「う、うう……っ」
自分のうめき声で目が覚めた。
全身が痛い。あちこち打ち付けながら転がったのだろう。服は泥まみれ、皮膚の露出している箇所は例外なく擦り傷だらけだった。
特に左肩を強く地面にぶつけたのか、腫上がって熱までこもっているのが判るし、ほとんど動かせないでいる。最悪、どこか骨が折れているかもしれない。
だが――生きている。
通常の落馬でも人は簡単に死ぬと聞く。
ましてや俺とユニモンが居たのはここから遥か上空。普通に考えて、人間どころかデジモンだろうと、落ちて無事で済む高さでは無い。
俺はどうにか軋む身体を持ち上げて、周辺を見渡した。
クレーター、と呼べるほどではないが。
地面が大きく凹んでいて。
その中央に、横たわる白馬の姿があった。
引き摺るようにして近くまで這い寄る。
思わず息を呑んだ。
吹き飛んだ片翼の事もあるが、それだけではない。
ユニモンの、馬らしからぬ鋭い牙は、そのほとんどが無残にも内側から折れて飛び散り、荒い呼吸と共に外れた顎が不格好にがたがたと震えていた。
文字通り、死に物狂いだったのだろう。
リミッターの外れた『ホーリーショット』の一撃で、ユニモンは落下の衝撃を相殺したらしかった。
しかしそうなると当然、姿勢としては頭から落ちる形になる必要がある。
無理な体勢が祟って、前脚を強打したらしい。目を背けたくなるような方向に、ユニモンの脚が曲がっていた。
俺の身体が鞍から投げ出されていたらしいのも、無理のない話だった。……いいや、むしろ、ユニモンは最後まで、俺の事を庇っていたのだろう。俺の無事を考えなければ、もう少しまともな着地ができていた筈だ。
そうでなければ、今、俺が生きている筈が無い。
「ユニモン、ユニモン……!」
必死で呼びかけながら、デバイスでデータの修復を試みる。
通常の馬であれば即安楽死の処置が取られるべき傷ではあるが、幸いにも俺の愛馬はデジモンだ。
心臓部--デジコアさえ無事なら、救う手立ては、ある筈だ。
「待ってろよ、今、今直してやるから」
少し動かしただけで痛みに引きつる指先が、この上なくもどかしかった。
救護班を呼びに行くか? いや、無理だ。攻撃を受けたのは俺達だけでは無かった。成熟期ごときに貴重な回復能力持ちを回してくれるとは、到底思えない。
ここでもまた、俺達の「弱さ」が枷となるのだ。
何よりここに、ユニモンを置いていくわけにはいかない。
だって、まだ、上空には『奴』が――
「--ッ」
額から嫌な汗が噴き出した。ぎょろりと剥いた緑の瞳が、記憶の奥から脳裏を掻き毟る。
ああ、そうだ。
戦いは、終わってなどいない。何も成せては、いないのだ。
追撃が来れば、ユニモンという足の無い俺は、今度こそ逃げようがない。
まともに攻撃を当てられたら、死体も残らないだろう。
「……その方が、いいのかもしれない」
だが、ふと。
そんな言葉が、口を突いた。
どうせ、力の差は歴然だ。
俺に、俺達に出来る事など、何も無い。
だが、ここで死ねば--一生懸命戦って、しかし報われる事の無かった、哀れな子供に。哀しい英雄にはなれるだろう。
「ごめん、ユニモン」
「……」
「俺は……」
そんな、つい思い描いた、細やかな救いを掻き消すように。
俺の言葉を、遮るように。
突如として、凄まじい光が、天を覆った。
「いっ!?」
ただでさえ光に弱い眼球に激痛が走る。
ユニモンが残っている方の翼で影を作るようにして俺を覆ったが、焼け石に水状態だ。
ずきん、ずきんと波打つ脳にまで突き刺さるような痛みに、ユニモンのたてがみを握り締めながら歯を食いしばって――一体、どれだけの時が経っただろう。
ようやく、光が引いたらしい。
荒々しい深呼吸を挟んで、どうにか、目を開ける。
「……え?」
もう、これ以上悪い事なんて、そうそう起きないだろうと。
