Episode3≪≪
頭が痛くなることはありますか?
めまいを起こしたことはありますか?
小学生の私はその質問に正直に答えて、そしたら学校は、病院の検査でよく見てもらうようにと。そんな手紙を、親に書いて寄越した。
色々調べてもらって、その結果。私の身体はどこもかしこも異常無し、で。
帰り道、無言を貫いたまま速足で私との距離を作ろうとする母に、怖くなった私がしつこく「どうしたの」と問いかけ続けると、一度だけ。
母は振り返って「あんたが大袈裟な事を言ったから、時間とお金を無駄にした」と。そう言って、冷ややかに私の事を、見下ろしていた。
母の機嫌は次の日には何事も無かったかのように直っていたけれど。
何にもないと言われた私の頭痛は、今になっても、治っていない。
*
「あのう、あのぅ……!」
店員さんが戻って来た事に気付いて、私は気を紛らわせるために覗き込んでいた水槽から顔を上げる。
苔むした廃屋のオブジェに身体を預けていた歯車のデジモンが、私の視線を無機質な赤い瞳で追いかけたのが解った。
「あの、それで、アイスちゃんは一体……」
100均で買えるような、透明でお洒落なデザインではあるけれど、どこか安物感がぬぐえないプラスチック製の水筒。
同じデザインの容器がハーバリウムになっているのはSNSで見た事があるけれど、私がこの店で買ったこれは、アクアリウム。
染色した草花ではなく灰の砂と小さな貝殻やヒトデ、氷山を模したオブジェと一緒に、1体の生き物--デジモンが、入っている。
入っていた。
アイスちゃん、と呼んでいるそのデジモンは。
今朝、気が付いた時には。姿形が跡形も無く、消えてしまっていたのだ。
いつも水面に浮かべていた、本物の氷の粒と一緒に。
「大丈夫だよ。落ち着いて」
返事を待っているだけで荒波のように打つ脈がいつもの頭痛に変わり始めていた私とは対照的に、店員さんの声はあくまで凪いだように穏やかだった。
優しげで、柔らかい声。
見た目は(申し訳ないのを承知で率直に言わせてもらうと)黒ずくめに皺だらけの青白い顔、とほんのちょっぴり不気味なのだけれど、この人の言葉遣いや振舞いはいつもどこか温かみがあって、そうでなければ、アイスちゃんの一大事だというのに、私はこの店に駆けこむ事すら出来なかったに違いない。
怖いのだ。
迷惑がられて、疎まれるのは。
……でも、店員さんはいつも通りの調子でそう言ってくれたから。
だから、ふと、浅く呼吸を整えるくらいの余裕は出来て。
そのタイミングを見計らって差し出された水筒のアクアリウムの中にいつもの影がある事に気付いて、私は思わず、声を上げた。
「アイスちゃん!」
浅く透けた白い氷の粒が、いくつも積み重なって出来た、一応は人型のデジモン。
アイスモン、という種族だから、アイスちゃん。
そのまんま過ぎる名前で呼んでいるその子は、氷山のオブジェの谷間に腰かけたまま、黄色い瞳で申し訳なさそうに私の事を、見上げていた。
私はそんなアイスちゃんの眼差しと、店員さんの顔を交互に見比べる。
この子の無事を確認できたのは良かったけれど、でも、どうして。
だってアイスちゃんは、確かに、どこにもいなかった筈なのに。
「溶けていた、と、言えばいいのかな」
やがて、ひとつずつ言葉を選ぶようにして。顎に手を添えた店員さんが、口を開く。
「アイスモンは、名前の通り氷のデジモンだからね。長時間アクアリウムの外の空気にさらされたり、もしくはこの子自身が力を使い過ぎたり。そう言った要因が重なると、溶けてしまう事があるんだ」
どくり、と。
ひと際大きく、心臓が跳ねた。
ああ、言われてみれば。
アイスちゃんは確かに元通りになってはいるけれど、この子がいつも出していた氷は、一粒たりとも、浮かんでいない。
