「だとしたら、さっきの質問の答えは、『羨ましい』になるのかな」
黒い髪をややぱっつん気味にした、どこか影のある、黄みがかかった瞳の女性は、呟くようにそう言って微笑んだ。
少女と兄の関係を異常だと指摘したり、否定したりしなかったのは、思えば、彼女とそのパートナーが初めてで。
少女にとって、その女性は『サンプル』だった。
その女性は最愛の兄に少しだけ似ていた。兄自身から交流を勧められたというのもあるが、彼女を知れば、もっと兄の役に立てるのでは無いかと少女は考えたのだ。
一緒にショッピングをして。
ボール遊びをして。
風邪の時にはお見舞いに行って。
……2人で肩を並べて、世界を救った。
一番は兄だ。それは、今でも変わらない。
だけど、兄を知るための資料に過ぎなかった彼女は、気がつけば唯一無二。……今まで知りようも無かった、新しい「かけがえのない存在」となっていて。
「友達になってください」とひっくり返りそうな声で頭を下げて。
「なります」と答えた後も、不安そうにしていた彼女の顔を、『私』は今でも、よく、覚えている。
*
「……」
目を覚ました三角がゆっくりと顔を横に向けると、白い壁にもたれ掛かった玻璃が、うつらうつらと舟を漕いでいて。
「ばーう」
「……おはよう、バウモン」
三角の覚醒に勘付いて、掛け布団の中片ひょっこりと顔を出したバウモンに、彼は表情を綻ばせた。
と、2人のやりとりが耳に届いたのか、はっ、と玻璃もまた顔を上げる。
彼女は咳払いをしてから、三角に向かって頭を下げた。
「おはようございます、三角。……すみません、テイマーの覚醒も待たずに眠りかけてしまうとは」
気を抜くといつもこうです。どうにも睡魔に弱くて、と、玻璃は僅かに頬を赤らめる。
思いがけず除いた彼女の人間らしい一面を微笑ましく思いながら、三角はバウモンを膝に乗せつつ身体を起こした。
「謝るのは、こっちの方だよ。……あの後、また気を失ってたんだね」
辺りを見渡すと、どうにも(当然のように未来感の薄い)一軒家の内部らしい。家具類を端に寄せた居間の中央に、ラタトスクから持ち込んでいる簡易ベッドが展開され、三角はその上に寝かされていた。
外には、既に夜の帳が降りている。
「ワゴンを停めさせてもらっているおうちです。例のごとく不法侵入ですが、大目に見てもらいましょう。「きっと多分恐らく大丈夫」との事ですが、あの馬門の言う事ですし、ミラーカさん自身からの提案でもあるので……」
「?」
「ああ、すみません。順を追って説明しますね」
対ネオヴァンデモン―――多島柳花&ピコデビモン戦最大の功労者とも言える野良エインヘリヤル、バーサーカー・ミラーカは吸血鬼としての性質を強く持ち、その影響もあって、夜間になると狂化度が上昇する事。
そんなミラーカに、「理性を保ったまま吸血鬼の力を上昇させる力」でもある『霧の結界』の解析データを馬門が渡した事。
『デジモンプレセデント』の世界においてはドラキュラ伯爵や女吸血鬼カーミラにも匹敵する『実在の吸血鬼』でもある『1999年のヴァンデモン』の『前例』に則って、ミラーカも自力で結界を自身の周辺に展開する術を獲得できたものの、初めて使う技術故に不安も残るので、調整も兼ねて1人にして欲しいと屋外に居る事。
「「吸血鬼は初めて訪れた建物には、招かれないと足を踏み入れることが出来ない」……という伝説はご存知ですか? 三角。私は知らなかったのですが」
「えっと……漫画か何かで聞いたことがある気がする」
「ばーう」
頭に浮かんだ吸血鬼がグランドラクモンだからか、訝しげな表情でひと鳴きするバウモンに2人してくすりと笑って、しかしすぐに表情を改めて、玻璃は続ける。
「ミラーカさんは、そういった『吸血鬼伝説』の影響を強く受ける代わりに、人間離れ―――いえ、エインヘリヤルである以上、この表現はおかしいのかもしれませんが―――兎も角、凄まじい力を振るう事が出来る、と、考えてもらえれば良いかと」
詳細は名城さんがデジヴァイスにも送信している筈です、と聞かされ、早速確認する三角。
「『ドレンチェリーを残さないで』」
例のごとく、名前しか知らない作品だ。
だが、そのタイトルには覚えがある。
相違点Dからの帰還直後。展開された「相違点化している作品」の列の中に、確かに、その名前が―――
「……強力なエインヘリヤルが増えたのは良い事なのに」
ぽつり、と玻璃が零した言葉に、三角の意識が引き戻される。
彼女は複雑そうな表情を宿しながら、口元には、あの片側だけを持ち上げる特徴的な笑みを湛えていて。
「「嬉しい」と。そう、言い出せないのです」
「……それは、多島さんの事で? それとも―――」
「両方、ですね。……やるべき事は一つだと理解しているのに。沢山の気がある。……ダメなエインヘリヤルです、私は」
「……」
「あいつ―――馬門は配慮のハの字も無いカスですが。……ある意味では、あの薄情さは見習うべきなのかもしれません」
―――三角が気を失う少し前。
シフの宝具を解除し、どっと押し寄せた負担に耐える中で、三角は既にエビバーガモンとバーガモンの姉妹について、玻璃や名城、そして糞山の王から聞かされている。
集落の襲撃者―――セイバーの京山玻璃ともう1体のレグルスモンの足止め、という意図を、エビバーガモン達が持っていたかどうかはわからない。それはあくまで、ラタトスク側が後付けした理由である。……彼女達は、「お客さん達」を護るために戦ったのだ。
だが結果として、2体のお陰でミラーカはラタトスクへの協力を承諾し、加えてダスクモンとネオヴァンデモンの合流という最悪の事態は避けられた。
「チビどもはよくやったよ」
不機嫌そうに眉をひそめ、鹿賀颯也を―――そして生存していたという風峰冷香を仕留め損ねたベレンヘーナを持て余すようにくるくると回しながら、戻ってきた糞山の王がぽつりと呟く。
それでも、数日を共に過ごした小さな小さな同胞達の死は、どうしようもなく三角達の疲れ切った身体に重くのしかかる。「絶対あのお姉さんにも勝ててたし!」と既にリュックに納めたギギモンの満身創痍を誤魔化すように馬門相手にむくれていたヒトミも、今では表情に悲痛を隠すこと無く、うなだれている。
……そんな時だった。
うんうんと頷きながら、姿をすっかり人間のものに戻した馬門が彼らの前に躍り出たのだ。
「でも、ま。戻ってきてくれたのがキミ達で良かった」
