「……それで」
瞼を持ち上げる。
リンドウの奴、どれだけオレサマの上で零したのだろう。
頬を幾重にも濡らした塩水が、幽かに不愉快だった。
「オレサマ、どのくらい気を失っていた?」
「わかんない」
未だしゃくり声を混ぜながら、少女が首を横に振る。
「数えてない」
「そうかよ」
ならば尋ねたところで仕方が無い。
身を起こす。
全身の肉が、骨が、みしみしと軋んで悲鳴を上げる。
意識を手放す直前、辛うじて燃費を抑えるために潜り込んだのだろう。オレサマは、ゲイリー・ストゥーの姿を取っていた。
「……」
右腕が――『デスルアー』の義手が無い。
亡霊達の声も、すっかり聞こえなくなっている。
連中は役目を、……やりたい事を、やり終えたのだろう。
ここに在るのは、オレサマただ1体。
……ああいや、モルフォモンの奴はまだ交ざったままかと、水晶に反射した自分のマヌケ面、その左目が鮮やかな新緑の色をしているのを見て思い出す。
ずっと沈黙しているあたり、アイツはアイツで力を使い果たしたとみた。ここで分離すれば共倒れになりかねないので、ひとまずこのままにしておこう。
「9分37秒ってところじゃな! ……なんかキリ悪いのう」
機械が刻んだ時計の針を告げる。
……オレサマ達の前に躍り出たコウスケは、再びミラーモンなる姿を取り戻していた。
「なんで元戻ってんだよ」
「元より砕けた鏡の一欠片。姿形なぞもはや夢幻よ。……とはいえ、まあまあ堪えたが」
げそ、と、オーバーに無い肩を落とす真似をして見せるコウスケに、多少なり調子が戻ったのか、息を整えるがてらリンドウが溜め息を吐く。
「この際、なんでもいい。……生きてたなら、良かった」
「おっ! 心配してくれてさんきゅーべりぃまっち!」
「……したけど、して損した」
ゆるゆると立ち上がったオレサマの心許ない支えを買って出ながら、音も鳴らないような舌打ちをするリンドウ。
……振り返れば、半身が吹き飛び両膝を付いた聖騎士の身体が、未だ残されていて。
端からデータが少しずつ霧散していくのが見える。
規格外の存在故か、致命傷を与えて尚、崩壊まで緩やかだ。
とはいえ、形が在る以上は、まだ。
「安心せい」
コウスケが肩を竦める。
「アレはもはや、完全に『選ばれし子供のパートナーデジモン』では無い。……死を覆すだけの『奇跡』は起こせない」
とはいえ、と、コウスケの無機質な瞳が見据えるのは、ワームモンの、その先。
これだけ壮絶な戦闘を繰り広げたというのに傷一つ、威光の衰え一つも無い、光の輝きだけで偉そうにふんぞり返っていると見て判る、最奥の『神の座』。
「イグドラシルが神で在る限り、完全な消滅は出来んじゃろう。この場では滅んでも、いずれ同じものに生まれ変わる。哀れなものじゃ」
「それじゃ、なおの事……ゲイリー」
元よりそのつもりとはいえ
「その玉座、オレサマが簒奪してやらなきゃなア」
歩み出す。
陸に上がった人魚姫の気分だ。一歩踏み出す事に吐きそうになる。回る舌ばかりは健在で、そいつは何よりなのかもしれないが。
ひょっとすると、気絶していた以上の時間をかけて。
20年と少しと、それだけの時間を合わせて。
オレサマ達は、イグドラシルの御前に辿り着いた。
北欧の世界樹の名で呼ばれるそれは、周囲と同じ。
暖かみなどまるで無い、無機質な水晶の、球の形をしていた。
「コウスケ、どうすりゃいい?」
「触れると良い」
コウスケがイグドラシルの本体だという水晶玉の背後に飛び移る。
仰々しく胡散臭い格好も相まって、その手の占い師みたいだ。
「めっちゃくちゃ失礼なコト考えられた気がするのう! ……まあええ」
気を取り直して。
