その日、厩舎に一体のデジモンと一人のスーツの人間達がいた。頭からタコの足を生やし下半身は球体の中、そのデジモンと男性は流星を見つけると、帳簿から目を離し軽く会釈した。
「こん、にちは〜……」
「わたくし、ヴァンデモンのヨシダ様より資産の管理などを任されているコンサルモンの金野です。こちらでの会計始め事務処理を以後任されることになってます。お見知り置きを」
「あ、調教師兼厩務員の松浦です。どうも……そちらの人達は?」
「わたくし、金野様より依頼を受けました会計士の金城です」
「同じく、弁護士の守山です」
スーツの男達はそう言って会釈した。
「「「……なにやら騒がしいなコンサルモン、これはどういうことだ」」」
コウモリの群れが厩舎の中を羽ばたきながら入ってきて、エコーをかけながら低く怒りを称えた様な声を発した。
「なにとは。ご命令通り、会計事務一切を引き受ける為に会計士と弁護士を連れてきて現状の連携をしているところです」
あと、聞き取りづらいので分裂したまま話さないでくださいと金野は一歩も引かずにそう言った。
「「「お前が一切を引き受けるのになぜ外部の人間を雇う必要があるっ! 我が城に勝手に入れるとはっ!」」」
さらに羽ばたきは強くなり、会計士と弁護士は委縮して顔を見合わせていたし、ヨシダがやはり恐ろしいデジモンだということを流星も再認して手足が動かなくなる。
「すぐ威圧するのは悪い癖だと何度申し上げればわかるのですか!!」
そんなヨシダをコンサルモンは一喝した。
コウモリの群れが一瞬たじろぐ。
「その癖、明確な回答がないとすぐ機嫌が悪くなる!! その分裂もなんですか!! 自分の城だと言うなら分裂して隙間からなんてせずに正面からちゃんと入る!! それが王のやることですか!!」
仕方なくヨシダがコウモリを集めいつもの姿に戻ると、コンサルモンはこほんと咳払いを一つした。
「……で、何故お前は会計士と弁護士を連れてきたのだ」
「それはもちろん、あなた様の『最速でナイトロードと栄光を掴む為、会計事務一切を支えこちらが専念できる様にせよ』との命を守る為です」
「……お前がやればいいではないか。デジタルワールドではその類の資格も持っていただろう」
ヨシダは心なしむすっとして、そう言った。
「お言葉ですがここは人間界です。一通り勉強はしてきましたが、関わる為の法的な資格を持ちません。法から変えよと言うならば十年はかかります。デジモン相手の偏見故に円滑にことを進めにくくなることも当然あります。人間の専門家の力を借りるのが『最速』です」
道理がわからないほどヨシダは馬鹿でなく、コンサルモンはヨシダが馬鹿ではないが一度怒り出した手前非を認められないだけなのもわかっている。
わかっていてあえて丁寧に説明した。
ヨシダは少し黙ったあと、流星にちょいと手招きをした。
「……私はナイトロードの調子を見に行く。それが最速にならばお前に任せる」
そう言ってヨシダは金野に背を向けパドックへと歩いて行った。
「あの、いいんですか? 謝ったりとかしないで」
『ねー、ごめんっていうのは早いほうがよさそうなのにね』
「謝ればそれこそアレは激怒するだろうな。王が簡単に頭を下げるなと」
流星はそれはどうなんだと思ったが、ヨシダは面倒になったという顔はしつつも、あまり不快に感じてはいないようだった。
「……コンサルモンにはやつの部下を遣せと言ったつもりだったが、まさか本人が来るとは思っていなかった」
だが、悪くはないとヨシダは続ける。
「金と法律のことは基本的にやつに任せればいい。とにかく大事なのは最低限必要な人員がこれでそろった事だ」
ヨシダは懐から一冊の雑誌を取り出して、ナイトロードの鼻先に広げた。
それは先日取材を受けた雑誌の見本誌だった。一ページ丸っとナイトロードとその前に立つヨシダを撮った写真が載り、隣の一ページまるまるヨシダへのインタビューが載っている。