せめて、そう願っていた筈なのに。
天空に在ったその光景は、あっさりと、俺を更なる絶望へと突き落とした。
白く光り輝く、騎士のデジモンが、鎧同様の光を放つ一振りの剣を、『奴』の脳天に突き立てていたのだ。
それだけで、あれだけ暴れ狂っていた、目玉を潰しても即再生していたような化け物は完全に動きを停止し――どころか、その端々から、崩れ始めていて。
「うそ、だろ……?」
そして、騎士を包む光の、正体。
それは、『選ばれし子供達』のそれぞれのデバイスの画面から伸びた、一条の光の集まりだった。
皆、デバイスを掲げている。
『奴』の攻撃を前に朽ち果てた者達でさえ、地に落ち、散らばったデバイスからは、生きた証のように光を、騎士のデジモンへと送り続けている。
この戦場に存在する全ての子供達が、この世界の脅威に対する『力』となっていたのだ。
……俺は、
俺も。震える手で、デバイスを掲げた。
何の光も、零れはしなかった。
「待って」
そこには本物の『奇跡』が在った。
「待ってってば」
『奇跡の子』など、その舞台のどこにもいなかった。
「待ってくれよぉ、なあ」
『あのデジモン』の肉体に倣うようにして、その場に崩れ落ちる。
目が痛い。
こらえていたものが。ひょっとすると、もう何年も胸の内に抑え込んでいた物が、いい加減に、零れ落ちた。
今度こそ、目の前に突き付けられた。
俺は、何物にも成れないと。
王になど、英雄になど。……人の子として在るのを望むのでさえ、贅沢だと。
強いて言えば、ヘタをうって味方を死なせただけ。
居るだけ無駄。むしろ邪魔。やはり母さんには、先見の明があったという事か。
生まれてくるべきでは、無かったのだ。
うずくまって、泣き喚く。
自分がどうして涙を流しているのかさえ、解らなかったのに。
だが、その時だった。
幽かに。
本当に、幽かにではあったが。
一緒に抱え込んでいたデバイスに、光が灯ったのだ。
「……!」
顔を、上げる。
……そうして、今度こそ。本当に。
俺は、自分の心が壊れる音を聞いた。
「どうして」
俺の傍に、もう、ユニモンはいなかった。
代わりにもっと大きな影が、俺の事を、見下ろしていて。
「なんだよ、それ……」
それは、象の姿をしたデジモンだった。
マンモン、と。『絵本屋』から得た知識で、名前も、能力も、知っているが、この場において、「象の姿をしている」以上に大事な情報は無かった。
「なんで今更、そんな進化するんだよ、ユニモン……ッ!!」
象は、俺が母さんを。
冷たい目で俺を『迷路』に突き飛ばしたあの女を理解するために、理解しようとするために、使った記号だ。
絵本じゃ大概、子供想いの理想の母親として描かれるくせに
その実、産まれてきた我が子を痛みの元凶として躊躇なく踏み潰す、醜い生き物。
そんなものが、どうして今更、俺の傍に寄り添おうとしている?
「俺はっ! 俺はもう、そんなもの要らない! 違うっ!! 俺が欲しかったのはそんなものじゃないっ!!」
癇癪を起して、両手で頭を抱えて掻き毟る。止めようとするかのように寄せられた長い鼻は、視界に入るなり力いっぱい弾いた。
自分でも、どこからそんな力が出てくるのか、わからなかった。
「触るな触るな触るな!! お前も、お前も結局は俺を捨てるのか!? 突き飛ばすのか!? やめろ、やめてくれ。信じてたのに!! お前だけは、俺の……何があっても、俺と、いっしょに、いてくれるって……」
ああ、頭じゃわかってるんだよ。ユニモン。
お前にそんなつもりは無いって、わかってる。
墜落から庇ってくれた時みたいに、俺の事を、助けようとしてくれてるんだろ?
『迷路』で迷って泣いていた俺に、食べ物を分け与えて、手を握って、一緒に歩いてくれた、あの時みたいに。
今度は『子供を愛する母親』になって、俺を、慰めたかったんだろう?