そうしようと思えばいつも一瞬で生み出していたのだから、つまりは、そういう事なのだ。
思いっきり心当たりがあるのが、顔にも書いてあるのだろう。
店員さんは、眉をハの字に傾けている。
「君がこのアクアリウムを買ってくれたのは、この子の能力に魅力を感じての事だというのは私達も重々承知している。それに、お世話に関しては何一つ不備が無かったというのも、この子の様子を見れば判ろうというものさ」
「でも、でも。私のせいで、アイスちゃんは病気になっちゃったんですよね?」
と、私の子の「病気」という単語には、店員さんは軽く首を横に振った。
「一時的な疲労さ。だから、君。あまり自分を責めてはいけないよ。アイスモンが無理をしたのは、この子が君を好いていて、なおかつ多少体調を崩しても君がきちんと看てくれるという信頼があるからだ。暗い顔でいると、むしろこの子の心配事を1つ増やす結果になってしまうよ」
私の思考を先回りするような店員さんの台詞に、嫌味が含まれているようには感じない。
純粋に、アイスちゃんの身を案じてくれているのだろう。
彼の言葉に促されて落とした視線の先にあるアイスちゃんの瞳は、確かに、不安で揺れているようにも見えた。
……そうだ。
体調が悪いせいで自分を責めなければいけなくなるのは。
そんな事は、辛いに決まっている。
「えっと……」
今度は私が言葉を選ぶ番だった。
頭の中で、店員さんの言葉を繰り返す。
「アイスちゃんは、力の使い過ぎと、アクアリウム内に外気を取り込みすぎたせいで、弱ってしまったんですよね」
店員さんは頷いた。
「じゃあ、その。疲れているなら、ゆっくり休ませなきゃだから……」
「1週間」
いよいよ痛み出した頭の中でぐるぐると彷徨っていた思考に、呆気なく回答が示される。
ピンと人差し指を立てながら、店員さんは静かに微笑んでいた。
「アイスモンには氷を出さずにいてもらって、君もアクアリウムの――水筒の蓋は、開けない事。そうしたら、もう1度アイスモンを私達のところに診せにおいで。それで問題が無さそうなら、また、アイスモンに氷を出してもらうといい」
「えっと、あのう……」
「もちろん、頻度は減らしてもらう事になるけどね」と付け加える彼に、頷きつつも、同時に湧いて出てきた疑問の言葉が口をつく。
「その。ずっとは、我慢しなくて、いいんですか?」
店員さんが更に深く口元に皺を刻む。
笑うと、殊更温かな印象が増す人だ。
改めてアクアリウムを見下ろすと、やはりアイスちゃんは私の事を見つめていた。
ずっと。いつもそうなのだ。
アイスちゃんは、私の事を、よく見ている。
「でも、1週間は安静に、ね」
私は今一度、今度はただただ、素直に頷いた。
頭が上下に振れると、その分、ズキリと頭が痛むのだけれど。
「うん、約束だ。……それから、こちらは要らない心配だとは思うけれど。当然、水筒の事も壊してはいけないよ。繝?ず繧ソ繝ォ繝ッ繝シ繝ォ繝が溢れてしまうからね」
ああ、また聞き逃してしまったな、と。私は思わず苦笑する。
およそ1ヶ月程前。このお店でアイスちゃんのアクアリウムを買った時にも私は似たような注意を店員さんの口から聞いて、そして、同じような景色を見ていたばかりに、彼の言葉を聞き漏らしたのだ。
宙に、砂嵐で出来た半円が浮かんでいる。
閃輝暗点、というらしい。片頭痛の前触れとして現れがちな症状なのだそうだ。
ある文豪はコレを歯車と例えたそうなのだけれど、私がアイスちゃんの診察結果を待っている間に見ていた黒い歯車のデジモンとは、やっぱり、似ても似つかない。
しばらくの間だけ。
視界だけは明瞭になるのを待ってから、私はアイスちゃんの姿が帰って来たアクアリウムを鞄に収めて、帰路に就く。