『わ、これがぼく? なかなかかっこいいかも。ヨシダもなんかいつもよりやさしそう』
「これがあの取材の時の……」
ナイトロードの言葉はわからない流星も、少し穏やかそうな瞬間をよく切り取ったなと思ったが口には出さなかった。
「そこで私は次のレースの話もした。あと二ヶ月後だ」
競馬は数あるスポーツの中でもかなりスパンが長いスポーツだ。馬のレースとレースの一般的な間隔は一ヶ月と言われ、十二週レースに出てないと休養馬と呼ばれるぐらいで、二ヶ月ぐらいなら空けても珍しいわけではない。
「一般的なローテの範囲だと思いますが、長めですね」
「私達は有馬も視野に入れていく」
ありま? ってなにさ
「最も名誉なレースの一つであり、出走できるかは人気に左右される。人気を集めるには単純だがより多く目に触れることが必要になるのは当然だ、しかし、今は悪目立ちが過ぎる。故に多少間を空ける」
「……わかりました。もうレースは決まってるんですか?」
「まだだ、あの馬に合わせにいく」
「……あ、それってもしかして……」
流星はそう呟くとスマートフォンで少し調べて苦笑いした。
「そういうこと、ですか?」
「そういうことだ。さて、コンサルモンがこっちを見ている。帳簿の場所はわかるな?」
わかりました行ってきますと流星はパドックから厩舎へと戻っていく。
……そういうことって、どういうこと?
ナイトロードはそう首を傾げた。
「フレアフラワーの出走するレースに合わせるという事だ」
一勝クラスって言ってなかった? あの時は僕勝ったよね?
「レースのクラス分けは収得賞金で決まる。新馬・未勝利クラスは0円、一勝クラスは500万以下。フレアフラワーが次のレースで勝てば同じ一勝クラスになる」
よくわからないけど、またあの子と走れるってこと?
「そうだな。また後ろから抜き去ってやれ」
ヨシダはそうナイトロードに微笑みかけた。
「ナイトロードがフレアフラワーが一勝クラスに上がってきたらそのレースを狙うって?」
その日、フレアフラワーとはまた別の馬のレースを終えた松浦のところにそんな話が持ち込まれた。純粋な騎手である松浦が乗る馬は一頭ではない。
が、ヨシダにも言ったようにフレアフラワーに松浦は特に目をかけていた。その世代でも指折りの一頭、この世代といえばでいずれ名が残る馬だろうと考えていた。
「竹田さん、それにしてもなんで俺にも見本誌持ってきたの?」
その見本誌のヨシダの記事を書いた本人である瑞生は、少し頬をかいた。
「吉田さんに対して口利きしてもらったお礼もまだでしたし、『吸血鬼がブラッドスポーツで負けるわけがない』発言とか、この再度ぶつかりにくることを受けての意気込みとかも先に聞けたら嬉しいなぁ……と」
ちゃっかりしてんねと松浦は笑った。
「まぁ、そうだな……月並みなことしかひとまずは言えねぇが、わざわざフレアフラワーに被せにくるのは有馬には人気も必要だぞって俺が言ったのを間に受けたのはあるだろうな」
ヨシダやナイトロード周りの話題が好意的なものだけではない。だから、フレアフラワーと松浦とセットにする。一度目はまぐれでも二度目は実力だ、同じ馬と戦うからこそそれが明らかになる。その上、下手に文句をつければまた松浦が動くかもしれないとも思わせられる。
利用される形にはなるがそんなのはどうでもよかった。
「じゃあ人気取りのためってことですか?」
「いんや、当然それだけじゃない。こう言うとアレなんだが……差しや追込みの馬は、一緒に走る逃げの馬が強い方が有利だから、ってのもあるはずだ」
基本的に競馬は逃げ先行が有利、差し追込みは不利だと言われる。
