2話
「……猟師様、杭様。もうお帰りになられたのですか」
ただいま帰りました、と食堂の扉を開けた女とその後ろに居る少年を迎えたのは、肉と野菜を煮込む胃を刺激する匂いと、おたまを片手に硬直して驚きを示す、白いエプロン姿の赤ずきんで。
数秒後、女達に向けていた首に合わせるようにして振り返った赤ずきんは、がしゃんがしゃんと音を立てながら彼女の方へと走ってきた。
「あああ……申し訳ありません猟師様。今夜の夕食にはシチューを作っているのですが、まだなのです。完成にはまだかかってしまうのです。お腹を空かせた猟師様にすぐにごはんをお出しできないだなんて、赤ずきんはなんてひどい家政婦なのでしょう。ああ、お恥ずかしい、お恥ずかしい……」
「いやいや赤ずきんちゃん。悪いのは「多分遅くなる」等と言っておきながら即帰宅したわたくしの方なので、どうか気を病まないでください。大丈夫です、まだお腹空いてません。赤ずきんちゃんお手製のシチューなら1時間だろうが2時間だろうが、なんなら1週間後だろうが完成を待ちますので、どうぞ調理に戻ってください。というか、無理ですし。この状態で、食事」
中を開けば基本的にはがらんどうであり、その上死後は細やかな粒となって消え去る『怪物』達だが、何故か斬れば体液が噴き出す個体が少なからず存在している。
衣服等に付着した分は対象が死亡しようともそのままで、おまけにあの地形である。
女も杭も、そして彼女達の背後で蒼い顔をしている、どうにかこうにか女から見捨てられずに済んだ少年も、『怪物』の体液の上から砂を被ってその上からさらに体液を浴びての惨たらしいミルフィーユが服や皮膚、髪の上で形成されていて、まともな神経をしていればとても耐えられないような有様であった。
流石の女もごはんにするか、お風呂にするか、赤ずきんかと聞かれれば、赤ずきんと答えかけて、しかし彼女を汚す事を気にしてとりあえずは入浴を選択するような心理状態である。
そして赤ずきんは自分の需要など確認すらせず「ああ、ごめんなさい。お風呂ですよね。洗ってはあるのでお湯を入れてきます」と慌ただしく食堂を飛び出していった。
心なしか寂しそうな女の傍ら、「急がなくていいよ~」と呼びかける杭だったが、赤ずきんの背中は曲がり角に消えてすぐに見えなくなった。
「……ま、わたくし達も風呂場に行きましょう。お湯は身体なり洗っている間に溜まるでしょう」
「ぼくは浸かる必要無いしね~」
「が、その前に」
くるりと少年の方へ振り返る女。その目つきは、若干冷たい。
「イケメンの坊や。貴方さっき、赤ずきんちゃんの顔を見て息を飲みましたね?」
「え、あ……」
口調こそ変わらないが、赤ずきんの前とは打って変わって明らかに殺気立っている女を直視できずに、少年は視線を泳がせる。女は自分を抑え込むようにふう、と小さく息を吐き、杭の先端を少年に向けて何度か軽く持ち上げながら
「無理も無いのは解ります。頭では解っています。ですが、次にやったら殺します」
と、ほとんど独り言のように囁いた。
少年は女を追いかけながら彼女が『宿』に戻るまでに十体近くの『怪物』を殺すところを見ていたが、明確な殺意を向けた存在は今、この瞬間の自身だけしかいない。
一瞬にして肌が泡立ち、目に涙が溜まる中、少年は必死の形相で何度も何度も頷いた。
確かに目の前の女に比べれば所々筋繊維が剥き出しになっている、女性の声で喋るアンドロイドなど危害を加えてこない限りは本当に可愛らしいもので、赤ずきんと呼ばれた『怪物』を二度と怖がりはしないだろうと、彼は心の底から確信するのだった。
と、流石に少年を襲う吐き気を伴う程の恐怖心は感じ取れたらしい。特にフォローにはなってはいないが「ま~ぼくと赤ずきん関連じゃなきゃ狩人さんは怒らないから~、大丈夫だよ~」と少年を励ます杭。
何が大丈夫なのか少年にはさっぱりだったが、女の方は言いたい事を言って気持ちが落ち着いたらしい。「杭ちゃんの言う通りで、そういう事です」と殺気を放っていた事自体が嘘のように振る舞ってから、赤ずきんの走っていった通路を辿るように進んでいく。
やや釈然としないまま、少年もその後を追った。