だけど、お前の知識の中にある『母親』も、俺と同じで、『象』しか無かったから。
だから――そんな進化しか、出来なかったんだろう。
わかってる。
わかってるんだ。
でも、それは――俺の心じゃ、裏切りとしか、受け止められないんだ。
だって俺とお前は、『選ばれし子供とそのパートナー』じゃあ、無いんだから。
互いに信じあう心さえ、ここが、行き止まり。
「あああああああああああああああああああああああ」
咆哮。嗚咽。怒号。
何なのか。どれなのか。自分でもさっぱりだ。
ひとつだけ確かなのは、ささやかな抵抗のように発せられた俺の悲鳴さえ、沸き上がる『選ばれし子供達』の歓声に、掻き消されていたという事実だけだ。
そうして、それから。
世界中が待ち望んだ、勝利の瞬間が、訪れる。
呆気ない程拍子抜けな破裂音と共に、この世の脅威として顕現したそのデジモンは、弾け飛び
あの日俺は、クソみたいなクラゲの雨を見た。
「……」
気を、失っていたらしかった。
また、夢を見ていた気がする。……いや、あるいは、これが走馬灯ってやつなのか。いよいよ寿命が、近いものと見える。
「……リヴァイアモン」
パートナーの今の名を呼んで、その場から立ち上がった。
闇に属する者の体内とは思えない程、白く。しかし明るくは感じない、触れて感じる事は出来ても、何も無い箇所とまるで見分けがつかない足場と壁があるばかりの空間が、見渡す限りどこまでも広がっている。
いやまあ、1つだけ。景色的には、目の前に。異物があると言えばあるのだが――これは、この空間の主・リヴァイアモンの『デジコア』だ。
純粋な意味で異物と呼べる存在は、この場においてはこの俺、ゲイリー・ストゥーただ1人だろう。
ここは、リヴァイアモンの体内。
俺の使いうる最後の砦。殻の中だ。
俺はデバイスを操作し、リヴァイアモンのデジコアに端末を接続する。
視覚・聴覚情報の部分アクセスすると、すぐさまデバイスの画面からスクリーンが表示された。
隻眼をフルに動かして、戦況を確認する。
「……ま、当然そうなるだろうな」
ひとりごちる。
火を見るよりも明らかだった。リヴァイアモンの方が劣勢を強いられているのは。
【血迷ったねゲイリー! 図体だけのデジモンで、あたしの部隊をどうにか出来ると思ったのかい?】
見くびるんじゃないよ、と声を張り上げ、兵士を鼓舞するレンコが画面にピックアップされるが、俺は別に、レンコを見くびったからリヴァイアモンを繰り出した訳では無い。
仕方ないだろう。こいつの究極体は、もう10数年も前からこれに決まっていたのである。
それともマンモンのまま、あの手この手の奇策搦め手を繰り出してほしかったのだろうか。そちらの方が、舐め腐った態度として捉えられそうなものなのだが。
そう。リヴァイアモンは、その「大きさ」を文字通り『最大』の武器とするデジモンであり……悲しいかな、他に芸は無かった。
何せ、必殺技ですら噛み付き攻撃の『ロストルム』と、尻尾で薙ぎ払う『カウダ』、このシンプル極まりない2種のみである。
本物の、デジモン共の世界の伝説に謳われる魔王であれば、元ネタよろしくいかなる攻撃も受け付けない最強の怪物として君臨するのだろうが――たかだか『迷路』の、お伽噺をなぞるように顕現した個体では、通用する話である筈も無く。
釈迦が功徳を忘れて果てるように。
聖騎士が奸計の末に殺されるように。
番長が食い物にされて消されるように。
悪魔獣だろうが、どうとでもしようがあった。
『迷路』はそういう、場所だった。
切断系や刺突系の技を使えるデジモンがリヴァイアモンの手足や脇腹に傷を作り、離れた場所からゴブリモン共が『ゴブリストライク』の炎でその傷を焼き潰す。
焼けて少々脆くなった皮膚に再び攻撃を繰り返し、またその上から焼く。の、繰り返し。
このあたりが、基本戦術だろうか。
気の遠くなるような作業ではあるが、効果はあるだろう。かすり傷だろうが開いていけば、いつかは確実に致命傷に至る。
加えて、リヴァイアモンはバカでかい図体、特にその側面に対する攻撃をカバーする手段が極めて少ない。
レンコの軍隊が数に物を言わせてリヴァイアモンの四肢を引き千切るのも時間の問題だろう。
それに、何より--
「単純に、相性悪いなクソッタレ……」
