再暦二〇二四年、世間ではある奇病の噂が後を絶たないでいた。その奇病にかかった人間は身体の一部が怪物のように変体し、理性を失い暴れだすという。何故そんな噂が後を絶たないって? そんなことはわかりきっている。国はこの奇病を徹底的に隠ぺいしているつもりだろうが、この情報社会でこれだけ多発していれば、隠しきることなんて不可能だからだ。犯人情報のない謎のテロ報道の多さ、目撃者や被害者の数、こんなあからさまな状態になってもなお、隠さなければいけないようなヤバい病気ということだ。いったい誰がそう呼び出し、どんな意味があるのか、誰も知らないこの奇病は世間で『退化症候群』とその名を恐れられている。
第一話『覚醒』
キーンコーンカーンコーン
四限も終わり昼休みが始まった。
「おい蒼音!俺たちも一緒に飯食って良いか?」
「昼くらいはこっちに来るな」
俺の名前は平丘蒼音(ひらおかあおと)。この寿高校に通う普通の高校一年生だ。
「俺たちだって福元君と仲良くしたいのに、お前ばっかりズルいぞ」
お調子者の田村達は割と仲の良いクラスメイトだが、俺は田村達のことをそこまで好きではない。
「翠春のこの顔を見ろ。お前らとは飯を食いたくないって書いてあるだろ」
「やめてくれ蒼音。確かに一緒にご飯は食べたくないけど、それはお前も同じだろ。……と、言うよりもお前が田村君達とご飯を食べるのが嫌なだけだろ」
「だってこいつら行儀悪いし。俺が貰うはずのお前のおかずを狙ってくるんだぞ」
俺はこいつ……。親友の福元翠春(ふくもとみはる)と二人で昼飯を食べるといつも決めている。俺と翠春は子供の頃からの幼馴染で、俺にとっては唯一の本当の友達と呼べる心を許せる存在だ。
「ははは。それはそれで僕も困るな。楽しみにしてる蒼音のおかずと交換できなくなっちゃうし」
「そういうことだ。昼休みくらいあっち行け」
俺はそう言って田村達をシッシとジェスチャーで追い払う。
「分かったよ。カップルの邪魔をしちゃ悪いし行こうぜ」
「誰がカップルだ!」
捨て台詞で俺らをおちょくってから田村達は俺たちの前から去っていった……。
やっと二人になって一息つくと、俺は翠春の前の席の椅子を後ろに向けて翠春の机に弁当を広げた。
「ほら見ろ! 翠春の好きな煮豆作ってきたぞ!今日も卵焼きと交換だ!」
「今日は煮豆か!いつも悪いな」
「俺がおばさんの卵焼き食いたくて作ってんだから気にするなって」
翠春の母親が作る卵焼きは俺の大好物だ。翠春は幼い頃に父親を病気で亡くしていて母親一人に育てられてきた、そんなこともあって好き嫌いを母親に伝えられず毎日卵焼きの入った弁当を持ってきている。
「なんか最近、卵焼きの味が変わった気がするんだよな。おばさん元気か?」
「……元気だよ。最近はなんか趣味?友達?よくわかんないけどなんか前よりも楽しそうにしてるよ」
「ふーん。久しぶりにおばさんに会いたいな」
「あはは!蒼音が来てくれたら母さんも喜ぶと思うよ」
翠春との二人の時間はいつも通り穏やかでそんでもってあっという間に過ぎていき、昼休みも終わりを迎えた。
キーンコーンカーンコーン
————放課後。
部活にも委員会にも所属していない俺はいつものように一人帰りの電車に乗り込み、四駅先の狩馬駅まで一五分電車揺られ下校する。改札を抜けると駅前広場からいつもの怪しい宗教家の演説が聞こえてくる。なので、駅前広場を避けて駐輪場の中を通り抜けるのがこの狩馬町の住民のルーティンのようなものになっている。いつものように駐輪場を抜け商店街のスーパーで買い出しを済ませ帰宅した俺に妹が声をかけてきた。
「ほがひひ。はひほほはひほほふ?」
妹の的子(まとこ)は宇宙人である。
「ただいま。いつも言ってるが、口に物をいれて喋んな」
……まあ、宇宙人ってのは嘘。けど、何故かいつもなんか食いながら喋ってくるせいで妹のちゃんとした声なんてもうしばらく聴いてない気がするんだよな。
「体調だよな。って、言いたいのか?大丈夫だよ。ありがとな」
「ふひ」
ふひって何だよ。
俺たちの両親は医者で忙しく、ほとんど家を空けている。だから家事は俺の役目だ。決して頼まれてやっているわけでもなく、ただ何となくはじめたところ両親に喜ばれた。俺はそれが嬉しかったから、そのまま家事をやるようになった。今となっては慣れたものだ。
俺の作った夕飯を食べ終わると、今日は珍しく的子が食器を洗い始めた。
「今日はどうした?」
「ほご!」
正直、何を言ってるか分からないが意味は何となく理解した。
「ありがとな」
俺は的子の頭を軽く撫でて自分の部屋に向かった。
ここ最近、俺は夜中に悪夢を見る——。
悪夢の中で俺は段々と青い竜のような姿に、恐怖に、呑み込まれるように変わっていくと顔が完全に呑み込まれそうになるところでいつも目が覚める。目が覚めると激しい動悸に襲われ呼吸が苦しくなり発熱する。しばらくすると収まるが、朦朧とした意識の中で汗だくになった身体は大量の水を欲して無意識にシンクへと向かい歩きだす。意識がはっきりした頃には、水の飲み過ぎで吐き気に襲われている。的子にはそれを一度目撃された為、酷く心配させてしまっている。
「今日も寝れるうちに寝とかないとな」
俺はそう呟くと部屋の明かりを消しベッドに横になった。
ゴゴゴゴゴゴォグルルルルルゥ
深淵の中、俺の意識は夢の中で目が覚めた。いつもの悪夢とは異なる正に魂の中と言った不思議な空間、そこで俺は青い竜と対面していた……。
「お前はいったい何なんだ?」
俺は青い竜に問いかける。
「俺はお前。お前だったはずのお前だ」
「お前は俺で、俺だったはずの俺?」
「かつてそこのにあった世界。今もそこにある世界でお前たちは俺たちだった」
「だから、俺になろうと、俺の身体を乗っ取ろうとするのか?」
「否。俺はお前だ、お前は俺になればいい」
「ならねぇよ」
「それでは俺がお前になるとしよう」
「それって結局俺の身体を乗っ取ろうってことか?冗談じゃ……」
「嫌なら拒め。さすればお前は俺になれるだろう」
「待て!ふざけんじゃ……」
グルルルルルゥゴゴゴゴゴゴォ
「ふざけんじゃね…………」
気が付くと俺は、布団を蹴とばし起き上がっていた。
「え?」
体調は良好、意識ははっきりとしている。何の心配も無さそうだ、そう思い胸を撫で下ろした時、俺は自分の身に起こった異常に初めて気が付いた。
「う、うわぁぁあああ!なんだ、この腕……」
俺の腕はあの青い竜のように変体を始めていた。
「おいおい、噓だろ!これじゃまるで……」
夢と現実の区別くらい俺にだってついている。これは現実で、正にあの悪夢のように青い竜に身体を吞み込まれている最中である。だが俺は、今自分の身に起きているこの現象に心当たりがあった……。
これは『退化症候群』だ。
冗談じゃない! あの竜に呑み込まれ俺はこれから暴走するのか? ここでそんな事になったら的子や母さんたちが危険じゃないか。それだけは絶対にダメだ。頼む、止まってくれ……。
「止まってくれ!」
必死に懇願した次の瞬間。俺を吞み込むような体の変体が治まった。
「と、止まった?」
退化症候群での暴走をしなかったことに安堵しているとドアの向こうからノックと共に声が聞こえてきた。
「はひほほふ?」
的子はそう一声かけるとドアを少し開けて覗き込んでくる。
「あはは。今日は大丈夫そうです」
俺は咄嗟に青く変体した腕を布団の中に隠すと的子に微笑みかける。的子は一瞬不思議そうにはしたが、俺の顔色が良かったのか特に心配することも無さそうに自分の部屋へと戻っていった。
一難去った……。俺は再び自分の腕を見る。するとさっきまでの変体が嘘だったかのように腕は元に戻っていた。
一安心したところで喉が渇いたので、シンクへと向かい水を汲むためにコップを握った。
パリンッ!
「……」
コップが割れた。片付けなくては。俺は床に散らばったガラスの破片を拾おうと新聞紙を広げた。
ビリッ!
「……」
新聞紙が破れた。これじゃ使えないな。俺は破れた新聞紙をリサイクル用に縛られた紙束の中に入れようと紐を解こうとした。
ブチッ!
気にしないように冷静を装っていた俺も流石にこの違和感に意識を向けた。
「……何、この怪力」
俺はあの青い竜の言葉を思い出す。
「……俺がお前になるとしよう」
俺は拒んだ。アイツが俺になることを
「嫌なら拒め。さすればお前は俺になれるだろう」
つまり選んだんだ
「……お前は俺になればいい」
————あの青い竜(アイツ)になるという事を。
第二話『退化症候群』
退化症候群の変な怪力に覚醒してしまった俺の苦労について話そうと思う。
割れたコップを恐る恐る片付けた後、蛇口を壊さないように最大の注意を払いコップを使うのは避けて手を皿代わりにして水を飲み、出来るだけ何にも触れずに自分の部屋に戻り朝起きたら身体が元に戻っていることを期待して就寝した。期待もむなしく、翌朝は小学校の卒業記念品として配られた愛用の目覚まし時計を破壊し起床した。家族の朝食や弁当の用意は神経を研ぎ澄まし、なるべく卵を割るなどの力を入れる工程の無い料理で済ましたがドッと疲れた。家を出る時は的子と同時に出て鍵は代わりに閉めてもらうと、的子にはとても不思議そうな顔で睨まれ誤魔化す為に日直だったと茶番を挟み、一人走って駅まで向かった。満員電車では人に怪我をさせないよう両腕でカバンを抱きかかえ恐る恐る通学し、教科書をしわくちゃに潰してしまった。授業が始まればペンを二本折り、ノートには筆圧の強さで十回穴を空けると、いよいよペンを握る手を子供がクレヨンを持つようにグーにして読めないような汚い文字で板書を写す羽目になる。体育の時間は……。流石にやばいと思い仮病を使ったが、飛んできたバレーボールを反射的に弾いてしまい天井を凹ませボールを破裂させてしまった。バカな田村達は俺を見て大爆笑の大騒ぎ、仮病は我ながら英断だったと思う。昼は翠春と食べたが、箸を使えない状況なので全部フォークで食っていたら翠春にめっちゃ笑われた。夜は料理を避けてスーパーのお惣菜を買って帰ると的子はとても不機嫌そうに食べながら、もごもごと文句っぽいことを言っていた。そんなこんなで初日は最悪の一日になったのだが、その中でも収穫はあった。
俺の怪力はどうやら腕だけらしい、要するに足は安全に使えると言う訳だが、これが分かっただけで生活の利便性は大きく向上したと思う。引き戸を開ける、物を移動させるといった力を入れなくてはいけない行動の怪力による事故を防げるのは、今の俺にとって精神的負担の大きな軽減になった。
そして、もう一つが怪力の制御についてだ。この力にはカタチが存在するようで、それがどうやら夢に出てきたあの青い竜のカタチをしているらしいと分かった。何となく捉えられるカタチはアニメや漫画でよく見るオーラのようなものであり、身体の全体を覆っているのだが、その中でも腕だけは特に強いオーラを感じた。恐らくは腕の怪力を制御するには、腕のオーラのカタチを意識的にコントロールする必要があるんだと思う。