そうして、涼しい顔で、空気を凍り付かせるような事を言う。
「……え?」
「キミ達だけでも戻ってきてくれて良かった」ではなく、「戻ってきてくれたのがキミ達で良かった」
言葉の違いを飲み込んで三角が顔を上げた時には、もう既に、玻璃と糞山の王は馬門を睨み付け、シフとヒトミは困惑に、ミラーカはただじいっと、眼差しを馬門の方へと投げかけていて。
「馬門……! エビバーガモンとバーガモンは」
「そりゃもちろん回復リソース係を失ったのはかなりの痛手だけど、多島柳花とピコデビモンが脱落した以上、総力戦の時は近いと考えられる。戦闘特化のキミ達が欠けるよりは随分とマシな落とし所だと思ってね」
穴の空けられた首筋を僅かに気にしながら、馬門がいつも通りに軽薄に笑う。
「もっと―――もっと他に言葉は無いのですか! 貴方という人は!!」
「泣いて喚いて嘆いて悼んで感傷に浸れば、2体が生き返る訳でも無いんだから。ポジティブに考えておこうと思ったのだけれど。ボクの台詞はそんなに間違ってるかい?」
「っ、馬門―――」
その時。
ずどぉん。と。腹の底まで響くような銃声が1発。
弾丸が馬門の隣を駆けていったと気付いた三角が慌ててその出所を追えば―――糞山の王が構えたベレンヘーナから、か細い煙が立ち上っていて。
「あー、わり。俺様今ちょーぜつ虫の居所が悪いので。その手の『無価値』な駄弁りを続ける気なら、次は手元が狂うかもしんね」
「ふぅん。キミでもそういう事あるんだねえ、アサシン」
「あの、テイマーさん。この人海産物臭いですか、ひょっとして」
「いっひっひ、昔はよく言われたよ」
―――マズい。
元々祝勝モードとはほど遠かったとは言え、一瞬でギスギスと最悪に陥った空気感に、気の利いた言葉を探そうとどうにか頭を回す三角。
だが―――そもそも限界であったのに加えて、未だ慣れない銃声が、いよいよ堪えて、緊張の糸がぷつんと切れてしまったのだ。
「……先輩?」
世界が、ぐるりと回って、暗転して
「先輩!!」
それから―――
「馬門を弁護するのは心の底から不本意なのですが。……あいつの言いたい事も解ります。というより、以前の私なら、きっと同じように考えていたでしょう」
三角は回想する。馬門が、自分の身を挺してまで、三角達を逃がそうとした事を。
自分の命に簡単に価値を付けられるが故に、共に過ごした仲間の命でさえ、同じように勘定出来てしまう。
そうなるのは―――どれだけ覚悟を決めたとしても、嫌だなと。
今の三角は、そう考えてしまう。
「玻璃」
「はい」
「エビバーガモンとバーガモンは。……ネオヴァンデモン―――多島柳花さんとピコデビモンも。玻璃の、友達だったんだよね」
「……はい。正確には、この相違点の柳花とは、「友達になろう」と言葉を交わした訳では無いのですが」
それでも。と。玻璃は夜の空を窓越しに見上げる。
吸血鬼の時間。吸血鬼の空。
「エビバーガモンとバーガモンとも、もっと沢山、話したい事がありました。結果的に彼女達の犠牲が『正解』だったとしても―――やはり、置いて行かれるのは、堪えます」
「……」
三角は改めて、玻璃の隣に並ぶ。
彼女が、友の在るべき位置と定めていた場所に。
「ヒトミちゃんが」
「?」
「戦ってる最中も迷ってばっかりの俺に、教えてくれたんだ。「いっぱい悩もう」って。「悩む筋合いのないことで悩んで、決める筋合いのないことまで決めて、苦しむ必要の無いことで、ずっとあとまで苦しもう」って」
「……ヒトミは、強いですね」
三角は、大きく頷いた。
それだけは、今の彼にも迷わずに肯定できる事だ。
「俺、皆の足を引っ張って、余計に危険にさらしてばっかりだった。何も出来なかったし、ネオヴァンデモンの言う通り、俺は誰かを助けたいって言いながら、結局この世界を消そうとしている偽善者で」
「……」
「でも、でも、俺さぁ。……家に帰って、ハンバーガー、食べたいんだ」
エビバーガモンとバーガモンが教えてくれた、世界の救済とはまるで無縁な、ただただ素朴で率直な気持ちを、三角はここで静かに吐き出す。
「だから。……うまく言えないんだけど。戦うよ、俺。足手纏いでも、偽善でも、最低でも。……当たり前に、帰りたい場所のために」
「ババロア」
不意に差し込まれたケーキの名前に、思わず目を点にする三角。
見れば、三角の横顔を眺めながら、玻璃がまた、小さく微笑んでいて。
「『デジモンプレセデント』の最終決戦の時に、柳花と約束したんです。終わったら、食べに行こうと」
「!」
「そうですよね。……それで、そんなのでいいんですよ。世界を救う理由なんて」
「戦いが終わったら食べたいものがある」……思わぬ共通点を前に、三角と玻璃は、どちらともなく噴き出した。
バウモンが、ばう! と、笑いの輪に交ざるようにして、2人に軽く吼える。
「ありがとう、玻璃、バウモン。……ちょっとだけ、楽になった気がする」
「私もです、三角。戦いの前に、貴方と話せて良かった」
結局は強がりに過ぎずとも。
この先も、何度も迷い、過ちを重ねようとも。
『友達』が教えてくれた事は、今、こうやって、2人の胸に刻まれる。
「……さて」
玻璃がその場から立ち上がる。バウモンを肩に乗せて、三角もすぐにその後に続いた。
「何か、やりたい事があるようですね、三角」
「うん。……今の俺に、出来そうな事」
「了解しました。大事の無いよう警戒はしていますが、お邪魔はしません」
ご武運を、と。玻璃は三角を送り出す。
三角はそのまま、玄関へと向かった。
*
「おや、これは思いもよらないお客さんだ」
テイマーのところに居なくても良いのかい? と、部屋から顔を出した三角が、自分を訪ねてきたシフへと問いかける。
シフは蜂蜜色の瞳を幽かに揺らした後「馬門さんにお話があって」と話を切り出す。
「大した用では無いので、お疲れであれば……」
「心配ないよ、見ての通りピンピンしてる! 京山先生のところからアホほどアンプルをかっぱらってきた甲斐があったよ。シフ、キミにも分けてあげようか?」
「あ、いえ。私は。……というか、それは大丈夫なのでしょうか?」
「大丈夫大丈夫! まあアンプルは要らないにせよ、折れた腕の事もある」
お入り、と招かれて、シフは今現在馬門が1人で使っている部屋へと足を踏み入れる。
子供部屋のようだ。学習机が壁際に置かれており、壁の所々にはシールが貼られている。
