←PREV NEXT→
【Part 1/3】
*
【20XX.07.22 18:50(BST)】
「おめでとうトシ、歴史に残る大発明じゃないか!」
「ありがとう。でもね、この偉業は仲間達の協力無しには成し得なかった。勿論、君達パトロンの存在無しにもね」
「ハハハ、いいってことよ! ところで、お前さんのスピーチはもうすぐだったな? 格好良くキメてくれよ」
――何が大発明だ。何が偉業だ。
スーツ姿で談笑する父親とその友人数名を尻目に、早勢健悟(はやせけんご)は木製のベンチに腰掛け、タブレット端末の画面を突いていた。
この日、健悟の機嫌はすこぶる悪かった。家で一日中数独(ナンバープレイス)を解いて過ごす予定を潰されたことも、やたら高級そうな式典用スーツを無理やり着せられたことも、人のごった返すパーティー会場に連れて来られたこともそうだが、何より自分が〈トシ〉こと早勢俊彦(-としひこ)の一人息子としてこの場に連れ込まれたことが健悟にとっては不服だった。
俊彦が一研究部門の主任として属する《SPICA(スピカ)》/先進通信技術開発者協会――シティ・オブ・ロンドンに位置するその本拠地の庭園で、件のパーティーは催された。俊彦率いる研究チームが4年の歳月を費やして開発した次世代型デジタル通信技術、その完成を祝ってSPICA主催の式典が開かれ、全てのスタッフとその親族、そして主だった出資者がこれに招かれたのである。
そう、親族。健悟がこの場所にいる唯一つの、健悟に言わせればこじつけにも等しい理由。
「――おい、健悟」
名前を呼ばれるタイミングは大方予想通り。手元の視界に落とされた影は、知人との談話を終えた俊彦のものだった。渋々仰ぎ見たその表情は、先程見た笑顔からは予想もつかない程に冷たい、それこそ家畜でも見るかのようなものだった。
そんな表情を肉親に向けられるとは――と、驚き呆れずにはいられない健悟であった。
「パーティー会場だぞ。そんな物弄ってないで、他の人達と話でもしてきたらどうだ? ほら、向こうのテーブルにハーバート・イーストン氏もいらしてるんだ。彼は量子力学の権威で――」
話の中身には微塵も興味が湧かないが、要するに「社交場に相応しい振る舞いをしろ」とこの男は諭したいのだろう。健悟は頭上の能面を睨みつけ、あらかじめ腹に溜めていた言葉を吐いた。
「行きたくもないパーティーに放り込まれたって時に、貴方は知り合いでもない人と楽しくおしゃべりができるのか? 僕にはとてもできそうにないんだけどね」
「……大人には必要な技能だ」
健悟が口答えをすると、俊彦は決まって健悟を遠回しに「子供」呼ばわりする。それ自体はいつものことで、健悟自身も慣れたつもりでいたが、今でもそれに対して言い返さずにはいられない「子供」な自分がいるという事実が一層健悟の機嫌を損ねた。
「『大人』? 作法の教示とでも言わんばかりに子供に嫌がらせをするのが大人の模範、って訳か。たまに父親らしいことをしたかったんだろうけど、ブランクが長過ぎたね」
「お前な……私は以前から仲間に『家族を紹介してくれ』と頼まれていただけだ。そうでもなければ、お前のような愚息を公衆の面前に出したりするものか」
「ああ、紹介できる身内が僕しかいないからか。惜しいことをしたね、こうなると知ってたら母さんが出て行くのを止めようとしただろうに」
母さん、という語を健悟が口にした途端、俊彦の表情が明らかに引き攣った。
健悟の記憶する限り、俊彦との口喧嘩はこれまでに十数回あり、その全てにおいて俊彦がお決まりの能面顏を崩したことは一度たりとも無かった。また、2人の口論で「家族」の話題が出たことも、9年前に家を出た母親の話を健悟が口にしたことも、やはり今日まで無かったのである。
健悟が5歳の頃、両親は別れてしまった。その理由は誰も――母親は勿論、今も目の前にいる父親でさえ――語ってはくれなかったが、幼少期の健悟は「父が仕事に明け暮れ家庭を顧みなかったせいだろう」と感じていた。だが、そんな幼い直感を暗に否定したのは、健悟の親権が俊彦に渡ったという事実だった。
恐らく初めて見るであろう俊彦の動揺した顔に、健悟はまず戸惑いを覚えた。こいつのような冷血漢でも動揺するのか、そもそも彼は何に動揺したのか、と。
「……くれぐれも、私に恥をかかせるような真似はするなよ」
数秒の沈黙を経て、俊彦が口を開いた。気が付くと俊彦の顔は元の仏頂面に戻っていたので、やはり先程の光景は見間違いだったのかと健悟は疑ったが、俊彦がさっさと踵を返して去ってしまったため、それ以上考えようとは思わなかった。
健悟は再び膝元に視線を落とし、タブレットに指を滑らせた。庭園隅のベンチで黙々と数独の続きを解いていても、早勢俊彦に「恥をかかせる」ことになるかはともかく、周りに迷惑をかけることは無いのだから。

ep.00 -無題のドキュメント-
*
【20XX.07.22 19:04(BST)】
SPICAが開発した新技術というのは、超高速の有線ネットワークシステムと、それに対応した高性能サーバー設備のことである。量子力学の最新の研究により、小規模な設備で大容量の記憶領域と高精度のデータ通信を確保する新しい理論を確立したSPICAは、その理論を基に業務用ネットワークを構築するための量子コンピュータとモデム及び専用ケーブルを開発した。英国各地のIT企業に依頼し試験運用を行ったところ、ネットワークの通信効率が飛躍的に向上し、関係者からは極めて高い評価を得たという。移動通信システムがネットワークシステムの主流となっている今日、改めて有線通信の利点とポテンシャルを技術者達に再認識させるものとしても話題になっているのだとか。
現段階では業務用設備としてのリリースが予定されているのみだが、将来的には民間のプロバイダ向けに強化された製品を提供する他、数年後に試験運用を控える次世代移動通信システムの基幹ネットワークに応用することで、この技術をデジタル通信の新たなスタンダードとして世に広めていくという目標が打ち立てられている。
SPICAのオフィスを背に設営された組み立て式ステージで、早勢俊彦は以上のようなことをスピーチの序文として語った。健悟はそれを庭園のベンチから遠巻きに眺めていた。
家を出る直前、俊彦から例の「新技術」を紹介する関係者用のパンフレットを受け取った事を思い出し、健悟は斜めがけのショルダーバッグに手を突っ込んだ。上質なレザーで仕立てられた新品のそれもだが、今日の健悟が身に付けているものは全て俊彦が今日のために態々用意したものだった。
健悟は、鞄の中で折れ曲がっていたパンフレットの一つを取り出して広げた。その中には、先程俊彦が語った通りの概説の他、それに対応する新製品の詳細な仕組みと、「新技術」の要諦となった理論の大筋が記されていた。曰く、俊彦率いる研究チームが発見した、デジタルデータを保存・伝送する作用を持つ特殊なエネルギー体、これを専用の装置によって制御することでデータの記録媒体や伝送経路を構築する、というものらしい。システムの核となるものが金属や磁性体、光線等既知の媒体でないという点から、電子工学以外の学問の観点からも注目を集めている……らしいのだが、
「……エセ科学じゃないのか、これ」
健悟にはこの理屈が理解できなかった。否、そもそも大筋とはいえ「科学」の理論としての体を成していないようにすら思われた。データ通信の媒体として新たなエネルギーが用いられる、という話にはまだ納得がゆくが、それがデータの記録媒体にも転用できるというのだから驚く。
そもそもデジタルデータとは、本質的には形を持たない電気的な信号から成る「情報」であり、それを保存するためにはハードディスクやフラッシュメモリーといった「物質」の容れ物が必要となる。そして保存したデータを参照・転送するためには、容れ物に入ったデータを専用の装置によって電気信号に変換しなければならない。パンフレットで説明されている理屈が正しければ、例のエネルギー体は、使い方によってはこれらの常識を無視した情報通信をも可能にすることになる。
「――――人類の英知によって誕生し、さらなる英知を人類に共有せしめたネットワーク技術は、新たなステージへ進みつつある。我々の目標は、人間の思考活動をリアルタイムに共有可能なインフラ環境の実現だ。人の意識と情報の流れ、これらのギャップが限りなくゼロに近付くことで初めて、ITは人間に寄り添う技術となる。低速のネットワークに縛られたままの人間の交感を、停滞した人類の進化を、我々が解放してみせよう!」
健悟が首を傾げている間に、俊彦のスピーチは締めに入っていた。
「我々が解放してみせよう」とは、これまた大袈裟な表現を選んだものだと健悟は思った。大統領の演説もかくやという勝ち気の発言に、ステージを見上げる来賓達は一斉に拍手を送っている。
……馬鹿馬鹿しい。
誇らしげな顔で壇上に立つ俊彦と、熱に浮かされたように騒ぎ立てる人々。その光景が、喧騒が、不快な刺激となって健悟の意識を掻き乱す。
