
バンチョーマメモンの豆板長打郎(ズバン ホームラン)はいわゆる不良である。
誰も読めない様な名を野球好きの親につけられ、無事に大人を敵だと思い野球を嫌うようになり、納得いかない規則を強いてくる大人に噛み付いているうちに不良になった。
さらに、成長が早かったから街で因縁つけられて返り討ちにしてるうちに他が成熟期も珍しくない高校生にして究極体にまで成長した。
「一応確認なんですけど、ストレートの投げ方とか投球の指導自体されたことないですよね?」
「あるわけねぇだろ」
長打郎はそう目の前のリリモンに悪態を吐く。黒木リリーは市立豆門高等学校野球部のマネージャーで、長打郎のクラスメイトだった。
「くそっ、あの糸目に言われてなければ野球なんてしねぇのに……」
「ちゃんと学校来てないのに部活に来るのも投稿日数にカウントしてくれるって取り決めでしょう? なら、部活にはちゃんと参加してくれないと」
黒木の言葉に長打郎は渋々うなずいた。筋が通らないというのが長打郎は一番嫌いだった。
どうなるか考えずに子供にホームランなんて名をつけるのは以ての外、長打郎自身も仮にも親に高校に通わせてもらっているのだから留年するなんてのは無責任。
だから、補習だなんだでなんとか授業に出ず卒業しようと担任教師のシャッコウモン、土宮に相談したのだ。
そして勧められたのが保健室登校ならぬ部室登校、土宮が顧問している野球部の部室でプリントとかで勉強して出すなら授業を受けていたのと同じ単位を出す。
保健室登校に比べたらまだ格好もつく、そう思って承諾したのだ。
その結果、部室を使うなら部に所属するのが筋だと黒木に言われ、そのまま他の部員や黒木と一緒に町内をランニングさせられた上、個人練習が多いからとピッチャーをやることになってしまった。
「外部の監督もいないし顧問の糸目も野球全然わからないって聞いたのに、こんなうるさいのがいたとはな……」
「本当は先輩達に教えて欲しいんですけれど……」
そう言って、黒木は近くで自分達の練習をしながらチラチラ様子を見ているマメモン達を見た。
「豆高野球部はほとんどマメモンかスターモンかサンダーボールモンだからな! 人間基準で開発された投球フォームはよくわかんねぇんだ!」
マメモンのうちの一体がすまんなと言って歯を見せて笑う。彼の身体はマメモン故に見事な一頭身だった。
「俺も同じ体型だけど?」
「別にやることが種で変わるわけではないんですよ。先輩達はこういう本から得られる『結果だけ』を感覚でしか理解してないので教えられず、僕は理論は理解できてるので教えられる。そういう話です」
わかったようなわからない様な気がしたが、わからないというのが癪だったのでなるほどなと長打郎はうなずいた。
「あと、先輩達ボクシンググローブ着けてるのでボールの握り教えられないし」
ほら、私はちゃんと五本指と黒木は長打郎の指に比べてしなやかで細い指を見せた。
確かにマメモン達はボクシンググローブを皆つけているし、野球のグローブもやたら薄いのをボクシンググローブの上から着けているようだった。
自身がマメモンだった時のことを思い返せば、外すことが物としてはできてもベンチに置いていく様な距離の取り方は気持ちとしてできないのは理解できる。
「……サンダーボールモンの奴らはピッチャーやらねぇの?」
サンダーボールモンはマメモンやスターモンと違いグローブは着けてるが指はちゃんと分かれている。
「真面目に練習してると身体ができてくる二年頃にはみんなマメモンになるらしく、無駄になるとわかって学ぶ事もない。らしいです」
「まぁでも、それでピッチャーやれてるってことはそんな大したことないことなんだろ?」
「いや、握りを変えられないのは致命的ですね。ほぼ全ての変化球が投げられないので」
黒木はそうバッサリ言った。
「……先輩達は?」
「もちろん致命的だ! うちの高校は毎年投手が原因で負けてるぞ!」
「明るく言うことかよ」
「事実は事実だ! お前がそれを変えてくれることを期待してるぞ、豆板!」
そう言ってそのマメモンは自身の投球練習に戻っていく。
「なんだあいつ」
「豆中先輩は一応うちのエースです。あの手なのでコントロールよくすることと球の速度上げる他ほぼやりようがないのに腐らず投げ続け打たれ続ける鋼のメンタルを持った人です」
チームの精神的支柱ですねと、仏頂面だった黒木が長打郎名前で初めて少し微笑んだ。
「……俺が練習して上手くなったら、俺がエースになるのか?」
「突然冗談言わないでくださいよ。笑いすぎて片腹もげるじゃないですか」
そう黒木は真顔でそう言った。
「野球は投手が投げないとゲームが進まないスポーツです。実力でも人柄でも精神力でもなんでもいいんですが、あいつにならチームの命運を任せられると思いを託され……時に、あいつのために死ぬ気で手を取るぞと思わせるのがエースです」
黒木の口調は冷静ではあったが、熱を帯びているのが長打郎にもわかった。
選手でもないのにと長打郎が気まずいながら不思議に思っていると、豆中が黒木の背中をバシンと叩いた。
「恥ずかしいこと言うなよ黒木! 俺のこと好きすぎか〜?」
ハッと黒木が我に返り、はぁとため息を吐いて目線を豆中から逸らす。
「……はいはい。僕はストレートも投げられない我らが大エース先輩の心の強さを大層尊敬してますよ」
豆中はそう言った黒木の背中に飛び移り無理やり肩を組んだ。
「照れ隠しか〜?」
頬をグローブでぐにぐにしてくる豆中に、黒木は無言で軽く頭突きして地面に落とした。
俺も愛してるぜ黒木! と言って練習に戻っていく豆中に、黒木はチッと舌打ちをした。
「じゃあ、気を取り直してやりましょうか。当面の豆板君の目標は投球フォームを安定させること、ストレートの習得です」
「変化球じゃねぇのかよ」
「ストレートも変化球みたいなものですし、詳しく説明すると長いんですけれど、豆中先輩と交代しながら投げるならストレートの方が間違いなくいいです」
今までもまぁまぁ長かったのにこれ以上長いのは嫌だと長打郎は口を挟まないことにした。
黒木はじゃああっちの先輩をと豆一を指差した。