明日は運よく土曜で学校も休みの日である。
「とりあえず、明日から特訓だな」
こうして退化症候群になった俺の一日目が終了した。
土曜日
力のコントロールを習得すべく、早朝から人気(ひとけ)のない公園で特訓を始めた。
最初に取り掛かったのが、力の加減だ。先ずは上限を確かめるべく、公園の内にある重そうな物を色々と持ち上げてみる。タイヤ、ドラム缶、倒木、サッカーゴール、トラックのコンテナに整備用の重機……。ありとあらゆる物を軽々と持ち上げることができた。調子に乗って地面に埋まった遊具を引っこ抜こうとしたが、意外と苦戦を強いられて力んだところで怪力を暴発させてしまいバキッと一折。焦ってその場から逃走した。結果的に全体のしっかり見えていて、あまり踏ん張らなくていい物ならだいたい何でも持てるということが分かった。
次に取り掛かったのは、指先を器用に使う練習だ。これが出来ないと暫くはまともに料理が作れない。公園での草むしりの他には家での折り紙とこれまた地味な作業を繰り返したことで、細かい作業に慣れが生まれ上達すると同時に、腕の周りに青い竜カタチを感じることも薄れているようにも感じた。
夜は瞑想に励み、自分を覆うカタチを捉える感覚を身につける練習をした。目を閉じ力に集中すると、青い竜のカタチが自らの身体の内側から出ているように感じるようになってきた。このカタチを正しく認識することが力の制御への第一歩になる、そんな気がした。
日曜日
昨日の特訓で得た情報を元に、今日は手先の力のコントロールを特訓することにした。
買い出しついでにスーパーで色々な硬さの物を買ってみて一つ一つ握り潰してみて感覚を覚える。これが意外と楽しく且つ分かりやすくていい練習になった。
次に料理だ。パン生地をこねるのは練習になると思いパンを焼いてみる事にした。卵を割るのには失敗したが、それ以外は割と上手くやれた。パンついでに夕飯はシチューを作ることにした。包丁は問題なく使えたが、ニンジンの袋やルーのビニール蓋を剝がすなどまだ難しい工程は調理バサミを駆使して乗り切った。好奇心でアツアツの鍋を触ってみたが火傷の一つもしなくなっていて驚いた。焼きたての手作りパンで食べるシチューは家族にとても好評だったのでまた作ろうと思う。
最後はペンと箸を使う練習だ。正直この二つが今の俺が元の生活を取り戻す為に一番重要なことだと思う。
ペンは何本折ってもいいように小学生の時の余っていたものをかき集めた。久しぶりに鉛筆削りを回した時の感覚は懐かしくも新鮮な気持ちになり、なんだかとてもいい経験をしている気分になった。肝心の練習の方は大苦戦中で、上手く持つこともままならずに何本も鉛筆をへし折り苦戦、何かないかと引き出しを漁ると鉛筆用のゴムのグリップを発見しそれを使うことで何とか文字の書ける状態で鉛筆を握れるようになったが、書ける文字はとても大きく、到底ノートに板書の写しを出来るような状態では無かった。
箸ももちろん安い割り箸を用意したが、これまた軽くスカスカなもんで上手く二つに割る事すらままならずに日曜日は終わりを迎えた。
キーンコーンカーンコーン
あれからかれこれ一週間がたった。
怪力のコントロールは大分上達し、今では課題だった箸とペンも小学生の低学年レベルまで、体育もほぼ問題なく参加できる程までになっていた。
やっと生活も落ち着いてきた矢先、翠春から突然こんな事を聞かれた……。
「蒼音、手の調子でも悪いのか?」
「へ?」
「いや、だってこの間まで体育も休んでたし。ほら、今日も箸使ってないじゃん」
流石は親友。ここまでの違和感を見逃すなんてことはないようだ。
「あー。実はちょっと、ね」
「両親には相談したのか?手の違和感ってことは脳の病気だったり……」
「いや、それはないから」
完全に失敗した、思わぬ言葉につい即答してしまった。どうやら思った以上に翠春に心配をかけてたようだ。
「じゃあなんだよ」
「実は……」
「実は?」
「この前えぐい感じに捻っちゃって。母さんたちも大丈夫だって言ってたし、今はリハビリ中……みたいな?」
俺は咄嗟に噓をついた。
「なんで疑問形なんだよ」
「あはは」
「……まぁ、本当に大丈夫ならいいんだけど」
完全に何かをごまかした俺を翠春が少し不満そうにジッと一度睨むと一瞬だけ気まずい空気が流れたが、翠春は軽く肩を落とすと俺の気持ちを尊重してくれたのかこれ以上の追及はやめてくれた。
「ごめんな、ありがとう翠春」
その言葉を無視するかのように、翠春は俺の弁当からカプレーゼをつまみ食いする。
「……今日のこれめっちゃ好き」
「マジか!じゃあまた今度作ってくるわ!」
「やっぱりお前、最高だわ」
こんな空気の中でもそう言ってくれる翠春は、俺にとって最高の親友だ。そんな親友をこれ以上心配させない為にも、少しでも早く元の生活に戻る努力をしようと思った。
そしてこの日の帰り道、俺はある事件に遭遇することとなる————。
ピロリンピロリン
「らっしゃいせ」
丁度、蒼音が下校の電車に乗った頃。蒼音の住む狩馬町のコンビニに、スキンヘッドにサングラスの黒スーツを着た怪しい男が来店していた。
男は雑誌コーナーで立ち読みをしながら誰かと電話で話をしている。
「はい、例の駅の信者ですがこちらで処理させて頂きました。いえいえ、十五年前のテロのこともありますし、これ以上我々の印象の悪くなるような因子は取り除くのは当たり前です。ええ、我々の崇高なる計画の為に……。それでは」
ピッ
電話を終えてスマホを消すと男は読みかけの雑誌と、この店で一番高価な缶コーヒーを持ってレジへと向かった。
「お兄さん、十番のタバコもお願いしていいかな。あとおしぼりも」
コンビニ店員が気だるそうにタバコを用意しだすと、その態度が気に入らなかったのか男はコンビニ店員に無駄に話しかける。
「お兄さんは学生さん?いやー、学生にしては少し若さが足りないな。実家暮らしのフリーター……。いや、一人暮らしって感じかな?夢とかあるの?彼女はいる?」
コンビニ店員はイライラした表情で男の言葉を無視して接客を続けた。
「袋は有料ですがご利用ですか?」
「袋?お願いしようかな。それよりも……」
「お支払いは?」
男のダル絡みをコンビニ店員は徹底的に無視して接客を続ける。
「へ~。お兄さん近藤君っていうんだ」
名札を見て名前まで呼ばれた近藤のイライラが一つの限界に達する。
「チッ」
「お?」
男の狙いに気づいた近藤は、これ以上反応することで男を喜ばせると分かり必死に怒りを抑えて接客を続けた。
「お支払いは?」
「はぁ……。バーコードでお願いするよ」
男は、あと少しでひと悶着といったところで冷静さを取り戻した近藤にがっかりした様子でスマートウォッチのバーコードを差し出すと、ピッと音と共にレジが吐き出したレシートと商品の入った袋を受け取った。
「あざしたー」
猛口撃を耐え抜いた近藤は、勝ち誇った顔で男の背中を見送った。
コンビニを出た男は、袋から缶コーヒーを取り出すと袋をガサガサと探り始めた。
「あれ?おしぼり入ってないじゃん」
男は何か悪いことを思いついたようにニヤリと笑いコンビニへ引き返す。
ピロリンピロリン
「らっしゃいせ」
近藤は男の顔を見てとても嫌そうな顔をしたが、男はそんなことお構いなしに近藤のいるレジへ向かう。
「近藤君、おしぼり入ってなかったんだけど」
「どうぞ」
近藤は面倒くさそうにおしぼりを取り出すと男にそれを差し出す。すると男は差し出しされた手をわざとらしく握った。
「ありがと、ね」
近藤はその手からチクリと痛みを感じ声を上げる。
「痛っ!」
何が起こったのか? 混乱して自分の手を見ている近藤を背に、男はおしぼりを受け取りコンビニを出ていった。
「近藤君に我らが神の祝福があらんことを……」
「ぐ、ぐぁぁあああ!」
コンビニに残された近藤は叫び声を上げて床に倒れこむと、右腕が砲台のような奇妙な姿にみるみる変体していった……。
「(次は、狩馬町。狩馬町です——。)」
下校し、いつもの帰り道。蒼音は駅前の広場にいつもの宗教おじさんがいなかったことから広場を抜けて少し気分良く商店街へと向かっていると、何やら町が騒がしいことに気がついた。
「キャー」
「なんだ?」
コンビニの方から次々と人が悲鳴を上げて走ってくる。通り魔でも出たのか、それとも火事か事故か、どちらにしろタダならぬ事態が起こっているようだ。
「バケモノが出たぞ!早く逃げろ!」
バケモノ?
聞き間違いかなんかだろう。俺も巻きもまれる前に、とその場を去ろうとした瞬間。視界にとんでもない姿の男が飛び込んできた。
「ぐおおおお!」
全身がゴリラのように隆起した筋肉でムキムキになり、右腕を大砲のように変体させて我を失い暴走する男の姿。その姿こそまさに噂に聞いた通りの……
「退化症候群だ」
「ぐおおおお!」
あれが本当の退化症候群? それなら俺の怪力はやっぱり別物なのか? いや、違う。あの力のカタチは俺が感じているものと同じものだ。どちらにしろ、ここにいちゃ危険だ。巻きこまれる前に俺も早く逃げなくては……
「おい、あんな所にまだ子供が」
男の言葉に反応し指先の指す方に咄嗟に視線を向けると、ゴリラ男の少し後ろに逃げ遅れた子供の姿があった。
ゴリラ男もその声に反応し後ろを振り返る。
「いやー!」
今にも子供に拳を振り上げんとするゴリラ男を見て人々が悲鳴を上げる。
正直、関わりたくない。目立ちたくない。怪我もしたくない。せっかく努力して怪力のコントロールを身につけてきて、やっとの思いで取り戻せそうな普通の生活を手放すリスクを冒すなんて有り得ない。退化症候群は国が全力で隠蔽している事件だ、少し経てば自衛隊なり警察なり何かしらがもみ消すために駆けつけてくれるに違いない。そもそも俺の怪力であのゴリラ男に通用するとも限らない……
――――あれ? 俺はどうしてあの子を助けようと考えだしてんだ?
「あぁあ!もう!」
「ぐおおおお!」
考えるのをやめると同時に、今にもゴリラ男に叩き潰されそうになっていた子供の元へと走り出していた。
「うっ」
ズドン!
俺の両腕がゴリラ男の降り下ろされた左手腕を受け止める。
「ぐごおぉお」
「おい坊主、早く逃げろ!」
おびえ切った子供は俺の言葉と同時に走り出した。
「ぐがぁあああ!」
ゴリラ男が俺に対して殺気を放つ。
「噂のまんまの退化症候群じゃんか。やっぱり俺のこれは違かったのか?」
どうにか攻撃を防げたことで、一旦は俺の怪力がこいつに通用することは分かった。後はここから逃げるか……。いや、逃げたところでこいつを放置するのは危険すぎる。じゃあ、助けが来るまでこの怪力で抑え込むか……。これもダメだ、助けが来たあと俺が国からどんな目に合うかわかったもんじゃない。最悪口封じに殺される。それなら、俺が今やれることは一つしかない……。
戦って倒してこの場から立ち去る!