彼の輩と同じ空気を吸っていること自体が嫌になったので、健悟はベンチから勢いよく立ち上がり早足でその場を離れた。手に持ったままのパンフレットはその場に投げ捨て――ようと思ったが、ストレスに埋もれかけた良識の一端が辛うじてそれを食い止めた。
SPICAの所有する正方形の広大な敷地――通称《SPICAスクエア》――、その南の一辺に位置するメインゲートを抜けると、そこは高層オフィスビルの建ち並ぶシティ・オブ・ロンドンの大通りに面している。時刻は午後5時過ぎ、人や車の通行量は実に都会的といえるものだったが、先のパーティー会場と比べればまだ大人しく見える。
これ以上市街地に留まる理由は無い。そう思い、健悟は向かって右手、自宅のある方へ歩き始めた。スクエアと自宅の間は直線距離で約7キロと、歩いて帰るにはやや遠いため、少し離れた場所で路線バスに乗る必要がある。会場から抜け出したことが俊彦にバレるのは時間の問題であり、会場に引き返そうが家に帰ろうが説教を食らうことに変わりは無いので、健悟は真っ直ぐ帰宅することを選んだ。俊彦からの連絡を「うっかり取りこぼす」ために、スマートフォンとタブレットのデータ通信をオフにすることも忘れない。
仕事帰りのサラリーマン達に紛れ込むように、健悟は夕方の街道をのんびりと歩く。その道すがら、健悟は自分の母親に関する記憶をそれとなく辿っていた。
*
【20XX.07.22 19:10(BST)】
物心ついた時からイギリスで暮らし、現在は日本人学校の中学2年生として生活している健悟だが、生まれは日本である。日本の大手IT企業に勤めていた俊彦がSPICAの創設メンバーとして招聘されたことを機に、早勢夫妻は1歳の健悟を連れてイギリスへ移住し、ロンドンの南部サザークに一軒家を建てた。
母――早勢瑠夏(-るか)という人物にまつわる記憶は、健悟の中には断片的かつ朧げにしか残っていない。健悟に向ける笑顔がいつも優しかったこと。健悟の顔が自分によく似ている、と何度か言っていたこと。風景画を描くことが好きで、それを真似て健悟が描いた絵を褒めてくれたこと。今では母の顔や声、描いていた絵の中身さえもはっきりとは思い出せないが、母と過ごした5年間が健悟にとって暖かく幸せなものであったことは確かだった。
だからこそ、健悟には分からなかった。瑠夏は何故健悟達の元を去ったのか。俊彦と瑠夏の間に何が起きて今に至るのか。何故健悟は、俊彦の元に取り残されたのか。
一つだけ確かなのは、健悟の笑顔があの日を境に失われた、ということのみである。
不意に、健悟を運んでいた人の流れが止まった。回顧に夢中になっている間に、1つ目の交差点に突き当たっていたらしい。横断歩道の向こうには路線バスの停留所を示す看板が見えたので、健悟は信号が青になるのを待つことにした。
無意識の内に、健悟は母親に紐付く情報を記憶の底で漁っていた。最も気掛かりだったのは、瑠夏が家を出て行ったことを知らされた時のこと。よく考えてみると、健悟自身は瑠夏が早勢家を去る瞬間を直接見たと断言できない。俊彦がいつも通り仕事へ、そして瑠夏が「ちょっと買い物」と言って外へ出た9年前のある日、両親は家に帰って来なかった。そしてその翌朝、俊彦は独りで帰宅し、出迎えた健悟に向かって――普段より厳しめの仏頂面で――、開口一番に言い放ったのである。
――瑠夏は……母さんは家を出て行った。これからは、私とお前の2人で暮らしていくことになる。
幼い健悟は何も言えなかった。言いたいことは山程あったが、何を言ったところで瑠夏が戻って来ることは無いのだと子供ながらに勘付いていたのだ。
それからのことについては、酷く記憶が曖昧だった。母親がいなくなった、という事実を受け入れられず、気が動転していたためだろうと健悟は内省する。健悟の憶えている限りでは、件の出来事から数日後、新築の一軒家を手放し、マンションの一室に引っ越して――。
そこまで思い出した瞬間、健悟の胸の内に妙な違和感が湧き起こった。何か、不自然だ。この記憶には、理に適わない事実が、筋の通らない言葉が含まれている。
例の思い出の舞台――幼い健悟と両親が暮らした、2階建ての一軒家。健悟が日本人学校に入学する都合で、俊彦は自身と健悟の荷物及び家族共用の家財道具を全て家から運び出し、住まいをロンドン西部パディントンの高層マンションに移した。この家は別の人に譲る、と、家の処分について問うた健悟に俊彦は答えていたが、転居に際して俊彦は瑠夏の部屋と私物に指一本触れていなかったのである。
俊彦の言うように、家屋と共に家財道具を譲渡する行為はさほど珍しくない。しかし、一般的に譲渡の対象となるのはタンスや寝具等の大型家具である。そのため、家に放置された瑠夏の化粧品や書籍類、置物等が譲渡されるとは考えられない。それ以前に、瑠夏が買い物のための手荷物として持ち出したのは財布やトートバッグ程度のもので、それ以外にこれといった貴重品を持ち出した様子は無かった。つまりあの家には、普通なら家出に必要となるであろう物品までも置き去りにされていたことになる。
何故今まで気が付かなかったのか。健悟は己の思慮の浅さを呪うと共に、その事実が意味するところについて思考を巡らせた。俊彦の不自然な言い訳と、瑠夏が残した多過ぎる品々。これらを総合して考えると、家を売却するという説明は嘘で、瑠夏は少なくとも真っ当な家出などしておらず、サザークの旧宅や瑠夏の私物が何らかの形で残っていることもあり得る。瑠夏が家を出たその日、瑠夏当人だけでなく俊彦さえも帰宅せず、翌朝に俊彦が如何なる経緯によってか「瑠夏が家出をした」という情報を持って帰って来た点も事の不審さに拍車をかける。
2人の間に何が――瑠夏の身に何があった? 健悟の胸中で、違和感はみるみる内に疑念に変わって行く。健悟はいつしか、その疑念を解消する段取りを脳内で組み立て始めていた。まずはサザークにあったかつての家の現状を確かめ、その後で俊彦に過去の真相を問い質す。SPICAスクエアから旧宅まではロンドン橋を経由して比較的容易に移動できるが、日没の近いこの時間から遠出をするのは得策ではないので、ひとまずマンションに戻って行動計画を立てるべきだろう。
その意思が固まるのとほぼ同時に、横断歩道の信号が青く灯った。健悟はバスの停留所へ向かって早足で歩き始めた。
それにしても、と、フルスピードで回り続けていた思考にブレーキをかけるように健悟は独りごちた。失踪した人物の行方を探す時、対象の人相が分かる写真や似顔絵が必要となるが、今の健悟はそのいずれも用意できそうにないのが現状だ。瑠夏の写真なら俊彦が持っていてもおかしくはないが、あの男には期待できないし、したくもない。他に残された手立てといえば、朧げな記憶を頼りに人相覚を拵えるか、「これによく似た顔」と言って健悟自身の顔を見せて回る位のものである。勿論、これを含めたあらゆる問題を解決するために、今まさに旧宅へ向かう計画を立てている訳だが。
すぐに見つかる筈はない。そうと知っていても、健悟は己の周りに視線を巡らせずにはいられなかった。左右ですれ違う人、前後に並んで進む人の中にもそれらしい顔は見当たらない。それ以前に健悟は瑠夏の顔をよく覚えていないのだが、例え記憶が褪せていたとしても一目見ればすぐに気付ける、という自信はあった。横断歩道の半ばに差し掛かる頃、健悟は左を振り向き、車道の向こう側の歩道を行き交う人々を見やる。
「……あれ?」
見やる、だけのつもりだった。
あんなものが見えなければ、ただの一暼で済んだのだが。
ゆったりと一本に束ねた栗色の長髪。白いセーターにカーキのデニムズボン。そして、ポケットのひとつに草花の刺繍があしらわれた淡いピンクのエプロン。その女性の姿は、絶えず流れる人の波にも、夕日が落とすビルの影にも埋もれることなく健悟の目に焼き付いた。
そんな、まさか。健悟の狼狽は、声にならない声として口から漏れる。彼の目に留まった人物の姿は、記憶の澱に沈んでいたいくつもの記憶を一瞬の内に呼び覚ました。
あの姿はまるで、健悟が最後に目にした母親――あの日、幼い健悟が玄関先で見送った早勢瑠夏の姿そのもの。
「母さん!」
弾かれるように駆け出す健悟。呼びかける言葉は当然、親子の母国語である日本語だ。もしこの声に反応してくれたならば、彼女は間違いなく自分の母親である、という確信が健悟にはあった。
走りながら再び呼びかけようとした時、左、次いで右からのけたたましいクラクションが健悟の両耳をつんざいた。気が付くと健悟は、交差点の真ん中に飛び出していたのだ。通行を妨げられた車の運転手達が窓を開けて怒号を浴びせて来るが、今は関係無い。
通行人の訝るような視線を一身に受けながら、健悟は走って車道を渡り終え、見失いかけた瑠夏を目で追った。再び捉えた瑠夏は、先程で健悟が進んでいたのとは逆方向、つまりSPICAスクエアの方へ向かって静かに歩いていた。
「待ってよ母さん、僕だよ! 早勢健悟! あなたの息子だ!」
息が弾むのを必死に抑えながら、健悟は声を絞り出し、瑠夏の背中を追いかけた。しかし、その懐かしい後ろ姿は近付かないばかりか遠ざかっているようにすら感じられる。