理由は簡単で、逃げ先行は他の馬の先にいる為影響を受けにくい、極端に言えばいつも通り走れば常にベストパフォーマンスを出せる戦い方であるのに対し、馬群ができてコースが埋まってしまうと差しや追込みの馬はコースが見つけられず速度を上げられないまま後ろに着いていくしかなくなる。
では、どうすれば馬群ができなくなるか、その一つがペース配分を先行や差しの馬が見誤ること。
逃げ馬が先頭に出て、逃げ馬を風除けにその後ろに先行、さらに後ろに差し、そして追込みと続くのが基本の形。
速い逃げ馬がいれば先行の馬と間が開く。無理してでも詰める馬とペースを守る馬に分かれれれば、馬群が綺麗にそろわず、距離や前の馬との位置関係で差し馬の形も崩れてくる。
結果、追込みの馬が走るべき道ができる。
つまり、他の馬にペースを見失わせるような速い逃げ馬がいることは強力なライバルが増えると共にチャンスができることにもなるのだ。
「まぁそれでフレアフラワーが不利になることもないし俺は構わんが、そうやって話題性を高めるのがいいこととは思わんな」
「と、いうと?」
「世代の英雄を狙ってるのはみんな同じってことだ」
松浦はそう言うと瑞生の質問には答えず、からからと笑ってその場を去っていった。
ナイトロードは後年、競馬史の話をする中で必ず触れられる馬となった。その際に最も話題に上がるのはもちろん初めての出走である。
しかし、それはあくまで競馬史においての話。
ナイトロード、フレアフラワー、『彼等の世代』の競馬を語る場合は、一戦目はもちろんのこと二戦目こそがより語られることとなる。
この世代で最強の馬はと議論される時、出てくる名前は幾つかある。フレアフラワーもナイトロードも議論上に上がる名馬になるが、最も名前が挙げられることになる馬はそのどちらでもない。
そして、第二戦は後に『彼等の世代』を代表することになる三頭が並び立つ最初の一戦になる。
が、馬主にして騎手のヨシダの話となるとその二戦目前に語られざる一幕があったことを世間は知らない。
「……ヴァンデモン様」
草木も寝静まり、ナイトロードも寝ついた真夜中、厩舎近くの邸宅でコンサルモンはヨシダにそう話しかけた。
人間界に来てからヨシダ呼びをしていたコンサルモンがあえてヴァンデモン呼びをしてきた意味を考え、ヨシダは眉を顰めた。
「カリキュモンでなくお前が来た理由の話か?」
「はい。署名はありませんがこの様な手紙が来ましたので」
金模様の入った白い封筒に赤と金の封蝋が押されたものをコンサルモンはヨシダへと、ヴァンデモンへと差し出した。
その封蝋の模様は多少学のあるデジモンならば誰でも知っているものだった。
封を切り、中の便箋に目を通すとヴァンデモンは燭台へとその手紙をやった。燃える火の色が紫がかったそれに変わりながら大きくなって、封蝋に刻まれた紋章の形へと変わってふとまた普通の火に戻る。
「……騙る馬鹿もそういるまいが、本物の様だ。毎度封に使う蝋を変えてくる辺り、他に封蝋のコレクションを自慢する相手がいないと見える」
ヴァンデモンはそう言った後、深く息を吐いた。
「領地が脅かされる様な話ではない。どちらかと言えばヨシダとしての私へと出された会食の誘いだ。土産の手配をしてくれ」
「こちらにくる際に領より酒や工芸品の類は持ち込んでおりますが、そちらでよろしいでしょうか?」
コンサルモンはそう言って、ヴァンデモンの納めている範囲では最高級の品々の目録を見せた。
「貢物をするわけでもない、ワイン一本とグラスでいい。それと別にこれから言うものを用意してくれ」
後日、厩舎の前に来た送迎のリムジンと黒服の男達はヴァンデモンを少し郊外に建てられた高層ビルへと連れて行った。
エレベーターに乗ると、そのエレベーターは途中でビルの屋上を通り過ぎて虚空を上り始めた。
「人間に超越者を気取るぐらいにしか使えん仕掛けだ」