頭痛は酷くなる一方だったけれど、でも、何も見えないよりは多少はマシで。
ただ、痛みと一緒に熱を帯びてしまった頭は、我慢しなければいけない事は解ってはいても、口の中でがりりと噛み砕くための氷を求めていた。
*
氷食症。
いつの頃からか自分の身に起き始めた異変に病名があると知った時。妙に安心した事をよく覚えている。
同時に、氷食症の原因が「よくわかっていない」という曖昧さに、幽かに落胆した事も。
間違っても病気に罹りたいわけじゃない。健康が一番だなんて、そんな事。言われるまでも無くよく解っている。
でも、どれだけ頭が痛くても理由も解らずに「貴女は健康そのもの」だと言われるよりは。
そのせいで、責められたり、怒られたりするよりは。
よほど、気持ちが楽だった。
とはいえ、この「無性に氷を食べたくなる」という衝動には、やはり病というだけあってそれなりに悩まされた。
症状が出始めたのが夏場というのもあって、最初の内は飲み水に入れた氷を噛み砕いていても特に何かを言われる事は無かった。暑さのせいだと、そう片付けられたし、何より自分もそういうものだと思っていたのだから。
しかし肌寒い季節がやってきて、それでも製氷機から氷をすくい上げて噛み潰している私に、いよいよ母が我慢ならなくなったらしい。
女の子は身体を冷やしてはいけない、と。最初の内はそれだけだった忠告は徐々に語調の強さと言葉数を増し、最終的には出典も明らかでは無いインターネット産の知識を参考に、母は身体を冷やす事の恐ろしさをくどくどと解き、私を責めるのだった。
それでも私の歯は氷を噛み砕きたくて、たまらなくて。
何より氷を噛んでいる間は頭痛も多少マシになっているような気もして。
だから家族の目を盗みながら。例えば、食器を洗う合間だとか。
水の音で誤魔化しながら、音を立てないよう指先でつまんできた氷をゆっくりと両顎で潰したりだとか。そういう事は、していたけれど。
でも、それではとても、足りなくて。
製氷機の購入も検討したのだけれど、それこそとても親に隠れて持ち帰れる物では無いし、単純に私のお小遣いではなかなか手を出せないというのもあって。
そんな時に出会ったのが、アイスちゃんだった。
デジモン、と呼ばれる不思議な生き物の入った、アクアリウムを売っているお店。
小さい頃に、1度だけ。幼い気紛れから足を踏み入れた事があるそのお店について思い出したのは、地面が平らだと信じられないくらい足元がおぼつかなくなって、灰色の暗雲のようなものが視界を覆って何も見えなくなる程ひどい頭痛に襲われた時だった。
用事で出ていた帰り道。
ぐるぐるの世界に吐きそうになりながら、辛うじて青い屋根を視界に収めた時。
私は、その屋根の下にあるお店が、照明がそう明るく無いお店であった事と、店員さんが優しそうなお爺さんだった事を、思い出したのだ。
半ば縋るように、駆け込むように来店した私に嫌な顔ひとつせず、いらっしゃいと声をかけてくれたのは以前と同じ人。黒い装束も胸元の金の刺繍も何一つ変わらない、白髪頭のお爺さんだった。
相当なご高齢だと思っていたけれど、印象そのものは、当時と全く変わらなかった。
小さい子供にはひとつ上の学年が相当なお兄さんお姉さんに見えていたように、幼い私はここの店員さんの事を年齢以上に老け込ませていたのだろう。
……子供の意見なんて、やっぱり、あてにならないのだ。
店員さんはふらつく私へ、予備のパイプ椅子に腰かけるよう促してきた。
見るからに危なっかしかったのだと思う。水槽の方へと倒れられてはたまらないと思われたのかもしれない。(最も、店員さん自身はそんな雰囲気、おくびにも出してはいなかったけれど)
