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声だけが聞こえていた。
聞き覚えなんて無いはずなのに、それは何処か身近にさえ感じられる声だった。
それが幻聴に過ぎない『夢』なのか、過去に体験したかもしれない『現実』なのかさえ判断出来ないまま、ただそれは響いていく。
それは、息も絶え絶えしい唸り声と、溜め息混じりな呆れた声の、言い争い。
――はぁ……ぜぇ…………っ!!
――……ったく、だから言っただろうが。いくら俺達みたいなのが嫌いだからって、相対する相手との『差』ぐらいは認識しとけ。そんな風に振る舞い続けるんなら命がいくらあっても足りねぇぞ。
――……うる、せぇ……っ!! 正義だの悪だの、そんな大義名分を掲げた奴の手で死んだ奴を、俺は何匹も見てきた……『アイツ』だって、本当だったら幸せに生きる権利ぐらいあったはずなんだ!! なのに……ッ!!
――お前の言う『アイツ』が誰の事を指してるのかは知らんが……お前、天使とかに忌み嫌われる奴を同じように嫌ってる『種族』なんじゃないのか? そいつがどうなろうと、知った事じゃないってのが本音じゃねぇのか。
――……ハッ、そんなモンは先に生まれた連中が勝手に付け加えたレッテルに過ぎねぇだろう。そんなモンに合わせる義理も理由もねぇ……。
――が、お前は現に『後悔』してんだろ。お前が本当に憎んでるのは『加害者』の方じゃねぇ。他でもない自分自身だろうに……。
――……お前に何が分かるってんだ。こんな世界で生きていく以上、どんな手段を用いてでも生き残ろうとするのはおかしいのか? 騙されるぐらいなら騙して、何でも利用出来るものなら利用して……そうでもしないと生き残れない弱者にどうしろと?
――出たよ、負け犬特有の言い訳。自分の境遇に悲観して行いを正当化すんなよ。そもそも世の中における『弱者』ってのは、本当に能力だけで判定出来るモンだと思ってんのか? 言うとアレだが、今のお前より『強い』奴なら結構居ると思うぞ。
――……っ……赤の他人の分際で知った風な口を利きやがって。ああ解ってるよ。自分の弱さぐらい自覚してる!! いくら進化しても、根っこの部分で俺は何も変われてない……だから失ったって事も、何もかも!! だが、だったらお前には解るってのか。こんな俺に、この負け犬に、必要な物が何なのか!! それを理解した上で偉そうに語ってんのか!?
――知るかよ、俺はお前じゃねぇんだ。自分の答えぐらい自分で見つけてみろ。他者の力を借りるのも勝手だが、何も信じられないのなら自分自身で探すしかねぇのが必然だろうに。いくら永く生きてるっつっても、そこまで俺は万能じゃない。
その言葉に込められた意図も、その声を発している者が何者なのかも解らないまま。
音だけが全てを表した夢は、呆気なく崩れ落ちる。
◆ ◆ ◆ ◆
視界が明滅していた。
意識が朦朧とし、前後の記憶が把握出来なくなっていた。
「……ぅ……」
目を開けても視界の明度が不安定で、牙絡雑賀は呻き声を上げる事しか出来なくなっていた。
最初、彼に理解が出来たのは、自分が何か薄い布のような物に被せられた状態で横になっている事と、何より自分自身の体が鉛のように動かない――と言うより、金縛りにでも遭ったかのようにピクリとも動かす事が出来ない、そんなどうしようも無い事実。
そもそも自分は何処に居て、何が原因でこうなったのか。
そこまで雑賀は考えた時、あまり心地良さは感じられない清掃感を醸し出す消毒用のアルコールの匂いが鼻についた。
いつの間にか纏っている衣服に関しても普段着ている寝間着とも違う感触で、強い違和感を感じられた。
背中を預けている物からも少し硬い感触があり、それが自宅にあるベッドではなく、学校の保健室に置かれている物とほぼ同じパイプ構造のベッドである事を推測する事は鼻につく匂いからも推測する事は出来た。
何より決定な物として、自分の口元には酸素供給用の機材が。
……どうやら、病院に搬送されたらしい。
現在時刻は分からないが、日の光が差し込んでいない所を見るに夜中なようだ。
病院に勤めているはずの医者や看護婦の姿は首を頑張って動かしても見当たらず、室内には牙絡雑賀が独りだけ。
「…………」
冷静に記憶のレールを辿ってみるも、現在の状況に至るまでの経緯が思い浮かばない。
都内のウォーターパークにて『シードラモン』の力を行使していた司弩蒼矢との戦闘した後、フレースヴェルグと名乗る男と遭遇した後からの記憶を思い返そうとすると、何故かノイズ染みた物が頭の中を通り過ぎる。
半ば強引にでも記憶を掘り起こそうと思考を練ってみた。
確か、何か凄まじい風に吹き飛ばされたような――
「…………ッ!!?」
そこまで考えた所で、脳裏に過ぎる激痛の記憶と共に先の出来事が鮮明になっていく。
そうだ、自分は確かフレースヴェルグという紅炎勇輝を連れ去りデジタルワールドに送ったらしい『組織』のメンバーらしく男と相対し、会話の中で思わず怒り、その感情のままに首を取ろうとして逆に返り撃ちに遭ったんだ……と、自分がやった事も自分の身に起こったことも勝手にフラッシュバックされ、事実を受け入れざるも得なくなる。
その中でも一番驚いたのは、フレースヴェルグが行使した圧倒的な力、ではなく。
相手が誰にしろ、『ただの』とは付かない相手だったのしろ、同じ『人間』を自分の手で殺めようとしていたという言い訳のしようも無い事実だった。
(……な、ん……)
理解が出来なかった。
自分が何をしようとしていたのかは理解出来ても、どうして『そこまで』やろうとしたのかが解らなかった。
確かに、フレースヴェルグは悪党で、打倒するべき相手であるのは明白だった。
だが、何も殺害しようとまでは思わなかった。
そもそもフレースヴェルグは本当に退こうとしていたし、自分から攻撃する必要性など無かったはずだった。
まるで、自分の意識が『別の何か』に切り替わったような……あるいは混ざり合ったかのような、これまで感じた事も無い異質な感覚だった。
(……司弩蒼矢が理性抜きで動いていたのと、同じ……なのか?)
冷静になって異常さに気付けたものだが、実際のところ雑賀の意志はあの場面で殺害の方針へと向かっていた。
それに違和感も覚えなかったし、実際にそれを実行しようともした。
もしもあの時、本当にフレースヴェルグを殺せていたら……自分は、どうなっていたのだろう。
考えたくは無いが、フレースヴェルグの言った通り、雑賀は二度と『元の居場所』に戻れなくなっていたのかもしれない。
姿だけならまだしも、心の方まで怪物に成り果ててしまったら――もう、普通の人間と一緒には生きられない。
(……勇輝、お前は大丈夫なのか……)
ふと思い返されるのは、自身がこうして事件に立ち向かう動機となってしまった友人の姿。
先の『タウン・オブ・ドリーム』で対話した女の言葉が本当ならば、紅炎勇輝はデジタルワールドで『ギルモン』と呼ばれる種族のデジモンに成っている事になる。
その種族の『設定』は、ホビーミックスされた物でなら雑賀も知っている。
だからでこそ、不安になった。
司弩蒼矢のように理性を保てず怪物と成り果ててしまう可能性もあれば、自分のようにいつか誰かを殺してしまう可能性すらも否定が出来ない。
比較しても、凶暴性の面では紅炎勇輝の成っているデジモンの方が圧倒的に上なのだ。
もしも司弩蒼矢のようにデジモンの『特徴』を色濃く引き出してしまえば、どうなるか。
何より、もしも紅炎勇輝が『こちら側』の世界に戻って来れたとしても、その心の方が既に人間のそれと異なる物になっていたら。
彼は、本当に『元の居場所』に戻る事は出来るのか?
