※注意!
こちらは拙作『Everyone wept for Mary』の 最終回後世界でのお話です。
と言いつつ、以前参加していた企画や別の拙作『デジモンアクアリウム』最終回のネタバレまでぶち込んである、節操無しの自作闇鍋外伝となっております。
当然エブメアの特大ネタバレが大前提となっており、このお話単体では成立しない上、本当に最終回後の蛇足みたいなお話です。
それでもよければ、あの後『ゲイリー・ストゥー』と呼ばれていた誰かは、どうなったのか。どうかお付き合いをお願いします。
*
軍を引き連れ行進するリチャード王の前に、2人の女性が立ちはだかる。
「誰だ、俺の進軍を邪魔するのは」
馬上から唸るように問いかける王に対して、更に一歩、果敢に前に足を踏み出すのは、他ならぬ彼の母親。
「お前が呪われた胎の中にいた時に、お前の誕生を邪魔してやれた筈の女だ」
役名を、ヨーク夫人という。
「お前など絞め殺してやれば良かった」
夫人が声を震わせる。
「情け知らずの殺戮者、恥知らずの卑劣漢」
だが、その声は恐怖や悲しみに震えているのではない。
純然たる、怒りと憎しみ。
それを、我が子に向けて。
「ああ、お前さえ生まれてこなければ!」
夫人が声高に、涙ながらに訴える。
その時、俺は。
……俺は?
俺は、どうしたんだっけ。
俺は――どう、したかったんだっけ?
視界が揺れる。
世界が回る。
王様の視点で見下ろした夫人の、身なりは良くとも皺の浮いた、やつれた顔つきを、確か、俺は――
*
「う、ううん……」
視界が揺れる。
世界が回る。
……枕の上で、物理的に頭が無茶苦茶に揺すられている。
「おきた」
右の頬の上に置かれた小さな手に、俺もまた、指を添える。
「起きたから」
もう大丈夫、と。
寝起きの掠れ声で訴えれば、それでもなお心配を滲ませた――それこそ、我が子を見守るような――目で俺を覗き込むのは、カートゥーン調のピンクの鼠、といった姿の獣型デジモン。俺のパートナー、チューモンで。
まったく、とんとおかしな話だ。
現状こちらに存在するデジモンのほとんどがそうであるように、コイツが卵から孵ってまだ1年と少ししか経っちゃいないのに。なのにコイツは、娘を看ている時の妻と同じ眼差しを、平気で30以上年上の俺へと向けてくる。
実の親からは、覚えの無い眼を。
「大丈夫」
自分にも言い聞かせるようにして繰り返しながら身を起こす。
「ちょっと悪い夢を見ただけさ。訳したところが訳したところだったからな」
ああ、そういえば。
“クラゲの卵”が降ったあの日は、俺じゃなくて、娘――リンドウが、何か嫌な夢を見たのだっけか。
笑っていられないなと、そう思った。
瞼が僅かに熱を帯びていて、まさにチューモンが触れていた頬に、濡れた感触がある以上は。
*
クラゲの卵が降った日――老若男女を問わず、全ての人間にパートナーデジモンがやって来たあの日から、1年以上の時が流れた。
デジモン。正式名称・デジタル“モンスター”とある通り、彼らは人知を超えた力を持つ。
そんな存在がクラゲことクラモン――デジモンの中で一番弱く幼い姿である幼年期Ⅰの段階――で、とはいえ何十億もの人々の前に等しく現れた以上、世界はまあ、控えめに言って大変な事になった。
デジモンの存在自体はそれ以前から知られており、先んじてパートナーを得ていた子供達(以前は“選ばれし子供達”なんて、当事者に対する配慮が1ミリも無い名で呼ばれていたが、それも過去のハナシだ)向けにスマートフォンのような電子機器でデジモンの衣食住を管理するシステムがある程度確立されていたお陰で、突然隣人になった彼らと限りある資源を奪い合うような事態は避けられた訳だが、発展途上国を中心としてまだまだ課題は山積みとなっており――
「――と、俺が考えたところで仕方が無いのであった」
独りごちる俺に、肩に乗ったチューモンが首をかしげる。
洗面所で顔を洗いながら、考えを整理するために色々振り返ってはみたものの、少々飛躍が過ぎ始めたのでいい加減切り上げた形だ。
冷たい水は、悪い夢の残滓もある程度洗い流してくれたらしい。
“絵本”の外側に抜け出て来たヨーク夫人の顔つきは、もはやおぼろげで、思い出せそうにも無かった。
もっとも、主役を演じるデジモンの顔は、鏡を見つめれば一緒に映り込んでくるのだが。
切り上げついでに結論を纏めると、何だかんだで、人類は1年そこらでデジモンに慣れた。良くも悪くも。
少なくとも日本じゃそんな感じだ。
その「慣れ」に自分が貢献できているかもしれないと思うのは、まァ、自惚れが過ぎるかもしれないが。
「おはよう、あなた。チューモンちゃん」
「おう、おはよう」
挨拶を交わしている間に唸り声が響いて、それを合図にチューモンが俺の肩から飛び降りる。
待っていましたとばかりに妻・アカネの足下からチューモン目掛けて飛び出すのは、黄金の子ライオンとでも呼びたくなる姿のデジモン、レオルモンだ。
レオルモンは駆け出した勢いをそのままにチューモンへと飛びかかるが、直線的な動きは簡単に見切られ、テーブルの脚を蹴って上に回避したチューモンが落下と共に重力をも味方に付ける形でレオルモンを横倒しにした事で本日もフィニッシュ。
体格差、猫と鼠、そも、デジモンの住む世界・デジタルワールドでは超希少種と、種族のスペック上では圧倒している筈なのに、今日も今日とてレオルモンは、チューモンに簡単にいなされてしまうのだった。
降参降参と言わんばかりに、腹を見せて前足をジタバタさせるレオルモンの腹を、チューモンが得意げにわしゃわしゃと撫でる。
本能的な部分もあるらしいが、結局のところただのやんちゃ盛り。アカネ曰く、面倒見の良いチューモンに甘えて、遊んで欲しがっているだけ。だそうで。
……逆にチューモンはなんでこんな大人びてるんだろうなぁ。生まれた日はレオルモンと同じで、なんなら娘のモルフォモンより年下の筈なんだがなァ。
「あなたを見てると、わかるような気もするけどね」
「へーへー。俺はいい歳こいて子供っぽいメルヘン野郎ですよー」
ひとしきりレオルモンを撫でたチューモンが俺の背を駆け上るなり肩の定位置について、さっき洗面所で整えたばかりの髪を雑に撫でる。
これでは本当に子供扱いだ。少し気恥ずかしい。