しばらく歩いて、女は毎朝(今日は昼だったが)食事の前に訪れる洗面所の前で足を止め、既に開いている扉から中を覗き込む。
奥が脱衣所に、更に奥が浴場になっているその空間では、赤ずきんがせっせとタオルを用意していて。
「赤ずきんちゃん」
浴槽に流し込まれるお湯の音にかき消されない程度の声量でかけられた女の声に、お湯の音にかき消される程度の驚きの声を上げてから振り返る赤ずきん。
少年は、今度は息を飲まなかった。
「お湯の支度をしてくれているならあとはこっちでやりますから、火の元の方をお願いします」
「あ、はい。了解しました。……あ」
と、ここでようやく、赤ずきんは少年の存在に気付いたらしい。碧い目と半ば飛び出た目玉が平行線を描くと、赤ずきんは不思議そうに首を傾けた。
「貴方様は……?」
そしてハッとしたかのように口元に手を当て
「もしや、レンタルパーク様?」
と、呟いた。
「へ?」
「サンタクロースですか赤ずきんちゃん。サンタクロースですよね赤ずきんちゃん? 何ですかレンタルパークって。動物園貸し切りとかそんな感じですか。無茶苦茶楽しそうじゃないですか。……しかし残念。申し訳ありませんが、彼はサンタクロースではありません。彼は……そうですね、客人といったところでしょうか」
「狩人さんは~「イケメンの坊や」って呼んでるよ~」
「お客様」
赤ずきんは少年に向けて、丁寧に頭を下げた。
「ごめんなさい、気付くのが遅れてしまって。赤ずきんは赤ずきんといって、猟師様と杭様の『宿』で家政婦をしているモノです。どうかお見知りおきを、イケメンの坊や様」
「っ……な、なあ」
流石に呼び名として「イケメンの坊や」が定着する事は羞恥心が許さなかったようだ。顔を真っ赤にしつつ、少年は恐る恐る手を上げる。
「どうしたの~?」
「イケメンの坊やはやめてくれよ。俺には――」
言いかけて、いったん口をつぐみ、一瞬の間を置いてから
「――サリエラ。俺は、サリエラって名前なんだ」
少年はそう、名乗った。
と、女が首をかしげる。自分でも違和感を感じるような名乗りを女が不自然に思ったのかと少年――サリエラは身構えたが、どうやら、そうではないらしい。
「サリエラ。……塩入れ(サリエラ)? はあ、変わった名前ですね。まあ日本と西洋では塩観が違いますから、そういうのも有りなんでしょうが。それともご両親が彫刻好きだとか?」
女が疑問に思ったのはサリエラの名乗り方ではなく、名前そのものだったようだ。妙な疑念を抱かれなかったことに安堵するサリエラだったが、その一方で、女がサリエラという名前の意味をすぐに理解したことに、少なからず驚いた。
「えっと……イタリア語は解るのか?」
「いえ全然。ただ同名の美術品について聞いた事があるだけです。『彫刻界のモナ・リザ』とかなんとか。作者の名前は長いので覚えていませんが、ただの調味料入れが王侯貴族の持ち物になっただけであんなにゴージャスにされていると思うと、ほら、面白おかしいじゃないですか。そういうの、割と好きなんですよ」
「っていうか~、サリエラはイタリアの人なの~?」
ここぞとばかりにこくり、と頷くサリエラ。
「フランスの人じゃないんだね~」と、杭は女の勘違いを指摘する。芸術の話をしてややご満悦な女だったが、それには若干バツが悪そうに肩をすくめ、「わたくしもまだまだイケメンに関する見識が足りていなかったようですね」と反省らしきものを態度に示すのだった。
少しばかりの気まずさを隠すように軽く咳払いを挟み、女は改めて、赤ずきんの方へと向き直る。
「というわけで赤ずきんちゃん。このイケメンの坊やはサリエラというそうです」
「りょ、了解いたしました」
新たに名前を教えられた赤ずきんは再び視線を女からサリエラへと移し、もう一度ぺこりと頭を下げると
「どうぞよろしくお願いします、サリエリ様」
当たり前のように名前を間違えた。
「……」
名乗ったばかりの名前を当然のように間違えられて言葉を失うサリエラ。訂正を、と数秒の後、なんとか喉の奥からそれが出かかったのだが、