「んじゃ、ここに座って」
椅子に腰掛けて、促されるまま腕を差し出す。
彼女の細腕を眺め、軽く自分の指で押したりしながら、馬門はシフの怪我を確認する。
「ん~、うん。専門じゃ無いからなんとも言えないけど、宝具の解除と共に、退化に近い現象が起きてるのかな? うーん、興味深い! ……痛みの方は?」
「えっと、大丈夫です。動作についても、問題ありません」
「そりゃ良かった。凍傷にでもなられたらどうしようかと、ちょっと心配してたんだ」
それで、話って? と、シフの腕に後遺症が無いと見るや否や、馬門はすぐさま話題を切り替えた。
ええっと、と。対するシフは、切り出しにくそうにして。……たっぷりと間を置いてから、恐る恐る、口を開く。
「馬門さんに、聞きたいことがあって」
「ボクにかい? 酔狂だね」
「昼間のやりとりの件で……」
昼間のやりとり。
エビバーガモンとバーガモンの死に対する、配慮に欠けた考察・理由付け。
「私には。……馬門さんの言っている事が、そう間違っているとは、思えなかったんです」
てっきりラタトスク陣営として輪を乱すなと糾弾の類が飛んでくるとばかり思っていた馬門は、目を見開く。
「……続けて?」
「だって、エビバーガモンさんとバーガモンさんは、向こうの玻璃さんの到着を防いで、ミラーカさんが手を貸してくださるきっかけを作ってくれました。そのお陰で、先輩も、私達も、助かって―――彼女達はそうやって、「自分達の役割」を果たしてくれたのに」
「……」
「もちろん、お2人が亡くなったのは悲しいです。でも、それはお2人の選んだ最善の方法で、だから、ポジティブに捉えられるならば、それに越したことは無いと―――そう、思ったんです。後悔したり、嘆いたりするのは、違うんじゃ無いかって」
だが、思い返される三角を始めとした仲間達の顔は、とても「ポジティブ」とは言えない表情ばかりだ。
そして、シフ自身。うつむき加減の顔には、そういうものを湛えている。
馬門はしゃがみ込んで、そんな彼女と視線を合わせた。
「違う、違うよ、シフ」
「?」
「ボクみたいなひとでなしの所感と、キミのその、読者としての感性……「登場人物に対するリスペクト」を一緒にしちゃダメだ」
首を横に振り、馬門は笑った。……ような、顔をする。
シフが、首を横に傾けた。
「リスペクト……ですか」
「だってキミは、ランサー達の事が好きだろう?」
「! もちろんです。『其処はきっとティル・ナ・ノーグ』シリーズに登場する彼女達は、優しくて、愛らしくて、それでいてパワフルで……」
「だから、そんな愛すべきキャラクターのエインヘリヤルである彼女達の死を、キミは無意味にしたくなかった」
シフが、目を瞬かせる。
それから、彼女は小さく頷いた。
「でもボクのそれは違う。ただただ残された『結果』を読み上げただけ。少しでもテイマーの慰めになれば良いと思わなくは無かったのだけれど、いっひっひ。結局逆効果だったしねぇ」
「それは……」
「悪く思わないでくれよ。有意義な死とはつくづく無縁な男なのさ、ボクは」
馬門志年。
パートナー殺しの、マッドサイエンティスト。
「多島はキミの読者としての視点を「安全圏からの物言い」と一蹴したけれど、安全に読書も出来ない環境はクソだって事ぐらいはボクにも判る。キャラクターの一挙一動に一喜一憂して、あれこれ勝手な考察に思いを馳せて、「もしも自分が物語の登場人物だったら」と夢を見る。そんな読者がランサー―――エビバーガモンとバーガモンの物語は「素晴らしかった」と称するなら。心配しなくても、彼女達の生き様は、ちゃんと意味を持てるのさ」
キミは、そんな読者達の代表だろう? シェイプシフター。
……そう言って、パートナーの死に意味を作ることすら出来なかった『キャラクター』は、穏やかに微笑む。
「それは、「私の決めるべき事では無い」のでは?」
「けっこう筋金入りの『デジプレ』読者だね? キミ。……でも、物語に対して何も感じなかったり、感じたとしても伝えてくれない読者っていうのは、クレーマーと批評家の次くらいに作者ウケが悪いものだろう? 沢山感じて、考えて、伝えればいいのさ。キミの想いってヤツを」
「……」
「エインヘリヤル(ボク達)がラタトスク(キミ達)に手を貸すのは、キミ達がそういう存在だと期待してるからなんだぜ?」
にやりと笑って。
だがすぐに、どこか呆れたようにやれやれと頭を横に振って、身体を起こした馬門は、その身をベッドへと投げ出した。
「おじさんが説教臭い事言っちゃったね。話半分で流して、キミもそろそろ割り当てられている部屋で休むといい。ボクもちょ~っと今日は疲れちゃったし!」
「……ありがとうございました、馬門さん」
上向きになったシフの顔を改めて見やることも無く、寝転んだままひらひらと手を振る馬門。
ぺこり、と一礼してから。彼女はそっと部屋を後にする。
「……いっひっひ。柄にも無い真似ばっかりだ」
1人になって、馬門はまた笑う。
そのまま、目を閉じようとして―――しかしまたしても、扉をノックする音が鳴り響いた。
「? シフ、忘れ物かい?」
「……私です」
扉の向こうから聞こえてきたその声は、玻璃のもの。
特に出迎えるでも無く、馬門はそのままの姿勢で目を丸くする。
「へえ、珍しいこともあるもんだ。キミも、ボクに何か用?」
「聞きたいことがあるんです」
若干不本意そうなその声音に。馬門はますます口の端を持ち上げる。
「さっきも聞いたような台詞だなぁ」
どうぞ。と。彼は玻璃に入室を促した。
*
「そ、その……」
月の色をした瞳の奥。小豆色の髪を独特のツインテールにした少女は、その山羊にも似た長方形の瞳孔で、じっと目の前のカエルに似たデジモン―――ゲコモン・鹿賀颯也を、見つめていた。
数分前から、ずっと。
穴が空くほど、という表現は、まさしくこんな時のためにあるのだろうな、と。向こうはエインヘリヤルとはいえ、基本的には人間にしか見えない少女―――アサシン・中舞宵相手に、ゲコモンは身を竦ませている。
睨んでいるような。値踏みするような。……どこか悲しそうな舞宵の眼差しに、かける言葉を探しながら。
「君。……柳花ちゃんと、友達だったんだね」
舞宵の目が、僅かに見開かれる。
彼女が颯也をつぶさに観察していた理由はまさしくその点にあるが、直接彼にその事を話した訳では無いのだ。