健悟は、自分が追っている目の前の母親が幻なのではないかと疑った。が、それでも構わないという想いが脚を動かし続けた。思い出の中ですら会えなくなるのではとさえ思われた大切な家族に、もう一度会えるのならば――。
やがて息が切れ、脚の節々が悲鳴を上げ始めた頃、健悟はいつの間にかSPICAスクエアの前に戻って来ていた。健悟が立ち止まると、瑠夏もその脚を止め、ゆっくりと振り向いた。健悟に向けられたその顔は、確かに健悟と似ていて、記憶通りの優しい微笑みを浮かべていた。
「本当に……本当に母さんなんだね。まだイギリスにいたなんて……もしかして、僕達に会いに来てくれたの? また一緒に暮らせる、とか……?」
口からこぼれてくる言葉は、どれも「本物の」母親に向けたものだった。目の前に確かにいる瑠夏を、会いたいと願って止まなかった実の母を、最初から夢幻の類と決め付けたくはなかったからだ。
人通りの途絶えた夕暮れの街道で、瑠夏は何も言わず、どこか苦しげな、困ったような笑顔を作った。そして、おもむろに右腕を横に伸ばし、ある一方向を指差した。
瑠夏の細い指先が示すのは――車道の向こう、SPICAスクエア。
「……うん、あそこに父さ……あの人もいるよ。あの人、仕事仲間に家族を紹介したいんだって。行ってあげたら、きっと喜ぶよ」
そう語りかける健悟に対し、瑠夏は力無く頭(かぶり)を振り、ほんの一瞬――この日対面してから初めて――口を開きかけた。
「ど、どうしたの……? 何か困っていることが」
あるなら何でも言って。そう続けようとした健悟の言葉を、突然の爆発音が掻き消した。続け様に地面から縦揺れの衝撃が走り、健悟はその場に尻餅をついた。
あまりに唐突な出来事に、健悟は目を白黒させた。揺れがすぐに収まったことから、地震ではなく爆発事故の類と思われた。爆発音の源はどこだったか、と健悟が辺りを見回すと、あろうことかSPICAの社屋から火と煙が上っていた。
何があったかは分からないが、これが異常事態であることに違いは無い。健悟は瑠夏を安全な場所に避難させようと彼女に向き直り、
「……えっ!?」
再び動揺した。瑠夏の姿が見えなくなっていたのである。前後左右を振り向いても、街灯の陰を覗き込んでも、両目を擦っても、彼女はどこにもいない。
瑠夏を探すべきか。否、やはりあの瑠夏はただの幻だったのかも知れない……健悟の頭の中に、まとまりの無い思考があれこれ去来する。
しばしの葛藤を経て、健悟の頭はいくらか冷えたようだった。足を向ける先はSPICAスクエア。母親の行方も気になるが、彼女が指し示した場所で何かが起こり、「私は行けない」と言わんばかりに首を振られたとあれば、自分だけでもそこに行くべきなのだろう。健悟はそう感じ、まだ疲れの残る足で踏み出した。
*
【20XX.07.22 19:14(BST)】
早勢俊彦がスピーチを終えて10分と経たない内に、突如としてその爆発は起こった。
凄まじい衝撃が地面を揺さぶり、パーティー会場の電気設備が全て停止した。俄かにどよめき出す来賓達に、SPICAのスタッフと警備員達は肉声で呼びかける。
「皆さん、落ち着いて建物から離れてください! 只今職員が状況を調査しています!」
ステージの裏にいた俊彦は、左耳に装着した小型インカムで部下に状況を尋ねようとした。が、誰とも通信が繋がる気配は無く、代わりに顔馴染みの部下が彼の元へ駆け寄って来た。
「何が起きてる?」
「まだ大した情報は入ってませんがね。今分かっているのは3点……爆発が起こったのは中央管理棟(コントロールセンター)上階であること。スクエアを中心としたかなりの広範囲で電波障害が起きていること。そして、UK各地でネットワークが輻輳状態にあること」
その話を聞き、俊彦はすぐに思い当たった。俊彦のチームが開発した例の「新技術」、その研究過程で得られた未公表のデータに現在のような事象が含まれていたのだ。
「実体化現象(リアライゼーション)、か」
「間違いありません」
そんな馬鹿な。そう口走りたい気持ちを抑え、俊彦は部下にメモを1枚手渡した。今日の式典で何らかのトラブルが起きた時に備え、前日にしたためてポケットに入れておいたものだ。
「ここに書いてある要人36名を、会場四隅のテントからシェルターへご案内しろ。対象者全員の収容が確認でき次第、対処を始める」
頷き、部下は庭園に向かって走り出した。俊彦はすれ違う職員数名を手招きし、SPICAの部署の一つ、理論や技術の実証実験を担う《研究棟(ラボラトリー)》、その自動ドアをくぐった。研究棟の自家発電設備が生きていることが確認でき、図らずも健悟は多少の安心感を覚えていた。
SPICAの新製品に組み込まれている新エネルギー、正式名称《デジタルウェイブ》。これが発見された経緯は、実のところ詳細には公表されていなかった。
事の発端はおよそ10年前。コンピュータやスマートフォン等によって形成されるインターネット上で、正体不明のコンピュータウィルスが急激に増殖し始めたことがきっかけである。インターネット上を徘徊し、あらゆるOSやデバイスでデータの書き換えやシステムの破壊等を行うそれらは、最初は複数人のプログラマが個々に制作したマルウェアと考えられていた。しかし研究が進むにつれ、それらがある共通の構造と能力を備えた同種のプログラムであることが判明した。
「実験機材のシステムログが出ました。デジモン・プログラム検体03の観察用デバイスからローカルネットへのアクセス……内側から、セキュリティを無力化されてます!」
SPICA研究棟地下2階、俊彦率いる研究チーム専用のコンピュータで、研究棟職員達が慌ただしくキーボードを叩いていた。
「検体03……実験用ネットワークで飼育していた個体か。あれには専用のセキュリティが施されていた筈だが」
「それが、前回の実験で投与したデータの影響で、レベルⅢからレベルⅣに進化したらしいんです! 属性も変化しているので、セキュリティが上手く働かなくなったのではないかと……」
俊彦の問いに対する職員の答えは、俊彦にとって予想外の内容だった。続けて、別の職員が俊彦に向かって叫ぶ。
「ローカルネットで、検体03とは別の異常パケット群のループが記録されています! データ総量から見て、こちらもレベルⅣ相当です!」
「まさか、2体同時にリアライズしたというのか……!」
正体不明のコンピュータウィルス群は、《デジタルモンスター》と名付けられた。《デジモン》ないし《デジモン・プログラム》とも呼ばれるそれらは、通常のマルウェアには滅多に見受けられない特徴を持っていた。
1つ目は、学習能力を備えた「自律型人工知能」。彼らが従来のコンピュータウィルスと決定的に異なる点は、感染先での行動を一定のルーチンに依らず個々またはその時々の判断で決定する点である。
2つ目は、感染先のコンピュータ上であらゆるデータを取り込み、自身の機能を拡張し変化させる、「進化」とでも呼ぶべき能力。デジモン・プログラムの間には、データ量やハッキング能力の高さによって等級を付けることができ、現在までに6段階の等級付けがなされている。等級の低いデジモンは、コンピュータ上のデータを「喰う」ことで自身のデータ量を増大させ、より高い等級のプログラムに変異することができるのだ。同じコーディングを有する同格のデジモンでも、吸収するデータの種類によっては全く異なる性質に変化することから、個体レベルの変質ではあるものの、そのパターンの分岐と多様性になぞらえて「進化(evolution)」という語を当てるに至った。
そして3つ目は、様々な機械・OSに感染できる「適応能力」。本来、コンピュータウィルスとはプログラムの一種であり、プログラムであるが故に動作できる環境――端末やOSの形式、特定のアプリケーションの有無など――がそれぞれ異なるというのが常識である。ところがデジモン・プログラムは、インターネットを介して別のデバイスへ移動する際、それまで留まっていた環境と全く異なるデバイスに感染することがあり、しかもその機能と学習データを維持したまま活動を再開できてしまうのだ。
このように多くの謎を秘めた《デジタルモンスター》は、SPICAの挑む大きな課題の一つとなった。その研究の過程で判明した驚くべき事実が、SPICAの新たな功績と、今現在起きている非常事態に直結しているのであった。
「監視カメラ復旧しました! 中央管理棟屋上の映像、出ます!」
一人の職員の声に弾かれるように、その場の全員が部屋の壁に埋め込まれた大型モニターに目を向けた。SPICAの施設の中で全高が最も高く、業務用サーバーシステムの大部分が集約されている円筒状の建物《SPICA中央管理棟》の屋上がそこに映し出された途端、室内はぴしりと静まり返った。
屋根と壁が崩れ落ちた最上階で、2つの巨大な影が動いている。片や、土の雪達磨に手足が生えたような物体。片や、1本角を戴くシマウマ様の生物。