ご厚意に甘えて。あるいはご迷惑をおかけしないように。私は用意された椅子へと腰を下ろした。
心臓に合わせて脈打つ頭の痛みが引いて来たあたりで立ち上がり、私は店の中を見て回った。
初めて来た時にも不思議なお店だとは思ったけれど、やはり記憶とは曖昧なもので、改めて見て回った店内は、幼さを理由に「不思議」の一言だけで片付けられていたそれらの光景に、むしろ首を傾げてしまうくらいで。
その時特に目を引いたのは、水の中で揺れる炎のデジモンだった。
底には砂利では無く岩肌を模したシートが敷かれており、同じ色のブロックの隙間から枯れたような色の水草が伸びた、そんなアクアリウムの中央で。炎のデジモンは、私の視線に感付くなり身体を膨張させるみたいに身に纏う炎を一層に燃え盛らせた。
水は水素と酸素の塊だから、燃える時は燃えると何かの漫画で見たのだけれど、それにしたってあんまりにも現実味の無い光景だなぁ、と。私は回らない頭のままで、苦笑した。
とはいえ水の中の炎はどこか輪郭がぼんやりとしていて、だからだろうか。再び光をトリガーに頭が痛みだす事は、無かったけれど。
「そのデジモンは、メラモンと言うんだよ」
しばらくして、様子を見に来たらしい店員さんが、そのデジモンの事を私に説明してくれた。
炎が燃える時の擬音が名前になっているそのデジモンは、見たままの通り火炎型のデジモンで、生息地によって気性の激しさがまるで違うのだと。この個体は気性が荒い方だと、そんな話を。
その時ふと、炎のデジモンがいるなら、氷のデジモンはいないのかと。そんな事が、気になって。
思い付いた通りの疑問を口にして。店員さんはすぐに、『氷のデジモン』のところへと、私を案内してくれた。
それが、私が後に「アイスちゃん」と呼ぶことになる、アイスモンだった。
メラモンが炎で出来ているように、全身が氷でできたアイスモンには氷を出す力が備わっているらしくて。
値段を尋ねれば、彼の入ったアクアリウムは製氷機よりも、ずっと、安くて--ちょうど、手持ちで足りる程の値だった。
溢れ出す、と表現されていた何らかは、水筒の蓋を開ける程度であれば、問題は無いらしい。
蓋を開けた状態で覗き込んだアクアリウムの中には、流氷のようにアイスモンが生み出した氷の粒が浮かんでいて、そのせいで、アイスモン自身の姿は上からは確認する事が出来ないのだった。
私はアイスモンのアクアリウムを購入し、持ち帰った。
食器棚からコンビニかどこかで貰ったはいいが、そのまま使わないで置いていたプラスチック製のスプーンをこっそりと拝借して、自室にアイスモンの入った水筒を置くなり、私は金色に塗られたアルミの蓋を開け、中の氷を、ひと匙。掬った。
そのまま唇へと滑らせ、奥歯で噛み砕いた氷は
「……おいしい」
久方ぶりに、親の目を、耳を、気にせずに。何の憂いも無く思い切り、がりりと氷を噛めたからだろうか。
思わず私の口からは、そんな言葉が、漏れ出した。
と、ふと視線を感じて水筒の側面へと視線を落とすと、アイスモンが、氷の組み合わさった顔で、信じられない程よく出来た笑みを浮かべて、両手を上げてぴょんぴょんと、全身で「喜び」としか取れない感情を表現していた。
彼は、私を見上げていた。
褒められるのが嬉しいと、そう言わんばかりの光をらんらんと黄色い瞳に宿らせて。
それからというもの、私は欲しい時にアイスモンの出した氷を掬って食べたし、アイスモン――いつからか、アイスちゃんと呼ぶようになっていた――はいつだって、私のためにアクアリウムの水面に氷を浮かべてくれていた。
紛いなりにも生き物が暮らしている水に浮かんだ氷だなんて、人から見れば不衛生だと思われるだろう。