「グローブにボールを握った手を入れたまま大きく振りかぶり、投げるのと逆の足をあげ、大きく踏み込む勢いに、さらに腰、肩と加えていき全身をバネの様に連動させてボールを投げる。これが基本です」
「なんか難しい様に聞こえるんだが……」
「そうですよ? ちゃんとするのは結構難しいです。決まった形と動きを作って確認修正しながら反復練習するのが必要です」
でも、学校でなら僕が修正できるので、見よう見まねであっちの壁に向けてまずやってくださいと続けた。
腕を振り上げ、足を高く上げ長打郎が思い切り球を投げると、凄まじい勢いで球は壁にぶつかり、反動であっという間に長打郎の手元に戻ってきた。
おぉと豆中が感嘆の声を上げたのが聞こえて、長打郎は少しにやりとしたが、黒木は無表情のままだった。
「ざっくり三十点、ですかね。格好だけで動きが連動せずずれてます。ほぼ肩と腕だけで投げてます」
「おい、今の球先輩のより多分速かっただろ。それに対してのリアクションはねぇのかよ」
「……スゴイデスネ」
黒木は口をわざとらしくパクパクさせながらそう言った。
「おい」
「……動きがずれた変なフォームになっていると変なところに負担かかって壊したりしますからね。威力があるならなおさらちゃんとしないと自分のパワーで自分をぶっ壊しますよ」
「俺は壊さねぇよ」
壊す時は誰でも壊しますしと言って、黒木は腕がどうの足がどうのと細かく長打郎の手を取り足を取り矯正していく。
話した方が長くなりそうだからと、我慢して長打郎がされるがままにしていると、不意に豆中がやってきた。
「腰の辺りちょっと変な動きになってるぞ」
「……黒木は何も言わなかったけど」
長打郎がそう言って黒木を見ると、黒木は目を逸らした。
「……マメモンの腰がどこか僕にはよくわからないんだよ」
「はぁ?」
何言ってんだと思って豆中を見ると、本当なんだと豆中はつぶやいた。
「前に黒木がマッサージしてくれた時、腰だって何度も言ったのにずっと尻もんでたぐらいだからな! 尻フェチじゃなきゃ本当に区別がついてないんだろう!」
豆中の発言に黒木は眉間に深々とシワを刻み込む。
「僕は尻フェチじゃないです。種族差ですよ、仕方ないでしょう」
「猥談してない!? 俺も混ぜろー!」
「猥談じゃないです、バカ王子キャプテン」
「なんだ……」
そう他のマメモン達と比べて一際大きな黄色で王冠を被ったマメモン、プリンスマメモンは悲しそうにつぶやいた。
「ところでバカ王子って言った?」
「馬鹿(ウマカ)王子(オウジ)ってちゃんと言いましたよ。聞き間違いでは?」
「フルネームで呼ぶ辺りわざとじゃない? 違う?」
「他の先輩みたいに王子って名前で呼ぶのに抵抗あるので」
本当かなぁとコミカルにカクカク動きながら黒木の顔を王子が覗き込むと、豆中がしつこいと嫌われるぞと背中のマントを引っ張った。
「豆板君に紹介しますね。うちのキャプテンです。この人も五本の指がありますが、コントロールが悪くてストライク取れないのでキャッチャーをしてます」
「うむ、俺が投げると死(アウト)一つ取る前に死者が出るぜ!」
「だがキャッチャーとしてはそれなりに優秀だ! 肩自体は強いから盗塁も結構防げる! 暴投で進塁させることもあるが!」
「じゃあダメじゃねぇか」
長打郎が思わず口にすると、黒木はうなずき、豆中と馬鹿は本当になと笑った。
それを見て長打郎は大丈夫かこいつらと一瞬思ったが、すぐにまぁ部外者の俺が心配することじゃないがと内心で呟いた。
長打郎が入って二週間が経った。
「大分フォームも安定して来ましたね」
朝練を終え、部室の窓を開けて消臭剤を吹き散らしながら黒木はそう言った。
毎朝部室の鍵を職員室に取りに行くのは黒木の役目で、今は朝練の終わりに鍵を長打郎に渡すことになっていたから、朝練の終わり際に二人だけになる時間があった。
「ほぼほぼ付きっきりで教えられてっからな」
長打郎は少し得意げにそう答えた。黒木に教えられながら壁に向けて投げる時間は長い。
「ところで、俺達タメなんだからそろそろ敬語やめてくんないか?」
「……質問に一つ答えてくれたらいいですよ」
「なんだよ?」
「なんでクラスに来ないんですか?」
「……お前、デリカシーって言葉知ってるか?」
「豆板くんはそういう理由じゃないですよね? フォームが安定して来たのは、僕や豆中先輩の言うことを真面目に聞いたからです。とりあえず部活に出ればいいやで来てるにしてはちゃんとやりすぎなぐらいです。真面目にやれないわけでもないのになんでかなと」
豆板は大したことねぇよと前置きをした。
「……一学期の中間テスト、俺の数学の答案が誰かに書き直されて赤点ラインにされたんだよ」
「勘違いではなく?」
「俺の使ってるシャーペンは0.3mm、書き直された答案の文字は明らかに太かったし、それを訴えた時のクソデブ教師のニヤケ面であいつが書き換えたんだってわかった。糸目以外の教師はこっちの言い分を聞きもしねぇ、クソ教師どもから直接教わることはなんもねぇ! ってクラスに行くのはやめたけどそれで留年するのは親に通わせてもらっている以上筋が遠らねぇから……」
一通り聞いて黒木はうなずいた。
「細目、土宮先生に相談して今に至る、と。信じてもらえなかった理由が態度と成績なら、デブ……ビッグマメモンの太田のことだよね? 太田の数学以外はまともに出れば」
「それでなんになるんだよ」
「その上で君が数学のテストでいい点とったら、デブは赤っ恥かくよ。点数書き換えまたしてくるかもしれないけど、それもまぁぱっと見黒に見える様な0.3mmの濃い紫色のシャー芯とか大きな文具店で探して買って使えば変えたとこが今回も明らかになるしね。前失敗した主張をして来て、しかも明らかに対策をしてる。単なる言いがかりとは思わないと思うよ」
「……俺が普通にクラス通う様になったらもう部活来ないぞ?」
「それで来なくなるやつはもっと練習中手を抜くよ。馬鹿王子キャプテンなんて試合中でも真面目にやってるように見えない時あるし」
それはそれでどうなんだと長打郎が言うと、八割良くないと黒木は答えた。
「ところで、聞いた話が敬語やめるだけにしては重かったからさ、なんかこっちも一つ質問に答えるよ。なんでもとは言わないけどさ」