彼らは動物ではない。また、被造物でもない。彼らこそ、俊彦達がその行方を追っていた者達――。
「……現れたか、電脳の怪物(デジタルモンスター)共……!」
デジモンの「驚くべき事実」のひとつ……それは、彼らがネットワークから現実世界に向けて電気的に干渉し、質量のある肉体を得て実体化する力がある、ということである。
《デジタルモンスター》という名は、元々ハッカー達の間で使われていたものだった。その由来には諸説あるが、俊彦が支持しているのは、そのプログラム群がネットの世界において直接的かつ強力な「攻撃」の力を有するため、とする説である。しかし、最初にプログラムとしてのデジモンを発見したハッカー達も、彼らが現実世界に「怪物」の如く出現するなどとは夢にも思わなかったろう。
「モンスター2体の駆除が最優先だ。ディスリアライゼーションの実行準備を」
「待ってください! あのシステムが人体に与える悪影響については主任もご存知でしょう!? 緊急事態とはいえ、あれを屋外で使うなんてどうかしてます!」
「だからこそ、要人の保護については手回し済みだ。標的が敷地(スクエア)を出てしまえば、被害は一層大きくなる……家族や友人を避難させるなら今の内だぞ」
部下とのやり取りを簡便に済ませ、俊彦はコンピュータルームを出ようとドアノブに手を掛けた。
「主任、どちらへ!?」
「……保護対象に入っていなかった、飛び入りの要人がいたんだ。彼を連れて来たら、すぐに作戦を開始する」
【Part 3/3】
*
【20XX.07.22 19:50(BST)】
健悟らが地上に出ると、SPICAスクエアに人の姿は無かった。あるのは料理皿やグラスの載ったテーブルと、投げ捨てられた大小のゴミ、そして先程も見た2体のデジモンの姿のみであった。
「あいつら……一体何をしようっていうんだろう?」
健悟の呟きに、ヒョコモンは真剣な目付きで答えた。
「我らデジモンがRWに行きたがる理由は様々でゴザるが、やはり一番多いのは『食欲』でゴザろうなぁ」
「食欲?」
「さよう。我らはデジタルデータを喰らい進化する存在……人間の世界は上質なデータで溢れ、それを取り込むことでデジモンはさらに強くなれる……という信仰を持つ者もいるのでゴザる」
それを聞き、健悟は改めて2体のデジモンを観察した。彼らは怪獣映画よろしく破壊活動を行ったりはせず、代わりに身の周りを興味深そうに眺めていた。
「あの土ダルマが〈ツチダルモン〉――恐らく拙者と一緒に囚われていた輩でゴザろう――、そして四つ脚のものが〈シマユニモン〉でゴザる。どちらも好戦的な種族ではゴザらぬ故、無用な争いをすることなく追い払うこともできるでゴザる!」
攻撃性の低い種、ということは、健悟らが下手に刺激を与えなければ、周辺の損壊を極力抑えてデジモン達を誘導できると見て良い――健悟はそう推測した。
しかし、どこへ「誘導」すればいいのか。そう思い、健悟はタブレットに指を滑らせた。SPICA中央管理棟データベースから取得したデータの中には、現実の物質やリアライゼーション体を微粒子レベルまで分解し、DW(デジタルワールド)に転送する一種のワームホール、通称《デジタルゲート》の存在に言及するものがある。武力を用いず安全にデジモンを追い払える手段に思われたが、これを人為的に作り出せる方法についての情報は無かった。
健悟が首を捻っていると、ツチダルモンとシマユニモンが健悟らに気付き、顔を向けた。が、それ以上の動きは無く、2体はすぐに興味を失くして再び辺りを物色し始めた。
「……大人しいね」
「デジモンにも色々いるのでゴザる。もっとも――命が危ういとあればなりふり構わなくなるのは、拙者を含め皆同じでゴザろうが」
ヒョコモンが背中の刀を抜き、周囲を警戒するように身構えた。つられて健悟もスクエア内を見渡すと、敷地の四隅に建てられた柱の上で何かがゆっくりと動いているのが分かった。それらは片面を柱に接続された八角形の金属板で、先程まで敷地の外側を向いていたが、今は柱の先端を軸に刻々と回転し、4つともスクエアの内側を向こうとしていた。
「あの鉄の塔、何やら不吉な気を放っているでゴザる!」
オフィスで読んだ資料が正しければ、件の「鉄の塔」もといアンテナがディスリアライザということになる。アンテナの形状からしてフェーズドアレイアンテナ――任意方向への電磁波照射に適した、通常であればレーダーの類に用いられるタイプのアンテナである。外から見ればIT企業の一通信設備にしか見えないそれらは、実際はデジモンの実体化に備えて用意された砲台だったのだ。ピンポイントで狙ったデジモンに強力な電磁波を浴びせて駆逐する指向性エネルギー兵器としては、非常に合理的な設計といえる。
板状のアンテナは、スクエア内にいるツチダルモンとシマユニモンに2本ずつ向けられ、バシュッ! と高い音を立てて太い光の束を放出した。
「伏せられよッ!」
ヒョコモンに促され、慌ててその場で身を屈める。どうなってんだこれ、と健悟はまたも己の目を疑った。ただ電磁波を照射するだけなら、アニメや漫画のように可視光の束が飛び出すなど決してあり得ない。デタラメな出力で発射したことで放電でも生じているのか、それとも射線状の大気分子を巻き込んで分解・プラズマ化でもさせているのか。
そんな健悟の疑問を他所に、光線は健悟らの頭上を横切り、ツチダルモンとシマユニモンの方へ真っ直ぐに突き進んだ。
「ォォォオオオオ……!?」
「ギャアアアアン!」
標的となった2体のデジモンに変化が起こった。件の光線を浴びた彼らの体――ツチダルモンは左腕、シマユニモンは背中の一部――が、塵となって消滅したのである。リアライゼーションで生成された擬似物質を電磁波により分解する「ディスリアライゼーション」とはこういうことか、と健悟は冷や汗をかきながらも納得した。
現実の生物と同様、身体の一部が欠損することはデジモンにとって苦痛であるらしく、2体のデジモンは悲鳴らしき声を上げている。ヒョコモンはその光景を苦々しい表情で見つめた。
「厄介なことになったでゴザる……彼奴ら、己の身に何が起きたか分かっておらんでゴザる。直接斬れば怯ませることもできたのでゴザろうが、今ので彼奴らはすっかり乱心しているでゴザる」
「そういうものなの?」
「さようにゴザる。老いも若きも、愚者も賢者も、殴り合えば相手の強さと身の危険が嫌でも分かる、それがデジモンというものにゴザる」
それを聞き、健悟はこの状況がどれだけ不都合なものであるかを理解した。正常な状態であれば言語に準ずるもの或いは武力で対話が望めたであろうデジモン達を、人間の小細工で無意味に混乱させてしまった、ということだ。
乱心、というヒョコモンの表現はなるほど適切で、先刻まで落ち着いていた2体のデジモンは、怒り狂ったように地面を踏み鳴らし、植木や人工物を手当たり次第に破壊している。彼らを鎮圧・無力化しようと思ったら、生半可な攻撃では通用しないことは明らかだ。
「これ以上ディスリアライザを撃たれたら、僕らの体も危ない! 早くあの2体を」
どうにかしないと。と言いかけた時、健悟らの頭上を巨大な球状の物体が飛んで行った。目で追ったそれは一見すると土の塊で、放物線を描いて南西側のディスリアライザに接近し――へし折った。
まさか、と思い振り向いた健悟の予想は的中した。ツチダルモンの足元から、大量の土が抉り取られている。土ダルマの姿をしたこのデジモンは、土を丸めて巨大な球を作り出せるらしい。それも片腕で、だ。
その一方でシマユニモンは、一杯に開いた口から衝撃波を思わせる波動を放ち、南西側、次いで北西側のディスリアライザを破壊していた。その間にツチダルモンは足元の土を掬って丸め、先と同様に土の大玉を作って最後のディスリアライザ目掛けて投擲した。
ものの数秒で、4台のディスリアライザは全てスクラップとなった。
「……これでディスリアライザを撃たれる心配はゴザらんな、うむ!」
「……SPICAの人達、今頃どんな顔してるだろうね……」
健悟は自らの手でディスリアライザを無力化するつもりでいたが、奇しくも鎮めるべきデジモン達によって破壊されてしまったのでその必要は無くなった。複雑な気持ちにはなったが、健悟はすぐに思考を切り替え、未だ暴れ続けるツチダルモンとシマユニモンを注意深く観察した。
「向こうは手負い、ってことになるけど……ヒョコモン、あの2体を相手にどこまで戦える?」
「あれだけの傷を負っていれば、息の根を止めることも不可能ではゴザらん」
「え、息の根って……さっきは穏便に済ませるみたいなこと言ってたのに」
「争わずに済むならば、の話でゴザる。一度争いが起こってしまえば、後は首を切り落とすつもりで挑むのみにゴザる」
その可愛らしい外見に似合わぬ程冷徹なヒョコモンの言葉に、健悟は一瞬たじろいだが、それも然りと考えを改めた。2体のデジモン達には何の罪も無いかも知れないが、結果的に人間に害を与えている以上、命を奪うこともやむを得ない、と。そもそも、デジタルモンスターに人間で言うところの「手加減」や「同情」といった類の概念があるか否かも定かではないのだから。
