わらず布団の上に寝転がっていた。まだ息はあるが、この状態がいつまで続くかは分からない。翼は心を決め、しゃがんだ姿勢でゆっくりと竜に近付いた。
竜の身体のあちこちに開く大小の傷は、深く抉れて紅い断面を露わにしているものの出血は見られない。大がかりな止血をする必要が無いと分かり安堵する翼だったが、それでも未知の生物に手を触れる勇気はまだ出ない。
どうしたものか、と竜を見つめながら考えていると、閉じられていた竜の両目がぱちりと開いた。アメジストにも似た2つの大きな瞳をぐりぐりと動かし、竜は辺りを慌ただしく見回した後、翼の顔面に視線を固定した。
――そういえば昔、父さんが言っていた気がする。動物にガンを飛ばされた時、睨み返すと大抵喧嘩になる、と。
翼は咄嗟に目を逸らし、カレー皿を竜の前に差し出した。これは本来怪我をした竜の体力を回復させるために持ち込んだものであったが、これで竜の機嫌をとれないか試そうと思ったのである。これが竜の口に合わなければ、代わりに食われるのは自分だろうか……そんな恐怖が、翼の額に大粒の冷や汗を滲ませた。
「えっと……これ、食べます……?」
竜は徐ろに上体を起こし、うっすらと湯気を上らせるカレーライスに顔を近付けた。そして数回鼻をひくひくさせ、カレールーの部分を細長い舌先で少し舐めると――皿に勢いよく顔を突っ込んだ。
「うわあ!?」
出会ってから初めて見る大きなアクションに、翼は思わず飛び退ってしまう。そんな翼には目もくれず、竜は一心不乱といった様子でカレーライスを貪っていた。時折ルーの飛沫と米粒がフローリングや自分の顔に降りかかるのを、翼は呆然と眺める他無かった。
皿の中身を綺麗に平らげると、竜はその首をゆっくりと翼に向けた。――まだ足りないの!? 次はオレ!? という嫌な予感に突き動かされ、翼は部屋のドアに駆け寄った。
ひとまず竜を部屋に閉じ込め、その隙に和恵をどこかへ避難させねば。焦る頭の片隅でそんな行動計画を練りつつ、翼はドアを背に竜の様子を伺った。すると、翼の意識はさらなる驚きに打ちのめされた。竜の体が、ヘリウム風船の如くふわふわと浮いているではないか。
竜は音も無く宙を滑り、一瞬で翼の鼻先へ肉薄した。
――あ、終わった。
咄嗟に悲鳴を上げることも叶わず立ち尽くす、静寂の数秒間。竜の口元が開き、鋭い牙が露わになる様が、翼の目にはやけにスローに映った。
「オレを助けたのは、オメーか?」
――誰かの、声。
小さな竜は、相変わらず翼の目の前に浮いている。翼の頭が齧られる気配は無かった。
「……おい、聞いてるか?」
また、同じ声。性格の荒い男児、とでも形容できそうなその声は、確かに翼の聴覚が捉えたものであった。しかし、その声の主はどこにいるのか。それだけが翼には……
いや、いる。人語を喋ってもおかしくなさそうな存在が、丁度目の前に。
「……え、君、喋れるの……?」
「おう、何かおかしいか」
にべもない調子で放たれた言葉に合わせて、竜の口元が確かに動いている。
――何から何までおかしいよ! そう喚きたいのをぐっと堪え、翼は改めて眼前の「それ」を凝視した。宙に浮かび、人語を話す、緑色の小さな竜を。
坂本翼、13歳。
夏休み最初の思い出は、不思議要素3点盛りの生物との遭遇であった。
*
【20XX.07.23 14:32(JST)】
翼は普段、人と話すということを滅多にしない。その理由はただ一つ、「話しても面白くないから」である。同じ時間をかけてにらめっこをするなら、その辺の人間よりも本の方が100倍ためになる――という持論が翼の中で固まったのは、小学4年生の頃だったと記憶する。
それはそれとして、翼が今まで遠ざけて来た大衆の中になら、UMAとの会話の作法を知る者がいただろうか。或いは、結局今朝になっても電話をかけてくれなかった父親なら――。
部屋のあちこちを、興味深そうに見て飛び回る小さな竜。翼はドアの前にへたり込み、半ば放心状態でその様を見つめていた。
翼が敵でないことは、竜には案外すんなりと理解してもらえた。しかし、それ以上何を話せばいいのか、現実離れした事象の数々に掻き回された翼の脳味噌では考えがまとまらない。