だけど透き通った氷はただそれだけで、なんだか清潔なモノに見えるのだ。
実際のところ、アイスちゃんの氷を食べて、お腹を壊した事なんて一度も無かったのだから。
だから、問題なんて、ひとつも無かったのだ。
私は氷を出してくれるアイスちゃんがたちまち好きになったし。
アイスちゃんは、氷を喜んで食べる私を、好いてくれていた。
私達は、ペットと飼い主として以上に、良いコンビだったのだ。
*
「……」
私は机の上に置いたアクアリウムをぼう、っと眺めた。
心なしか、アイスちゃんは私の顔色を窺っているように見える。
約束の1週間まで、あと半分と少し。
たったの7日間が、今までに無く、長かった。
伊達に『症』と付いてはいないな、と思った。
私のこの、氷を食べたい、という衝動。
最初の内は、我慢できるだろう、と。むしろここしばらくはアイスちゃんが好きな時に氷を出してくれるお蔭で精神的に余裕が出来ていたから、症状も軽くなっているかもしれないと、楽観的に考えていたけれど――甘かった。
初日の夜には既に、以前のように、夕食時に使った食器を洗いながら冷蔵庫の製氷機から氷をつままなければ耐えられなかったのだ。
久々に口にした冷蔵庫産の氷はあまりおいしくはなかったのに。
氷食症の症状には、氷を食べるだけでなく「噛みたい」という衝動も含まれているらしいのだけれど、冷蔵庫の氷には私が求めている以上の固さのものが時折混じっていて、力を込めた奥歯に嫌な痛みを伴う負担がかかる事もしばしばだった。
逆に、時には口に入れただけで簡単に砕けてしまうものもあって、そういった氷はすぐに舌の上でシャーベット状になってしまい、これっぽっちも満足感が得られなかったりもする。
「……やっぱり、おいしかったんだね。アイスちゃんの氷」
アイスちゃんの視線が複雑そうに宙を泳いだ。
褒められて嬉しく思う反面、私が望むモノを出せない罪悪感を覚えているのだろうか。
「ごめんね。……気にしなくていいから。もうちょっとの辛抱だもん」
この子が気を病む必要なんて、微塵も無いのに。
この子を責める気なんて、毛頭無いのに。
なのに、お互いを笑顔にしていた筈の私達の関係は、どこかぎこちなく、出会って初めの頃よりもむしろよそよそしくて、なんだか、自室まで居心地の悪いような有様だった。
「ごめんね」
もう一度繰り返してから、私は自分のスマホを取り出した。
「ご飯にしよう。私も、もうすぐだから」
半ば気持ちを誤魔化すように、店員さんにもらったQRコードからダウンロードしたアプリを起動する。
金色の、三日月にも似たアイコンのアプリで、記憶が正しければ、これは店員さんの服の刺繍と同じ模様だった筈だ。お店その物のマークなのかもしれない。
これは、デジモンの世話をするためのアプリらしい。
私達と同じ物を食べさせることも不可能では無いそうなのだけれど、このアプリを使えば、理屈は解らないけれど、アイスちゃんの食事もアクアリウム内の清掃も、指先1つで思いのままだった。
最初は疑っていた私も、『デジモン』という生き物は、そもそもが私の理解を超えた存在で、だからだろうか。慣れるのにも、そう時間はかからなくって。
アプリ起動後に出現した、骨付き肉の絵をタップするなり、絵と同じ形の肉が、アイスちゃんの目の前に出現した。
突き出た骨の両端を手で握り締めて、アイスちゃんは、肉に口をつける。
……とはいえ、アイスちゃんはあまり、美味しそうに食事をしているようには見えなかった。
それもそうだろう。こんな気分で、食事だなんて。
「……ごめんね。私、もう行くから」
その上見られていては余計に食べ辛いだろうと、私は席を立つ。