「りゅーちん。まよのこと、何か言ってたの?」
「ううん。でも、君の態度を見れば解るよ。……ごめん、一緒に帰ってこられなくて」
「そう思うなら、どうして1人で帰ってきたの!?」
「……」
颯也はただ俯いて、答えない。
しびれを切らした舞宵が「馬鹿ぁ! もう知らない!」と怒鳴って颯也に背を向け、自室として宛がわれている部屋に向かって半ば欠けるように歩き始める。
颯也はやはり弁明も、彼女の後を追うような真似もしなかった。
「舞宵。こんな時だからこそ輪を乱すような真似をしてくれるな。奴とは次の戦いで」
「や! だぁりんのお願いでも聞いてあげない!」
「お前が私の話を聞く事の方が希だろう」
「なによう……」
部屋に着くなり、舞宵はベッドに身を投げ出す。
机の上に並べてあった、死人じみた青白い肌にも良く馴染みそうなコスメセットの方には、間違っても顔を向けられそうに無かった。
「全然だぁりんみたいなかっこいいデジモンじゃないし、強そうじゃないし、有名人のオーラも無いし、だぁりんみたいにかっこよくないし……」
「それはさっきも聞いた」
「……りゅーちんの話、してくれないし」
柳花と、もっと話をしたかった。
だから、せめて柳花の話を颯也から聞きたかった。
なのにどちらも、叶わない。
ほとんど暴言だったに違いない舞宵の言葉にも、颯也は怒りすらしなかった。
大事な仲間を失ったんだと声を荒げても良かった筈なのに、むしろ、友達を失ったのかと舞宵を気にかけていた。
「なんなの、それって。もっとりゅーちんの事、特別扱いしても―――」
―――私は、私を特別だと思わない鹿賀さんが、好きだったんだと思います。
「―――っ」
颯也は、ただ1人。怪我一つ無く、この拠点に戻ってきた。
誰かが護らなければ、庇わなければ。……エインヘリヤルを相手にして、そんな芸当が、果たして可能なのだろうか。
そして―――彼の側には、彼のことが好きな女の子が、居た筈で。
「……まよ、わるい子かもしれない」
舞宵はそのまま、枕に顔を埋める。
「今に始まったことじゃないだろう」
ネオヴァンデモンのツッコミは、しかし、いつにも増して、静かなものだった。
*
「デーモンとベルフェモン:レイジモード。この2体の『怒り』の概念の違いは解るかい? 鈴音ちゃん」
自分の問いに対して返ってきた、一見何の関連性も無いような質問に、しかし鈴音は律儀に、あるいは新たな知識への好奇心に、ううんと首を捻る。
「何分、聖解から与えられた知識以上のデータが無いからね。七大魔王―――それ以前にデジモンの「くくり」だなんて、今のところ私達の世界には馴染みの無い概念だから。こちらに召喚された暴食の魔王とやらも、結局「目つきが悪い」以上の情報は得られないまま退場してしまったし」
ただ、推測する事は不可能では無いと鈴音は続ける。
『憤怒』の魔王と、『怠惰』の魔王。デーモンは兎も角、ベルフェモンの本質は『怒り』にある訳では無いのではないか、と。
「概ねそんなところさね」
やっぱり優秀だねぇと、どこかやるせなく微笑みながら、環菜は頷く。
「『怠惰』の魔王は、怒りの原因を考える事すら億劫だから、ただ怒りに任せて目に映る全てを排除するために暴れ回る。一方で『憤怒』の魔王は、己の怒りを正確に表現するために、ありとあらゆる策略の限りを尽くす。……もっとも、これは研究の結果とかじゃなく、アタシ達の作者が『デジモンプレセデント』より後の作品―――確か、バーサーカーの出典だったかな? で触れた考察に過ぎないんだけどね」
「ようするに、環菜さん……というより、環菜さん達にとって、『怒り』とはそういう概念である、と」
「ま、アタシの場合結局暴走しちゃったワケだから、断言できる自信は無いんだけどさ。……でも、あの時もやれる事はアタシなりにやり尽くした。だから、アンタのその、「環菜さん、意外と冷静だね?」に対する答えは「全然冷静じゃ無いけど、最高火力で怒りを爆発させるために今は下準備にいそしんでいる」になるってワケ」
そうして環菜は、鈴音の元の問いに答える。
その昏い瞳に、透明な炎を這わせながら。
「なんだか他人事とは思えないね。いや、他人の話なのだけれど」
「ん? なんだい、鈴音ちゃんの世界にも居るのかい? 復讐者(アヴェンジャー)になりそうなヤツ」
「ええ、まあ」
「そりゃあ、敵でも味方だとしてもご愁傷様だね」
面倒臭いよ、復讐者は。と。それこそ他人事のように環菜は笑う。
覚えておくよ、これに関しては教わるまでも無さそうだけれど。と、面倒な体験でも思い出したのか、鈴音は肩を竦めた。
「とまあ、そういうワケだから、アタシにはいつも通りに接してくれて構わない。というか、今の内だよ、アタシといつも通り楽しくお喋りしたいなら」
「じゃあお言葉に甘えて、引き続き。その『実験』を見学させてもらう事にしよう」
鈴音が覗き込むのは、環菜がコーヒー片手に操作しているコンピューターのウインドウ。
様々な数値と一緒に、とあるデジモンとブラックウォーグレイモンのドットが並んで表示されている。
「まさかアタシが―――クロちゃんがこの姿で召喚されている事が、こんな形で役に立つとはねぇ」
「ひょっとすると、それも聖解の計算の内なのかもしれないね」
「風が吹いたら桶屋が儲かるヤツみたいだね。柳花ちゃんと舞宵ちゃんの交流が無ければイビルビルの運用はデビドラモン止まりで、アタシがこの姿で無ければ、レグルスモンもまたそこで終わりだった」
一度手を止めて、マグカップを置いた手で頬杖をつきながら、環菜はもう1体のデジモン―――レグルスモンのドットを眺める。
「柳花ちゃんとピコデビモンは、そういう事しちゃう子達だよ」
皮肉にも。
「この」環菜がアヴェンジャーとして、今現在『復讐』を目的に十全に能力を発揮できているのは、柳花とピコデビモンが死んでしまったからに他ならない。
弱った自分達が逃げ帰るよりも、あえて帰らない方が、回り回って味方陣営の強化に繋がると。……冷静に判断したに違いないのだ。ネオヴァンデモンは、将として。
柳花とピコデビモンは、『デジモンプレセデント』本編中でだって、環菜の復讐を、けして否定したり、止めようとはしなかった。
「ばっかだねえ。だからって自分達が「復讐の理由」になってちゃ世話無いだろうに」
……柳花が戦闘中もずっと環菜を気遣っていたらしいという話は、既に戻ってきたデビドラモンからも聞いている。