「……黒木はなんでマネージャーしてるんだ?」
黒木もボールを掴める指がちゃんと五本ある。野球の知識もエースの豆中が言葉にできない部分まで言葉にできている。
でも知識だけでもない、完全体まで至ってるのは黒木がそれだけ身体を鍛えて来た証、成熟期のサンダーボールモンやスターモンの部員が選手で単なるマネージャーと言われた方が不自然だった。
「……野球を嫌いになりたいから。かな」
「は?」
「……まぁ、とりあえずこれで釣り合いは取れた気がするよ」
そう言って黒木は鞄を持って教室に行った。なんだか少しもやもやした。
一ヶ月も野球部にいると、長打郎にもある程度部の全体が見えてきた。
現在は十一月、三年生は豆板が入った時点で引退済。今は馬鹿や豆中が中心でチーム作りをしている。
でも黒木のことはよくわからない。少し異質な存在ではある様だ。長打郎が周りに聞いてみても、
「黒木は五月に入部して来たな。完全体なのにマネージャーで入って来てるし、夏の敗退まではもっと大人しかったし、よくわからないんだよな」
「リリーが投手陣に色々話す様になったのは王子キャプテンに言われたかららしいぞ。一年だからって遠慮するなーと。そしたら開口一番、キャプテンの配球はクソですって言って、キャプテンもまさかそんなこと言われると思ってなくて、や、やっぱり〜? って冷や汗かきながら返したらしいぞ」
「黒木は細いよな。あんな腰の位置がはっきりわかる体型は痩せすぎだと思うんだ。種族的に正常って言ってたけど、普通体型って球のところを棒だもんな。肌に金属光沢も全くないし……ところで最近俺ちょくちょく考えているんだが、同じ腰の細さでも土宮先生の腰の細さってエロくないか? 全身の金属光沢もすごいし、胸部も楕円は楕円なんだけど均整が取れた左右対称感がさぁ……」
「土宮先生は確かになんかエロい。優しく微笑むとさらにちょっと細くなるんだよな。それが、こう……きゅんてする」
「うちのクラスにマメティラノモンのやつがいるんだけどさ、マメティラノモン好きなんて変態だと思ってたけど、球体ボディからカクカクッとしたヒレとか出てたり笑うと鋭い歯が見えるのってえっちだなって……え? 黒木? 黒木にエロを見出すのはやばいだろ。カレー味のうんこかうんこ味のカレーかって話してる時に俺うんこ味のうんこっていうような……は? そもそも黒木の話? 猥談じゃねーのかよ!! なら練習戻るわ、猥談になったら呼べよ!!」
「野球部全員に猥談を仕掛けた僕のデータによると、黒木は球体ボディにも金属光沢にもエロを見出せないとか。変態か修行僧か、変態の修行僧という説もある。一つ確かなのは尻フェチということだ」
「僕は尻フェチじゃないし、リリモン的には金属光沢も球体ボディもアブノーマルなんだよ」
黒木の話をこっそり聞くはずが、猥談好きの奴らの声がでかいせいで本人を呼び寄せてしまい、長打郎は頭を抱えた。
「まぁ大体豆板君が何考えてるかは想像つくけどさ。人の秘密をこそこそ暴こうっていうのは筋が通らないと思うんだ」
「……悪かったよ」
「いや、まぁそんなに君が僕に興味あるなら別にいいかなって気はしている。他の部員に話さないならね」
「いいのか?」
長打郎の言葉に黒木は長打郎の顔を見ずにうなずいた。
「だって君、元々野球嫌いだろ? だったらまぁ……いや、条件つけようかな」
そう言って黒木は口角を少し上げた。
「君が変化球覚えるごとに色々話すよ」
「……そこまでの興味はねぇよ」
「と、いうわけでそろそろ変化球覚えようか。来年の大会時点で一つ二つ仕上げておきたいし」
まぁ変化球覚えるのはいいけどさと長打郎はため息をついた。
「僕が君に覚えて欲しい変化球は、カーブ、スライダー、チェンジアップの三つ……なんか微妙な顔してない?」
「いや、なんかよく聞く変化球だなと思って。フォークとかナックルとか、切り札みたいなやつの方がいいんじゃねぇかなぁって」
こう、揺れながら落ちたりストンて落ちるって漫画で見た。と言う長打郎に黒木はなんとも言えない顔をしたあと、自分の手を広げて長田郎の前に出した。
「指合わせて」
手を重ねると、黒木の指は細く長くそれに対して長打郎の手は太く短かった。
「ボールのサイズが定められているスポーツだから、指の細さと長さが結構変化球覚える際の有利不利に関わる。例えば、フォークの握りは、人差し指と中指を大きく開きボールを挟み込むように握る。この時大きく開いた方がより落ちるフォークになる」
言われて長打郎が試しに真似てみると、指が太くてまず挟み込むということができなかった。
「指が短い人の為のフォークも人間界で開発され伝わってるけど、フォークは肘に負担かかるんだ。究極体の君だけど君自身の力で振り回される肘への負担は同じ腕の構造してる限り人間と変わらない」
それに、こっちが一番重要と黒木は指を立てた。
「熟練しないと戦術的なリスクが大きすぎる」
「肘への負担とかと別で?」
「持ち方が不安定だから暴投しやすいんだよ。ナックルも不規則に揺れる球だからコントロールが難しい。投手がストライクゾーンから四回外せばでアウトも取れず相手にチャンスをやることになる。コントロールできない球種は自分が有利な時しか使えない」
野球は九回、一回三アウト、全員三振でアウトに取るとして八十一球。理論的には二十七球で九回投げ切ることもできるが、現実的には百を超える数になり、外せばその分投げる数は増える。もちろんストレートを中心に投げることになるだろうとはいえ、暴投は時に単なるボールで済まず勝敗を決める点に直結する。
「カーブとかスライダーは比較すればかなりコントロールが楽、とはいえストレートに比べたら当然難しいんだけど……投手が打者の打ち取るには『ズレ』を作らなきゃいけない」
「『ズレ』っていうのはバットを振るタイミングとかそういうやつか?」
「そう、上下左右に奥行き、豆板君が言ったのは奥行きだね。投手と打者の駆け引きは、いかにこのズレを使えるかにかかってる」
そう言って、黒木はバットを構えるような体勢をとった。
「バットは先端が膨らんだ棒状だから、上下がズレれば空振りするし、左右がズレればテコの原理と形状から力がうまく伝わらない。タイミングが合わなくて奥行きがズレても空振りするし仮に当たってもまっすぐ前に飛ばなくなる。とにかく何かがズレれば打者は力を発揮しきれなくなる」