せめてもの抵抗のようにアカネが淹れてくれたブラックコーヒーを啜るが、逆に背伸びする中学生ぐらいの仕草が思い起こされて、苦い筈のコーヒーがどこかしょっぱい。
「それで」
自分のコーヒーを優雅に啜って、アカネまで子供を見るような目を向けてくる。
「何かあった?」
「何かある程起きて時間も経ってないだろ」
「寝る前ならそうでも無いでしょ。……進捗は、私だってヒルカワさんと同じぐらい把握してるのよ、キミカゲ先生」
「……」
わざわざペンネームの方まで出してきおってからに。
全く、どいつもこいつも、俺の考える事なんてお見通しってか。
でも、そうか。付き合って間もない頃、運良く近場であった舞台を2人で実際に見に行ったんだっけか。
異性と観るには想定以上に下世話な台詞がそこそこあって、好きな戯曲だと熱弁を振るった手前、観劇後若干気まずかったのもよく覚えている。
「俺は、ヨーク夫人の罵倒を軽く切り捨てるリチャードに憧れて、『リチャードⅢ世』が好きになった筈なんだがなぁ」
最愛の妻と娘。
優しいパートナー。
理解のある友人にして同僚。
黄金の冠や玉座よりも輝かしい”全て”を俺は、手に入れた筈なのに。
なのにふとしたきっかけが、俺の視界を昔々へと連れて行き、めでたしめでたしでは終わらせないぞと脅すのだ。
全てを手に入れた王様が、仕舞いには王国を対価に掲げても、馬一頭手に入れられずに死んでいったみたいに。
「仕方ないわよ。だってあなた、悪党ってガラじゃないんだもの」
「違いない」
「だから、同じ結末を辿ったりもしないわ」
アカネがわざわざ左手を俺の左手へと伸ばして重ねる。
チューモンも負けじと、また俺の髪を撫でた。
……重ね重ね、テーブルの下で大あくびをかましているレオルモンの事、何も言ってられないな。
「……凹むようなところは大体昨日訳しきったから」
自然と口角が持ち上がるのにつられて、声と話題も僅かに明るさを得る。
「翻訳もラストスパートだ。あと半月もしない内に、直訳は終わると思う」
楽しみね。と妻は顔を綻ばせて、手を止めたチューモンも身体を傾けて、にやりと不揃いな歯を殊更大きく見せ付けた。
「ま、正直問題はそこからなんだけどな。配役をどうするかとか、コンプライアンスとか、コンプライアンスとか、コンプライアンスとか……」
そうだ、心に余裕が出来てきたからか、ヨーク夫人の罵倒集に、ちょぉっと、いやかなり、ものすごく、現代の価値観に合わないワードが頻出する事の方が気がかりになってきた。
製品として仕上げる前には、担当だけじゃなく、この前出たばかりの『シリーズ1作目』の翻訳家さんにも相談はする予定とはいえ、言い出した以上はある程度自分でどうにかする必要がある訳で……。
とはいえ俺の顔つきが変わったのを察したのだろう。
安堵混じりにおかしそうに笑って、アカネは引き戻した手でコーヒーの残りに手を着け始めた。
と、その時だった。
「ん?」
ふいに、テーブルの隅に置いた俺のスマホが振動と共に着信を訴え始める。
慌てて手に取ると、画面に表示されているのは”ルル”のカタカナ2文字。俺の担当にして幼馴染み、ヒルカワ ハルカの愛称だ。
「……今日って打ち合わせの予定、入れてなかったよな?」
アカネとチューモンが顔を見合わせる。少なくとも、2人に覚えは無いらしい。
「もしもし、どうしたハルカ」
通話を繋ぎ、一応席を立って廊下に移動する。
おはよう先生と、挨拶してくる彼女の声に珍しく、幽かな困惑的なものが感じ取れた。
「いや、ごめん。昨日伝えるか悩んだんだけど、作業忙しいかと思ってさ」
この言い分だと、急ぎの用という訳では無いのだろうか。
何かあったのかと、もう一度訪ねかける。
ええっと、と。ハルカが続ける。
「実は昨日の夕方ぐらいかな、先生と直接会いたいって人からの電話があってさ」
「俺と? 取材か?」
「いや、そうじゃないっぽい。一般人。もちろんそれだけなら、基本的にこっちで丁重にお断りしてるんだけど……」
「けど?」
「名前がね、ちょっと」
いつになく歯切れの悪いハルカは、しかし僅かに沈黙を挟んだ後、意を決したように口を開いた。
「ミフジ リョウジって。……ノリト、覚え、無い?」
「え?」
久々に本名で呼びかけられて。ひゅっと軽く息が詰まる。
結論から言えば、覚えはあった。少なくともその名字には、覚えしか無かった。覚えが無い訳が無いだろう。
だってミフジ――海藤。
そいつは、俺の名字なんだから。
加えて、リョウジ、と。
その名に、妻とパートナーがさっき引き剥がしてくれたばかりの昔話が、再び鮮やかに紐解かれる。
待機していた筈のチューモンが、こちらに寄ってきたのを足下の影で察する。
そのシルエットに、何故だろう。最後にこちらに向けられた、母の冷たい双眸を見たような気がした。
*
明透と書いて、ノリトと読む。
ひっくり返すと“透明”だ。母に――いや、両親にとって、俺はそういう物だったのだと悟るには、少々あからさますぎる種明かしだと、漢字を覚えたばかりの頃の俺ですら思ったものだ。
物心がついた頃には父は家にいなかったし、母の視界に俺はいなかった。
最後にこちらを見たと思ったら、母さんまで家から出て行って、それきりだ。
「それで、空腹のあまり冷蔵庫の調味料にあらかた手を着けて転がってた俺を発見、病院に担ぎ込んだのが、母さんを心配して訪ねてきた弟。ようするに叔父さんってワケ」
「……」
「俺の記憶違いじゃなかったら、リョウジって名前だったと思う」
「ちなみにそんな先生のイチオシ調味料は?」
「ケチャップかなぁ」
当時の好みからして鼠寄りなんだねと、竦める肩に緑色の芋虫――ドクネモンを乗せたハルカ。
それは鼠違いだろうと、俺の肩の上にいるチューモンが、俺がサングラスの位置を直すのに合わせてふんすと鼻を鳴らした。
こういう人が引く話を軽く交わせるのは、幼馴染み、ようするに、同じ施設で幼少期を共にしたハルカだからこそだ。
「でも先生のその辺の話は初めて聞いたかも」
「ぶっちゃけ施設に入る直前の記憶はあやふやでなぁ」
「じゃあひょっとして、アカネちゃんにも話してない?」
「進んでするような話でも無いし」
「ふぅん」
ドクネモンがカチと嘴を鳴らす。何か言いたい風だが。
夫婦間であんまり秘密は作らない方がいいぞとか、そういう……? 1歳過ぎの芋虫が……?