方向転換込みの『カウダ』でゴブリモン共を隠れ潜む『迷路』の壁ごと薙ぎ払おうとしたリヴァイアモンを押し返すように、巨大な水晶の塊が突如として出現し、壁となって進路を阻む。
単純な質量が瞬く間に水晶の壁を打ち砕くが、僅かであろうと、隙は隙。
既に鱗が壊れた隙間。焼けて盛り上がった皮膚の上に、人間の大人程のサイズの手裏剣が数発、突き刺さる。
シュリモンの『草薙』だろう。それらをまるで押し込むようにして、さらに『ゴブリストライク』の弾幕が続いた。
要所要所で的確に水晶を召喚し、自軍をサポート・鼓舞しているのは、女性の姿をした黄金の10枚羽の座天使。
気高く美しい象徴的姿に加え、対峙しているのが大悪魔である点も含めて、味方の志気を高める効果は絶大な事この上ないだろう。
オファニモン。
レンコのシールズドラモンの、究極体の姿だ。
……と、なると。
天使であるピッドモンと弓の名手であるノヘモンをブラフに使っちゃいたが、マンモンに直接強襲をかけたのは、完全体の時のアイツだろう。
残されていた光の矢はエンジェウーモンの『ホーリーアロー』だろうとは思っていたが……なるほど。一兵卒から、民衆を導く自由の女神へ。レンコの同士として、実にそれらしい進化だ。
やはり、マンモンは有象無象の成熟期ごときには、後れを取ってはいなかった。
必死で、戦ったのだろう。だが、相手が悪かった。
「……悪かったな、リヴァイアモン」
今更言っても、何か状況が好転する訳でも無い。
俺にしたって、今までの行動を、態度を。悔いるつもりは無い。俺は最初から失敗作で、コイツは最初から間違えていた。
生まれるべきでは無かった奴と、生まれる世界を間違えた奴。
俺達は似た者同士だったようで、結局、何も噛み合っちゃいなかったのだ。
だが、これで全て、終いなのだから。
最後くらい――もう、いいだろう。
「お前は、俺には過ぎたパートナーだったよ」
それが、精一杯振り絞れた、ねぎらいの言葉で。
リヴァイアモンがまた哭いているのが、コイツの内部に居る、俺にも聞こえた。
【ん? 何だい、アンタ】
……そんな、獣の慟哭の中でも、軍人の声は良く響く。
顔を上げてモニターを確認すると、レンコ達の前に、美しい影が佇んでいた。
そこに居るだけでこの世における均衡とは何たるやを物語る身体つき。豊作が約束された稲田のように波打つ金の長髪。左には夕焼けを、右には夜空を湛える丸い瞳。白い顔には左上から右下にかけて、まるで顔を分断するかのような大きな傷痕が走っているが、顔が良すぎてこれっぽっちも気にならない。
纏う衣服すら、彼女をより良く魅せられるよう、何もかもが計算ずく――まあ正確には、頭にちょこんと乗せている、紫地の中に歪な黄色い輪っか模様が描かれた毒々しいデザインの帽子のみちょっとばかし浮いてはいるのだが、こればっかりはご愛敬。
ぬいぐるみか何かのように、みるからにあざとい仕草でモルフォモンを抱えたその絶世の美女は――秩序の破壊者。理不尽の権化。生きとし生けるもの全てに愛されたいと願う、人々の淡い夢の化身。
メアリー・スーが、そこに居た。
メアリーは早速打ち込まれたオファニモンの『セフィロートクリスタル』を、悠々と、それはそれは華麗な、踊るようなステップで回避しながら、にまにまとちょっとばかしその顔で浮かべるにはやや下卑た表情で、レンコ達に微笑みかける。
普段のコイツなら戦況を引っ掻き回すために立ち回りそうなものだが――どうやら、現在は、そのつもりでは無いらしい。
【何のつもりだ】
当然メアリー・スーはマイペースにしか動かないので、レンコの問いに応えたように見えるのはただの偶然だ。
だが、見せつける目論み自体は、最初からあったのかもしれない。
メアリーはモルフォモンの身体を眼前にまで持ち上げると
ぷっくりと膨らんだ艶やかな唇を、羽虫の小さな口に、押し当てた。
【……だから、何のつもりなんだい、気色の悪い】
オファニモンに攻撃の手を緩ませる事無く、怪訝そうに片眉を吊り上げて、レンコ。
【ひょっとして、仲間にお別れのキスでもしてるのかい? ハッ、存外女々しいところもあるんだね、マッシュモン】
「お別れのキス」なんて殊勝な真似をする輩では無い事は、レンコも知っているだろうに。
違和感に意識を取り戻したのか、モルフォモンがじたばたと蝶の羽の腕を振り回し始めたが、案の定メアリーはお構いなしだ。……せめて舌を入れてやるな。舌を。