(……ちくしょう。踏んだり蹴ったりだ)
手にした力の危険性を認識して、雑賀は思わず毒づいた。
(……だが、使いこなせないといけねえ。フレースヴェルグとかいう奴の言う通り、勇輝を助けるにしても事件を解決するにしてもこの『力』は必要なんだ。どんなに危険だろうと、戦いに赴くと決めた時点で覚悟なら決まってる……決めてねえといけないんだ)
雑賀は自分の右手を動かそうとしてみたが、やはり金縛りに遭ったかのようにピクリとも動けない。
そもそも、どうしてこうも体が動かせないのだろうか? という当たり前の疑問を今更ながら思い出すが、当然ながらその答えは推測の域を出ない。
ここが病院であるのは間違いないのだが、だとすれば全身麻酔でも投与されているのだろか。
全身大出血レベルの大怪我を負っていたのであれば、安易に麻酔を使うと危険性も増すのだが……そもそも感覚が無いのでどの部分が怪我をしているのか、それさえも解らない。
「……ったく、何なんだ本当に……」
幸いにも首周りは動かせるので声も出せたのだが、話相手になれるような者はいない――はずだった。
「まぁ、下手にあの鳥野郎に突っかかったお前も悪くはあるんだがな」
声がした。
夢の中の声ではなく、明らかに現実の、空気の振動から来る声が。
より正確に言えば、雑賀が横になっているベッドの、すぐ傍から。
「…………!?」
それがただの声なら、病院に勤めている医者が雑賀の視界の外に居たと考える事は出来たかもしれない。
驚く必要など無く、ただ平常通りの反応をすればいいだけのはずだった。
それでも、雑賀が驚かざるも得なかった理由は。
それが、ここ最近聞き覚えのある人物の声とそっくりであったからだった。
(……んな、馬鹿な事が……)
信じられないように思いながらも、顔だけを声のした方へと向けると。
そこに居たのは、
「……苦郎……!?」
「……まぁ、初対面じゃねぇし解っちまうか」
縁芽苦郎。
まだ蒼矢と相対さえしていなかった時に自宅へとやってきた女の子――縁芽好夢の義理の兄であり、牙絡雑賀と同じ学校に通っていて、恐らく誰よりも事件という『面倒事』に首を突っ込もうとはしないと、雑賀自身考えていた青年の名だった。
その容姿は白のカッターシャツに黒のズボン――ただ、それだけのシンプルな物。
だが、その容姿から来る印象は、以前見た怠け癖の激しいものとは明らかに違う、全く『別人』にさえ見える物。
その変化の大きさに戸惑いながらも、率直に雑賀は疑問を口にする。
「何でお前が此処に……? っていうか、こんな夜更けに何してんだ!?」
「おいおい。フレースヴェルグの野郎に吹き飛ばされて気絶し、更には大怪我まで負ったお前に救急車を呼んだのは俺だぞ……あと、俺が夜型な生活を営んでる事を知らなかったのか?」
当然のように返された言葉にも疑問しか浮かばなかった。
何故、縁芽苦郎は『組織』の一員らしいフレースヴェルグの名も、それと相対した雑賀が大怪我を負った事も、全て『知っている』のだ?
夜型の生活を営んでいるなど、そのような発言以上の異常性が含まれているのは明らかだった。
だから、様々な疑問を問う前に雑賀はこう切り出した。
「……お前はどこまで『知っている』んだ?」
「多分、お前よりはずっとな。だから、お前の疑問にはある程度答えを出せる」
恐らくは、お見舞いに来た人物のために置かれているのであろう小さなパイプ椅子に、苦郎は腰掛けて。
「……それじゃ、大体お前の疑問は予測が付くから話すとするか。お前やフレースヴェルグ、そして俺も含めた異能の持ち主……『電脳力者《デューマン》』について」
◆ ◆ ◆ ◆
現在時刻、午前二時四十三分。
もうとっくに『深夜』と呼べる時間へ突入した夜の街は静まり返り、人の気配も殆どしなくなっている。
そんな夜の中、半裸にカットジーンズで黄色い瞳の男――フレースヴェルグは、とあるマンションの一室にて文字通り羽を休めていた。
数時間――最低でも五時間近く前に『ガルルモン』の力を宿した牙絡雑賀を吹き飛ばしたその男は、何故か気だるい感じの声で言う。
「……あ~、キツかった。流石に夜勤も込みだと、このフレースヴェルグさんでも普通に疲れるんだっての……」
彼の視線は、同じ一室に居る別の人物へと向けられている。
上半身から下半身までを覆い隠せるほどの大きな青色のコートを着た、彼にとっては馴染みが薄くも無い人物。
フレースヴェルグと同じく『組織』に属する一人であり、彼とはまた別のデジモンの力を宿している者。
「……まったく、何故勝手に牙絡雑賀と接触した? またいつもの衝動か?」
「いいじゃんかよ。俺が接触した所で何か問題起こるわけでもなし、それ以前に俺よりも先に『あの女』が接触して情報提供してる。今更俺の姿を見られたにしても問題はねぇだろ」
「……見られただけならまだいい。が、下手踏んで牙絡雑賀や司弩蒼矢を殺してしまったらどうするつもりだった? まさか『この程度で死ぬんならどの道必要無い』なんて言うつもりでは無いだろうな」
「まぁそういう本音もあるんだが、どっち道死なないようにはしたぞ。風力も手加減出来てたし、飛ばした方向には転落防止用のフェンスが取り付けられたビルだってあった。まぁ、見事にそれには引っ掛からなかったわけだが」
「『ただの人間』なら死んでもおかしくない高度と言っていいと思うがな。人間の頭蓋骨は数メートル程度の高度から落下しても砕けてしまう。いくらデジモンの力を宿していようが、脳をやられてしまえばどうしようも無いぞ」
「だからそこも考慮してたって。それに、アンタの言っている危険性は『頭から地面に落ちた場合』の話だ。腹か背中の方から落ちた場合は入らない」
「どっちにしても致命傷の可能性はあっただろうが。胸か背中の骨でも折れれば大惨事だぞ」
溜め息混じりな声で話す青コートの男は、台所のガスコンロに火を付けて何らかの料理を作っていた。
時刻から考えると何とも生活のリズムが噛み合っていないようにしか思えないが、わざわざ青コートの男がこのような時間に料理を作っているのには理由がある。
フレースヴェルグが「腹減ったからメシを食わせろ~!!」と煩いのだ。
そんなわけで、台所からは食欲を増し増しにさせる匂いが湧き出ている。
「まぁ、どっちにしろ大丈夫だって。救急車が二人のガキを搬送した所を確認してる。だから過ぎた事をいちいち愚痴みたいに言ってくんなよ~」
「………………」
「……あり? どしたんだアンタ。おい、ちょっと……ッ!?」
結果論を語るフレースヴェルグに向けて、青コートの男は片手――正確にはコートの袖口を向けた。
フレースヴェルグが言い訳を述べる前に、物理法則を無視してコートの袖口から蛇のように包帯が巻き付いて行く。
数秒ほどで、室内には怪我をしているわけでも無いのに、全身包帯巻きでミイラみたいな姿になった元半裸の男が完成する。
巻き付けた包帯に力を込め、フレースヴェルグの首を締め付けながら青コートの男が低い声を出す。
「……お前が楽しむのは勝手だが、その一方で俺の苦労を水増しさせるな。何度お前の所為で予定が狂いそうになったと思ってる? 『組織』の計画が頓挫したらどうしてくれるんだ」
「ぐ、ぐぇ……っ、首絞まる、首絞まるって……!!」
「締まっても構わん。というかお前は『組織』の方針から見ても、明らかに目立ち過ぎるし被害を与えすぎる。そもそも喧騒と争いを起こすのはお前ではなく『ラタトスク』の役割だろうが。本当に、どうして『組織』でお前のようなお調子者が監視役を担っている……?」
「ぐ、ぬぐぐっ……そ、それは俺が獲物を死角から見据える事が出来て、あまり目立たない動きも出来るから……だったような……」
「お前の元ネタは目立たない以前に『巨人』だろうが。そして『オニスモン』の体格も本来はかなりの物だ」
そんなこんなでちょっと頭痛がした風に頭を押さえる青コートの男だったが、どうやら料理が完成したらしい。
湯気が立ち上る鍋から食材と出汁を器に注いでいくと、リビングに設置されている木製のテーブルの上に置き、フレースヴェルグの拘束も解除した。
くんくん、と反射的に匂いを嗅ぐフレースヴェルグは、率直に疑問を発した。
「……何作ったんだ?」
「鍋物」
「何でこのクソ熱い夏場に鍋物!? 氷でも入れて冷鍋にでもした方が絶対いいだろ!!」
「……逆に聞くが、どうして俺がお前のためにそんな気遣いをしなければならない? こんな時間に作ってやっただけでもありがたく思え」
「はぁ……まぁ熱い物を食うと逆に涼しさを強く感じられる、とか聞くしいいけどよ……ん? ちょっと待てこれってダシに使ってるのもしかしなくともトリ肉じゃ」
「安くて量も確保出来るからな」
「もしかして俺のことそういう風に見てた? 串で刺す予定なの???」
「釜茹でも悪くない」
◆ ◆ ◆ ◆
「……デューマン?」
告げられたキーワードに怪訝そうな声を漏らす雑賀に対し、縁芽苦郎は言葉を紡いでいく。