「ただ、俺を見つけたのが叔父さんで、名前は病院でも何回か聞かされたから、それは覚えがあるんだ」
とはいえ以降顔を合わせた事がある訳でも無い。入院費や、施設に入るまでの手続きも叔父がしてくれたという話だが、直接会いにはきてくれなかった。
助けてもらっておいて恩知らずな話だが、厄介払いも済まされたんだなと。そう思った。
「それがどうして今になって……」
「嫌なら無理に会わなくてもいいんじゃない? 今からでも「やっぱ無理」って言ってきてあげるけど」
「残念ながらそこまで邪険にする程の思い入れも逆に無く」
「わかるわぁ」
現在俺達は、出版社からほど近くにあるファミレスに向けて足を進めている。
平日。時刻はお昼時。ハルカが居るのは完全に厚意だ。仲介した手前、担当として、と、昼休みを利用して、最終的に叔父を名乗る人物と顔を合わせる決断をした俺に付き添いで来てくれている。
「後から入って近くの席に座るから。何も無ければ邪魔はしないし」
「正直助かる。心強いよ」
「へへん、頼りにしてよね。お金の無心とかだったら、ドクネモンに毒撒いてもらうから」
「ごめん一気に不安になってきた」
というか、それだと俺も、それ以外の周りも巻き込まれかねない気がするんだが。
全く。長い付き合いだが、一目瞭然の胸回りと違って、ハルカの情が厚いのか薄いのかについては未だ判定を下せそうに無い。
ほらチューモン。お前も仕舞え。そのチーズ型の爆弾仕舞って。早く。「大丈夫、もしもの時は私が居る」と言わんばかりに息を巻くのは結構だけれども。
……ま、ひとりぼっちになったあの日と違って、コイツらが傍に居てくれるのは。内心、本当に頼もしいのだが。
それじゃあと、手前のコンビニで一旦ハルカとドクネモンに別れを告げ、チューモンをスマホに入れてからファミレスの扉を抜けた。
にこやかに客を出迎えるウェイトレスにミフジの名を伝えると、すぐさま奥の席へと案内される。
昼飯時にもかかわらず客の入りはまばらだ。後から来るハルカも席には困らなさそうだが、打ち合わせにもよく使うこの店が来年も同じ場所にあるかは若干気がかりなところ。
「お連れ様いらっしゃいましたよ」
「ああ、ありがとう」
ウェイトレスに呼びかけられ、先に席に着いていた初老の男性がメニュー表から顔を上げる。
俺はサングラスを外して、その人物へと会釈する。
昼間の照明にさえ細まった裸眼で見下ろしても――意外な程に、驚きは無かった。
明るさ以外の要因で細められたその目に、僅かながら、毎日鏡で見る像が重なりぐらいはしたけれども。
「久しぶりですね、ノリト君」
男が微笑む。ひどく柔らかな印象の笑みだった。
「いや、今はナシロ先生と呼んだ方がいいのかな」
「……正直、その方が」
羽織っていたコートを脱いで、男性の前に腰掛けようとすると、ドリンクバーだけ先に頼んであると男が手元のコーヒーカップをとんとんと小突く。
「先に何か取ってきてもいいんじゃないですか?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
コートだけを置いて、俺も同じようにホットコーヒーを淹れてくる。
今度こそ席に着くと、それとなく注文用のタッチパネルをこちらに差し出しながら、改めて男が軽く頭を下げた。
「今日はわざわざ、ありがとう。担当の方から聞いていると思いますが、改めて」
ミフジ リョウジ、と。
男は丁寧な口調でやはりその名を名乗り、血縁上は叔父になると自らを紹介する。
先に俺の名についてはやり取りを挟んだとはいえ、返答に関しては決めあぐねて、俺はとりあえず、自分の名刺を差し出した。
「本当に、本当に立派になったものです。デジモンが登場する絵本の先駆者とまで聞いていますよ」
「いや、そこまでは」
「ここに来る前に、『真夏の夜の夢』も読ませてもらいました。デジモンには馴染みの薄い恋愛の概念を、人とデジモンのパートナー関係に置き換えた上で、妖精の住まう森の情景が緻密かつ荘厳に描かれていて……素人目にも、素晴らしい作品でした。シェイクスピア戯曲の絵本化はシリーズものだと聞いて、僕も今から楽しみにしているぐらいですよ」
「えっと……どうも」
もちろん褒められて悪い気はしないが、アレに関しちゃ絵は兎も角、構成とプロの翻訳、そして娘の存在のたまものだしな、と、実質初対面に等しい叔父に、ぎこちなく気のない返事しかできない俺。
叔父は眉尻を下げて、くすりと鼻を鳴らした。
「無理のあるお願いかもしれませんが、そう警戒しないでください。僕は「生きている叔父」だから、そんな怖い相手じゃありませんよ」
「それは怖い叔父が言う台詞なんですよ」
ここで苦笑いと共に――単純な話ではあるが――少しだけ、肩の力が抜けたのが解った
「生きている叔父だって怖くない」……『リチャードⅢ世』にて、ロンドン塔で死んだ王の弟クラレンスの亡霊を怖がったり怖がらなかったりする王子達に対して、後に彼らを手にかけるもう1人の叔父――主人公がおどけて口にする台詞だ。
『リチャードⅢ世』は一番好きな作品で、自分で翻訳していると。確実に後書きに載せた文を知っていなければ出てこないチョイスに、絵本作家としてはどうしても判定が甘くなってしまい。
「そうですね」
叔父は一度目を伏せて、言葉の余韻に罪悪感の影を滲ませた。
「少なくとも、良い叔父ではありませんでした」
言い訳するつもりは無いと。叔父は一度言葉を句切って、コーヒーを啜る。
「若かりし頃の僕の思惑がどうであれ、君を1人にしてしまったのは事実です」
「……」
「姉さんと同じように」
ズボンのポケットの方で、何かを言いたげに震えたスマホを指で押さえた。
「……今日は、それをわざわざ言いに?」
「目的の内に無かった訳じゃないですが、それができるなら、もっと早くにそうしていましたよ。……こんなきっかけが無ければ、顔を合わせる勇気すら出せなかった」
「きっかけ」
「本題に入りましょうか」
カップを置いた手を、叔父は机の上で軽く組ませた。
節くれ立った、順当に年齢を刻んだ手だ。
「姉さんが。……君の母親が、亡くなりました」
この人の姉にあたる俺の母は、そういえば、何歳になったのだろうと。思いを馳せた矢先の発言であった。
*
数日後。
約2時間の電車旅を終え、駅を出た俺は待機していた叔父の車の後部座席に乗り込んだ。
……あんまり車種とか詳しくないけれど、尻が落ち着かない革張りのシートが、少なくとも安物では無い事だけは教えてくれている。良い車乗ってるな、この人。
バスの時刻表には隙間が目立ち、タクシー乗り場に人も車も、もちろんデジモンもいやしない。故に路上駐車に多少目を瞑ってくれるような、良くも悪くもおおらかな田舎町。
そんなところで、母さんは1人で暮らして、1人で死んだらしい。
「すみません、待ちました?」
「いいえ? むしろ僕の方が、少し早く着いてしまったようですね」