確かにそれはそうかと長打郎はうなずく。
「でも、ストレートは投げるとこ見ればそれなりの打者ならどこに入るかわかってくるし、ずっと見てればタイミングも覚える。コースを投げ分けてずらすにも、ゲームみたいに精密なコントロールは難しいから、上下か左右かで差をつけられれば上々。直方体のストライクゾーンの端から端とか、角から角とかは卓越した投手なら狙ってできる人も極々わずかにいるけれど、それができなくなったら打たれるという状況で九回は心が保たない」
そこで、と黒木は長打郎の方を見た。
「変化球との使い分けでズレを作るってことか」
「そう。一番最初がカーブなのも、ストレートより遅く、斜めに落ちる変化球だから。上下左右奥行き全部に差をつけられる」
「……それ一つで他要らないじゃねぇか」
「でも、全部違うって事は差が大きすぎるってこと。投げた時点でストレートじゃないと気づく打者は気づく。どれくらい変化するかを見極めた後は遅い分ストレートより当てやすいしね」
そういう弱点もあるのか、と長打郎が呟くと黒木は少し口角を上げた。
「だから、次に僕が習得して欲しいのがスライダー。速く、横に曲がる変化球」
「今度は横だけズレるってことか」
「そう。ストレートと比べて少し球速が落ちるから、ストレートとスライダーだけだとその内見分けがつくようになるけど、より大きな差があるカーブがあることでストレートとスライダーの見分けをつきにくくすることもできる。だからカーブの次」
「じゃあチェンジアップは?」
「ストレートと同じフォームから投げられるストレートより遅い球」
「奥行きのズレだけの球ってことか?」
「ストレートが重力に逆らう球だから、体感的には落ちる球でもあるかな。ストレートのタイミングでバットを振ると、遅いし落ちてるしで空振りする。フォームがストレートとちゃんと同じにできれば十分切り札になる」
と、いうわけでと黒木はまとめる。
「僕が考える君の育成プランは、ストレートを軸にカーブで緩急を作るのを基本としつつ、スライダーやチェンジアップで変化を加える感じが目標。豆板くんは究極体なだけあって基本的に球は速いからカーブ覚えれば十分駆け引きできる」
そう少し早口に言う黒木に、長打郎はふと以前聞いた話を思い出した。
野球を嫌いになりたいから。
意図も理由もわからないが、わざわざ嫌いになりたいほどに黒木は野球が好きなんだろう。
「変な顔してるけど、どうかした?」
「……こう利点を聞いてると思うんだけど、豆中先輩って本当に変化球投げれねぇの?」
「無理だと思う。投げられたとして手首や肘に負担の大きい投げ方になる。でも、君がちゃんとストレートを投げられれば豆中先輩も活きてくる」
どういうことだと長打郎が首を傾げると、黒木はストレートは変化球だからと話し始めた。
「豆中先輩の直球は基本のフォーシームのストレートじゃない。手癖で投げてるからフォシームの様な回転で揚力を産んで落ちない様にすることができてない。向こうの感覚的には多分チェンジアップに近い、思ってるより低い位置にボールが来る。スコアブックでも一打席目は結構抑えられている」
「ピンときたぞ。豆中先輩が投げ続けるとその軌道にも慣れてくるけれど、慣れる前に一回俺の投球を挟めばまたストレートとの差を調整しなきゃいけないわけだ」
その通りと黒木は少し歯を見せて笑った。
「そう、頭でわかってもピタって調整できるかどうかは選手次第。豆中先輩が変わらなくても周りが変われば変わることもある」
じゃあそういうわけでカーブからだねと黒木は豆板の前でボールを握ってみせた。
その日練習したカーブは、曲がったかどうか長打郎にはよくわからなかった。
練習後、黒木が部室の鍵を職員室に返却してから玄関に向かうと、長打郎が待っていた。
「……どうしたのさ。部室に忘れ物でもした?」
「いや、一緒に帰ろうと思っただけだよ。お前がなんか距離取ってるから、お前の話しようとすると猥談にすり替わるんだぞ」
普通、一年のマネージャーが最後に鍵閉めるなんてことはそうない。わざわざ引き受けたのだとすれば周りと帰る時間をずらしたいみたいだった。
「……なんなのさ、その理由」
「同じクラスだしいいだろ、ちょっとぐらい気にしても」
「そう言うなら、クラスきなよ」
「……明日から行く」
それならいいだろと長打郎が言うと、黒木は真っ黒な目を丸くした。
明日の時間割なんか聞きながら校門のところに向かうと、明らかに一人大きな丸いシルエットが立っていた。
「キャプテン、どうしたんですか? 相手もいないはずなのにデートの待ち合わせですか?」
「お前、キャプテンに対しての当たり強いよな」
「いいんだ、この金に輝く真球ボディ、嫉妬されるのには慣れている。しかし、残念ながらデートの待ち合わせじゃあないね。少し確認したいことがあって黒木を待ってた」
馬鹿はそう言って、長打郎達と一緒に帰り道を歩き出す。
「お前のいた中学ってシン・百合ヶ丘学園中等部だったよな。高等部はリリモンだらけの」
「そうですね」
黒木のテンションがすんと落ち着いて、声が冷たくなっていく。
「さっきの練習中、黒木じゃないリリモンが練習を見ていたところを目撃した部員がいてな。家族とか連絡取り合ってる友達とかならいいんだけど……」
「いないです」
即座にそう黒木は答えた。
「僕の実の親は死んでて他に親族はいません、義親はピンクの鎧着てる騎士でリリモンとは似ても似つきません。連絡取り合ってる友人とかもいないです、中学の時の関係は残してないつもりです」
その言葉を聞いて、長打郎は黒木の腕を引いて路地裏の脇道に入り込んだ。
まっすぐ進む道の建物の陰に、ピンクの花弁が少し見えていた。
「……黒木、今日は普段の駅は使わないほうがいいかもな。さっき検索したけど、シン・百合ヶ丘学園って電車で一時間ぐらいかかるとこだろ? ストーカーなんじゃないか?」
馬鹿の言葉に長打郎もうなずいたが、黒木は首を横に振った。
「僕は、恨まれて仕方ないことをした。だから、このまま逃げるのはきっと、筋が通らない……」