「ぐおおおお!」
「大人しくKOされてくれよ!」
ゴリラ男の顎へと放った俺の渾身の右フックが空を切る。
「噓だろ……」
ゴリラ男は物凄い反射神経で俺の拳を避けると、すぐさま俺に対して右腕の大砲で殴り掛かった。
「ぶふんっ」
「あぶねぇ……」
このゴリラ男、パワー型に見えてかなりのスピードだ。逃げる選択をしていたらと思うとゾッとする。俺のスピードでこいつに拳を入れるのは想像以上に難しいかもしれない。いったいどうしたものか……
ふと気づくとゴリラ男は俺から少し距離を取り、右腕の大砲を俺に向けていた。
「まさか、冗談じゃねぇぞ……」
キュイーーーン
「パワーアタック」
ゴリラ男の右腕の大砲に光が集まっていくように見えた次の瞬間、そこからからアニメや漫画で見覚えのあるエネルギー弾のような光の光線が放たれた。
ズドーーーン
「それ飾りじゃねぇのかよ!」
俺は咄嗟に頭を抑えて地面にうつ伏せになると、光線が俺の十センチ上を通過し背後の建物に直撃した。背後に目をやると建物は瓦礫の山と化している。こんな攻撃が当たったら即お陀仏だろう。
正面を向くとゴリラ男は既にこちらへと走って突進してきていた。
「くっそ!」
「ぐおおおお!」
俺は背後の瓦礫の山まで逃げると、そこから大きめの瓦礫を向かってくるゴリラ男に投げつけた。
「おら!」
「ぐあ!」
瓦礫がぶつかりゴリラ男が怯む。どうやら瓦礫攻撃は有効のようだ。俺は次々と瓦礫を拾い上げて投げつけた。ゴリラ男が瓦礫を両腕で必死にガードして頭を守っている。瓦礫の数には限界があるが、向こうも防御するにも限界はあるだろう。つまり、ここからは根競べだ。
「おら!おら!おら!」
「ぐがあああ!」
先に仕掛けたのはゴリラ男だった。ゴリラ男は一瞬の隙を見つけると、ボロボロの身体ですぐさま後方に退避して俺に大砲を向けてきた。
キュイーーーン
「パワーアタック」
ズドーーーン
二度も同じ避け方はさせてくれないだろう。ゴリラのパワーに謎の俊敏さ、それに加えてイカツイ光線。対する俺は腕力一本。
「俺にも何か……」
絶体絶命のこの瞬間、俺は怪力の特訓で感じた力のカタチを思い出す。
「何かあるかもしれない」
身体を覆う力のカタチをイメージする。
「これだ」
俺は力のカタチを捉えると、その力を足へと集中させて勢い良く地面を蹴り大きくジャンプすると上空へ光線を回避した。
「できた!」
「ぐおおおお!」
理性の無いゴリラ男は俺の跳躍に驚きもせず、本能の如くすぐさまこちらへと突進して大ぶりの拳を俺へと振りかざす。
「これならいける!」
俺は着地すると直ぐに地面を蹴り、今度は横に素早く回避しゴリラ男の背後に回り込み右腕に力を集中させる。
「ふんっ!」
「ぐごぉっ」
俺の右ストレートがゴリラ男の右脇腹に直撃した。
「まだまだ!」
俺はここぞとばかりにラッシュを繰り出し、ゴリラ男を吹き飛ばした。
「ふがっ!」
吹き飛んだゴリラ男が正面の建物にめり込むと共に建物は瓦礫の山と化す。
「ぐがあああ!」
瓦礫の砂埃の中からゴリラ男の雄叫びが聞こえた次の瞬間、砂埃の中に一点の光が輝く。
キュイーーーン
「しまった……」
「パワーアタック」
ズドーーーン
絶体絶命。視覚外、回避不可能な絶妙な距離とタイミングで光線が放たれた。窮地に立たされた俺は走馬灯のように夢で出会った青い竜の言葉を思い出していた……。
「俺はお前。お前だったはずのお前だ」
そうだ、俺はアイツだ……
「かつてそこのにあった世界。今もそこにある世界でお前たちは俺たちだった」
俺たちもあのゴリラ男と同じだったんだ……
「……お前は俺になればいい」
俺の中に青い竜になった俺のイメージが湧き上がる。そしてそれは、俺に眠る青い竜の力の記憶を蘇らせた。
胸の辺りに力が溢れ出す。そして、俺はその力を本能のままに解き放った。
「エクスレイザー!」
力と共に放たれた言葉と共に俺の胸の辺りがエックスを刻むように輝きだすと、そこから勢い良くエネルギーが放出された。
ズゴゴゴゴォォォオオ
二つの光線がバチバチと光と音を放ちながら衝突する。お互い押し負けんと力を込めるとともに大きな声が溢れ出す。
「ぐがあああああああああ!」
「うおおおおおあああああ!」
俺から見える光線のぶつかり合って出来たバチバチが徐々に遠ざかっていくのが分かるとそれも長く続くことはなかった。そしてその後すぐに俺のエクスレイザーがゴリラ男を完全に吞み込んだ感覚があった。安心したのか力が抜けて放心していると辺りは一気に静寂に包まれた。
「が……はっ……ぁ」
「はぁ……はぁ……」
満身創痍の俺はゴリラ男の方へ近づいた。そこにはエックスに焼けた壁の前で倒れこむ男の姿があった。
「やったのか?」
戦いでエネルギーを消費したからか分からないが、退化症候群の暴走が収まったように見える男のその姿は、徐々にゴリラ男から元の姿へと戻っていく。男が完全に元の姿に戻るのを待つと、俺は男の息があることを確認した。うっかり、人を殺してしまっては目覚めも悪い。どうやら男は生きているようだ。これなら殺人で捕まることもないだろう。これで俺と町の安寧は保たれた。そんな余韻に浸り、すっかり浮かれていた俺は大事なことをすっかり忘れてしまっていた。
ピーポーピーポー
ゴリラ男と俺の光線の飛び交う闘いでボロボロになった狩馬町の商店街に聞き覚えのある重音のサイレンが響き渡ると、一台のパトカーの助手席から至る所にDMDと書かれた制服を着たハーフの女性が降りてきた。
「これは!」
すっかり忘れていた警察の登場に立ち尽くす俺は、商店街の惨状を見渡すハーフの女性とうっかり目を合わせてしまった。
「あ……」
「あなた……まさか……」
俺が咄嗟にその場に倒れこみ気絶したフリをすると、コツコツとヒールが地面を叩く音が徐々に俺へと近づいてきた。
「……」
どうにか通り過ぎて欲しかったその足音が俺の真横でピタリと止んだ。
「警察です。署までご同行願います」
「……」
婦警さんだったのか、俺はそんなどうでも良いことを考えつつも狸寝入りを続けた。すると婦警さんは俺が想像していなかった暴挙で俺を叩き起こした。
「願います!」
「痛っ!」
あろうことか、怪我人のしかも被害者かもしれない俺の尻をこの女は思いっきり蹴とばしたのだ。
「行くわよ。狸くん」
そう言うと婦警さんは俺の足首を雑に掴み俺を乱暴に引きずり出した。
「分かった。分かりましたから、自分で歩きますからあああああ!」
こうして俺は強引にパトカーにねじ込まれた。
第三話『DMD』
パトカーに乗せられて数分。後部座席の俺と助手席のハーフの婦警さんと運転手の警官の三人の車内は、長い沈黙に包まれていた。
「……」
「……」
なんなんだよこの空気。てか、説明のひとつもなし? 怖すぎるるんですけど! これって本当に事情聴取? 俺このまま変な施設に連れていかれて殺されたり解剖されたりしないよね? てか、何。あのハーフの婦警さん怖すぎだろ、運転してるおまわりさんもだんまりだよ。
このままじゃやばい気がする。どうにか家に帰してもらわないと……。
俺は勇気を出して話しかけてみることにした。
「……あの」
「何よ」
「僕、高校生なんですけど」
「奇遇ね、私もよ」
「……」
「……」
噓だろ!? 高校生が警察官って何? バイト? 聞いたことないんですけど! え、もしかしてあれか? 海外でよく聞くトビキューってヤツか? そうなのか? てか、俺が聞きたかったのはあんたのことじゃねえし! 高校生の俺を平然と連行してどうなのかって話だし!
俺は気を取り直して聞き直すことにした。
「僕はこれからどうなるんでしょうか」
「事情聴取って言ったでしょ?もしかして、事情聴取の意味も知らないの?」
「……」
「……」
は? 事情聴取の意味も知らないの? だって? ここ日本、日本ゾ? え、トビキューハーフ女子高生警察官怖い。そもそもトビキューハーフ女子高生警察官ってなんだよ!
多少のイラつきはあったが、俺は質問を続けた。
「何時ごろに帰れるんでしょうか?」
「あなた次第よ」
「はい……」
この人と会話をするのは無理だ。俺がそう悟ったその時、何故だか先にトビキューハーフ女子高生警察官のイライラが限界に達した。
「はい……。じゃないでしょ?早く帰りたいなら、今の内に話せる事全部話しなさいよ!」
え、なに? 俺が話すのを待ってたの? 事情聴取で何聞かれるのかも分かってない俺が自主的に? え、怖いこの人。
ここまでくると流石の俺でも少しピキッとしはじめた。
「と、言われましても。僕もよく分かっていなくて……」
「はぁ……。いい?少しでも誤魔化そうとしたら殺すわよ」
「流石に殺されるのは許容出来かねます」
もうすでに俺は唐突に放たれた強い言葉にも動じなくなっていた。
「名前と学校は?」
「平丘蒼音。寿高校の一年です。」
「へぇ?学年まで言って偉いじゃない」
あ、なんか褒められた。馬鹿にされてる気もするけど、ちょっと嬉しい。よく見たらこの人結構美人だし。
「じゃあ次は事件の経緯を話して」
「経緯と言われても……」
「死にたいの?」
やっぱり怖い! この人、本気で俺を殺す気だ……
俺はこれ以上彼女を怒らせないように慎重に答えることにした。
「下校中にたまたま遭遇して。子供を助けようと……」
「出しゃばったのね」
「……」
「てことは、家は狩馬町の辺?」
「はい。二番目に背の高いタワマンの四階です」
「いい御身分ね」
「ども」
あ、あれ? これ事情聴取だよね? 住所とか聞いとくべきじゃないの? え、もしかして俺この後ホントに処分されるんじゃ……
「過去に退化症候群なったのはいつ頃?」
「……はい?」
「殺されたいの?」
殺さないで下さい! てか、過去にってどういう意味? どう答えればいいんだ?
俺は殺されないように、無難な回答を心掛けた。
「過去というか、怪力になったのは一週間前です」
「それでヒーローごっこで町を破壊と……」
カッチーン! 言ってやる! 言ってやる! 一言なんか言ってやる! 殺される? それがなんだ! ここで言わなきゃ男が廃る! いくぞ…… うおおおおおお
そして俺は死を覚悟して言い放った。
「さっきから感じ悪いっすね」ボソッ
言ってやったああああ! 大分ヒヨッたけど。言ってやった! どうだ! 悔しいか! 悔しいだろうトビキューハーフ女子高生警察官さんよおおおお!!
「ごめんなさいね。惚れられても困るから仕方なくなの」
「……」
俺の負けだよ! コンチクショー!
まるでこの一言の為に踊らされていたかのような会心の一言による唐突な敗北に打ちひしがれていると、ハーフの婦警さんが急に落ち着いた雰囲気に戻った。
「まあ、何となくわかった」
「じゃあ、家まで送ってもらえると……」
「は?」
「なんでもないです」
多分、俺はこの後死ぬ。この人の言った通り、ヒーロー気分で出しゃばったのがいけなかったんだろうな。父さん、母さん、的子。今日のご飯作ってやれなくてごめんな、今までありがとう。嗚呼、最後にもう一度……
そして、窓の外をうつろな目で眺める俺の頬に一滴の涙が流れ落ちたのだった——。
間もなくして、パトカーはテレビで観たことのある警視庁の建物の駐車場に停車した。
「着いたわよ。降りなさい」
「良かった」
「何が?」
連れてこられたのが見知った警視庁の建物で安堵した表情の俺を見て彼女が気味悪そうにしている。
「変な施設で人体実験とかされるものかと……」
「そんなわけないでしょ。警察よ?」
「殺すって言ったくせに」
拗ねたような俺の顔を見て、彼女はまるで子供にお化けの話をした後の大人のような意地悪な表情を浮かべるとクールに髪をなびかせてこう言い放った。
「あんなの噓よ」
「おい!」
まるで冗談になってない、彼女は俺がパトカーで最悪の時間を過ごしていたことなんてお構いなしに入口の方へと偉そうに歩き出す。
「いいから付いてきなさい」
俺が逃走する可能性をまるで考えずに後ろを振り返ることもない堂々とした彼女の背中を追いかけるように、俺は黙って彼女の後ろを歩き始めた。
所内に入る時は不用心にも持ち物検査も身分証明も何もなかった。俺がエレベーターに乗せられて連れて来られたのは六階にある割と綺麗な通路の先の日当たりの良い一室だった。部屋の入り口はDMDと大きく描かれた警察所には不釣り合いな美容室のようなオシャレな引き戸で、扉の上には退化症候群対策課と小さく書かれた札が貼ってある。恐らくそれが彼女の所属する部署の名前なのだろう。中に入ると一番大きなデスクにイケおじが一人座っていた。
「ただいま戻りました」
「ご苦労、ワトソンさん。彼が例の覚醒者か?」
どうやら彼女の名前はワトソンさんと言うそうだ。ワトソン……名前か? 苗字か? それともミドルネーム?
彼女のフルネームが気になる一方、イケおじから聞こえたもう一つの気になるワードがあったので、今俺にとって大事そうなそちらを優先して聞くことにした。
「覚醒者?」
「ああ、すまない覚醒者というのは君や私たちのような退化症候群の力を暴走させずに制御できる者のことだ。私は赤井剛弘(あかいたけひろ)、警視庁退化症候群対策課の課長を勤めている。ところで君は高校生かな?」
「はい、そうです」
状況から察するにどうやら、ワトソンさんや赤井さんも俺と同じで退化症候群の力を暴走させずに使うことのできる覚醒者らしい。つまり、俺のこの力も退化症候群の力だとほぼ確定したわけだ。
赤井さんは俺が高校生と聞くや否や頭を抱えて呆れた顔をワトソンさんへと向けた。
「ワトソンさん」
「ただでさえ人手不足なんですよ?私だって高校生ですし、彼には弱みもあります」
「あの……」
え? 俺って今弱み握られてんの? てか、人手不足っていったい何の話だ?