道は空いていましたから。と、朗らかに、叔父。
公共施設を出てすぐスマホからリアライズしたチューモンが、俺の着けたシートベルトの隙間に潜り込んでから、前方の座席を睨めつけてふんふんと鼻を鳴らした。
「こら、チューモン」
「はは、気にしてませんよ、警戒されて当然です。……パートナー想いの、良い子ですね」
それはそうだ、と言わんばかりにチューモンがひときわ大きく鼻を鳴らしたのを見て、叔父が眉を少し下げた。
「まあ、僕は兎も角。見た目は怖いけれど、この子も悪い子じゃありませんから」
よければ仲良くしてあげてくださいと叔父が目配せするのは、助手席に行儀良く腰を降ろした一頭の犬――に、似たデジモン。
ドーベルモン。俺の記憶に間違いが無ければ――
「成熟期、ですよね」
叔父とドーベルモンが同時に頷く。
「珍しいですね、成長期じゃないの」
この姿でいるだけで自分だってもうなれるぞと、チューモンが俺のコートを軽く引っ張る。張り合うな張り合うな。
「それに大人しいし」
行儀の良さに触れると、チューモンがぴたりと動きを止める。何を対抗してるんだコイツは。
と、そんなチューモンをちらと振り返ることはあっても、ドーベルモンは基本的に、シートの上で微動だにしない。
ウィルス種とみれば、見境無く襲いかかるデジモン。……そんな風に聞いた事があるのだが。
「流石、デジモンに詳しいですね」
「まあ、職業柄」
今は特に、筋書きのある戯曲の登場人物達に、どのデジモンを当て嵌めるかで、よく頭を悩ませているものだから。
それに、そもそも。娘の件もある。
「この子のデジモンとしての特性については、そう心配しなくていいと思います。ウィルス種に突然牙を剥いた事は、今のところ一度もありませんから。人間のパートナーになるにあたって、調整の施された個体なのでしょう。君の担当さんのドクネモンみたいなものですよ」
「……」
――うーん……そんな、君の事どうこうしようって風にも見えなかったけど、正直ルルちゃん的には油断ならねーなーって印象かな。
叔父との対談後、会社の方で落ち合ったルルが口にした所感を思い出す。
――だって、帰る前あたしにわざわざ会釈してったんだよ? 電話で話はしたけど、直接は会ってない筈なのにさ。
先生は随分と気を許しちゃったみたいだけど、と、俺の唇を凝視するハルカ。同調するように、ドクネモンがカチカチと嘴を鳴らす。
……心配になって拭ってみたが、なんやかんやで奢ってもらった昼食のオムライス(ケチャップの話をしていたら食べたくなった)の痕跡は付いてはこなかった。
――いうて母親の事だもん。気になるのは解るよ。でも、2人きりで会うなら、あんまり気を許し過ぎないでね。
ドクネモンは本来、テクスチャにも強い毒性が滲み出ており、直接手で触るのは危ないと一般人が目を通せる資料にも記されている。
にもかかわらずハルカは常日頃ドクネモンを首に巻いているし、それで髪が傷んだり、サイド三つ編みにして露出している首がかぶれたりしている様子も無い。
だから、「人間と暮らすデジモンの特例」の例としては、確かに、この上なく、分かりやすい。
分かりやすいが、彼女のパートナーがドクネモンであるのをいつ確認したのか、となると――
……あまり気を許すな、か。
20年以上音信不通だった叔父に対して、それは確かに、今更が過ぎる話でもあるが。
「そういえば、母さんのパートナーデジモンは何だったんですか」
一旦、気持ちと話題を切り替える。
叔父は俺の置いた妙な間を気にすること無く
「ああ、ゴースモンですよ」
とあくまで気さくな調子で応じた。
「ゴースモン」
成長期のデータ種。
……名前そのまま、ゴースト型のデジモンだ。
ゴースト。
幽霊。
……亡霊。
「どんな、デジモンでしたか」
運転中の叔父は、前を向いたまま、首を横に振った。
「すみません、直接会った事は無いので……」
人間のパートナーを持つデジモンは、原則、人間の死と共に寿命を迎えるように出来ている。
叔父が「直接会った事は無い」と言う事は――
「亡くなって、ようやくでした。姉さんの居場所が判ったのは」
僅かな縁を辿って、役所から叔父に連絡が来たという話だ。
「本来であれば、葬儀の時点で君に連絡しなければならなかったのですが。絵本作家・ナシロ キミカゲが君だと判ったのも、色々な伝手を辿ってようやくの事でしたから。……重ね重ね、申し訳ない事です」
「いえ……それは、もう、仕方が無いんで」
いっそ真偽がどうであれ。叔父の対応を不誠実だと詰るつもりは毛頭無い。
実際、簡単には特定出来なかったろうし(されても困るし)、正直、ほっとしている自分もいる。
生前だろうが、死に顔だろうが。こっちがどんな顔を合わせて良いか、判ったものではなかったから。
スマホの外に居るチューモンが、コートを握る力を僅かに強める。
だから俺も、端末を押さえる代わりに、チューモンの頭をそっと撫でた。
「じゃあ、母さんは。叔父さんから見たあの人は、どんな人でしたか?」
質問を変える。
運転を理由に前方に固定されていた視線が一瞬だけ落ちて、それからすぐに、叔父はミラー越しに俺に向けて目を細めた。
「君に対して、どう答えるのが誠実にあたるのでしょう」
俺に代わって、これまで沈黙を保っていたドーベルモンがぐぐと喉を鳴らした。
正直に言う他無いだろうと。そう諫めているように見えたのは、俺の願望が反映されての事か。
「……姉さんは」
それでも言葉を選ぶように間を置く叔父の逃げ場を塞ぐようにして、信号までもが、赤色に変わる。
「無気力な人、でしたかね。何もかもを諦めているような」
環境がそうしてしまったと。それこそやるせない調子で叔父は続ける。
「後でまた話しますが、僕らの実家はそれなりの名士でして。……それだけに、価値観も古かった。男が偉くて、女はそうじゃない。時代錯誤も甚だしけれど、それが当たり前の環境で、姉さんの心は削られていった」
もちろん、それが何ら言い訳になる訳じゃありませんが。と、静かに断りを入れて、彼は自嘲気味に口角の片側を持ち上げた。
「だから、姉さんはきっと、嫌いだったんじゃないですかね。とどめみたいに産まれてきた僕の事」
信号が青に変わって、車が動き出す。
目を逸らすようにして外を見やっても、景色以上に、サングラスで見えない自分の眼差しと、チューモンの瞳が目について。
だけどそこに、長らく忘れていた女の面影を見たような気もした。
とどめと言うなら、きっと、俺の方だったのだろうと。
*
「さて、着きましたよ」
駅から十数分。車が止まったのは、見るからに年季の入っているアパートの駐車場。
叔父の車が、ひび割れたブロック塀に悪目立ちしている。
「大家さんから鍵をもらってくるので、しばらくこちらで待っていてください」
叔父は車内で待っていても良いと言ったが、弾力のある背もたれには終ぞ慣れられる気がしなくて、俺とチューモンは外に出た。