「本体、と言うたが、正確にはこれはまだ、本体に接続可能な端末。与えられたのは『滅びの因子』とはいえ、お前さんもまた、イグドラシルの子。……アクセス権が、ある筈じゃ」
「この期に及んでだし、止める気なんてさらさらないけど」
一応聞かせて、と。
リンドウがコウスケの目を覗き込む。
「本当に、いいのね? ゲイリーが、デジモン達の神様になっても」
「まあ良く無かったとしても、こっちのデジモンじゃないワシの与り知るトコロじゃ無いしぃ?」
コイツ……。
「あんた……」
オレサマ自身の事は棚に上げて、呆れてやる。
「ワシは権利者に乗じてイグドラシルにアクセス出来れば、こちらの世界の命運はぶっちゃけどうでも良い」
ただ、まあ。
素直に欲で動いている方が、こちらも一種信頼を置けるというもの。
「それに、アレが――イグドラシルを余計に極端にしたようなヤツが覇権を取るよりは、お前さんの方がいくばくかはマシじゃろ」
少なくとも、使命だけで動くような存在よりは。
オレサマは、イグドラシルの水晶玉と、改めて向き合った。
「……ねえ、どうするの?」
相も変わらず健気にオレサマを支えながら、リンドウが問いかけてくる。
「あ?」
「どんな風に、世界を台無しにするの?」
「ああ……そうだな……」
そういう契約だ。
後で違うと喚かれても困る。
ここまで来たのだ。力を実際に手に取るのは、語らってからでも遅くはあるまい。
「まあ、まずは大前提として、人とデジモン、両者の世界は繋いだままにする。繋いだままにした上で、選ばれし子供という『システム』は削除(デリート)する」
「皆殺しにするんじゃなくて?」
「こちらの方が手間が少ないし、きっと面白い事になるぞ」
イグドラシルが人間とデジモンに施した絆を全て断つ。
デジモンは、今よりもっと簡単に、手軽に人間どもを殺せるようになる。
だがきっと、人間の側もいつまでも黙っちゃいない。
こと保有する情報量では電子の怪物にも勝る連中共は、アナログの存在としてデジタルの世界に干渉が可能だ。
俯瞰の視点で、クリック一つでデジタルワールドで生きる何百何千のデジモンを殺す手段を、いずれ奴らは手に入れるだろう。
繋がりも無しに使役する手段を身につけるかもしれない。
そうすればデジモンの側も、人間どもと仲良くしようと、損得勘定や正義感、お馴染みの親愛の情を以て、人にすり寄る奴らが必ず出てくる。
人間とデジモンの対立はイグドラシルの治世にも増して、徐々に人間と人間、デジモンとデジモンの対立に広がっていく。
滅茶苦茶のしっちゃかめっちゃか。
世界の秩序がひっくり返る。
何もかもが、台無しだ。
「……と、いうのはどうかな? リンドウ」
「いいんじゃない?」
リンドウが、表情を綻ばせた。
「たのしそうで」
……憑き物が落ちたような顔だと思った。
何か、ざらりと。胸の内が騒いだ。
……まあ、いい。
纏まった話に比べれば、些細なざわめきだ。
オレサマは神になる。
そのために、左手を水晶玉へと差し出した。
ばちん。と。
触れた瞬間、あからさまな拒絶の音が、鳴り響く。
「……は?」
冷たい曲面に触れた指先が、ぶすぶすと黒い煙を上げて焦げている。
火傷特有の後を引く痛みを勘違いのしようも無いのに、何か、何かの間違いだと思って、オレサマは再び水晶玉に触れる。
結果は同じ。
玉の内側から爆ぜる強烈なエネルギー派が、悉くオレサマの指を弾いた。
手を払いのけるみたいに。
親が冷たく子をあしらうように。
「は? ……はあ?」
何度疑問符を重ねても、答えは返ってこない。
「そんな馬鹿な」
全てを識るラプラスの魔さえ予想外、予定外だと言う。
水晶玉に羽団扇を這わせ何かを嗅ぎ回っているようだが、そもそも異世界からの予期せぬ客を、イグドラシルは利用するだけ利用しておいて、どうにも知らぬ存ぜぬを貫くつもりらしい。