黒木の言葉に、長打郎は馬鹿と目を見合わせた。
「とりあえず、キャプテンとして同行はする。危なそうなら警察も呼ぶからな」
「俺も、野球部でのお前の様子を見てたなら、ほぼ俺の様子を見てたみたいなもんだしな」
どんな理屈だよと黒木は一瞬口にしたが、長打郎にも馬鹿にもついてくるなとは言わなかった。
元の道に戻ろうと引き返すと、路地裏の入り口のところにそのリリモンは立っていた。
「……会いたかったよ、黒木」
「篠 優理(ササ ユリ)……」
篠と呼ばれたそのリリモンは馬鹿も長打郎も目に入ってない様で、通りの明かりを背に受けたその顔は陰がかかっていた。
「内部進学すると思ってたから、四月になって驚いたよ」
「……悪かった。エースとしての責任も取らず逃げ出して……」
黒木がそう頭を下げると、篠はこてんと首を傾げ、自体が飲み込めないみたいに固まってじっと黒木を見下ろした。
「……意味わからん」
やっと紡がれた篠の言葉には、苛立ちが感じられた。
「何を、謝ってんの? いや、違うか、違うな。そんな話どうでもよくてさ。なんで、こんなとこで、なんでマネージャーなんかしてんの?」
篠はそう頭を下げたままの黒木に言葉を投げかけた。
「選手としてリハビリしながらやってるならわかる。諦めて野球から離れるのも……受け入れ難いけど、わかる。でも、なんでマネージャーなんだよ!」
そう言って、篠は黒木の肩を掴むと顔を持ち上げさせた。
「……進学して、お前が野球部にいないと気づいて何人か辞めたよ。お前に引っ張られて身の丈に合わない夢を見たから、お前のいない野球部はさぞ色褪せて見えたんだろうな。なのに、お前はなんでもう何もできないのに中途半端にしがみついて楽しく笑ってんだ?」
なぁ、とまた篠が何か言おうとしたところで馬鹿が篠の腕を掴んだ。
「事情に踏み込む気はないが、君は無抵抗の相手に暴言を浴びせるためにはるばる来たのかな?」
馬鹿がそう言うと、篠は黒木の肩を掴んでいた手を離した。
「……黒木、戻ってこいよシン百合に」
黒木の顔にも流石に困惑が見え、馬鹿もいまいち内容が飲み込めなくて思わず固まった。
「自分の代わりのピッチャー育てたいならうちで育ててもいいだろ? リリモンとマメモンじゃ身体的な特徴が違いすぎる、お前が俺達を全国に引っ張っていったのは、お前の多彩な変化球だった。ずっとお前を見てた同種のリリモンの俺なら、お前になれる」
喋りながら前のめりになっていく篠に、黒木はもはや怯えているようだった。
「黒木がマウンドからいなくなるなんてあっちゃダメなんだよ、お前がやめるなら俺があの時の最強の黒木になるから、な、シン百合に……」
馬鹿に腕を掴まれているのも忘れていそうな暗いのその勢いに、黒木と馬鹿は思わず言葉を失う。
「お前がどう思ったとしても、決めるのは黒木だろ。伝えたいこと伝えたなら今日は帰れよ」
長打郎がそう冷や水を浴びせると、篠は初めて長打郎に気がついた様な顔をした。
「今ここで仮に黒木がうん戻るねって言ったとして、じゃあ明日からシン百合にってわけでもねぇんだし、『シン百合に戻ってきて欲しい』って伝える以上、お前は何もできんだろ。もう暗いし」
俺達学生だぞと、改造制服を羽織ったバンチョーマメモンである長打郎が言うのが黒木は少し面白くて、微笑んだ。
「……俺の連絡先、知ってるよな。待ってるからな」
篠はそう言って去っていった。
「……このまま駅行ったら、あいついんのかな」
「……いるんじゃないかな。電車使わず来れる距離じゃないし」
少しまだ青い顔で、黒木はそう言った。
「となると……駅前でハンバーガーでも食って時間ずらすか。俺が奢ってやろう、二百円までな」
「駅前のとこってハンバーガー二百円超えなかったか」
「甘いな豆板、ポテトなら買えるぞ。感謝しろ〜?」
気持ち悪い笑みで歯を見せながら言う馬鹿に、長打郎はケチくせぇと呟いた。
「……キャプテン、豆板くん、巻き込んですみません」
「……まぁキャプテンだから謝られる理由はないんだが、やっぱ俺は先に駅行くな。今日の夕飯、ハンバーグなの思い出した」
これでお前らはチェーンの薄いパティを喰らえと馬鹿は長打郎の帽子の上に千円札を乗せて走り去った。
「……意味わかんねぇ」
「……多分、気を使ってくれたんだろうね。キャプテンは僕が中学時代どんなだったか少し知ってるし」
「同じ中学……ではないよな?」
「キャプテンとは中二の時に戦ったことがある」
なるほどなととりあえず長打郎はうなずいた。
「なんか話すとして、まずはどっか入ろうぜ。寒いしラーメン食いてぇ」
「……そうだね」
駅前の中華屋はそこそこに客がいたものの、都合よく二人は角のテーブル席に通された。
「……中一で僕はリリモンに進化した。リリモン種の細くしなやかな指と狙った回転をかける変化球の相性はいい。自分で言うのもなんだけど、リトルシニアとか含めても同世代でも指折りの投手だった」
「そんなにかよ」
「中三の時、地区大会無失点完投で全国行くぐらいにはね」
まぐれでバットが当たることもタイミングさえ合えばあり得る。最低でも二十七打席分敵チームには打つ機会がある。走者が出ればバントだなんだと打てなくても得点に繋げる方法もある。
色々な物事を考えながら重圧もかかる場所で投げ続けるのは、単に練習で投げるの以上に神経と体力も使う。
「中二の時は、たまたまキャプテンと豆中先輩のいるチームに当たった。キャプテン以外は塁にも出さなかったしキャプテンも途中まではそうだったけど、一発キャプテンにホームランを打たれて、こっちは点を取れなくて敗けた」
ちなみにキャプテンは次の試合、一打席めにホームラン打った後全打席敬遠されて普通に点取られて敗退してたと黒木は続けた。
「三年時のシン百合中等部は、完全に僕のワンマンチームだった。僕が抑える、点が取れるまで延長してでも僕が抑える。僕は優秀な打者じゃなかったけど完全体だからね、周りから見れば相対的に上手くて抑えるのも点取るのも僕な試合が幾つもあるぐらいだった。全国に出てもそれは変わらなかった」
身の丈に合わない夢を見た。篠の言葉が二人の脳裏に思い起こされる。本当に黒木がただ一人で引っ張った故の言葉だったのだ。