天気はあまり良く無いが、光に弱い目にはありがたかった。雨は降らないという話だし、ここでの用事を終えたら、予定通り母さんが埋葬された霊園へと足を運ぶ事になるのだろう。
ここでの用――所謂、遺品整理だ。
俺と叔父、両者とも手を着けなかった品は、後日業者が処分してくれる手はずとなっているようだ。信用云々は兎も角、何から何まで手配してもらっている点には、同じ身内とはいえ若干頭が上がらない思いもある。
「母さんの、終の住処、か」
外観だけの話をすると、俺と元々暮らしていた団地の一角よりもこぢんまりとした印象だ。
「なんか、実感が湧かないな」
新しい男と新しい家庭を築いている。ぐらいのシチュエーションは余裕であり得ると思っていたから、独り身のまま(現代の日本人女性にしては)若くして亡くなるというのは、逆に想定していなくて。
父についても、ここに来る前に少しだけ聞いた。
親同士の決めた結婚で、まあ、なんというか、普通に上手くいかなかったんだと。
向こうもそれなりの家の長男だったらしいが、それ相応の長男気質にいよいよ耐えられなくなった母さんに逃げられた後、何かと落ちぶれて、最終的には新興宗教に嵌まってしまっただのなんだの……それ以上の詳細は、俺も聞かない事にした。
「というか、びっくりだぜ。それなりにいいところの坊ちゃんだったんだな、俺。帰ったらアカネも教えてやろう」
だからこそ母さんにとっては忌々しかったのだろうが。
ようやくくだらない一族の全てから距離を置けると一息ついたのに、気付けば胎の中に残りカスがへばりついていた。
仮にも芽生えた命を、堕ろして奪うのが怖かったのか。
あるいは“我が子”なら、ひょっとしたら可愛いかもしれないと思ったのか。
「「しかし仕舞いには貴女の慰めとして生まれてきたでしょう?」」
いいえ。と、頭の中のヨーク夫人は首を横に振った。
「「そんな筈があるものですか。知っていますとも、あなたがこの世に生まれてきたのは、この世を私の地獄にするため」」
車止めのブロックに腰掛け、『リチャードⅢ世』の、訳したばかりの母子のやり取りを口ずさむと、チューモンに頬を捻られた。
でも。地獄とまではいかずとも。
こんなぼろ家じゃ、天国みたいな暮らしができていたとは到底、思えなくて。
……史実ヨーク夫人は史実リチャードⅢ世の死後10年生き延びて、新王朝で信仰深いキャラをウリにそこそこの地位を保っていたという話だけれど、俺の母親がそんな器用な真似が出来たとも思えない。
戯曲の親子同士みたいに、お互いの気性が似ていたら、の話だが。
「少なくともお前は向いて無さそうだよなぁ」
何がだ、と、引き続き頬をつねりつつ、チューモンが唸る。
力は大して込められちゃいないが、尖った黒い爪の先が地味に痛い。
と、そうこうしている内に大家と話がついたらしい。
ドーベルモンが駆けてきて、アパートの階段前で叔父は鍵を掲げていた。
腰を上げて、叔父の下に引き返していくドーベルモンに続く。
母さんの部屋は2階のようだ。
中央付近の部屋で鍵を開けた叔父が、先に入るよう手招きする。
「お邪魔します」
家主もいやしないのに。他人行儀に呟いて、親の家の玄関へと上がった。
異臭だとか、ゴミ山だとか。突然死した中年女性の部屋として想定できる限りの最悪の状況に身構えていたのだが、杞憂だったようだ。
綺麗にしている……というよりは、単純に物が少ない。
好奇心に突き動かされて、廊下と一体化しているキッチンの冷蔵庫を開けるも、中は空っぽ。
お前そういうところあるよなと言わんばかりに、チューモンが肩を竦めた。
「ああ、流石に食品の類は事前に処分してもらいました。残しておいても、誰の特にもならないので」
そりゃそうだ。
低いベッドに申し訳程度に収納が備わっているが、引っ張り出してみたところ衣装ケースだった。この中にへそくりがある可能性も無いではないだろうが、親の物とはいえ女性物の衣類を漁るのは流石に気が引ける。
一応、と、自己申告? によれば人格(デジ格?)が女性に近いらしいチューモンが探索を買って出てくれたので、こちらは任せておく事としよう。
押し入れを開く。
案の定、こちらも大したものは入っていない。冬用の布団を出して空いたスペースに、鞄や上着等、衣装ケースに入れるのに向いていない日用品。それから、段ボールが数箱。
「あ、この新品のティッシュもらって帰っていいですか。何かと使うんで」
「それは、もちろん構いませんが……」
ちょっと引かれてしまった気がする。
とはいえ実際、これが唯一の手元に置く遺品になるのは流石に忍びないので、段ボールの方ももうちょっと真剣にチェックさせてもらうか。
「なんというか」
有る分の箱を取り出して並べる俺に、少しだけ意外そうに叔父が口を開く。
「動揺してないですね、全然」
「……自分でも少し驚いてます」
未だにきっかけさえあればあんな夢を見るくらいだ。自分で言うのも何だが、トラウマは相当根深いとは思う。
でも、不思議と部屋に入ってからは、これといった感慨も湧いてこないでいて。
もうそこに、あの冷たい眼差しを見出す事すら、ありえないからだろうか。
「それに。暮らしに余裕が無かった訳じゃ無いみたいなんで」
直にこの場の空気に触れると、ただそれだけで、自分の想定がいかに的外れだったかが、伝わってくる部分も結構あって。
質素には暮らしていたようだが、切り詰めていたという程の印象は無い。
先程カバンからレシートが出て来たが、見た感じ、それなりに手の込んだものは作っていたようだ。キッチンにあった調理器具が使い込まれている風だったのも、それを裏付けている。
「もちろん、思うところはありますけどね」
ベッドの上には、栞が挟まったままの文庫本も一冊。知らない作品だったが、タイトルからして推理系のシリーズ物らしい。案の定、段ボールのひとつに過去作も複数入っていた。
パート先で急に倒れて、そのまま――という話だが、家に帰れば、きっと、続きを読む気でいた筈で。
「でも、俺の存在が、俺を捨ててからも影になってた訳じゃないなら、それは良かった」
絞め殺してやれば良かったと。
生まれてこなければよかったと。
ずっとずっと、憎まれ続けているんじゃないかと思っていた。
いつもどこかで、自分は母親に呪われ続けているんじゃないかと。
家庭を持った幸せを享受すればするほど――怖かった。
いつか自分が、娘の、リンドウの幸せにまで、ヒビを入れてしまうんじゃないかって。
だけど、そうじゃなかった。
母さんにとって俺は既に“過去の事”で。
憎むほどの存在ですらなくて。
生まなきゃ良かったとは思われたかもしれないけれど、生まれてこなきゃ良かったと思い続けられる程のものでも無かった。
愛の反対は、無関心。……なんて、聖人サマの言葉が身に染みる。きっとこの台詞を遺した当人の意思に反して、むしろ救いであるかのように。
「だから」
仕事は終わったのだろうか?