「お前を含めた『異能の持ち主』の呼び方は色々ある。超能力者とか魔法使いとか、この辺りは一般的な例だな。お前やフレースヴェルグとかの場合、電脳世界……もしくは電子世界とでも言うべきか? そこに存在する生命体であるデジモンの力を行使するだろ? 一番使われている名前は、そこから文字った物だな」
「……それは?」
「候補としては色々あったらしいが、最終的には電脳の力を宿す者と書いて電脳力者と呼ばれるようになった。語呂の良さもそうだが、一番単純で理解しやすかったんだろうな。デジモンの『デ』と人間の英語読みである『ヒューマン』を混ぜ込んだ、本当に単純なネーミングだ」
電脳力者《デューマン》。
それが牙絡雑賀や司弩蒼矢、そしてフレースヴェルグ等の『異能を宿した人間』の通称らしい。
「……それで、俺や蒼矢が使っていた『あの能力』は何なんだ? 俺は直球で『情報変換《データシフト》』って呼んでたけど……実際のところ、本当に司弩蒼矢が言っていた通り『自分自身を含めた身の回りの物質の情報を書き換える』能力なのか?」
「実際にはそこまで万能じゃないけどな。宿してるデジモンの属性や個性とか、そもそも『変換した後』の物質の情報を取り込んでいないと上手く作動はしない。俺は戦闘を見ていたわけじゃないから詳しく知らんが、司弩蒼矢って奴が宿してたデジモンの種族は知ってるか?」
「シードラモン」
「それなら多分、少なからず海……という『環境』の『原型情報《マターデータ》』が内包されたんだろうさ。アニメでも描写されてただろ? デジタルワールドの陸上生物は『水の中では呼吸が出来ない』と認識しちまってるから濡れるし溺れちまう。だが、一方で『水の中では呼吸が出来ない』と知性や本当で認識することが出来ない機械とかは濡れも壊れもしなかっただろ」
「……一定の『環境』に順応出来るように、エラ呼吸の器官とかとは別に『水』のデータが組み込まれているから? だから、構造上『同じもの』であるシードラモンとかは水で『溺れる』事が無いし、水を使った攻撃を使う事が出来たって事か」
「他のデジモンにも同じ事は言えるな。十闘士がそれぞれ宿す属性……『炎』『光』『風』『氷』『雷』『水』『土』『鋼』『水』『木』……そして『闇』。口から炎を出すとか、掌に光を纏わせるだとか、そういう事が出来る理由もそこにあるんだろうさ。そしてその過程には、多分デジモンが生息している『環境』の『原型情報《マターデータ》』が関わってる」
「シードラモンは基本『海』に生息するデジモン。だから『海水』のデータをある程度宿していて、それを介する事で『別の水』を『海水』に変換する能力を司弩蒼矢は使えたのか」
「まぁ、シードラモンって種族の特徴から考えても、本能の部分で『そうする事が出来る』って理解してたんだろうさ。電脳力者が何を何に変換出来るかなんて、結局は発想と確信による物が大きいし」
まるで、というか確実に既に知っている情報として言葉を述べる苦郎の姿は、雑賀にとって何処か遠いようにも見えた。
デジモンに関する知識も、多分に持っているようだ。
「……にしても、大丈夫なのか? こんなに普通に話してたら、誰かに聞こえちまうんじゃ……というか明らかにお前不法侵入じゃねぇか。何処から入って来た?」
「同じ理屈が数時間前のお前にも当てはまりそうなモンなんだが。まぁ、そこは大丈夫だ。『ただの人間』には覚醒した『電脳力者《デューマン》』の姿を捉える事は出来ないし」
「……どういう事だ?」
思えば、前々から勃発している事件の実行者は一度たりとも姿を目撃されたことが無かったらしい。
だが、現に牙絡雑賀はウォーターパークでの戦闘の後、フレースヴェルグと名乗る『組織』の一員を目撃している。
同じ『電脳力者《デューマン》』に覚醒したから目撃出来たのかと雑賀は思ったが、そもそも縁芽苦郎は毎日家族に姿を見られているはずなのだ。
そこには、間違い無く『別の理由』が存在する。
そして、縁芽苦郎はその予想を一切裏切らなかった。
暗い室内の中、雑賀どころか殆どの人間が知らないと思われる真実が更に告げられる。
「じゃ、お前の言う『|情報変換《データシフト》』の疑問は後回しにして、次の話題に転換すっか……『デジタルフィールド』についてだ」
デジタルフィールド。
その単語についてもまた、雑賀も『アニメ』で登場した設定としての理解があった。
「……確か、それアレだろ。現実世界にデジモンが実体化する際に生じる、個体によっては小規模な、濃霧の形をして生じる力場の事だろ? 外部からは内部の状況を観測する事は殆ど出来なくて、その位置はデジモンだけが感知出来るっていう……一方で、人間は『デジヴァイス』を介さないと肉眼でしか捉える事が出来ないんだっけか? 全く視えないってわけじゃなかったよな」
「ああ。俗な方向ではそうなってるな」
苦郎は当然のようにそう返してから、
「それと似ているようで、ちょいと違うモンだ。連中が使っている名称だと『ARDS拡散能力場』。それがある限り『ただの人間』には電脳力者たちの活動を感知出来ず、視界内に『本当は』存在していたとしても頭の方が情報として処理、認識出来ない。仮に監視カメラを使ったとしても、そこに残っている映像に『怪しい人物』の姿は観測出来ない。別に古いテレビがザーザー鳴っているわけでもないのに、な」
「……それが、例の『消失』事件で明確な『犯人』の姿が観測されなかった理由……? そんな、犯罪者にとっては都合の良過ぎる情報隠蔽が可能なフィールドなんて……」
「おかしな話だろ? その中じゃ、仮に警察官が大勢でバリケードを張っていたとしても、そいつ等が『ただの人間』なら『犯人』は顔パスも何も無しに素通り出来るって寸法だ。ハッキリ言って、電脳力者絡みの事件じゃ警察なんてアテには出来んよ」
「………………マジかよ」
言わんとしている事が、何となく理解出来た。
死者の魂が向かう場所とされる天国に地獄や、似たように天使や神様が住まうとされている天界と、悪魔や魔王が住まうとされている『魔界』や『冥界』……そういった、名前だけは一般に浸透しているほどに知られていても『実在している光景』を見た事がある人間――正確に言えば、生きている人間はいない。
そして、それと同じように。
人間の目は赤外線や紫外線を見る事が出来ないし、耳で高周波や低周波を聞き取る事も出来ない。
現実ではその強弱を専用の機械で測定し、天気予報という形で情報が世に広まってこそいるが、実際にそれを感知しているのは鉄と電子器具の詰め込まれた機械。
宇宙へ飛び立つロケットで雲をブチ抜いても、天空に国が見えるわけでは無いように、仮に『異世界はある』と過程してみれば、人類がそれを見た事が無い理由が『高度』には無いことが解るのだ。
つまり。
「……人間が、五感を介して感じ取ることが出来ない領域。科学的に言えば赤外線を浴びた物質は熱を持つし、重力下のあらゆる物体は浮き上がるための力も足場も無ければ何処までも落ちる。それと同じで、人間の目や耳では感じ取れない『力』が何らかの膜を張った事で形成される特異なフィールドって事か……」
「ああ」
あの時、雑賀は足しいかに何らかの『違和感』を感じ取っていた。
どうして自分が気付けたのかという疑問に対しては、先のタウン・オブ・ドリームで遭遇した『組織』の女から聞いた『特別性』とやらが絡んでいると思って処理していたが、どうやら実際に『そういう』時条があったようだ。
そして、そこまで考えれば、雑賀が感じ取った『違和感』の正体も明白になる。
そう。
「……あの時感じた違和感そのものが、あのウォーターパークに発生していたデジタルフィールドだったわけか。だから、目や耳を使ったわけでも無いのに頭の方で感じ取れて、正確な位置さえも察知出来たんだな……」
「電能力者が『力』を行使した歳、本人の意志に関係無く発生されるわけだからな。俺は感知出来なかったが、お前には感知出来た。多分この辺りは宿ってるデジモンの能力が関係してるんだろうが、俺が感知出来たのはフレースヴェルグの野郎がお前をブッ飛ばした辺りだったな。要するに、奴が『オニスモン』の力を使った時。当然だがあそこでの出来事は『ただの人間』には誰にも知られなかったから、戦闘で発生した破壊痕の原因も突き止められないだろうな」
「……そうか……」
ふざけた話だ、と雑賀は頭を押さえ付けたくなったが、金縛りの掛かった体は動く事もままならなかった。
今でこそ誘拐事件で収まってこそ居るが、電脳力者は、法の番人たる警察の目の前ですら『何でも』出来るという事だ。
人格によっては実行するであろう盗みも、冤罪の人為発生も、殺人さえも、笑顔のままに横行される。
……そんな事が毎日起きるような世界になってしまえば、もうおしまいだと言っていい。
突然起きた出来事に混乱し、誰も彼も信用出来なくなる絵図が容易に想像出来てしまう。
その不安を予想しきった上で、苦郎は言葉を紡いだ。
「まぁ、お前が危惧してる事は想像付くから先に言っておくが……『そうなる』事を望まない電脳力者だって居るのも事実だ。具体的に言えば、連中――あのフレースヴェルグって奴も入ってる組織に対抗するための枠組みって所か」