俺がおどおどしていると赤井さんが優しく俺の方に笑顔を向けた。
「ああ、すまない。ちょっとした事情聴取だけさせてくれるかな?」
気を利かせ俺に話を振ってくれた赤井さんにワトソンさんが声を上げる。
「ちょっとチーフ!」
「ワトソンさん」
すかさず彼女を黙らせようとする赤井さんだったが、彼女の口は止まることを知らなかった。
「あんたもなんか言いなさい!ヒーロー目指してんでしょ!」
「なんでそうなるんだよ」
俺が言い返したところで赤井さんが右手を上げて彼女を制止した。すると彼女はむすっと口を閉じ、赤井さんの話が始まった。
「平丘くんだったかな?」
「はい」
「少し調べさせてもらったのだけど、君には過去に退化症候群を発症した記録はなかった。今まで観測された覚醒者は私たち含めて皆が過去に一度、退化症候群を発症し一命を取り留めた過去がある。つまり君はイレギュラーだ」
「イレギュラー……」
正直、話が読めないがさっきパトカーでワトソンさんに聞かれた過去に……の質問の意味にやっと合点がいった気がした。というか、ちゃんと説明してくれよ! 一般人にあんたらの事情が分かるわけがないだろ……
俺がそんなことを思っていると、ワトソンさんがイレギュラーという言葉に反応して会話に割り込んでくる。
「まさか、回帰教が探してるって言う……!」
「いや、それとは恐らく違うだろう」
「回帰教ってあの回帰教ですか?それと退化症候群にどういった関係が……」
回帰教は、ここ数年で知名度を広げているカルト集団でその実態や本体は謎に包まれている。回帰教の名が世間に広まるきっかけとなったのが十五年前の大規模なテロ事件だ。回帰教を名乗るテロリスト集団が起こしたその事件では五十人を超える犠牲者を出していた。犯人は全員捕まったが、取り調べの末に回帰教の本体との繋がりはなしと報道された。その後、回帰教はネットやマスコミで連日取り上げられ、その度にその不透明さや発生原など多くの謎が世間を騒がせることとなる。信者の中には、回帰教の幹部を名乗る者との交流を持つ者から聖書や教示を受け取っている者もおり、その歴史の長さは調べる程に深いことから、オカルトのトレンドとして今だにオタクを産み続けている。中には、狩馬町の駅前広場の男のような狂信者になる者も多く、回帰教信者は世間で危ない人と認識されることも多い。
そんな回帰教と退化症候群の関係性はネットでもよく噂されていたのだが……
「すまない。忘れてくれ」
それはそうか。国が必死に隠蔽している大機密情報だ、俺だって本当は喉から手が出る程知りたい情報ではあるけど、ここまで聞いて生きて返して貰えそうなだけでもありがたいと思うべきなんだろう。
そうは思いつつも俺の好奇心は顔に駄々洩れだったようで、彼女はそれを見逃さなかった。
「知りたかったらあなたもダムドに入りなさい!」
「ダムド……?」
「はぁ……。ワトソンさん、高校生はダメだ」
赤井さんが言葉を遮ろうとするも、彼女の暴走は止まらない。
「いい平丘?ダムドっていうのはDMD、この退化症候群対策課。英語で言うDecadence Measures Divisionの略称よ!私たち覚醒者は国の平和のために退化症候群と闘える唯一の切り札なの、貴重なの、分かったらあんたもダムドに入りなさい!」
「唯一の切り札……」
彼女の言葉の中には、男心をくすぐるワードが沢山詰まっていた。
「はぁ……。すまない平丘くん。彼女の言葉は忘れてくれ、どちらにしろ我々警察は高校生を雇うつもりはないよ」
正直、心を動かされなかったというわけではない。ただ、赤井さんが言う通り俺は高校生だ。国が、ましてや大人が、無責任に子供がこんな危険な仕事をすることを許すはずがない。
彼女もそれは自分自身で十分理解はしているのだろう。何度も繰り返される赤井さんのその言葉に彼女も遂に口をつぐんだ。
「……」
「じゃあ、事情聴取に戻ろうか……」
俺は自身のこと、ゴリラ男のこと、退化症候群に覚醒してから今に至るまでのことを何一つ隠さずに赤井さんに全て話した。赤井さんは俺の話を真剣に、時には同情もして、警察として、そして大人として、何一つ疑わずに親身になって聞いてくれた。
俺の話が全て終わると赤井さんが口を開いた。
「なるほど……。それは、大変な目にあったね」
続けて、話の最中顔を歪ませ口を挟むのを我慢していたワトソンさんが長時間息を止めていたかのように勢い良く声を出す。
「ちょっと!ビームってなによ!」
「いや、聞かれなかったし」
そのあとは彼女の気が治まるまでずっとガミガミと文句を浴びされ続けた。途中赤井さんに助けを求めたが、諦めてくれという言わんばかりの呆れた表情で返されてしまったりもした。彼女の気がやっと治まると赤井さんは申し訳なさそうに、だけどちょっぴり和んだようにも見える表情で俺に軽く一礼した。
「協力感謝するよ、ありがとう平丘くん。直ぐに家まで送らせよう」
「あの!」
内線電話に手をかけようとした赤井さんを、気づくと俺は静止させていた。
「……?」
「回帰教って……退化症候群って、一体何なんですか!」
本当は聞くつもりなんてなかった。これは焦りに任せて咄嗟に出た言葉、なんだと思う。
「君は将来の夢はあるかい?」
「夢、ですか?」
赤井さんが突然してきた質問に俺の意識が集中するのが分かった。
「もし君が卒業後の進路に迷っていて、この道を選ぶかもしれないと思うなら……」
「夢はまだありません!」
これが俺の本心からの、そして赤井さんに求められた答えであると直感で理解が出来た。
力強く即答した俺を見て、赤井さんは優しい笑顔を見せると話を始めた。
「回帰教は知っているかい?」
「十五年前にテロを起こしたっていうことと、名前だけなら……」
「我々ダムドは退化症候群の事件を追う中で、ある男にたどり着いた。男の名前は椎葉(しいば)雅(まさ)海(うみ)、回帰教の幹部で信者達には先生と呼ばれているサングラスにスキンヘッド、スーツ姿の怪しい男だ。我々は幾度の調査の末に椎葉との接触に成功した」
「そこで二人が病院送り。一人は未だに意識不明の重体で、もう一人は椎葉の言葉を残してやめていったわ」
「椎葉の言葉っていうのは一体……」
「完全(ディジェネ)帰化(レイション)。退化症候群の最終形態にして回帰教の大いなる目的。だそうだ」
つまり回帰教にとっての退化症候群は、神聖なものだというのだろうか。
「それってつまり……」
「ええ、回帰教が退化症候群を引き起こしていると白状したようなものね」
「じゃあ回帰教を調べれば!」
「もちろん調べている。回帰教の信者の多くは本体が何処にあるかもなんなのか知らない。もちろん椎葉の居場所や退化症候群を引き起こす方法も」
椎葉雅海。まさか、あの回帰教に本当に幹部が存在していて。しかも、警察官二人が返り討ちにあったなんて。一体その男は何者なのか、考えるだけでゾッとする。もしワトソンさんが言ったように回帰教が退化症候群を引き起こしているのだとしたら、それは国家を揺るがす程の大問題だ。警察の捜査力を上回る回帰教は俺が思っていた以上にやばい集団ということになる。
「だけどね、中には退化症候群を引き起こすシードと呼ばれる薬を持っている信者もいるわ。椎葉に渡されて他人に使った信者が自首してきたり。逆に自分で使って退化症候群で暴走したり色々でね。私の家族も昔、お土産のお菓子にシードが入っていて退化症候群で大変なことになったわ」
「そのシードが大々的に使われた事件というのが、君が最初に言った十五年前のテロだ。私はそこで退化症候群に発症した」
「そんなことが……」
「つまり、今わかっていることは、椎葉は完全帰化という目的のために回帰教信者を利用して退化症候群を起こしていて、我々はそれを止めなければいけないということだ」
二人にそんな過去があったなんて。話が本当だとしたら、ゴリラ男にも同じような経緯があって、俺はそんなことも知らずにあの人を傷付けてしまったということになるだろう。そんなことを思うととても胸が苦しくなった。
「それで、退化症候群の方は一体何なんですか?」
赤井さんはそう聞かれると、ワトソンさんと顔を見合わせて少し困った笑い方をすると、さっきまでと一風変わって雑談のような口調で話し始めた。
「前に私が警察のトップ達の集う飲み会で組織のトップというトップ人達から同じ質問をされたことがあるんだ……」
「……つまり?」
俺が不思議そうな顔をしているとワトソンさんは俺を馬鹿にするように笑った。
「あんたは馬鹿ね!そのトップたちも誰も何も知らなかったってことよ」
とんでもない事実だった。もしそうだとしたら、ダムドの人達は相手の事どころか自分の力の事も何も知らないで戦っているということになる。
「じゃあ、警察も国に言われるがまま、対応して隠ぺいしているってことですか?」
「そういうことだ」
退化症候群について、覚醒者について、俺は自分のことを何も分からないまま生きていかないといけないということだ。けれど今はそれ以上に世間の人達の知り得ない退化症候群の真相を知ることが出来なかったのがとても残念だった。
話が終わると赤井さんは手をパンッと叩き、引き出しから何かを取り出して俺に差し出してきた。
「それじゃあ平丘くん、これを」
「これは……」
「警察学校のパンフレットだ!」
流石は赤井さんといったところ。責任感のある大人の粋な計らいができるイケおじを見て、俺の脳裏に赤井さんのようになった自分の将来の姿思い浮かべようとするも、そんな妄想をかき消すように隣から大声でヤジが飛ばされた。
「ちょっとチーフ!警察学校って何年待つつもりよ!」
「まだ他にやりたいことができるかもしれないだろ?もちろん君も」
「もう!」
まるで実の親のようにワトソンさんを手玉に取る赤井さんの優しそうな笑顔を見て、俺の中に残っていた緊張感は一気に溶けていった。
間もなくして、内線電話の音と共に赤井さんが俺たちに声をかける。
「車の準備ができたようだ。ワトソンさんも一緒に送ってもらいなさい」
「私の家が先だからね!」
「あはは」
パンフレットを持ってワトソンさんと共に部屋を後にしようとする俺に赤井さんが声をかける。
「これから大変だろうけど、何かあったらいつでも連絡をしてくれ。我々ダムドは君の生活を全力でサポートするよ。それじゃあ、また」
「はい、ありがとうございました」
挨拶が終わるとワトソンさんは俺の首根っこをグイッと強めに引っ張った。
「早くいくわよ」
「ワトソンさん!痛いからやめてください!」
「小凪(こなぎ)先輩と呼びなさい!私の方が一つお姉さんなのよ」
「あ、はい」
帰りの車の中でワトソンさんと少し話をした。どうやらワトソンさんの本名はワトソン小凪と言うらしく、大好きな父親がイギリス人で母親が日本人、日本生まれ日本育ちのハーフだそうだ。高校は名門聖イリス女学園で日中は普通に通っているらしく、トビキューの事実なんて無かった。ダムドで働いているのは、昔、家族で退化症候群なった時に赤井さんに助けて貰った恩があるから、と言っていたが。あの赤井さんが高校生の危険な労働を許すはずもない、彼女の性格からして半場強引に手伝っているのだろう。
ニ十分程でワトソンさんの家に到着。彼女がいなくなった静かな車内で、ふとスマホを見ると的子から一通の連絡が入っていた。
「今日はカレーが食べたい」
時計を確認すると、既に時刻は十八時を過ぎていた。
「……スーパーで降ろしてもらうことって出来ますか?」
——遡ること数時間前、蒼音がダムドの部屋を訪れている頃。狩馬町で缶コーヒーを片手に警察の集めた先ほど蒼音が遭遇した退化症候群事件の資料をスマホで眺める怪しい男の姿があった。
「へー。近藤君、期待以上の帰化率だったっぽいね。それよりも、今はこっちか……」
男は画質の粗い動画に映った光線を放つ蒼音を二本の指で拡大し繰り返し動画を再生すると、面白そうにニヤリと笑う。
「ダムドの新人君。これは、エクスブイモンか?そんな珍しいデジモン、一体どこで見逃していたんだ……」
男は動画を一時停止すると更に蒼音の姿を拡大した。
「しかもまた高校生って、ダムドの連中やってんねー。おや、この制服は確か……」
蒼音の制服が寿高校の制服だと気づいた男は、良いことを思いついたとばかりに口を開くと嬉しそうに誰かに電話を掛けた。
プルルルル
「あ、もしもし、福元さん?椎葉です。今ですね、丁度狩馬町まで来ているんですけど……では、お言葉に甘えて……。何かお茶菓子を買ったらすぐに伺います……。ははは、翠春君の為ですよ、遠慮なさらず……。では、後ほど」ピッ
「さて、計画の前倒しだ。今日もまた、囚われた魂を解放しに行きますか、我らが神の御導きのままに……」
この男の名は椎葉……。そう、ダムドの追う回帰教幹部、椎葉雅海であった。
第四話『完全帰化(ディジェネレイション)』
ガチャ
「お帰りなさい、翠春」
福元翠春は母と二人で小さなアパートに住んでいる。この日、翠春が家へ帰ると母はとても上機嫌で部屋の片付けをしていた。
「ただいま、母さん。そんなに張り切ってどうかしたの?」
「これから先生が家に来てくれるらしいの!」
「へぇ、じゃあ僕は部屋に……」
「先生ったら、翠春の分までお茶菓子買って来てくれるそうよ!先生はとても賢くて、どんな悩みも解決してくれる凄い人よ!せっかくだし翠春も一緒にお茶しましょ?きっと翠春も先生を気に入ると思うわ!」
翠春は知っていた。母が回帰教にハマっていること、そして先生と呼ばれる椎葉という男をとても信頼しているということを……。椎葉と回帰教は、父親が亡くなって以来息子を何よりも大切に女手一つで育ててくれ、苦労してきた母親にとって、父が亡くなって以降初めての心の拠り所になっていたことを……。回帰教には悪い噂が沢山ある為、翠春にも心配はあった。しかし、母親の楽しそうな笑顔を見ると反対する気にはなれなかった。実際に金銭を要求されてる様子も、変に洗脳されている様子もなく、回帰教にハマった後も息子が一番大事であることに何の変化もなかったからだ。強いて違和感があるとすれば、怪しい調味料を貰ってくることくらい……。それくらいだった。