翼はこの時初めて、自分が所謂「口下手」なのでは、という点に思い至った。人間とも碌に話せない者が、どうしてUMAと仲良く会話できようか、と。
「……なあ、オメー」
「はひっ!?」
思いがけず竜の方から会話を振られ、翼は素っ頓狂な声を上げてしまった。竜は訝しげな顔を――顔の構造は人間とは骨格レベルで異なる筈なのに、目元の動きがやけに人間的であった――しつつも、流暢に言葉を続けた。
「オメー、なんか弱そーなナリしてるけど、何て種族のデジモンなんだ? この辺に住んでるのか?」
「え? でじ……もん?」
流石未確認生物というべきか、口に出す名詞も謎めいている。
「いや、オレはただの人間だけど……君はその、デジモン? ってやつなの?」
「そ、オレは〈ベビドモン〉ってんだ。改めて、助けてくれたことには礼を言っとくぜ」
「ああ、どういたしまして……オレはただ、呼ばれて行っただけなんだけどね」
「呼ばれた? 誰に?」
はて、と翼は首を傾げた。そういえば、先程翼を呼んだ声と〈ベビドモン〉の物言いは、一人称からして異なっていた。翼に助けを求めた存在は、ベビドモンとは別の何かだったのだろうか、と翼は考える。
「まあ、別にいいや。それにしても、ニンゲンか……うん、記憶にねえ」
「えっと、オレからも質問なんだけど……君はどこから来たの? どうしてあの場所に倒れてたの?」
翼の問いかけに、ベビドモンはしばし空中で動きを止めて考え込む様子を見せる。そして一言、簡潔に答えた。
「悪い、なーんも覚えてない」
「……『覚えてない』?」
「あぁ。オレがどこで何をしていて、どうしてここに来ちまったのか、その他諸々の記憶がほとんどすっぽ抜けてんだ。今オレが覚えてるのは……そうだな、オレがベビドモンっつー種族のデジモンの一個体で、誰かに追いかけられて命からがら逃げて来た、ってことぐらいだ」
「記憶喪失」――ベビドモンの現状を端的に言い表すと、こうなる。
ベビドモンの失った記憶はどのようなものだったのか。そこも気になるが、翼の興味は主にベビドモンの中に残っている記憶の方に向けられていた。彼の発言から推察されるのは、彼が「種族」という概念を理解・記憶していること、そして彼の命が何者かに狙われていたこと。ベビドモンが人間並みの知能を持ち、人類とほぼ同水準の文明で生活していたとでも考えなければ、記憶喪失の状態で自身にまつわる基本的な情報をこうも詳細に語れることの説明がつかない。
「えっと……さっきから気になってたんだけど……デジモン、って何?」
「オメー、デジモンを知らねーのか。そんなら教えてやるよ……オレは《デジタルモンスター》、略してデジモンっつーイキモノの中の1体だ。細かいことは忘れちまったけど、オメーらニンゲンと違うってことだけは確かだな」
デジタルモンスター。生まれて初めて聞くその固有名詞を、翼は頭の中で反芻した。デジタルと聞くと、PCやスマートフォンに使われている技術のそれを連想する。人間の生み出した電子工学の技術と謎の生物、この二者にどのような関係があるのか翼には見当が付かなかったが、翼が街灯の点灯という電気的な現象に導かれてベビドモンと出会ったことから、デジタルモンスターが何か電気的な性質・能力を有していることは予想できた。
「さて、と。腹も膨れたし、オレはそろそろ行くぜ」
ベビドモンの一言が束の間の沈黙を破る。翼が仰ぎ見ると、ベビドモンは部屋の窓にふわふわと近付き、その鼻先をゴツンとぶつけた。
「いてっ……なんだ、こっから出られるんじゃねえのか……」
「いやいやちょっと待って! 怪我は大丈夫なの!? ていうか、記憶が無いのに外に出てどうするのさ!?」
言いつつ、ベビドモンに近付き――そこで翼は目を瞠る。ベビドモンの体表に生々しく刻まれていたいくつもの傷、それが一つ残らず塞がっていたのである。
「メシ食って休んでりゃ、多少の傷はすぐ治るさ。それにな、記憶はねーけど、次にやることはもう決まってんだよ」
「やること、って?」
「外から同類の気配がする。オレを追っかけてたヤローが近くにいるかも知んねーからよ、そいつのツラ拝んでくる」