「一回戦をなんとか延長で勝って、二回戦の相手は聖(セント)呂威矢流騎士(ロイヤルナイツ)大学附属だった。中学生のくせに究極体が一体混じって他も全員完全体なんて化け物達で、オメガモンの尾張は対戦した投手が再起不能になるから『オールデリート』とか言われてたし、僕もその理由を知った」
そう言って、黒木は自分の肩を撫でた。
「一回の一打席目第一球、外角低め、ボールになってもいいぐらいの気持ちで投げたナックルを、尾張は未来でも見てたかの様にミートさせて僕の右肩にぶつけた」
「……それ、反則じゃねぇの?」
「普通そんな事狙ってできないし、偶々と言われたら否定できない。僕も偶々だと思ったし僕が投げないとすぐに負けるのはわかってたから、少し冷やして無理して投げ続けた。で、二回目の尾張の打席が来て、僕は敬遠するか迷ってストライクから外れていく様にスライダーを投げた。しっかり回転がかかってる球は簡単にまっすぐ飛ばないから。でも、それもまた肩に飛んできた。一打席目より早く強く鋭く、今度は肩の骨を砕いた」
それで僕の肩は再起不能になったと黒木は言った。折れた骨の欠片が肩に残ってて、腕を上げると周りの肉を傷つけるんだと黒木は悲しそうに笑った。
「そして、篠が僕が投げられなくなったことでマウンドに立たされた。篠はその時トゲモンだった。マメモンと同じ、手にグローブを着けた『ストレートも投げられない種」のね。案の定、アウト一つ取れず十点取られ、三回裏を終わることもできずにコールド負け……つまり、本来より試合前倒しで負けた」
全中は三回十点コールド制だからさと黒木は口にした。
「……それで、お前は」
「合わせる顔がなくて、その後野球部には戻らなかった。知り合いが来ない様な突然変異型が集まる高校受験して、野球自体から離れる気だった」
でも、と黒木は続けた。
「ランニングも筋トレもしない日はなんか気持ち悪いし、野球のニュースなんとなく追っちゃうし、全然野球が諦められなくて、マネージャーして雑用でもしてれば野球を嫌いになれると思って野球部に入った」
だから部に入ったのが五月だった。野球を嫌いになる為にマネージャーになったのも、そういうことだった。
「……僕がいたシン百合は、もっと殺伐としてた。僕にはキャプテンや監督、顧問も誰も何も言えない空気があって、自分より下手なやつには何してもいいって感じでいじめもあった。僕はそんなことしてるなら自分も下手なんだから練習しろよと思うだけで、自分はしないけど止めもしなかった。マネージャーもいじめの対象じゃなかったけど、いい扱いとは言えなかった」
だからマネージャーになれば嫌いになれると思ったと黒木は言った。
「でも豆高はみんないいやつで、野球を楽しんでて、マネージャーの僕にも優しかった。キャプテンも、三年が引退したら僕が少しみんなと距離とりたがってるのを察して鍵の開け閉めを僕の役目にしてくれたり、豆中先輩も自分の投球について僕に意見を聞いてくれたり……」
だから、と言って一度黒木は目を閉じて、その後少し眉を寄せながら小さく笑った。
「気がついたら、また野球が楽しくなってた。自分の責任から目を背けてさ」
長打郎は筋が通らないのが嫌いだ。
「黒木の責任って……なんだ?」
「……あんなチームにして逃げてしまった責任。かな」
「逃げたって言っても肩ぶっ壊されてはお前の責任か?」
それは違うかもだけどさと黒木は苦い顔をした。
「投球フォームの話でさ、動きがズレると変なところに負荷がかかって故障するって話あったろ。お前一人が全部背負うから歪んでったチームメイト、お前一人に負荷がかかって肩がぶっ壊されるまでベンチに戻れなかったお前。そうなる前に歪んでるぞ壊れるぞって、教えんのが指導者の仕事だろ?」
筋が通らねぇと長打郎は静かに呟いた。
「お前にとるべきせきにんってやつがあるなら、身体がでけぇだけの中坊(ガキ)に甘えた奴等が悪ぃことに気づかず、お前にまだ背負わせようとしてくるあいつを止めてやることじゃねぇか?」
黒木は長打郎から目を逸らした。
「……篠に説得が通じると思う?」
「黒木がいいなら、俺がぶん殴って止めてやるでもいい」
そう長打郎が言うと、思わずふっと黒木は笑った。
「……確かに、競技で発散させてるとはいえ僕達(デジモン)は戦闘種族だからね。言葉よりも納得させやすくはあるかも」
おいマジかよと長打郎が眉をひそめると、黒木はいつもの仏頂面で長打郎を見た。
「豆板君には殴っていい球をバットで思いっきりぶん殴ってもらう」
「……おい、俺あんま打撃練習してないぞ」
キャプテンの方がいいだろ話聞いてる限りと長打郎が返すと黒木は首を横に振った。
「だからこそ、説得できる気がするんだ」
それから十日ほど経った日曜の朝、臨時で練習を休みにした豆高のグラウンドに長打郎、黒木、篠が立っていた。
「……一打席勝負で俺が勝ったらシン百合に戻ってくるって、本当?」
篠の言葉に黒木はうなずいた。
「シン百合に行く、もし編入試験に落ちても、君に僕に教えられることは全部教える」
篠はそれを聞いて満面の笑みを浮かべた。
投手と打者の一打席勝負というのは、根本的に投手の方が有利だと考えられる。
いい打者を表す言葉に三割打者という言葉がある様に、打者は三回に一度打てれば優れた打者だと言える。投手側が勝負を避ける四球などのそれ以外の出塁も含めた出塁率でさえ、四割行くのは極めて優秀、五割行く選手なんていないほうが当たり前である。
さらに言えば、打率も出塁率も一対一での戦いではなく試合内での記録である。投手は先に打たれていると考えることが増え、盗塁の危険を避ける為にセットポジションというやや窮屈な投げ方を戦略上強いられる。
単純にランダムに出塁するならば、チーム全員の出塁率が三割あってもほとんど点は入らないが、打たれた直後ほど投手が不利になるからこそ、野球は競技として成立すると言っていい。
さらに、実際の試合では簡単に打てない場合には投手を疲れさせることを狙うなど、チームがかりで投手を追い詰めて打てる状況を作り出しに行く。
なんの制限もない投手と打者の一打席勝負は、投手が有利なのだ。
黒木も本当はシン百合に来たいんだ。篠は投手有利の事実を以てそう判断した。