そんな真似はしなくても良かったのにと嘆くには、環菜自身、物語の中で勝手な真似を、やり過ぎた。
「だからこそ、アタシは今度こそ、あの子達の献身に応えなきゃ行けない。……手伝ってもらうよ、アーチャー・逢坂鈴音」
「もちろんこの陣営のエインヘリヤルとして協力はするけれど、あまり私に崇高な理念を期待してもらっても困るよ環菜さん」
「ふふん、素直でよろしい。アンタはそれでいいよ。自分に正直に動いてるヤツの方が、復讐で自分を見失ってるヤツよりはいくらか頼りになるものなのさ」
ふんと自嘲気味に鼻を鳴らして、作業を続行しようとする環菜。
……だが、その時だった。
「環菜」
不意に部屋の扉が開いて、顔を覗かせたのは、スーツの男。
帰還した京山玻璃や、ゲコモン―――鹿賀颯也を回収した風峰冷香を含めたメンバーにネオヴァンデモンの敗北と死を告げ、動揺するメンバーに近く訪れるラタトスクとの決戦に向けた準備を促し、恐らく今に至るまで妹を宥めていたのだろう彼は、至って平常通りの声音を環菜へと向けている。
「よっ、メルキューレモン。玻璃ちゃんは寝付いたのかい?」
「ええ、どうにか。……話があるのですが、お時間の方は」
「見ての通り実験中だよ。……なんてね。断ったりなんてしないよ。だからレディを誘うなら、ほら、もっと堂々としな」
悪いね、鈴音ちゃん。と、環菜は立ち上がる。
「そんなに長くはかからないと思うから、パソコン、見といてくれる?」
「構わないけれど、触った方が良いタイミングとかはあるのかな?」
「爆発しそうになった時とか」
「うーん。流石の私も、爆弾の処理はちょっと荷が重いな」
冗談だよ、とからから笑って手を振って、簡単な操作を指示してから、スーツの男に続いて環菜は部屋の外へ出る。
「それで、話って?」
「言うまでも無く、多島柳花とピコデビモンの事で」
「……」
「ワタクシは、……アナタや鹿賀颯也に、……そして玻璃に何と詫びていいのかすら解らない」
「いいよ、謝ってどうにかなるハナシでもないし、実際アンタの責任じゃ無い。カジカPだって、アンタを責めたりはしなかっただろう?」
「ネオヴァンデモンを殺した野良エインヘリヤルを放置する判断をしたのはワタクシです」
「手ぇ出したら他の誰かが死んでただけさ。柳花ちゃんが勝てない狂戦士なんて、真っ当な神経してたら触らないだろう」
「……」
「アンタさぁ。いい加減策士キャラは向いてないって、自覚したらどうなんだい」
環菜は、
……泣きそうに顔を歪めていたスーツの男を、自前と、そうで無い方の指を彼の背中に回して、そっと抱きしめる。
「素直に「疲れたから甘えたい」の一言くらい言えば良いのに。ホントに可愛げの無い」
「環菜」
「よしよし。もうアンタだけに背負わせたりしないから。……そのために、この霊基で呼びかけに応じてやったんだから」
子供をあやすようにぽんぽんと背中を叩くと、ついにスーツの男が膝を折る。
「ワタクシは……ワタクシは」
性質上、スーツの男が涙を流すことは無い。
それでも、言葉は詰まり、声は震える。
「また。また、失敗する。間違える」
「……」
「間違えた『前例』通りに、玻璃も、あの娘の大切なものも、全部、全部―――また、失ってしまう……!」
ひび割れた嘆きに、環菜は一層強くスーツの男を抱きしめた。
「そうならないためのアタシ達だっつってるだろうに……」
尚のこと、環菜はスーツの男を責める気にはなれなかった。
むしろ脳裏を過るのは、この世界本来の『自分』の事。
……彼を「こう」してしまったのは京山玻璃でも。
止めを刺してしまったのは自分だろうな。と。
大切なものを失って心の欠ける、痛みですら無い感覚は、『デジモンプレセデント』の中では自分が誰よりも理解していた筈なのに、と。
「大丈夫。……大丈夫。そうはならない。だってアンタは、アタシ達は。ちゃんと取り返したじゃないか」
「……」
「ラタトスクの奴らを倒せば、また全部元通りになるって。そのための聖解―――そして」
環菜は白衣のポケットからスマホ型デジヴァイスを取り出す。
その画面に表示されるのは、かつての敵から奪った炎と風のスピリット。
「スピリットだろう?」
……否。
聖解に呼ばれたエインヘリヤルであり、この姿ではスピリットの研究者でもある環菜は、「完璧な願望器」などどこにも存在しないと知ってしまっている。
聖解に祈っても、全てのスピリットを揃えて所謂リブートを発動しても。……多島柳花とピコデビモンは、本当の意味では帰ってこないと。
そうでなければ―――復讐者など、生まれる筈も無い。
それでも環菜は、飴のように甘い嘘で、心の壊れた男をあやす。
これ以上、彼の、彼ら兄妹の『物語』が壊れないように、彼女はここにいるのだから。
かつて彼が、自分にそうしてくれたように。
「……そうですね」
力なく頷いて、スーツの男は立ち上がる。
自然と、環菜の手も彼の背から離れた。
「お手数をおかけしました。大分落ち着きましたので、もう、大丈夫です」
「……嘘じゃ無いんだろうけど、アタシを安堵させるには程遠い顔だねぇ」
だから、いつでも来な。と、環菜は滑り落ちた手を改めて持ち上げ、スーツの男の腰をぽんと叩く。
男は僅かに唇の端を持ち上げ、鈴音の待つ部屋へと戻る環菜の背中を見送った。
「……さて」
男は、廊下の向こうへと、振り返る―――
*
「……正直な話、オススメはし難いのですが」
三角の提案を聞いて、しかし名城の声はどこか渋るようなものがある。
「でも、未来さん、すごく強いエインヘリヤルだったじゃないですか」
三角の提案とは、現状可能とされるエインヘリヤルとの契約、最後の1枠を消費しての、ミラーカとの契約。
戦闘中に紋章からのリソース提供という形で契約、という方法は、ある程度柔軟な対応が可能ではあるものの、身体への負担があまりにも大きく、形式上確実に紋章を1画消費しなければ行えない。
だが、事前に契約を結んでおけば、リソースの提供自体は紋章を切らずとも、ある程度契約エインヘリヤルに回す事が出来る。土壇場での選択の余地こそ失うが、契約相手が強力なエインヘリヤルであれば、最初からほぼ万全な状態で運用できるという点でも大きなアドバンテージとなる。
三角なりに、考えた結果であった。