「しかしながらケンゴ殿、拙者1体(ひとり)の力ではいささか苦しい戦いになるやも知れぬでゴザる。どうかその知恵、拙者にお貸しくだされ」
「……勿論、協力は惜しまないよ」
健悟は腹を決め、目の前の敵を見据えた。ツチダルモンとシマユニモンも、それに応じるかの如く健悟らを睨んだ。
「グルルルルオォ!」
真っ先に駆け出したのはシマユニモンで、四脚ならではの猛スピードでヒョコモンに肉薄した。彼らの体格差は、例えるならトラクターと幼稚園児。正面からぶつかろうものなら、ヒョコモンは容易く吹き飛ばされてしまうだろう。
ヒョコモンもその点は心得ていたと見え、シマユニモンの体当たりを紙一重で躱した。と同時に、ヒョコモンはその両手羽に構えた刀を振り抜く。すると、シマユニモンの右前脚が中程から折れ――否、断ち切られ、シマユニモンは前方につんのめり勢いよく転倒した。
普通の動物であれば血が流れ出すであろうその傷口からは、血の如く赤黒い無数の粒子が飛び散り空気に溶けていた。切断された足先に至っては、同様の粒子となって丸ごと霧散、消滅してしまった。質量を持った物体が消えて無くなる、という奇怪な現象が、デジタルモンスターが既知の物理法則で説明のつかない存在であることを健悟に改めて認識させる。
のたうち回るシマユニモンの胴体に、ヒョコモンは繰り返し刀身を突き立てた。しかし今度はシマユニモンの皮膚に浅い傷が付く程度で、大きなダメージを与えるまでには至らない。先程の一撃で脚を切り落とせたのは、ヒョコモンがシマユニモンの運動エネルギーを利用し、脚部という比較的脆い部分に斬り込んだ故にであったのだ。
一方ツチダルモンは、いつまでも傍観者でいるつもりは無いらしく、健在な右腕を振り回してヒョコモンに飛び掛かった。対するヒョコモンは反射的に飛び退こうとしたが、倒れたシマユニモンの左前脚につまずいてバランスを崩してしまった。
「ふ、不覚――!」
地面が跳ね、土煙が弾ける。ツチダルモンの重たい一撃により、ヒョコモンとシマユニモンは宙に吹き飛ばされ、その爆風で健悟も芝生の上を数メートル転がった。
「ぐぬぬ、何という馬鹿力……ケンゴ殿、ご無事でゴザるか!?」
「い、一応生きてるよ……」
全身をしこたま地面に打ち付けはしたものの、健悟は特に大きな傷を負ってはいなかった。とはいえ、俊彦に押し付けられたスーツは酷く傷付き汚れてしまっている。この状況で動き辛い格好を保つ理由は無い、と、健悟は日本円で合計数十万円はしたであろうジャケットとネクタイを脱ぎ捨てた。
「ヒョコモン! あいつらを倒す方法、何となく分かったよ。ツチダルモンを連れて、僕について来て」
「なんと、主君を危険に晒せと仰るのでゴザるか!?」
「正面きって戦うよりはよっぽど安全だよ。シマユニモンが動き出す前にヤツを仕留める策があるんだ」
「むう……しからば、御意のままに!」
健悟の言葉に納得し切れない感を声に滲ませ、ヒョコモンはツチダルモンに斬りかかって行く。それを見届けてから、健悟はある場所を目指して庭園を駆けた。
健悟が見た限りでは、ツチダルモンの体表は土によく似た物質で覆われているらしい。そこから健悟が導き出した、というより連想した方策は、発想としては実に短絡的だが、実践しないよりは多少有利な戦況を作れると確信できるものであった。
ツチダルモンを誘導すべく健悟が移動したのは、庭園中央に石で造られた直径6メートル程の巨大な円形の噴水である。4方向に水を噴出している中央の円筒状の台座には、黄道十二星座の乙女座をモチーフとした石像――右手にナツメヤシの葉、左手に麦穂を持ち、背中には1対の翼を有する女性の像――が設置されている。組織の正式名称《Splendid Infrastructures Creators Association》の略称として、乙女座の擁する一等星《スピカ》の名が用いられたことから、その由来を象徴するものとしてこの噴水が造られたのだと俊彦から聞いたことがあった。
しばらく待っていると、ヒョコモンは息を切らしながら健悟の元へ駆け寄って来た。
「どうにか、挑発には成功したでゴザる……しかしあのダルマ、見かけによらず丈夫でゴザる! 土塊がかくも斬りにくいものでゴザったとは……!」
「じゃあ、今からあいつのガードを崩そうか。ヒョコモン、ツチダルモンをこの噴水の中に浸からせて、水を出してる台座を破壊するんだ!」
「彼奴を、水に……? はっ、もしや!」
「分かってくれたみたいだね。台座を壊せば大量の水が出てくる筈だから、上手くやってみて」
「合点承知!」
ヒョコモンが噴水の向こう側へ回り込むと、それをツチダルモンがドスドスと足音を立てて一直線に追い、そのまま噴水の中に両足を踏み入れた。
「今だ!」
円形の水場から水が溢れるのと同時に、健悟は短く合図を出した。
ゴキン! という鈍い打撃音に続き、乙女の像を載せた台座が根元からぐらりと倒れ、台座の根元からは細長い漏斗状の水の柱が飛び出した。
倒れた石像に打ちのめされ、水場に尻餅を突いたツチダルモン。止め処なく噴き出し続ける水がツチダルモンの体に降り注ぎ、水場の水はみるみる内に茶色く濁っていった。
「ぷはあっ! 溺れるところでゴザった……さあ、覚悟なされよ!」
水底から顔を出したヒョコモンが、ツチダルモンの胴体目掛けて刀を2度振り抜いた。するとその切創から大きな泥の塊が2つ、湿った音を立てて地面に落ちた。
思いの外上手く行った……と健悟は感じた。
健悟の立案した「策」とは、どうということはない、「泥団子を水に浸して脆くする」というものであった。パワーと重量が最大の脅威であるツチダルモンは、左腕を失っていたとはいえヒョコモンが単騎で相手取るには危険が大き過ぎた。そのため健悟は、先の所見を基に、ツチダルモンの体に大量の水分を含ませることで体表だけでも強度を下げられないか、と考えたのである。健悟にしてみれば、ツチダルモンの体のどこまでが土なのか、そもそも一般的な土と性質が同じか否かすら確信が無かったが、果たしてその分の悪い賭けは功を奏した。ツチダルモンの体で土が占める割合は予想以上に大きく、一振り、また一振りとヒョコモンが斬撃を繰り出す度に、ツチダルモンはふやけた土を撒き散らしながら痩せ細っていった。
「ゥウ……オォォ……」
数十秒に渡って全身を削り取られた結果、ツチダルモンの全身は醜く崩れて一回り小さくなっていた。同時にそれはツチダルモンにとっての身体的ダメージでもあるらしく、どこか苦しげな声を漏らしていた。ヒョコモンはその様子を見て攻撃の手を止め、静かに語りかけた。
「苦しかったでゴザろう……そなたには何の罪もゴザらん。されどこれも主君らの世を守るため……せめてその苦しみ、一息に絶ってしんぜよう」
言いつつ、横たわるツチダルモンの頸の上で刀を構え直すヒョコモン。争いで傷を負わせた相手に対する気遣いという、極めて人間的な感情をヒョコモンが持っている点に、健悟は少なからず感心した。
「許せ、同胞よ――!」
ヒョコモンは垂直に刀を振り下ろした。しかしその鋒がツチダルモンに届くより先に、大きな影が2体の元へ飛び入り、石造りの噴水が丸ごと砕け散った。
激しい水飛沫を被り、健悟は思わず目を閉じた。そして程なくして目を開けると、噴き上がり続ける水流の中に、シマユニモンと、その角で胴体を貫かれたツチダルモンの姿が見えた。
「そんな……どうして……!?」
「吸収(ロード)、でゴザる。シマユニモンめ、死にかけのツチダルモンを喰って傷を癒すつもりでゴザるな……!」
ずぶ濡れの体を起こしながら、ヒョコモンは苦々しげにそう言った。どういうことだ、と健悟が2体のデジモンを注視していると、ツチダルモンの全身が先程も見た赤黒い粒子となって分解し、その粒子はシマユニモンの体表に吸い込まれていた。やがてツチダルモンの身体が完全に霧散する頃には、欠損していたシマユニモンの脚と背中の肉がほぼ完全に回復していた。
「本当に……喰った、のか」
「珍しいことではゴザらんよ。我らデジモンは、戦い、喰らい、強くなることを第一義とするもの。喰らうために戦い――喰らう程に、強くなるのでゴザる」
淡々と語るヒョコモンの言葉尻を、シマユニモンの嘶きが掻き消した。その猛々しさたるや、先程まで深手を負っていたとは思えない程のものであった。
「ねぇ、ヒョコモン。これってちょっとマズいんじゃない……!?」
「拙者のカンもそう申しているでゴザる……!」
2人が確認し合うまでもなく、シマユニモンは明らかに凶暴化している。荒い呼吸と、最初に比べて速く重い足踏みがそれを物語っていた。
「ケンゴ殿、お下がりくだされ!」
ヒョコモンが叫ぶや否や、シマユニモンの太い右足が健悟の右肩を掠めて地面に刺さった。あわや踏み潰されるところであった、と気付くのに時間はかからず、健悟は反射的に飛び退った。その一方でヒョコモンは、シマユニモンの左足による執拗なスタンピングを刀の棟で食い止めていた。
「ヒョコモン、無茶しないで!」