翠春は本心では椎葉という男を信用していなかった。出来れば会いたくないと思ってはいた。しかし、翠春にとっては母の気持ちを尊重することが何よりも大切なことであり、母に近づく怪しい男を見極める必要もあるとも思っていた。
「宿題もあるんだ、少しだけだからね。準備手伝うよ、母さん」
「ありがとう翠春」
ピーンポーン
「はーい」
「どうも福元さん、突然のお招きすみません」
「いらっしゃい先生!まさか、忙しい先生が家に来てくださるなんて、とても感激です」
「いえいえ、熱心な教徒とのコミュニケーションは、神より与えられし私の使命なのですから」
「ほら!翠春、先生に挨拶しなさい」
先生と慕われるほどの神官からは想像もつかない椎葉のカタギでないような衝撃的風貌に思わず翠春は息を吞んだが、慌てて笑顔を作り椎葉に明るく挨拶をした。
「初めまして、母がいつものお世話になっております」
椎葉はそんな翠春の反応を見てクスッと優しく笑うと礼儀正しく挨拶をした。
「君が翠春君ですか。話はお母さんから聞いているよ。とても良い息子さんだと」
「ありがとうございます……」
椎葉の言葉に少し照れる様子の翠春を見て微笑んだ母親が翠春の肩をトンと叩く。
「さあ、先生!お茶を入れているので狭い家ですがゆっくりしていって下さい」
「流石は福元さん!やはり気が利きますね」
「翠春も手伝ってくれたんです」
「翠春君もありがとう」
「こちらこそ、お茶菓子を買ってきていただいたようで、ありがとうございます」
翠春に言われて思い出したかのように椎葉は手に持っていた紙袋からお土産のお茶菓子を取り出した。
「そうそう!これ、前に福元さんの言っていた和菓子屋のタルト」
「あら!翠春の好きなお菓子だわ!覚えていてくださったんですね」
「もちろんですよ。ささ、お茶が冷めてしまう前に食べましょう」
翠春の母が椎葉を二人の向かいの席に座るよう促すと、取り出したタルトをお皿に盛りつけ淹れたての紅茶と共に椎葉に前に差し出すと、三人はそれぞれ席に着き、いただきますと軽く手を合わせてタルトを食べ始めた。
「美味しい。福元さん、このタルト凄く美味しいですね」
「ここの和菓子屋さんの娘さんがパティシエさんらしくてね。実家の新商品に、って三年前から売り出したんですって」
「和菓子屋の娘が洋菓子職人だなんて、一見仲の悪い親子のように聞こえますが、店主夫妻の人柄やお店に飾ってある娘さんの賞状や働いているお店の名刺が置かれているのを見る限り、相当仲の良い親子なのでしょうね」
タルトから盛り上がった話題は家族へと移ると、椎葉はとても優しい表情で翠春に微笑みかけるとそのまま翠春に話を振った。
「翠春君もとてもお母さんを大事にしているんだね」
「いきなりどうしたんですか?まあ、父さん死んでからずっと一人で文句ひとつ言わず、僕を育ててくれてるし。当たり前です」
「ごめんね、お母さんがこんな怪しいおじさんと親しげにしていればそりゃ心配だよね」
「あらあら。ありがと翠春、でも大丈夫よ?先生はとても良い人だから」
翠春の母親は、椎葉の言葉にそうだったのかと言った表情をした後、諭すように翠春に言葉を送った。
「あの……」
「何かな?」
母に自分の気持ちを伝えられた翠春は、椎葉の前で隠し事は意味がないと思い。不安に思っていることを椎葉に直接聞いてみることにした。
「椎葉さんは回帰教の偉い方なんですよね」
「偉いかは分かんないけど、確かに僕は回帰教の神官だ」
「別に僕は宗教とかに偏見もないですし、回帰教の噂とか信じてないんですけど、回帰教って調べてもオカルトばかりで、実態が分からなくて、母さんが心配で……」
「翠春……」
椎葉はうんうんと頷きながら翠春の話をじっくりと聞くと、翠春の母をなだめるように一度目を合わせて会釈し、再び翠春の目をしっかり見て話し始めた。
「なるほどね。確かに回帰教は一般的には不透明だ。悪い噂も相まって、我々神官レベルでない限りその実態を正しく把握している者も殆どいない。母親を心配する君の気持ちは私だって十分に理解できる。だから、私の話せる範囲内の事なら何でも答えさせてくれ」
椎葉の真剣な眼差しに促され、翠春も思っていることを口にしだす。
「では、その……。回帰教は一体、何を……、すみません。どんな神様を信仰している宗教なんですか?」
「君は今の世界の成り立ちを知っているか?」
「この世界のですか?理科では星が太陽の引力の軌道の上で成長して、気候や大地が変化し小さな生命が生まれ、長い時を経て徐々に進化していった……みたいな感じで学びました」
「そうだろ?だけど、それは人の歴史の話であって、世界の成り立ちの話ではない」
「それはこの世界は神様が創ったって話ですか?」
「いいや。これはこの時代では辿り着けなくなってしまった科学の話さ」
「失礼な言い方になるかもしれませんが、SF……ということでしょうか?」
「君は賢いね。神官それぞれ解釈の仕方は違うが、我々の知る事実と照らし合わせると今の世界はSFの世界線の上に存在すると僕は認識している」
「認識に違いがあるのは組織として大丈夫なんでしょうか?」
「ああ。理解しがたい内容だが、事実だけは揺るがない」
「それで、その事実とは……」
「分かりやすく言うと、————ここは地球ではない」
「はい?」
ここまでは小難しい話でも何となく聞けていた翠春も、「ここは地球ではない。」と言ったことに関しては流石に理解が出来なかった。椎葉も流石に言葉が足りないか、と言った表情で話を進めた。
「学校で学ぶこと、歴史や科学は決して噓ではない。人間は地球に生まれ歴史を刻み、その素晴らしい叡智で今を創った。これは紛れもない事実だ」
「でも、ここは地球ではないんですよね?」
「その通り、そして我々は人間ではない」
「つまり、この世界も僕たちも人間が創ったデータか何かの創造物ということでしょうか?」
翠春の問いに無言で首を横に振った椎葉はサングラスをクイッと上げると、椅子に座りなおし、人差し指をピンと翠春に向ける。
「ここからが我々回帰教の信仰の話さ」
「と、言うと……」
「この世界はかつて地球とは別の世界だった。そして、我々回帰教はこの世界を元の正しい世界へと回帰をすべく存在する」
「……」
「……」
一時の静寂の後、翠春は突如頭を抱えて苦しみだす。
「う、うぅ……」
「翠春!」
バタンと椅子から転げ落ち苦しむ息子に母が駆け寄り声をかけた。
「やっと効いてきたか……」
「先生?」
急に声色を冷たく変え、ポケットに両手を突っ込み立ち上がる椎葉に親子の視線が向く。
「何……」
「言っただろ?賢い君にならわかるはずだ……」
苦しみ呻きながら翠春の腕や身体の一部が徐々に怪物のような装甲に飲まれていく。それは紛れもなく退化症候群であった。
「翠春!先生いったい翠春になにが……」
「大丈夫ですよ。我らが神の御意思です」
そんな息子を見てパニックを起こす母親をなだめる椎葉の顔は、声は、いつものような優しさと別に興奮を隠すような不気味さを醸し出す。
「翠春!翠春!」
退化症候群は尚も侵食を続け、既に翠春の左腕や上半身は完全に装甲に吞み込まれていた。椎葉はその姿に目を輝かせて、抑えていた興奮を爆発させるかのように天を仰ぎ、声を荒げる。
「これは素晴らしい……。あと少しで遂に我々の崇高なる目的が……初めての完全帰化が見れるかもしれない!」
「ううう……かあざ……あお……たすげ……」
遂には顔の一部までも変体し、依然苦しむ翠春の背中に虫のような翅が生えだすと、翠春は理性を失ったような咆哮を上げた。
「うがあああああああああああ!!!」
わずかに理性を残す翠春の目には泣きながら自分へと一生懸命手を伸ばす母親の姿が映る。腰を抜かし動けなくなっても、必死に、必死に息子を助けようと手を伸ばす母親の姿が……
バリン
直後、翠春はベランダのガラス戸を突き破り、背中の翅で狩馬の町へと飛び立った。
「あああああああ……。素晴らしい!素晴らしい!素晴らしい!」
退化症候群で空を飛んだ翠春の姿に椎葉の興奮は加速する。
「翠春!先生、翠春が!」
「喜んでください福元さん。翠春君は我々の目指す先……回帰のその先、完全帰化の境地へと辿り着ける!神に選ばれし最初の一人になるのかもしれません!」
「そんなものはいりません……翠春を元に……」
そんな母の悲痛など、椎葉の耳には届かない。
「こうしちゃいられない!早く翠春君を追わなくてわ!」
「先生待って!先生!先生……ううぅ……」
翠春を追いかけ部屋から走り去る椎葉の背中に訴えかけるように、翠春の母は必死に泣き叫ぶことしかできなかった……。
静かなビルの屋上に一人、変体が進行し、苦しむ翠春の姿があった。
「はぁ……はぁ……うがががぁ!」
僅かに残った理性の先には、変体で破れたズボンのポケットから転げ落ちたスマホがある。
「あお……ど……いわな……ぎゃ……」
変体していない最後の指で、薄れ行く意識の中で、翠春はスマホを操作した。
プルルルル
「もしもし、翠春?こんな時間にどうした……」
スマホのスピーカーから蒼音の声が微かに漏れる。
「あお……ごべん……まぎぃ……」
翠春は蒼音に何かを伝えようと必死に喋る。
「翠春?おい……翠春!どうした!」
「があざ……りょ……ごべ……ごべ……」
意識も身体も殆ど吞み込まれて、翠春の意識は既に限界を迎えていた。
「今どこだ!すぐ行くから!おい!」
「あお……あがあああああ」
ガシャン
ピーピー
突然かかってきた親友からの微かな唸り声のみの電話は破壊音と共にブツリと途切れた。
「翠春……一体何が……」
さっきまでダムドに居たからだろうか。よぎったのは、退化症候群で暴れる親友姿だった。
翠春は俺に助けを? 具体的な内容なんて分からないけど、今必要なのは翠春の安否の確認だ。
キッチンを飛び出し慌てて上着を羽織り玄関へ向かう俺に気づき、アイスを咥えた的子が部屋から顔を覗かせて声をかけてきた。
「ほひひ?ほうひは……」
「すまん的子!カレーもう出来てるから先に食っててくれ!」
「ほひひはん!」
バタン
俺は的子にそう言い残し、家を飛び出すと翠春の住むアパートの方へと走り出した。
「……無事でいてくれ!」
第五話『親友』
無数のガラス片と数人の野次馬の間を抜け翠春の住むアパートの部屋に着くと玄関は開いており、中には二人のおまわりさんと泣きながら息子の名前を呼び続ける翠春の母の姿があった。慌てて中に入るとおまわりさんの一人が安心したように俺に声をかける。
「良かった。君が翠春君だね?」
「違います。けど、知合いです」
「蒼音くん……?」
「おばさん!翠春に何か……」
そこで俺はふと周りの部屋の惨状を見て全てを察した。
「私のせいで、翠春が……翠春が……」
「おまわりさん。退化症候群です、直ぐに赤井さんに……ダムドに連絡を!」
「なんだって!?わ、わかった直ぐに……って君なんでダムドを!?」
二人のおまわりさんは顔を見合わせて目で合図を送りうなずき合うと一人がスマホを取り出し電話をかけだす。その直後、外からの異様な叫び声が町中に大きく響き渡った。
ガアアアアアアァァァ
その叫び声に翠春の母が反応する。
「翠春!」
「あっちか!おまわりさん、おばさんのこと頼みます!」
翠春の母の反応を見るにあれは間違いなく翠春の声だ。翠春は既に退化症候群で我を失い暴れているのかもしれない。そう考えると走り出さずにはいられなかった。
「ちょっと君!話は……」
「要請完了しました!」
「何だったんだあの少年……」
走り出してから数ブロック先のマンションの上部に緑色の影が見えてくる。その真下には不思議そうに見上げる人がチラホラといた。
「ガアアアアアアァァァ」
「キャー」
マンションの外壁を砕き吠える緑色のバケモノが本物だと分かると人々は一斉に逃げ出す。人の流れに逆らって更にマンションに近づくとバケモノの全貌が見えてきた。
「あれが、翠春……?」
深い緑色の外骨格に大きな赤い二つの目を持ち、特徴的な黒い両腕には大きな針と鋭い爪がズラリと並ぶ、肩にスパイク背中には大きな翅を左右それぞれに付けたその姿はまるで昆虫のバケモノで、昼間に見たゴリラ男と同じ退化症候群の人間とは思えないような異形の姿をしていた。
ガシャーン
「危ない」
翠春と思われるバケモノがマンションから飛び降りると同時に崩れた外壁が逃げ遅れた人目掛けて落下する。
ドカーン
間一髪。急いで駆け出した俺はその落ちてきた瓦礫を怪力で払いのけた。
「あ、ああ……」
「早くここから離れて下さい」
残った人を逃がした俺は、首をフラフラ揺らして立ち尽くす翠春と思われるバケモノに慎重に近づいた。やはり、バケモノの身体のどこにも翠春だと分かる面影は全く残っていない……。
「あれじゃあ完全にバケモノだ……まさか、これが完全帰化だっていうのか!」
「ガアアアアアアァァァ」
正直、この状態じゃ本当に翠春なのかすら判断出来ない。なんなら、このバケモノが翠春でない方が良いに決まっている……。だけど、残酷にも俺の中の青い竜の力はこの緑のバケモノが間違いなく翠春であると、そう告げていた。
「翠春、俺だ!蒼音だ!」
「ア、 アオ……」
「やっぱり、翠春なんだな。しかもまだ少し意識が……」
このまま意識さえ戻れば、もしかしたら俺やダムドの人達みたいになれるかもしれない。俺は微かな希望を込めて必死に翠春に呼びかけた。
「そうだ俺だ!さっき家にも行ってきた!おばさんも心配してるから一緒に帰ろう!」
「カ……ア……う、グ……ガアアアアアアァァァ」
「翠春!」
「ガアアアアアアァァァ」
「クソ!」
暴れだし殴りかかってきた翠春の腕を俺は足に力を込めて地面を蹴り、急いで横に回避する。
ドーーン
翠春の腕はそのまま空を切りアスファルトを粉砕した。俺は体勢を立て直すと再び翠春に声をかける。
「翠春!頑張れ!退化症候群なんかに負けんな!」
「ガアアアアアアァァァ」
俺の声は更に翠春に届かなくなっていた。
「ダメか」
「ガアアアアアアァァァ!」
「まさか!」
翠春の右腕の大きな針に力が集まっていく。
「スパイキングフィニッシュ」
翠春は強力なエネルギーを帯びた大きな針を右腕ごと俺に向かって思いっ切り振りかざす。
グサッ!