アイスちゃんが私の退出を最後まで見届けていたのは解ったけれど、私は、とても振り返る気にはなれなかった。
逃げているようだと。そんな気さえした。
食卓に嫌いな物なんてひとつも並んではいなかったけれど、ごはんは正直、美味しくは感じられなかった。
ここのところ、いつもそうだ。満腹にはなっても、満たされる感覚が無い。
口の中に残った醤油の塩味と砂糖の甘味はどことなく不愉快で、魚の脂に濡れた歯はどことなく不快だった。
口を漱いで、洗い流せばそれで済む話なのかもしれないけれど、私の口が求めているのは、やはり――
「ああ、もう! またそんなモノ食べようとして!」
気持ちが急くあまり、とんだ凡ミスを犯してしまったと、母に隠すように伏せ気味にした顔をしかめる。
氷の引き出しを引っ張る手に、力がこもり過ぎたのだ。
がさっ、と中の氷が打ち寄せる波のように揺れて、それが母の耳に届いてしまったらしい。
眉を吊り上げた母は、とりあえず芸人に無理をさせておけば面白いとでも思って良そうな品の無いバラエティー番組の視聴を切り上げて、つかつかとこちらに寄って来た。
「ごめんなさい」
私は急いで冷凍室の引き出しを閉め直す。
が、寄せた氷がやはり波のように音を立てて戻って行ったのとは違って、母は引き返してはくれなかった。
「あのねぇ、氷だってタダじゃないのよ? それにあんたが食べた分、お母さんが毎日給水器に水を入れ直してるの。解る?」
そんな事、私だってしてるから解る。
毎日してるような事じゃ無いっていうのも。
「第一女の子は身体を冷やしちゃダメなの。後で痛い目を見るんだからね?」
私は、今、辛いのに。
「喉が渇いたなら、そう、白湯。白湯を飲みなさい」
勝手にお湯を沸かしたら、どうせ今度はガス代だってタダじゃないって言うクセに。
それに、私は喉が渇いてるんじゃない。
私は、
私は――
「……わかった。ごめん」
彼女に背を向けて、薬缶の残り水をコップに注ぐ。
一応は満足したらしい。それでもいくつかの小言を置き土産に、母は居間の方戻ったけれど。
だけど湯冷ましを喉に流し込んでも、私の中身は渇いたままだった。
母の背中を目で追えば、道中に箱で積んである、口当たりの良い言葉でとにかく身体にいいとばかり書かれた健康食品がいくつも目について、それらの値段を頭の中で勘定してしまうのが嫌で、私はそれ以上視線を上げる事無く、夕飯に使われた食器を洗う事に専念した。
噛み潰せない氷の代わりに奥歯を噛み締め続けてはみたけれど、こんなものでは、とても足りない。
ああ、ざらざらと口に氷を流し込みたい。
砕けた氷で頬の内側が傷ついたって、別に構わない。
ほんの少し食べるだけでも。それだけでも、私は全部、それ以外の何もかもを我慢できるのに。
してるのに。
なのに、氷を食べられないなら。
この痛くてたまらない頭を、どう耐え抜けばいいって言うの?
「……」
仕事を終えて部屋に帰って。
アクアリウムの中から身体の向きを変えてアイスちゃんが出迎えてくれたけれど、彼の住まう水の上に氷がやはり一粒も浮かんでいないのを見て、堪えられなくなってしまった。
水が、目尻から滴って来た。
こんな熱い水、いらないのに。
驚いて容器の側面に寄って来たアイスちゃんに近寄れすらしないまま、殴られたみたいに痛む頭を押さえてしゃがみ込む。
「どうして。どうしてよぅ……!」
結局噛んで潰せなかった言葉が、いよいよ口の隙間から洩れ出した。
私は。私はちゃんと我慢してるのに。
我慢するために、正直でいる事を止めて、代替品で誤魔化しているのに。
我慢する事さえ我慢しなきゃいけないだなんて。そんなの、あんまりじゃないか。
どこまで自分は健康だと言い続ければ――頭が痛いのを、解ってもらえるの?