「確かに、ここまでの無茶であなたの身体は確実にリソースの運用に慣れてきていますし、あなたの言う通り、ミラーカは強力なエインヘリヤルに違いありません。この相違点においては『ユミル進化』の補正が乗り、加えて『吸血鬼王の血を引くヴァンデモン種』として多島柳花をも凌駕したその力は、本当に申し分ない」
ですが、と。名城は三角の決意は考慮しつつ、あくまで冷静に、司令塔として指摘する。
「彼女はバーサーカー。霧の結界を用いたとしても、恐らく意思疎通には難が残る。リソースの消費量も一般のエインヘリヤルより高く―――それから、善良で在ろうと努めても善人にはなりえない」
「……」
「こちらとしては、神原ヒトミとの契約を推奨したいところなのですが」
「でもヒトミちゃんは『単独行動』もあるから、テイマーのリソース提供が無くてもある程度行動に融通が効く。逆にバーサーカーの真価を発揮させたいなら、テイマーの制御が必須―――」
「……」
「―――……って、もらった資料に書いてあったんですけど」
やれやれ、と。画面の向こうで、名城が首を横に振った。
「何にせよ、ことエインヘリヤルの扱いに関しては、三角。現場にいるあなたの判断が、最終的には何よりも優先されます」
「うん。……だから俺、今から未来さんと話をしてみようと思うんです」
「夜の吸血鬼相手に……。進んで無茶を思いつくのは正直感心しませんが、霧の結界の経過観察も兼ねて、特別に許可しましょう」
何かあったらすぐに屋内に逃げ込むのですよ、と念押しする名城に頷いて、三角は玄関の扉を開けた。
6月の夜は、湿気のせいか蒸し暑さと肌寒さが同居していて、あまり心地よいものだとは思えなかった。
そんな中に1人取り残されている筈のミラーカを探して、三角はぐるりと当たりを見渡し―――
「夜遊びか? 漂流者」
彼女よりも先に、月の無い闇夜にさえ艶やかな黒髪が揺れるのを、視界に収める。
……家の壁にもたれ掛かった、糞山の王が見つけてきたというもう1騎のエインヘリヤル・セイバーが、瓢箪を片手に三角を眺めていて。
「ええっと……」
「真に受けるな。いや、真に受けたなら受けたで、その気があるのならそれも構わないが―――」
「へ?」
「―――ふっ。何、私とて色事のいろはも分からぬ者への道理は弁えている」
ぽかん、と目を見開いていた三角に向けて、酒で濡れた唇で弧を描いたセイバーは、しかしすぐに姿勢を正して、改めて彼へと向き直る。
「クヅルだ。これも何かの縁だ、存分に頼るがいい」
荒事は得意な方だからな、と三角に手を差し出すセイバー・クヅル。傷だらけの顔が気にならない程、彼女の振る舞いにはどこか親しみやすさがあり、しかし同時に、確かな品が感じられた。
「三角。三角イツキです」
名を名乗りながら、三角もまた、クヅルの手を握り返す。
「あの集落のこと、見に行ってくれてたんですよね? ……ありがとうございました」
「例には及ばん。実際、私はひと足もふた足も遅かった」
「……」
「物語の影法師など、駒と割り切っても良いものを。……だがそれも美徳だ。恥じるな、三角。少なくともバーサーカー……ミラーカの奴は、お前のそういったところをきっと好むであろうよ」
ヒトミとはまた違った毛色の、しかしやはり、どこか歴戦の強者だと確信させる言葉選びと気配。
三角は、静かに頷いた。
「その、俺。未来さんに、話があるんですけど」
「ミライ? ああ、ミラーカなら3軒ほど先の家屋の庭だ。……やれやれ、まじない一つでああも大人しくなるとは。言ったところでどうなる話でも無いが、もっと早くにお前達との合流を試みてやった方が良かったかもしれんな」
「?」
「気にするな。そして、案ずることも無い。あの様子なら、昼間と同程度には会話も出来よう。万が一ミラーカがまた狂気に呑まれたとしても」
杭に近いものならある。とクヅルが目配せするのは、壁に立てかけた飾り気の無い刀の鞘。
吸血鬼と、杭。
この組み合わせの意味するところは三角も知っているし、「また」という言葉と、クヅルがしばらくミラーカと行動を共にしていたという事実がどうしても三角の中で引っかかったが、一先ず気にしない事にして、ミラーカの居所を教えてくれたクヅルに、彼は頭を下げる。
「いや、杭じゃ無くないですか? それ」
「近いもの、と言っているだろう。妙なところを気にするのだな」
何故か一瞬だけ通信を入れてまでつっこんだ名城に2人して首をかしげつつ、そのまま三角は「3軒先の家屋の庭」へと足を運ぶ。
三角の気配に気付くなり、庭先でぼうっと空を眺めていたミラーカが、昼間よりも赤く見える目を細めて振り返る。
彼女の周りには、うっすらと白い靄が漂っているように見えた。……霧の結界である。
「こん、ばんは。ていまぁさん」
「こんばんは、未来さん。……霧の結界、調子はどうですか?」
ミラーカは、ふるふると首を横に振った。
「気分はいいの。だけど……楽しいの、すこし、がまんできるけど……でも、やっぱり危ないから、部屋の中、入っていた方がいいんじゃ、ない、かな……」
話は出来るが、昼間よりも不安定さは否めない。ミラーカはずっと笑っている風だが、どこかそれを抑え込もうとしているようにも三角には見えた。
だが、三角はミラーカの指示には従わず、代わりにデジヴァイスからあるものを取り出す。
「未来さん、今、お腹とかって空いてます?」
「? ……渇くのは、どうしても」
「……ハンバーガーって、食べられたりします?」
「え?」
「玻璃から。……エビバーガモンとバーガモンから、預かったんです。あなたに、食べてもらいたいって」
ミラーカは困ったように視線を泳がせ、そこだけは昼間の時とあまり変わらない調子で、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさい。……香辛料がキツいものは、基本的にダメなんです」
「それは大丈夫だと思う。エビバーガモン達、「吸血鬼さん用に」って用意してたらしいから」
「……」
「……その、もちろん嫌だったら、無理強いはしないけど……」
「あ、えっと。……それなら―――いただきます」
三角からおそるおそるハンバーガーを受け取り、包みを剥がしたミラーカはマスクを下にずらして、軽くにおいを確認してから、鋭い犬歯の覗く歯で、ハンバーガーに齧り付く。
「……」
闇夜に、咀嚼音だけが響き―――やがて。
「……おいしい」
ぽつり、と。穏やかに零れたその言葉に、三角はほっと胸を撫で下ろした。