俺がそれを避けると翠春の右腕の針は地面を突き刺し深々と刺さった。
「翠春……クソおおお!」
俺は腕の針を抜き出す隙に目いっぱいの力を込めて翠春の顔をぶん殴った。
「グガアアアア」
翠春の顔の外骨格は固く、砕くことはかなわなかった。それでもダメージはしっかり入り、翠春はふらつき片膝を着いた。更に俺は声を掛け続けた。
「おばさん心配させてどうすんだ!正気に戻れ!」
「ガアアアアアアァァァ」
「話を聞け!」
「ガアアアアアアァァァ」
言葉が通じ始めたのか、はたまた俺の拳にひるんでいるだけなのか、翠春は段々と落ち着いた様子を取り戻す。それでも俺は必死に声をかけ続ける。
「明日食いたいもの言ってみろ!何でも俺が作ってやるから!」
「ガアアアアアアァァァ」
「俺がおばさんの卵焼きが食いたいから!」
「ダ……マゴ……」
声が届いた! 俺はこのチャンスを逃すまいと更に声をかける。
「そうだ!卵焼きだ!」
「あオ……ゴべ……」
「翠春?」
翠春が何かを伝えようとしている。しかし、何を言いたいのか上手く聞き取れない。
「ま……ギ……ゴゴゴゴォォオオオ!!」
「翠春……?翠春!」
翠春の赤い大きな目が光りだすと翠春は再び理性を失ったように暴走をはじめた。
「スパイキング……」
「クソ!」
「フィニッシュ!」
グサッ!
攻撃を避けきれず、大きな針が俺の左肩に穴をあけた。
「ぐはっ!ううう……」
「あ……あ……」
俺を傷つけたからだろうか、翠春が大きく動揺を見せる。
「みはっ」
「ガアアアアアアァァァ」
翠春の理性に語りかけようとした時、翠春は激しくて頭を抱えてふらつき出し、理性に抗うようにそのまま空へと飛び去ってしまった。
「みは……いっ!」
今すぐ追わなくていけないのに、左肩に空いた穴が酷く痛む。それもその筈だ、こんな穴が開いていたら出血大量、痛みによるショック死、俺がまだ普通の人間だったら即死でもおかしくない。骨も神経も逝かれている状態で左腕を動かせているのも全部退化症候群の、覚醒したあの青い竜の力のカタチでこの身体が動いているからなのだろう。
痛みに耐え、翠春を追おうとしたその時、一人の男がこちらに近づいてきた。
「あーあ。また見失っちゃったか、って……おやおや?」
サングラスにスキンヘッド、スーツ姿の怪しい男……。その聞き覚えのある怪しい風貌の男の正体に俺は心当たりがある……。
「まさか……」
男は俺に気がつくとおや? といった顔して、突然顔に手を当て真上を向いた。
「あっはー!昼間のダムドの新人君じゃないの!……言うほど昼間でもないか?」
「椎葉雅海!」
椎葉は察しがいいね! といった顔で俺を見て笑うと挑発するように喋りだす。
「この前のお二人は元気―?って、新人君は知らないか」
椎葉の言葉の意味は分かった。けど、俺にとってそんなことはどうでも良かった、それよりも絶対に聞かなければいけないことが一つだけあった……。
「お前が翠春をあんな姿にしたのか……」
「へー……翠春君と同じ学校だとは思ってたけど、まさか割と仲良かった?」
思った通りだった、コイツが翠春にシードを盛った張本人だ。そうだと分かると今までに感じたことのないほどの怒りがこみ上げてくるのが分かった。俺はその怒りに任せて椎葉に殴りかかる。
「許さねえぇぇぇええ!」
「ふーん」
しかし、怪我した身体を無意識にかばい大振りになってしまった俺の拳は椎葉まで届くことはなかった。
「ぐはっ!」
一瞬の事でよく分からなかったが、椎葉の背中から何かが飛び出し俺の腹を殴ったのだ。
「そんな傷でよくやるもんだ。おじさん、余り暇じゃないんだよ」
「げふっ!」
ふらつき立ち上がろうとする俺を警戒する素振りもなく椎葉が俺に背を向ける。
「他のダムドの奴らに邪魔される前に完全帰化第一号の大事なサンプルを回収しないといけないんだ」
やはり、あの翠春の状態は完全帰化で間違いなかったらしい。ダムドの話によれば回帰教は何らかの目的のために完全帰化を探していた。回帰教は人を退化症候群にするような連中だ、そんな奴らに翠春を近づけさせては絶対にいけない。
「翠春をどうするつもりだ……」
「うーん。とりあえず死体でも持って帰る?」
「させるか!」
俺は立ち上がり、胸の辺りに力を込める。
「あーあ。そのまま倒れてれば見逃してあげるつもりだったんだけど……」
「エクスレぃ……」
「残念だ」
光線を放とうとしたその時、椎葉の背中からイカの足のような長い触手が俺の頭を貫く勢いで伸びてきた。
「しまっ!」
回避の隙も守る術も残ってない、死を覚悟した俺は咄嗟に目を閉じる。
ドーーン
「ん?」
凄まじい衝撃音と椎葉の声が聞こえる。自分の安否を確認すべく俺がゆっくり目を開くとそこには椎葉の触手を巨大な風車のハンマーで叩き潰す、見知った女性の姿があった。
「あんたが椎葉ね」
「ワトソンさん!」
「小凪先輩って呼べって言ったでしょ」
こんな状況だと彼女の口の悪さも励ましに感じてしまう。
「すみません小凪先輩……がはっ」
彼女はボロボロになった俺に手を貸すと椎葉を睨んで俺を庇うように風車のハンマーを構える。
「チーフもそろそろ来るはずよ。あんたは早く逃げな……」
「親友なんです!」
「……!!」
「あの退化症候群の人は……翠春は俺の親友なんです!」
「だからって!」
俺にだって分かる、こんな大怪我の一般人を避難させることがダムドの一番の仕事であることくらい。もし逆の立場ならどんな事情があれ、絶対にこれ以上俺のことを危険な目に合わせるようなことはしないだろう。彼女はダムドの仕事にプライドを持っている。これを許すことでそのプライドに傷がついてしまうだろう。だけど……。だけど、翠春は俺の大切な……唯一無二の親友だ。ここで引くわけには絶対にいかない。
「少しだけ声がまだ届いてます!」
「まさか……」
多分、このまさかの意味はそうではないのだろう。だとしても俺は諦めるわけにはいかなかった。だから俺は最後のつもりで必死に声を張り上げた。
「まだ暴走を止められるかもしれないんです!」
張り上げられた俺の声に、椎葉の馬鹿にするような声が聞こえる。
「おいおい、あれはもう……」
ズドーーーン
椎葉の言葉を遮るように小凪が無言で椎葉に風車で殴りかかった。
「おいおい、せっかく……」
ズドーーーン
彼女は再び椎葉ごと椎葉の言葉の続きを叩き潰すと、何かを押し殺すように俺に言った。
「……行きなさい」
ズドーーーン
風車で潰れた瓦礫の中から、複数の触手で身を守っていた椎葉が現れると小凪は再び椎葉へと風車のハンマーを振りかざした。
「そんなことしても……」
ズドーーーン
椎葉を黙らせるように小凪の追撃が椎葉を襲う。そして、彼女が声を張り上げる。
「親友なんでしょ!早く救ってあげなさい!」
「小凪先輩……。ありがとう!」
俺は彼女に礼を言うと翠春が飛んで行った方向へと走り出した……。
蒼音を翠春の元へと送り出した小凪に呆れた様子で椎葉が語りかける。
「おいおいおい。お嬢ちゃんは新人じゃないんだから、分かるでしょ?」
小凪はイライラした様子でため息のような返事をする。
「……うるさいわね」
「五割超えたら普通は無理。ましてや、あれは恐らく完全帰化だ」
小凪を馬鹿にしたように喋り続ける椎葉の言葉に小凪は風車のハンマーを持ち上げながら呆れたように言い返す。
「完全帰化ってのは、あんたたちもまだ知らないんでしょ?」
「は?」
明らかにイラッとした様子の椎葉相手に小凪はニヤリと笑いながら勝ち誇った表情で更に言い返した。
「知らないくせに偉そうにベラベラと喋るなんて、おじさんダサいわよ」
「言ってくれるね。お嬢ちゃん」
小凪の挑発で椎葉はあからさまに戦闘態勢に入った。
「キモい宗教布教しやがって。あんたはここで私が叩くわ」
「何も知らない雌犬が」
蒼音の戦いの裏で、小凪は椎葉と激突する……。
第六話『神官』
椎葉はその場で両手を堂々と広げ背中から生えた二本の触手をバチンバチンと素早く地面に叩きつけてウネらしながら攻撃を繰り出すと、小凪はその触手まるでダブルタッチの大縄跳びを潜るように華麗に躱し椎葉へと一直線に向かって行く。
それを見た椎葉はニヤッ笑い、両腕を触手のような腕に変体させて小凪へとギュインと一気に伸ばし襲いいかかる。
小凪はその両腕を風車のハンマーで薙ぎ払うと崩れる体制をそのまま宙に捻り脚を踵に妖精のような羽根の生えた紫のブーツ姿に変体させると、椎葉の背中から生えた二本の触手を蹴り飛ばし、その回転の遠心力をそのまま利用して上空へ飛びあがり椎葉へと風車を振り下ろした。
ズドーーーン
小凪はしっかりと手ごたえを感じていた。しかし、衝撃で舞い上がった砂煙から出てきた椎葉は何故だか無傷でその場でほくそ笑んでいた。
「いやー、強いね。流石は十闘士の力と言ったところだ、この前の雑魚二人とはえらい違いだ」
「じゅっとうし?何のことだか知らないけど、あんたは神官のくせに大したこと無さそうね」
「おー、怖い怖い。せっかくの美人が台無しじゃないか」
「美人を安売りするようじゃ良い女って言えないでしょ?私の可愛いはね、今はまだパパ専用なのよ!」
小凪は歯茎を剝き出し、風を纏った風車でドカンドカンと何度も椎葉に襲い掛かった。
椎葉はその度に背中から生える二本の触手を上手く使いその伸縮自在な長いリーチをふんだんに活かして跳ね回り、小凪の攻撃を躱し続ける。
小凪は当たらない攻撃に痺れを切らすと、その場で脚を大きく広げて後ろで風車のハンマーに力を溜めるように構えを取ると風車がゆっくりと回転し始める……。
「おや?」
徐々に回転が速くなる風車に風が集まる……。
「喰らえ、クソ眼鏡——」
小凪は風車のハンマーを握り締め、地面をグッと踏み込む。
「ウルトラタービュレンス!」
技名と共に大きく振り回された風車から未曾有の乱気流が発生し、地面を抉り取るように椎葉に襲い掛かると、逃げ場のない椎葉をそのまま飲み込んだ。
ビュビュビューーーン ゴゴゴゴゴゴォォォ
「ふん!このまま死ね、外道」
風が止む……。抉れた地面に椎葉と共に乱気流に乗って空へと吹き飛んだ瓦礫が次々降り注いだ。しかし、いくら待てどそこに椎葉は降っては来ない……。
「おかしいわね……」
いくら強力な乱気流攻撃とは雖も身体が粉々に吹き飛ぶ筈も遥か彼方に吹き飛ぶ筈もない。そう思い小凪が周囲への警戒の構えを取った刹那、地面からいきなり二本の触手が小凪へと襲いかかった。
「しまっ……がはっ!」
椎葉の触手が防御の間に合わなかった小凪の腹と頬を思いっきり殴り飛ばした。
小凪は体勢を崩しながらも風を纏、操ることでその場から抜け出すと風車のハンマーを杖に地面に片膝を着き、痛みに耐えつつ息を整える。
「クッ、はぁはぁ……」
「あーれー?さっきまでの威勢はどうしたのかな、お嬢さん?」
「ふん……ッ。あんたこそ大人のくせにコソコソと卑怯な手使いやがって。普段から隅でコソコソやってるしゴキブリなんじゃない?」
「おいおーい。俺はどう見たってイカしたイカだろ?それはもう、さながらイカメンってね」
「いちいちキモいのよ、このハゲオヤジ!」