「……? アイツ等に対抗してる、別の電能力者がそんなにいるってのか?」
「中学二年生っぽく言わせてもらうなら、光あらば闇あり、闇あらば光ありって所かね。あるいは、犯罪者に対する警備員か。ともかく、あの鳥野郎が属している組織に比べれば小規模だが、何も対抗してる勢力がいないわけじゃねぇって事だ」
それを聞いた雑賀は、ほんの少しだけ安堵出来た。
少なくとも、これから先たった一人で立ち向かわなければならないわけでは無いことが解ったからだ。
「……ちなみに、俺も俺なりの理由でその枠組みに入ってる。わざわざこんな時間に顔出しした理由の一つには、お前にもそれを伝えた上で選択してもらおうと思った事もあるのさ」
雑賀自身、縁芽苦郎の人格を詳しく理解しているわけでは無いが、少なくとも悪人で無い事だけは信じている。
「……言いたい事は理解出来た」
だが、抱く疑問はまだ残されている。
それを払拭しない限り、安易に信じることは出来ない。
「だけど、お前が俺の事情を知っている一方で、俺はお前の事を知らない。知り合いレベルの付き合いがあるとしても、お前の言葉が本当だったとしても、簡単に首を縦に振る事は出来ない」
「……そうか」
「お前はさっき、俺やフレースヴェルグ……そしてお前自身の事を電能力者だと言った。俺が『ガルルモン』を宿しているように、フレースヴェルグが『オニスモン』を宿しているように、お前も脳に何かデジモンを宿してるんだろ」
「ああ」
「お前の目的はあえて聞かない。少なくとも、奴等と敵対関係にあるって事だけは信じられるしな。だから、お前が俺の事を知っているように、俺にもお前に関する事を教えてくれ……同じ枠組みに入るんなら、お互いの情報を認知し合っていても問題は無いはずだろ?」
「……そうだな」
恐らく、その問いに関しても苦郎は予想出来ていたのだろう。
自分だけが相手の事を知っていて、その相手は自分の事を何も知らず。
そのような関係では、協力者としての信頼など得られるわけが無いからだ。
溜め息を吐くような調子で肯定すると、やがて面倒くさそうに、本当に溜め息を吐いた。
「……先に『警告』しておくが、俺の事は間違っても好夢には言うなよ。それさえ守ってくれれば、他はどうでもいい。俺に関する情報なんて、どうせ奴等の一部には既に知られている事だしな」
その言葉だけで、縁芽苦郎の『理由』は語らずとも理解するには十分だった。
故に、雑賀もその『警告』には異論も疑問も無かった。
「解った」
その返事を、確かに聞くと同時に。
苦郎は雑賀の前の前で、その姿を当たり前な調子で変質させていく。
何の予備動作も無く、何の無駄も無いその変容っぷりは、雑賀がこれまで想っていた苦郎のイメージを覆すほどで、まるで――いや確実に自分や縁芽好夢が『知らない場所』で戦い続けてきた証拠のようにも見えた。
まず、制服の端から見える皮膚は全身にかけて濃い目の茶色を帯びていき、その体表の変化を基軸に頭部からは山羊のように歪曲した二本の角が。
続けて、鋭い爪を生やした両腕の筋肉が発達するのに合わせて白い制服が粒子に分解され、両脚もまた間接が増えて獣のような形に変わると、履いていた黒いズボンや靴もまた必要だと判断された部分だけを残し腰巻きのような残骸へと成り果てる。
その瞳に赤色を宿し、二の腕や腰元には黒色の鎖が巻き付き、終いには背から紫色の膜を張らせた六枚の翼が生えて、彼の変貌は終了した。
「……おいおい……」
その外見は悪魔と呼ぶに相応しい、欲望を醸し出す罪の象徴とさえ言えるもの。
その種が司る力は凄まじく、時としては圧倒的な暴力へと変換されるもの。
それを見た雑賀は思わずといった調子で、こう言った。
「……そりゃあ、ある意味においてはお前にピッタリと言えなくも無いかもだが……いくら何でも、そんな大物を抱えてやがるとか予想外だぞ」
「望んで宿したわけでも無いし、盛大な椅子取りゲームの結果としか言えんのだがな」
その口調もまた、その種に相応しい物へと変質しているように思えた。
雰囲気も口調も何もかもが異なる彼に向けて、雑賀はその種の名を紡いだ。
「七大魔王、怠惰の『ベルフェモン』……。こういう場合は頼もしいと言うべきか、それとも恐ろしいと言うべきなのか分からないな……」
「恐れられる覚えこそあれど、頼もしく思われる覚えは無い。……ひとまず、これで確認は済んだな?」
そう言った苦朗の体から再び粒子が生じると、その体は『ベルフェモン』と呼ばれるデジモンに類似したそれから元の姿――制服を纏った青年の姿へとあっさり戻していた。
どうやら言うところの『情報変換』を解除したらしい。
「え、制服とかズボンとか、そういうのも戻るのか? 司弩蒼矢の時もそうだったが」
「身に纏っている衣類とかは、肉体を変化させる過程で邪魔だと判断された場合、あんな感じでデータの粒子に変換して『肉体の一部』として吸収されるのさ。よく、女の変身ヒーロー物とかでも衣類が丸ごと変わった後、変身を解除した時にはあっさり『元の形』に戻ってただろ? それと似た理屈だ」
「……ちょっと待て。『肉体の一部』として吸収されるって事は、つまるところ変身の後の姿で外傷とか受けた場合……」
「まぁ、確実に欠損するわな。お前みたいに『獣型』のデジモンの力を行使する場合、骨や肉とか皮膚の次に『身に纏っている物』が変換の対象になる。俺みたいな悪魔……いや『魔王型』に関しては、種によって変わるんだが……三体ぐらいは衣類とかを一部『巻き込んで』変換する事になるだろうな。現に、俺は腕とか脚とかの部分的な変化が大きいから、あんな感じで制服もズボンも粒子変換されてただろ」
「うわ、マジでか!? あの時の戦いの最後の辺りで、俺思いっきり氷の矢とか食らってたわけなんだけど!!」
どうやら、原型となるデジモンの種族――そしてその骨格によって、身に纏う衣類にも影響は出るらしい。
変身ヒーローの定番――と言えば簡単に思えるが、実際に『それ』が起きる事はまずありえないと言っていい。
粒子だろうが量子だろうが、物体を粒状に変換して、また必要な時に『元の形』に修繕されることなど、実際はSFよりもファンタジー色の方が濃いぐらいだ。
それならまだ、衣類の上からアーマーやら何やらを新たに纏っている方が、現実味があるレベルだろう。
「……つくづく不思議なもんだ。物理法則って何なの? アテに出来ないのは警察だけじゃないって事かよ」
「まずは『何が起きてもおかしくない』って前提を受け入れてもらわないとな。現実世界だからイレギュラーっぷりが引き立ってるってだけで、デジタルワールドではそんなにおかしい事でも無いかもしれねぇし」
雑賀には当然知る由も無い事だが、実際に彼の友である紅炎勇輝は『感情』を力に変換する事で危機を脱している。
その仲間となったデジモンも、同じく。
物理法則を越えた力を敵味方の両方が行使出来るという事は、これまでの常識をある程度捨て去る必要があるのだろう。
既に体験しているからか、雑賀は『それ』に対して拒絶する事も無かったが。
「……ところで、結局あのフレースヴェルグ……あと、勇輝を『ギルモン』としてデジタルワールド送りにした奴の属する『組織』ってのは何なんだ? 『タウン・オブ・ドリーム』で俺に情報提供したあの女曰く、勇輝の存在が重要になってるらしいが……」
根本的に、敵となる『組織』の思惑は不透明だ。
自分よりもこの手の問題に対面してきたであろう苦郎なら、何かを知っているかもと雑賀は期待したが、
「それについては俺も解らん。成った種族が『ギルモン』である事を考えると『デジタルハザード』の刻印が何か絡んでるのは確実だろうが、それで具体的に何をしようとしているのかまでは解らない。単純に世界崩壊とかを考えてるわけじゃないっぽいしな……」
どうやら、その『組織』の目的は苦郎も把握してはいないらしい。
だが、返事を返した直後に彼は言葉を紡いだ。
「ただ、その組織の名前はハッキリしてる。以前相対した時、割りとあっさり口を開いたからな」
「……俺と会話した時には『組織』としか言ってこなかったんだが」
「知らん。犯行前に予告状を送る怪盗でもあるまいし、その時には必要性を感じなかったからじゃないか?」
そう言われると、どうにも反論出来そうにも無かったので黙り込む雑賀。
それに構う事も無く、苦郎は既に知っていた情報として告げる。
「奴等の属する『組織』の名前はな――――」
決定的な、それでいて不透明なその名を。
「――――『シナリオライター』。そう言うそうだ」
◆ ◆ ◆ ◆
同じ頃、同じような状況と同じような部屋の中にて。
とある青年の、深層にまで沈み込んでいた意識が回復し、その瞳が暗闇に開いていた。
司弩蒼矢。
つい数刻前までバケモノと化し、とある狼男と死闘を繰り広げていた隻腕隻脚の青年だった。
「……ぅ……」
その意識は朦朧としていて、実を言えばその原因たる人物も同じような状況だった事を彼は知らない。
状況を確認する前に消毒用のアルコールの匂いが鼻に付いたので、彼は自らが置かれた状況を瞬時に理解出来た。