ヨシダがそう吐き捨てると、ほぼ同時にエレベーターが止まり、扉の先はビルの展望階の様になっていた。
「魔術で空間を歪曲させているだけの陳腐な仕掛けは嫌いかね? だが、人間界に持ってる物件の中でここが一番景色がよくてな。スカイツリーさえも見下ろせる」
煌びやかな指輪をジャラジャラと服装も豪奢で、地面につかんばかりの長いひげとひどい鷲鼻の老人が赤い液体で満たされたボトルだけ載せられたテーブルについていた。
七大魔王、強欲の大罪バルバモン。デジタルワールドで最も恐ろしいデジモン達の一角に数えられるデジモンである。
「それで、何の用件だ」
「久しぶりに愛しい我が子と話したい、では納得しないかね」
老人は人の良さそうな笑みでそう言ったが、ヴァンデモンはそれを鼻で笑った。
「子と呼ばれることを受け入れ、鬱屈した所有物(コレクション)の一つになるつもりは毛頭ない」
だが、とワインのボトルを机の上に出し、さらに続ける。
「私は、大魔王であり師でもある相手に礼儀を欠くほど恥知らずでもない。何の用件か、もう一度尋ねても?」
お前はどうだ、誠実に対応する気はあるのかと暗に問いかけるヴァンデモンに、バルバモンはさらに笑みを深め一つ手拍子を打った。
すると、デジモンの給仕が傍から出てきて二人へとその液体を注ぎ始める。匂いでそれがワインでないこともわかったが、二人の間では取り立てて口にするほどのことでもない。
「騎手ヨシダよ、人間の競馬界でデジモン初の騎手となったものよ。手紙にも書いたが、私の馬に乗る気はないか?」
「三年後なら考えよう」
「それでは遅い」
バルバモンの返答にヴァンデモンはククと笑った。
「私が貴様の馬に乗ってデジモン騎手初のタイトルでも獲得すれば、間接的にその名誉は貴様のものでもある。というところか」
「別にお前の名誉が失われるわけでもあるまい? ナイトロードの騎手としてしか乗れないお前では実戦経験もそうは積めまい。そのナイトロードもいい馬ではあるが最高の馬ではない」
バルバモンの言葉にヨシダは眉間に皺を寄せた。
「……では、久しぶりに教えを請おうか。最強の馬とは如何な馬かを」
「この話を受ければ、その背に乗るのはお前だ。だが、断ればお前はその背中をナイトロードの背中から眺めることになる」
「なるほど、実にいい勉強をさせてもらった。これは礼だ」
ヨシダはそう言って、懐から一枚の写真を取り出して机の上に置いた。
「競馬史に残る最強の名馬とその馬主にしてデジモン初のタイトル獲得騎手になる私達の日付入りサイン写真だ。大事に取っておくといい」
それは雑誌に使われた写真と同じものにヨシダがマジックでサインを書き入れた。
「……あぁ、大事に取っておくとも。背伸びする幼子を見守る親というのはもしかするとこんな気持ちなのかもしれん」
ヨシダは結局グラスには口をつけず立ち上がった。
「待て、スタッフ宛の土産ぐらいは受け取っていくといい。名誉を手に入れる時は汚い手は使わない、それもお前なら知っているだろう?」
「……中身は?」
「ただの菓子だ」
先ほどの給仕からスッと差し出された菓子の袋には高級洋菓子店のロゴが見える。
「なるほど、確か同世代にここの社長が馬主のいい馬がいると聞いたが……」
「私の代理人だ」
バルバモンとヨシダは同時に小さく歯を剥いて笑った。
「強欲たれ、我が愛子。私の前に膝を屈し自ら所有物になりたいと乞い願うその日まで、己が輝きを磨き続けよ」
「私は師を無碍には扱わん。いつか私の輝きに額を地面に擦る時が来たら、ハンカチぐらいは敷いてやる」
そして互いに高笑いをして、会食は完全に終わりを告げた。
ナイトロードの第二戦当日は、曇りだった。前日の小雨の影響でややダートの土は水を吸っているが、泥のようにはなっていない。
「一番人気か」
賭け率をチラリと見てヨシダはそう呟いた。
それってすごいことなの?