そう言うと小凪は両手の拳を椎葉に向かって前へと突き出す。
「ジェットビンター!」
プシューーン
風力でジェット噴射されたロケットナックルが触手を吹っ飛ばしながら椎葉へ向かって一直線で飛んでいく。そして、今にも椎葉を吹き飛ばそうといった距離になった時だった……。ロケットナックルが見えない何かに阻まれるように椎葉の目の前でピタッと止まる。
「なっ!」
椎葉はニヤリと笑うと見えない何かにぶつかり続けるロケットナックルを触手で払いのけると、触手を長い足のように使い身体を宙に浮かせた状態で触手のリーチを活かして大きな歩幅でフラフラと一気に小凪との距離を詰める。小凪は咄嗟に風車のハンマーで椎葉に殴りかかるも、その攻撃は先程同様見えない何かに阻まれて椎葉には届かない。小凪の顔の目の前に椎葉の顔が接近する。その距離約一メートル。
「キモい顔近づけんな!」
「これでもおじさん結構モテるんだけどなァ」
椎葉はそう言うと口をバァっと開く。
「ギルティブラック」
ベチャァ
椎葉の口から小凪に向かって勢い良く黒い墨が噴射される。
「キャッ!なにこれ!臭ッ……ウグッ」
「アハーッハーァハハハッア!」
「な……に、を……した、の……」
「分かんだろ?毒だよ。毒。この状況で他に何があるって言うんだ?」
「……はっ!た、かが……どくで、わたしをぉ!倒せるとでもぉおお!!」
小凪は風を纏い毒を振り払うと、毒で爛れた肌を剝き出し立ち上がると、風車のハンマーを肩に担ぎ仁王立ちで前髪を掻き上げ、強気な態度で椎葉を笑い飛ばした。
「これはこれは……。とんだ狂犬だ」
「ここからが本番よ——。はああああ!」
小凪は間髪なしに椎葉を風車のハンマーで何度も何度も殴りかかるが、依然として椎葉への攻撃は一歩手前で見えない何かに弾かれる。しかし、小凪は何度も何度もその見えない何かを殴り続ける。流石の椎葉もこれには反撃を仕掛ける余裕ができない。
「早く砕けろ!このクソ障壁が!」
「ハハハッ!存分に殴るが良い!雌犬ごときがいくら殴ろうが神の加護は……」
ピキッ……
「!!!」
ヒビの入るような鈍い音と共に見えない障壁が徐々に姿を現す……。それは見慣れぬ記号が大きく真ん中に描かれた円状で水色の魔法陣の形をしている。ヒビからは近づくだけで充てられそうな膨大で邪悪な力がドクドクと溢れ出している。
「まさか……神から与えられた私の加護がこんな小娘に……!!」
「まだまだぁああ!」
ピキ ピキッ
「ふざけるなよこの雌犬がぁあああ!」
「何!?」
ゴォオオオオオ
椎葉の怒りに同調するように、魔法陣が強く輝きと邪気を放と小凪は一瞬にしてその邪気によって後方に吹き飛ばされた。
椎葉は落ち着いた雰囲気でサングラスをくいッと掛けなおすと、静かに小凪へと歩み寄り小凪を髪の毛を掴み投げ飛ばした。
「がはっ!」
椎葉の手には、黒い鱗と朱色の刀身持った一本剣が握られている……。椎葉はその剣を小凪の喉元に突きつけると冷たい表情と声色と浮かべている。
「まさか、神の加護に頼ることになるなんてね。正直驚いたよ」
「クッ……」
「我々は別に人類に危害を加えるつもりでシードを撒いてる訳じゃないし、警察と敵対する気なんて毛頭ない……。ただ、世界をあるべき姿に戻したいだけなんだ」
「だからって……」
「何でもして良いと思っているよ。必要なことならね。だから、邪魔なんだよ——。君個人が……」
椎葉が剣を小凪の頭上に振りかぶる。
「神よ、どうか私をお許し下さい……」
「……うっ!」
絶体絶命の小凪……。椎葉が剣を振り下ろしたその時——。
「ロイヤルセーバー!」
カキーーン!
椎葉の剣が宙を舞う。——聖なる槍の一撃が、椎葉の剣を吹き飛ばしたのだ。
その一撃を放った男は素早く小凪を抱きかかえ椎葉と一定の距離を置く。
「待たせたね。ワトソンさん——」
「チーフ!」
椎葉はその場に立ち尽くしつつも、顔を激しく歪めていた。
「赤井剛弘……」
「そういう君は、椎葉雅海だね。この間は部下二人がお世話になったね」
「あの時はちょっとやりすぎちゃってね。でもその言い方なら大丈夫だったようだね、安心したよ」
「何が、大丈夫なもんですか……二人はもう……うっ……」
顔までも酷く爛れた小凪を見て、赤井は悲しそうな表情を浮かべると。赤井は上着を脱ぎ枕を作って小凪を横にし、小凪の頭を一度優しく撫でる。そこで一気に緊張感が切れたのだろう。小凪はそのまま気を失った。
「ただの女子高生相手に随分と酷いことをするんだね」
「僕も彼女にはただの女子高生であって欲しかったんだけどね。残念なことに女子高生を危ない仕事に駆り出す悪い大人がいるようなんだ」
「それは私も同感だよ。これを機に考えを改めて欲しいものだ」
「それも、そうだね。じゃあ、僕はこの辺で帰るとするよ……。翠春君は諦めるよ。収穫はあったしね」
椎葉はそう言うと、赤井に背を向け片手でお別れのジェスチャーを送る。すると赤井は、左腕に縁や模様が金で彩られた銀色の大きなドーム状の盾を顕現させて椎名に向ける——。その盾の中心には特徴的な赤い三角形を四つ組み合わせたマークが施されている。
「……逃がすと思うか?お前には聞きたいことが山ほどある」
「本当いいのか?僕としては、毒の回ったその娘を早く病院に連れていって欲しかったんだけどな」
「…………。次こそ色々と吐いてもらうからな」
「あー。怖い怖い。僕はもう貴方と会いたくないね」
「椎名雅海——」
赤井は小凪を抱きかかえると、その場から飄々と立ち去る椎葉の背中を悔しそうに最後まで睨み続けた。
第七話『ターニングポイント』
翠春の為と思えば不思議と身体はいくらでも動いた。走り出してから少しすると正面から逃げ出してくる様子の人と少しづつすれ違うようになっていく。人が来る方向へ走り続けると騒ぎの中心へとやってきた。
「キャー」
「バケモノだ!」
「あそこか!」
人の波に逆らい角を曲がると住宅街で暴れる回る翠春の姿が見えた。騒ぎの中、勇敢にも人々の避難を誘導するおっさんがボロボロの俺を見て駆け寄ってくる。
「おい!にいちゃんその怪我大丈夫か?」
「大丈夫です!急いでるんで」
おっさんはバケモノの方へと向かうボロボロの俺を必死に静止する。
「そっちは危険だ!バケモノが……」
おっさんはとても良い人なんだろう。だけど、そんなこと今の俺には関係ない。今の俺にはとっては邪魔なだけだ。
「親友なんです!」
俺は思わずおっさんを突き飛ばし、怒鳴りつけてしまった。
「ちょっと待ちなさい……って、親友?」
申し訳ないとも思いつつ、俺はそのままおっさんを振り切り翠春の元へと走った。
「……翠春、待っててくれ。今、行くから!」
——翠春と初めて出会ったのは、小学校入学前の事だった。翠春の父は亡くなる前、俺の両親が勤める病院に入院していた。その頃、俺と的子は忙しい両親の代わりに祖母に面倒を見てもらってのだが、俺は祖母には懐かず幼稚園が終わると徒歩五分程の距離にある両親の職場へと行き病院の子供用プレイルームで母の仕事が終わるまで病院の子供達と遊ぶのが日課になっていた。
そんなある日、父親の見舞いに来た翠春が病院へとやって来た。病院のプレイルームと言うのは基本的に軽い病気で入院中の子供や家族の見舞いに来るも落ち着きがなく親に預けられてしまった子供が来るところであり、大人しい翠春のような子供が来るような所では無かったのだが、その日翠春は俺の母に連れられてそのプレイルームに現れた。母が言うには、父親の看病で心身共に疲労しきったこの子の母が病院で倒れてしまったらしく暫く一緒に遊んで欲しいとのことだ。俺はそれを了承すると翠春に優しく話しかける……。
「おれはひらおかあおと。おなまえはなんてゆーの?」
「ふくもと……みはる」
「みはるくんね!みはるくんはなにがすき?」
「おかあさん……」
「おれもおかあさんだいすき!おとうさんも、まとこもだーいすき!いっしょだね!」
「いっしょじゃないよ……」
「なんで?」
「ぼく、おとうさんすきじゃない」
「どうして?みはるくんのおとうさんだよ?」
「おとうさん、しんじゃうんだもん。ぼくもおかあさんもかなしいのに、おとうさんいつもわらってるんだ。きっとおとうさんはしんじゃうんのがうれしいんだよ」
「しんじゃうのにうれしいの?どうして?」
「わからない」
「じゃあ、ききにいこー」
「え?」
俺はそう言うと翠春の手を引き、仲の良い看護師のおねえさんに翠春の父親の入院している病室へと案内してもらった。
「翠春くん。お父さんの病室はこの階であってた?」
「うん。いつものところ」
「じゃあ、はやくいこうよ!」
この先が翠春の父親の病室だと分かった俺は一直線で走り出した。
「ちょっと、蒼音くん走らないで!」
看護師さんも翠春も置き去りで、俺は我先にと翠春の父親病室の前へとたどり着くと手の届かないドアノブの下で翠春と看護師さんを待つ。すると、翠春の父親の病室から少しだけ声が聞こえてきた……。泣き声? 俺はそれを不思議に思い扉に耳を当て聞き耳を立てた。
「ううう……。ごめん、ごめん、ごめん……。ううぅぅ……」
聴こえてくるのは、男の声。子供が知らない大人の泣き声。今でも鮮明の脳に焼き付いている初めて知ったあの泣き声……。
その泣き声に衝撃を受け呆然としていると、頭に優しくポンッと看護師さんのげんこつが落ちてきた。
「こら!病院を走っちゃダメって言ったでしょ!」
「ごめんなさい……」
いつもよりも少し元気のない俺を見て少し不思議そうにした看護師さんが、病室の扉をノックする。
「福元さーん。翠春君が会いたいっていらっしゃってますよ」
少しの間はあったものの、すぐに中から返事が返ってきた。
「どうぞー」
俺たちが病室に入ると翠春の父親は笑顔で話しかけてきた。
「すみません看護師さん。ありがとうございます……おや?彼は翠春のお友達かな?」
「彼は平丘先生の息子さんの蒼音君です。さっき翠春君と仲良くなったようで」
「そうかい。蒼音君、翠春のこと、よろしくね」
翠春の父親はそう言って俺に微笑みかけると、翠春に笑顔で声を掛けた。
「良かったね翠春。お友達ができて」
「うん……あ、ねえ!」
俺は翠春の手を引いて翠春の父親の傍に寄った。翠春の父親はずっとニコニコと笑顔を絶やさない……。
子供の好奇心ってやつだったのだろう。俺はここで失礼にもいきなり翠春の父親に本題を問いかけた。
「おじさんはしんじゃうのにどうしてそんなにわらってるの?」
「どうしてかな……。それはきっと、私がお父さんだからかな?」
「どうしておとうさんだとわらってるの?かなしくないの?」
翠春の父親は少し翠春の方を見ると、優しい笑顔でこう答えた。
「病気で死んじゃうのは悲しいことじゃないんだ。運命だからね。私は笑顔で家族に送り出して欲しいんだ……。お父さんっていうのは家族のお手本でなくちゃいけない。だから、家族に笑って欲しかったら自分が笑わなきゃいけないのさ」
「じゃあ、なんでさっきないてたの?」
「……え?」
翠春の父親は少し困った様子を見せたが、俺は質問をやめなかった。
「だれにごめんなさいしてたの?」
「…………」