そして、自身が未だに隻腕と隻脚であるままこの場に居るという事が、どういう事を意味しているのかも。
(……僕は負けた、のか……)
単なる競技でのそれとは、全く違う意味合いを持った二文字の言葉。
それが、彼の頭に深く深く突き刺さっていた。
「………………」
あれだけの有利条件が重なった場で、敗北に繋がる要素など考えられなかったのに。
他でもない、自分自身の『これから』が掛かっていたのに、負けた。
顔も見た事さえ無いであろう相手に、掲げていた理由も、闘う意思さえも否定された。
何より、こうして生かされたまま病院に送られた。
「……くそっ……」
悔しい、という感情が沸き立つ前に、根本的な部分で彼は苦悩していた。
あの行動が『正しい』行いでは無い事ぐらいは明らかだった……が、それなら自分にどういう手段が残されていたのか?
何事を行うのにも必要な腕も、地を蹴り歩を進めるための二本の脚も、それぞれ一つ失って。
自分の個性を引き立たせる事で、その存在を認めさせるのも出来なくなって。
病院で療養生活を送り続けていても、心中に不満は募り続けて。
心の何処かでは、家族と会うことさえ恐れてしまっていたというのに。
自分に、何が出来た?
分からない。
「……牙絡、雑賀……」
自身を打ち負かした相手の名を呟くが、そこにはもう敵意も殺意も無かった。
まるで、意思も何もかもが霧散してしまったかのような声だった。
そんな状態だったからなのか、あるいは行動の起点となっていた理由さえも解らなくなっていたからなのか、今の彼には『力』を行使する事は出来もしなかった。
そして、行使しようとも思えなかった。
彼の意識は、再び深海のように深き無想へと沈んでいく。
◆ ◆ ◆ ◆
対話が終わり、病室から出て行った縁芽苦郎は自宅に戻っていた。
彼は半ば無断で病室に入っていた立場のだが、彼が居た痕跡は現実に残されてはいないだろう。
牙絡雑賀との会話を開始する以前に、既に彼は電脳力者としての『力』を行使して情報を遮断していたのだから。
尤も、閉じている扉や窓を開けたままにしたり、電気を付けたりすると『記録に残る物』はあるので、彼が侵入……そして脱出に使ったルートは自動ドアが存在するロビーでは無く、洗濯物を干したりドクターヘリを利用するのに使われているのであろう屋上だった。
落下防止用に人の背丈と同程度の柵が設置されていたが、彼はそれをよじ登る事も無く、その体を雑賀の目の前で見せた『ベルフェモン』を原型とした物へと変異させると、六枚の翼を羽ばたかせて病院の敷地内から飛び立ったのだ。
そうして、肉体を変異させたままマンションにある自宅の玄関前へと着地し、閉じられている扉に鍵をピッキングでもするかのように慎重に差し込み、彼自身が小規模に展開している力場の効力によって音も無く室内に入っていく。
あくまでも『ただの人間』の範疇に入る親は目撃する以前に眠っており、当然この時間帯になると縁芽好夢も同じく寝床に着いていた。
自室に戻った彼は、状況を確認し終えると肉体を変異させている『力』を解除する。
「――がふっ……」
途端に、彼は自身の左胸の部分を左手で押さえ付け、口から出さざるも得なかった物を右手の中に吐き出した。
その色は、紅かった。
だが、それを見ても彼は何の動揺も見せず、その吐き出した物をティッシュで即座に拭き取ると、何ら変わらない調子で寝床の上に横になった。
つまる所、そんな生活を彼はずっと前から続けていた。
それが、彼にとっては『当たり前』の日常となっていただけだった。
◆ ◆ ◆ ◆
表向きには防犯オリエンテーションが『無事』に終了したとされ、それぞれの学校に通う生徒達が各々自由に活動する中、縁芽好夢は家にも帰らず制服姿のまま街の中を徘徊していた。
その表情からは喜びの感情が薄く浮き出ていて、第三者が顔を覗き見たら『イケメンのお金持ちからお茶会のお誘いでも受けたの?』だとか質問されてしまいそうである。
つい数時間前、彼女は行事の関係で街の中を歩いている最中に遭遇したイカと人間を掛け合わせたかのような姿をしていた怪人と、人間の体に鳥類の要素を組み込んだ上で江戸時代の侍を想わせる衣装を着せたような姿をした怪人――それ等の非現実的な体を有した存在を目の当たりにしていた。
街中を徘徊していれば何処かで話題に上がっていてもおかしく無いにも関わらず、実際には殆どの人物がその存在さえ認識していない存在。
兄である縁芽苦郎が人知れず直面しているのかもしれない、そんな非現実との対面。
正直に言って、縁芽好夢は刺激を求めていた。
常識に縛られ、進んでいる道が正解か失敗かも判断出来ず、行き止まりに直面してしまっていた自分に新たな道を示してくれる、一種の光明とさえ言える刺激を。
そういった意味では、例えあの場で鳥人の侍が文字通りの助太刀に来てくれなかったとしても、もしかしたらその後には喜びを感じてしまっていたかもしれない。
そんな事を考えている自分自身が嫌になるが、もしもこのまま『進む』事も出来ないまま立ち往生し、何も出来ないまま安全圏でのびのびとしていたら。
手を伸ばしても届かない場所に、数学的な距離など関係の無い『遠い』場所へと進んでしまう。
その隣に立って、力になってあげたい――そんな願望を抱いているが故に、自らの現在の立ち位置に納得が出来ず、どうしても諦めきれなかった。
(……背中を追い駆けるための道順はわかった。後は、あたし自身が何かの切っ掛けで『覚醒』出来るように頑張ればいいだけ……)
姿自体異質なものだったが、あの怪人達は人間の言葉で話す事ができ、実際に会話も出来ていた。
自分を助けてくれたと思われる鳥人の侍の持ち物には、刀の他に市販の物と思われるカバンもあった。
であれば、あのカバンも含めて非現実の産物で無い限り、あの怪人達は元々『普通の人間』だったと考えてもおかしくは無い。
そして、件のイカ人間の言う事から推理しても、自分には『非現実の力』を得る資格がある。
後は、それに『覚醒』するため何をするべきか。
(……あの変体イカ人間みたいな悪者もいれば、一方で鳥人間侍みたいに影ながら頑張るヒーローみたいな怪人だっている。もし苦郎にぃや雑賀も『力』を持っているのなら、間違い無く後者だとは思うんだけど……出会ったとしても誤魔化されるだろうし、やっぱりここは手当たり次第に『当たって』みるのが一番かな。悪い奴と対峙出来れば一発で『変身』出来るようになると思う。というか、思いたいんだけど……)
つまるところ、危険を自ら冒しに向かう自傷行為。
普段ならばまず通らないであろう道を選んでいるのも、その一環に過ぎない。
故に、善人だろうが悪人だろうが、最低限『力』を行使出来るような人物と鉢合わせに出来れば良いと、縁芽好夢は不謹慎だと思いながらも考えていた。
耳の中に、雑音混じりの絶叫のようなものが入り込んでくるまでは。
思わず身をすくめると、頭の中が急速に冷静になっていく。
自分がどれだけ都合の良い光明に頭を沸騰させていたのかを自覚する。
「……今のは、何……」
音が何処から聞こえたものなのか、方向はすぐにわかった。
音の発生源へ向かえば彼女の求める『何か』がある。そんな予感がする。行けば解る。行くための道がある。
そんな、求めている要素を感じられる切っ掛けを認識出来たにも関わらず、好夢の心には少し前までの高揚感などは一切無く。
心臓の鼓動が高鳴る一方で、得体の知れない緊張感と恐怖心が感情の大半を占めていた。
「…………」
恐怖に従い、音のした方から離れる事こそが理性的な行動である事はわかっていた。
だが、一方で。
ここで逃げてしまうようならば、これから先このような機会に出くわす――いや、恵まれたとしても何の進展も有りはしないだろう。
好夢からすれば、その結果に対する恐怖は未知の物と比べても強い。
少なくとも、今は。
故に、彼女は恐怖を押し殺して未知へと足を踏み入れる。
感覚を頼りに人通りの少ない路地を進み、抜けた先で彼女が見たのは――
◆ ◆ ◆ ◆
「……ぅ……」
司弩蒼矢は口の中で小さく呻き声を発した。
自分が何か硬く冷たいものの上でうつ伏せになって倒れている状態なのは理解出来たのだが、一方で前後の記憶が曖昧で、何故自分が倒れているのか、気絶してしまっているのか、そもそもここは何処なのか――そういった当然の疑問に対しての答えを得る事は出来ていない。
朦朧とした意識の中、何処かから誰かの声が聞こえてきた。
「――終わってみればあっさりしてんなぁ。こんなクソ真面目そうなヤツが役に立つもんかねぇ?」
「――知らねぇよ。命令なんだから仕方無いだろ? 安易に断っても損するだけだぞ……っと」
顔を見たわけでは無いが、声だけでも伝わる粗暴な印象には危険性を感じずにはいられない。
何より、自分をこの状況に陥らせたのが声の張本人であるならば、まず間違い無く善人であるはずが無い。
不幸中の幸いとでも言うべきか、危機感から思考能力が徐々に戻ってくる。
(……意識が、無い内に殺そうとしなかった、という事は……狙いは、僕自身……?)