「え、それが当たりだったら次こそ死んじゃうんじゃ……」
「うるせーな! そいつを見ればちょっとくらい記憶が戻るかもって話だよ! いいからオレをこっから出せ!」
凄まじい剣幕で威嚇されてしまったので、翼は渋々施錠してあった窓を開けた。ベビドモンは一転して明るい表情になると、
「助けてくれてありがとな、ニンゲン! もしまた生きて会えたら、そん時ゃ改めて礼をさせてくれよな!」
そんなことを言い、勢いよく窓から飛び出して行った。身体的な消耗を一切感じさせないその飛行を見れば、ベビドモンがこれ以上の手助けを必要としていないことは翼にも分かる。
住宅街を横切って遠方へ消えて行く竜の後ろ姿を見送っていると、翼はあることに気が付いた。
――そういえばオレ、自分の名前を言ってなかったな。
会話の基本を思い出させてくれた存在が、よりによって人外のクリーチャーであったことに、翼は若干の情けなさを覚えた。
*
【20XX.07.23 14:59(JST)】
床や寝具に飛び散ったカレールーをティッシュで拭いながら、翼はベビドモンの行方を案じた。
「同類の気配がする」、というのは、ベビドモンのような不思議生物、もとい《デジタルモンスター》が近くにいるということらしい。ベビドモンはそれに直接会うべく外に飛び出した訳だが、問題はまさにそこにある。先のように派手に空を飛び回れば、街行く人の注目が集まって本当のUMA騒ぎになってしまう。また、ベビドモンの向かった先に仇がい場合、再び喧嘩を売って勝てる望みが薄いことは明らかであった。
後を追うべきか。翼は開け放してあった窓から身を乗り出しベビドモンが飛び去った方向を見つめた。空を飛べる彼が地上の障害物を気にする必要は無い筈なので、恐らく目的地までのルートは一直線。南向きの窓から右前方、方角としてはほぼ南西――何の因果か、翼の通う虹ヶ沢中がある方向ではないか。
「……行ってみるか」
呟くと、翼は丸めたティッシュをプラスチック製のゴミ箱に投げ入れ、皿とスプーンを持ち1階のリビングへ駆け込んだ。
「あら、どーしたの翼。そんなに慌てて」
翼が急いで部屋に入ること自体が珍しいからだろう、台所にいた和恵はティーカップを洗う手を止めて翼の顔を覗き見た。
「ちょっと用事ができたんだ。今から学校行ってくる」
「学校? 何か忘れ物、とか?」
「うん、そんなとこ。ところでお母さん……」
「ん、何?」
「カレーのおかわり、貰っていいかな……」
和恵に怪訝な顔をされながら新しい皿でカレーを食し、玄関先で和恵にやたら心配そうな顔で見送られてから、翼は改めて脳内で行動計画を整理した。
まずは自宅から中学校までの最短ルート、即ち人通りの多い通学路を歩き、地上と上空を注意深く見て回る。そして念のため中学校にも立ち入る。そこまでの範囲でベビドモン又はデジタルモンスターらしき何かが見つかったら接触を図り、見つからなければ探索ルートを延長する――というのが、翼の計画であった。
わざわざデジモンに近付く意義について、翼はあまり深く考えていなかった。彼らが人目に付いて騒ぎを起こさないよう忠告し、その後のアクションはその場で決める。翼にできることはせいぜいそれくらいのものである。
いざ通学路へ出、中学校までの道をきょろきょろ首を振りながら歩いてみると、結論からしてそれらしいものは見当たらなかった。自宅付近の路地で野良猫に鉢合わせて威嚇された程度のものである。――まあ、UMAがそんなに簡単に見付かったら都市伝説にもなりはしないか。そう自分に言い聞かせ、翼は休憩がてら足を止めていた場所に目を向けた。
市立虹ヶ沢中学校。翼らの学び舎だ。夏季の大会に向けて練習をしている吹奏楽部や野球部等を除き、生徒の多くが下校した様子だった。
中学校に私服で踏み入るのはこれが初めてで、翼は誰かに咎められはしないかと警戒していた。しかし、屋外を歩く者は無く、校庭の方から若者達のどよめきがうっすらと聞こえるばかりである。野球部の生徒達だろうか、と翼は思ったが、練習中の声にしては覇気に欠け、あからさまな困惑すら含んでいる。