わからないけれど、チューモンは俺の背中をよじ登ってきた。
肩に辿り着いた彼女の額を撫でて、俺はその手で、文庫本と一緒に段ボールから出てきた1冊を表情の抜け落ちた叔父へと差し出す。
今度は俺が、笑ってみせる番だった。
「こんな“小細工”しなくても。俺だって、母さんの事を憎んだりなんか、してませんよ」
それは、絵本作家ナシロ キミカゲの名が世間に認められるに至った1冊。
バタフラモンというデジモンが、友達のハニービーモンのためにケーキを作ろうと、人間の町に材料を買いに出かけるお話だ。
“クラゲの卵が降った日”よりも先に娘の下にやってきたモルフォモンから着想を得て、しかしそのままモルフォモンを使うのも何だしと上記のデジモンを選出した本作は、一般ウケはそこそこ良かったのに肝心の娘には微妙に不評で――と、それはさておき。何にせよ思い入れの深い一作である。
仮に母さんが「息子を捨てた事を後悔し引き摺っている母親」で、「何かのきっかけで売り出し中の絵本作家の正体が息子だった」と気付いたとしたら、まず外さないだろうな、というチョイスで。
「どうして」
叔父は首を横に振って、力無く微笑んだ。
「僕がそんな真似をすると? 数日前に、20年ぶりに会ったばかりの甥に対して」
「それを言うなら、ここまで良くしてくれている時点で、なんですよね」
俺は絵本作家。
紛いなりにも、「美しい物語」を描く側。
だからこそ現実に対して、少々過敏になってしまうものなのだ。
差し出したままの自作に視線を落とす。バタフラモンもハニービーモンも黄色いデジモンだから、全体的に暖色で纏めた、優しくあたたかな色調で纏めた良い絵だと自画自賛しておく。
ただ、俺がそうあれと願った以上に表紙はうっすらと黄ばんでいて、少なくとも本屋で最近まで保管されていたものでは無い事が判る。
古本屋で買ってきたか、あるいは、ひょっとすると叔父の私物なのか。どちらにせよ、手が込んでいる。
「「母さんは俺を捨てた事を後悔していて、だけど今更合わせる顔も無い。せめて代表作だけは手元に置いて、影ながら息子の活躍を祈っていた」……いやホント、話としては美しいんですけどね?」
ちょっとそいつは、“ご都合”が過ぎるかなぁと。
「確信を持って言っている訳では無いんですね。なら、物語は感動的でも良かったんじゃないですか?」
「確信は確かに無いんですけど、確信めいたものはあるというか」
仮にも親子ですから、と。持ち上げた口角は、もしかしたらぎこちなかったかもしれない。
叔父の口元が僅かに引きつっているのと、同じように。
「何にせよ、母さんは母さんの人生を歩んだし、俺は自分の人生を歩んでる。「無くても平気だった」なんて、口が裂けても言えませんけど、でも」
チューモンが俺の頬に頭を寄せる。
柔らかな毛、ぬくもり、小さくても、確かな感触。
「代わりの物は、抱えきれないくらい手に入れましたから」
妻と娘。親友。相棒。
それから――そうだな。
俺の絵を「嫌いじゃ無い」と言ってくれる、名前も知らない“誰か”が不特定多数。
「あと、親はコレでしたけど。気にかけてくれている親戚も、どうやら1人いたみたいですし」
ドーベルモンが、押し黙っている叔父の足下でくぅんと喉を鳴らす。観念しろと言わんばかりに。
「……僕のお節介は、どうやら20年は遅かったようですね」
「ホント、今更ですね」
叔父の手がようやく、絵本を受け取る。
「最後に見た君は、今にも死んでしまいそうだったのに。……本当に、立派になって」
「おかげさまで」
「立派になり過ぎて少し可愛げが無い」
「30過ぎの男に可愛げを求める方が間違いかと」
やめるんだチューモン。大事な話の最中なんだ、「お前は可愛いぞ」と言わんばかりに撫でるな撫でるな。
……そんな俺達を前に、叔父はここまでとは少しだけ違う、苦笑に分類される笑みを浮かべると、再び絵本を突き返してきた。
気がつけばドーベルモンが、部屋のどこかにあったらしいマジックペンを1本咥えてきていて、叔父は更にそいつを絵本へと添えた。
「折角の機会だから、サインぐらいもらっておこうかな」
これからも応援していますよ、ナシロ先生。と。
そう言われてしまっては仕方が無い。もう一度自分の描いたそれを手元に置いて、ペンを取る。
ナシロ キミカゲ
妻の旧姓と、妻の好きな花。
自慢の名前を、表紙の裏へと書き記す。
なあ、どうだい母さん。妬ましいかな。
俺は透明じゃ無い花の名前で、希望を持って、生きてるぜ。
*
「おかえり」
リビングに入ると、キッチンのシンクの影からひょこ、とモルフォモンが代わりに顔を覗かせて、すぐにリンドウがその後に続いた。
台所から、何やら甘い匂いがする。
「何か作ってるのか?」
「別に」
そっけなく顔を逸らして、しかしすぐにリンドウは再びこちらに顔を向けて――どころか、まじまじとサングラスに隠れた俺の目を覗き込む。
「?」
「もっと凹んだ顔して帰ってくるかと思ってた」
「……ひょっとしてリンドウ、俺を慰めるつもりで、何か用意してくれてるのか?」
「ちーがーう。調理実習のおさらいだもん」
カァーッ、可愛いなぁ俺の娘!
「そういうのじゃ無いったら」
リンドウが唇を尖らせて、何も解っちゃいない顔のモルフォモンが娘の表情を一応真似る。
「でも、出来たら食べて良いよ。感想、宿題に書かなきゃだから」
俺とチューモンは顔を見合わせて笑い合った。
「……。……っていうか、そのティッシュ箱の詰め合わせ、何」
「これか? ……親の遺産?」
「何それ」
「あと、小説もあるぞ。シリーズもののミステリーっぽい」
「……良かったね、ソーゾクゼーには悩まなくて良さそうで」
「……」
「え、何。なんで黙ったの」
相続税。遺産相続、な。
母さん自身に貯金と言える程の貯金は無く、有りがたいことに借金も無く。
諸々の手続きは、引き続き叔父さんが請け負ってくれるとの話だったが――母さんの、実家の事。
曰く、現在施設暮らしらしいが、俺の祖父は存命だそうで。
でも、多分、そう長くはなさそうで。
一応、実家自体は太いわけで。
「その気があるのなら」と。
当初、断りかけて――しかしふと脳裏を過るのは、いくら自慢だとはいっても安定した職種とはいえない俺の身の上と、家族の将来。
そう、リンドウの養育費とか。
俺とアカネの老後の事とか。
有るに越した事は、無いんだよな……?
っていうか、俺達はアカネの実家からは結婚を反対されて、アカネは駆け落ち同然で家を出て来たんだが、その反対理由というのが「俺がどこの馬の骨ともしれない男だから」だった訳で。だから結局、籍としては俺の方の名字を使う事になった訳で。
その……家格的には問題無いのが判った以上、アカネにその気があるなら、これを機に向こうとも和解できる可能性も……?