ナイトロードがそう言うと、ヨシダはまぁなと小声で返した。
「それだけ多くの観客が私達が勝つと思っているということだ」
ヨシダはそう口にしながら、二番人気の馬の名前を見ていた。フレアフラワーは三番人気、ナイトロードとフレアフラワーへのそれには悪目立ちした分も入っているのにも関わらずフレアフラワー以上の票。
あの馬。ずっとこっち見てるよ。
ナイトロードが頭で指した先には、ナイトロードと同じような青毛だが黒一色で、額から鼻の方へやや斜めに一筋入った流星が見た目にも美しい馬だった。
「……ツキノツルギが気になるか。今回の二番人気だが、血筋も一流、騎手もマツウラを鼻で笑えるレベルのベテランだ」
「鼻で笑ったりなんてしませんよ。もちろん、新人のあなたのこともね」
そう声をかけてきたのは、五十は超えていそうな小柄で細身の男性だった。
「吉田くんに、ナイトロードくん。ツキノツルギの騎手の福永です、どうぞよろしく」
ヨシダは無言で握手に応じた。手に触れればその細身の身体が馬に負担をかけないよう搾り切った故のものである事が伝わってくる。
「……噂には聞いていたけど、君は愛想悪いね! 人間はみんな弱く見えるかい?」
「……マツウラ相手だったら私は握手に応じてない。礼を払うべき相手はわかるつもりだが、勝負の前で愛想良くできるほど器用でもない」
「なるほどね、で、マツウラくんはどう思う」
ヨシダに声をかけるつもりで近くまで来ていた松浦は、呼ばれて頭をポリポリとかきながら近寄った。
「吉田の無愛想はまぁ直せよとは思いますが……俺も不器用な方で、全力で勝つって形で示すつもりです」
松浦はそう、静かに力強く口にした。
「じゃあじじいの務めは、油断させとけばよかったと後悔させてあげることだな、小僧共」
なんて冗談だと福永は笑うと、手をひらひらと振りながらツキノツルギの方へと歩いていく。
月の剣と言えば三日月を指す言葉、いかにもバルバモンが付けそうな名前だとヨシダはもう一度見て、見返すツキノツルギの視線を感じて目を切った。
ヨシダに怯えない肝の据わった落ち着いた馬。恐れのないナイトロードと同じ馬群に突っ込める馬。
同時にと周りを見る。フレアフラワーとツキノツルギ以外もそれなりに見れる馬はちらほらいる。ヴァンデモンは畏怖の対象のまま、先に決めていた馬はともかく後から決めた相手は悪目立ちするナイトロードとフレアフラワーの対決に集まった注目を掻っ攫ってやろうという意気がある。
「……前と同じだ、後ろにつけて体力を温存し後ろから全員抜かせばいい」
ゲートの中でヨシダがつぶやく。ただ、それはナイトロードにはヨシダが自分に言い聞かせているように聞こえた。
大丈夫? なんかこの前みたいに自信満々って感じではないけれど
「負けるつもりはないが、今度は不意をつくわけでもない分、お前だけでなく私も、いかにお前の力を引き出すかが試される」
そうなんだ。馬だから難しいことはわからないんだけどさ。
「お前はそれでいい。最後に気持ちよく先頭を走らせてやる」
ヨシダにはもう観客の声も何も見えておらず、ただ前だけを見ているようだった。でも、ナイトロードは違った。
観客席が見えていた。最初のレースのような嘲笑する客と別に、ナイトロードに期待する顔が見えた。
さらに見ていると、客席に流星やコンサルモンや、記者の瑞生が見えた。
みんな、他の期待している人間と間違った顔をしているのがナイトロードには不思議だった。
「開くぞ、前を見ろ」
ヨシダの声にナイトロードが前を見る。そして、運命のゲートが開いた。
真っ先に飛び出したのはフレアフラワー、一番最初に駆け上がり観客の注目も一心に浴びる。
それを追いかけるように他の馬が駆けていき、最後尾グループにナイトロードとツキノツルギが並ぶ。
初戦では最後尾につけていたヨシダも後ろに重圧を感じることはなかった。だが、今は違う。
ナイトロードを風除けにピッタリと背後につけたツキノツルギと福永が、そしてその背後に感じるバルバモンがヨシダに重圧を感じさせる。