……だが、俺といえば、メアリーがやろうとせん事については、ある程度の察しがついていた。
宙を仰ぐ。
できれば--それは、して欲しくは無かったのだが。
道理で、飯を分け与える等、気にかけていた訳だ。
『選ばれし子供』の力を利用する方法については、俺やレンコが気付くよりも以前に、ずっと、考え続けていたのだろう。
かつて、2度も自分を屠った力を。
今度は、我がものにする機会を、ずっと、ずっと伺っていたのだろう。
「やっぱり碌なもんじゃねェな、『メアリー・スー』は」
ひとりごちった。
……ただ。ひとつ、救いがあるとすれば。
俺とマンモンが居なくあった後も、『迷路』でリンドウを庇護する者は、存在し続けるという事でもある。
大人として子供を縛る能力がある、レンコよりかは多少マシだろう。
メアリーも、所詮はデジモンで
リンドウは『選ばれし子供』なのだ。
人間としての運命は、あの子自身で、きっと開いていけるだろう。
やがてスクリーン上のメアリーが、飽きた、とでも言わんばかりに、流し込んだものの残滓が糸を引く唇から粗雑にモルフォモンを剥がして投げ捨て、その場から跳び立った。
落ちていくモルフォモンには、モルフォモン自身の鱗粉--相も変わらず、夕焼けの色だ――が纏わりついており、その量は増え続ける一方で。
しかしレンコも、それがただのモルフォモンの性質だと理解しているのだろう。
そして彼女は、もう、この昆虫型デジモンを必要とはしていない。
リンドウの新しいパートナーには、きっと適当なゴブリモンをあてがうつもりだろう。
【始末しといてくれ】
弱った成長期にけしかけていられる程、オファニモンは暇では無い。
近くにいたゴブリモン数匹が、意気揚々と棍棒を振り上げ、モルフォモンへと迫っていく。
レンコがモルフォモンに背を向けたのと、デジモンの肉体を構成するワイヤーフレームがぐしゃりと潰れる音が響いたのは、ほとんど同時の出来事で。
それが虫を潰した音では無いと、即座に違和感に気付ける程度には、やはり、レンコは戦場慣れしているらしい。
【!?】
彼女が振り返った先に、もはやあの青い蝶のデジモンの姿は影も形も無かった。
代わりに在るのは、蝿の群れ。
舞い落ち続けていた赤い鱗粉はその全てが黒々とした害虫に変貌し、不愉快な羽音を立てながら、頭の潰れたゴブリモンの死肉を貪っている。
……やがて、その蝿の群れが、徐々に形を成す。
そこに在ったのは、銃剣だった。
銃口の傍らに、柄が茜色のスカーフで括りつけられている以外は、そう特筆すべき部分は無い、シンプルなデザインの銃剣。
それが、モルフォモンが居た筈の位置に、突き刺さる。
途端、黄色い円冠が、蝿たちの頭上に、輝いた。
その冠を頂くために、蟲の黒集りは、人に近い姿へと変貌していく。
【これは……まさか、ベルゼブモン!?】
2体目の魔王型を寄越されて、レンコの声色にも流石に若干の動揺が走る。
今度こそ完全に成長期の時の面影を失ったリンドウのパートナーが、主を閉じ込める不届き者たちに向けて、目にも留まらぬ速さでブーツのホルスターから二丁拳銃『ベレンヘーナ』を抜いた。
……あっちは、しばらく大丈夫だろう。
俺はつう、と知らぬ間に唇の上を伝って行った鼻血を拭い、徐々に輪郭を失い始めていたスクリーンの景色を遮断する。
足取りも、再びおぼつかなくなってきた。
「おい、メアリー」
届いているかは解らないが、呼びかける他無い。
「いい加減、遊んでないで、こっちに」
振り返った先には、メアリー・スーが立っていた。
「……いつの間にかもう居る」
なんだか懐かしい思い出まで振り返りそうになって、すぐにやめた。懐古に浸るには、最近の出来事過ぎる。
まだ――リンドウと出会って、こんな短い時間しか、流れていなかったんだっけか。
『セフィロートクリスタル』でも簡単には貫通できない筈のリヴァイアモンの皮膚を突っ切って、メアリーはここまで降りてきたらしい。
鱗にでも引っ掛けたのか、俺が丹精込めて用意した美女のアバターには、深い亀裂が走っていた。
悪魔が、こちらを覗いている。
「メアリー。……後は頼んだ」
スカートの裾を持ち上げて、嘘らしく、恭しく。メアリー・スーが一礼する。
俺はもう一度だけ。リヴァイアモンの--パートナーの、デジコアを見やった。