「うう、うぅ……」
鼻をすすって、目をこする。
こういう行為も、母の目に留まると「汚い」だの「目にばい菌が入る」だの色々言われるのだけれど、私では、他に涙を隠す方法が思い付かなくて。
そうして、例の頭痛の前兆。砂嵐が端に滲む中で、それでも多少は明瞭になりかけた視界の中に――ふと、見覚えのある、影を見つける。
「へ?」
それは、氷だった。
アクアリウムの水面。
形はいつもより歪つだけれど、今の私にとってはどんな硝子細工よりも美しく、魅力的で、心から欲してやまない、透明な粒。
それが、目の前に。
「アイス、ちゃん……?」
黄色い瞳は、いつものように。
私の目を、じっと見ていた。
私は。
気を遣わせて、ごめんなさい。と。
ちょっと癇癪を起してしまっただけだから。無理をさせちゃダメって言われてるんだから、気持ちは嬉しいけれど。と、断らなくては、ならないのだ。
だって。
だって、だって。
1個食べたら、また、ねだってしまう。
もう1個出して、と。
いいや、1個や2個で済むはずがない。また、ひょっとすると今回以上にこの子が弱ってしまうまで、氷を欲しがってしまうかもしれない。
でも。
だけど。
「……いいの? アイスちゃん」
水筒の蓋に、手が伸びる。
同時に、いつもそばに置いてある、ただ、このところは使う事が無かった使い捨てのプラスチック製スプーンにも。
指の隙間に包装を解いたスプーンを挟んで、残りの指全部で。両手を使って、水筒の封を解く。
あれだけ曝すなと言われた外気が、また、アイスちゃんのアクアリウムへと入り込んでしまう。
「ごめんね……でも、ありがとう」
申し訳なさと。それと同じくらいの逸る気持ちで、私はアイスちゃんの顔を碌に見られなかった。
スプーンを差し込んで、周りの水ごとすくい上げた氷を早く引き出そうとして。
それが氷では無いと気付くのに、一瞬、遅れてしまった。
「きゃっ!」
氷では無かった。
氷で無いなら、何なのかまでは、わからない。
だって『それ』は、スプーンの上で、爆発したのだから。
見た目通り、大きさ通りの威力しか無い『氷のようなモノ』の衝撃は大した威力では無かったけれど、悲鳴と一緒に、手元から。
アクアリウムは床に向けて一直線。真っ逆さまに、滑り落ちた。
とはいえ、カーペットの敷かれた床で跳ねたところで、プラスチック製の水筒がただそれだけで、壊れる筈も無い。
だから『それ』は、店員さんが言っていたようなモノでは、無かったのだろう。
アクアリウムが壊れれば、溢れ出してくるようなモノでは。
「……え?」
虎がいた。
それも、部屋いっぱい。背中が天上にまで付きそうな程、大きな虎が。
身体の全てが、水で出来た虎が。
私の見間違いでなければ、この虎は、転がったアクアリウムから零れ落ちた水が、膨れ上がるようにして出来上がったモノだった。
全身が水で出来ている、とは言ったけれど、牙も、爪も、ぎらぎらと金色に輝いていて――その中に秘められた全ての攻撃性が自分に向けられていると、それに気付けは無くは無い程度には、どうやら自分は鈍い人間ではないらしかった。
最も、『この子』の次の動作を避けられる程、判断力に優れた人間では、無いのだけれど。
虎は、音も無く私に飛び掛かった。
それからというもの、私は、頭痛にも。それから、氷を食べたいという衝動にも、悩まされる事は、無かった。
砂嵐に塗れた景色にも、それ以外にも。
もう二度と。
*
深夜。
公園の金網の傍。夜が明ければプラスチックゴミを回収しに、この場所にゴミ収集車がやって来る。
とはいえゴミを出していいのも、太陽が顔を出してからなのだが。しかしやはり、定められたルールを守らない人間というのはどこにでもいるもので、ぽつんと置かれたゴミ袋の前で、女はふんと、鼻を鳴らした。
