4話
女は時折、赤色の夢を見る。
暗がりの中に、ぽつんと佇む赤色の――大きさや形まで、瞬きの合間に変わってしまうような――人影が、ノイズのかかった笑い声を上げながら、自分に囁きかけてくる夢を。
「素敵な名前ね」
聞こえるのは何時も、同じ台詞だった。
如何せん、後にも先にも、女の名前を「素敵」だと言ったのは、赤色の彼女くらいのものだったのだから。
彼女の事を思い出せなくなっても、その鮮烈な、生きた炎のような赤色だけは、女の記憶をいつまでも焦げつかせているように。
そして女が「素敵」の理由を尋ねると、赤色は決まって自分の名前を指して、「割り切れないわ」とやるせなく微笑むのだ。
忘れようが無かった。
「……」
女は赤色の元につかつかと歩み寄り、間近で、彼女の姿をじっと眺める。
頭のてっぺんから、つま先まで。
間違い探しをするように眺めて。
結局、そこに間違いすら無い事を悟ったあたりでふと、女は赤色と、目が合ったような気がした。
目が合ったような気がして、
それが、どこかで見たような、紺碧と重なったような気がしたのだ。
*
「……」
もぞ、と身体を動かして目覚まし時計を見やると、起床の設定をした時刻の5分前だった。
「損した気分」
ほとんど口の中で呟いて、女は再び目を閉じる。
二度寝をする気は無かったが、素直に身を起こすのも癪だった。
そんな風に目を閉じると、再び、夢の景色が蘇る。
文字通り、瞼の裏に張り付いているような夢だ。見た回数をカウントするのは、両手の指で足りなくなった辺りで既に止めている。
ただ、見る事自体は比較的久しぶりだったような気がするなと思いかけて。ふと、最後に見た碧色が、脳裏を過った。
「……」
碧。暖かな海の色。
今さら思い返すまでも無い。
あれは、サリエラ少年の瞳だ。
「ないわー」
杭には気を遣いつつも、今度ははっきりと声に出して独りごちる。
いくら人間とのコミュニケーションが件の夢よりも遥かに久しぶりであるとはいえ、他人のパーツを懐古に用いるのは、女としても本位では無かった。(なお、当然気を遣っているのはサリエラの方では無く夢に出てきた赤色の方だ)
ただ、と。
顔の良いサリエラの、特に美しいあの紺碧の瞳であればまあ、赤色の彼女もそこまで気を悪くはしないだろう。と。
少なからずそんな風に思ってしまったのも、事実ではあった。
どうせ、思い出せはしないのだ。
「やっぱりもう起きよう」
伸びをした後、いつものように洗面所に向かい、いつもの身支度を済ませて作業着姿の女はいつも通り食堂へと足を踏み入れる。
ただいつもと違うのは、左手に杭は無く、台所に赤ずきんの姿さえ無い事で。
午前6時。いつもより早い起床だった。
「さて」
台所へと向かい、冷蔵庫から取り出した缶のアイスココアを飲み干した後、女は改めて冷蔵庫を開けて一昨日の夜買い出した食材を調理台の上に積み上げていく。
2人分の、弁当の準備だ。
赤ずきんに頼んで作ってもらう事も考えたが、わざわざ彼女をいつもより早い時間に起こしたいとは微塵も思えず、であれば自分が起きて作ればいいかと判断して今に至ったらしい。
最も、今日の『観光』の出発時刻が特に決まっていない以上、別段早起きして作る必要は無いのだが、「以前見た本では大抵お弁当は朝早い時間に作られていた」という理由だけで、女は躊躇なく睡眠時間を削る事にしたのだった。
女は料理を手際よく進めていく。
鍋にお湯を沸かしながら、キッチンの蛍光灯だけが照らす薄暗い食堂に、トントンと包丁がまな板を叩く等間隔の音だけが響き渡る。
それからしばらくして、ふつふつと鍋の中を気泡がせり上がるようになり始めたころ、不意に食堂の扉が開いた。
「?」
「あ……」
入ってきたサリエラが、台所の女に気付いて少しだけ身を引いた。
「おはようございます、サリエラ」
「おはよう、師匠。……早いね」
「ええ、まあ。そう言う貴方も随分と早いお目覚めで」
「なんか、目が覚めちゃって」
コンロの火を弱めると、女は一度手を止めて冷蔵庫から先ほど自分が飲んだのと同じ缶のアイスココアを取り出し、サリエラに食堂の椅子に座るよう促してからそちらへと向かった。
「どうぞ」
「どうも」
「朝食ももう食べますか? ひと段落したらトーストにめんたいマヨでも塗って食べようと思っていたのですが」
「メンタイマヨ?」
「あー……。明太子という日本の……なんて言えばいいんでしょうかね。スケトウダラの卵巣を唐辛子等々で漬けたものを、ほぐしてマヨネーズとあえた……ソース、と言って良いのかは微妙なところですが、まあ、そんなものです」