何かあったのか。普段であれば他人の動向など気にする用事も持たない翼だったが、今ばかりは諸々の心配に駆られてどうにも注意を引かれてしまう。諸々に心配、というのは、言わずもがなベビドモンにまつわることだ。どうせ校庭は真っ先に見に行くつもりだった、と、翼は駆け足で校庭に向かった。
一面にクリーム色の光を照り返す砂地で、キャップにユニフォームというお決まりの出で立ちの野球部員ら――に加え、教員らしきスーツ姿の男女数名が、校門側に背を向け、寄り集まって校庭の内側を見つめている。見立て通り、どよめきの源はここに相違なかった。翼は野次馬の背中の向こうをそっと覗き込んだ。
うっすらと陽炎を昇らせるグラウンドに、これといって不審なモノは見当たらない。その代わり、空中に青白いスパーク様の光がいくつも明滅し、蛍の群れを思わせる不思議な光景を作り出していた。
稲光にも似たその光の色合いは、まさに感電でもするかの如き速さで翼の記憶を刺激した。それは奇妙な電気的現象を引き起こす存在、
「ようニンゲン、また会ったな。こんなとこで何してんだ」
そう、丁度こんな感じの喋り方をする――
「うあぁビックリした! 何してんのこんなとこで!?」
「質問してんのはこっちだっての……」
心当たりの筆頭ことベビドモンが、いつの間にか翼の傍にぷかぷか浮いていた。勝手に後を追った手前、こちらから声をかけることはあっても向こうから声をかけられることは無いと思っていたので、翼はすっかり調子を崩されてしまった。
「えっと、オレはベビドモンのことが気になって追いかけて来たんだけど……キミはここで何をしてたの?」
問いを返すと、ベビドモンは校庭に目線を移しながら答える。
「さっきも言ったろ、『同類の気配がする』って。それを追っかけて来たらよ、どうもアタリっぽいのがいたから様子を見てたんだ」
宙を漂う謎の燐光を、ベビドモンは好奇の目で――やはり目元の動きは人間臭く、人外である彼の心境が面白い程簡単に読み取れてしまう――眺めている。件の光を指して「アタリっぽい」と評しているならば、それが敵の姿、或いは敵の存在を知らせる現象なのだろう。
しかし、この状況が今後どのように変化していくというのか。翼が野次馬に混じって現場を見守っていると、不意に空中の光の粒子が急激にその量を増した。
「ベビドモン、どうなってんのあれ……?」
「おいおいおい……コイツ、思った以上の大物だ。しかも殺意ムキダシと来てる。ニンゲン、この状況はちとマズいぞ」
「マズい、って、どうマズいの?」
「そーだなぁ……早いとこ逃げないと、ここにいるニンゲンが半分くらい巻き添え食うって感じ」
「そんな……ッ!?」
驚きのあまり飛び出た翼の大音声で、野次馬はようやく翼の存在に気付いた。振り向く彼らの目からベビドモンを隠すべく、翼は咄嗟にベビドモンの体を引っ掴んで後手に隠した。
「君、ウチの生徒? ダメだよ、夏休みだからって私服で学校に入っちゃ……」
一人の男性教師が大方予想通りの小言を口にするが、今はそんなことを気にしている場合ではない。翼は腹の底まで息を吸い、半ばヤケクソ気味に声を張り上げた。
「全員ここから早く逃げて! このままじゃ死人が出る!」
これだけ緊張感たっぷりの声で警告すれば、皆この場を離れてくれるだろう。そう期待していたが、野次馬達は翼を冷ややかな目で見るだけだった。束の間の沈黙に、大袈裟だよ、何言ってんだコイツ、という感想まで滲み出しているような雰囲気だ。
「オメーのお仲間、命知らずだな。死ぬかも知れないってわざわざ警告してやってんのに、誰も逃げようとしねえ。ニンゲンって実は見た目の割に強いのか?」
「……そんな訳ないよ……」
恐らくは純粋な疑問から来ているであろうベビドモンの問いが、今ばかりは皮肉めいて聞こえてしまう。人ならざるモノの視点から見れば、この光景は異様に思えるのだろう。
「……この人達にとっては、これが普通なんだ。命のやり取りとか、人が大勢死ぬような状況なんかとは無縁の世界で生きてるから。きっと、自分や仲間が痛い目を見るまで、分かんないんだ……」