まあそうは言うものの、こういう輩のお蔭で自分も人目につかずにコレを捨てられるのだ。と、自嘲するように肩を竦めてから、彼女は既に置かれているゴミ袋に僅かな隙間を作り、筒状の物体を袋の中へと押し込んだ。
『両親』との関係は想像以上に上手くいった。
製氷機を満たす氷分の水代にすら目くじらを立てていた母親も、しかし娘が美容に気を遣い始めると、むしろ進んでそのために必要な美容品や衣服を買い与えるような始末で。
当然のように、不信感は募った。
だからこそ利用し続けようと決めて、それは上手くいった。
自分はそれが出来る、選ばれた存在なのだと。
彼女は自身にそう言い聞かせて。それもやはり、上手くいった。
いってしまったのだ。
「……君は、種としてそういうデジモンだからね。スプラッシュモン」
女の肩が跳ねた。
あれだけ注意深くこの場へと訪れ、これだけ慎重に警戒を張り巡らせていた筈なのに。
男は当たり前のように、彼女の背後に、立っていた。
男の胸元には、こんな宵闇の中でも。宵闇の中だからこそ、金の刺繍が、光っている。
「それでもあの子を信じたかったから。あの子が見ているのは、氷を出せるアイスモンの能力じゃ無く、アクアリウムの中の自分自身だと。そう信じたかったから。完全体でありながら、十分に究極体にまで通用するデジモンへと自分を育ててくれたあの子を、愛していたから。……だから、あの子を試したんだろう」
そして、やっぱりダメだった、と。
男がそう続けたのを聞きながら、彼女はその場から後退る。敵わない相手だと、知っているからだ。
「君がそうする事を、結局許容したのは、私達だ。溶けたのではなく、進化したのだと。そう明かさなかったのは、嘘をついたのは、私達だ。だから、私達に君を責める権利は、無い。……でも」
彼女の表情は歪んでいた。
それが最も醜い表情であると理解した上で、奥歯を噛み締め、目を吊り上げながら。
「君がその嘘を。アイスモンではなく、今度はあの子のふりをし続ける、という『嘘』を、貫き通せなくなった時。……その時は、解っているね?」
だが、水である彼女には。
水そのものである、『彼女』には。
どれだけ感情が高ぶろうとも。やはり、涙など浮かべようも無いのだ。
「私達の仕事は、君達デジモンが、人の傍で暮らすための手伝いをする事だから。……君の存在がその邪魔になるのなら。その時は」
女は夜道を駆け始めた。
人の姿で、ではない。水虎の姿で、だ。
よほど、この場から。一秒でも早く、離れたかったのだろう。
「……」
男はゴミ袋の前に膝を付き、女が今しがた捨てていった『ゴミ』を引き抜いた。
それは100均で買えるような、透明でお洒落なデザインではあるけれど、どこか安物感がぬぐえない、プラスチック製の水筒だった。
うっひょおダークぅー! そんなわけで夏P(ナッピー)です。
幼き頃よりコップやグラスに入ってる氷は食わねばならんと提唱してきた身なのでちょっとだけ気持ちはわかる。最後の爆発の時点で来たか皆大好き「雑魚が雑魚に進化したところで」と歓喜してたらまさかの結末。ば、馬鹿野郎……インセキモンはマグナガルルモンですら倒せなかったロードナイトモンの使役する量産型ナイトモン軍団を瞬殺できるんだぞ!? 氷が出せなくなったくらいなんだ! あとついでに言うとゴツモンの時点でアングリーロック!アングリーロック!で割と倒せてたのは内緒だ!
↑のパラレルさんの感想で、最後のは「ほあっ……自分を製氷機ではなく“アイスモン”として見てくれているかの賭け」だったのかと得心して余計に悲惨。スプラッシュモンは何故か完全体にされてしまいましたが、虎形態はカッコいいのでそれでいいんや! この作品で最後に出てきたのは怖かったけど!
ところで店員さんを「幼き目は年上を余計に老け込ませて見せていた、子供の視線なんて当てにならない」とか描写してましたが本当ォ?
それでは次回もお待ちしております。