だから、目の前に転がる事実だけが、オレサマ達に解る真実だ。
「お前に、イグドラシルの子としての権利は無い」と。
「災厄の化身でしか無いお前は、災厄だけを背負って1人で死ね」と。
たった、それだけ。
「……待って」
リンドウの声が、十数分ぶりにまた震えを帯びる。
「それじゃあ、イグドラシルはこのままなの?」
俺は答えを用意できず。
コウスケは、沈黙を答えとした。
「あいつは、ワームモンは。また生まれ変わるの?」
誰も何も言えなかった。言わなかった。
「今度こそ、私――選ばれし子供に。神様の道具にならなきゃいけないの?」
そうならないために。こんなに、こんなにがんばってきたのに。
……一度決壊したからか。リンドウの大きな眼はもはや涙を留める術を持たなかった。
ぼろぼろぼたぼたと、既に薄くてらついていた筋を更に引っ掻くようにして、滂沱の涙が溢れ出す。
背負わされたものに完全に押し潰され。ありとあらゆる負の感情をない交ぜにした心が張り裂けて。顔はぐしゃぐしゃに歪み、喉が千切れんばかりにわあわあと、悲鳴の方がまだ聞けたものの嗚咽を吐き出した。
この世の終わりみたいな泣き顔だった。
「……っ」
オレサマは
「く……っ、ふっ」
そんなリンドウの面を前に。
「ぶ、ふふっ、はっ、はは、あはははははははははははははははははは!」
堪えきれずに、噴き出した。
「――っ!?」
「お、おい! アバドモン! お前さんまでおかしく」
「可笑しいさ! 可笑しくてたまらないとも!! なんだよリンドウ、そのバカみたいな面はよう!!」
いつぶりだ? 腹を抱えて大笑いするのは。
ひどく愉快だ、たまんねえな! 『選ばれし子供』のギャン泣きとは! そうそう、そうだ。オレサマそもそも、奴らのこういう顔が見たくてここまで頑張って来たんだった!
それを何だ、リンドウがずっと側でぐずって膨れっ面でいるモンだから、見慣れて見飽きてすっかり忘れていた。
そこに罪という罪を重ねて余計な事を覚えたモノだから、どうにも奥底にまで埋もれてしまっていたらしい。
嗚呼。だけれどついさっき。そいつらが全部抜け落ちたところに、こいつがちょいとばかし微笑んで見せてくれたモンだから。どうにかこうにか、最後の最後で思い出せたと言う訳さ。
選ばれし子供の苦しみこそオレサマの喜び。
選ばれし子供の悲しみこそオレサマの歓び。
選ばれし子供の怒りこそ、オレサマの悦び!
オレサマは――そういうものとして、生まれてきた。
「もっとよく見せろリンドウ!!」
オレサマの豹変に、瞳に怯えの色まで宿したリンドウの、腫れた頬を焼けた指先で掴んで強引に引き寄せる。
最ッ高だ。最ッ高のマヌケ面だ。
「はは、ははは! ぶっさいくだなあ!! マヌケだなあっ!!」
げらげらげらげら。笑いが止まらない。
「全ッ然、ゲイリーにも似てねえしようッ!!」
表情が全部ひび割れて。
リンドウの顔は、もっと面白くなった。
「くっ、くくく……ひひひひ……」
ひとしきり堪能して、リンドウを放り投げるようにその場に捨て置く。
腹が痛い。
「ふぅー……。はぁ。笑った嗤った」
「……アバドモン」
「一丁前に気遣ってやるフリなんてするなよコウスケ。人の愉しみなんて、一つも解らない機械の分際で」
笑って、
嗤って。
「だが――もったいねえな」
そうすると脳みそが、不思議と冴えた。
「もったいない?」
「今後の事さ。イグドラシルが自らの権能でリンドウとワームモンの生まれ変わりとのパスを繋げば、今度こそ一巻の終わり。オレサマは二度と、リンドウの苦しむ顔を見られなくなる」
だからと言って、と、改めてリンドウを見下ろす。