「安心めされよ、ケンゴ殿! 此奴は拙者が、例え刺し違えても仕留めてご覧に入れるでゴザる! それ故ケンゴ殿は早く安全な場所へ……ぐぬぬっ……!」
「何言ってるんだ! このままじゃ君は――」
「行かれよ!! 主と認めた恩人をみすみす死なせる恐怖に比べれば、この程度屁でもゴザらん……っ!!」
シマユニモンの蹄を押し返し、果敢に立ち向かうヒョコモン。その姿を見て、健悟はしばし立ち尽くし――全速力でその場から駆け出した。
健悟はただ、母親の行方を俊彦に問い質したかっただけなのである。そんな折、俊彦の勤め先に怪物が現れたのは全くの偶然であり、健悟が怪物の一個体との交感に成功したきっかけもちょっとした事故のようなものであった。
その結果、健悟は怪物と一緒になって怪物退治に挑んでいる。一緒になった怪物、もといヒョコモン曰く、健悟はヒョコモンの束縛を解いた恩人であるという。今現在、ヒョコモンがシマユニモンと命懸けで戦っている理由がそれである、とも。
「……確かに、言い出したのは僕だけどさ……」
健悟は自覚している。自分がデジタルモンスターと出会い、彼らと敵対・協力の関係を結んだのは、全て自らの選択の結果である、と。
しかし、それでも理解できない事象がひとつあった。それは、ヒョコモンが出会って間も無い健悟のために死に物狂いで戦っていること。いくら忠義に厚い性格であっても、見るからに勝ち目の無い相手を前にすれば普通は命惜しさに逃げ出す筈である。弱肉強食を基本原理とするデジタルモンスターであれば……否、生き物ならば殆どの個体が、ちょうど健悟がそうしているようにその場から逃走するのが自然だ。
打った手足の痛みも忘れ、健悟は仮設ステージの陰に転がり込んだ。逃げ場の多い敷地外へ出た方が安全だった、と気付くのはしばらく後の話となるが、ともかく健悟は一時身を隠せたことで多少なりとも落ち着きを取り戻していた。
ステージの骨組みに体重を預けて屈み込み、健悟は震える手でタブレットを操作した。ストレージの検索メニューで「デジタルモンスター 戦闘」と入力すると、デジモンに備わった「闘争」のための機能に関する文献52件と、デジモンの生命力や戦闘能力を拡張する実験用データ数種がヒットした。いずれもSPICAのデータベースからダウンロードしたものである。
後者のデータを使って、ヒョコモンの戦闘をサポートする――妙案に思われたが、健悟はすぐに考え直す。研究に用いられるプログラム類は、本来はコンピュータ上で動作するデジモン・プログラムに対して作用するものであり、現実世界にリアライズしたデジモンに対して使用できるとは考え難い。ヒョコモンを観察用デバイスの中に戻せば或いは、とも考えたが、一度リアライズしたデジモンを再び非実体(データ)に戻す手段は資料にも記されていない。
健悟は頭を掻きむしった。このまま何の行動も起こせずにいては、ヒョコモンの命が危うい。小さなことでも良い、何かこの状況を覆す閃きを――――いや、ちょっと待て。
妙な引っ掛かりを覚え、健悟は一旦思考をリセットした。健悟は、SPICAの敷地内に出現したデジモン達を駆除すべく、ヒョコモンと共にこれに応戦していた。しかし、戦況は一瞬の内に悪化、ヒョコモンは孤立無援の状態で敵の攻撃に耐えることを余儀無くされた。そうして現在、健悟はヒョコモンを窮地から救うべく策を巡らせている。
何故、自分はヒョコモンを助けようとしている? 健悟の意識は、この大きな疑問にぶつかっていた。デジモン2体のリアライズ、加えてディスリアライザによる市街地への被害を防ぎたい――そう言い出したのは健悟であり、そのためにヒョコモンに助力を求めたのも健悟である。ヒョコモンは快諾こそしてくれたものの、敵であるシマユニモンを倒せるだけの能力が無いと判明した今、主力として彼を頼ることは現実的ではない。
にも関わらず、健悟はヒョコモンを見捨てようとせず、彼を勝たせようとさえしている。その理由が、健悟自身分かっていないのだ。
ヒョコモン以外に、シマユニモンに対抗できる者がいないため? ――否、彼がデジモン騒動に対する抑止力たり得ないことは既に明らかだ。英国軍や警察等、それなりの戦力を持つ組織は他に幾らでもいる。だとすれば、他にどんな理由があるというのか。
普段であれば全く無縁の、内面的な疑問に心を乱していると、不意に俊彦の能面顏が脳裏に浮かんだ。そもそもあの男が奇妙な研究をしていなければ、こんな事態は起こらなかったのだ。自分のチームの不手際で大事故を起こした挙句、一般人を顧みない方法でそれを収束させようなどと――。
そこまで考えて、健悟はようやく気付いた。健悟はただ、俊彦のようになりたくなかった――弱者を何の躊躇いも無く切り捨てる早勢俊彦を父親と認めたくないように、個人的な都合でヒョコモンを見放す早勢健悟を自分と認めたくないのだ。それは合理性や道徳といった領域の話ではなく、早勢健悟という人間の純粋な願いに他ならない。
「なんだ、簡単な話じゃないか」
己の意思を自覚した瞬間から、健悟の口元は笑っていた。追い詰められた人間は利己的になる、という話をどこかで聞いたことがあるが、今の自分はきっと世界の誰よりも利己的だろう、と健悟は思った。誰のためでもなく、自分自身のためだけに、健悟はヒョコモンに寄り添う。健悟がタブレットを操り続ける理由は、それだけで十分だった。
勿論、それが実益を伴わない自己満足に終わるかも知れない、という認識も健悟の中にはあった。それでも、母親――ルカならきっとこの選択を肯定してくれる……そう思うと、健悟の迷いは幾らか晴れた。
さて何か策は、と思索を続けていると、突然タブレットの画面が明滅し、ぐにゃりと歪み始めた。健悟が呆気にとられてそれを見ていると、歪んで波打った有機EL画面の中から、掌に収まりそうな大きさの白い光の球が1つ飛び出し、立体となって健悟の眼前に浮揚した。
その球の正体は、健悟には皆目見当もつかなかった。しかし健悟は、それに迷わず右手を伸ばした。今更ちょっとした「非現実」には驚かなかったから、という理由もあるが、これが自分にとって必要な何かである、という直感がそうさせたのであった。
健悟が光の球を掴むと、光はふっと消え、健悟の手の中には丸みを帯びた硬質の物体が残った。恐る恐る手を開くと、そこには、小さな液晶画面と3つのボタンを表面に有する六角形のデバイスがあった。
何だ、これ。と声に出すより早く、その装置のディスプレイが青白く光り、そこに無数の文字が目紛しく流れ出した。最初はどの言語でも見たことのない記号だったそれらは、いつしか見慣れた英語に変わり、終いには3つの文字列を画面の中央に残した。
[TamerName : Kengo Hayase]
[Connected Device : 1]
[Searching for Partner Digimon...]
それを一目見て、即座に理解できた点が2つ。
一つは、この物体がデジモンに関係する「非現実」の一部であること。
加えて、この物体を使えば、ヒョコモンの戦いをサポートできるかも知れないということ。
健悟はその小さな装置とタブレットを手に、ステージの陰から飛び出した。そして今尚戦いを続けているであろうモンスター達を目で探すと、スクエア南門の際で鬱陶しそうに後脚を振り回すシマユニモンと、そこに両手羽でしがみつくヒョコモンの姿が見えた。
「ヒョコモン!」
敷地外へ出ようとするシマユニモンを、彼は必死で抑えてくれていたのだろうう。そう思うと胸の奥がきりきりと痛み、たまらず健悟は叫んでいた。ヒョコモンはそれに驚いたように健悟の顔を振り返ったが、同時にシマユニモンの足から振り払われ、地面に叩きつけられてしまった。
「ガハッ……! ケ、ケンゴ殿、なにゆえここへ……!? 此奴は拙者が相手を致すと申したでゴザろう!」
苦しげに言葉を絞り出すヒョコモンの体表には無数の傷が付き、傷口からは赤黒い血のドットが滲み出していた。彼の受けたダメージが命に関わる規模であることは、専門的な分析をせずとも見た目で嫌という程よく分かる。
健悟がヒョコモンの元へ駆け寄ろうとした刹那、シマユニモンが大きな音を立ててこちらに顔を向けた。仮面めいた装甲に覆われたその双眸が何を見ているのか定かではないが、健悟らがここから一歩も動かなければ仲良く踏み潰されるであろうことは想像に難くない。
残された時間は少ないし、チャンスはきっと今しか無い。健悟は光と共に現れたデバイスをヒョコモンに向けてかざし、叫んだ。
「ヒョコモン、僕の《パートナー》になれ! 僕のために……僕と一緒に、戦ってくれ!」
ヒョコモンは暫し目をしばたたかせてから、笑い混じりに答えた。
「不思議なことを仰る。ケンゴ殿に救われたこの命、元よりそなたに捧げたつもりでゴザったよ」
瞬間、デバイスから軽やかな電子音が鳴った。健悟がディスプレイを見ると、先程の文字列の末尾3行目以降が変化していた。
[PartnerDigimon : Hyokomon〈476F6D6265〉]
[Welcome to LEAF Ver.1.0 !]