「お母さんと要相談です」
「何の話?」
少なくとも子供にする話じゃ無い。
「……紅茶淹れようか?」
あまりに下手なはぐらかしにリンドウは眉をひそめたが、温かい飲み物そのものには賛成のようだ。
ちょうど、キッチンのオーブンレンジが出来上がりを告げるメロディーを奏でる。ちらりと中を覗き込んだところ、どうやらカップケーキの類らしい。……桶の中の洗い物は少々景気が良すぎるが、折角作ってくれたのだ、ここはアカネが仕事から帰ってくる前に、俺がちゃちゃっと片付けておこう。
と、
「あのね」
お湯を沸かす間に少しでも、と手を着け始めていたら、リンドウがまたこちらに戻ってきた。
「これは、昔見た夢の話なんだけど」
「夢」
「笑わないでね」
「内容によるな」
「……」
「笑わないデス」
「……。……お父さんが色々大変だったのは、カミサマのせいなんだって」
「おっ、宗教の勧誘かな?」
「…………」
「すみません茶化しもしないデス」
「……。……でも、その分。良い事もあるようにしたんだって」
「……」
悪い事の分の良い事。
母親に罵声を浴びせかけられた次のパートでのリチャード王が、王の座を確固たるものにするために、前王の妃の娘をもらい受けようと並べ立てた文句の中にその手のハナシがあったような。
でも、事実として。叔父にそう語り聞かせたように、俺はそれだけの、いや、それ以上のものを手に入れて。
それこそ幼稚な二次創作。美しいだけの物語。悲劇を足蹴に都合良く回る――まるで、メアリー・スーのような――
「黙ってないで何か言ってよ」
「やだぁ俺の娘、理不尽……!」
――全く、素敵な人生(ものがたり)じゃないか。
「もういい。どうせ夢の話だし」
「……お砂糖とミルク入れといて大丈夫?」
「うん」
つむじを曲げた風に娘はリビングへと引き返し、モルフォモンもふにふにの口元をへの字に曲げちゃいるが、ちゃんと返事を寄越してくれるあたり、本当に御機嫌が傾いてしまった訳では無いのだろう。
ところで、そのカミサマとやら。
ひょっとして、赤紫の『不思議な国のアリス』みたいな格好していなかったか? と一瞬問いかけて――やめておいた。
「はぁ?」って言われるの、目に見えてるし。お父さん、傷付いちゃう。
「どうする? カップケーキはお供えでもするか?」
「もうそのお話はおしまいだってば。……それは、モルフォモン達の分」
オーブンを開くと、ちょうど家族全員分。
6個のカップケーキが、こんがりきつね色に焼き上がっている。
俺の肩に掴まったチューモンが、どこか安心したように短く息を吐いた気がした。
「……と、円満な家庭を築いている先生が、休日に家族サービスもせず独身の幼馴染みとキャンプ場って。それってどうなんですかねー?」
「馬鹿野郎、そんな、なんかやましい事でもしてるみたいに」
いくら気安い関係とはいえ、いいや、だからこそ、この手の冗談はいただけない。
「そもそもアカネの発案だっつーの」
「アカネちゃんの?」
「「“それ”をやるなら、私より絵本作りを一番近いところで支えてくれている担当さんとの方がいいでしょ」ってさ」
「ふーん」
アカネちゃんってそういうトコロあるよね。と、どういうところだよと思う俺の隣で、ハルカがキャンプ用の椅子に深く背中を預ける。
膝の上で丸まったドクネモンが呆れ気味にカチカチと嘴を打ち鳴らし、今日も今日とて俺の肩に陣取ったチューモンも、ふんすと鼻を鳴らしている。
あれから数日後。俺はハルカ達と共に、比較的近場で、デジモン可のキャンプ場へと足を運んでいた。
俺達の前では、借りたステンレスの台の上でぱちぱちと焚き火が弾けている。ここまできたら、もう、そう簡単には消えやしないだろう。
俺はリュックから、家で印刷してきた『リチャードⅢ世』の翻訳原稿の束を取り出した。
つい先日全文翻訳が終わり、セルフチェックを済ませたばかりの品だ。まだ俺以外の人間から編集は入っていない、正真正銘、俺個人の持ち物。
「それを、お焚き上げ、ねえ」
サイドテールの先でぺしぺしとドクネモンの頭を叩きながら、ハルカ。
……俺は、本に満たないながら“1冊目”ではあるこの紙束を、今から母さんに送りつけるつもりでいる。
「いいの? 読んでくれるような母親じゃなかったんでしょ?」
「うん」
「それに、ヤバかったよ、誤字脱字文法間違い。それと現代日本にそぐわない表現。先生、紛いなりにも文章力は一応あるから、読めない訳じゃないけどさ、翻訳は流石に素人のそれっていうか」
「……だから、嫌がらせにはなるだろう?」
母さんは自分の人生を送った。
俺も自分の人生を送っている。
だけど、俺達の人生が交差をやめた間に、積もり積もったもの自体はたくさんあって――
「「本当のところ」までがどうだったのかは知らないけどさ。向こうだけ満足して納得しておしまいっていうのは、ちょっとズルだろ」
自分には愛情を向けない母親を歯牙にもかけない王様に憧れた。
愛する人達と出会って、憧れた物語と同じ結末は訪れなくなった。
そして、物語の主人公役に当て嵌めたデジモンが、俺のところにやって来て。
今度は、誰かにとっての“そんな物語”になって欲しいと。周りの力を借りて俺自身が筆を執っている。
縮図としては、これ以上無いんじゃなかろうか。
「俺はきっと“貴女”の気性をよく継いでいるから。そっちだけ勝ち逃げというのは我慢ならないのです。……なんてな」
半端に引用した台詞と共に、原稿を纏めて台に押し込む。
厚みはあるが所詮紙の束だ。赤い火は瞬く間に白い紙面を駆け上り、黒に染めて、もう一度、白い灰へと変えていく。
母さんのパートナーだというゴースモンは、青色だが炎に近い姿をしたデジモンだ。
きっとこの火は、届くだろう。
……届かなくたって、別に構いやしないが。
と、
ふいにガサゴソと荷物を漁る音がして、振り向けばハルカが、脇に置いた自分のカバンから、袋入りのマシュマロと、ケースに入れた串を取り出していて。
「焼く? あとお湯で溶かすココアもあるけど」
「お前、何だかんだ言ってノリノリじゃねェか」
「えー、何? じゃあ先生、キャンプ場にまで来てマシュマロのひとつも焼かないの?」
「……焼いちゃうかぁ」
甘い香りの混じった煙が、空へと立ち上っていく。
徐々にか細くなっていくそれを目で追って、きっとこれからはあの人に、夢の中でさえもう会う事は無いだろうなと。そう思った。
そういう事にして、俺は笑って。さよならの言葉を、胸の内で告げた。
*
――明透。透明の字を逆さにして、ノリト。
出産祝いだけでもと。他に誰も来ない病室に、半ば無理を言って訪れた僕に対して、姉は我が子を抱えながら、吐き出すようにして素っ気なく呟いた。
――男の子だったから。……どちらの家にも、目を付けられませんようにって。
不安に声が震えていた。子供を抱いているというよりは、行き場の無い感情を抑え込む代わりに、小さくてちょうど良い大きさのそれを抱え込んでいるかのように見えた。
――だから、気を遣ってくれるのは、嬉しいけれど。
姉は微塵も嬉しくは無さそうな顔で、けしてその続きを言わなかったけれど。
きっと僕なら察するだろうと、強めた語尾にそんな調子を込めていて、僕はそれを察せ無い人間では無くて。
お前も、ミフジの家の人間なんだから。と。……そう、言いたかったのだろう。
だけどとても放ってはおけなくて、時折こっそりと様子をうかがうようにはしていた。
姉さんが気付いていたのかはわからない。気付いていたなら、気付いていないフリをしていた事になる。
結局、僕の心配は杞憂にはなってくれなかった。