「……おいしいの? それ」
「わたくしは好きですが。気になるならボウルのまま出しますから、少量つけて食べてみればいいかと」
「じゃあ、そうする」
わかりました、と女は台所手前の棚に置いてある食パンの袋から2枚取り出し、トースターにセットした。そのまま調理場へと戻り、2本入りの辛子明太子のパックから片方だけをボウルに開け、マヨネーズを混ぜ始める。
「師匠はなんでこんな時間に?」
「お弁当を作っています。今日の観光用の」
赤ずきんと違って手は止めずに言う女。サリエラの睡眠時間を削ったのも実のところ「本日の観光」に対する不安だったのだが、彼女には知る由も無い。
「おべんとー……あー、なんか昔見た日本のアニメーションで、そういうの作ってたような」
「ほう。どんな見た目でしたか?」
「えっと、なんだろ? よくわかんないけど、ピンク色の割合が多かったような」
「大丈夫です多分ですがどの作品か解りました。機会があれば、似たようなものを作ってみてもいいかもしれませんね。わたくし桜でんぶもめざしもそこまで好きじゃないんですけれども」
次々出てくる未知の食材名に疑問符が浮かびっぱなしのサリエラだったが、ふとそれ以上に大きな疑問――あるいは不安が、彼の胸の内に沸き上がった。
「ってかそもそも師匠って……料理、できんの?」
サリエラは碧い眼ほあからさまなくらい疑わしげに細まっているが、女は特に気分を害するでもなく、というか彼の視線については気にも留めずに手を止めないまま応答を続ける。
「一応、赤ずきんちゃんに料理を教えたのはわたくしですよ。とは言っても、ほとんどレシピ本の見様見真似ですが。まあ下手にアレンジを加えたりはしていませんので、味に関してはある程度安心しておいてもらっても良いかと」
「ふーん」
言葉に自信の無さは感じなかったので、サリエラもそれ以上は何も聞かない事にして、食堂の椅子に深くもたれかかった。と、ほとんど同時にチンという音がして、こんがりと焼けた食パンがトースターから跳ね上がる。
「お待たせしました」
トースト2枚と明太マヨ入りのボウルをテーブルに置き、女はサリエラの前の席に腰かける。ボウルから伸びたスプーンの柄が、少年の方へと向けられた。
「どうぞ、先に取ってください」
「……ありがと」
正直なところ、やけに鮮やかな赤い粒が無数に沈んだマヨネーズの見た目はサリエラの食欲をそそるものではなかった。
が、女の手前、躊躇する事も憚られて、結局、サリエラは小さく千切ったトーストの端に、少量の明太マヨを塗るだけに留める。
とはいえ、態度である程度は伝わったのだろう。
「ま、もし口に合わなかったらジャムなりオリーブオイルなり、どうぞ。冷蔵庫かそっちの棚にあると思うので。ああ、何なら目玉焼きを乗せても構いませんよ」
ボウルに戻ってきたスプーンでサリエラとは違い大量に明太マヨをトーストへと塗りながら女が言う。
気まずそうに小さく頷いてから、サリエラは知らない調味料を塗った焼きたてのパンを口に放り込んだ。
「……」
「……」
無言の租借と、無言の観察。
……やがてトーストにほとんど手を付けていないにも関わらず女の方が席を立ち、しばらくして戻って来るなり、机の上に小皿とオリーブオイルを置いた。
「ジャムの方が良かったですか?」
「ううん。……ありがと」
「ま、その辺は好みの問題ですから。しかし明太マヨでこれだと、食事を合わせるのは大変かもしれませんね。今更ですが」
「昨日のパスタは美味しかったけど……食事って、日本の料理とか? スシ?」
「寿司。そういえばわたくし、きちんとしたお寿司を食べたことは無いような」
「そうなの?」
「いやだって握れませんし」
「日本人なのに?」
「握れませんよ。というか寿司握れる日本人なんてそうそういませんて。そもそも魚とか捌けませんし」
「捌けないの? 怪物とか掻っ捌いてるのに?」
「捌けませんよ。腹を開けば大抵の生き物は死にますから必要があれば掻っ捌きますけれども、それと魚の解体ができるかどうかに関しては全くの別問題です。何ですか? そう言うサリエラは、魚。捌けるんですか?」
サリエラは頷いた。
「え?」
固まる女。
サリエラが1口。オリーブオイルを付けた食パンを咀嚼し終わっても動き出す気配が無いので
「父さんが漁港で働いてたから。小さいころ、教えてもらったんだ」
と告げてから、トーストを新しく千切った。