前の馬群はなかなか動かない。後ろのナイトロードとツキノツルギに抜かせるものかと間を詰めている。
競馬の基本、逃げ先行の有利。
警戒された追込み馬に走れる道はなくなる。
しかし同時に、競馬の勝ちは一着だけのものという原則もある。重賞と呼ばれる特別なレース以外では一着以外、馬主や騎手は金銭を得てもその馬が上のランクに上がる基準となる収得賞金は計算されない。
勝ちを諦めない馬は抜かすために必ず動く。勝ちを諦めた馬が多いほど、追込み馬は道を塞がれ沈んでいく。
ヨシダがフレアフラワーと被せた理由の一つはここにある。有力馬とわざわざ競いにいく者は簡単に勝負を諦めない、道が開く可能性が高まる。
それは、後から見れば決して遅くもないタイミングだった。レース全体の長さで見ればやや早いぐらいの仕掛けどき、でも、その日のヨシダには目の前の馬群が開くまでが異様に長く感じた。
ヨシダが鞭を振るい、ナイトロードが躍動する。
馬群に空いたわずかな隙間にナイトロードが走り込む。恐れを知らぬその走りは隣の馬と擦れ合いそうな距離でも速度をむしろ上げて、ぐんぐん抜かしていく。
この馬群ならばツキノツルギに走れる道はナイトロードの後ろにしかない。先に仕掛けた事でナイトロードはツキノツルギに負けることはなくなったヨシダにはそう思えたし、その狙いは競馬の駆け引きとして全く正しい。騎手の仕事として十分すぎる。
でも、競馬はブラッドスポーツである。
先行が有利の競馬の歴史、燦然と輝く追込みの名馬達はその振りを覆してきた。騎手の判断こそあれ、根本の理由はただ一つ、他の馬より速いから。
最後の直線半ばを過ぎてナイトロードが馬群を抜け、フレアフラワーだけを前に見た時、その真横に大きく離れてツキノツルギの姿があった。
わっ、どこから来たんだろう!
ナイトロードの声でヨシダも事態に気づく。
歴史に残る追込み馬にはまま似たようなレースがある。
開かない馬群に突っ込むのではなく、馬群を避けて大回りに外に出る。他の馬の外側を悠々とぶつかる心配などつゆほどもなくただ全力で駆ける。他の馬より大回りになる分当然走る距離は長くなる、だから普通は誰も選ばないがそれでも勝てる馬は勝つ。
競馬の基本は基本でしかない。他を圧倒するほど速い馬の前に駆け引きは些細な要素でしかない。故に競馬はブラッドスポーツである。
ゴールを目前にして、フレアフラワー、ナイトロード、ツキノツルギが並ぶ。
見ていた観衆にはツキノツルギの勝利する未来が見えていた。
ナイトロードの後に追い上げ始めて今並んでいる。このまま前に出られるはずだと。
この最後の数百メートル、最早騎手にできることは馬がとにかく早く走ってくれることを祈るだけだ。
ナイトロードはその時、一戦目の様な気分ではなかった。最高の走りをしているのにきらきらを感じない。
客席の見知った顔が笑ってないのが目に入る。
ヨシだと、声をかけてもらうのが好きだからナイトロードはヨシダにヨシダと名前をつけた。
そう言う時、ヨシダも流星も誰もが大体笑みを浮かべているのだ。
「頑張ってくれ、ナイトロード」
ヨシダの呟きに愉快さはない。
フレアフラワーより頭が先に出る。でも、ツキノツルギもほぼ同時。
頑張ったら、ヨシって言ってくれる?
「あぁ、私はヨシダだぞ?」
フッとヨシダの口元に笑みが戻り、ナイトロードがさらに一段ギアを上げる。
人間の騎手に馬を『説得』することはできない。『自主的に頑張らせる』ことはできない。
ツキノツルギとナイトロードの間にここで初めて差ができた。
ゴールまでの短い間でできた差はほんのわずか。
ゴールしてもすぐには歓声も上がらない。写真判定がなされて、時間差で結果が電光掲示板に出る。
一着、ナイトロード。二着、ツキノツルギ。三着、フレアフラワー。
ヨシダは身を起こし、まずナイトロードの背中を撫でた。
「ヨシだ、よくやった」
でしょ? みんなも喜んでるし!