「本当に惜しいですが、それだとタイトル的にモーツァルトが主人公だと思われかねない映画の主人公になりますね。実際の彼は自分がモーツァルト殺しの犯人だと噂されていた事にかなり気に病んでいたとどこかで聞きましたけれども。……まあ、挨拶は後で改めて場を設けますので、赤ずきんちゃん、そろそろ煮込みかけのシチューに灰汁が浮いているのでは?」
「はっ。……赤ずきんはまたうっかりしていました。行ってまいります、猟師様。必ずや美味しいシチューにいたしますので、お手数ですが、こちらの事はお任せします」
「はい、大丈夫ですよ」
準備したタオルだけは脱衣所に置いて、赤ずきんは再び焦った様子で走り出す。……が、洗面所を出る前にサリエラの前で一瞬足を止め
「それでは、また後程。失礼いたしますサメジマ様」
そう会釈してから走り去っていった。
「え、えええ……」
「あれは嫌な事件でしたね」
「いや、何が」
「真実はさて置き、とりあえず名前の間違いについては気にしないでください。赤ずきんちゃんは……簡単に言うと、人の名前を正確に覚えられないのですよ」
女が妙な間を挟んだせいで余計に釈然としないサリエラだったが、「赤ずきんが関係する事だと女は怒る」という情報は既にインプット済みである。不満や疑惑は口にせず、代わりに女の説明に対しても了承の意を表しはしなかった。
最も女の方も赤ずきんが青年の名前を間違えた時、言葉を発するのは少年より早かったとはいえ僅かな沈黙を保っていたのだが――サリエラは、その事には気づいていない。
「まあ先ほども言ったように挨拶に関しては、そうですね。食事の時にでも改めて行いましょうか。とりあえず、まずは風呂です」
そう言って、女は作業着のジッパーを下ろし、杭を脇に置くと袖から腕を抜いた。途端、服に入り込んでいたらしい砂が音を立てて床へと零れ落ちる。
「あ~。後で掃除しないとだね~」
「服も一度風呂場で洗った方がいいでしょう。……詰まりませんよね? 排水溝」
「ここで少しはたいといたほうがいいかもね~。どうせ掃除するんだし~」
「ちょ、ちょっと!」
女がインナーの裾に手をかけた瞬間、赤ずきんの事でもやもやしていたサリエラの思考が一気に切り替わった。
何にかというと、まあ、青少年として当然の恥じらいに、である。
「な、何してんの!?」
「何って、服を脱いでいます」
「あ、もしかしてサリエラは~、服を着たままシャワー浴びた方が良いって言いたいんじゃない~?」
「ああ成程。これだけ汚れていたら、風呂場である程度流してから脱いだ方が少し手間を省けますか。……まあ、やはり詰まるのが心配なのと後で脱ぎにくいですし、わたくしはここで。貴方は好きにしてください」
「じゃなくて!」
青くなったり、赤くなったりとは少し前に杭がサリエラを指して言ったことだが、今回の彼の顔は耳まで真っ赤に染まり、見た目通りの熱を帯びている。
「? じゃなくて?」
「いや、だって……俺は男で、えっと……あんたは女で、その、その……」
恥ずかしい、と言う事さえ恥ずかしいようだ。まだ露出自体は作業着着用時と大差ない女の身体の線に対してまで目が泳ぎ始めている。
一応、流石に女も少年の心情を読み取ったらしい。
「大丈夫ですよ、杭ちゃんも性格上は男の子ですし。わたくしは気にしません」
「おっ、俺が気になるんだよ!」
読み取れただけで、気遣いはズレていたが。
「もういいよ! 俺は後で入るから!」
「そうなんですか? どうせなので風呂の中で色々お話しようと思っていたのですが。……いやしかし、早く洗っておかないと髪の毛とか大変なことになりますよ。せっかく綺麗な髪をしているのに、それはもったいない」
「俺の髪なんかどうでもいいよ」
「わたくしが気になります」
「なんでそっちは気にして自分の裸は気にしないの!?」
「んー……強いて言うなら、繁殖能力が無いからですかね? 異性に女性的だと思われる事も、思われない事も、もはやどうでも良い身なので」
とにかく自分は恥ずかしいのだとどうにかこうにか女に伝えようとしていたサリエラも、彼女の返答には思わず閉口する。
女の機嫌云々の話では無く、彼を構成してきたこれまでの一般常識が、サリエラに言葉を返させるのを拒ませた。
だというのに、女の方は事も無げに言う。