「リンドウを殺せば、当然それもダメ。殺したヤツの苦悶の表情は、殺した時にしか拝めない。……リンドウだけじゃ無い。殺して、殺して、殺し回るのも良いが――選ばれし子供の殲滅は、結局の所オレサマの悦楽には繋がらないらしい」
オレサマは、もう一度。
オレサマを捨てたカミサマの方へと振り返った。
「だからやっぱり、オレサマにはコレが要る」
良い事思いついたんだ。と。
ゲイリーのアホ面で、メアリーの時のようににんまり、笑ってやる。
「……いいこと?」
魂の抜けたような顔つきで。声音で。リンドウが俺のセリフをオウム返しにする。
そうとも! とオレサマは上機嫌に頷いた。
「オレサマの望みを叶えて、お前達親子との契約も果たす! 完璧なプランがこのオレサマの頭脳に既に浮かび上がっているのさ」
「……けい、やく」
「おいおい、間が抜けてるのは面だけにしてくれ。おつむが足りないのはお話にゃあならねえんだ。忘れたとは言わせねぇぞ? 世界を台無しにする。……それが、オレサマ達の契約だろう?」
「でも。それは、無理って」
「無理たァ言ってない。無理とは」
言ってなかったよな? 言ってなかったと、思うんだが。
まあ、イグドラシルに拒絶されているのは事実だ。
事実だが――何事にも。
『迷路』と一緒で、抜け道が在る。
「オレサマは今後もお前を玩具にして遊ぶ。それはそれとして、契約は果たす」
リンドウと。
……そして、ゲイリーとの契約を。
「悪魔はな、約束「だけ」は、守るんだ」
そうと決まれば。
「メアリー2号」
呼びかけに応じて、ディアボロモンが1体、この場に降って来る。
悩んだ挙げ句何だかんだと日和ってこの度も別所で待機させていたメアリー2号が、決着がついたと見て馳せ参じたようだ。
丁度良い。ここに来た以上は、仕事をしてもらおう。
「リンドウを連れて行け。これ以上は、ここに居られても邪魔なだけだ」
特に頷きもせず、だが言われた通りに。メアリー2号は戸惑うリンドウを抱えてその場から飛び上がる。
すぐに、1人と1体の姿は見えなくなった。
「……お前さん」
黙って流れを見守っていたコウスケが、感情が無いなりに十分に訝しげに、オレサマの正面へと回り込んだ。
「一体、どこからどこまでが本気なんじゃ?」
「全部が全部だ。本当さ」
我ながらどうしようも無い心根も。
モルフォモンを介して未だに残る情けの心も。
ここまでついて来た以上、献身には報いねばと思う律儀さも。
全てが全て、このオレサマだ。
全く。人間も、デジモンも。
いつまでも、生まれた時のままじゃあいられないって事だ。
結局の所、情念への興味関心は無いのだろう。
コウスケは表情を切り替えて、再び、水晶玉の前へと移動する。
「それで? 良い事とは? 何の策が残されていると?」
オレサマは、ゲイリーのものだったデバイスを取り出した。
「一度強力なデジモンになるといけないな。以前には意識して出来ていた事が、あっさりと。こうも簡単に頭からすっぽ抜ける」
手慣れたものだ。
操作の末に、目的の物を取り出してみせる。
「……お前さん、正気か? 相手はイグドラシルじゃぞ?」
感情の無い機械に、普通に引かれた。
だがまあそれも仕方あるまい。
そもそもこれだって、侮った相手の恐慌が見たくて始めた事だ。
「カミサマホトケサマだろうが。そもそも、「そうあれかし」と望み定めた目的そのものを見失ってしまえば」
オレサマは、左手に乗せた物体へと――
「その志は、元の形を保てると思うか?」
――紫に黄色の輪っか模様を持つ特製のキノコ爆弾へと、残された『消去』の力をありったけつぎ込む。
『記憶を消す』キノコ爆弾の毒性を、『消去』の力を以て拡張する。
「『ポイズン・ス・マッシュ』!!」
手の平ごと、毒キノコを水晶玉へと叩き付ける。
拒絶。
拒絶。
拒絶。