「よかった。……未来さんが気に入ってくれたなら、2人もきっと喜んでくれると思う」
「……ヒーロー」
「?」
「あの集落のことは、既に護っている人がいるって。あのチンピラみたいな人が、言ってましたから」
「……」
「強くて、優しい。立派なヒーローだったんですね。……本物の」
「……うん」
しばらく、ミラーカがハンバーガーを咀嚼する音だけが続いた。
もちろん吸血衝動はジャンクフードで満たされるものでは無いが、霧の結界を張っている中で生物として腹が満たされた事が、多少神経に影響したのかもしれない。ハンバーガーを平らげたミラーカは、先程よりも幾分か落ち着いた様子で、「ごちそうさまでした」と三角へと向き直る。
そんな彼女に、三角も改めて、姿勢を正した。
「未来さん。……その、昼間はびっくりして、うまく答えられなかったんだけど」
軽井未来。
一文字足して、明るい未来。
あなたの明るい未来を、取り戻すためにここに来ました。
「契約して欲しい。……未来を取り戻すのを、手伝って欲しいんです」
右手の甲を。誠実の意匠が混じっているという、1画欠けた紋章を、三角はミラーカの方へと向ける。
「……私の方こそ、昼間は、ああ言いましたけれど」
その目は、僅かに戸惑いに揺れている。
「死なないだけが取り柄で、デメリットと弱点だらけの、三流エインヘリヤルですよ?」
「三流ってことはないでしょ??」
「招かれなければ屋内にも入れない。にんにくは臭いだけでもダメ。陽の光だけじゃ無く十字架や銀にも弱くて、自力じゃ川を渡る事も出来なくて……そんなエインヘリヤルが、少なくとも、一流だとか。そんなのは、やっぱりおこがましいというか……」
「……」
「それに、私、は―――」
「でも、未来さんは間違いなく、俺のことを助けてくれたエインヘリヤルだから」
右手を一度降ろし、今度は前へと差し出す。
「俺の明るい未来を取り戻すって。そう言ってくれたエインヘリヤルだから」
三流と言うのなら。あの場で誰よりも頼りなく、力の無かった自分の事だろうと、三角は考える。
そんな自分に何の迷いも無く、見返りも無く手を差し伸べて、「明るい未来」を願ってくれた。そして、あの絶望的な戦況をあっという間に覆してくれたミラーカは、彼にとって、紛れも無く―――
「もう一度、俺のヒーローになって下さい。未来さん」
……ミラーカは、真剣な眼差しで訴える三角を、じっと見つめた。
そして
「あのう。これ……」
差し出された手に、自らの右手―――ではなく、とある物体をすっと握らせる。
「?」
首をかしげつつ渡されたものを見やれば、それは六角形の台座に乗った、紫の鎧と橙の帽子と、同じ台座に座り込んだ黄土色の人型。
スピリットだ。
「これって―――あれ? 玻璃が回収してた筈じゃ」
消滅したネオヴァンデモンのデジヴァイス―――ダークネスローダーから、玻璃は2つのスピリットを回収していた。
この相違点においては、柳花とピコデビモンにとって『デジモンプレセデント』作中の実質最後の敵となったテロリスト・ハタシマの使用していた雷のスピリットだ。
恐らく回収後、柳花がそのまま所持―――あるいは守護していたのだろう、というのが、玻璃の推測だ。
だが、ミラーカは首を横に振る。
「それは、それとは、別物で……私が召喚された近くに、あったんです」
恐らく土の属性を持つスピリットだろうと、ミラーカは口にする。
「ひょっとしたら、私じゃ無かったのかもしれないって。私じゃ無い、もっと、それこそ世界を救ったヒーローみたいな、一流のエインヘリヤルが、ラタトスクの―――あなたの助けになろうとしてたんじゃないかって。なんとなく、思いました」
それは、ただの偶然かもしれない。聖解が、エインヘリヤルを喚び出すのであれば、もう一つの聖解の破片とも言えるスピリットの側の方が良いと、判断しただけなのかもしれない。
だが三角は何となしに、土のスピリットから不思議とあたたかなものを感じ取る。
『デジモンプレセデント』において、土の闘士は敵キャラクターであったにもかかわらず、だ。
「それでも―――いいんですか?」
そしてもう一度、ミラーカの赤い目が、三角の顔を映す。
「代理に過ぎないかもしれないエインヘリヤルでも。……ヒーローに「なりたい」だけの、エインヘリヤルだとしても」
三角は土のスピリットをデジヴァイスに仕舞った手を、もう一度、ミラーカへと差し出した。
「でもやっぱり、今俺の目の前に居るのは未来さんで―――俺は、未来さんにヒーロになって欲しいって、もう決めたから」
ミラーカが、右手の手袋を外す。
白く細い女性の指先が、ぐっと三角の手を握り返した。
痛いほどに。
「バーサーカー、ミラーカ。……本名、軽井未来。一文字足して、明るい未来」
紋章が、仄かに光を宿す。
「あなたの明るい未来を、取り戻すためにここに来ました」
*
「そこにいるのでしょう。……出てきたらどうですか、ライダー」
スーツの男の問いかけに、どきり、と、わざわざ口に出して。
ライダー―――風峰冷香は、柱の陰から器用に紫色のアフロだけを覗かせる。
「まだ持っていたんですか」
「これからも私の側にあるわ。なんていったって、新曲が発売されるのよ。その名も『アフロ長女』」
「……おめでとうございます」
「半分嘘よ、真に受けないで」
特に真に受けていた訳では無かったがとりあえず祝辞を送ったスーツの男に対してやれやれと首を振りながら、アフロを外した冷香は今度こそその全身を男の前にさらす。
夜闇の中、冷香からは、光の粒が零れ落ちていた。
「どちらかと言えばダメージ演出がメイン。冷香ちゃんといえば「ただのお姉ちゃんじゃねえぞ。ド級のお姉ちゃん、ド姉ちゃんだ!」の台詞で知られているけれど」
「聖解にも『絵本屋』にも無い知識ですね」
「流石にここで打ち切りみたい。心の強えエインヘリヤル、即ち心強いエインヘリヤルを失って心細いでしょうけど、私のお姉ちゃんとしての全てはここに置いていくわ。今日からは貴方が正当後継者である」
「退去時には持ち物は全て持って帰って下さい」
そのアフロも。と、胸の前で腕を交差したまま例のカツラを握ったままでいる冷香に、先程とは打って変わって呆れとしか表現しようのない眼差しを向けるスーツの男。
だが、「思いの外元気だな」という所感に反して、冷香の霊基が限界なのは事実らしかった。零れ落ち、空気に溶けていく光の量は、徐々に増え始めている。