ナイトロードが鼻で指した先では流星達が拍手したりナイトロードに手を振ったり思い思いに歓声を上げていた。
「全く、家臣が一勝ごとに馬鹿騒ぎしては敵わんな」
そうなの? じゃあ、こんな時王はどうするのさ。
「決まっているだろう? これもまた前回と同じだ」
帽子を取り、肌がさらに焼けるのも構わずヨシダは観客に向かって一礼する。
それを見てナイトロードも面白がって頭を下げ、ヨシダの頬をペロリと舐めた。
この日、この時、このレースをもって、ナイトロードの世代は始まりとされる事がある。
それは同時に、あくまで人間に代理をさせていたバルバモンが競馬界に本格的に手を出すきっかけでもあり、密かにデジモンによる競馬参入の大きな転換点でもあった。
デジモンレースに需要を奪われた競馬界暗闇の時代。
パッと咲く花火があった。常に輝く三日月もあった。だがその夜に大きなうねりをもたらしたのは、一人と一頭の夜の王であった。
こんにちは、快晴です。
Xの方でも少し呟きましたが、改めまして。『ブラッディ☆ロード』を完走していただき、本当にありがとうございます。
「馬だからわかんない」で説明の全てを投げた本作に、本格的な競馬の世界観を丁寧に落とし込んで下いただいて、1話作者として頭が上がりません。読みながらずっと「そうなのか……」と呟いていた気がします。
それからへりこにあん様の『ブラッディ☆ロード』は、以前にも書いたかもしれないのですが、ヨシダが本当に可愛いですね……。今回もコンサルモンに怒られている姿が大変可愛かったです。あんなに威圧してたのに、可愛いね……。
デジタルワールドにおけるヨシダの人脈ならぬデジ脈は、当然のように1話作者がなんにも考えていなかったポイントなので、部下に恵まれていたり、愉快な(愉快な?)恩師がいたりして、なんだか安心し……安心して良いのかな……コンサルモンさんは兎も角……。まあいいか、ほがらかな会食してましたし。
とはいえ同時にリアルワールドで繋がった人達ともそれなりにうまくやれているようで、その辺も嬉しかったり。流星さんもすっかり馴染んでいるようだし、素敵な写真と記事をサンキュー瑞生さん。松浦さんにはもっとちゃんと敬意を払いなさいヨシダ。
話題が前後しますが、ヨシダの師としてバルバモンが出てきたのには腰を抜かしました。が、競馬というスポーツの性質を鑑みると、確かにこれ以上無い選デジモンですね。ちゃんと魔王の貫禄があるバルバモンだ……こわ……(普段貫禄皆無のバルバモンばっかり擦っている顔)。
バルバモンの出してきた馬も、あまりにもそれらし過ぎて恐れおののくばかりでした。美しい青毛馬というのはナイトロードの原案のひとつだったので、今のナイトロードとヨシダにの前に立ち塞がる存在としても、未来で語り継がれる最強馬としても、そして、この物語の終わりを締めくくるある意味最後のライバルとしても、相応しい存在だったなと噛み締めております。
レースもツキノツルギが追い上げてきて、『ブラッド・スポーツ』としての残酷さを突きつけられて。まさかこの話、ヨシダが敗北を知って終わるんか……!? と思いかけていたその時、まさかここにきて「2人が言葉をかわせる」というデジモン要素が逆転の一手になるだなんて……! 実際に競馬場に足を運んだときのように、声を出して応援したくなるような胸の高ぶりと熱さがこみ上げてくるなどしていました。
歓声に包まれる1人と1頭を見る事が叶って、本当に、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
あとがきにあるように、彼らの未来はけして完全に明るいばかりではなく、当然のようにシビアな世界も待ち受けているようですが。それでも、少なくとも、ナイトロードはもうみすぼらしさを理由に莫迦にされるような馬ではなく、もし莫迦にするやつらがいたとしても、彼らの傍には誰かが居ると思うと……それだけで、彼らの走る道はちゃんときらきらしていると、1話の作者としては希望を抱く次第です。
それから、フレアフラワー。Xでも呟いたのですが、名前が思い付かずなんとなくで命名したこの子まで、「夜空を彩るもの」として物語に奥行きを与えていただいて……繰り返しになりますが、本当にありがとうございます。良かったねフレアフラワー。人とデジモンが馬を介してある意味対等に戦える時代の始まりに、君も居るんだね……。フレアフラワーを頼みましたよ、松浦騎手……(何面?)
改めて。へりこにあん様、『ブラッディ☆ロード』に深みと奥行き、何より素敵な『続き』の物語を、ありがとうございました!
まとまりの無いものになってしまいましたが、以上を感想とさせていただきます。