ドスン、と、地を揺るがす衝撃が一打ち。シマユニモンが頭部の角を構え、傷付き倒れたヒョコモン――を無視し、健悟に向かって突進せんと地を蹴ったのだ。空気抵抗を一切感じさせないその走りは、しかし確かな圧を健悟の全身に浴びせ、健悟の視界一杯に筋骨隆々の姿を迫らせた。
多分、自分の足では避けられない。健悟はシマユニモンと向き合い、タブレットの上で指を踊らせた。
巨獣の角が健悟の鼻先を捉えるかに思われたその一瞬――黄色の羽毛を纏った小さな温もりが、健悟の両腰をそっと包み、向かって左側へぐいと押し出した。
健悟の目で辛うじて視認できた一連の出来事は、体感にして1秒足らず。シマユニモンの蹄が再び芝生の土を散らす頃、健悟はそこから数メートル離れた場所で顔に僅かな砂粒を浴びていた。
「……ケンゴ殿、かような無茶はこれっきりにしてくだされ……!」
「ご、ごめん。ちょっと足が竦んじゃった」
知らぬ間に止まっていた息を深く吐き、健悟は先程手に入れた小型デバイス――先刻の画面に映った《LEAF Ver.1.0》というのが名称だろうか――を覗き込んだ。最初とは異なるシンプルなGUIに飾られた画面には、[2 Files Up-Linked.]というダイアログが表示されていた。
《ディスクイメージ:回復(キュア)-M》と《プラグイン:高速(ハイパーアクセル)》。タブレットにダウンロードされたデジモン用のデータ、それらをヒョコモンに対して適用したのである。その結果、ヒョコモンの受けた傷は塞がり、さらには通常の倍以上のスピードで動けるようになった、という訳だ。
現実に実体化した電子生命(デジタルモンスター)に、どうやってコンピュータ上のデータを転送できたのか。それは、健悟の目の前に現れたデバイス、仮称《LEAF》の力だと健悟は推理する。LEAFが起動した際、その画面には、早勢健悟の名前と、「接続された(コネクテッド)デバイス」、そして「パートナーデジモン」という文字列があった。如何なる仕掛けによってか、LEAFは健悟のタブレットと勝手に無線接続し、タブレット内のデータを転送できるようにセッティングしたらしい。その影響か、タブレットのGUIが微妙に変化し、選択したデータをLEAFに転送するコマンドが追加されていた、
そのコマンドの意味は、健悟がそれを2つのデータを対象に実行して初めて明らかになった。2つの実験用データは、LEAFを介してヒョコモンに転送されたのだ。深手を負っていたヒョコモンが回復し、高速移動までやってのけた――データファイルの名前から想定された効果と全く同じ現象がヒョコモンの身に起きたことが動かぬ証拠であった。
健悟が思うに、《LEAF》とは、物質世界においてコンピュータとデジモンを――或いは人間とデジモンを――繋ぐ接続装置(インターフェース)的なものらしい。どこの誰が何のために作り、どうやって健悟の元へ届けたのかは知る由も無いが、それでも健悟はLEAFの力が確かに有益なものだと確信していた。俊彦の言うように、実証され得る確かなものしか信じるに値しないのが道理だとするならば、現実の確かさとは無縁の非現実に溢れたこの場所では何を信じても同じだと思えたからだ。
そんな物思いに耽る健悟を、獣の低い唸り声が現実に引き戻した。自身の攻撃を躱されたことに気付いたシマユニモンが、恨めしそうにこちらを睨んでいる。
「彼奴の体力もそろそろ限界、畳みかけるなら今でゴザる!」
健悟を抱えていた両手羽を放すと、ヒョコモンは刀を正眼に構えてシマユニモンに向き直った。その後ろ姿に、健悟は問いかける。
「あいつに、勝てる?」
「……ケンゴ殿、できるか否かではゴザらん。武士として約束を守る、そのために拙者は戦うのでゴザる。それに……本調子の拙者の前では、かような輩、敵ではゴザらぬ故!」
噛み締めるように答えて走り出したヒョコモンの背中は、健悟には、先程置き去りにしたそれよりも一回り大きく見えた。
ヒョコモンの示した気迫は口先のみに留まらない。でたらめに地面を鳴らすシマユニモンの前足をひらりひらりと避けた後、ヒョコモンはシマユニモンの喉元に飛び掛かり刀を逆袈裟に振るった。すると空気を裂く細い音に続き、シマユニモンの首の肉がぱくりと割れた。
今までは敵の運動を利用してカウンターを狙わなければ傷一つ付けられなかったが、ヒョコモンの移動能力が向上したことで、体の軽さ、即ち攻撃の軽さをカバーできているのである。太刀筋を紅く示すようにシマユニモンの頸部から迸る粒子が、ヒョコモンの全身を汚す勢いで飛び散るその光景からも、斬撃の手応えは十分と見えた。
巨獣が苦悶の鳴き声を上げてよろめいている間に、ヒョコモンは両手羽をぱたぱたと上下させ、跳躍で舞い上がった体を数メートル後方に軟着陸させた。
見違えるようなヒョコモンの戦いぶりに、健悟は斬新な驚きを覚えるばかりであった。短所を一つ補うだけで、デジモンはこれ程までに強くなれるのか、と。
「その傷では勝ち目はゴザらん……腹を括られよ!」
身体中から返り血のパーティクルを揮発させながら、ヒョコモンは低く鋭く、くずおれたシマユニモンに向けて言い放った。
対するシマユニモンは、負った傷の深さも、ヒョコモンの真の強さも、その身を以って痛感している筈だった。しかしそれでも引き下がろうとはせず、震える足で立ち上がり、目の前の強敵ににじり寄る。満身創痍のシマユニモンを尚も戦いに駆り立てるものは、きっと生存本能以外の何か――言うなれば、戦闘種族の誇り(プライド)とでも呼ぶべきもの――なのだろうと健悟は感じた。
「その尽きせぬ闘志、敵ながらあっぱれ! しからばこのヒョコモン、最後の一撃まで全力でお相手致そう!」
死に瀕しながらも戦いを投げ出さないシマユニモンの姿は、同類たるヒョコモンの目にも気高く映ったらしい。ヒョコモンは刀を上段に高く振り上げ、絞り出すように嘶きながら突進して来るシマユニモンを待ち受けた。
「――《唐竹割り》!!」
その裂帛の気合いと同様、ヒョコモンの刀は、疾く鋭く淀みなく、シマユニモンの角の先端目掛けて振り下ろされた。刹那、パキン、と小気味良い音が庭園に響き、シマユニモンの長い角――のみならず、頭部が丸ごと正中線から真二つに割れた。
勝負は誰が見ても明らかであった。シマユニモンの体は、突進の勢いのままヒョコモンの頭上を飛び越えた後、糸の切れた操り人形の如く地面に崩れ落ちた。今日何度目かの叩きつけるような地響きも、今度ばかりは張りのない音に聞こえた。
「……一件落着、でゴザる」
呟き、刀を背中の鞘に収めるヒョコモン。その金具の音と同時に、斬り伏せられた巨獣の体躯は乾いた破裂音を立てて無数の紅い粒子と化した。
ヒョコモンは両手足を広げ、細く息を吸った。するとそれに合わせて、先刻までシマユニモンだった紅い粒子がヒョコモンの体表に吸い込まれて行った。シマユニモンがツチダルモンに対してやっていた、《吸収》だ。ヒョコモンもまた、デジタルモンスターの本能に従い、さらなる強さを求めて敵を喰うということか。
そうして、宙に舞った紅い粒子が全てヒョコモンの体に吸収されると、庭園は静寂に包まれた。
戦いが、終わった――闘争とは縁の無い世界に生きる健悟にもそうと分かる程に、単純明快な光景。
数秒、或いは数分が過ぎただろうか。ともあれ健悟が我に帰る頃には、先程まで目の前で繰り広げられていた非現実は、まるで最初から無かったかの如く姿を消していた。残っているのは、赤い薄明かりを含んだ夕闇と、土塊やゴミの散らばった芝生、そして黄色い羽毛を微風に揺らすヒョコモンの背中のみである。
「いかがでゴザったか、ケンゴ殿」
振り向き、ヒョコモンが語りかけてくる。その声には、喜びと安堵感、そして少しばかりの誇らしさが含まれていた。
「上出来だよ。本当にお疲れ様」
素直に労うのは気恥ずかしいようにも思われたが、照れ隠しの言葉が思い浮かばなかったので、健悟は至ってシンプルな返事をした。ヒョコモンに対して己の気持ちを偽る必要は無いし、きっと偽る気が起こることも無い。健悟はそう感じていた。
「でも、問題はこの後だ。これだけの騒ぎを起こしたら、通行人とか警察が黙ってないんじゃ……」