篠は籠に入った硬球を持ってマウンドに上がり、長打郎はバッターボックスに入る。
キャッチャー兼審判として黒木は防具をつけた。
バンチョーマメモンの体格は小さい、人間界の野球ルールではストライクゾーンの範囲は打者の身長に左右される。しかし、デジモンの場合ボールより小さな種などが参加した時に試合進行不可とならない様に、打者の体格が小さすぎる場合、最低限のストライクゾーンの大きさが決められている。
長打郎の場合は、ちょうどその身体がすっぽりおさまるぐらいの高さがそうだった。
ここがストライクゾーンの真ん中になる目印も兼ねて黒木がミットを構える。
それを見て、篠は腕を高く振りかぶった。
リリモンのスラリとした腕が天に伸び、大きな弧を描いて振り下ろされる。
投げた球はまず長打郎の顔面へとまっすぐ向かった。
しかし長打郎がそのまま待っていると、軌道を変えた球は長打郎を避け、ストライクゾーンの長打郎側の端を通ってミットにおさまった。
「ストライク!」
黒木の宣言を聞いて、長打郎は事前に黒木から聞いた話を思い出す。
『中学の時の僕が主に使っていた球種はストレートとチェンジアップの他には主にスライダー、シュート、カーブ、シンカー、フォーク、ナックルかな」
『リリモンってみんなそんなに変化球得意なのかよ』
『世のリリモンがみんな僕と同じぐらいできてたら僕は世代有数の投手にはならなかったね。まして、篠は去年までトゲモンだった。究極体の豆板君なら配球がわかってれば身体能力の差で強引に打てるよ。でも一球目は無視していい。僕の配球を真似するなら、君みたいな究極体相手なら最初は頭狙い気味のところからストライクゾーンに入るように投げてくる』
一球目は黒木の予想通り当たりそうなところから外へ逃げていくスライダーだった。となれば二球目はと考えながら長打郎はバットを構える。
『一球目の目的としてはビビらせるか反発させること。ビビッて引けば離れる球は打ちにくいし、逆に思いっきり踏み込んで来たら体に近い球が打ちにくくなる。反応を見て次の球を決めるわけだけど……逆に言えば、立ち位置で球が誘導できる』
長打郎は少しホームベースから離れるように立ち位置を直す。それを見てから篠は改めて振りかぶる。
篠の手からボールが離れる。投げられたのはストライクゾーンの真ん中から外側に向けて離れていくスライダー。
一歩引いた位置からでも打てそうに見え、しかしいざ振り始めると逃げて行ってバットの先っぽにしか当たらずうまく飛ばなくなる。
そんな球に対し、長打郎はバッターボックスの中で一歩ステップを踏んでバットが届く位置へと移動する。
究極体の身体能力による、セオリーを無視したごり押し。
バットの芯が球を捉え、振り抜いた勢いで球は思いっきり弾き飛ばされる。
その球は篠の頭上を越え、長打郎の腕力で引き寄せられた軌道のままにグラウンドの端、高くそびえたった金網フェンスへと突き刺さる。
その事実が信じられなくて、篠はその場で硬直した。
「……ファウル!」
黒木の声で篠はやっと振り返る。
すると、ホームベースから三塁を結んだ延長線、ファウルラインの左側にポトリと金網からボールが落ちて転がるのが見えた。
ファウル時はストライクのカウントが一つ進む。
ツーストライク、ノーボール。あと一つストライクを取れば篠の勝ち。
カウント上は追い詰めたのは篠の方で、ボールを投げてないから、三球までなら逃げることもできる。
でも、もう篠の顔に笑顔はなかった。
今の長打郎の打ち方で篠は黒木が配球を伝えていたことを知った。
それを知った途端、有利な一打席勝負という条件が、シン百合や自分との関係を本気で断ち切る為に歯牙にもかけてないと示す為かのように思えて、手にじっとりと嫌な汗が滲み始める。
黒木の真似をした配球は読まれる。でも、今の篠の自信がある武器は黒木の真似だけだった。
ストレートは少なく、急速の速いスライダーとシュートを軸に組み立てる投球。
左右に振ったかと思えばフォークで落としたり、カーブでタイミングをずらしたり、でもそれも読まれてるとしたらと考えると篠は何を投げていいかわからなくなる。
黒木があまり投げなかった球、自分が投げられると黒木が想定できないような球。
少なくとも次の一球だけはそういう球を投げなければいけない。そんな考えが篠の頭を支配する。
数を投げなかった球でまず思いついたのはストレートだが、黒木でさえリリモンでは筋力的に打たれやすすぎるからと控えた球を投げる勇気は篠にはなかった。
長打郎は篠が考えている間に構えてバッターボックスに入っている。立ち位置は特にどちらに寄るでもなく、どこに投げても篠には打たれそうに感じた。
ふと、去年のことが脳裏に蘇る。カーブも投げられないグローブをつけた自分の手、どこに投げても打たれるストレートですらない直球。
結果的にワンアウトも取れなかったものの、その中で一度だけ空振りをとれた球が篠にはあった。
呼吸を整え、大きく振りかぶる。
そうして放たれた球は低めに収まるチェンジアップ。
チェンジアップは特に定まった握りのない変化球である。ストレートなどの速度がある球種と同じフォームで投げる速度の遅い球であればなんでもいい。
それは、トゲモンだった時に篠が唯一習得できた変化球だった。
スライダーとならば速度でズレを作れる。
格下なんて気にしてなかった当時の黒木は、自分がチェンジアップを投げれることすら知らなかった筈。ここで投げるとは思わない筈。
しかし、長打郎はそのズレに振り回されなかった。
しっかりと待ち、低めに来たチェンジアップを掬い上げるように打つ。
スライダーのような曲がる回転がかかってるわけでもないその球は、真っ直ぐに高く遠く飛んでいき、センター奥のフェンスに突き刺さった。
「……なんで」
黒木は知らない筈なのに、なんで知ってて読んでるような動きをしてきたのか。
フォームを見れば篠にも長打郎の野球歴の浅さはわかる。純粋な実力として見るには動きに無駄がなさすぎる。
「……君がチェンジアップの練習をしていたのを知ってた。僕みたいに各種変化球を覚えるのはそれだけで労力だ、二球目で打てなかった時、君が頼るのは僕ではなく君自身の武器だと思った」