なんとかオレサマの介入を弾こうとしてか、全身に稲妻のような衝撃が迸る。
「うおおおおおおおおおおおおお」
だがこの程度の痛み、考えてみれば今更だ。
さっきは少しばかり驚いちまったが、お前の性根の一番腐った部分を受け継いだオレサマの執念を見くびってもらっては困るというもの。
そして、接触の段階で拒絶を試みると言うのであれば。
サーバへの侵入さえ叶えば、イグドラシルは、もはやオレサマを追いやる術を持たない。
己に由来する力を、内部に入れてまで吐き出す事は、出来ないのだ。
記憶を消す――言い換えれば、記録データを削除する『ポイズン・ス・マッシュ』。
アバドモンの能力まで交えた特大級のクラッキングは、徐々に水晶玉に施されていたイグドラシルの加護を侵食し――ついに
「!」
水晶玉の表面だけに幾重ものヒビが走ったかと思うと、それは瞬く間に玉の全体を覆い尽くし――一回り小さな水晶玉を残して、風に巻き上げられた桜の花びらのように、辺り一面へと砕け散った。
「……」
すっかり全体が変色する程焦げた手指を、水晶玉にそっと添える。
もう、何ものも。
オレサマを、阻むものは無かった。
「ゲイリー」
だから。
ソイツに助力を乞うという意味での用は、もう無いので。
掠れた少女の声が耳に届いても、オレサマは振り返りもしなかった。
「……メアリー2号。お前、何してやがる」
「私が頼んだ。もう一度だけ、ここに連れて来てって」
「……」
かつ、かつ。と。
靴底が水晶の床を叩く音が、徐々に近付いてくる。
「最後に、言いたいことがあったから」
「何だよ」
「私、あんたの事なんて、大っ嫌い」
「当然の感情だな」
「最低のクズ。クソ野郎」
「もっともな意見だ。甘んじて受け入れよう」
「絶対に許さない」
「なんならその言葉を生き甲斐にしているまである」
「でも」
不意に。
細く心許ない少女の腕が。
熱く泣きはらした、柔らかな少女の頬が。
背中にぴたりとくっついて、オレサマの事を、抱擁する。
「今までありがとう。……私の、もう1人のお父さん」
「……」
嗚呼。
そういや、そうか。
オレサマ、リンドウと。ゲイリーの奴よりも大分長いこと、一緒に暮らしてきたんだっけか。
……そうか。
「もう行け。クソガキ。どこへでも行っちまえ」
意趣返しに見せに来たつまらない顔まで、わざわざ拝んでやる気は無かった。
ましてや、振り返って抱き締めてやったりなんて、間違ってもしなかった。
もう、そうする必要も無いと。そう思った。
リンドウの腕が離れる。
気の済んだ彼女を、今度こそメアリー2号が連れ去っていくのが解った。
「良かったのか」
「良かった以外の何ものでも無いさ」
……ああ、ただ。
「供回りはいるな。もっと言えば監視役だ。アイツの苦しみをその都度オレサマに中継してくれる目玉だけは、付き従わせておかないと」
左目から、緑色の瞳を持つクラモンが這い出す。
ソイツは普段翅でしていたように、小さな小さな突起としか言えない手の一つでオレサマを叩くと、そのままふよふよと、リンドウ達が飛んでいった方角へと、浮かび上がっていった。
――と。
「りん、ど、う」
ぎし、みし、と。
耳障りな金属音と肉が軋む音を一緒くたに響かせながら、停止し、完全な崩壊を待つばかりだった筈のワームモンが、再起動する。
「きみは、ぼくの」
全く。オレサマが言えたことでは無いが、選ばれし子供のパートナーデジモンの執念は、やはりホラーだ。
オレサマはコウスケと顔を見合わせてから、片方しか無い肩を小さく竦めた。
「さて……惨めな勘違い野郎。喜べ。新しいカミサマの、権能を使っての初仕事は、なんとお前が対象だ」
オレサマはワームモンに、自害を命じた。
*
Down,Down,Down.