姉さんが何日もアパートに帰っていないと気付いて管理者に連絡し、部屋に入って彼を見つけた時の事は――今でも良く、覚えている。
僕がミフジの家の人間であるように、
姉もまた、ミフジ家の人間だったと。……言ってしまえば、それまでの話だ。
「彼を引き取る」と。……言い出す事は出来なかった。
ちょうど、いっそ家の名を貶めてやろうと、悪い付き合いを作り始めていた頃だったというのもあるけれど――これ以上、僕もあの子を見ていてはいけないと。姉のかけた願いが、どうしても忘れられなくて。
「せめて最後くらいは。一度くらい良い方向に才能を使ってみても良いかなと思ったのだけれど――僕も衰えた。少し間を置くと、ダメだね」
あれから20年と少しが過ぎた冬のある日。
姉さんの眠る霊園を後にし、あの子を送り届けた僕は、助手席のドーベルモンに語りかける風にして、独りごちる。
いいや、どうだろう。後から考えれば考えるほど、衰えたとするにしても“仕事”が雑過ぎた。あれでは、僕が嘘を吐いている事に気付いて欲しいと言っているようなものだ。
むしろ、気付いて欲しかったのだろうか? どうなのだろう。長い間嘘吐きを続けた弊害か、自分でも自分の本音が、わからなくなる。……単なる老化だったらどうしようか。
でも、まあ。“技術”が衰えたのは事実だろう。
この子が、今はドーベルモンとなったクラモンが、僕の下にもやってきたあの日。
「こんな世界しか用意してくれない神様とやらの気持ちを知りたい」と、あの手この手を尽くしてきたのに、僕は、いわゆる“本物の神の所業”を、目の前に突きつけられて。
怪物は神の威光により生まれると、中世のとある医者が書き残した。
その通りだった。本物の怪物は、神様の御機嫌にのっとって、全人類目掛けて降ってきたのだから。
手塩にかけて「そうあれかし」と育てていた弟子も、アレをきっかけに目を覚まして、自分のパートナーと一緒にとっとと僕の下を去ってしまった。
居場所は一応、把握してはいるが。今はカタギとして、友人にも恵まれ、パートナーデジモンと協力しながら、幸せに暮らしているらしい。……これ以上、僕が何か介入したところで、だ。
僕は、まるで太刀打ちできなかった。
本物の神様が何を考えているのかなんて、僕にはまるで、理解出来なかった。
ただ、僕のやって来た事だけは忘れるな、と。地獄の猟犬だけが、僕の隣に残された。
「だから、あの子の事にけりを付けたら、いっそ全てを清算しようと思っていたのだけれどね」
けりを付けるもなにもだ。こっちもこっちで、取り付く島も無い。
用意しておいた嘘の中には、ひと雫。いつもそうしているように、真実の用意もあったのだが。
君の母親は、確かに君を捨てたけれど。
最初から君を嫌っていた訳じゃ無いと。
君のその名は、彼女なりの祝福の下、授けられたのだと。
だって、そうだろう?
幽霊というのは、透明なものだ。実際ゴースモンはその姿を自在に消す事ができ、その能力を人助けに用いるという、善良なデジモンとしてデジタルワールドのアーカイブに記録されているという。
姉さんにとって、景色が向こうに透けて見えるその色は、けして悪意や憎しみの象徴じゃあ無いと。
君は、僕と違って――
――これは、完全に。俺が「そうかな」と思っただけなんですけど。
姉のお骨しか入っていない、真新しい御影石の墓に揃って手を合わせて。
内心、こんな行為に意味など見出せていなかった僕に――あの子は、随分と思い切った表情で口火を切った。
――母さんは、叔父さんの事を妬みはしても、嫌いはしてなかったと思いますよ。
僕は目を瞬いて、それから、何の話かと思いかけて。
そういえば、姉さんの家に向かう最中の車内で、思わず口にしてしまったのだっけかと、思い出す。
シンプルに、何が違うのだろうと思った。
妬ましいなら、嫌っているも同然では無いのかと。僕の“仕事”でも、よく聞く話だ。
――なんだろう。そうかもしれないんですけど、個人的にはちょっと違うんですよね。
彼が顔を上げる。
一面雲に覆われていた空には晴れ間が混じっていて、目が光に弱いという彼のサングラスに反射したそれが、なんとなく緑色にも見える。
――本当に嫌いでしかないものに、嫉妬はしないかなって。俺は、そう思うんです。
「嫉妬は緑色の目をした怪物」だと、そういえば、シェイクスピアの悲劇にも、そんな台詞が無かったか。
……この世の春を憎んだ男に憧れの目を向けた彼は、はたして、どんな眼差しで世界を見上げていたのだろう。
全体のつくりは父親似なのに、それだけは、姉さんによく似た古木色の瞳で。
「僕が救うつもりでいたのに、……全く、上手くいかないな」
あの子の言った通り、今更だ。
本当にただ救いたいだけだったのなら、それはもう、あの時に、二十数年前にやらなきゃいけなかった。
今更になって、未練がましく神様の真似事をしようと思ったばっかりに――
ドーベルモンがハンドルを握っている僕の手の甲を舐める。
運転中は危ないからと、普段そんな真似をするような子じゃないのに。
「やれやれ、地獄の猟犬にしては優しいね、君は」
僕は右手ではハンドルを握ったまま、ドーベルモンの頭を撫でた。
この子が一般的なデジモンと違って、成長期では無く成熟期の姿で固定されるようになった時。きっと、僕には報いが訪れるのだと思った。
人間のパートナーになるにあたり、ウィルス種に対する凶暴性が削ぎ落とされたこの子が何かを裁くとしたら、それはきっと、僕に他ならないと。
「そろそろ君に、行くべきところに連れて行ってもらうのも良いと思っていたんだけれどな」
犬の鳴き声には詳しくないけれど、少なくとも肯定してくれているようには聞こえなかった。
強いて言うなら、「いい加減素直になれ」と。僕に対しては一番難しい事を言っているような、そんな気がして。
――良かったら、今度は娘にも会ってくださいよ。
脳裏を過るのは、別れ際の、甥っ子の台詞。
――アイツ、おじいちゃんおばあちゃんって、今まで接した事、無いんで。……いや、叔父さんが年取ってるとか、そういう意味じゃないんですけど。
「甥の子は姪孫(てっそん)だっけ? ……日本語は、ややこしいよね」
会うべきでは無いと思う。僕は、これ以上彼の人生に関わらない方が良い。今までがそうであったように。
でも出来る事なら、渡るべきお金はあちらに渡るようにしておきたいし。
彼が自分の好きな物語を、どんな風に訳し、描くのかも気になるし。
やっぱり――そうだな。ドーベルモンの勧める通り、素直になるなら。「会いたくないと言えば嘘になる」。
「もう少し、後でも良いかな。君に“向こう”を案内してもらうのは」
だから、それでいいと言っているだろう? そう言わんばかりにドーベルモンが鼻を鳴らす。
短い尻尾が小刻みに揺れた。
一度車を止めて、シートに深く身体を預けて息を吸う。
良い車はどんな金で買っても良い車だ。
フロントから眺めた街並みでは、夜の帳と共に灯った窓の明かりが星のように煌めいているし、冷えた夜の空気は心地良い。
子供達は油断している内にどんどん大きくなって、神様じゃ無くても、僕じゃ想像も出来ない事を、あっという間に成し遂げていく。
どんなに憎もう憎もうと思っても、世界は案外小綺麗に出来ていて、期待できる事が次から次へと、待ち構えるみたいに、連なっている。
「畜生」
……姉さん。
「やっぱり楽しいな、生きてるのって」
姉さんの息子がそう感じたように。
姉さんにとっても、最終的には。世界はそういうものであってくれたのかい?
『色つき硝子と蛇の足』 おわり