事態が一応の収束を迎えた今、健悟の懸念は極めて現実的な問題に向けられていた。「怪物」2体の出現(リアライズ)から既に小一時間、SPICAのパーティーに訪れていた人々はほぼ全員敷地外へ逃げてしまっている。一連の騒動に関する噂が街に流れ、現場に見物人が大挙するであろうことは容易に想像がつく。
「その心配は無用だ」
思い悩む健悟の背後から、あまり聞きたくない声が聞こえてきた。顔をしかめて振り返ると、そこには声の主早勢俊彦と、その同僚と見られる男女数人が、神妙な面持ちで健悟らを見つめていた。
「どういう意味さ、それ」
「門の外を見てみろ」
俊彦に促され、健悟は「門」――手近にある門といえば、スクエア南門のみである――を覗き込んだ。デジモン達の戦闘に気を取られていたため全く意識していなかったが、そこは外部の人間がスクエア内の様子を伺うにはうってつけの場所だった。
閉ざされた格子戸の向こうには、予想通り人がいた。が、予想外だったのは、戦闘服と機銃を装備した大柄の男性がざっと数十人、数台の装甲車を背に横一列に並んでいるという点であった。
「な、何だこの人達!?」
「イギリス軍の電子災害対策部隊だ。SPICAの要請でデジモン被害の現場へ急行する手筈が整っている。既にスクエア全体が包囲され、逃げた人々も保護されている」
「……もしかして、情報操作とかも……?」
「それについても手回し済みだ」
イギリス軍、という名詞が俊彦の口から出た時点で、健悟は自分の顔が強張っているのを感じていた。軍隊が出動するような事態とは、言い換えれば国家の一大事である。即ちSPICAは、国家の脅威たりうるデジモンを研究し、そのために国軍すら動かしているということだ。
「……ねえ、教えてよ。SPICAが研究しているものって、一体何なんだ? 国の組織まで動かして、アンタ達は一体何がしたいんだ?」
そう問うた健悟の口は、緊張、或いは恐怖によってか、いつの間にか乾き切っていた。
俊彦は健悟を――否、健悟の傍に立つヒョコモンを睨みながら、こう答えた。
「先も言った通り……デジタルモンスターはこの世界を脅かすウィルスだ。このまま放置しておけば、いずれ現実とデジタル世界の境界を崩す存在になりかねない。今こうして野生個体(ワイルド・ワン)がRWに出没している事実がその裏付け……デジタル世界の侵食を防ぐことは人類全体の課題であり、我々SPICAが主導すべき急務なのだ」
デジタルモンスターが――ここにいるヒョコモンさえもが、この世界の脅威となる。俊彦の言葉が、そしてSPICA職員達の不安と緊張に満ちた顔がそれを物語っている。
SPICAがデジタルモンスターに関する多様な情報を保有していることは、健悟が研究棟で入手した資料を見れば明らかである。同時に、その情報を基にSPICAが予見する未来が決して荒唐無稽な話でないことも健悟には分かる。――早勢俊彦は、人間としてはともかく研究者としては一流であると、健悟自身がよく知っているから。
けれど、飲み込めない。
つい今しがた、ヒョコモンと心を通わせ、共に苦境を乗り越えたばかりの健悟にしてみれば、デジタルモンスターが純然たる「害」であるとはどうしても考えられないのだ。
「健悟、検体を引き渡せ。お前は何も知る必要は無いんだ」
俊彦の冷徹な態度に返す言葉は、あらかじめ腹に溜めてあった。攻撃のための強がりな言葉ではなく、意思表示のための強い言葉として。
「嫌だ、絶対に渡さない。知るべきかどうかは僕が決める」
無論、この選択が何を意味するかを健悟は百も承知している。国の抱える重大な問題の一端を、一人の子供が抱えて逃げ回る――下手をすれば世界の均衡を壊しかねない特大のワガママを通す、ということである。
一度首を突っ込んでしまった以上全くの部外者ではなくなったし、身内の失態で他人に迷惑がかかったとあれば傍観を決め込む訳にもいかない。そんな思いから、健悟はこの面倒ごとに最後まで付き合う覚悟を決めていた。
「いいから渡せ! それは子供の手に負える代物ではない!」
「制御に失敗したアンタが言うな! そもそも、ヒョコモンはモノじゃない!」
怒号の応酬を経て、しまった、と健悟は口を噤む。これでは子供の口喧嘩と変わらない。大人にならねば。健悟は眉間を指で押さえつつ溜め息を一つ吐いた。
「ぬぬぬぅ~……ケンゴ殿! 拙者感激にゴザる! 出会って間も無い拙者のことをそれ程までに想ってくださるとは! これ以上の悦びがゴザろうか……!」
緊張に満ちていた筈の空気は、ヒョコモンの素っ頓狂な声で一瞬の内に弛緩した。擦り寄って来るヒョコモンの頭を軽く撫でながら、健悟は改めて俊彦らに向き直った。
「僕だって、この世界が危険に晒されるのは困る。けど、あなた達大人のやり方で世界を守れるとは思えない。僕は僕なりのアプローチで……ヒョコモンと協力することで、世界を守ってみせるよ」
健悟のこの言葉に、研究員達は一様に複雑な表情を浮かべた。そんな中、俊彦だけは厳しい面構えを崩さず、いくらか興奮の冷めた様子で口を開いた。
「……人間とデジモンは、確かに心を通わせることができる。それがデジモンの持つ可能性であり、同時に人間を待ち受ける脅威でもある……」
俊彦の言葉の意味が汲み取れず、健悟は一瞬の躊躇いの後に訊き返そうとした。が、俊彦に同伴していた男性職員の一人が、スマートフォンを片手に会話に割って入ったため、それは叶わなかった。
「主任、スクエア内のデジタルウェイブ流量が増大しています。流動パターンから見て、デジタルゲート発生の前兆と思われます」
デジタルゲート。その語を聞いた時、俊彦の目に一層強い緊張の色が宿るのを健悟は見逃さなかった。同時に、己の目は仄かな期待に輝いて見えるだろうと健悟は思った。ヒョコモン達デジモンの住まう世界であり、デジモンにまつわる全ての謎が集約される場所、そして早勢瑠夏がいるかもしれない場所であるDWへ至る門。それがこの地に出現するということは、健悟自らがDWへ赴く好機が訪れたということではないか。
「時間がない、無理にでもシェルターに放り込ませてもらうぞ」
「笑止! お主らにケンゴ殿と拙者を止めることなどできはせんでゴザる! ……してケンゴ殿、これからいかがなさるでゴザるか?」
俊彦とヒョコモンの言葉を半分聞き流してしまうくらいに、健悟の感情は高揚していた。
「DWに行くよ、僕達で。大人達が目を瞑ってきた真実を、僕達の目で見に行くんだ。僕達なら、それができる」
健悟はLEAFを固く握り締めながら、己を取り巻く全ての存在に向けて宣言した。するとそれに応えるかの如く、健悟の手の中でLEAFが淡い緑黄色の光を放ち始め、健悟の肌に触れる空気がピリピリと震え始めた。
何かが、動き始めている。健悟がそれを直感した時、俊彦と研究員達の視線はスクエア上空に向けられていた。つられて健悟も夕暮れの空を仰ぐと、そこには深い漆黒に塗り潰された巨大な円――否、「穴」のようなものが広がり、その淵から雷にも似た光を迸らせている。
「なんと……! ケンゴ殿、あの穴から我が故郷の匂いがするでゴザる!」
同じく上空の穴を見上げるヒョコモンが、嬉しそうな声を上げる。その様子と先刻の研究員の言葉から察するに、空に開いたあの大穴こそが、RWとDWを繋ぐワームホール《デジタルゲート》なのだろう、と健悟は推察した。
大穴を縁取る光がいっとき強まったかと思うと、健悟の体は奇妙な浮遊感に包まれゆっくりと空中へ舞い上がった。唐突な現象に慌てかけた健悟だったが、同じく宙に引き上げられたヒョコモンに左手を握られたことで、すぐに落ち着きを取り戻すことができた。
狼狽える研究員達の姿が、争いの爪痕を残す庭園が、みるみる内に眼下へ遠ざかって行く。高度が上がれば上がる程、健悟らを引き寄せる力は増して行くようであった。
もう、今までの日常には戻れないのだろう。そんな一抹の寂しさを胸に地上を眺めていると、一瞬――ほんの一瞬、俊彦と目が合った。怒るでも悲しむでもなく、何か言いたげな顔をした彼は、さっとその顔を伏せてしまった。
俊彦は何を言おうとしたのか。DWの謎と母の行方を明らかにしたら、ついでにそれも確かめてみようか……。
そんなことを思いながら、健悟は手を取り合ったヒョコモンと視線を交わし、2人を飲み込むゲートの暗闇に身を委ねた。
(ep.01へつづく)