真っ先にそんな疑問を浮かべられたのは、気を失う直前に彼自身が自らに宿る怪物の事を考えていたからだろう。
だが、その疑問から派生する形でもう一つ、忘れてはならない優先すべき疑問が浮上する。
そう、
(……待て。それなら、あの子は……磯月波音さんは……!?)
疑問から焦りが生まれ、薄かった呼吸が荒くなる。
冷静に物事を見渡そうとする余裕など、一瞬で失われる。
思わず腕に力を加えて起き上がろうとしたが、
「おっと」
「ぐっ!!」
直後、背中に靴底を押し付けられ、地べたに縫い付けられてしまう。
迂闊な行動だったと、後になって思い知らされた。
呻き声を発する間も無いまま顔を上げさせられ、視界は地から正面の方へと向かされる。
恐らくは声を出し、尚且つ蒼矢をこの場に引き摺り込んだ張本人であろう人物の姿が、瞳に映し出される。
服装こそ黒と白の縞模様なポロシャツと灰色のズボン――と、一見すると普通な容姿をしているが、剥き出しの気配は対照的に異質なものとして認識された。
つまり、
(……この男も、僕と同じような『力』を持っているのか……?)
「ようやくのお目覚めか。はじめまして……と言った方が良いんかね」
「……何者なんだ、お前達は……」
簡単には答えてもらえないだろうと思いながら、それでも問いは出してみた。
すると、意外な事に軽い調子で回答があった。
「ん……まぁ、アレだ。大体想像は出来てるんじゃないか? とある組織の構成員。んで、何か凄い力を持ってるらしいお前の事をボスが欲しがってて、まぁ仕事の流れでちょっと拉致らせてもらったってわけ。状況を少し理解したか?」
「……随分あっさり語るんだな」
「時間はあんまり取りたくないんでね。別の『組織』に先手を打たれる前にって話もあったし」
組織という言葉に、蒼矢は警戒心を強めていた。
背中に押し付けられる靴底の重さが、増した気がした。
フレースヴェルグと名乗っていた男との会話を、ふと思い返す。
『……家族は、母さんや父さん、弟はどうなるんだ』
『それについては何とも言えんな。俺やお前と『同じ力』を持った奴等が何かをしでかして、ぽっくり死んじまう可能性もあれば、何事も無い状態に出来る可能性もある』
家族の死。
その言葉をなぞっただけでも、背筋に冷たい物が奔った。
そんな蒼矢の心境などいざ知らずか、あるいは知った上でなのか、男はいきなり本題を切り出してくる。
「で、とりあえずだが……お前さんは『組織』に入るつもり、あるか?」
「…………」
意思を汲み取らず強制するようなものではなく、意思を確かめる質問の形の言葉ではあったが、感じられる物は悪意以外に無かった。
まず、間違い無く目前の男の背後にある『組織』は白では無いだろう。
仮に『誰かの安全を守る』事を前提に据えた活動をするホワイトな枠組みであれば、まずこのような方法で目的の人物と接触を図ろうとはしないだろう、と蒼矢は思う。
つまるところ、目的のために手段を選ばない類。
返答次第では蒼矢と関係のある人物を人質に取る事も辞さないであろう事は、容易に想像出来る。
質問にした理由も単純だろう。
目の前の男、あるいはその背後にある『組織』は、蒼矢に自らの意思で『組織』に従う事を選ばせようとしているのだ。
「悩むのは事由だが、あんまり時間は掛けるなよ。仕事が滞るのは勘弁願いたいんだ」
「……答える前に、こちらからも質問をしていいかな……」
「?」
恐らく、この状況で問う事が出来るのは一つだけだと思いながら、蒼矢は問いを出した。
「僕と一緒に居た、あの女の子はどうしたんだ……?」
「あぁ、その事か」
さして気にしていなかったかのような、本当に適当な調子で相槌が打たれる。
恐らく、無事に済ませてもらってはいないだろうと蒼矢は予想していた。
「おい、こっちに」
男は視界の外に居るのであろう別の人物に対して声を掛けていた。
やはり、事態に巻き込む形でこの場に磯月波音も連れ去って来たのだろう。
場合によっては、家族以外の人質要員として利用される可能性も十分に考えられる。
強引な伏せの状態に辛さを感じながらも、何とか首を動かし、男が声を掛けた人物の方へと振り向く。
そこには、磯月波音がいた。
目立った外傷などは見当たらず、まだ幸いにも乱暴な行為はされていないであろう事を理解した蒼矢は少しだけ安堵したが、
「…………」
何か、猛烈な違和感があった。
明るさというものを感じない表情に関してもそうだが、全体的な雰囲気が病院で会った優しい少女とは掛け離れているような気がする。
姿勢を低くして蒼矢に要件を投げ掛けていた男は、ゆっくりと立ち位置を波音と入れ替える。
会話の猶予を与えてくれた――そう認識した蒼矢は、疑念を浮かべながらも顔を上げて波音に声を掛ける。
「大丈夫? 乱暴な目に遭ったりしてない?」
「……この状況で、こちらの心配をしてくれてるんですね……」
「心配ぐらい……するに決まってるじゃないか。ほんの少しだろうと関わりがあるんだから」
「……そうですか」
「……ごめん。こんな事に巻き込んでしまって……」
ただ、聞きたい事を聞いて、言いたい事だけを言う。
ひょっとしなくとも、もっと掛けてあげるべき言葉はあったのではないかと思ったが、状況から考えてもこれが今の蒼矢にとっては限界だった。
「……蒼矢さんが謝るようなことじゃないですよ……」
波音は、首を横に振りながら平坦な声で返していた。
気遣うようなその言葉を、蒼矢は否定しようとした。
だが、その前にこんな言葉があった。
「……だって、今の状況になるように蒼矢さんを誘い込むのがわたしの役割でしたから……」
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
本当に、一瞬。
自分が何を言われたのか、蒼矢は理解出来なかった。
いいや、正確には信じられなかった――信じる事を拒んでしまっていた。
視界がぐらつき、胸の中央に風穴でも空けられたような錯覚に陥る。
そんな蒼矢の様子を気に留めてすらいないのか、少女は坦々と言葉を紡ぐ。
「ここまで簡単に誘導されてくれるとは思ってませんでしたよ。正直、最初に病院で会った時点で疑いを持たれて、そこで寸止めになるとも思ってたんですが……」
「…………」
「何と言っても病院ですからね。無許可で突然いなくなったりなんてしたら、間違い無く騒ぎになります。騒ぎになったら、別の『組織』……そうでなくとも物好きな人が出て来て邪魔してくる可能性も考えなければなりません。だから」
「……やめ、ろ……」
「何とかお医者さんの許可を得て、病院側にも『認知された上で』外出させる必要があったんです。後は、道案内をする流れの中で色々遣り繰りして、この通り。流れは飲み込めましたか?」
「もうやめろ!!」
これ以上は聞きたくない。
それ以上の言葉を紡いでほしくない。
答えはもう解ってしまった。自分で考える間も無く。
それでも、蒼矢は張り上げた声で反論する。
「君は……こんな事に加担するような人だったのか? いいや、そんなはずは無い。そんな事をする人間だとは思えない!! だって、だって……っ!!」
「そんなはずが無い、ですか……大して覚えてもいない相手なのに、不思議な事を言うんですね。わたしが、どういう人なのかも知らないはずなのに」
「それは……」
言われて、蒼矢自身も今になって気付かされた。
自分自身、この磯月波音という人物の事を何も知らないという事を。
最初に自分の事を覚えているかどうかを問われた事も、自身の視点から語った思い出も。
全ては偽り。ほんの僅かでも親しみを得て、この状況に誘導するための疑似餌に過ぎなかった……っ!?