少し、悩んで。
「チューモン」
最後に呼ぶのは、その名にしようと決めた。
過酷で惨めで、辛くて苦しい日々だったけれど。
俺達が一番、固い絆で結ばれていると、信じる事が出来た日々の名を。
「これが、最後の命令だ。メアリー・スーのために死んでくれ」
そして俺は、仕上げにその輝ける日々さえも、ゴミ箱の中へと投げ込んだ。
美女の皮を破いて飛び出した悪魔が、待ちかねていた御馳走に、俺のパートナーだったデジモンのデジコアに喰らいつく。
ばりばりと耳障りな音が響く度に、光の粒子が俺の頬を撫でた。
それ以外は、とても静かで。
リヴァイアモンは、ひとつも抵抗をしていないらしかった。
止めてくれ。最期まで。
余計なお世話だ、馬鹿野郎が。
せめて--俺の事を怨んで、死んでくれよ。
ここに来るまでにメアリーが空けた穴から、光が降り注ぐ。
『迷路』の光だ。
あの時もそうだった。
俺を手招きするみたいに、空間がぱっくりと割れて。
あの時もマンモンは俺に逆らわなかった。
引き留めようとする雰囲気が無かった訳じゃ無いけれど、俺は進化の影響で治ったばかりのアイツの脚を蹴りつけて、怒鳴りつけて。
あの時と違うのは――のちにメアリーと名付けた『コレ』が、まだ、俺の手の平に収まるような、大きさしか無かったんだっけ。
記憶が混濁する。
歌を思い出した。『迷路』に迷った自業自得の身の程知らずが、か細く歌っていた歌を。
『迷路』のどこかに不思議な絵本を売る店があって、『迷路』に迷った可哀想な輩を、どこの誰だろうと助けてくれる。
そんな内容の歌だった。
それは所詮、どこかの誰か。もっと言うなら捨てて置かれた哀れなガキが夢見た、お伽噺にもなれない与太話だった。
誰も彼もが夢見る程度には、希望と諦めに満ちた噂話だった。
クソッタレなクラゲの雨の中、俺が『迷路』に、帰るまでは。
『迷路』にそんな救いは無いと、この俺が。クスリの絵の具で塗り潰して、上からクソみたいな物語を描き始めるまでは!
「さあ、『メアリー・スー』の素敵な絵本を、始めようぜ」
卵が、産み落とされた。
リヴァイアモンの粒子で出来た殻を破り、今まで貪ってきた全てを飲み干して、悪魔は、再びこの世に、産声を上げる。
俺を除いて、最も早くに状況を察したのはレンコだった。
よりにもよって、あの業突く張りの婆さんの口から、理解したが故の悲鳴が上がる。
そういえば、直接対峙したんだったか。記憶の底にまで、深く、深く、刻み付けられていたのだろう。……それにしたって、こんな生娘みたいな声を上げるとは思っちゃいなかったので、面食らってしまったが。
そしてそれは、彼女に付き従うゴブリモンや『迷路』のビギナー共も同じなのだろう。
目を見開いた彼ら彼女らは一瞬の間、静まり返り――やがて波が広がるようにして、パニックが端々にまで伝播していく。
「どうして」
虫の脚、竜の身体、悪魔の顔。
孵ったのは、終末の名を冠する異形。
「どうしてッ! お前がここにいるんだ!?」
かつて、人間の世界とデジモンの世界。その両方で暴虐の限りを尽くした電子の怪物。
「アーマゲモンッ!!」
名を、呼ばれて。
アーマゲモン――メアリーは、にい、と鋭い牙の覗く口元を、歪めた。
「--……はっ」
過呼吸だか深呼吸だか曖昧な息を肩でして、脂汗を浮かべながらも、レンコはメアリーを睨みつける。
トラウマ故に反応も早かったが、生き様故に立ち直りも早い。流石、と言うべきか。
「ハッタリだ。同種の別個体だ。『奴』は『選ばれし子供達』に倒された!」
だが弾き出した希望的観測も、すぐさま打ち砕かれる事となる。
黒い雨。
アーマゲモンの背から発射された無数のエネルギー弾が、更に四散して光線の雨と化す『ブラックレイン』。
瞬きの間に、リヴァイアモン相手にはヒットアンドアウェイを徹底できていた連中が、まともな回避行動すらとれずに消し飛んで行く。
「……は?」
それは『選ばれし子供達』と同様に、世界から生み出された究極の力。
『選ばれし子供達』が人とデジモンの未来を体現するために生まれた奇跡であるとするならば、アーマゲモンは、まるでその逆。
『コレ』は、デジモンの姿をした人間の悪意だ。
電子の世界に巣食う人間の攻撃性を寝物語に、同族からも虐げられながら芽吹いた生命体。