どんな危険が近付いても、自分だけは大丈夫だと信じたい。そういう心理が誰にでもあると翼に教えたのは、龍三であった。職業柄危険な場所を選んで渡り歩く彼は、人間の抱く「恐怖」の感情が冒険には最も重要だと考えていたらしい。輝かしい冒険の思い出話には必ず身の危険を感じたエピソードを付け加え、その度に「臆病な内は意外と死なない」という旨の言葉を残す。そんな様が、坂本龍三という人物の死生観を印象付けていた。
臆病な内は死なない。ということは、裏を返せば。
「……臆病でないヤツから、死ぬ」
「利口だな。分かってんならとっとと逃げやがれ、敵がもうすぐ出て来るぞ」
翼の手をするりと抜け出し、ベビドモンが翼の鼻面の前に躍り出た。翼を一瞥したその眼の中では、一杯に開いた黒色の瞳孔が極限の緊張を漲らせていた。丁度、先程翼を威嚇した野良猫のタペタムのように。
敵が「出て来る」、とはどういうことだろう。そう訝しみつつ校庭を眺めていると、その光景は急速に変容し始めた。先刻まで当て所無く宙を漂うばかりだった光の粒が、みるみる内にその数を増し、空中のある一点に集まって光の球を形作った。そしてその球は、程無くして乾いた破裂音と眩いスパークを周囲一帯に放った。翼と野次馬の男女は、咄嗟に顔を両手で覆った。
強烈な光に晒された翼の目が視界を取り戻した時、翼はベビドモンの言葉の意味を理解した。
謎の光が姿を消した代わりに、校庭には狼然としたシルエットの何かが佇んでいる。それがただの狼でないことは、紫色の体毛で覆われた目測3、4メートル程の体、両肩と両目を覆う蝙蝠の羽めいた部位、そして足先に生えた巨大な爪――否、むしろ「刃」にも見える――を見れば翼にも察しがつく。あれがベビドモンの言う「敵」……ここに居合わせた人間をも殺しかねない脅威なのだ。
「先生何あれ、オオカミ?」
「いや、分かんないけど……とにかく君達は離れて!」
「やだ、110番繋がらない……」
生徒らと教師らの気の抜けたやり取りを他所に、ベビドモンはゆっくりと彼らの目の前に出て見せた。そこで野次馬はようやくベビドモンの存在に気付き一層どよめきを大きくしたが、ベビドモンはそれに構わず、突如現れた狼もどきに向かって言葉を投げかけた。
「よう、誰だオメー」
気さくなようでどこか張り詰めたトーンの問いに、狼もどきはくいと首を持ち上げ、
「私は〈サングルゥモン〉、リヴァイアモン様に楯突いた貴様を処分すべくここへ来た。一度手合わせをしているはずだが、まさか憶えていないと……?」
男性風のハスキーな声で応じた。人外2体が人語で会話をしているこの状況に、野次馬はいよいよパニックを起こしかけている様子だった。かくいう翼は、ああこいつも喋るんだ、と一応驚いてはいるが、それよりもここにいる人々の安全の方が余程気掛かりだった。
「実はオレさ、記憶ソーシツ? ってヤツみたいで、オメーと会ったことも含めて昔のことは何も思い出せねーんだわ。……だからさ、記憶が戻るまでの間だけでいいから、見逃しちゃくんねーかな、なんて……」
「……あれだけ丁寧に甚振ってやった後でそんな口が利ける辺り、記憶が無いというのは本当らしいな」
「そーそー、だから――」
「だがそれとこれとは話が別だ。貴様をレジスタンスの主力たらしめた力、その因子が貴様の中に残っている以上、貴様は完全に削除せねばならん」
「はあぁ!? 話通じねーのかこの犬公が!」
サングルゥモン、と名乗ったデジタルモンスターは、低い唸り声を漏らしながら左前足を前に進めた。翼にはモンスターらの会話が意味するところは何一つ読み取れなかったが、ベビドモンの命乞いが聞き入れられなかった点でその先の流れはなんとなく予想できた。
【謝辞+あとがきのようなもの】
設定、及びストーリーの構成に関して相談に乗ってくれた空岸(からきし)(Twitter:@karakishi2000)氏に感謝を。
また、「デジモン創作サロン」の正式オープンを心からお祝いすると共に、このような素敵なWEBサイトを用意してくださり、デスジェネラル……もといスタートダッシュ部隊の一員に私を迎えてくださったイグドラ・シル子様に深く感謝を申し上げます。