『絵本屋』を正式に閲覧した時と同様に、晴れてイグドラシルへのアクセスが叶ったオレサマは、不思議の国に赴くアリスのように、真っ逆さま。
奥へ、奥へと情報の波の中を落ちていく。
しばらくそうしながら必要なデータを探っていると、オレサマから許可を得る形でサーバへと侵入していたコウスケが、ふよふよとこちらに漂ってきた。
「おう、コウスケ。……用はもう済んだのか?」
「うむ」
頷くように身体を傾けると、ただそれだけなのに、コウスケのデータがはらはらと崩れていく。
本当に、役目とやらを、果たしきったらしい。
「お別れの前に教えてくれや。……お前、こんなところまで。一体何しに来てたんだ?」
「道をな」
コウスケは振り返って、此処では無い、どこか遠くを眺める。
「イグドラシルの持つ外部空間に干渉する権能を用いて、道を造っておった」
「道」
「道と言うには心許ない。蜘蛛糸の方がまだ頼りがいのありそうな、一条の光よ」
帰り道じゃ。と、コウスケはそう、無機質に付け足した。
「誰の」
「……。……さあ、のう。名前を剥奪されたワシでは、後に連なる者の名もわからん。わからんが――ワシの罪を、そやつに押しつける事になったのは確かでな」
コウスケの罪――『怠惰』
「ようやっと、働いたぞ。本体でも無いワシの罪滅ぼしが、どこまで作用するかはわからんが――まあ、助けにならん事は無いじゃろう」
ワシってば、ちょーすげー究極体じゃったし。と。
からから空っぽに笑うコウスケの姿は、今まさに、掻き消えようとしているところで。
「……よくわかんねーが、目的を果たしたなら良かったじゃねーか。おめっとさん」
「お前さんも。達者でな」
『我が子』は大事にしてやれよ、と。
コウスケは、最後にそんな忠告だけ残して、消滅した。
「……」
作業に戻る。
落ちて、沈んで。
その度に、必要なデータを集めて。
するべき事のためのプログラムを、丁寧にくみ上げる。
……その途中。
オレサマは、なかなかに面白いものを見つけた。
「こりゃ良い。使ってやろう」
擬似的にデータを展開する。
コウスケも消え去ったというのに、この姿では鏡映しと錯覚するデータを。
随分と、久しぶりに。
オレサマは、その男と向き合った。
目の前にあるコイツは、イグドラシルに収録された、ただの個人情報の塊に過ぎない。人の形を取っただけのホログラム。何かそれ以上の機能が有るワケでは無い。……このままでは。
だから今は、ただ単に。オレサマの気分の問題だった。
オレサマはソイツと、最後に少しだけお喋りをしたい気分だったのだ。
「……さて」
『迷路』の拡張を用いたリアル・デジタル双方に対する『再起動』――『リブートシステム』の使い方は理解した。
この『手段』を用いていかなる世界を展開するのか。それももう、設定した。
『コイツ』がオレサマに、そういう名前を与えたものだから。
そうあれかしと、定める事にした。
「よう、ゲイリー」
当然、返事は無い。
女の姿をしていた頃のオレサマとは、あべこべだ。
「今度はちゃんと、お前がリンドウを泣かせろよ」
リブートシステムを起動させる。
イグドラシルに内包されていた情報が、『迷路』を発生源として神話の洪水のようにリアルワールドを、デジタルワールドを、生けとし生ける者の全てが皆して気付かぬ内に、瞬く間に呑み込んで、無に帰した。
箱船は無い。
故に、例外は無い。……たった1人と、1匹を除いて。
オレサマ自身も、もはやこのままではいられない。
ゲイリー・ストゥーの肉体は、きっと次は別の名前の『誰か』へと返却され。
デジモンとしてのデータもシステムへと溶けて、ただの『世界の理』へと変貌していく。
だから、最後にお別れの言葉を。
リンドウ。
オレサマがこの先愉しくカミサマをやっていけるよう、哀れなお前に雨のように、数多の苦しみが降り注ぎますように。
その苦しみが常に新鮮でであるように、同じだけの――……いいや、それ以上の幸運が、お前の下を訪れますように。
さようなら。
オレサマの娘(メアリー・スー)。
完結お疲れ様でした。夏P(ナッピー)です。
絶対「全部が全部、嘘さ」だと思ったのに本当だったとはアバドゲイリー。イグドラシルの間はやっぱりゼヴォリューションでよく見たあの空間なんでしょうか。選ばれし子供のシステム破壊した世界も面白そうでしたが、きっとそうした世界でも変わりなく人間とデジモンは変わらず繋がっているような気がしないでもない。
最後の最後に来てどんでん返しが待っているのは世の常とはいえ、ここまで来て台無しになるのかというリンドウの不安もご尤も。そーいやゲイリー自身よりアーマゲイリーの方がリンドウと過ごした時間は長くなっていたのだなぁと感慨深くなりながら、絶対やってくれると思っていましたが「もう一人のお父さん」待ってた! 疑似親子と言えばやはりこれ! この一言を言う為だけだったとしても、戻ってきた理由には十分なる!
さっくり自害させられるワームモン。ランサーが死んだ! この人でなし!
混沌や混乱がどうだと言ってましたが、最高にクソ野郎で最高に優しかったカミサマでした。最後の最後の幸福を祈る姿、いやでも実際は前々から心の内にあったんだろうなぁ……。
……は、『鋼』ェ……!
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。