そして、決定的な情報が蒼矢の視界に飛び込んで来る。
裏切り者の少女は、懐から何か黒くて硬そうな物を取り出したのだ。
テレビのリモコンのように平たく長い四角の先端に、数ミリ程度の短い電極がはみ出している『それ』の事を、世間では何と呼ばれていたか。
「これ、何なのか解りますよね?」
「……スタン、ガン……」
様々な形で設計され、電極部を対象に押し当て電流を流す護身用の武器。
少なくとも日常的に見られるような物ではなく、青少年による購入自体が基本的には制限されている代物なはずだが、やはり少し前まで蒼矢に声を掛けていた男の属する組織は法律も道徳もお構い無しなのだろう。
もう、嫌でも事の成り行きに気付く事が気付く他になかった。
気絶する前、蒼矢の意識を狩り取ったのは波音が持っているスタンガンで。
そして、背後から突如として感じられた気配の発生源であり、振り向く暇さえ与えずに蒼矢の首筋を狙う事が出来た人物として挙げられるのは……
「……本当に、君なのか……」
「だから、言ったじゃないですか」
そして、少女は笑顔を浮かべ、会話の最後をこう締めくくった。
「これがわたしの役目でしたから、と。信じていてくれて、本当にありがとうございました」
善意を向けられる資格自体、とっくに失われていると思っていた。
だから、例え自分が死ぬような事になったとしても、それ以上に酷い目に遭う事になったとしても、は当然の結末なのだろうと受け入れて納得する事が出来ると思えているつもりだった。
向けられている善意が偽りのものであったとしても、平気でいられるのだとも。
そんなわけがなかった。
心に救いを与えていたはずの物が、失われるどころか鋭い痛みを与えるためのナニカへと変じ、それを頭で理解した瞬間に悲しみが心の中を埋め尽くす。
そして、司弩蒼矢は絶叫した。
嘆くようなその声を聞いても、少女は何の言葉も返さなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
狼の獣人のような姿の牙絡雑賀は、現在進行形で焦っていた。
率直に言って、嗅覚を頼りに探すのにも限界があったのだ。
司弩蒼矢が拉致された現場と思われる場所から、明らかに人間のそれとは異なる臭いが『足跡』という形で察知出来はしたのだが、肝心の『足跡』が途中で途絶えてしまっていて、追跡に必要な情報が寸断されてしまっていた所為で。
(……くそっ……こうしている間にも、何か取り返すのつかない事になってるかもしれないってのに……!!)
幸いにも、司弩蒼矢かその友達の携行品と思わしきミネラルウォーターのペットボトル(飲み残し)の表面に確かな臭いが残っていたため、足跡とは異なる捜索に必要な情報を一つは確保出来ている。
だが、足りない。
確かに同じ臭いを感知する事が出来れば確実に移動先を割り出す事が出来るだろうが、そもそも同じ臭いを殆ど感じ取る事が出来ていないのだから、どちらにせよ拉致した側との距離を道標も無しに詰められなければ意味が無い。
(……鼻は今のところ頼りに出来ない。だがそれ以外に関する情報が無い)
こうなると、一度嗅覚に関する情報は頭の中から取り除いて考えてみる必要があるのかもしれない。
運任せに都会を奔走してもどうにもならない事ぐらいは、流石に理解出来ていた。
(……拉致する側からすれば、司弩蒼矢が連れ去られたり危害を加えられたりする場面を、一般の人間に見られなければいいんだ。デジモンの力を使って、力場を発生させるだけで一般の人間から目撃される事はなくなる。だけど、これだけじゃ足りない。何かをして司弩蒼矢の身動きを封じられたとしても、徒歩での移動にするとどうやっても移動中を感知される。力場の存在は、同じ電脳力者に感知される可能性を増させるわけだからな)
実際、牙絡雑賀は一度、裏路地から発生した力場を感知し、不良染みた風貌の電脳力者三人と対面している。
無論、同じ電脳力者が現場に立ち会っていたとして、見ず知らずの司弩蒼矢を助けるため動き出すのかという疑問もあるのだが、デジモンの力を使った痕跡というものは臭いという形で残されていた。
それが寸断されていたという事は、拉致を実行した電脳力者は途中からデジモンの力を使わずに司弩蒼矢を連れ去ったという事になる。
デジモンの力を使っていない時には力場が発生しないため、一般人の目にも入る。
状況を一目見て通報をする人間が居てもおかしくは無いが、事実として誰かが通報をしているようには見えない。
普通の人間からも発見される状態の上で、自分達や司弩蒼矢の姿を都合良く隠し、短時間の間に大きな距離を離す事が出来る手段。
シンプルに考えてみると、答えはとても単純な物でしかなかった。
(……車。単純だが、中の様子を外部から探られず、多人数で移動するのならこれしかない)
――次に、どのような車ならば目立たずに移動出来るかを考えてみた。
(……今は『消失』事件の対策で東京都の各地域で警戒態勢が敷かれていたはずだし、別の地域にまで移動している可能性は低いはず。スモークフィルムが張り付いた車なんて、規制が入った今の世の中じゃ逆に目立つ。運転席にでも貼り付けてたら、未成年の無免許運転を怪しんで警官が確認に乗り出す可能性だってある。フルスモークだったら尚更だ。拉致する側からしても運転者の視界は確保したいだろうし、スモークフィルムを使わずに車内を隠すとして、仮に逃走中に車そのものを力場で認識出来ないようにしたら間違い無く事故が起きるから論外。だとすれば、荷物という括りで『中身』を誤魔化せる大型のトラックか?)