しかし目に映る全てを喰らう内に、己を全知全能の存在と思い込んだ、最も忌むべき、破壊と殺戮の体現者。
それは、まるで
「最初から言ってたろ。……コイツは『メアリー・スー』だ。ってな」
リヴァイアモンを失った俺は、当然外界へと弾き出された。
降り立ったのは、丁度狼狽えるレンコの前。
直接見る事が出来て満足だ。歴戦の勇士が、ざまあない。
「……アンタ」
隠しきれない恐怖と、滲みだす憎しみ。
単眼であるが故に、レンコの視線はなおも突き刺さるように鋭い。
「自分が何をしでかしたのか、わかってるのかい?」
「俺がコレを、何も考えずにやったと思ってるのか? ヒドいな婆さん。自分で言うのも何だがこのゲイリー・ストゥー、いつだっていじわるな肉食動物を出し抜く鼠のように、生き残るための知恵を働かせているんだぜ」
例えば、と。
俺もレンコと同じく、片方だけになった目玉で彼女を見据える。
「今は丁度、アンタの処遇を考えているところだよ、レンコ婆さん」
レンコが小さく息を呑んだのが解った。
ますますいい気味だ。疼く目の奥も、肴になる。
「殺し合おうぜっつったよな? まだお互い生きてるぞ。アーマゲモンにも負けないような軍隊を作るのがアンタの夢だったんだろう? 実演してみせてくれよ、なあ。俺とメアリー相手によ!」
「……っ!」
咳き込みながらレンコの元へと迫る俺を前に、素早く取り出された彼女のデバイスが光を放つ。
一縷の望みに賭けて何らかの秘策を取り出したのかと思ったが――お出しされた物の粗末さに、俺は思わず肩を落とした。
彼女の腕の中にあるのは、気を失ったリンドウ。
反対の手の中で握り締められていたのは、1本のナイフで。
「来るな!」
レンコはナイフの切っ先をリンドウの首元に突き付けた。
「この子がどうなってもいいのかい!?」
……いやまあ、確かに困る。どうにかされては困る。
実際、アーマゲモンの『ブラックレイン』避けにはなるだろう。『選ばれし子供』が欲しいのはレンコだけでは無いのだ。
そして『選ばれし子供』は、生きていなければ価値が無い。
だが、残念。
リンドウを『選ばれし子供』とこの上無く理解した上で取った策は
リンドウが『選ばれし子供』であるが故に、傍目から見ても哀れな程に、呆気なく、瓦解する。
俺とレンコの間を遮るようにして、飛び込んでくる黒い影。
いくらレンコが戦闘訓練を受けた兵士で、かつては『D‐ブリガード』ともやりあっていた生粋の戦闘民族だとしても、究極体の機動力に人の身が対応できる筈も無く。
大口あけて人質の重要性を訴えていたのが気にくわなかったのだろう。
誰よりもそれを理解しているのは自分だと言わんばかりに歯を剥き出しにして唸る影――リンドウの現パートナー・ベルゼブモンは、愛銃『ベレンヘーナ』の銃口をレンコの口の中にねじ込んだ。
「がっ」
『選ばれし子供達』をパートナーに持つデジモンにとって、彼ら彼女らを護る事は、何事にも勝る最優先事項。
シールズドラモン――現オファニモンとはあくまで同盟に過ぎないパートナー関係を結ぶレンコには、真の意味では理解出来なかったのだろう。
だが、もう、考える必要も無い。
発砲音と共に、レンコの下顎より上が消し飛んだ。
老兵の夢は、ここに潰えた。
「レンコ!?」
女性の金切り声が響く。
次の瞬間には、ベルゼブモンの居た場所に彼の身の丈はあるランスが突き刺さった。
……リンドウを優先しただけで、戦闘が終わった訳では無かったらしい。
ベルゼブモンはレンコの血が零れ落ちてリンドウを濡らすよりも前に、彼女の死体からパートナーを奪い返してきた。
そのままこちらに寄って来たかと思うと、その小さな身体を、立っているのがやっとの俺に押し付ける。
角度も完璧に調節したのだろう。リンドウの髪に脳漿やら肉片やらは付着していない。あとは、銃声で耳をやられたりしてなきゃ良いのだが。
膝をついて、抱きとめた。
もう、わからない。俺の身体が冷たいのか、リンドウの存在が、暖かいのか。
「よくもレンコを……!」
ランスを引き抜きながら、オファニモンが唇を噛み締める。
どの口が言うのだろう。散々敵対者の首を飛ばして、ひとのパートナーにも穴あけて。こんな幼子まで、さらって行ったくせに。
それに、何だ。
シールズドラモンの姿でならギャップの有った女の声も、この姿では、見たままだ。何の面白みも無い。