実のところ食パンもあまりなじみの無い類のパンだったが、こちらはまあまあ、口に合っているらしい。
「……ふむ。あれですね。その辺は生まれの違いですね。なら仕方ない。一応立場上師匠なのに魚の調理が貴方には出来て、わたくしには出来ない点は不可思議でも不自然でもありません。環境の違いなのですから。仕方ない仕方ない」
「うん。何に納得してるのかわかんないけど、そろそろ食べたら? 冷めちゃうよ?」
サリエラの指摘に、ハッとしたように手つかずの、明太マヨだけは塗ってあるトーストを見下ろして、女は少しだけバツが悪そうにそれを手に取った。
「……人間との食事は久しぶりでして。談笑しながらの食事というのはなかなか難しいですね。普段は、喋る方に意識を向けがちですから。すみませんねサリエラ。貴方の食事の邪魔までしてしまって」
「あ、いや、それは別に……俺は食べてるし……」
珍しく謝ってきた女にたじろぐサリエラ。
と同時に、文化は違えど、女がおおよそ自分と同じ物を食べているという事実に、何だか眩暈がして。彼は女と、また、目が合わせられなくなる。
「それより、誰かとの食事が久しぶりって……」
その事を悟られないように、結局食事を中断するような疑問を口にしてしまい、サリエラの言葉は妙なところで消え行ってしまう。
だが、女はいつも通り、サリエラの内心はそれほど気にせず、頬ばったトーストだけは飲み込んで
「何年ぶりになるんでしょうね」
と応じる。
「今になって思えば、お世辞にも美味しい食事ではありませんでしたが……楽しい時間では、あったのでしょう。聖母様も楽しそうにしていましたから」
……そう口にしてはみたものの、女の中に在るのは、空箱を開くような回想でしかない。
箱の外側にどんな思い出があったかは書いてある。だが、開けてみれば、そこには何も入っていないのだ。
だが、今回はサリエラの方が、女の内心に気付かない番だった。
「聖母様、って?」
首をかしげるサリエラに、女はハッと我に返る。と同時に、自分に向けられた紺碧の瞳に彼女の胸が妙にざわついた。
口を滑らせたのだと気付いて頭を抱え、夢のせいだと肩を竦めてから、彼女はサリエラを、まっすぐには見なかった。
「昔、数ヶ月ほど護衛の仕事をしていたんです。その時の警護対象でした」
「師匠が、護衛?」
女に護衛を頼むだなんて、世の中には変わった人がいるものだと、割合不躾な、加えて自分の事を棚に上げた考えてしまうサリエラ。
やはり女は、意識すらしていなかったが。
「赤かったのは……多分、髪だったと思います。本当に、見事な赤色で……燃える様な、という表現は、まさしく彼女のためにあったのでしょう」
「赤い髪……」
歯切れの悪い、ただ同時に珍しく女の感情を何となく感じられる言葉選びだが、しかしその特徴は、きっと自分の姉の事は示していないだろうなと、サリエラは小さく肩を落とす。
彼の家系に髪の赤い人物はいないし、また、『選ばれし子供』であれば、流石の女も先にそう言うだろうと思っての事だ。
最も、女の話の中で姉を見つけられるなど、そんな期待は、そもそもほぼほぼ無いのだが。
と、
「……すみませんサリエラ。また、ついついお喋りしてしまいましたね」
またしても、若干申し訳なさそうに女が額に手を当てる。2口分の歯形がついたばかりで、彼女のトーストは徐々に熱を失いつつあった。
「いや、俺はそれなりに食べてるし……」
「む? ではわたくし、貴方に謝らせるべきなのでしょうか?」
「それは無いんじゃないかな」
慣れませんねぇ、と改めてトーストを手に取り、微妙な困り顔で口をつける女。
そのしぐさが、表情がなんだか人間臭くて――サリエラも、それ以上何も言えなかった。
サリエラくんは本当にイタリア人なんだなあ(意味不明)と、食事文化の違いの描写で再確認しました。明太マヨが合わないとか弁当はジャパニメーションのふわっとした印象が強いとかそういった描写で師弟のそれぞれが育った環境が違うと示される感じがとてもいいです。
他者の命を糧にする食事というシーンが印象的だからか、その後のワニャモンの潰し祭りはなかなか応えます。……そうですよね。現代の少年少女が自分で命を奪うのに抵抗ない方がおかしいですよね。
一息つく間もなく現れた選ばれし子供の生き残りと彼との剣呑な仲に介入してきたシメール。とはいえシメールも何とも飄々としていて、全幅の信頼をおけないような振る舞いですが……だがそれがいい。
それにしても最後に彼が漏らした言葉の意味はいったい……聖女様とは何者なのやら。
ではこのあたりで失礼します。