翠春の父親の表情が笑顔から悲しそうな表情に変わっていく………。それを見て看護師さんがこれ以上余計なことを言わないように俺の口を塞ぐと泣き崩れるようにそのまま俺を抱き寄せた。
「蒼音くん。もうやめて………」
看護師さんがボロボロと涙を流す姿を見て俺は酷い罪悪感に襲われたのを覚えている。
「……ごめんなさい」
「いいんだよ蒼音君。翠春、こっちにおいで——」
翠春の父親は少し悲しそうな表情に歪んだ笑顔でベットの横をポンポンと叩くと、傍へと来た翠春をギュッと抱きしめた。
「おとうさん……?」
「いい……お友達が、できたね」
そう言って堪えていた涙を流す父親を見て、翠春は父の膝の上に顔を埋めるとまるでダムが崩壊したかのようにワンワンと一気に泣き出した——。
暫くして泣きつかれ翠春が眠ると、翠春の父親は寝ている翠春の頭を撫でながら俺に話しかけてきた。その表情には優しい笑顔が戻っている。
「蒼音君に一つミッションを授けよう。聴いてくれるかい?」
「ミッション!カッコイイ!やりたい!」
「もし、おじさんが最後まで笑えなかった時は、おじさんの代わりに翠春の笑顔のお手本になってくれるかい?」
正直言えば、当時は翠春の父親の言葉の意味なんて全く理解出来ていなかった。それでも俺は反射的に敬礼のポーズで返事をした。
「らじゃー!」
——暴れ狂う翠春の傍までたどり着くと、俺は再び叫び始めた。
「翠春!」
俺の声を聞いた翠春は、破壊の手を止めて俺の方をゆっくりと振り向いた。しかし、完全帰化した翠春に俺の声が届いた様子は全くなく、敵とみなしてただただ殴りかかってくる。
俺はその拳を避け、翠春の懐へと入ると空を切った翠春の拳を手の甲で思いっ切り払い退ける。
「ガアアアアアアァァァ」
翠春は大きく一歩後ろに下がると左足で蹴りを放つ。俺はそれを左に避けると、蹴りの勢いを利用して右手で翠春の左足首を掴み、それを軸にして少し引き左手で翠春の膝を押して右後ろの方向へ投げ飛ばし、そのまま倒れている翠春に怒鳴りつけた。
「これ以上心配させんな!おばさん泣いてたぞ!」
「おガアざ……」
反応があった。やはり、翠春にとって一番大切なのは母親なんだ。俺は翠春の意識を取り戻そうと更に声を張り上げた。
「そうだ!早く帰ってやんないとおばさん悲しむぞ!」
明らかに様子が変わった。回復する意識に混乱しているのだろうか、その姿は今までとはまた違った、身体の内側………心からくる苦しみを感じているように見える。
「カぁざ……ガ……アアァ」
そして、真っ赤な大きい翠春の目から涙がこぼれた。
「翠春……」
翠春の動きがピタリと止んだ。
もう大丈夫かもしれない。そう思い俺が翠春に駆け寄り手を伸ばす。
「一緒に帰ろう」
しかし、その直後に翠春の目が赤く光る。
「ガアアアアアアァァァ」
差し伸べられた俺の手が翠春へ届くことはなかった——。再び暴れだす翠春に俺は再び声をかける。
「おばさんが!」
しかし、翠春はそんな言葉などものともせずに右手の大きな針に力を集めだす。
「スパイキングフィニッシュ!」
翠春の強力な一撃が俺に向かって放たれた。
ズドーーーン
「へ、へへっ……」
「ガ、アアァ」
俺は翠春の右腕を致命傷は避けつつわざと受けると、両腕で翠春の腕を脇にグッと抱え込んだ。そして、翠春の耳元で再び語りかけた。
「帰ってこい」
「う……あぁ……」
「翠春……?」
バケモノの顔が一部崩れ、翠春の口元が露わになる。
「あオ……おねガい……」
………翠春の声は震え、泣いていた。
「なにがだよ……」
俺は涙を堪えて、翠春の言葉の続きを聞く。
「たオし……てェ……ボくヲ……とメ……」
それを最後に再び翠春の顔がバケモノの姿に飲まれていく。
「翠春!」
「ガアアアアアアァァァ」
翠春は再び理性を失うと俺を振り払い、町へと飛び出した。そして、破壊衝動のままに右腕の大きな針に力集める。
「スパイキング……」
「ダメだ翠春!あっちにはまださっきのおっさんが!」
このままでは、翠春が人を傷付けてしまう。エクスレーザーならギリギリ間に合うかもしれないが、それでは翠春が昼のゴリラ男のように運良く無事で済むとは限らない………。ゆっくり考える時間もなく、俺の本能は既に正しい答えを導きだし、動き出していた。
「フィニッシュ!」
「エクスっレーザァァァアア!」
ズドーーーン
俺が放った光線がおっさんの目の前で翠春を飲み込んだ。
「ガアアアアアアァァァ」
翠春の叫び声が町に響く。
「ガ……」
光線が止み膝から崩れ落ちた翠春は、その場に倒れ込むと完全帰化したその身体は残滓を放ち徐々に元の姿へと戻っていく。
「はぁ……はぁ……」
光線を放った興奮が治まると、俺は翠春へと駆け寄った。
「翠春……翠春!」
元の姿へと戻りかけ、退化症候群の残滓に包まれる翠春の上半身を俺が急いで抱き上げた。
「あおと……」
翠春の呼吸が弱まっているのが分かる。
「無理すんな!」
「そのちから……」
「ああ。この力な。かっこいいだろ?後で色々話してやる……だから……」
翠春は手を空中にフラフラとさせている……。俺はその手をグッと握りしめた。
「ごめんな……」
「あ、ああ。怪我?気にすんなって、親友だろ?」
「あ、はは……なあ、あおと……」
「なんだ」
「かあさんを……たのむ……」
視界が歪む。堪えていたはずの涙を俺はもう止めることができなくなっていた。
「やめろよ。それじゃまるで……」
「さいこうの……しんゆ……」
翠春の言葉はそこで止まった………。
「翠春?」
「……」
「あ……」
その後、俺の呼びかけに翠春が答えることはもうなかった。
「ああああああああああああああ」
蒼音は、腕の中で冷たくなった親友を抱きしめてただただそこで泣き続けた。
第八話『ビーイングゼア』
葬式に出席するのは初めてだ。じいちゃんばあちゃん達は皆元気でまだまだ長生きする様子だったから初めての葬式はまだ二十年くらい先の話だと思っていた。出席者は少なく、今のクラスメイトと俺の家族、それと翠春の母親だけだった。どうやら翠春の祖父母は既に亡くなっていて、おばさんも一人っ子だったらしく他に親しい親戚もいないらしい。つまり、翠春の家族はおばさんだけで、おばさんの家族もまた翠春一人だけであった。唯一の家族、それも自分の息子を失った母親の悲惨な姿は想像を絶するほどであった。そんなおばさんを気遣う俺の両親の医者としての姿はとても心強く、無力な自分との差に悔しさを感じた。
葬式が終わると、おばさんは俺の元へやってきて俺の右手を両手で弱々しく握ると優しい笑顔でこう言った。
「ありがとう。翠春の一番が蒼音くんで本当に良かった。最期までありがとう」
その優しい言葉に一昨日出し切ったはずだった涙が再び溢れ止まらなかった。そして誓った。おばさんをこれ以上悲しませないことを……。
「俺は、これからもずっと翠春の親友です。これからも沢山会いに行きます」
「ありがとう。翠春と楽しみに待っているわ」
俺は大きく、強く頷くと涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、目一杯おばさんに笑いかけた。
チーン
「今日は翠春が気に入ってくれたカプレーゼを作ってきたぜ。あれからもう一年か、時間が過ぎるのはあっという間だな。そう言えば田村のやつ一年の女子に告白されてさ、これからは俺の時代だーなんて調子乗って本当に鬱陶しいんだわ」
翠春の死後、月水金の登校前に翠春の家へと足を運ぶ生活が俺の新しい習慣になっていた。
「よし、今日はこれくらいにしとくか!」
「いつも、ありがとう。あら、今日はカプレーゼかしら!蒼音くんのカプレーゼとっても美味しくて大好きなの」
「またまた、おばさんったら相変わらずの褒め上手で。カプレーゼなんて誰が作っても同じですよ」
俺は翠春へ手を合わせ終えると、いつものようにおばさんの作った朝食が置かれている食卓に座る。
「そんなこと言ったら、この卵焼きだって同じでしょ?」
「全然違います。おばさんの卵焼きは世界一です」
「相変わらずの褒め上手で」
「これでも味覚には自信があるんですけど」
「プラシーボ効果って言うのよ」
翠春が亡くなってから暫くは生気がなく、とても正気とは思えない顔をしていたおばさんも今はすっかりこの通りである。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
俺は好物のおばさんの卵焼きを最初の一口にすると決めている。おばさんの卵焼きは程よく甘じょっぱく、ふんわりと香る白だしの風味が最高だ。
「やっぱりおばさんの卵焼きは最高です」
俺が卵焼きを褒めるとおばさんはとても嬉しそうに笑ってくれた。と思いきや意地悪そうにニヤニヤしながら俺にある話を聞いてきた。
「ところで蒼音くん、彼女さんとはどうなの?」
「だから彼女じゃなくてただのバイトの先輩ですってば」
「年頃の男女が下の名前で呼び合っててそんなことある?」
「女子高通いの箱入娘ですよ?しかも先輩は重度のファザコンなんですよね」
「あら、意識してもらえなくて残念。って言ってるように聴こえるけど?」
「やめてください。年頃の高校生にそういうからかい方は御法度ですよ」
「うふふ。ごめんなさい」
プルルルル
そんな何気ない話をしていると、例の女から俺のスマホに電話がかかってきた。
「もしもし蒼音?仕事よ、今そっちに迎え寄こしたから準備しなさい」
「かしこまりました。直ぐに行きます」
電話を切るとおばさんが俺の方を見てニヤニヤしていた。
「彼女さん?」
「先輩です。ごちそうさまでした!明後日また来ます」
「ありがとう。楽しみにしてるわね」
おばさんに見送られ、俺がアパートを出ると数メートル先にはパトカーが一台止まっていた。俺はそのパトカーの後部席のドアを開ける。
「ご苦労様です!現場はどの辺ですか?」
俺が乗り込むとパトカーは直ぐに出発する。俺は学校の制服の上着を脱ぎ、DMDと描かれた制服に着替えながらお巡りさんの話を聞く。
「……なるほど。こりゃまた遅刻だ、学校に連絡しとかないと」
現場に到着し規制線を潜ると例の女が俺よりも早く到着していた。どうやら既に近隣の人払いは済んでいるようだ。
「蒼音、遅いわよ」
「俺は最速で来たよ。たまたま小凪の場所が現場と近かっただけだろ?」
「いちいち言い返すなんて、ホントガキね」
「はいはい。ところで状況は?」
と、質問した直後、正面のオフィスビルの五階のガラス張りの窓が砕け散った。
ガシャーン
「ギャオオオオオス」
窓の砕け散ったフロアから、緑と黄色の大きな翼を生やし両腕に金のリングを付けた男が飛び出すと、その男は鬼のような形相でいきなり俺たちに襲い掛かってくる。
「説明の必要は無さそうね。行くわよ」
「了解!」
再暦二〇二五年、人々の平穏な生活の裏で退化症候群と呼ばれる奇病を巡って戦い続けるもの達がいた。あるもの達は元の世界への回帰の為。あるもの達は人間の歴史と未来の為。あるもの達は世界の秩序と安寧の為。そして、あるもの達は自身の大切な人の為。
————かつてデジタルワールドと呼ばれたこの世界で。
「いくぜ!デスペラードブラスター!」
終わり