俺とレンコの関係がこんな事にならなければ、その声でリンドウを驚かせてくれた未来もあったかもしれないが……今となっては、だ。
「まだ、やる気か? オファニモン」
「まだ、我々は敗れてはいない。生き延びて、来るべき時にその娘さえいれば。我々はいつか、必ず勝利をモノにする。……返してもらおうか」
「『傲慢』だな、オファニモン。……だけど、ソレはもう、いいんだ。もう、持ってる」
「最後まで、意味の解らない事ばかり口走る。頭脳は評価した事もあったが、貴様は私の部隊には不要だ」
「こっちから願い下げだクソトカゲ」
その場を蹴ったベルゼブモンが、鉤爪を構えてオファニモンへと飛び掛かる。
が、オファニモンは軽く翼で地面を打っただけで空高くまで飛翔し、ベルゼブモンの『ダークネスクロウ』を回避する。
そのまま彼女は、左腕を掲げた。
「『セフィロートクリスタル』」
幾つもの鋭利な水晶の塊が、その切っ先をすべてベルゼブモンへと揃えて。
オファニモンが腕を振り下ろすなり、雨のように降り注いだ。
同じようにレーザーの雨を降らせているアーマゲモンの助力は、恐らく願えない。
如何せん攻撃が強過ぎて、場所的にリンドウまで巻き込む可能性があるからだ。
そのくらいは、どうにかしろ、と。きっとあのぎょろぎょろした目玉で今も訴えかけている事だろう。……メアリーの人使いの荒さは、今に始まった事では無い。
ベルゼブモンはクリスタルを避けながら、どうにか隙をついて『ベレンヘーナ』を撃ち続けてはいるが、制空権を取ったオファニモンからすれば、回避も攻撃も思いのまま。全身ハチの巣にされるのも時間の問題だろう。
「ベル、ゼブ……」
俺の方も、策は無いでも無いが、もはや声が出ない。デバイスに指示を打つ力も入らない。
……ここまで、来て――
「お父、さん……?」
――結局、この娘を頼らなきゃいけなくなるとは。
かっこいいところは、見せられないもんだ。
「ここは……? お父さん、それ。目。どう、したの……?」
声が、震えているような気がした。
「私、ちゃんと、お留守番……」
「……わかってるよ、リンドウ」
我ながら、優しい声を出せた気がする。
振り絞らなきゃ、声を出せないだけなんだが。
「ただ、ちょっと……話は後だ。今から、俺の言う事を……モルフォモンに、伝えてくれ」
そうすれば、何か状況が好転すると、無邪気に信じたのだろうか。
ひったくるように、リンドウはポケットから、赤く小さな旧式のデバイスを取り出した。
クリスタルの破砕音と銃声に掻き消されない事を願いながら、彼女の耳元で指示を囁く。
リンドウはこくこくと何度も頷きながら、ただ、その小さな両の手でしっかりと、自分のデバイスを握り締めていた。
神様に、祈りでも捧げるように。
やがて、一筋の光が、ほんの刹那。
ベルゼブモンの背に飛び込むようにして、消えていった。
途端。リンドウのパートナーの、動きが変わる。
地面を蹴り、
半ば崩れた『迷路』の壁を蹴り、宙にまで飛び出して。
次に蹴ったのは、他ならぬ、自分に向けて降り注ぐクリスタルの側面だった。
「な……っ!」
オファニモンの周囲からベルゼブモンに向けて発射されている以上、それはある意味で相手へと続く一本道となる。加えてクリスタルの頑強さが仇となった。
蟲の3つ目は正確に「足場」を捉え、本当に翅を持っていた時にも増して勢いよく宙を駆ける。
蝿の王が、座天使に肉薄した。
「っ、『エデンズ--』」
『エデンズジャベリン』。槍を用いた必殺技だ。
もしもベルゼブモンが、少なからず予備動作を必要とする必殺技を用いようとしていれば、カウンターを決めて天使は悪魔の腹をぶち抜く事が出来ただろう。
だから俺がリンドウを介してベルゼブモンに指示したのは、もう1発。
ただの蹴り、だ。
「!?」
槍の一撃を躱しながらの回し蹴りに、オファニモンの細い身体が弾かれる。
受け身も取れず、踏ん張りも聞かない、空の上。
普段なら受け止めてくれそうな『迷路』の壁も、リヴァイアモンが取っ払った後と来ている。
想定以上の距離を吹っ飛ばされて。
もはや、リンドウを巻き込む心配もいらない。
にぃ、歪んだメアリーの口の端から、火の粉がこぼれたのがぼんやりと見えた。
『アルティメットフレア』
巨大な火炎弾が、座天使を舐め、喰らい尽くした。