本作『Function-D』では、各エピソード毎にちょっとしたおまけコンテンツ(通称「F-D DATABLOCKS」)をお届けします。これらは物語の背景に存在する様々な「記録」をひとくちメモ程度にまとめたものです。『Function-D』の世界をより深く楽しみたいという方は、是非こちらも併せてご覧ください。
F-D DATABLOCKS
Kda001 - KENGO's DIARY site-A level.3
〈Digital World〉
〈reason〉
〈truth〉
願わくは、これから僕が記す全てのテキストが、僕の遺書にならない事を祈って。
SPICAがかねてよりその存在を仮定し研究を進めていた「既存並行デジタル世界」、通称デジタルワールド。どうやら僕は、仮説上のものでしかなかったその世界に本当に来てしまったらしい。けど、僕にはそれが未だに信じられない。現状を上手く飲み込めない。一度に色々なことが起こりすぎて混乱しているのかもしれない。
デジタルワールドは実在した。但し、入手した資料にあるように、「超巨大なデータ容量を有するサイバースペース」というだけではなく、デジタルデータの概念を基本原理として成立している一つの次元時空である、という認識が適切であるようだ。
次に、デジタルモンスター、通称「デジモン」について。彼等の存在についてはSPICAでも研究が始まったばかりで、偶然イギリス国内のインターネット回線に侵入してきたヒョコモンを「デジモン・プログラム検体02」としてオフラインの装置に格納し終えていよいよ研究が始まろうかという段階だったと見られる。デジタルワールドの住民である彼等は、動植物、ロボットや空想上の生物といった多種多様な種族に分かれて生息しているようだが、現時点ではこれ以上のことは判明していない。
デジタルワールドの詳細な仕組み、デジモンの生態、そして僕がこの世界に召喚された理由……不明な点は山程あるが、今はこの世界で生き延びる方法を考えるのが最優先だ。元の世界に生きて帰れなければ、どんなに有益な情報を手に入れても意味がない。
早く、真実を突き止めなければならない。
現実世界を蝕むモノの正体と、あの男が隠している事情の全てを。
Zfr011 - ZERO-FIELDS REPORT site-A level.3
〈LEAF〉
〈monitoring〉
〈partner〉
DW時間0410、イグドラシルのサブシステムを経由して新型デジヴァイス《LEAF》の正規バージョン5台がRWへ転送された。予想される量子変換質量が小さいため物理レベルでの探知は困難だが、テイマーとデジモンのデータリンクが開始されればウェイブ力場を介して位置の特定が可能となるため、RWの広域モニタリングを継続して行う。
これに伴い、RWのネットワークに侵入したデジモンの探知・追跡を開始。現時点でイーサネットを回遊しているデジモンは5体、内3体が成長期。残る2体はそれぞれ幼年期Ⅱと成熟期、後者が前者を追い回している模様。この中にパートナーデジモンに選ばれる個体がいる確率は高いため、これらの追跡も引き続き行う。
Zfr012 - ZERO-FIELDS REPORT site-A level.3
〈LEAF〉
〈Realize〉
〈SPICA〉
RW時間1912(UTC)、正規版LEAF1台がイギリスのロンドンに実体化した。同地点にはデジモンが複数体リアライズしていたらしく、その内の1体(ヒョコモン)とそのテイマー(ユーザー名:Kengo Hayase)のデータリンクが検知された。その数分後同地点にデジタルゲートが発生(局所的デジタルシフトによる偶発的なもの)、件のデジモンとテイマーがデジタイズ転送された。
LEAFユーザーの第1号である彼は、SPICAスクエアでパートナーと接触した模様。デジモン及びDWの研究であらゆる情報とスキャンダルを抱える組織の本拠地にデジモンがリアライズするという事態は、単なる偶然とは考え難い。これに関してRWのネットワークを検索したが、ロンドン市警その他複数の組織による情報規制が行われたらしく有益な情報は得られなかった。