「なので、貴方を散々イケメンと呼称しているものの、男性的魅力を感じているわけではないので安心してください。色んな意味で、取って食ったりはしませんから」
本当に、何の感情も籠っていない言葉だった。
例えばその日、その時の天気を述べているかのような、ただただ事実だけを語った言葉だった。
青年は、そんな時に用意できる「常識」など知らない。
「……なんか、ごめん」
考えても考えても、出てくるのは、せいぜいが何に対してかも解らない謝罪の言葉で。
そして当然、女はサリエラの考えていることなど気にしない。
気にしないが、その謝罪には反応した。
「ふむ。ようやく解ってくれましたか。では一緒にお風呂に入りましょう」
「なんでそうなったの!?」
「? その「ごめん」というのは、わたくしとのお風呂が嫌だと駄々をこねた事に対してでは無いのですか?」
「もう一回言わせてもらうけど、なんでそうなったの!」
首をかしげる女。「もういいよ……入ればいいんでしょ……」と顔を覆うしかできないサリエラ。脇に置かれた杭だけが、「狩人さん以外とお風呂だなんて~、初めてだね~」と妙に楽しそうだった。
第2話あとがき
~サリエラの名前が決まるまで~
数年前の『0426』原作執筆中快晴「こう……イケメンなんだし綺麗な響きの名前にしたいよな……。……そういや昔見たモーツァルトの名前が付いた映画の主人公の名前の響き良かったよな。えっと、サリエリか。よっしゃ名前サリエリにしたろ」
サリエリについて調べた快晴「サリエリの名前アントニオやんけ……」
という流れを経て、少年が作中で名乗る名前はイタリア語で『塩入れ』を意味するサリエラになりました。
この時の快晴には知る由もありませんでした。この数年後、かの音楽家アントニオ・サリエリが、某ソシャゲの手により村を焼く生き物として世に放たれる事を……。
はい、という訳で『0426』第2話です。
今回は本当にデジモン小説なのか(特に後半)心配になるような内容でしたが、まあ赤ずきんちゃん可愛いからいいかみたいなノリで投稿しています。
このお話はいわゆる説明パートなのですが、本作の世界観は作中で女が述べたように「夜になると『怪物』が暴れる設定の有る近未来の体験型ゲーム的な世界」ぐらいの認識で大丈夫です。あのシーンは風呂場で会話する女とイケメンの坊やを書きたかっただkまあ自分がこういう世界観についての説明が好きなので入れてるだけなので……悪いクセだとは思うんですが……。
一応ちょこっとだけ前作とのつながりを持たせている部分ではあるので、前作読者の方は「あー、座を追われた『神』ってあれか」とか思って頂けたら嬉しいです。
なお、作中で登場するサリエラの故郷・イタリアは架空の国イタリアです。ご了承ください。
自分なりに調べたりはしているのですが、現地の人々の普通の生活って微妙によくわからないといいますか……。じゃあなんでイタリアにしたんだよって話なんですが金髪碧眼イケメンを出したかった以上の理由は無いと言いますか……。
一応、サリエラの出身地は元々塩の一大産地だったヴェネト州の港町キオッジャだとか、向こうの迷信で塩は零すと不幸をもたらすけれどその反面幸運の印でもあるからサリエラの名前はその辺が由来だとかそういう設定はあるんですけど、どうあがいても日本人の考えたイタリアなので、この世界のイタリアはパスタとピザがおいしい場所、ぐらいの認識でどうか……どうかひとつ……。
……ちなみにイタリアについて調べている時に一番びっくりしたのが、イタリアの人基本あんまり風呂入んないという話でした。ローマだからてっきりみんな風呂が好きなもんだとばかり……。
さて、次回予告です。
次はサリエラに『デジタルワールド』観光術を仕込むべく、彼にウェポンが与えられたり女の知り合いの武器商人が出てきたり赤ずきんちゃんとの交流があったり、今度こそ女の強さの秘密が明かされたり明かされなかったりする話です(今回結局ほぼ全然入れられなかったの申し訳ない……)。
次回の投稿は未定ですが、またなるべく早めにお出しできるよう頑張りますので、今後ともどうかよろしくお願い申し上げます。