「アフロは元々この世界のものだから、なんとも言えないけれど」
冷香は男の顔を見上げる。
「さっき環菜さんに見せていた貴方の「弱さ」は、ちゃんと黙って持って行くから、安心して」
出歯亀の意図は無かったの、ごめんなさい。と、そこだけは真摯に、若干申し訳なさそうに、冷香は眉尻を僅かに下げた。
「……それは、そうしてもらえるなら、助かります」
「お兄ちゃんは―――ううん、お互い大変ね。妹に弱いところは見せられないから。そんな貴方のお兄ちゃん性は、このド姉ちゃんが肯定しましょう。貴方がお兄ちゃんとして、公序良俗の範囲内……範囲内? まあこの世界基準ならきっと範囲内よね。公序良俗の範囲内で、妹の妹性を肯定してしまうように、ね」
「……ワタクシは」
「そんな顔しないで。例え血は繋がっていなくても、お兄ちゃんであろうと思うのならば……貴方はお兄ちゃんなの。私の友達のユーヤ・ケンザキくんがそう言ってました。……言ってたかしら? でも言いそうだからセーフ」
「……言われなくても、玻璃はワタクシの最愛の妹です」
「そ。そう断言できるなら、きっとユーヤ・ケンザキくんは貴方を肯定してくれるわ」
さっきから誰だろうとスーツの男は思ったが、ひょっとしたら何らかの縁があるエインヘリヤルかもしれない気がしたので、とりあえずその点には何も言わなかった。
一方で、冷香は「まあこっちは三つ子の三姉妹、そっちは年が離れた兄妹で、全然違うのだけれど」と、スーツの男との共通点として匂わせていた長子としての部分を、あっさりと翻しながら、肩をすくめる。
「それでも私のお姉ちゃん語りについては「無駄」とは言わないでくれる辺り、貴方、案外優しいのね」
最後の仕事にしたってそう。と。いよいよ輪郭を失い始めた冷香は、どこか笑っているようにも見えて。
「愛を掬って乗せて運ぶ。他人を無惨に轢き倒すんじゃない、乗り物(ライダー)の本懐を果たせたのなら、私もボブも、草葉の陰から見守ってくれているベヒちゃんも本望よ」
風峰冷香。
本来は、戦いなど好まない―――人の死などけして望まない、ただの中学生。
彼女に鹿賀颯也の救援を依頼したのは、他ならぬこのスーツの男だ。
「ありがとう。エインヘリヤルの私を、戦うため以外に使ってくれて。……貴方達『兄妹』、やっぱりよく似てるわ」
「ワタクシは、貴女を使えるだけ使い潰しただけですよ」
「あら? まあ、それもそうね。私がここまで生かされてたのって、あっちのチンピラのライダー、チンピライダー対策だったもの。なんだ、結局悪いことしちゃった。でもこっちもお仕事だから許してにゃ~ん。……と、チンピライダーに会う機会があれば伝えておいてちょうだい」
「覚えておきましょう。そして可能であればお伝えしておきます」
よろしくお願いするわ。と冷香の振る手も、もはや向こう側が透けて見えている。
「お別れね。最後に聞いておきたい事は?」
「……何も」
「どんなに立場が変わってもこれだけは変わらない「きょうだい」の矜持。ってところかしら。でも残念。それは、私も知りたかったわ」
「……」
顔に出てるわよ。そう言って、冷香の指がスーツの男の眉間の皺を指し示す。
「もし分かったら。いつかどこかで、一緒の場所で召喚された時に教えてちょうだい」
「そんな日は来ませんよ」
ラタトスクは、ワタクシ達がここで潰しますから。
スーツの男は、『心』の底からそう言い切る。
けして、その言葉を嘘にはしないと。……妹を、妹のための相違点は、必ず守ると。
……冷香は、相変わらずの無表情で、ただ、ゆっくりと頷いた。
「せいぜい頑張りなさいな、お山の大将。山は山でも神話の名山なら大したものよ」
「特に山に縁は無いのですが……まあ、その言葉は激励として、受け取っておきましょう。一応」
「そして最後に、重大発表。『アフロ長女』の歌詞を公開するわ。冷香、歌います」
「……」
「「アフ―――」あ、ちょ、待って。もうちょっと待ってプリーz」
この相違点において4度目の「最後」という単語と一瞬の光の帯。そして結局この相違点産らしい紫色のアフロを残して、風峰冷香が消滅する。
「何だったのですか……」
心の内にはとても留めておけなかった所感を漏らし、スーツの男は床に落ちたアフロを拾い上げ、見下ろす。
「とはいえ感謝はしますよ、ライダー・風峰冷香。貴女のお陰で、ワタクシは必要な情報を得られた。……それに」
彼はそれを、とりあえず床では無く、適当な棚を見つけて、埃を払ってからそっと置いた。
もはや出番も用も無い小道具とはいえ、そのまま捨て置くのは気が引けて、一応、それは彼なりに、『駒』に対して直接は口にしなかった敬意でもあった。
「鹿賀颯也までは、失わずに済んだ」
そう言い残して、男はその場を後にする。
ラタトスクとの最後の戦いに備えて、準備するべき事こそ、それこそ山のようにあって。
だから、彼が冷香をかまえるのは、これが最後だった。
*
「おいおい、まだ起きてたのかよお嬢ちゃん」
「子供扱いしないで。わたし、フツーの子と違って夜更かしは慣れっこなの」
廊下の窓に寄りかかってギギモンを抱きしめていたヒトミは、背後からやって来た糞山の王に一瞥もくれる事は無く、引き続き外を―――ミラーカと話をしている三角の方を眺めていた。
「ほぉん? 吸血鬼のおねーさんとね。……もしかしてお前、妬いてンのか?」
「そんなんじゃないったら!」
元より向けていなかった顔を、頬を膨らませたヒトミは糞山の王から更にぷいと逸らす。
「そんなんじゃないよ。……ただ、ひどい話って、そう思ってただけ」
ミラーカと契約している事に対して、では無い。
選ばれし子供は、選ばれた青年を。今はどうにか笑っている彼の、たった数時間前の、泣きたくなるような決意を見ていた。
「同感だな」
『選ばれたもの』という概念に一瞬だけ昔話を幻視して、自嘲にへらりと鼻を鳴らした糞山の王は1人、部屋へと引き返す。
「……ガキばっかり格好つけやがって」
糞山の王―――否。王をも喰らったその男は、ふっとその表情を解いて、ただただ人のものである自分自身の手の平を見下ろす。
彼はその手を握りしめた。
「おっせェんだよクソが」
それは、決意の表明のようでもあり、バイクのハンドルを握る仕草にも似ていた。
「すっかり出遅れちまったじゃねーか」
6月。
竜が目を覚ます。