――そして、移動出来たとしてそれがどのようなルートを辿るのかを考えてみた。
(大型のトラックなら人間を荷物扱いで乗せれば外部から視認される事も無くなるが、仕事に関係無いイレギュラーな道を進んでいたらやっぱり目立つ。だったら、移動区域はやっぱり街の中に絞られる。時間も関係無く、ルートが不規則でも目立たない、あるいは怪しく思われないもの。ネット通販なんて便利な物はあるが、運送業は無いな。決まった場所に決まった時間で向かう以上、ルートは絞られるから。だとすれば、エアコン絡みの専門業者か光ファイバーや高速無線回線を保守点検する電装業者業者。どちらも決まったルート自体が存在しないし、しっかりとした面目があるわけだから怪しまれない)
後は、探すだけだった。
広大な街の中で一つの車を探し当てる事自体が中々に難度の高いものだとは思うが、少なくとも探すべき目印を決められた事は捜索の進展の繋がるだろうと、思う。
実際には、こうして深く考えてみれば自分は前に進めているのだと錯覚でき、不安を多少は打ち消せると思っての事に過ぎないのかもしれないが。
と、当ての薄い捜索活動に再び走り出そうとした時だった。
「あ、いたいたー。ちょっとそこの人待ってくださーい」
思いっきり棒読み染みた声が、雑賀の耳に入って来た。
疑問を覚えながらも一応声のした方へ振り向いてみると、侍の容姿に似せた鳥人がいた。
誰がどう見ても人外の類で、何らかのデジモンの力を行使している電脳力者なのだとすぐに理解した。
「……誰だ? その姿を見るに電脳力者みたいだが」
「あぁ、こちらからすると初対面ですよねー。僕、鳴風羽鷺って言います。縁芽苦郎さんのパシりって言えば、大体の立ち位置はわかると思うんですけどー」
縁芽苦郎のパシり。
言い方に疑問こそ浮かぶが、少なくとも敵同士の繋がりではない事は理解出来た。
そして、この局面で接触を図ってきた以上、ただ挨拶に来たわけではないであろう事も。
「その苦郎のパシり君が何の用だ? 今かなり忙しいから要件は手短に済ませてほしいんだけど」
「その要件というのは、苦郎さんの言っていた司弩蒼矢という人物の事ですか?」
コピー用紙を吐き出すような緊張感の無い口調だったが、発言自体は重要な意味を持つものだった。
縁芽苦郎――ベルフェモンと呼ばれる『七大魔王』を宿す電脳力者が、司弩蒼矢について何か発言をしていた。
彼が関心を持っているという事は、今回の事件には『シナリオライター』と呼ばれる組織が関わっている可能性が浮上する。
「……やっぱり、今回の件についてあいつも何か知っているのか?」
「その口ぶりからすると、既に状況が動いてしまってるみたいですねー」
「教えてくれ。何であいつが狙われたのか、あいつは何処へ連れて行かれたのか、知っている事を全体的に!!」
「うーん、まずは落ち着いてほしいんですけ……その顔で迫られると普通に怖いですってばぁ!?」
よほど恐ろしい表情になっているのか、鳴風羽鷺と名乗る鳥人は一歩後ろに下がっていた。
両手の掌を前に突き出し、落ち着くようジェスチャーで示しているようだ。
それを理解した雑賀が何とか意識して表情を和らげなものにしてみると、多少はマシになったのか鳴風羽鷺は案件を喋りだした。
「まぁ、僕の方も苦郎さんからついさっき聞いたばかりなんですけど……まず、その司弩蒼矢って人を真っ先に狙うであろう組織の事です」
「……『シナリオライター』の事なら既に聞いてるんだが。まさか、ここに来て別の『組織』だなんて話じゃないだろうな」
「そのまさかなわけですけど。確か、苦郎さんは『グリード』って名称で呼んでましたよ。正直名称なんてどうでもいいですが、実際その組織は『シナリオライター』とは別の組織として扱うべきだって話らしいです」
「…………」
正直なところ、疑問はいくつか浮かんでいた。
確か、縁芽苦郎の話では『シナリオライター』という組織自体、どのような思惑でもって活動しているのか詳しく解っていないとの事だった。
その言葉自体が嘘で本当は核心に迫っているという可能性も決して無いというわけでは無いが、それはそれで話さない理由があるのかという疑問が生じてしまうので、本当に知らないのだと雑賀は思う。
一方で、鳴風羽鷺の口ぶりからすると、司弩蒼矢を狙っているのが『グリード』という組織であるという事に関しては、確信をもって言っているような気がする。
更に言えば、わざわざ別の枠組みとして強調している辺り、むしろ『シナリオライター』以上に危険視さえしているような……?
「で、その『組織』の目的なんですけど、どうやら司弩蒼矢に宿っているデジモンの力を欲しているらしいです。苦郎さん曰く、何がなんでも『グリード』の手中に収められるのを避けたいんだとか」
「……それで、俺にあいつを助けに行けってか? それなら元からそのつもりだし、何というか取り越し苦労だな」
「あぁ、そういうわけじゃなくてですねー」
率直に浮かんだ予想を否定され、思わず疑問符を浮かべる雑賀。
そして、鳴風羽鷺は間延びした口調のままこう言った。
「どうせ『グリード』の手に渡るぐらいなら、殺して完全に無害化した方が確実。だから、今回の事件にあなたは首を突っ込まないでくれ、との事です」
呼吸が、一瞬だが確実に止まった。
言われた言葉の意味を、すぐには理解出来なかった。
そして、理解が追い着いた途端に、急速に頭の中が沸騰し始めた。
「……おい、待ってくれ……」
「はい?」
「殺して、無害化……? それはつまり、そういう事なのか? 司弩蒼矢を、殺すって。あいつがそう言ったのか!?」
「確かに言ってましたよ。そうじゃなければ、別の案件だって抱えてるのにこうして伝言を伝えさせる理由が無いですし。多分、戦闘に巻き込みたくないとかじゃないですか?」
「そんな気遣いなんてどうでもいい!!」
確かに、恐ろしくないと言えば嘘になるほどの力ではあったかもしれない。
出会った当初は理性を失って本能に身を任せていたようだったし、視界に入った途端に攻撃を開始していた事を考えても危険性は否定出来ない。
理性を取り戻した後も『失った四肢を取り戻す』という動機で戦闘を継続し、実際のところ死ぬか死なないかの寸前にまで追い詰められてはいた。
だが、それにしたって。
「……何でだよ。その『グリード』って組織がどういう物で、どういう奴が仕切っているのかは知らないけど……何でその組織の利益になる力があるって『だけ』でアイツが殺されないといけない!? アイツには、殺されてもいい理由なんて……!! 何を考えてやがるんだあの野郎は!?」
理由の納得など、出来るわけが無かった。
人の命を奪うという事がそもそも容易に受け入れられるものでは無いのに、ましてや利益の阻止などという理由などで認める事など出来るわけが無い。
狼狽する牙絡雑賀に鳴風羽鷺は困ったような表情こそ浮かべているが、そこから感情を読み取る事が出来ない。
対岸の火事でも眺めているような、他人事の反応だった。
だから、何の動揺も無く言葉を紡いでいた。
「うーん、何で殺されないといけないかって聞かれても、理由なら既に言ってますよ。宿っているデジモンの力を、『グリード』って組織の利益に繋がらせないため。要するに、司弩蒼矢という人自体が重要なんじゃなくて、宿っているデジモンの事が一番重要みたいですねー」
宿っているデジモンの力が、敵である組織の利益に繋がるから。
偶然宿ってしまったのであろう人間が誰かなど関係無く、ただ成り行きでそうなったから。
思えば、病院で自身に宿るデジモンの事を雑賀に対して伝える際に、縁芽苦郎自身も言っていたではないか。
これは、椅子取りゲームの結果だと。
その言葉の意味が、ここに来て解ったような気がした。
だが、そもそも。
「……それほどまでに、殺さないといけないような『力』じゃなかったはずだぞ。司弩蒼矢に宿っているのは、成熟期デジモンの『シードラモン』だったはずだ!! 確かに危険な力を持っているかもしれないが、苦郎の奴に宿っている『ベルフェモン』に比べればずっとマシなはずだろ……!!」
「それなんですけど、正確には現時点で『グリード』の利益になるデジモンの力を振るう事が出来るってわけじゃないみたいですね。いずれ成長した結果、危険視するようなデジモンの力を得る、あるいは力そのものが変質する可能性が高いから、未然に阻止する必要があるんだとか」
確かに、本来デジモンとは『進化』というプロセスを経て、段階を繰り上げる形で個の更新を続ける存在だ。
今でこそ宿している力は成熟期がベースの物だが、縁芽苦郎やフレースヴェルグのように究極体のデジモンの力を行使出来る電脳力者が実在する以上、雑賀自身も含めたあらゆる電脳力者の力には『進化』の可能性が存在するのは間違いない。
そして、もし仮に宿しているデジモンの力が、ホビーミックスされ誇張表現すらされている『設定』とそう大差の無い物であれば、その脅威の度合いは確実に増す。
つまりは、こういうことなのだろう。
敵対する組織の益となり、脅威と考えるには十分な力をいずれ得る可能性があるから、その前に芽を摘んでしまおう、と。
「……ふざけんなよ。いったい何なんだ、その……危険視してるデジモンってのは」
自分で問いを出しておきながら、話を聞いただけである程度の予測は出来てしまっていた。
七大魔王という、悪性を担うデジモン達のトップランカーとさえ呼べるデジモンの力を持つ者からして、それでも脅威と呼べるようなデジモンなど、数が限られすぎたから。
鳴風羽鷺は、あくまでも調子を崩さぬまま嘴を開いた。
そして、最悪の答え合わせがやってきた。
「えっと、確か『リヴァイアモン』って苦郎さんは呼んでましたね。僕はそんなに詳しく知ってるわけじゃないんですけど、苦郎さんに宿っているのと同じ『七大魔王』って枠組みにあたるデジモンみたいです」
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