黒木の言葉がうまく咀嚼できず、篠は頭をがりとかいた。
「俺のことを、見てた? なんで? 黒木にとってあの時の俺達なんてみんな、数が揃えばなんでもいいような有象無象だろう?」
黒木は何もそれに返さなかった。そう考えていたことは否定できなかった。でも、そう考えていたのと実際にそう扱っていたのとはまた別だった。
「……篠は僕じゃない。仮に僕が戻っても篠は僕にはなれない、今の僕も過去の僕とは違うから、肩が治ったとしてもあの僕にはならない」
黒木の言葉を聞いて、長打郎は手に持ったバットを見る。
改造も何もされてない、純粋に野球に使うためのバット。
しかたなく部活に入ってからまだ半年も経ってない。
気に食わない教師の授業はサボるものの、クラスにも普通に通うようになった。
長打郎自身が明確に変わろうとしたわけでもないのだが、変わっていたのだ。
打ちひしがれる篠に、長打郎は歩いて行ってばしっと一回その背中を叩いた。
「……なんだかんだ、ひりついた勝負で楽しかったぜ。今度は試合でやろうな」
ぽかんと思わず口を開けて篠が長打郎を見ていると、黒木がぷっと吹き出した。
「それも、いいかもね。今度は変なものは賭けないで、楽しく真剣にやろう。どんな形でも」
そう言って、黒木は篠に手を差し伸べ、篠は黒木の手を握る。
その時のお互いの表情は、お互いどこか疲れていてどこか爽やかだった。
まだ少し暗い冬の早朝、豆門高校グラウンドの一角に二体のデジモンがいた。
「おい、今のはちゃんと曲がってたよな!」
長打郎がそう聞くと、そばで見ていたリリモンは首を横に振った。
「何度も言ってるけど、その投げ方だと曲がっても手首や肘を壊すんだって」
黒木の言葉に長打郎はそう言われてもなぁと足元をならす。
「チェンジアップとフォークはできたのに、カーブやスライダー、曲げる変化球はさっぱりできる感じがしない……マメモン系ってカーブ投げられないの?」
「んなことはねぇ、はず……」
長打郎も少し不安になってそう口にすると、ごめんってと黒木が謝った。
「一回休憩挟んだ方がいいんじゃないか! 例えば猥談とかして」
そう、二人の肩を抱える様にしながら馬鹿は二人に話しかけた。
「バカ王子キャプテンは流石、素晴らしい叡智ですね」
「キャプテンはバカじゃないよ、エッチは好きだ」
馬鹿の発言にやっぱバカだろと思わず長打郎は呟いた。
「そういえば、さっきあっちに水筒取りに行った時、黒木が何フェチかで賭けてたのが聞こえたが、答えを聞きに来たのか?」
賑やかな空気に誘われてか、豆中も投球練習を中断して近寄ってくる。
「……豆中ぁ、それ先言われたら黒木が話してくれないだろ〜? ちなみに今の所の内訳は、尻が五票、指が三票、金属光沢が二票、丸さが二票だな」
「十二人も参加してんのかよ」
そんな馬鹿達に、黒木ははぁとため息を吐き苦笑した。
「……僕は、葉っぱの色が濃い緑に少し紫が混じるぐらいの感じが好きなので、強いて言うなら葉っぱの色フェチです」
黒木がそう言うと、馬鹿は一瞬目を丸くした後、にやぁっと笑った。
「それは、あれだよな? 多分一番近いのは金属光沢だよな?」
「金属光沢は特になにも思わないです。全員外れたので賭けた金だけ全部僕にください」
黒木はそう笑って言った。
「いや、じゃあこれは流そう。我が部にはまだ他に一人猥談に一向に参加してこなかった部員がいる……なぁ、豆板く〜ん。みんなから意見聞いたら聞きにくるからな〜!」
そう言って馬鹿は様子を窺っていた部員達の元へと戻っていく。
時折葉っぱの色フェチってなんだ? わけわからん、そんな性癖僕のデータにはないぞ、などと聞こえてくるのを、長打郎は冷ややかな目で見ていた。
「……答えないが?」
「……答えようよ豆板くん。先に僕にだけニッチな答えを教えておいてくれれば、賭け金全取りできる」
「最悪だなお前……」
「まぁ、言わなくてもわかるし、僕も参加してこようかな」
そう言って黒木は軽い足取りで部員達の方へ駆け寄っていく。
「……豆板、ちなみになにフェチなんだ。俺は、逆にちょっと歪んでる球体が好きだ」
「……強いて言うなら、糸目とか、好きだけど」
なるほどなと豆中は深く頷いた。長打郎を連れてきたシャッコウモンの土宮の姿が頭に浮かぶ。
長打郎の顔を見て、もう一度なるほどなと豆中は深く頷いた。
「多分、黒木は本当に当てるな……」
その後、黒木だけが糸目と回答し、勝った金で黒木と豆板と豆中はラーメンを食べた。
あとがき
なんとか書き上げたのですが、なにを書いたんだろうこれ私、ともなっている企画発案者のへりこにあんです。
忙しい年の瀬にアンケート企画と単発作品企画を被せるなと言われたら、もうなにも言えないのですが、十月から半年目処となると、新年迎えたら企画は一つか二つだろうなと思って先んじて企画始めさせていただきました。
へりこばっか企画立ててるイメージあるので、最後は他の人がなんかお祭り企画立ててくれたらいいなぁと思ってます。相談にはできる範囲で乗りますのでね。
遅くなりましたが、『マメモンはカーブを投げられない』を読んでいただきありがとうございました。
本当は、リリモン達が飛んで守るシン百合外野陣とか、ボールが破裂する寸前の圧をかけた投球をすることでバッターが打つと球が弾けてプレーが止まる為に見送るしかなくなって競技性が失われた為にボールが破裂する速度で投げてはいけないルールがあるとか、ティンカーモン九人で無限フォアボール戦法を取ったチームがリーグ優勝したために本編で書いたルールができたとか、そもそもなんで野球してるかと言えば戦闘本能を抑えることで弱肉強食から逸脱しようと言うイグドラシルの試みが前提にあって云々とかいうデジモン野球のとんでも歴史も書きたかったし、黒木の肩を壊したオメガモンと戦う話も書きたかったのですが、残念ながら私の技量が死んでて試合さえできませんでした。悲しいね。
自分でもよくわからないお話になってしまってなんだろうと思いつつ、途中途中の猥談とかで笑ってもらえればいいかなと思います。
みんなはちゃんと時間とって一発ネタに固執してがんじがらめになる前に色々試そうね!
では、改めまして読んでいただきありがとうございました。